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作者不詳(上下)/三津田信三

2002年発表/2010年刊 講談社文庫 み58-4,5(講談社)/(講談社ノベルス(講談社))

 (2010.12.27)
 文庫化に際して若干改稿。引用した作中の文章は、文庫版の方を優先しています。


「霧の館」

 “僕”が森で出会った白い着物の子供の“真相”には脱力を禁じ得ませんが、沙霧のドッペルゲンガーの真相はまずまずといったところでしょうか。“僕”が直前に目にした黒いドレスの残像だとすれば、二階の廊下に見えたのは“白いドレス”だけになるはずですが、その前にドッペルゲンガーが話題に上ったこともあって、“白いドレスを着た少女(文庫上巻44頁/ノベルス37頁)だと思い込んでしまったのも無理からぬところといえそうです。

 そして沙霧の死については、“真相”が明かされてみればごく単純な事故であるにもかかわらず、沙霧の耳が聞こえなかったというシンプルな“事実”が伏せられることで、時計のアラームから誤った死亡時刻が導き出され、珈琲から導かれる真の死亡時刻との間に齟齬が生じるという、謎の組み立て方が非常に秀逸です。

 しかし、最後に飛鳥信一郎が指摘している(文庫下巻393~394頁/ノベルス535頁~536頁)ようにその“事実”と矛盾する記述もあり、最終的な真相は定かではありません。このあたりについては、鮎川哲也編『本格推理3』に収録されたバージョンではどうなっているのかというのも気になるところです。

「子喰鬼縁起」

 限定された状況下で、誰に機会があったのかというところから推理が始まっていますが、やがて赤ん坊の隠し場所が焦点となっていくのは自然な流れでしょう。大人の“消失”とは違って、小さい上に自力で動けないだけに意表を突いた隠し場所が次々と示され、多重解決風になっているのが興味深いところです。

 “私”の妻のお腹の中という“真相”は確かに盲点といえば盲点ですが、記述者である“私”自身がその“真相”を知っているために、全体が叙述トリックめいた記述になっているのも面白いところ。“真相”が明かされてから読み返してみると、“赤ん坊に手を蹴られた”瞬間の“私”の心情は察するに余りあります。

 もっとも、ノベルス版では妻の“あ、赤ちゃんが……”という言葉の直後に“その姿を見た瞬間、私は頭の中が真っ白になり”、追い討ちをかけるように“お腹の中の赤ん坊の足が私の手を蹴ったのだ”(ノベルス102頁)という順序だったのに対して、文庫版では“あ、赤ちゃんが……”という言葉に続いて“お腹の中の赤ん坊に手を蹴られた”後にようやく“頭の中が真っ白になった”(文庫上巻141頁~142頁)という順序になっており、妻が妊娠していないことを知っているにしては察しが悪いようにも思えてしまうのですが……閑話休題。

 “私”の妻が妊娠しておらず、赤ん坊をさらった犯人だったことが明かされた時点で、さらわれた赤ん坊が朔次だったという“真相”は見え見えなので、ミステリとしての“最後の一撃”の効果はほとんどありませんが、事件の“真相”が解明されても怪異が残るというホラー演出のために解決が分割されたのは理解できるところです。

 なお、ノベルス版では“私の〈丁江〉という姓”(ノベルス79頁)に“ちょうえ”とルビが振られていたのですが、文庫版では該当箇所――“私の〈丁江〉という珍しい姓”(文庫上巻107頁)でルビが削除されており、「娯楽としての殺人」の“解決篇”でのヒント(?)につながっています。

「娯楽としての殺人」

 “私”による三人の下宿人の尋問に読者の注意を向けておきながら、「娯楽としての殺人」という原稿そのものにしっかり手がかりが配置されているところがよくできています。

 しかし、原稿の主が真戸崎だったという“真相”は、残念ながらさほど意外なものには感じられません。飛鳥信一郎も尋問の内容を読んで“とても『娯楽としての殺人』を考えるだけのセンスが感じられない”(文庫上巻309頁/ノベルス220頁)と一刀両断していますが、三人の尋問の様子をみると“親友なら誰でも良いのだ”(文庫上巻190頁/ノベルス137頁)“ある一定のグループの中から事前に候補者を選ぶことになる”(文庫上巻204頁/ノベルス148頁)と書くほど親友が何人もいるとは(失礼ながら)考えにくいところもあり、真戸崎の方がしっくりするのは確かです。

 またこの作品では、探偵役であるはずの飛鳥信一郎が怪異に操られる“解決篇”が大きな見どころで、いきなり作中作の“親友殺し”というモチーフが再現されているのが何ともいえません。ノベルス版にあった『迷宮草子』の謎解きの一端が文庫版では後回しにされた結果、個人的に気に入っていた名台詞(?)がなくなってしまったのは残念ですが、謎解きの手順としては文庫版の方が妥当でしょう*1

「陰画の中の毒殺者」

 “珈琲を断った笠木は(中略)茶目っ気を出して角砂糖を口に放り込みながら”(文庫上巻335頁/ノベルス239頁)とあるにもかかわらず、語り手の井間谷老人は“あの日、彼が離れで口にしたんはワインだけやった”(文庫上巻340頁/ノベルス242頁)と語っており、ノベルス版ではそれを前提として――角砂糖についての検討が一切なされないまま推理が行われていたのが難点でしたが、文庫版では“「笠木が口にしたのはワインだけだからな」”から“信一郎は頷くと、ワインへの毒物混入について話を戻した。”(文庫上巻352頁)までの部分が追加されることで、難点が解消されています。

 離れ以外の場所で毒を盛られたという反則気味の“真相”はさておき(笑)、限定された状況から手がかりを拾って(あるいは補いながら)進められる推理は、地味ながらなかなか見ごたえのあるものになっています。その中にあって、笠木一人が珈琲を飲まなかったという事実に着目し、その意味を鮮やかに反転させた明日香の推理が(穴はあるとはいえ)面白いと思います。

「朱雀の化物」

 この作品の中心となっているのは、犯人――ノートの記述者――の存在を隠匿する叙述トリックです。“解決篇”で飛鳥信一郎が挙げている〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉の条件のうち、以下に引用する三と四の条件をみると、人物を隠匿する叙述トリックと〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉との組み合わせが非常に効果的であることがよくわかるでしょう*2

 三、事件の終結後には登場人物の全員が完全に死んでいる――少なくとも読者にはそう思える――こと。
 四、犯人となるべき人物がいない――少なくとも読者にはそう思える――こと。
  (文庫下巻123頁/ノベルス361頁)

 拙文「叙述トリック分類#[A-3]人物の隠匿」にも書いたように、このトリックを成立させる上では隠される人物と他の登場人物との関係が大きな課題となるのですが、この作品では“記述者が他の登場人物から“見えない人”として扱われる”ことで、記述者の存在が隠匿されています。作例に基づいてこの種のトリックを考察した拙文「叙述トリック分類・補遺〈人物の隠匿〉」【作品1-E】では、この作品を“心理的な隔離”と位置づけていますが、犯行の動機にもつながる陰湿ないじめによって“隔離”に説得力がもたらされていること、さらにミヨが“目に見えるいじめ”の対象として存在しているために記述者“Y”へのいじめが目立たなくなっているところなどが巧妙です。

 またこの作品では、“人物の隠匿”トリックとしては異例なことに真相が解明されるよりも前に記述者自身が姿を現しているのですが、それが〈朱雀の化物〉という特殊な固有名詞で記述されているために、すでに登場している他の人物(例えばミヨ)が記述者でもおかしくないことになっているのが面白いところです。

 “Y”自身もその場にいたという“真相”を踏まえてみると、“こっくりさん”の場面が何とも空恐ろしいものに感じられます。そして、飛鳥信一郎が示した“最後の真相”もまた。

「時計塔の謎」

 まず、作中の細かい記述をもとに見晴らし台の向きを明らかにする推理のプロセスはよくできています。また、千砂の網膜色素変性症が不可解な転落死の謎にかかわっていることは誰しも予想できるところですが、そこに見晴らし台が北向きだという事実――千砂は太陽を背にしていた――を持ってきておいて、鏡による反射という“真相”につなげる流れが面白く感じられます。

 とはいえ、ミステリとしてはさほどのものでもなく、“解決篇”も他の作品に比べると極端に短くなっています。あくまでもこの作品の見どころは、ちょっとした悪戯と未必の故意との間で揺れ動く“真相”であり、またそこから想像されるルリちゃんの心理ではないでしょうか。

「首の館」

 『迷宮草子』の最後の一篇は、『迷宮草子』を作ろうとしている〈迷宮社〉のメンバーが登場するメタフィクション的な作品となっています。そして、最終話を担当する予定の“幹事長”が、作中の“現実”において「首の館」という作品を完成させるという狂気の構図が衝撃的です。

 「朱雀の化物」と同様の〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉であり、記述者が犯人だということも共通しているのですが、こちらは別系統のトリックが使われています。飛鳥信一郎が“僕が完璧だと言ったのは、メンバー全員を殺害したあとに、幹事長がその首を斬っているからさ”(文庫下巻362頁/ノベルス518頁)と指摘しているのがこの作品のすごいところで、島に渡った人数分の首を並べることで、奇術でいうところの“あらため”――首を切られた全員が確実に死んでいることを示すと同時に、舞々を含めた登場人物全員(当然ながら“幹事長”は別ですが)が死んでしまったとミスリードしているのです。

 この、首を並べる場面は非常によく考えられていて、“真っ二つにされた『シャム双子の謎』と湯沢の首”(文庫下巻339頁/ノベルス503頁)という記述で“湯沢りか”の首を“湯沢りさ”の首だと誤認させているのはもちろんですが、これがその前に“舞々こと湯沢りさ”(文庫下巻339頁/ノベルス503頁)本名を明らかにしておくことで初めて可能な記述であることは見逃すべきでないでしょう。飛鳥信一郎が指摘している(文庫下巻371頁/ノベルス522頁~523頁)ように、“湯沢りさ”という本名が示されているのは舞々が幹事長であることを示す重要な手がかりとなっているのですが、同時に読者を強くミスリードする上でも不可欠なものといえます。

 また、冒頭の“彼女の首は、皮一枚で繋がっていた。”(文庫下巻218頁/ノベルス425頁)という記述によって、“彼女”の首が完全には切断されていないことが強く印象づけられるため、その首だけを利用したトリックが見破りにくくなっている面もあるのではないでしょうか。

 ただし、手がかりの一つとなる彼女の首(文庫下巻327頁/ノベルス496頁)という箇所が、ノベルス版では手書き文字風の書体で表記されていたのに対して文庫版では傍点が振られ、強調されすぎている感があるのが少々残念。

『迷宮草子』

 「霧の館」から「首の館」までのすべての謎を解き終えても怪異が収まらない中、飛鳥信一郎はまず、「首の館」の中でただ一人首斬りが確認されていない“神童末寺”が“共犯者”だと指摘していますが、“しんどう・まつじ”と“しんぞう・みつだ”の語感がかなり近く、アナグラムがわかりやすくなっているのは少々もったいないところ。

 面白いのは、飛鳥信一郎が「霧の館」“真相”の不備を指摘している点です。推理の正誤を“判定”する役割を担っていた怪異が、「霧の館」において“霧が――なくなっていた。”(文庫上巻98頁/ノベルス71頁)と“真相”を受け入れたにもかかわらず、その“真相”に不備があったとすれば、文庫版では“君さえ納得できれば良かった”(文庫下巻400頁)と飛鳥信一郎が指摘しているように、示された“真相”に三津田信三が納得するか否かが基準となっていたという解釈*3にもうなずけるところがあります。

 さらに、『迷宮草子』に収録された作品の執筆者名の秘密――“三津田信三”の名前が隠されていた*4ことが示されるに至って、すべてが――飛鳥信一郎の存在さえも――三津田信三の幻想だったというとんでもない結末に向かっていく……のですが、ここでノベルス版と文庫版は完全に分岐します。

 以下の部分では、ノベルス版の結末に言及しますので、知りたくないという方はご注意下さい。

 ノベルス版ではまず、“自分が誰なのか、分からない……ような気がした。”(文庫下巻415頁/ノベルス545頁)の後に、「朱雀の化物」の“解決篇”でも飛鳥信一郎が言及していた(ノベルス377頁)“白い蝶”についてのやり取りがあり、“ようやく気づいたようだね。『迷宮草子』という本そのものが、この世に存在していないって……”(文庫下巻415頁/ノベルス546頁)という信一郎の台詞につながっています。

 この“白い蝶”とは、ノベルス547頁に示されているように、「朱雀の化物」の一部――ノベルス321頁下段の下側に、ノベルス294頁上段が逆さになって組み合わされたもので、段組下側の余白部分が合わさって“白い蝶”の形になっています。

 場所が離れている上に逆向きの組み合わせなので、当然ながら『作者不詳 ミステリ作家の読む本』を読んでいる読者の目にも、また『迷宮草子』を読んでいた飛鳥信一郎と三津田信三の目にも、本来ならば見えるはずがないもので、実をいうとノベルス版初読の際には今ひとつ意味がわかりませんでした。

 しかしよく考えてみるとこれは、その後に記してある“青白い壁に、文字が蠢いている。縦横に文字が……(中略)逆さまに文字が……這いずり回っている。”(ノベルス550頁)の結果として、“その蠢く文字の中に、黒く塗り潰されたような壁の中に、――白い蝶が見える。”(ノベルス550頁)ということになるのだと思われます。つまり、『迷宮草子』が(ノートや)“白い部屋”の壁に書かれた文章であって、“『迷宮草子』という本そのものが、この世に存在していない”ことを表していた――そして三津田信三も“白い蝶”を見出してそれに気づいた、ということでしょう。

 その状況が、冒頭の“まるで狂人が病室の青白い壁にそのまま記した歪な物語を無理やり読まされているような”(ノベルス19頁)を連想させる中、飛鳥明日香――ではなく稜子――?”(ノベルス551頁)、すなわち前作『忌館 ホラー作家の棲む家』に登場した“あの人”が出現しているように受け取れるところをみると……。

 なお、ノベルス版の冒頭には“『迷宮草子』という書名の本に関わってから、全ては始まった――”という一文が掲げられ、最後は“『ミステリ作家の読む本』という書名の本に関わってから、全ては始まった――”という一文で終わっています。つまり、三津田信三が『迷宮草子』を読むことで様々な怪異が始まったのと同じように、読者が『ミステリ作家の読む本』を読むことで“何か”が始まるという、文庫版に通じるメタフィクションネタで幕を閉じているということだと考えられます。

 ここまで


『作者不詳』

 文庫版では、『迷宮草子』の章の後に『作者不詳』という章が書き足されることで、ノベルス版とは(メタフィクションネタという大枠はともかく)まったく違った結末となっています。

 『迷宮草子』の表紙と裏表紙がそれらしく作られた文庫版では、『作者不詳(上下)』という本の中に『迷宮草子』という一冊の本が挟み込まれた体裁がより強調されていますが、それだけに「月曜日」から「日曜日」と題された“解決篇”が『迷宮草子』部分に含まれてしまうのは、違和感が残るところでもあります。

 しかしそれを逆手にとって、『迷宮草子』そのものが変化して“解決篇”を取り込んでしまったという展開が秀逸。三津田信三が“告発”されるに至った執筆者名ネタさえ、『迷宮草子』の変化という形で“解決”されるあたり、作者の豪腕に脱帽です。

 変化した後の“新・『迷宮草子』”――本書『作者不詳』を読んだ読者が謎解きを迫られるメタフィクショナルな結末は、定番といえば定番ですがわかりやすく、また効果的であると思います。

*1: ノベルス版での「娯楽としての殺人」の“解決篇”には、文庫版では『迷宮草子』に回されている各篇の執筆者名の謎解きが配されていました。怪異に取り憑かれた飛鳥信一郎が三津田信三を『迷宮草子』の作者だと“告発”した挙げ句、独力で謎を解こうと呻吟する三津田信三に対して“三津田信三には謎が解けない。自分で造った本なのに、その謎を解くことができない”(ノベルス216頁)と叫ぶ場面は気に入っていたのですが、やはりこの段階で三津田信三が“告発”されるのは早すぎるでしょう。
*2: 実際、「朱雀の化物」とは少々違ったトリックながら、やはり人物を隠匿する叙述トリックを中心に据えた〈テン・リトル・インディアン型ミステリ〉が他にもあります。
*3: ちなみに、ノベルス版ではこの解釈は明示されていません。
*4: 余談ですが、「陰画の中の毒殺者」の“作者”とされている“廻数回一藍”は、なぜか『スラッシャー 廃園の殺人』で実在した作家の名前として登場しており、そちらを読んだ時には『迷宮草子』各篇の執筆者名をすっかり忘れていたため、“S・H・I”と読める名前に何の意味があるのかしばらく悩まされてしまいました(苦笑)。

2007.10.13 ノベルス版読了
2010.12.20 / 12.22 文庫版読了 (2010.12.27改稿)