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  第二編

     第四章 美知子の上京

一節   二節 (刑事)   三節 (県庁/法律相談)   四節 (「私の半生」の原稿を新聞社へ)   五節 (いなかへ 1)   六節 (告訴状郵送)   七節 (美知子の上京   八節 (不起訴処分)   九節 (鎌倉市議会共産党清水議員) (鎌倉市人権擁護委員会)

 

              一 節

  昭和47年(1972年)

 4月の初め、家へ手紙を書き、釜石製鉄所から聞かされたことを残らず教えてくれるよう頼んでおいた。それに対し、父から4月12日、返事がきた。

 

 君は何故に注意されている人物なのでしょう。まるで国事犯とか思想犯というように自分で決めてしまっているようです。君に身に覚えがあるのですか、何故にそんなに気になるのです。
  期待外れな手紙でした。君に教えることは何もありません。却って君に聞きたいくらいです。

 

 私は怒りで震えた。父が最も醜い種類の人間に加わろうとしている。すぐに返事を書いた。

 

 今そちらからの手紙を見ました。
 この大船や鎌倉の町を歩いていると、小学生や幼稚園の子供まで私を見ると、「このひとだー!」と言って逃げて行きます。図書館で書き物をしていると、中学生や高校生が私を見るとふきだし、笑いころげます。電車内で学生らしいのが私を見ると「ワッハッハ」と笑います。
   (中略)
 横浜地検へも数回行って話をしました。4月5日に行ったとき、地検の職員が、「何なら両親に聞いてみなさいよ。そんなことはなかったと言いますよ」と、自信ありげに言いました。それを聞いて私はまたびっくりしました。もうそんなことまでしているのかと。
 いま私はこれを震えながら書いています。
 私の書いた原稿を後で送ります。

  47・4・12

 

 五日ほどして、またまたひどい手紙が返ってきた。

 

 14日の夕方君よりの手紙を受け取った。何時もそうだが、何か不吉な予感が強かった。まるで物の気につかれた解しがたい推理小説でも読むようでした。昼の野良仕事で疲れているので床に入ったが、手紙のことが心配になりよく眠れなかった。父母兄らと一家話し合ったが結論が出ない。父の疑問とするところは、電車の中でも往来でも小さい子供たちにまで「この人だ」と覚えられる程有名な存在となる位、君は何をしたか。これ程徹底する程、会社にしろ権力にしろ、それ程の宣伝価値が君のどこにあろう。見る物、聴く物、君の心には馬鹿扱いされているように見え、笑われている、危険視されているとしか見えない。君は潔白なのにこのように見られる。この根源摘発しようと赤手空拳にていどんでいる。君もあの手この手と手段を替えているが得るところは何もない。そこも疑わしくなる。
 君は正しくても、この通りのことを繰り返していたら、決着を見ずに餓死となる。君は何を求めて住みにくい鎌倉に定着して世間の嘲笑を浴びる必要はどこにあろう。笑う者は笑い、誉められなくてもよい君は生き抜く決心を立ててくれないか。君は一先ず旗を巻いて家へ帰って総てのことを図る気になれないか。どうも君の疑心暗鬼ぶりには疑心を抱きたくなる。君は親父の馬鹿と思うことでしょうが、精神鑑定をしてもらうのも決して無駄ではないと思います。結果異常がなければ安心だし、異常を認められたら恥も外聞もない、治療することだ。こう言ったら肉親まで斯く見るのかと憤慨されると思うが、それは覚悟の上です。どの道、家へ戻ってもらいたい。母などは今にも迎えに行ってくれとせがんでいる。父ではこの前の二の舞を踏むだけなので、行くとなれば誰か別の人となると思われる。
 君はどうあろうと君なりにしか考えていない。父母の言うことさえ君は良く解釈してくれないのは残念でならない。体に気をつけてくれ。

 4月15日

 

 続けて4月24日、父から手紙が届いた。それは私が送った、「私の半生」の原稿を読んだのへの返事だった。
 (「私の半生」では、父への嫌悪については言及していなかった)

 

 ペンでは書けなくなった。どうしたものか。君より届いた厖大な日記を読んで驚いたり、交々としている。製鉄所へやったのは俺の過ちであった。其処は君にとって焦熱地獄の苦しみをするところだった。而もそれは君にのみらしい。君には皆にその様に見られる素質はあったのかもしれない。さかのぼって、幼少の頃の君を思い出す。口数の少ない、何を言いつけても嫌と言わない従順な子であった。余りな程さからうことのない静かな子であった。それが長ずるに従って、益々無口となり、不機嫌となった。製鉄所に通うようになってから一番そうなった。その頃には既に職場内での対人関係の悪化が芽生えていたようだ。而し君は一言も職場で斯くありしと洩らした事もなかった。幾らどうでも家では君の機嫌を害することを避けた。外で何かあって面白くなくて来たと思い、嫌々出て行くらしいのもわかるので、小さい子供でも送り迎えするように気を遣った。それも却って逆効果となり、反対に憎み返される結果となった。今に至って君の日記を見せられて、無理もないとうなずかれる。

 長い年月しいたげられてばかりいて懊惱として楽しまなかったから、自ら明るさを求め、立ち直ろうとして入党したのも又裏目となり、それもやめた。又やめたのは仇となり身に禍して悪循環し始め、憎み憎まれ、孤立させられ中傷される。会社にはその中傷は信じられ、ボーナスなども余り酷い格差をつけられ、それが上司との論争となり益々君に対する風当たりを強くした。

 君が会社をやめる決心をしたのも無理とは思わない。一日も会社に居るのは嫌だったのもわかる。而しやめて自由な身となった筈だが、却ってつきまとっている黒い影。それを捕えようと四苦八苦も功を奏せず、益々これでもかこれでもかと追いつめてくる。そして現在もそれを続けている有様。而し敵は労せずして効果をあげ、何十年でもそれを続けることはいと易い事だが、君は種々手を尽くし、関係機関を訪れ、伺いを立てても期待はおろか、いずれも意に反した回答。まるで赤手空拳で金城鉄壁に挑む暴挙でしかない様な気がしてならない。戦費も尽きることは君は俺よりよく知っている。知っていながら影の主を捕え対決し、欝憤を晴らし、損害を賠償させることに汲々としていることはどうも普通とは考えられない。それに君は余りにも推量深い。君はそうは思わないか。君の推量は的中している事もあろうが、全然の邪推もあるようだ。それを語れば弁解と取られる。あくまでも君は自分を定規に考える。君の意に反することは皆これを否定する。

 君の日記や手紙を見るとさながら探偵小説だ。就職を妨げられるのは元の会社に問い合わせられればさもあろうと思うが、見知らぬ通行人まで君を注目して「この人だ」などといって笑うなど、余りにもおかしい。指名手配なら既に逮捕される筈だ。逃げも隠れもしない君だ。大仰に写真など全国に配られて注意され、嘲笑されたと君は思うでしょうが、目的は何でしょう。君を笑いものにして狂わせようとする大規模な神経作戦とでも思いますか。君の存在はそれ程、新日鉄の目の上のコブとでも君は思って居りますか。君を抹殺しなければ新日鉄はどうなるとでも思いますか。

 俺は思う、君を製鉄所に入れなければ、晩年にこうした気痛めはしなかった。而しその当時(今でも)そこへ入れれば生活は苦でないと思ったのも斯くなれば福は禍根となった。対人関係は何処の作業所でも、各々の違った性格の人間の居る以上必ず起こるものと思うし、不平も不満も葛藤も避けられるものでないと思います。現在のような心境は一生涯続行するとも、働きながらであれば可能と思われるが、このままでは餓死あるのみ。母は時々独り居て目を泣きはらしている。だから君の便りを見るのは恐怖を覚えると言う。俺もそうだ。

 近いうちに二、三人で君のところへ行って見てくれと母にせめられ、行くことになったが生憎正彦(義兄)は病となり一時中止やむなきに至ったが母は修まらず、俺と一丸(兄)だけでも行ってもらいたいと泣きじゃくり、言うことは言葉にならない。この前俺が行った時のように、何も得ることなくトンボ返りも困る。行く以上目的がなければならない。君は何をやっても普通以上だが、人並み以上に猜疑心が強く、推量深い。君はそう思いませんか。それが異常な程だと思う。疑心暗鬼とでも言うか、その様な精神状態だと思います。その方面や今後の方針等々直接対談したいのが目的です。君が今の状態で居られる以上、親の胸から悩みは去らず、母は病気の苦しさも加わり、共にゆううつな毎日だ。山々は桜も咲きそうに色付いているが見る気にもならない。君も考えているでしょうが履歴書のいらない処で辛い仕事でも忍耐して生活しながら好機を狙っていたら、いつかは立ち直れることと思います。大海に出る前は辛い思いで木の葉の下を潜らなければならない谷川の水と同じだと思います。君は死ぬことがあっても家に帰る気になれないらしいが、それは世間の笑いものにされるのが嫌であり、家からも邪魔にされて追い出されたと思って意地にも我を張って、行っても、行った先々は意の如くならず飢えに迫られるよりは、一時恥を忍んででも、小さくなって居ても家に帰って貰いたい。勿論家とても居心地はよいとは思うまいが、一生涯と云うわけでもなし暫しの間である。部屋代はかかる訳でもなし、食費位は何をしてもできる。唯君は製鉄所の人々に恥かしいということでしょう。それも判らぬでもないが仕事をさせられない処に居られないでしょう。君はタイル屋の二階に居るときも周囲の人々に変な目で見られたと思っていますか。退職して大槌に帰った時、会社から大槌の警察に連絡があって警戒されていたとすれば、タイル屋の者や友達にも何か注意されたと思うが、そんな素振りは少しもない。改めて聞いてみたこともないから、そのうち確実なことを探索してみる。何をどう書いてやったら君の気持をいやされるかと思って、あれもこれもと書き連ねた。

 何の効力もないとは思うけれどこうして書いている。この思いは何時まで続くか、早く安心したい。このままなら生き永らえなくても好い。正彦も起きられるようになったら一丸らと相談して出発する。何人行って話し合ったからとてそう素直に聞き入れられるものでないことを覚悟の上で行く。母も行きたがっているけれど、絶対に無理です。背広を送ろうとしたが行くとき持って行くことになった。
 病気しないように、そればかり頼む。

 4月21日
                                                   父より
  衛 君

 

              二 節

  昭和47年(1972年)

 私は家へ原稿を送るまえに、それを元に、もう一部作成しておいた。あちこち少し詳しく書き直したので、まえの二倍近い枚数になった。
 4月18日、火曜日、私はそれを持って横浜地方裁判所を訪ねた。
 この頃の私は、裁判所の役割について、ただ「悪をただすところ」ぐらいにしか考えていなかった。警察、検察、それに人権擁護委員会が犯罪の事実を押し隠そうとしたら、もう裁判所へ行くしかないと考えた。
 もちろん裁判所では相手にされなかった。彼らにしてみれば『おかしなのが来た』と思ったにちがいない。
「ここは検察庁から告訴されたものしか取り扱わない」と言われ、意気消沈して裁判所を出た。
 ややしばらく迷ったあげく、検察庁へ行くことにした。検察庁へ私の原稿を提出し、それを読んだ後も彼らが事実を隠そうとするかどうかみたかった。
 刑事課長にそれを渡し、
「これを読めば、会社のやっていることを否定できなくなると思いますけど」
 そう言うと、後ろの方で鼻で笑うような音がしたので振り向くと、男女の職員らがフギャフギャ笑っていた。眼鏡をかけ、やせた男が馬鹿にしたように笑いながらやって来て、課長が開いて持っていた私の原稿を覗き込んだ。課長はにこにこしながら私にたずねた。
「仕事探してみた?」
 それは、「もうこれまでのように邪魔されることはありませんよ」と言っているようだった。あまり話をせずに帰った。来週の月曜日か火曜日に来るように言われた。一週間後である。
 帰って来てから、原稿を検察庁へ持って行ったことを少し後悔した。あんなに美しいものを彼らに見せるだけの価値があるだろうか。だがわかってもらわねばならない。

 

    4月21日 金曜日

 近くの山の中で英会話の学習をしてから帰って来ると、家のすぐ近くで刑事に呼び止められた。午後4時頃だったと思う。人通りのない細い道で、向こうからずんぐりした四十歳過ぎの男がやって来た。すれちがうとき彼は鋭く私を睨んだ。『刑事かな』と直感した。数歩行くと、
「おい、ちょっと」
 と呼び止められた。『そらきた』と振り向くと、
「こういう者だが」
 そう言って「神奈川県警察」と書かれた手帳を出して見せた。
「何してるんだ?」
「‥‥」
「どこへ行ってきたんだ」
「その辺を散歩して帰って来たんです」
「何しに?」
「いや、散歩ですよ。近くの工場の音がうるさいので、がまんできなくなれば、昼でも夜でも出かけ、静かなところを歩きまわって帰って来ますよ」
「仕事は?」
「無職です」
「こうしてぶらぶらしていたんでは食えないだろうが‥‥、金がなかったら生活できないだろう?」
「金があるから、こうして生活していますよ」
「どうして仕事をしないんだ」
 私は釜石製鉄所のこと、警察のことを話した。それを聞いていた刑事がたずねた。
「すると、大船警察署が君のことで何かしているというのか? 君は警察が何かしているという事実を、誰からか聞いて知っているのか?」
「いいえ」
 彼は安心したように見えた。やがて、
「うーん、こうして話してみると、ノイローゼにも、おかしくも見えないがなぁ」
 そう言い、顔を赤らめて笑った。だが、彼はどうして私をノイローゼでおかしいと思い込んでいたのだろう。彼は私を頭のてっぺんから足の先までながめまわした。
「何を持っているんだ?」
 彼は私のかばんを指さした。私は開いて見せた。カセットレコーダーと英語の本が入っていた。
「勉強しているのか‥‥、浪人か?」
「いや、これは私の趣味ですから」
 私がこのまえ、「調査依頼状」を持って大船警察署を訪ねたことを話すと、
「それを持ってきて見せろ」と言う。
「来ますか?」
 私は彼を私の部屋へ案内した。彼は部屋へ入るとまわりを見回し、座ぶとんを探した。だがそんなものは初めからなかった。彼は毛布を無造作に引っぱり寄せ、それを折りたたんでその上に坐った。不愉快だった。私だって毛布を座ぶとん代りにすることはないのだ。
 彼の気のすむように、何もかも見せた。
「告訴状の書き方はどうして知った」
 彼は聞いた。私は「刑事訴訟法」や「刑法」といった本を出して見せた。
「なるほど、なるほど」
 彼は笑いながら、あちこち開いて見ていた。彼は、私が働かないでいるのに、生活費がどこから出ているのか気になるらしかった。
「預金があるから」
 私は答えた。
「通帳を出して見せろ。預金した金はどこから出たんだ?」
「会社にいたときの預金と、退職金です」
「預金はいくらあったんだ?」
「百万以上ありましたから」
「何年勤めていたんだ?」
「十年です」
「食わないで貯めたのか?」
「いや食べましたよ。でも一人だし、金がかからなかったから」
 最後に彼はたずねた。
「女の子に変なことをしなかったのか?」
 彼は大船警察署の福岡と名乗った。彼は「調査依頼状」と、人権擁護委員を告訴しようとした「告訴状」、それに私の写真一枚を持って行った。帰り頃には、彼は人のいいおやじになっていた。

 

    4月24日 月曜日

 検察庁へ出かけた。課長は休んだといっていなかった。職員が四人ほどいたが、誰も正面からまともに私を見ようとしなかった。若い職員が一人、私の前を怒った様子で通り過ぎた。別の職員が戸棚から私の原稿を取り出してきて私に返した。
「明日は(課長)出て来ますか?」
 私はたずねた。その職員は、
「うーん」と言いながら机に向かい、「ああ、出て来ますよ」と、書類に目を落としたまま答えた。
「じゃ、明日の午後また来ますから」

 翌日(25日)の午後1時頃、そろそろ出かけようとしていると、このまえの福岡刑事がやって来た。
「寝ていたのか?」
 そう言いながら私の部屋へ入って来た。
「検察庁へも劇団へも聞いてみたよ。劇団は君からやめたそうじゃないか。検察庁では、君にああだこうだと何度も言って来られるので困っていると言ってたよ。前の会社も自分からやめたんだろう?」「ええ、形式的には自己都合ということにしたけど、本質的には、もうがまんできなくなってやめたんです」
「それならどうしてその時、そのことを問題にしなかったのだ。組合もあることだろう。その時その時、すぐ解決しなければならないんだ」
「でもその頃、私はまだ法的にも目覚めていなかったし、それに何よりも一日も早く会社から逃げ出したかったんです。そりゃ、書く気になれば退職の理由をはっきり書くことはできましたよ。でもそんなことをすれば、また問題になって退職が長びくでしょう? 私一日でも早く会社をやめ、それまでのことは少しでも早く忘れてしまいたかったんです。それに私がやめた後、会社がこんなことをするとは思いませんでしたからね」
「君は思い過ごしをしているんだ。そんな事実はないんだ。会社もそんなことはしていないんだ。君は視野が狭いんだ。もうある一点だけ見つめ、それだけに専念している。家ではなんて言っているんだ。人権擁護委員会は君の家へも行ったそうだよ。警察が劇団へ行ったのは確かだよ」
「いつですか?」
「いや、警察が行ったのは、君が劇団をやめてかららしい‥‥君がやめてからだよ」
「どうして行ったんですか」
「何か君、共産党がどうのこうのと劇団で言ったそうじゃないか」
「ええ、面接の時。でもどうしてそれを警察が調べたんですか」
「‥‥この近くで事件があったんだ。それでこの辺を受け持っている刑事が調べたんだ」
「どんな事件ですか」
「この近くで、女が若い男に金を出せとおどされたのだ」
「どうして私を調べたんですか」
「だって君は仕事もしないで、毎日ひょろひょろしているだろう?そうすれば、『ああ、あそこの二階にいるのはこれで(彼は右手を頭の脇でぐるぐるまわした)泥棒で、色気違いだから気をつけろ』と言って歩くこともある」
 そう言ったときの彼の言葉には、いかにも実感がこもっていた。
「まぁ、そんなつまらぬことにくよくよしないで、これまでのことはすっかり忘れてしまうんだ。仕事もしないで部屋にばかりいるから、告訴だの何だのということしか考えないんだ。思いきり働いてみるんだ。こうしてひょろひょろしているから疑われるんだ。履歴書は書いてあるか。おじさんが仕事を見つけてやろうか。力仕事はできるのか。(彼は私の腕をつかんでみた)なかなかできそうじゃないか。くやしい、くやしい、会社が憎いと思っていると、かえってだめなんだ。勝目のないけんかはするなと言うだろう」
 彼は、もう一度私に預金通帳を出して見せろと言った。
「何しますか?」
「ちょっと見るだけだ」
「77万円ですよ」
「いいから出して見せて、おじさんは盗まないから。‥‥これからどれくらい持つか調べるから」
「私、金が無くなっても盗みなんかしませんよ。乞食をすることがあっても」
 彼は丁寧に私の預金通帳を調べながら、
おれ、この仕事をして二十何年になるが、こんなことは初めてだ
 そう言って顔を赤らめた。調べ終ると明るい顔をして言った。
「青春を謳歌しなさいよ」
「もう青春なんてものじゃないですよ。もう三十‥‥」
「なぁにまだまだ、それに一人だし」
 そうかと思うと、
「君、本当に女の子の後をつけたりしたことはなかったのぉ?」
 などと聞いた。私はもう胸がむかついてきた。

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 だが、後でふと思い当たることがあった。ずっとまえ、横須賀の方からの帰りの電車の中で、近くに十代後半の少女が立っていた。じっと見つめていると、彼女も何かしら感じ、動揺していた。私には仕事もないし、これから急いで行くところもないので、気分転換にも、その少女が降りた駅で私も降り、知らない町を、彼女の後ろ姿を見ながら少し歩いたことがあった。もしかすると、その時の私を、この刑事が尾行していたのかもしれない。そう思うとおかしくなった。
 刑事が帰ってから、検察庁へ出かけた。着いたのは4時近かった。いつもの部屋へ入り、
「こんにちは」
 小さな声で言うと、職員の一人が、
「来たよ、課長」
 小声でささやいた。課長は私と向かい合って坐りながら、小さな声でたずねた。
「カマクラで何かあったの?」
「‥‥?」
「鎌倉で何かあったの?」
「‥‥」
「鎌倉で何かあったの?」
「何のことですか?」
「何か聞かれたの、鎌倉署で」
「ああ、あれは刑事ですよ。いろいろ聞かれました」
 私は笑いながら答えた。
「ここへも問い合わせてきたよ。本人が本当にここへ何度か来たのかと」
「‥‥」
「このまえのあれね、僕は全部は読んでいないんだよ。最初のほうを少しだけ‥‥、一冊と半分位かな。あれは全部で八冊あったね。すると六冊ほど残したのかな」(一冊は50枚の原稿用紙)。
「どうして全部読んでくれなかったんですか」
「忙しくてね」
「また持って来ますか」
「‥‥」
 部屋全体、妙に静まり返っていた。
「私、あれを読んでもらい、それでもこちらで事実を否定するかどうかみたかったんです」
「否定すると言っても‥‥、ぼく最初のほうを少し読んでみたけど、あれはみんなあんたの主観でしょう? それに民青だとか、その他のことも、あんたが前に話したこととあまり変らないでしょう?」
「でも話すよりは、書かれたほうが克明でしょう?」
 彼はまた話を、「信じられない」というところへ持っていった。
「第一、警察がそんなことをするなんて考えられないだろう?」
「考えられますよ」
 私は低く答えた。
「警察や検察庁が事実を隠したって、何の得にもならないだろう?」
「いや、もういいです。これ以上話しても同じことです。どうもすみませんでした」
 そう言って私は立ち上がった。わずか数分しかたっていなかったろう。課長は坐ってまま、私の挨拶には答えようともせず、力なく「信じられないねぇ」と言った。

 4月29日、父から手紙が届いた。それは、
「4月26日、午前8時頃、大船警察署の福岡さんという方より電話があった」という書き出しで始まり、刑事とのやりとりが書かれてあった。刑事は、
「当人は何のために神奈川へ出て来たのか?」
「金は77万円持っているが、これはどのような金か?」
「当人がこうしているのを家では知っているのか?」
「製鉄所をやめた当時のことを詳しく知っているか?」
「家にいた頃、精神的なことで病院にかかったことはなかったか?」
「もう一度精神病院に行ってみてもらってはどうか?」
「政党間系は何もなかったのか?」
 などとたずね、
「警察は何もしていない」
 と答えたそうだ。父は同じ手紙で次のようにも言ってきた。

 

 而し警察は何を好んで君を悪人に仕上げるのでしょう。製鉄所に頼まれたって全国の警察に手配する程重大事でもなし、君もこの辺で生まれ替わって再出発する気になれないか。それには人が笑ったも、注目したも、何もかも自分に引き集めて考え込んだりすることをやめ、感情的にならず気にしない訓練を積んで自分で自分の気持を直す以外にないと思いませんか。世間を直すことは不可能です。つまり、世の中はこんなものと、世の中に馴れることと思いませんか。

 

 父からの手紙と同時に、姉からの手紙も届いた。

 

 四月も残り少なくなり、大槌は桜の花が今盛りと咲きほこっています。
 しばらくぶりでお便りします。多分、今年に入って初めてじゃないかしら? いつも手紙を書こう書こうと思いながらも、体の調子が思わしくなく、一月頃から針灸に通ったり、又、先月は数日入院なんかしたりで、今年に入ってなんとなく忙しい毎日で、つい遅くなりました。でも4月から敬子も幼稚園に入ってやっと十年ぶりで自分の時間がもてるようになりました。
 先日、父母から、お前からの随筆(?)を見せられ、実際のところびっくりしてしまいました。
 会社をやめた当時、私はお前を一番最も良く理解していたつもりであった。それが「私の態度が冷たかった」なんて‥‥。自分としては、そんなことは絶対になかったと断言できます。この文を読んで私は誠意が通じなかったのかと、くやしさのあまり泣いてしまいました。
 タイル屋の二階を借りたのも、母と私が相談して決めたことです。一日中、あの家に居て、お前が居づらい思いをしてはかわいそうだと思い、やったことが、親兄姉から裏切られたといってお前が出て行ったと聞いたとき、自分では「衛も人の善意がわかるなら、きっと私等の気持もわかってくれる」と思い、そのいつかを待っていたのでした。
 私はともかく、父母だけは信じてあげて下さい。年老いた父母がお前からの文章を読んで以来、何か考えにふけった感じで、そばで見ている私も何かかわいそうな気持です。
 お前は、会社、ケイサツから何か言われているなら教えてくれとのことですが‥‥、お前にとって良い返事をしたいのですが、何も言われていないのにウソをつくわけにもいかず、困ってしまいました。というのは、そんな事はない、それはお前の思い過ごしである。何も悪いことをしていないのに警察が手配書をまわすはずもないからです。このように言うと、お前は、やっぱり姉まで隠している。ケイサツと同じウソを言っていると思うかも知れないけど、実際のところ、会社からは何の連絡もなく、話もないのです。むしろ、一人の人間が会社を円満退職しなかったにせよ、行く末どこまでも邪魔するほど暇な人がいるものかと疑いたくなります。どこかに就職しても二、三日はいいが、あとは元のもくあみ、同じことの繰り返し、行く人々もお前を見て笑うとのこと、それは気持のせいではないかと思います。文面ではお前の人知れぬ苦労をした様子、世間にもまれ、もまれして人を信じがたくなった事など、私なりに解釈して読みました。自分の気持を変えて、人の事をあまり気にしないよう努力してみる事も必要と思います。

 教習所に入った当時も皆に祝福されながらも自分ではうれしい気持にもなれず、悩んでいたことなど、まわりの者がどうしてわかってやれなかったのだろう。一度お前の口から、やめたいと言われたとき、世間一般の考えから、この会社を去って、これより良いところがどこにと思った記憶がよみがえされ、後悔先に立たず、です。相談できる相手があったら‥‥。
 私も子供をもって、あと八、九年もすれば進学、就職と、一生を左右する問題にふれる時期が来ます。それを考えると子供の意見、希望をどの程度受け入れるかなど人ごとでない気持です。

 それから女性関係の事なども書かれていましたが、一人の人間として異性を恋しく思うことは誰にでもあることと思います。むしろそれを感じない人こそおかしいのじゃないかしら? 私とて恋愛結婚したのでお前の気持が手にとるようにわかります。その苦しさが。
 私は思っている事、考えている事をうまく表現できないので誤解をまねく事もあると思いますが、人を好きになる、又は愛することができるということは、美しくすばらしい事だと思います。
 ただそれが相手に通じ、お互いにそれではという事になればいいのですが。片想いも苦しいけれど‥‥。ただ、自分の気持を相手に伝えるということは、本当に勇気のいる事です。その勇気をもってしたことが女性関係云々とは、もってのほかです。
  (中略)
 最後のほう、ふとんの中で書いたので読みにくいと思います。
 とにかく、お前の心配するような事は、家のほうにはどこからも何も言って来ていませんから、安心して父母初め私を信用して下さい。
 私は兄弟中でお前が一番純粋な気持である事を、何年か前に正彦さんに言って聞かせたことがあります。その気持は今も変りません。
 ではまたあとで、

  4月26日
                    宏 子
  衛 様

 

              三 節

 

    5月2日 火曜日

 横浜検察審査会を訪ねた。検察庁で受け付けられなかった告訴状(会社を告訴したもの)を持って行った。もちろん解決の期待はほんの少しも持っていなかった。事務のおばさんに説明すると、彼女は困ったように笑い、
「それは機関が違う。ここは起訴されなかったものを取り扱うところで、受け付けられなかった告訴についての相談などというのはしていませんから」
「起訴されなかったのも、告訴を受け付けられなかったのも同じようなものじゃないですか」
 さっきからこの話を聞いていた四十歳位の男の職員が間に入った。おばさんは自分の席に戻った。職員はかなり良心的に私の話を聞いてくれた。彼は県庁の法律相談に行ってみるようすすめた。
「行っても同じですよ」
「弁護士だっていっぱいいるんだから、その中にはわかってやってくれる弁護士もいるかもしれないよ」

 私は県庁の法律相談に行っても、これまでと絶対に同じなのを知りながら行くことにした。そのことをあえて確かめてみるのも悪くないだろう。
 県民相談室、広い薄暗い部屋で、それぞれの机に電気スタンドを置き、相談員が客に静かに答えている光景はまことに荘厳であった。
 私の番がやってきた。
「件名は何ですか?」
 五十歳位の眼鏡をかけ、やせた相談員(弁護士)がたずねた。
「名誉毀損です」私は答えた。「私、二年前まで新日鉄の釜石製鉄所に勤めていたんです。そこをいろいろな問題があってやめたんです。その後、どこへ行っても人間扱いされないし、就職もできないんです。会社が中傷をふりまいているらしいんです。それも迅速に。就職できても、二、三日で、もうひどい状態になりますから。そんなに迅速にできるのは警察だけですよね」

 彼は相談記録用紙に何か書き込んだ。それを見て私はびっくりした。それはどう見ても文字には見えなかったし、読むこともできなかった。彼はペンで紙をただガシャガシャ引っ掻いていた。
 告訴状を出して見せた。それには釜石製鉄所をやめるまでの経過と、やめた後のことが簡単にまとめてあった。彼はそれをまるで小学生の子供がやるように、机の上に立てて持った。が、なかなか読み始めようとはしない。あちこち見回したり、私を見たりして、どうでもいいようなことを笑いながら話した。やっと読み始めた。と思うと、すぐそれから目を離し、また何か関係のないことをしゃべりだした。まるで数文字読んでは別のことをしゃべりだすようだった。私はその弁護士の精神状態を疑った。注意力を集中できないのだろうか。長いことかかってそれを読み終ると彼は言った。
「党があんたの行く先々へ何かやっていることは考えられるね」
「党がそんな事をするはずはありませんよ」
「野坂さんはしないかもしれないが、下っ端のほうなら‥‥」
「これは会社ですよ」
「新日鉄ともあろうものがそんなことをするとは考えられないよ。あんたの思い過ごしですよ」
 私は人権擁護委員会へ行き、ひどいことを言われたことを話し、持って行った原稿のそのあたりを開いて彼に示した。今度はあまり注意をそらさずに読んだ。読み終ると彼は、
「あんた、なかなか分筆が立つね。そのほうで生活を立てたらどう?想像力も豊かなようだし‥‥、だからいろんなことを考えるんじゃないの? でも結婚すればまた考えも変りますよ。鎌倉には分筆の達者なのがいっぱいいますねぇ。このまえもノーベル賞をもらった人が自殺しましたね。書いたものを持っていって見てもらったことはない? 見てもらったらどう? これまでに書いたものはないの? あんた劇団にもいたの? 芸能には興味があるの? くにのほうでそういうことをやっていたの? ‥‥やっていなかった。でも向こうにもいろいろあるでしょう。青森などにはあるらしいね。民俗芸能団とか。絵も描くの? 絵で立つ自信はない?」
 彼は話を核心へ持っていくことを、ぬらりくらりと避けた。とうとうがまんできなくなり、私は言った。
「それは私が相談していることとは関係ないですよ」
「ぼく、あんたと話していて、何か暗い感じを受けるなぁ。精神的に何か‥‥、鎌倉のほうにもいろいろあるんじゃない? 精神的なことをみてくれるところが。行ってみてもらったらいいじゃない」
 私は刑事につかまって、いろいろ聞かれたことを話し、刑事とのやりとりを書いたあたりを探した。探しながら言った。
「その刑事はね、私と話していて、うーんこうして話してみると、ノイローゼにもおかしくも見えないがなぁ、なんて言うんですよ」
「刑事はあんたがノイローゼに見えたので、いろいろ聞いたのかも知れない。話してみたらそうじゃないことがわかった。なかなか結構じゃない」
「刑事とのやりとりを読みますか?」
いや、読むには及ばないよ‥‥、あんたそれは精神科へ行って相談することで、法律の相談じゃないよ。ここは一人の人にいつまでも時間をかけていられないんですよ。向こうにもまだ一人待っているから」
 この言葉を聞くと、私は頭の中が真空状態になるのを感じた。このときから、言葉が意識に先だって、私の口から自由に飛び出し始めた。
「わかりました」
 私は低い声でゆっくり答え、書類を紙袋の中へしまい始めた。
「なかなか立派な機関です」
 私はまわりからあびせられる鋭い視線を頬に感じながら、しまいこむ作業をゆっくり続けた。ふと、弁護士の顔がこのうえなくいやらしいものに見えてきた。そのとき不意に激しい言葉が私の口から発せられた。
「あんた! あんたにも手がまわっているんじゃないですか、私のことで!」
 彼は背をピンと伸ばし、
「チヘー!」
 と言って顔をくしゃくしゃさせた。
「私、どこの法律相談に行っても、全く同じ調子でやられますよ。今と全く同じ‥‥、私、神経も精神も普通の人より正常ですよ。あんたよりも正常ですよ。何なら一緒に行ってみてもらいますか、どっちが人間的か」
 私は椅子から立ち上がりながら、
「失礼しました」
 と低く言い残し、彼を睨みながらそこを離れた。彼はくしゃくしゃ笑いながら、
「おだいじに」
 と答え、それからまた、「チヘ」と言って肩をすくめた。

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              四 節

  昭和47年(1972年)

    5月6日 土曜日

 「私の半生」の原稿を持って新聞社を訪ねた。この問題を新聞で取り上げてほしかった。
 まず朝日新聞社を訪ねた。文字通り、門前払いされた。次に読売新聞社へ行った。そこでも同じ扱いをされるだろうと思っていたが、受付の男に案外丁寧に扱われた。隣に坐っていた女はうつむいていた。
「それは警視庁へ行ったほうがいい。向こうに記者クラブというのがあって、刑事事件を専門に扱っている記者が集まっているから」
 私は警視庁へ向かった。玄関を入ろうとすると、玄関の両脇で足を開き、ふんぞり返っている警官に呼び止められた。
「誰でも通すわけにはいかない」
「新聞記者に会いたいんですけど」
「なんていう記者?」
「読売の記者です」
「読売の記者の誰? 誰でもいいのか?」
 警官は内部の記者と電話で連絡をとり、それから私に電話を代った。入って来いという。その警官が私を案内した。
 記者クラブの部屋は小さく、散らかっていた。三人いたが、二人は机に向かって仕事をしており、もう一人は長椅子の上に体を崩し、靴を履いたままの両足をだらしなく開いてテーブルの上に乗せていた。テレビはついていたが、誰も見ていなかった。部屋の隅には二段ベッドがあった。もう一方の壁ぎわは本棚になっていて、書類がぎっしり詰まっていた。
 仕事をしていた一人が私の方へやって来た。説明したが信じてもらえなかった。
「知らない人があんたを見て笑うなんていうことはありえない」
「写真を使ってやっているらしいです」
「そんなことは絶対に考えられない。考え過ぎじゃない?」
 私は持って行った原稿を置いて帰ることにした。が、忙しいのに全部読まされたんではたまらないだろうと思い、重要なことが書かれているページ数を書き出して置いてきた。
 記者は奥矢さんといった。後で私の住まい(家主)の電話番号を教えてくれと言われた。
 警視庁を出るとき、玄関のさっきの警官に、私は「どうもすみませんでした」と声をかけた。彼は敬礼で答えた。もう一人の若いほうの警官は驚き、またあきれたように笑っていた。私を尾行していた者から何か聞かされたのだろう。

 二日後の5月8日、月曜日、記者に電話した。ここの電話番号を知らせた。彼は、
「あさってごろ連絡しますから」
 と言った。丁寧だった。原稿が長いので読むのに時間がかかるという。
 それから一週間たっても記者から連絡がなかったので、5月16日、私のほうから電話した。正午頃だった。彼は不在だった。
 記者に電話してから数時間後、部屋にいると、大船警察署の福岡刑事と、もう一人の男(何者か?)の二人が興奮した様子で私の部屋へどかどかと上がって来た。
「寝ていたのか?」
 そう言いながら入って来た。
「このまえ東京へ出かけたの? 電話があったよ。読売の記者、なんといったかなぁ‥‥、ああそう、オクヤさん」
「いつですか?」
「一週間ほどまえ」
 彼はまた私に働くようすすめた。それに対し私は答えた。
「このことをやるだけやったら就職しますよ。今就職しても、このことで休みがちになりますから」
「解決のめどはついたのか?」
 彼は落ち着いた調子で聞いた。それを見て私は、記者のほうもだめだなと思った。
「病院へおじさんと一緒に行こうか? 君の父さんから、ぼくたちに君を病院へ連れてってくれるようにと手紙で言ってきているよ」
 私が相手にしないでいると、それまで私と刑事のやりとりを、入り口の近くに坐って観察していた男が何か合図でもしたのか、彼らはがばと一緒に立ち上がり、何か話しながら、どかどかと階段を降りて行った。

 数日後、家からの手紙で知ったのだが、その同じ日(5月16日)の午後、読売の記者、奥矢氏から家へ電話があり、
「本人は病気のようだから、誰か家から出て来て、本人をよく説得して病院へ連れて行ってみてもらったほうがいい」
 と話したという。
 その翌日の5月17日、私は奥矢氏に会いに行った。そのとき私は、その前日、奥矢氏が前述のような電話を私の家へしていようとは知るよしもなかった。東京駅へ着いてから電話した。
「今東京駅に来ているんですけど、これから訪ねて行っていいですか」
「ぼく、午後から出かけるんだけど」
「お帰りは何時頃になりますか」
「夕方になると思うけど‥‥、結論から言いますとね‥‥、原稿を読ませてもらいましたけど‥‥、やっぱり、いったん家へ帰ったほうがいいということです。大船警察署の福岡さんも言っているように‥‥、今のうちは預金があるからいいけど、無くなったらどうにもならないでしょう? それで帰ったほうがいいということなんです。‥‥失礼ですけど。それに、とても常識では考えられないことですからねぇ。あんたはあんたなりに言うことがあるでしょうけど。‥‥どうもお役に立てなくて‥‥」
「ではこれから原稿を返してもらいに、そちらへ行きますから」
「ええ、ぼくは出かけていないかもしれないけど、わかるようにしておきます」
 警視庁の玄関で、警備に立っていた警官に、
「読売新聞の奥矢さんに会いに行くんですけどいいですか」
 と聞くと、彼は、
「受付で」
 そう言って、玄関を入ったすぐ右側に、にわかに据えられたような小さな机を示した。このまえ来たときは、そんなものはなかった。机には若い男が坐っていた。そのわきに四十歳位の男が立っていて何か話しかけていた。そこへ行くと、私の氏名、住所、用件を書かされた。私が名前を書いていると、
「あんたが沢舘さん?」
 と、若い男がたずねた。
「はぁ」
「初めから一言そう言えばいいのに」
 彼は笑いながら机の下から何か取り出した。それは私が記者に渡しておいた原稿だった。私はあきれた。
「何か伝言はありませんでしたか?」
「ただ渡すように言われていたんですよ」
 わきに立っていた男が照れたように答えた。さらに、
「でも、会うというなら、その伝票を書いて‥‥」
「いや、いいです」
 私は原稿を受け取り、明るく笑っている彼らを尻目に、にやにやしながらそこを出た。それにしても、なんという返し方だろう。

 新聞社もだめなら、もうどうしようもないようである。だが許しがたいのは鎌倉市人権擁護委員会である。やっぱり告訴することにした。以前その告訴状を横浜地方検察庁へ持って行ったら、人権擁護委員の氏名をはっきりさせなければだめだといって返された。その後、氏名を調べ、書き直してあったが、まだ提出していなかった。横浜地方検察庁にも大船警察署にも行きにくかったので、私はその告訴状を鎌倉警察署へ持って行った。彼らはもう私のことは知っていた。刑事課長と一時間以上話した。その告訴状は形式的には落度がなかったにもかかわらず、受け付けられなかった。課長は言った。
「ぼくは職務としてこれを受け、仕事として取り扱うことはやぶさかでない。だが、あんたのことを考えると‥‥、そのことがかえってあんたにとって不利なことになるかもしれないんだ」
「私に不利になるということは考えられませんよ。私何も悪いことをしていませんから」
 だがそれ以上、私のほうでがんばると、課長が本気で怒りだしそうに思われたので、あきらめて帰った。彼もまた言った。
「病院へ行ってみてもらったほうがいい。君自身、病気かどうか不安に思っているんじゃないの?」
「私が病院へ行ったら、間違いなく病気だということにされますよ。人権擁護委員会や弁護士会をも押え込むほどの大きな力が働いているようですから、病院を押え込んで、私を病気だとするのは簡単なことですよ」
 課長は一瞬、まじめな顔つきになった。わきで仕事をしていた男が、「ヘッヘッヘ」と笑った。

 

              五 節

  昭和47年(1972年)

 同日、父から手紙が届いた。新聞記者からの電話もあり、心配だし、それに私のこれからのことについても話し合いたいから出て行くというのだった。私はすぐ、私のほうから行くから来なくていいと連絡した。そして、二日後の乗車券を買った。
 5月22日、月曜日の夕方家に着いた。
 私は電車の中でずっと考えた。家族がどんな態度で私を迎えるだろう? 私には予想できなかった。母が私に泣きすがるのではないかとも恐れた。
 だが実際には何のこともなかった。私が家に入ると、一瞬みんなの視線が私に注がれた。父が、「だっ!」と感嘆の声を上げた。母は奇妙な笑いを浮かべていた。彼らはすぐに私のことは忘れたように元に戻った。兄はカラーテレビの調整を続け、父は叔父と仕事の話をしていた。やがてテレビでボクシングが始まった。まもなく姉夫婦がやって来た。義兄が一升買った。
 酒を飲みながらも、何か気づまりで話しも途切れがちだった。いいかげん酔がまわった頃、父が私の問題にふれようとした。私はさえぎった。酒を飲んでから大事な話をする気にはなれなかった。

 私はまる三日間いたが、その話はもう彼らから出なかった。私からも持ち出さなかった。私は心の通いあった会話のない家の空気が恐ろしくなった。家族が私を見る目が昔とあまり変っておらず、「異常」なのを感ずると、私はもう一日も長く家にいることにがまんできなくなった。この家にこれ以上いたら、それこそ私の精神に異常をきたすだろうと思われた。私は帰ることに決めた。
 それにしても、私の送った原稿、私の裸の姿をさらけ出した原稿を読んだ後も、このような次元から私を異常な目で見ているのは一体どうしたことだろう。
 私はこれまでにも、私がどんなに「私」を説明していっても、深い底の方で壁のようなものにぶつかり、相手ににやりとされるのを感じてきた。それは一体なんだろう? 最も深いところで私の人格をくつがえすような根強いものが彼らに働いているように思われてならない。それは何だろう? とにかく、思いきりばかげたものにちがいない。
 24日の夜、姉のところでテープレコーダーの修理していると、父が不自然な格好でじっとのぞきこんでいた。『そんなことがおまえにできるか』というように。その時の父の表情!
 この父は、手紙では一見、もっともらしいことを書いているが、心の深いところでは、私が苦しむのを見て楽しんでいるように感じられた。

 

    5月26日 金曜日

 午後4時半、帰りの電車の中で書いている。
 母が泣きながら引き止めるのを振り切って出て来た。何から何まで驚くことばかりだった。乗車券は昨日のうちに買っておいた。
 昨日の午後、私が自分の下着を洗おうとしていると、母が、明日の朝するからおけと言った。私は「明日はもう帰る」と答えた。母はびっくりし、父は「切符を返してこい」と言った。
 今朝、私が帰る支度をしていると、父と母が私のそばに来て坐った。母は帰るのを明日に延ばせと言い、今日、病院へ行ってみてもらおうと言いだした。私は驚いて母を見守った。母は本気らしかった。私は空恐ろしくなった。私は何も言うことができず、ただ、
「ばか」と言った。
「ばかだって」
 母は力なく言った。病院へ行って悪いところがあったら治してもらい、安心したいという。
「もういいからやめて!」
 私は子供を叱るように母をさえぎった。すると母は今度は父に泣きつくように言った。
「おめさま、連れて行ってけでさ」
「だ! おれぁが?」
 父はあきれたように答えた。
 母は私が病気だと信じているらしい。姉がノイローゼについて書かれた本を読み、母に言ったという。
「自分では何ともないと思うようになっては、もう病気が相当進んでいるそうだよ」と。
 私が靴を履いていると、母が私に泣いてすがりつき、
「病院さ行ぐべ」
 と言った。そこへ姉がやって来た。ほとんど口をきかなかった。

 

   5月27日 土曜日

 夕べ大船に帰った。
 家でのことを考えると気持が重くなる。彼らは、以前とほとんど同じ次元をただよっている。それにしても、母の異様さは何によるものだろう?
 何やかやしながら、これまでずっと母の精神分析を試みた。
 父の言うところによると、母は私の原稿を読み、泣いたという。母はそれを読んだとき、真の人間の心に戻り、泣いたのかもしれない。しかしその感情も薄らぐにつれ、しだいに自分の過ちを認めるのが嫌になってきたのか? あるいは、寺の和尚の「判断」によるものか。
 母は何か起こると、よく和尚の「判断」を聞きに行った。母にとって信仰は生活の支えであり、和尚の言うことは、ほとんど絶対的な力を持っていた。
 今回も和尚に判断してもらったところ、私が思い過ごしをしている、と言ったそうだ。
 和尚の言うことと、私の主張していることが食い違った。もしここで和尚の言うことが間違っており、私の言うことが正しいとなると、これまで母を支え、導いてきた信仰がぐらつくことになる。母は自分の心の安らぎを得るためには、私を病人に仕立て上げてもかまわないのだ。私を引き止めたとき流した母の涙は、あれは安らぎを得られなくなることへの悲しみの涙ではなかったのか。
 家から帰ってきて数日間は、家族のことを考えると憂うつになった。愛想がつきて、もうこれ以上彼らと話をしたくないという気持と、このまま黙ってはいられないという気持が、浮いたり沈んだりしていた。帰ってから四日目、とうとう手紙を書いた。

 

 この手紙を書こうか、書くまいかとずいぶん迷いましたが、書くことにしました。
 父の手紙によると、私の送った原稿を読み、母が泣いたということですが、私にはとても信じられません。私が以前、家にいた頃と、今度帰ったときの母の様子も、家族の様子も大して変っていませんでしたから。
 それから、私が午後外出して帰った晩の父の様子。私はあの晩、朝の4時頃まで眠れませんでした。この家にあと二、三日いたら、むかし、家にいた頃とまったく同じ状態におちいるのを感じ、翌日すぐに帰りの切符を買いました。
 家族らが私の精神状態を観察しようとしているのを知ったとき、私は唖然としました。
 私が家を立つとき、母が泣きながら私に、病院へ行こうと言い出したとき、私はすっかり仰天し、情けなくなりました。しかも母がそれを本気で言っているらしいのを知って空恐ろしくさえなりました。
 私の原稿を読んだ後も、まだそんな次元にとどまっているのは一体どうしたことでしょう。私の書いたものをくつがえすほど大きな力があなた方に働いているのでしょうか。人権擁護委員会の卑劣で老獪な力が、まことしやかな装いをもって、あなた方に働きかけているように思えてなりませんが、思い過ごしでしょうか。
 もしかすると、人権擁護委員会、またはケイサツが、私の性格のことを話し、生活能力ゼロだなどといったことを家のほうへ言ってきているのではないでしょうか。彼らの哲学に従えば、そろそろそのような言葉が出てきてもよさそうです。
 誰も私にかまわず、そっとしておけば、何もかも円満にうまくいったのです。彼らは一匹の犬を、寄ってたかって棒切れでさんざん殴りつけ、そのため犬が泣き叫んで転げまわると、その様を見て彼らは首をかしげ、「この犬は少しおかしい」と言うのです。
 次はある本からの抜粋です。

 刑事手続きは、直接人権に関係するものが少なくないだけに、捜査を担当するものとしては、慎重なる上にも慎重でなくてはならない。犯罪に対し社会の秩序を守るためには、ときには行きすぎがあっても許されると考えるものがあるとすれば、まことにこんな恐ろしいことはない。まじめな市民が不当に疑われて、身の潔白をはらそうとして焦れば焦るほど身動きできなくなってしまうという悲劇が、現在では皆無ではないということも、実はこうした誤った考えから生ずるものである。
 かつて、アメリカの赤狩りに因んで、新イソップ物語なるものが朝日新聞にのっていたことがある。こういうのであった。一匹のウサギが森の中を全速力で走っていた。リスが呼びとめて、「ウサギさん、何だってそんなに走っているんですか」と聞いた。ウサギは答えた。「マッカーシから逃げるんだよ。彼はカンガルーを追っかけるんだよ」リスは首をかしげて聞いた。「だってあなたはカンガルーじゃないでしょう?」ウサギはなおも走りながらさけんだ。「それはそうなんだ。だけど、おれはカンガルーじゃないということを証明できないんだよ」
 こんな恐ろしいことが現実の日本にはなおさらあり得るということになると、われわれとしても、捜査とはいかにあるべきかをじっくり考えてみる必要がありはしないだろうか。
  (以上、自由国民社「刑事訴訟法」より)

 今後も両親はこれまでと同じ態度をとるのでしょうか。もしそうでしたら、私は口では何と言うことができても、心ではもうあなた方を親と思うことはできないでしょう。
 さようなら。
                    衛
  両 親へ

 

 この手紙を出しに出かけようとすると、姉からの手紙が届いていた。

 

 前 略
 お前があわただしく帰ったあと、いろいろと父母と話し合いました。母は一言一言に涙を流し、そばにいる私ももらい泣きしました。でもその三十分後には例の仕事を始め、今頃は釜石を過ぎたかな、なんてつぶやいていました。
 実を言うと、おまえからの手紙や、むこうからの電話によると、心配せずにはいられない様子でしたので、遠くに居て心配しているより、行ってみようということになり、相談しているところへ、お前のほうから帰って来たので、私もお前に逢えた事をうれしく思い、安心しています。
 というのは、一年半前、タイル屋の二階から、むこうへ行った当時は、私たちと話をすることさえきらい、親兄姉と縁を切るようなことを言って出かけたお前が、がらっと人が変ったように明るくなり、私の心配が取りこし苦労であったと思っています。お前のほうでつとめてそのようにふるまったのかわかりませんが、以前(大槌にいたころ)のお前ではないことがはっきりわかりました。
 何の仕事をするにしても、いいかげんな事をするでなし、最後まで根気よく続けるように。
 父母としては、警察が電話で言うほどおかしくはないと思いながらも、一度病院へ行ってみてもらうだけでもしたかったらしいのです。
 私も医学全書などを読み、私なりに心配もし、悪い想像ばかりし、何とか人並みな生活をさせてやりたいと思いました。だけど逢ってみて、私の取りこし苦労であって幸いと思っています。母にも、大槌にいたころよりずっと明るくなっているから心配することはないからと言ってやったから、いくらかは納得したんじゃないかな? ただ、あっちを訴える、こっちを訴えるという事さえなければ、なんて言ってたけど‥‥。正彦さんからも、もう少し衛を信じてやれ、大丈夫だからと言われました。
 これから先、住むところを変え、今までのことは忘れ(お前には耐え難いことは良くわかるが)何かに打ちこむ事(絵でも仕事でも)が今までのお前から脱皮する一番の解決方法ではないかと思います。
 又時を見てお便りします。
 体には充分気をつけて下さい。栄養のほうも片寄った食事をしないように。
 住所が変ったら知らせて下さい。
                    宏 子より
  衛 様

 5月26日 午後2時

 

 一週間ほどして父から返事が届いた。

 

 6月1日着の手紙に付き断片的に答えましょう。何を言っても君は誰も信じない。午後外出から帰ったら父の様子、あの晩4時頃まで眠れなかった‥‥、どういう訳でしょう。父は何もそのような態度も様子も意識していない。何が気に障ったのかも、今だに判断に苦しむ。人権擁護委員からも警察からも口止めされたことは唯の一度もない。是は天地神明に誓って断言する。会社からも何も聞かされていない。従って何も隠していない。全然無いことまで、まことしやかに狙立てるその推量というか疑心というか、それを通してやったらきりがない。
  (中略)
 君は家の中は殺伐とした空気と言うが、特に君にそうだとでも考えられましたか。どうして君はこうまでひねくれた考え方をするのか。
  (中略)
 何をやっても手際よく、人一倍本も読み、性格も地味なほうで浮調子でなく、頼み甲斐のある人間として見てきた。

 鎌倉へ行ってからの君は、告訴のことに専念している。狭い視野しかない父母はそれを異常に思った。しかし父母の考えは単なる憶測で当を得たものではなかったらしい。電車の中で子供達や学生等が君を笑うとか、変な目で見られるとか、そんなことがあるものかと否定したり、無能な父母の尺度で推し測ったりして、事実に直面して行動した君を異常視して病院行きを考え、君に勧めたりした。しかしそれとても、刑事や記者に勧められたものでは決してない。
 だがどうしたものか釈然としない。君のやっていることに全面的に合流すれば、意を得たものと思うかもしれないが、人権擁護委員会、警察、会社、弁護士、新聞記者が、君に精神病者になってもらうために、大がかりな策動をめぐらさなければならない程、君は重要な鍵を握っている訳ですか。君が順調に働くようになると、これらのものの利害関係が重大だとか、権威が失墜するとか、メンツまるつぶれになるとでもいうのか。それ故大規模な刑事問題を至急に拡大して捜査陣を張りめぐらしているという訳ですか。君は満身創痍となり奮闘すれど彼らは官費で闘うのだし、何十年継続しても痛くもかゆくもないと思う。君はそこも計算に入れているとは思うけど。
  (中略)
 君は今まで両親からどんな悪い態度をとられたのか。君はとられたと思うかも知れないが、父母は君に悪い態度などとったことが無い。そう信じている。それでも親と思うことができないとはどういうわけか解せない。世の中に、親を思わぬ子はあれど、子を思わぬ親はいないという。
  6月2日
                    両 親
  衛 君

 

 

              六 節

  昭和47年(1972年)

 家から帰ってから数日後の5月28日、鎌倉市の人権擁護委員二名を名誉毀損で告訴した。告訴状は横浜地方検察庁へ郵送した。三日後、検察庁から通知が来た。
 「告訴の件についてお尋ねしたいので、6月5日午後1時認印を持参の上、当庁へ出頭して下さい」
 担当官は斎藤典男検事、検察事務官は鈴木とあった。

 

  6月5日 月曜日

 横浜地方検察庁へ出頭。
 1時5分前に検察庁に着いた。待合室へ通された。数人待っていた。最初に私が呼び出された。504号室。
 いかめしい調子で、まるで被告人を調べるような調子で聞き取りが行なわれた。検事もまた、
「女の子に変なことをしなかったのか?」
 と聞いた。
 そんな問いには答えるのさえ口が汚れるような気がしたが、
「何もしていませんよ」
 吐き捨てるように答えた。
 調書がわきにいた男によって書き上げられた。
 最後にその調書に、署名と捺印を求められた。内容をゆっくり読んでいくと、少し違うところがあった。検事にそれを指摘すると、
「まぁいい、問題は和田と山ノ井だから」
 そう言ってどこかへ消えた。
 私は調書に署名し、判を押した。

 検察庁を出たが、後味が悪かった。あの和田さんを告訴して何になろう。あの年まで立派にやってきた和田さんに汚点をつけても、私の心は少しも軽くはならない。かえって重くなるばかりだ。和田さんは犠牲者なのだ。会社の中傷を信じたための。取り消すか? だが、和田さんらにあのような態度をとらせた、背後の大きな力を許せるか。

不起訴処分

 

    6月12日 月曜日

 時々強い風雨。入梅。
 この世は、私が住むには、あまりにも汚すぎたのだ。

 

              七 節

  昭和47年(1972年)

 こうしたある日、ふと、三年ほど前、私がまだ釜石製鉄所にいた頃、一緒にスケッチに行ったりした、当時の高校生に手紙を書いてみようかと思った。
 
「ひと」と話をしたかった。正常に話せる人が懐かしく、恋しかった。

 

 美知子さん、私を知っているでしょうか。あなたが高校三年のとき、一緒にスケッチに行ったりした、あのおかしな青年です。もっとも今はもう青年の域を脱してしまいましたが。
 会社の下劣で悪質な策動で職場をやめざるを得なくなり、その後、千葉、鎌倉と転々としてきましたが、何ということでしょう、会社のばかげた、というよりは、めでたい中傷がケイサツを通して私の行く先々へ迅速に伝えられているらしいのです。この現実を前にしては、ただもう開いた口がふさがりません。
 私、先月(5月)の末、数日間、大槌へ一年半ぶりに帰りました。美知子さんにも会っていろいろお話したいことがあったのですが、都合があり、あわただしく帰ってしまいました。
 現在、鎌倉にいて、いろいろな問題に直面しています。美知子さんとも一度お会いしてお話したいことがあるのですが、会ってくださるでしょうか。よろしければ私のほうからそちらへ出かけます。美知子さんが遊びながらこちらへ出て来るというのでしたら、電車賃は私が負担します。もっともそれは御両親がお許しにならないでしょうが。
 美知子さんも高校を卒業して二年以上になりますから、もう恋人もいることでしょうね。うまくいっていますか。成人式はもう済んだでしょうか。たぶん来年でしょうね。
 御返事をお待ちしています。直接お会いできないようでしたら、手紙の上でお話したいと思います。
                    沢 舘
  美知子さんへ

 47・6・1

 

 彼女への話というのは、彼女が以前、私に手紙を書いて交友を絶ったのは、会社の中傷のためではなかったかを、彼女に確かめたかった。確かめるだけなら、手紙で十分なのだが、私は直接会いたかった。寂しかったのである。長いこと「ひと」と話をしていない。「ひと」と話をしたのは、二年前、スクーリングで正木さんと話したのが最後であった。
 二週間ほどして返事がきた。

 

 前 略
 お手紙、大変懐かしく拝見致しました。貴方様同様、私にとってもこの二年九ケ月間は、貴重な、そして平凡な毎日でした。
 さて、私にお話が有るとの事ですが、私もその必要性を認識致して居ります。私なりに考えてみたのですが、私が鎌倉を訪ねる事が一番賢明に思われます。そこで仕事上の都合等を考慮し、得られる休暇は、6月28日、29日、30日の三日間ということになります。7月以降は、中元、お盆、釜石祭り‥‥と祭事が続き、デパート業のため、二、三日間の休暇は取れません。私の場合、事務のほうを担当して居りますので、関係ないと言われるでしょうが、仕事が人事関係の仕事でもあり、やはり「人の和」を大切にしたいという責任を痛感して居りますので、気持だけでも売り場のほうに従事しなければと思って居ります。
 出来るなら28〜30日、この間を利用して鎌倉を訪れたいと念願して居ります。私たちの会話の必要性を感じているからです。
 貴方様の御都合をお知らせ下さい。
 出立は27日の晩(釜石発18時47分)か28日とし、列車時間等は貴方様に一任致します。尚、旅慣れない私ですので勝手ではありますが、上野か東京駅のどちらかに迎えに来ていただければ幸いです。その際には待ち合わせ場所を詳しくお知らせ下さいますようお願い致します。
 至急御返事の程お願い致しまして、不躾ながらペンを置きます。

                    早々
  6月14日

 

 私は胸がふくらむのを感じた。とても信じられないことだった。だがすぐに、彼女が出て来るのは彼女のために良くないような気がした。こんな状態の私のところへ彼女が出て来たら、彼女がどんな噂をされるかわかったものではない。それに彼女は私から「愛の告白」を期待して出て来るはずだ。私は手紙を書いて止めようとさえ思った。しかし、気持とは逆に、時刻表を調べ、利用する列車を知らせ、28日の早朝、上野駅に着く寝台車に迎えに出るという返事を書いた。
 でも、出て来るまでに二週間ある。きっと妨害が入り、出て来るのをやめるだろうと思った。そうしていつだめになるかと、はらはらしているうちに二週間が過ぎてしまった。
 6月28日の早朝、上野駅に迎えに出た。6時9分着の「北星号」。私は寝不足のため、少し具合が悪かった。
 すぐに彼女を見つけることができた。白地に紺の模様が散ったワンピースを着ていた。私は彼女に近づき、
「しばらく」
 と声をかけた。彼女は黙って頭を下げた。私はあまり口をきかず、彼女と並んで歩きだした。上野駅から東京駅まで山手線に乗った。朝早いので、車内には数えるほどしか客がいなかった。向かい側の席で行商人のおばさんが野菜などを整理していた。
「いなかも都会も同じでしょう」
 私はそう言って笑った。
 東京駅から横須賀線に乗り換えた。私たちは向かい合って坐った。三年近く前、彼女がまだ高校生であった頃、一緒にスケッチに行った時のことを思い出した。あの時もこうして向かい合って坐っていた。『これは現実だろうか? このような再会を、あの頃予想できたろうか?』私はこうした考えを、ぽつり、ぽつり彼女に話した。彼女は静かにほほえんでいた。
 高校生の頃、肌がかさかさしていた彼女が、今では人目を引くほど、肌が透き通るように、なめらかになっていた。短い間に、女の肌はこんなにも変るものかとびっくりした。

 電車の中で私たちはあまり話をしなかった。彼女は時々深いほほえみを浮かべていた。私を信じ切っている彼女の様子を見ると私は恐ろしくなった。私は何ということをしたのだろう。また、しつつあるのだろう。私はまともに彼女を見ることができなくなった。窓の外をながめた。雨が降っていた。
 大船駅で降りた。まだ雨は降っていた。彼女はタクシーを使いたかったらしいが、私はそこまで気がまわらず、歩いた。駅から十分ほどのところであった。歩きながら私は、彼女が私の部屋へ来るのを躊躇しているのを感じた。彼女は本当に従順だった。私は予期していなかったものを彼女に見たような気がした。私の家主にまで何か買ってきた。
 部屋に入り、向かい合った。彼女は私がどうしてこんなに遠い地へ来たのか、もっと近くでもよかったのに、と言った。私は家を出てからこれまでのことを話した。しかし、どのように説明したって理解してもらえるものではなかった。私は原稿を出して、あちこち読ませた。
 彼女が期待していることとは全く別のことを言い出すのは苦しかった。彼女は、『話というのはそのことだったのか』というように、目を大きく見開き、テーブルの上の一点をじっと見つめた。気まずい空気が二人を包んだ。私はこの場面を一刻も早く切り抜けたかった。

 雨がやんでいたので私たちは外へ出た。このとき初めて彼女は、両親に嘘を言って出て来たことを私に告げた。私は改めて自分の罪の深さを思い知らされた。
 この日、北鎌倉、鎌倉の古い寺々、それから江の島と歩きまわったけど、彼女は見るものに何の感興も起こさなかった。気まずさはずっとつきまとった。
 若い男女がいて、そこに愛情の流れのないのは魂のない肉体と同じだと思った。歩いているうちはいいが、休むと沈黙が襲った。愛しあっていれば楽しい沈黙であろうが。
 江の島を歩きまわり、疲れてベンチに腰を下ろして休んだ。いろいろ話しているうちに、私は自分がまだ童貞であることまで話した。江の島から帰る頃には、気まずさはかなり薄れていた。
 この夜、私は「私の部屋に泊まっても、絶対心配ないから」と言ったが、彼女は旅館に泊まると言った。それで二人で旅館を探した。泊まるところを決めてから二人で夕食に出た。すっかり打ち解けることができた。
 8時半頃だったろう。食堂を出て、駅前のスーパーで買物をした。彼女はメロンと牛乳を買った。私はビールを一本買った。支払いは彼女がもってくれた。
 旅館代は私が払った。ただ、上京した分の電車賃は、彼女はどうしても受け取らなかった。
 この晩、私はなかなか寝つけなかった。神経が疲れていたのだろうか、脈がひどく不規則になっていた。

 翌朝、大船駅で待ち合わせ、東京へ出た。彼女と過ごすのはこの日一日だけだった。この日の夜、彼女は鶴見にいる彼女の兄のところに泊まることになっていた。
 皇居まで行き、そこからぶらぶらと日比谷公園まで歩いた。野外で何か演奏をやっていたが、あまりの音の大きさに長くはがまんできなかった。
 銀座へ出てぶらぶらした。私と彼女が二人並んで歩いていると、人目を引くようだった。特に彼女には、行きかう男も女も目をくれた。彼女がそれほど人目を引くのか、それとも、彼女がえたいの知れない私と歩いているせいか。彼女は純白のワンピースを着ていた。一方、私は赤っぽい半袖シャツを着ていた。
 夕方、有楽町映画街の有楽座で映画を見ることにした。ソビエト映画「帰郷」。映画が始まるまで、まだ時間があった。私たちは有楽座の隣の喫茶店に入った。彼女はレモンスカッシュなるものを注文した。どんな飲物かわからなかったが、私も同じものを注文した。
「美知子さんとずっと一緒に歩いていて、私、何考えていたかわかる?」
 私はたずねた。
「ううん」
 私が言いよどむと、
「言い出しておいて悪いわよ」
 と言った。私は照れながら、
「美知子さんにね、手をつないで歩かないかって言いたかったの。でもできなかった」
 そう言って笑った。彼女はほほえんだ。
 この日、私は彼女と一緒に過ごしながら、心はどんどん彼女に引き寄せられていくのをどうすることもできなかった。
 「帰郷」はとてもいい映画だった。終ったのは7時近かった。また喫茶店に入った。私たちは言葉少なに向かい合った。このとき私の心は彼女を呼び寄せたときとは大きく変化していた。
「もうこれで、会うことはないね」
 私は彼女を包み込むようなまなざしで見つめながら言った。彼女はびっくりしたように、その大きな目で私をじっと見つめた。
「私はこれからどうなるかわからない。美知子さん、しあわせになるんだね」
 彼女はハンカチで目を押えた。私も涙をやっとこらえた。彼女は気持を変えようとするように、いま見てきたばかりの映画のパンフレットをめくり始めた。私もそうした。

 東京駅からの帰り、鶴見駅で私も降り、改札口まで彼女と一緒に行った。彼女が、彼女の兄と間違いなく会えるかどうか心配だった。
 改札口の向こう側に立っている男性と彼女が認め合ったみたい。その男性が近づいて来た。私は安心すると同時に『まずいことになったな』と思った。彼女は私に挨拶し、私から離れて行った。私は彼女の兄とは言葉を交さなかった。彼女は私のことを兄に話していないだろう。
 彼女と別れた後、恐ろしいほどの寂しさを味わった。私がこれまで愛情なしで、異性なしでやってこられたことが不思議にさえ思われた。彼女と別れた翌日、耐えきれず彼女に手紙を書いた。

 

 美知子さん、私が喫茶店であなたに、「私に手紙を書く必要はありませんよ」と言った言葉を覚えていますか。そんなことを言っておきながら、私のほうから手紙を書くのはどう考えても理屈に合いませんが、どうかそれは見逃してください。
 美知子さんと別れてから、何故かひどく寂しく、ぼんやりとしています。ともすれば涙がにじんできます。思いきり泣いてみたいような気がして、ふとんに顔を埋めるのですが、何故か泣けません。泣ければ気持が楽になるのですが。部屋に独りで居たたまれず、町へ出ては人混みの中をさまよい歩いています。
 私は会社をやめてからこれまで、会社のひどい仕打ちと闘い通しで、異性にはほとんど関心を示しませんでした。でも、いま美知子さんと別れて以来、その心の姿勢が崩れてしまいました。
 私が美知子さんを私のところへ呼んだのは、白状しますが、打算が働いていました。高校生であった頃の美知子さんとのことがひどく言いふらされているらしいのに対し、私が美知子さんを呼び寄せ、一緒に数日遊んだなら、そのばかげた中傷をくつがえすことができるだろうと考えたのです。
 しかし、美知子さんを呼んだ、もう一つの大きな理由は、私がこの地にいて、あまりにも寂しかったからです。
 美知子さんが私のところへ出て来ることを知ったときは、うれしく思いながらも、「美知子も軽薄だなぁ」と思いました。だから初め、そのつもりで美知子さんを迎えました。私のひどい態度で美知子さんに気まずい思いをさせたことをどうかお許しください。
 しかしその後、というよりは、美知子さんと接しているうちに、美知子さんの態度や瞳に、「軽薄」という言葉にはほど遠いものを感じ、胸を締めつけられました。それに美知子さんにしても、あなたをかわいがっている両親に嘘を言って私のところへ出て来るということは、容易なことではなかったでしょう。それも二十九歳の私のところへ。
 美知子さん、私としばらく文通してくれませんか。新しい住所はわかりませんが、転送されるものと信じ、前の住所宛に出します。
  昭和47年7月1日 午前10時 鎌倉図書館にて。

 

 この手紙を速達で出し、さらに翌日、続けてもう一通書いた。ここにはその一部だけを引用する。

 

 私は美知子さんをだましていたのです。あのような思わせぶりな手紙を書いて。美知子さんが、
「わたしが出て来たのは、手紙にあった抽象的なもののためではない」と言った、その抽象的という意味も私にはわかります。
 美知子さんが私を信じて出て来てくれたのを、私は「軽薄だ」などと考えたのです。あなたはこれを許すことができますか。こんなひどいことを。

 

 しかし、一週間たっても返事はなかった。

 

 美知子さん、私からたて続けにそのような手紙を受け取り、びっくりし、困惑し、また迷惑していることでしょう。もしかすると、私の気がふれたと考えたのではないでしょうか。そんなことはありません。ただ、感情が少し不安定なだけです。私くらい異常な目に合い、異常な状態に追いやられていると、感情が不安定になるのも不思議はないでしょう。
 美知子さんに書いた手紙の写しを今読み返してみると、大人げなくも自制心を欠いた自分を見出し、恥かしくなります。
  (中略)
 美知子さんとの今度の再会は、その意図には不純なものが混じっていましたが、思い出としては、美しく私の心に残るでしょう。暗闇ばかりの私の過去に、そこだけが朝日に照らし出されたように。
 美知子さん、もう心配いりません。今度のような手紙は、もう決して書かないでしょう。
 お幸せに。

  昭和47年7月6日
                    沢 舘 
  美知子 様

 

             八 節

  昭和47年(1972年)

 美知子が私のところから帰ってまもない、7月1日、横浜地方検察庁から一枚のはがきが届いた。私が人権擁護委員を告訴していたのを、不起訴処分にしたという通知であった。もしや、と思って不起訴処分になった日付を見ると、やっぱり、美知子が私のところへ出て来た日であった。
 7月3日、月曜日、不起訴処分になった理由をたずねに検察庁へ出かけた。そのまえに横浜検察審査会に立ち寄り、審査の申立てをした。検察官の措置に私は不服であったから。
 三階の待合室へ行き、そこの受付に氏名、用件を告げた。しばらくすると、待合室の入口へ、検事ではなく若い男(事務官?)が現れて私を呼び、手招いて廊下へ連れ出した。
「検事は今、手を離せない仕事をしているから」
 そう前おきし、
「不起訴になった理由は教えられないことになっている」と言った。私はいったんそこを出たが、不審に思ったので、検察審査会へ行って尋ねた。「そんなはずはない」と言われた。また検察庁へ引き返した。さっきの若い男がまた出て来て、今度は、「大きいところしか教えられないことになっている」と言って、次のようなことを話した。
 人権擁護委員が私に対してとった行為のうち、昨年の分は告訴期限が切れているので起訴の対象にはならない。今年の分について調べたが、人権擁護委員が私にあのようなことを言ったのは、私を「罵倒するためではなく、激励するために言ったのだ」と告げた。
「激励? 聞いておかしいわ、ハッハッハ!」
 私は嘲笑った。するとその男も私と一緒になって笑った。
 だが細部については秘密というのはおかしい。私はたずねた。
「細かい部分については教えられないというのは、規則で決まっているんですか?」
「うん、検察庁内部の規則で決められている。それは他の本には載っていませんよ」
「その規則を見せてくれませんか」
「それはできないよ。規則を見せろというのは、求刑を見せろというのと同じでしょう」
 私は何のことかわからなかったが、帰ることにした。彼の様子には後ろめたさがはっきり感じられた。話が済んでも、彼はなかなか帰って行こうとせず、驚いたように私を見つめていた。
 こうしたある日、父から手紙が届いた。

 

 忙しい仕事もない君だから長く泊めて、話し合いする気でいた。そのうちに折を見て話を切り出そうとしていた矢先、5月26日強引に出立された。而しあのとき君を止め得る自信がなかった。君は入口に立って、「では行く」と言ったのに、行けとも、行くなとも、からだに気をつけろとも言い得なかった。只、君の姿を無言で見送ったのが関の山。それが目先に見える。
 一夜皆で話し合いたかった。まるで君は何のために来たか無意味なことだった。君がまた長く泊まっていられるような居心地のよい処でもない生家なことは俺にだって判り過ぎている。第一君は両親も信じられない。そして憎しみを持っている。しかし憎らしい親でも、親のあるうちは久しぶりで帰ったのだからゆっくりしてもらいたかった。君がひょっこり顔を家に出した時、心から喜んだのは誰々だか君は知っていることであろう。どの様なことを言っても君は俺達を信ずることはあるまい。最早君は俺達の手の届かぬ処に遠のいた。それでも何時の日か君を忘れることができない。親とは悲しいものである。憎まれながらも憎み返すことを知らない。君はあくまでも金と生命の続くかぎり、企業と権力と闘う決心でいるが、それは君の心の奥に蔵している固い決心で、どうにもならないが、これに決着をつけなければ君は生きる道をふさがれているわけ。
 就職して働けば警察その他の思うつぼにはまるのを嫌っているわけもわかるし、病院へ行けば狂人の烙印を押されることを嫌った気持もわかる。それを病院にて診断を受ける様すすめる親兄姉の考えの愚かさを君は本当に情けなく思ったこともわかる。何も君は狂人ではない。俺の言い得ることは、どっちが正か非かわからないが、君と俺達とは物の考え方を異にしているので、そこに釈然としないものがあり、それを胸襟開いて話し合いたかった。而し談合しても交わる線はなく平行を辿るかも知れないけれど。勿論君と俺、母など尚のこと、程度の違う人間だから仕方がない。君と意を同じにするよき相談相手がいないので全く孤軍奮闘。君から見たら、肉親達は烏合の衆で頼むに足らずでしょう。このまま何年か過ごしたら果たして君はどうなることでしょう。考えれば明暗交々としてサッパリまとまりがなく、また振り出しに戻る。何時の手紙もこのような愚痴ばかり、君からの手紙はほとんど民衆の嘲笑と権力との闘争、起訴の件に明け暮れしている。何とか嬉しい朗報に接したい。
 大槌は春先ぐらいの気候で、今朝いちご畑へ行った。冷たい朝露に手がこごえる程だった。日中、日あたりは暖かいが家の中など小寒いくらいです。朝夕畑に出てカン高いカッコウの声で心を洗い清められる様です。
 最後に健康には深甚の留意をされる様頼む。住所が替わったらすぐ知らせてくれ。達者でな。
                                                  父より
  6月24日

  衛 君

 

 

 検察庁から不起訴処分の通知を受け取る前日、なだいなだ氏にも手紙を書いておいた。
 どこへ行っても私は精神異常者扱いされてきた。私が頼れるのは、私を見て、正常か異常かを判断できる人でなければならなかった。

 

 一面識もない先生にこんな手紙を書く御無礼をお許しください。先生にとても大きなお願いがあってこの手紙を書きました。
 私は昭和45年4月に、新日本製鉄株式会社釜石製鉄所を、いろいろな問題があってやめました。その後、千葉、鎌倉と転々としてきましたが、どこでも人間扱いされず、就職もできませんでした。釜石製鉄所が警察を通して全くばかげた中傷を私の行く先々へ振りまいているのを感じ、46年5月に鎌倉市人権擁護委員会へ行き、調査を依頼しました。しかしその後再び人権擁護委員会を訪ねると、彼らの態度が一変しており、ずいぶんひどいことを言われました。今年の3月、同じ問題でまた人権擁護委員会を訪ねたら、「いつまでもこの辺でうろうろしていないで、いなかへ帰れ。君、病院へ行ってみてもらったほうがいいんじゃないの」などと言うのです。現在、人権擁護委員を名誉毀損で告訴中です。警察、検察、弁護士、法律相談、新聞社なども、次々に訪ねましたが、どこでも相手にされませんでした。弁護士も人権擁護委員会も背後から大きな力で押え込まれているように思えてなりません。
  (中略)
 このようなことを言いますと、先生にも私が被害妄想におちいっているように思われるかもしれません。私のこれまでのことを、私の日記をもとにして書き上げた原稿があるのですが、読んでいただけないでしょうか。
 私に関した、ばかげた中傷が東京をはじめ、私の行く先々へ迅速に伝えられていることは間違いありません。
 つい最近、大船警察署の刑事が三度ほど私のところへやって来て、いろいろ調べたり、聞き出したりしたあげく、「女の子に変なことをしたことはなかったのか」などと聞くのです。
 先日、人権擁護委員を告訴している問題で横浜地方検察庁へ呼び出されましたが、まるで非告訴人のような扱いを受けました。検事もまた、「女の子に変なことをしなかったのか」などと聞くのです。これは私が人権擁護委員を告訴している問題には全く関係のないことだったのです。
 このままでは私の一生はどうなるかわかりません。解決しようとこれまで一人でもがいてきましたが、もう私にはこれ以上どうすることもできなくなりました。そこで先生にお力になっていただこうと、このような手紙をお書きした次第です。
                             早々
  昭和47年6月30日
                    沢 舘 
  なだいなだ 様

 

 十日ほどしても返事がないので、もう一度書いた。

 

 前 略
 先月末、先生にあるお願いをするため、手紙を差し上げておりましたが、お手元に届いておりますでしょうか。わずか一週間でも御返事がありませんと、私の手紙が先生のお手元に届く前に、ケイサツの手で握り潰されたのではないかと疑ってみたりもいたします。
  (中略)
 どうか日本の良心ともいうべき先生方のお力でこの問題をなんとかしてくださいますよう心からお願い致します。
 問題がむずかしいようでしたら、先生を通して信頼できる弁護士を紹介していただけないでしょうか。私がこの地で弁護士を訪ねても、すでに彼らの間に「手がまわっている」らしく、頭からはねつけられ、取りつくしまがありません。
 先日、検察庁から、私が人権擁護委員を告訴していた件が、不起訴処分になったという通知がありました。その理由をたずねましたら、委員があのようなことを言ったのは、罵倒するためではなく、激励するために言ったのだ、だから不起訴にしたということでした。
  (中略)
 先生の御返事をお待ちしております。
                     早々
  昭和47年7月8日

 
                     沢 舘 

  なだいなだ 様

 

 さらに十日たっても返事はなかった。

 

 前 略
 先生、何度も手紙を書くあつかましさをお許しください。
 私これまで二度、先生に手紙を差し上げましたが、お手元に届いておりますでしょうか。届いておりましたら、「届いている」という御返事だけでもいいですからお知らせいただけないでしょうか。
 私、新聞広告などを見て、あちこちに応募していますが、最近はもう、応募しても何の返事もありません。何か「普通ではない」ものを感じてなりません。
                    早々
  昭和47年7月19日

 
                   沢 舘 

  なだいなだ 様

 

 この手紙から三日後、なだいなだ氏から返事が届いた。

 

 前 略
 お手紙拝見致しました。お手紙は届いています。会ったわけではないからはっきりしたことは言えません。
 世の中の人がみんなおかしいと仮定したほうが合理的に理解できますか。それとも自分が病気だと仮定したほうが理解できますか。考えてみてください。
 人間、病気になることなど、誰にでも可能性のあることです。私でも若い頃神経症だったことがあります。
 病院に診察にくるのならいいけど、自宅に手紙を書かれても返事は差し上げられません。
                    早々
  7月21日
                    代 筆

 

 「あの人がねぇ」思わず私はそう独りごちた。

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 前 略
 御返事ありがとうございました。でも、ひどいと言えば少しひどい。私の最後の手紙がお気に障ったものと考えます。そのことはどうかお許しください。
 私がこれまで先生に書いた手紙は、正常な環境におられる先生には全く異常に映ったことでしょう。でも、異常な環境に追いやられている私には、そうせざるを得ない行為でした。
 私自身、以前、神経症で病院から薬をもらったことがあります。それから立ち直った現在、自分が正常か異常かは、私自身よくわかるような気がします。異常な神経の状態で苦しんでいますから。
 私が先生に手紙を書いたのは診察してもらうためではありませんでした。
 先生は何かの本で、
「彼はそのように、全く、真実しか、あるいは真実と信じていることしか言わない稀有の人物であったのだが、彼は世の中ではホラ吹きとしてしか考えてもらえないのである」 ということをお書きになられていたことがありましたね。
 どうもいろいろ失礼いたしました。
                    早々
  昭和47年7月22日
                      沢 舘 
  なだいなだ 様

 

              九 節

  昭和47年(1972年)

 なだいなだ氏に手紙を書くのと並行して、鎌倉市議会議員の一人にも助けを求めていた。
 私がこれまでに頼みとした人間はみな例外なく、何かしら大きな力で押え込まれていった。これからも同じことだろう。そのような力に屈しないものとして、私の頭に残ったのは共産党だけだった。以前、異常な成りゆきから、党をやめるに至ったものの、政党の中で一番信頼していたのは共産党だった。
 党の事務所がどこにあるかわからなかったので、党の市会議員、清水辰男氏を訪ねた。
 7月9日、日曜日、夕方電話をし、相談したいことがあるからと言って訪ねた。私は彼にこれまでのことを説明した。
「絶対そんなことはない」
 清水氏は私の言うことを全然信じなかった。そして、「もしそんな人間が鎌倉市に入ってくれば、すぐに市会議員のおれの耳に入ってくるはずだ」と言った。
 私は、とにかく私のことは、この地の小学校、中学校にまで伝えられているようだから、党に関係している教員等から聞き出してくれるよう頼んだ。彼はしぶしぶ聞いてみると言った。「私の半生」の原稿を置いて帰った。
 この日の日記に、私は次のように書いた。
「どんな結果になるかわからない。ただ、彼も人間だということを忘れてはならない」
 ちょうど一週間後、7月16日、日曜日の夕方、再び清水氏を訪ねた。まえもって電話をし、了解を得て出かけた。しかし玄関には鍵がかかっていた。家のわきの細い道を通って奥の方へまわってみた。縁側の戸は開け放たれ、部屋には食事の終ったばかりのテーブルがあった。婦人がその後片づけをしていた。婦人は私を見ようとしなかった。清水氏は私を庭にあった粗末な椅子に座らせ、彼はずっと離れた部屋の中から、そのいかつい顔をさらにいかつくして私を睨み、私の言うような事実はなかったと言った。
「たとえば破廉恥なことをしたとかすれば」
 彼はそう言い、無遠慮に私の身なりをじろじろながめまわした。『これはとても話のできる状態ではないな』と思い、私はすぐに帰った。

 7月15日、土曜日、鎌倉市の人権相談日になっていたので出かけた。
 人権擁護委員二名を名誉毀損で告訴したところ、人権擁護委員が私にあのようなことを言ったのは、罵倒するためではなく、激励するために言ったのだといって不起訴処分になったが、「激励するために言った」というのは、当の人権擁護委員が検事に答えたものかどうか確かめたかった。ところが行ってみると、和田、山ノ井の両氏は二人とも人権擁護委員をやめたといっていなかった。不起訴処分になったとはいえ、告訴されたのでやめたのか。

 
(後で山ノ井氏に電話したところ、彼は私の件を詳しく調べてみようとしたが、人権擁護委員を解任されたという)。

 婦人の人権擁護委員二人が私の相手をしてくれたが、こちらはもう、だいこんを相手にしているようでお話にならなかった。彼女らは言った。
「こうして話していても、あなたは感じがいい。普通の人より上よ、優越感を持ちなさいよ、そうすればこれまでのことも、もう苦痛ではなくなるのよ。だってそれはもう優越なんだもの」
 私はただもう感心するばかりで何も言えなかった。
 そこへ、それまで別の客の相手をしていた四十歳位の男の委員が私のほうへ割り込んできた。高橋さんといって、最近人権擁護委員になったばかりだという。私がこの部屋へ入って行ったとき、彼は目を丸くして私を見つめていた。
 隣の客が大声で話していて、私達の話が消されるので、別の部屋へ移って話した。彼は私の問題をまだ詳しくは知らないようであった。初めから説明したが、困難であった。彼は善良でまじめな人間で、真剣に私の問題を考えてくれた。
 その後、一か月以上、私たちは個人的に会って話し合った。彼は証拠をつかむために、あちこち歩きまわってくれた。しかし、二週間ほどした頃から彼は消極的になっていった。私のほうから連絡しなければ、彼のほうからはこのまま永久に何も言ってこないように思えた。
 彼と話した後に、不快な感情が残るようになった。会って話しても何の進展もみられなかった。それに彼は話している間、しばしば彼の上品な顔を醜くゆがめた。
 8月19日の夜、彼と喫茶店で会ったとき、私はこれまでの礼を言い、今後、私の件で動く必要はありませんといって断った。私は彼に私の原稿を渡してあった。彼はそれを「忙しくて半分位しか読めなかった」と言って私に返した。
 彼と別れた後、私はいらいらしていた。それで彼に手紙を書いた。

 

 高橋さん、私のためにいろいろ働いてくれてありがとうございます。でもなぜか心からお礼を言うことができません。
 私は高橋さんと何度かお会いするなかで、すでに高橋さんが「事実」を押し隠す側に移っておられることを知りました。
 8月18日の夜お会いしたとき、検事が以前、私に「女の子に変なことをしなかったのか」と聞いたのはどういうことなのか、私は検察庁へ行って確かめようとしたという話をしたら、高橋さんはさもびっくりしたように、「ああ、沢舘さんにすればそれは本当におかしなことでしょうね」と言われましたね。
 また、「変質者」という言葉に妙にこだわっておられましたね。19日の晩、高橋さんに少し話したことですが、人権擁護委員会にすれば、私の問題はまっこうから取り組むにはあまりにも大き過ぎるでしょう。しかし葬り去ることは人権擁護委員会として、とうてい許されないことです。何とかして自分たちの行為を合理化(合法化)しようとかかる。私を無理に変質者、精神異常者に見立て、私の問題に本気で取り組むには及ばないと考えようとする。そういうときの彼らの目には、餅に生えたカビも、ジャングルそのものに見えてくるでしょう。彼らは取るに足らないような、くだらないことを寄せ集め、何とか私を変質者に仕立て上げる。そう思いこもうと努力する。しかし、彼ら自身それはあまりにもくだらなさ過ぎることは知っているでしょう。それはちょうど一滴のインキで白鳥を真っ黒に塗り変えようとする努力に等しいでしょう。とても公然とすることはできません。私が行く先々、私が会う人々へ、こっそり伝えては卑屈に笑いあい、私の問題の核心から目をそらす。高橋さんもその中に巻きこまれてしまったのではないでしょうか? 高橋さんは私に歩調を合わせているかにみえながら、肝心なところへくると、いつも私に否定的でした。私はこれまでに高橋さんほど真摯な方にお会いしたことがありません。
 高橋さんも言っておられましたように、私が直面しているような問題をないがしろにするのは「良心が許さない」ことでしょう。でも高橋さんの様子から、私の問題をないがしろにしても、良心にとがめられないと思えるような、何か特殊な力が高橋さんに働いているように思えてなりません。どんなことでもいいですから、私の前にさらけ出していただけたら、私はどんなにうれしいでしょう。
 高橋さん、真の人間の立場にお戻りになり、私の力になってくださらないでしょうか。確かにそれは非常な勇気のいることでしょうけれど。

  昭和47年8月20日

                    沢舘 衛
   高 橋 

 


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