夏と冬の奏鳴曲/麻耶雄嵩
本書の中で解決されない主要な謎については、EQIII氏による優れた考察「麻耶雄嵩とエラリー・クイーン」(「Ellery Queen Fan Club」内)がありますので、まずそちらをご覧になってみて下さい。
……とはいえ、投げっぱなしもどうかと思いますし、若干の異論もないではないので、上記「麻耶雄嵩とエラリー・クイーン」から適宜引用しながら検討してみます。
まず「エピローグ [補遺]」において、“きみの所の編集長の名前は何といいましたっけ?”
(707頁)というメルカトル鮎の問いに対して、烏有は“確か彼女の名前は、和……”
と答えると同時に、“今まで見落としていた、最も重大なことに気がついた”
後、“そう……そうだったんですか。最初から……”
と、何かが腑に落ちたような台詞を口にしています(いずれも708頁)。つまり、“和”で始まる編集長の名前が烏有に一つの“解決”をもたらしているのですから、それは本書の中で重要な名前、すなわち“和音”以外には考えられません。
そして、“彼らは和音としての生活を一部ずつ共有したのだ。”
(671頁)・“彼らは『和音』を信奉し、己の内なる部分を断面とともに『和音』に委ねたのだ。”
(673頁)という記述で、島のメンバーの一部分ずつを組み合わせて『真宮和音』という存在が作られたことが示唆されているので、“和音”という名前もメンバーからとられた、すなわち編集長(和音)も島のメンバーの一人だったと考えられます。これは、“水鏡”(武藤)が編集長と面識があったこと(58頁)によっても支持されます。
上記「麻耶雄嵩とエラリー・クイーン」の中で、次に引用する箇所には疑問があります。
彼女は武藤の子を産みますが、これが双子だったのです。そして、ある事情から、一人分の出生届しか出しませんでした。その一人分の名前が「桐璃」――二人の人間がひとつの名前を共有したわけです。(後略)
まず、“うゆーさん”
と“うゆうさん”
という呼び方の違い、そしてもちろん左目の有無から、二人の“桐璃”が存在することは明らかで、双子だというのが最も合理的な解釈でしょう。問題は、その桐璃が編集長(和音)と武藤の娘だという点です。推察するに、『和音』の肖像画と桐璃の容貌の相似から親子関係を想定し(*1)、島のメンバーの中では武藤が父親となる可能性が最も高いと判断されたのだと思います(他に伏線らしき箇所は見当たりません(*2))が、個人的にはこれには同意しかねます。なぜなら、『和音』の肖像画が編集長(和音)を描いたものとは考えにくいからです。
肖像画が編集長(和音)を描いたものだと、すなわち編集長(和音)の容貌が『和音』の外見として採用されたのだとした場合、映画『春と秋の奏鳴曲』で““真宮和音”を演じていたのは二十年前の村沢(いや、武藤)尚美だった”
(616頁)ことに説明がつきません。仮に舞や歌が映画に取り入れられていたとすれば、それを担当する尚美が主役を演じる必要があるのも理解できますが、『春と秋の奏鳴曲』はそのような映画ではないのですから、本来であれば『和音』の外見を持つ女性が『和音』を演じるのが当然でしょう。つまり、『春と秋の奏鳴曲』で編集長(和音)ではなく尚美が『和音』を演じたという事実が、編集長(和音)と肖像画に描かれた『和音』の外見が異なることを示唆しているのです。
結局のところ『和音』の肖像画については、“武藤さんが現実態の尚美さんと異なる位相{フェイズ}を持たせるために描いた外見としての理想像”
(662頁)という烏有の指摘の通り、“『和音』の形相としての位相”
(665頁)として武藤が作り上げたものだと考えるべきではないかと思います。小柳(神父)の画が廃棄されたことを語る際の、村沢の“何年か後には、あの画の和音より小柳が描いた和音が、本当の和音に近いと思われるかもしれない。わたしたちが本当に追い求めた和音の像が、間違ったまま残るのは許せなかった。”
(172頁)という台詞にも、『和音』のモデルとなる人物が存在しないことが表れているように思われます。
このように、『和音』の肖像画が編集長(和音)を描いたものではなく、両者の外見が似ていないとすれば、編集長(和音)と桐璃もまた似ていないことになるのですから、桐璃が編集長(和音)の娘だとする根拠はなくなります。『和音』の肖像画と似ていない編集長(和音)から肖像画にそっくりな娘が生まれる可能性の低さを考えれば、桐璃は編集長(和音)の娘ではないといっていいのではないでしょうか。
編集長(和音)が『和音』の肖像画のモデルであるとともに桐璃の母親であるとする仮説は、『和音』の肖像画と桐璃の相似が偶然ではなく“必然”であることを示す根拠となり得ますが、桐璃が編集長(和音)の娘でないとすればその根拠は霧消します。それでは『和音』の肖像画と桐璃の相似は偶然なのかといえばそうではなく、やはりそこには“必然”である可能性を見出すことができるでしょう。つまり、烏有が『春と秋の奏鳴曲』のシナリオに合わせて選ばれたのと同じように、桐璃もまた『和音』の肖像画に合わせて選ばれたと考えることができるのではないでしょうか。
ここで浮かび上がってくるのが、二十年前に幼児売買を行っていた(315頁)という真鍋夫妻の存在です。この真鍋夫妻の協力によって、将来『和音』の肖像画そっくりに育つ見込みのある幼児(*3)が選び出され、一人は舞奈家へ養子に出された(もう一人は不明)――いずれにしても編集長(和音)の周辺に送り込まれたと考えられます。黒いスーツについての“お母さんの遺品{かたみ}なの。”
(74頁)という桐璃の台詞と、彼女の親に関する“両親とも健在です。”
(378頁)という烏有の台詞の齟齬も、養子であることを烏有が知っていれば不自然ではないでしょう。年齢の矛盾が少々気になるところではありますが、詐称することも不可能ではないように思います。
本書で描かれた出来事の背景にあるのは、島のメンバーたちに対する編集長(和音)の復讐だととらえる向きが多いようです(*4)。これはこれでなるほどと思わされるところもあるのですが、前述のように“桐璃が編集長(和音)の(ひいては武藤の)娘ではない”という立場に立つと、動機らしきものが薄弱になってしまうので、“復讐”という線はなくなるように思われます。そこで、やや違った観点から本書で描かれた出来事の背景を検討してみます。
まず、『春と秋の奏鳴曲』の続編として書かれたという“黙示録”とは何か。知識がないのでとりあえず「ヨハネの黙示録 - Wikipedia」を眺めてみると、そこに記されている“黙示の内容”の中で目を引くのが、最後に置かれている“キリストの再臨”
という言葉です。そして、『和音』の復活という奇蹟を求める小柳神父が“黙示録”に感銘を受けている点を考慮すると、“黙示録”というシナリオの最終的な目標は単純に、一度は“死んだ”『真宮和音』の再臨にあったのではないかと考えられます。
編集長(和音)と武藤は、『和音』の肖像画に合わせて“桐璃”を選び出し、『和音』に仕立て上げようとします。そのよすがとなるのが『春と秋の奏鳴曲』で、『和音』の相手役『ヌル』に当たる人物として烏有を選び出して“桐璃”と出会わせることで、“桐璃”を『和音』にアイデンティファイしているのです(『春と秋の奏鳴曲』が烏有の人生のみならず、烏有と出会って以後の“桐璃”をも“再現”している点に注目です)。
『春と秋の奏鳴曲』の結末そのままに、“桐璃”(『和音』)と烏有(『ヌル』)が島に到着したところから、“黙示録”が始まります。細部の具体的な内容は定かではありませんが、少なくとも武藤が『和音』の肖像画を切り裂いたのは予定の行動だと思われます。さらにそれによって示唆された、桐璃の左目を使ったパピエ・コレも。そして、パピエ・コレによって“展開”された『和音』=桐璃が、やがて完全な姿で“復活”を遂げるのが“黙示録”のクライマックスだったのではないでしょうか。
つまり、左目を失った“うゆーさん”の桐璃が“退場”させられるとともに、それまで隠れていた“うゆうさん”の桐璃が登場するという、陳腐で残酷な双子トリックによる“復活”の演出こそが編集長(和音)と武藤の計画の要点であり、また烏有には“奇蹟”を目にしてそれを裏付ける――間違いなく同じ“桐璃”である(別人ではない)ことを保証する――視点の役割が与えられていた、ということになるのではないかと思います。
“あんな傷物。あんなコ桐璃じゃない。”
(688頁)という台詞から、“うゆうさん”の桐璃は“うゆーさん”の桐璃が左目を失ったことを知っていることがわかります。その点を考えても、“うゆうさん”の桐璃がすべてを知らされていたのはほぼ間違いないでしょう。一方“うゆーさん”の桐璃は、少なくとも“うゆうさん”の桐璃の存在を知っていたような形跡はありませんが、『春と秋の奏鳴曲』をなぞるような言動を考えるとまったく何も知らなかったとは思えず、編集長(和音)にある程度のことを知らされて操られていた――最後に犠牲にされるとも知らずに――ということになるのでしょう。
前述のように、編集長(和音)による復讐とは考えにくいので、烏有による殺人(特に武藤)は編集長(和音)にとっても誤算だったと思われますが、それでもパピエ・コレによる“展開”は行われ、烏有の選択によって(かどうかは定かではありませんが)両目を備えた“桐璃”の方が烏有とともに帰還してきたのは、予定通りといえるのかもしれません。そしてすべてを知ってしまった烏有は、“パルツィファル”にはなることができずに苦悩する……のかどうか。
あとは、上記「麻耶雄嵩とエラリー・クイーン」の最後の箇所について。
↓以下の文章には、エラリー・クイーンの〈ドルリー・レーン四部作〉の内容、特に『レーン最後の事件』の犯人について言及している箇所がありますので、未読の方はご注意下さい。
前作の『翼ある闇』がエラリー・クイーンの〈国名シリーズ〉を意識して構成されていたように、『夏と冬の奏鳴曲』は、同じクイーンの〈ドルリー・レーン四部作〉を下敷きにしています。正確に言うならば、その内の二作ですね。四季が「春」「夏」「秋」「冬」とあるように、レーン四部作も「Xの悲劇」「Yの悲劇」「Zの悲劇」「レーン最後の事件」の四作から成ります。本作で使われた二作というのは、夏にあたる「Yの悲劇」と冬にあたる「レーン最後の事件」――つまり「Y」と「最後の事件」がソナタを奏でているというわけです。
本作の犯人の設定が「レーン最後の事件」と同じことは言うまでもないでしょう。「Y」の下敷きについては、烏有が映画を見るシーンと、レーンが故ヨーク・ハッターの残した文書を読むシーンを比べて見れば、すぐわかるはずです。
『翼ある闇』が〈国名シリーズ〉を取り入れた作品であったことから、本書が〈ドルリー・レーン四部作〉を下敷きにしているというのはいかにもありそうなことだと思えます。ただし、その根拠の一つとされている“本作の犯人の設定が「レーン最後の事件」と同じ”
という点には、少々疑問を禁じ得ません。なぜなら、『レーン最後の事件』の犯人とは違って、本書の犯人である烏有は“探偵”とはいえないように思われるからです。
確かに烏有は事件の(自身の知らない部分の)真相を探る“探偵の真似事”
(306頁)をしていますが、それは烏有のみならず村沢や桐璃も同様です。また、村沢による名探偵・木更津悠也との取り違えを知った後には、自ら“確かに僕は探偵です”
(519頁)と宣言していますが、それをもって“探偵”という(本格)ミステリにおける特権的な地位を与えるのは、やや強引にすぎるでしょう。さらにいえば、講談社文庫版カバーの紹介文に“メルカトル鮎の一言がすべてを解決する。”
と記されている(*5)ことから、前作『翼ある闇』で“探偵”として(一応伏せ字)それなりに(ここまで)活躍したメルカトル鮎が本書にも登場することが読者にはわかっているのですから、なおさら烏有を“探偵”ととらえるのは難しくなっています。
いずれにしても、烏有が犯人であるという真相は、『レーン最後の事件』のように“探偵”という地位によって隠されているというよりも、むしろ“視点人物”という立場によって隠されているというべきでしょう。したがって、本書の設定は“視点人物=犯人”ととらえるのが自然であり、“本作の犯人の設定が「レーン最後の事件」と同じ”
、すなわち“探偵=犯人”という図式を読み取るのは、少々恣意的にすぎるのではないかと思われます。
ただし、本書の続編(『痾』及び『木製の王子』)において烏有が“探偵”を志向している点には、非常に興味深いものがあります。かつて自分の身代わりとなって死んだ青年の人生をなぞろうとし、次いで『春と秋の奏鳴曲』のシナリオを再現するために選ばれた烏有は、今度は『レーン最後の事件』の“見立て”としての“探偵=犯人”の図式(*6)を完成すべく、作者(あるいはメルカトル鮎)の手で“探偵”に仕立て上げられようとしているのかもしれません。
↑ここまで
本書には他にも解決されない謎があるかと思いますが、力尽きたのでここまで。
“和音は自分の娘(顔の類似のため)を”と記されています。
*2: 某所で質問させてもらいましたが、やはりなさそうです。皆様どうもありがとうございました。
*3: 幼児の時点では難しいかもしれませんが、それこそ母親の容貌からの類推も可能でしょう。また、“桐璃”たちだけではない可能性もあります。
*4: 例えば、「「夏と冬の奏鳴曲」レジュメ(後半)」、「夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) 麻耶雄嵩 A - 棒日記Ⅳ All’s right with the world !」、「夏と冬の奏鳴曲(ソナタ) 」考察|カラクリリリカルなど。
*5: 初出の講談社ノベルス版でも同様だったはずです。
*6: ただし、(一応伏せ字)探偵が犯人となるのではなく、犯人が探偵となるのですから、『レーン最後の事件』(ここまで)とは順序が逆になっているといえます。これは、『春と秋の奏鳴曲』と烏有の人生との関係に通じるところがあります。
2008.02.22再読了