第二編
一節 二節 (東京合同法律事務所) 三節 (横浜検察審査会) (検事への質問) 四節 (鎌倉市人権擁護委員会) 五節 六節 (横浜弁護士会) 七節 八節 (大船警察署)
一 節
昭和47年(1972年)
新聞の求人広告を見てあちこちへ応募する一方、戸塚公共職業安定所へも何度も足をはこんだ。でも紹介してもらうところが、すべて間違いなく不採用になった。どこへ行ってもまともな人間として扱われなかった。ある会社では、「うちは慈善事業をやっているんじゃない、(おまえのような無能力者を雇えるか)」と言って突っぱねられた。
そんな私を職安の職員が気の毒に思ったのか、学生向けのアルバイトの仕事を紹介してくれた。それは私の住んでいる大船にあり、中山電機製作所(仮名)というところだった。私はすぐに訪ねた。7月25日(火)、暑い夏の日の午後だった。従業員二十人位の小さな会社だった。社長と面接した。まだ手はまわっていなかった。職安からアルバイトとして紹介されたので、ケイサツは私がそこで働きだしてから作業を開始しても遅くはないと思ったのだろうか。
ところが社長は、私が失業中だと知ると、アルバイトとしてではなく、正社員として働かないかとすすめた。私は喜んで承諾した。作業内容は、自動車のエンジン始動用モーターの電機子(回転子)組立だった。
私はこの会社でこれからどういうことが起こるか知っていたので、それをまえもって話しておいたほうがよいと考え、
「今にケイサツからこちらへ私のことでやって来て、ずいぶんひどいことを言いますから」
そう言ってこれまでのことを話した。社長はいくぶん驚いて言った。
「それが本当に中傷ならいいけど‥‥、中傷ていうのは事実がないということだから。でも事実ならうちでも困るね」
翌日から働いた。もう手がまわっているのを感じた。私が働いていると、社長が笑いながらやって来て言った。
「勤まりそうか‥‥、気にするな、気にするな、誰だって、一つや二つ、人に知られたくないことがあるんだ」
しかし私には、人に知られて困ることなど何一つなかった。
会社で苦しいことがあっても、働いてさえいれば、これまでのように預金を下ろして生活しなくても済む。それだけでも心強かった。釜石製鉄所をやめてからこれまでの二年間、ほとんど就職できず、預金に頼って生活してきた。問題と真剣に取り組むためにも、ここは簡単にはやめまいと思った。
町を歩くと市民の嘲笑にあう。警察や人権擁護委員会を訪ね訴えると、「思い過ごしだ」といって取り合ってくれない。私には弁解の場が与えられない。私はチラシをまく決心をした。
それは、私の潔白を主張するだけでなく、会社、警察、人権擁護委員会が、本来の彼らの任務とは全く正反対のことをやっている事実を暴露してやりたかった。だが一方、私のこの行為が笑いものにされるだろうことも覚悟していた。ややもすると、凡人にはまじめなことが滑稽に見えるからである。
限られた一枚のチラシに、これまでのことを誰にも納得いくように納めることは不可能だった。特に、会社をやめるに至った経過と、なぜ会社がそこをやめた一人の人間にこんなことをする必要があるかを説明することはできなかった。それで肝心な部分が抽象的なものになってしまった。
このチラシを出すには勇気もいったが、一つの大きな期待があった。会社、警察、それに人権擁護委員会が、彼らの言うように私の主張するような事実はなく、私が本当に思い過ごしをしているとしたなら、私のこのような誹謗を彼らが決して黙っているはずはないだろう。
このチラシには私の顔写真も入れた。
市民のみなさんに訴えます
45年4月、私は新日本製鉄株式会社釜石製鉄所を、会社の全く下劣で悪質な策動のため、やめてしまいました。ところが、私が会社をやめた後、会社は、今度は警察を通して私を挫折させようとかかったらしいのです。私は家を出され、私の町にいるのもがまんできなくなり、千葉、鎌倉と転々としてきました。しかし、ばかげた中傷が迅速に伝えられるらしく、私は行く先々で、言葉ではとうてい言いつくせぬ辱しめを受けてきました。就職もできず、また、できても一週間位で「やめてくれ」と言われたり、私のほうから屈辱に耐えきれず、飛び出してきました。どこかへ面接、試験を受けに行っても、それを受けている間に、そこの様子が悪化することも一度や二度ではありませんでした。
私に加えられる辱しめから、私について、「盗み、女たらし、変質者、精神異常者」といった全くひどいことが言いふらされていることを知りました。
たしかに私は、会社の異常な空気の中でノイローゼ気味になり、病院から精神安定剤をもらったこともありました。
後、私が会社の寮に入ってからは、以前、私の絵のモデルになってくれた女の子二人がよく私のところへ遊びに来て、夜遅くまでいることもありました。高校生の女の子と絵を描きに行ったり、喫茶店に入ったりすることもありました。寮の近くで遊んでいる子どもを自分の部屋へ連れて来て、一緒に遊ぶこともありました。職場で使うボロの中に女のパンティが入ってくれば、それをわざとみんなの前で広げてみることもありました。また、会社のちょっとしたものを失敬することもありました。しかし、それが一体どうしたというのでしょう。46年春、鎌倉市人権擁護委員会を訪ね、調査を依頼しました。しかし、その後再び行くと、もう彼らの態度も一変しており、ずいぶんひどいことを言われました。彼らは私を恐ろしそうににらみ、「悪いことをしていれば、こんなところへ来るはずはないのだが」とか「自分以外の人間はみなばかに見えるのかもしれない」などとささやきあい、それからはもう「ノイローゼだ、ゆううつ症だ。いなかへ帰ってぶらぶらしていたほうがいいんだ」、「北鎌倉にいるなら近くにお寺があるだろう? 行って座禅でも組んでみたらどうだ」、「絵を描くのをやめろ。恋人はいるのか、ううん? それでもつくることを考えたほうがいいんだ」さらに例えばということで「人を殺した」ということまで言われました。
私がある劇団で、女たちにひどい目にあったと言うと、「ああ、おまえに何されるかわからねぇからな」と言われました。また、「おめぇ、一生棒に振ってしまうようになるかもわかんねぇぞ」とも数回言われました。人権擁護委員会の他、弁護士、法律相談、警察、検察、新聞社など、次々に訪ねましたが、みな事実を否定し、彼らの多くは全く申し合わせたように、「これまでのことはすっかり忘れて何か仕事をしてみなさい」と言いました。しかし、それもいつのまにか、「精神病院へ行ってみてもらうべきだ」に変ってきましたが。
検察庁へは新日鉄を告訴した告訴状を持って行きました。が、告訴事実が不十分だといって受け付けられませんでした。私が、「もし会社が警察を通してやっていることだとすると、事実は検察庁内部を調べればわかるはずだから」と言って調査を頼みましたが、刑事事務課長は言葉を濁し、聞き入れませんでした。大船警察署へ言って調査を頼むと、「警察は私事の調査はしない」と言って断りました。県警へ行き、やっと調査してもらうことになりました。しかし、後で調査の結果を聞きに行くと、彼らは明らかに緊張と狼狽の色を見せ、「そんな事実はありませんでしたよ。会社もそんなことはしていないと言っていますよ。そういうことがあるものと、初めから思いこんでいるからいけないんですよ」と言って、とうとう「事実」を否定しました。
あちこちの法律相談にも出かけましたが、どこでも、そこの弁護士に同じ調子ではねつけられました。県税事務所の法律相談では「被害妄想だ」と言われ、横浜市役所の法律相談では「県警へ行け」の一点張り。県庁の法律相談では「あんた、それは精神科へ行って相談することで、法律の相談じゃないよ」と言われました。弁護士にはみな、すでに私のことで手がまわっているとしか考えられません。今年の3月、再び人権擁護委員会を訪ねました。そしたら、「いつまでもこの辺でうろうろしていないでいなかへ帰れ! 君、病院へ行ってみてもらったほうがいいんじゃないの」などと言うのです。私はとうとう人権擁護委員を名誉毀損で告訴しました。しかし、それは不起訴処分になりました。その理由は、人権擁護委員が私にそのようなことを言ったのは、私を「罵倒」するためではなく、「激励」するために言ったのだということでした。
大船警察署の刑事も何度か私のところへ調べに来ました。いろいろ調べたあげく、「女の子に変なことをしたことはなかったのか?」とか「本当に女の子の後をつけたりしたことはなかったのか?」などと聞き、さらに、「うーん、こうして話してみると、ノイローゼにもおかしくも見えないがなぁ」とか「おれ、この仕事をして二十何年になるが、こんなことは初めてだ」と言って顔を赤くして笑っていました。
市民のみなさん、新日鉄が警察を通して私へのひどい中傷を振りまいていたことはほとんど間違いのない事実です。しかも私の写真まで使って。市民のみなさん、みなさんの中にはこの事実を知っている方が多くいることでしょう。
市民のみなさん、このあまりにも下劣で悪質な会社の犯罪行為が許されていいものでしょうか。また、その犯罪行為を押し隠そうとする警察、人権擁護委員会などの行為が許されていいものでしょうか。
良心ある市民のみなさん、どうか、こうした中傷があなた方に伝えられていた事実を教えてくださいますよう、心からお願い致します。連絡先
鎌倉市大船〇─〇〇(〇〇様方)
沢 舘 衛
8月25日、チラシができあがった。
8月26日と27日の大船地区の新聞に一万枚以上折り込んだ。印刷代よりも折り込み料のほうが高くつくのにはびっくりした。会社でも何人かに手渡した。
一通の手紙も来なかった。もっともそのような手紙が投函されたとしても、私の手元に無事届くとは思っていなかったが。
私は町を歩いていても、チラシをまいたことが少しも気にならず、忘れていることが多かった。
ところが、家主の婆が、私がチラシに家主の名を入れたのが悪いといってかんかんに怒った。
私がこの家に引っ越して来てから、ここの家主も全く公式にはまったように、数日後にはすごく陰気な目で私を見るようになった。そして理由を見つけては私を追い出そうとかかった。テレビの音がうるさいとか、ラジオの音がうるさいと言って。しかし隣の部屋の若い男が、趣味の悪い音楽をがんがん鳴らしても、それには一切文句を言わなかった。婆がそっと階段を上って来て、音を出しているのが私ではなく、隣の男だとわかると何も言わず、またそっと降りて行った。
私が家主の了承も得ないで、チラシに家主の名を入れたのも、ふだんからそういう家主の態度を面白くなく思っていたからであった。
8月の末、家主の婆がやって来て私の部屋の入り口に立ち、いつものように始めは処女のごとく、次第にものすごい毒舌になっていった。
「5日までに出なさいよ。出なかったら荷物をおっぽり出して鍵をかけるから。あんたにはもうどんなことをしても何とも思わないから。あんたは精神分裂症でしょう‥‥。こんなチラシをまいて何するのよ、事実を教えてもらって何するのよ。この近所の人たち、これ読んで、何のことを言っているのか、さっぱりわからないと言っているよ」
「これを読んで、何のことかわからないのはばかですよ」
私も負けないで言い返した。
「あんたは何というか‥‥、本当に東北人‥‥、暗くて‥‥」
婆は思いきり顔を暗くしかめ、両手を胸のありでモヤモヤ動かし、適当な言葉を探しているようだった。
「いや、私は明るいですよ。相手次第ですよ。相手が暗く出れば私も暗く出ますよ」
部屋を探し、あちこちのアパートを訪ねたが、どこでも断られた。たとえ空いている部屋があっても断られた。西山というところでは、話がまとまり、手付金として二千円払ったが、後でその金を倍にして私に返し、他を探してくれと言った。不動産屋を通してやっと見つかったのは、一か月以上たった10月に入ってからであった。
追い立てられていた私は、10月8日(日曜日)までには必ず出るからと家主に言ってあった。が、見つかった部屋は9日でなければ空かない。私は家主に一日だけ延ばしてほしいと頼んだが、聞き入れてもらえなかった。荷物だけでも一晩置いてくれないかと頼んだら、初めそれもだめだと言っていたが、二百円で置いてやると言った。この夜、私は近くの旅館に泊まった。
旅館から会社に出勤した。事情を話すと、みんなあきれていた。社長は、これから会社のトラックで荷物を運んでしまえ、と言って運転手まで出してくれた。
引っ越してから二日後、前の家主に手紙を書いた。
秋も深まってきました。柿も色づいてきました。秋になると、いつも故郷の東北を思い出します。帰れる故郷ではありませんが。
そちらにおりました頃は、安い部屋代のうえ、何といっていいかわからないような、人間味あふれた御待遇を受け、本当に本当にありがとうございました。感謝の念でいっぱいであります。
私あての手紙など、そちらへ舞い込むようなことがありましたら、下記へ出直すよう、お言いつけくださいますようお願いいたします。昭和47年10月
昭和47年(1972年)
引っ越した部屋には、9日の夜、一晩泊まり、10日、11日は、会社の旅行で日光へ行ってきた。参加したくはなかったが、これからのことを考えると、参加しておいたほうが良いだろうと考えた。この旅行の二日間、私は会話らしい会話をしなかった。でも私なりに楽しい旅行だった。
9月1日、日本民主法律家協会というところを訪ねてみた。書類に埋もれた狭い部屋で、三、四人の若い事務員が働いていた。チラシ数枚と原稿を持って行った。原稿は後で必要なとき借りるといって返された。事実の調査と訴訟までを頼んだ。事務員は、「協会ではそんなことはしていないが、今度の会議に出してみる」と答えた。
それから一か月以上もの間、彼らと交渉したが、何の進展もなしに終ってしまった。忘れたとか何とか言って、会議にはとうとう提出されなかった。
「敵」は事務局の段階で私の問題を潰そうとしているようだった。「敵」という表現を使ったのは、この頃には、警察だけでなく、他の何かも動いているように感じられていたからである。日本国の警察がやることにしては、あまりにも愚劣で糞くさい。
民主法律家協会を訪ねて行くと、吉岡という眼鏡をかけた事務員は終始、ニタニタしていて話にならなかった。電話をすると途中で切った。
10月3日、別の革新的な弁護士の団体である、自由法曹団(東京合同法律事務所)を訪ねた。田中富男という弁護士が私の話を聞いてくれた。持って行ったチラシを読み終ると、彼は落ち着きをなくし、逃げ腰になった。
「これはあまりにも抽象的だ。いつ誰がどこで何をしたのか、はっきりしていなければここでもどうすることもできない。事実を調査してから持って来なさいよ」
「私個人では調査できないから、こちらへ来たんです。事実はこの原稿に書いてあるんですけど」
そう言って私は原稿を彼の前に出した。彼は、その原稿(400枚)は長くて読めないと言った。それで大事なところを短くまとめて提出することにした。私はそれからいろいろ話を聞いてもらいたかった。しかし彼は、
「そうしなさいよ、ね、そうしなさいよ」
と言って立ち上がった。ちょうどその時、彼に電話がかかってきた。私は帰ろうかと思ったが、まだ挨拶をしていなかったので、彼の電話が終るのを待った。電話のあと彼の態度が一変した。私をはねつけるような態度が改まった。静かな調子で丁寧に私の挨拶にこたえた。
私は自分の問題で、あちこち訪ねるため、ひんぱんに会社を休んだ。会社の空気はどんどん悪化していった。それまでの私ならとっくにやめていたであろう。室田(仮名)という若い男が、「敵」の手先に成り下がって、会社でさんざん下劣なことを言いふらしているようだった。
社長は途中、おかしくなったりしたが、私の味方になってくれようとする気配も感じられた。自由法曹団を訪ねた日の夜遅く、社長が私の住まいを訪ねて来ていろいろ話をした。
二週間後、再び自由法曹団を訪ねた。原稿を短くまとめたものを持って行った。約束も取らずに出かけたので、田中弁護士はいなかった。受付の女にその原稿を渡してすぐに帰った。三日後、電話をした。
「このまえ、受付の女の子に原稿をまとめたのを置いてきたんですけど」
「ああ、何か来ていたね」
彼は力のない暗い調子で答えた。
「それで直接お会いしたいんですけど」
「まだあれを読んでいないんですよ。このところずっとたてこんでいて‥‥、少し読む時間をもらえますかね‥‥、目を通してから会ったほうがいいでしょう?」
「ええ」
彼は今にも電話を切りそうな気配がした。私はあわててたずねた。
「どれくらい?」
「十日ほど」
低い、冷たい声で彼は答えた。私も思わず低い声でたずねた。
「そんなにかかりますか?」
「出張に出かけるんですよ。四、五日ね」
「はぁ、どうも」
彼がそれを読み終ったら、彼のほうから連絡してくれるかもしれないと思い、私は待っていた、しかし一か月近くたっても何もなかった。私のほうから電話した。弁護士の調子は明るかった。望みがあるのかな!
私は胸をおどらせた。だが後になってわかった。それは私の問題の取扱い方を決めてしまったことからくる気安さ、無関心の軽さであった。11月17日の午後4時に会うことにした。
当日、約束の時刻の5分前に事務所に着いた。
「田中はまだ帰っていません」
受付の女が下を向いたまま答えた。彼女はなぜかそわそわしていた。
応接室(広間)には、テーブルとソファが何組か置かれていた。私は入り口の近くに、受付の女に背を向けるようにして腰を下ろした。テーブルの上にあった、共産党が出した何かのパンフレットを手に取ってみたが、それはすぐにやめ、持って来ていた読みかけの小説(ドストェフスキー「悪霊」)を読み始めた。
しばらくして、受付の女が、その部屋にいた客に茶を配った。私にだけは配らなかった。私はそれには気がつかないふりをして本を読み続けた。こうして一時間が過ぎた。外は暗くなってきた。私は落ちついて本を読んでいた。何時間でも待つつもりだった。
事務所に出入りする弁護士らしい者たちが入り口のところで話すのが、途切れ途切れ、聞こえてきた。
「来ている?」
「逃げ出したんじゃないか」
「まさかそんなこともないだろう」
「ワッハッハッハ!」
さらに30分が過ぎた、若い男が音もなくやって来て私の右後ろに立っていた。それから男は私の向かい側へ、すーっと移動し、腰を下ろした。その間、少しの音も立てなかった。ぞっとした。私は本から目を離さなかった。一分ほどすると、男は音もなく立ち去った。男が去ってまもなく、田中弁護士が、どこか外から急いで帰って来たというように、あわただしく私のところへやって来て、遅くなった理由を並べたてた。彼は二階へ上がって行った。私は本をしまいこみ、服装を整えた。すると、私の左後方で、
「ふふ」
と笑うのが聞こえてきた。それは、私のすぐ後からここを訪ねた40歳位の男女の二人連れだった。この二人は、弁護士に相談に来た他の客とは少し様子が違っていた。
やがて弁護士が降りて来た。
「これを自由法曹団に持ってきて、どうしてほしかったの?
裁判など考えているの?」
彼は気の抜けた調子で、初歩に戻ったようなことを聞いた。さらに、
「自由法曹団としても相談してみたけど、この問題は取り上げるのはむずかしい。自由法曹団では、全国で起こった人権問題を取り上げ、調査するだけの力はまだない」
そう説明し、
「自由法曹団がこの問題を取り上げられないことはわかる?」
と私に念を押した。
「はっきり言うけど、自由法曹団は私の問題から逃げているとしか思えません。相手も大きいし‥‥」
「いや、大きいのは少しも困らない」
彼はそう答え、ただ、私の「問題の性質」が困るというのだった。それは私も認めた。なにしろ、私の問題は、下劣で醜悪きわまるものなのだから。また彼は言った。
「あんたは人を頼りにし過ぎる。自分でやりなさいよ。自分で事実をつかんでから来なさいよ。あんたは人を責め過ぎるけど、あんたにも原因はあるんじゃないの?」
どれくらい時間がたったろう、受付の女が二階へ消えた。代りに弁護士らしい男たちが六、七人、どやどやと降りて来た。しばらくの間、彼らは隅の方でがやがや騒音を立てていたが、すぐに静まり返った。私はすぐに彼らの存在を忘れてしまった。私の眼中にあるのは目の前の田中弁護士だけだった。
「自由法曹団が取り上げてくれないなら、田中さんが個人でやってくれませんか」
「責任持てない」
そう言った彼は、もう立ち上がっていた。
「私が個人で誰かに事実を教えてくれと頼んでも、誰も教えてくれませんよ。このような機関がちょっと力を省いて調べれば、証拠はすぐに出てくるんですよ」
「それはできない」
「どうしてできないんですか」
「もう答えられない」
そう言うと彼は私を残し、二階へ上がって行った。私は10秒ほどそのままじっと座っていた。このときになって、初めて私はまわりから注がれている視線を感じた。私はゆっくりと立ち上がった。
「最低だな」
低く言い残し、そこを出た。
この時から五か月後、再び訪ねた。田中弁護士の、前記の言動は、私の問題の性格、仕組を知ったうえでのものである。それなら、それだけでも聞き出したかった。どこから、どんなことを聞かされ、押え込まれたのかを。
田中弁護士は、
「何もつかんでいない」と答え、
「両親は健在か? ‥‥兄弟は?
‥‥両親と一緒に生活することは考えられない? ‥‥そう?
では心を強く持って生きるんだね。どこへ行っても、これを取り上げてもらえないということは、今の制度では、この問題は無理だということなんですね。過去のことは忘れてしまいなさいよ。いつまでもそのことにしがみついていると、あんた自身、不幸になりますよ」
私が何か言いかけると、彼は、
「あ、ぼくはこれから仕事があるので、ではこれで」
そう言って、右手をちょっと上げ、また私を残したまま立ち去った。二、三分しかたっていなかった。
昭和47年(1972年)
以前から考えていたことなのだが、新聞に折り込んだチラシを、新日鉄の社長と、釜石製鉄所長に郵送した。それぞれに短い手紙を添えて。
同封したチラシで、私の言っていることが根拠のないことでしたら、公の場で(私に秘密にではなく)私を責めてください。
昭和47年10月24日
沢 舘 衛
新日本製鉄株式会社社長 殿
同封したチラシで私の言っていることが根拠のないことでしたら、公の場で私を責めてください。私に秘密でこのような策を弄するとは、あまりにも卑怯です。返事がなければ、事実はあったものと受けとります。
昭和47年10月24日
沢 舘 衛
新日本製鉄株式会社 釜石製鉄所所長 殿
もちろん返事はなかった。ただ、釜石製鉄所の誰かが、いなかの家を訪ね、父に、「会社は何もしていない」と答えたという。どうして私に直接返事をしないのだろう。
人権擁護委員を名誉毀損で告訴したところ、不起訴処分になったので、検察審査会に審査を請求していた。結果が出るのは来年の1月ごろになると聞いていた。それまでまだ間があった。私はそのチラシを検察審査会に参考書類として提出した。
それから4か月後(審査を申し立ててから八か月後)の3月1日、検察審査会より通知があった。
昭和48年(1973年)
横浜検審日記第23号
昭和48年2月27日
横浜検察審査会長 和 田 正審査申立人 沢舘 衛 殿
議決の要旨通知について
昭和47年7月3日申立にかかる左記被疑者に対する名誉毀損被疑事件につき、なされた検察官の不起訴処分の当否に関する審査事件については、かねて当検察審査会において審査中のところ昭和48年2月27日左記のとおり議決がありましたから、その要旨を通知いたします。
記
一、被疑者の氏名、住所、職業及び年齢
鎌倉市長谷〇〇〇
和田 金五郎(当75年)
住所不明
山ノ井 秀雄(不明)一、議決の要旨
議決の趣旨及び議決の理由は別紙のとおり。(別紙)
議決の趣旨本件不起訴処分は相当である。
議決の理由
本件不起訴記録を精査し、慎重に審査した結果
一、本件被疑事実中、右被疑者両名が昭和46年6月公然事実を摘示して申立人の名誉を毀損したという事実については、昭和47年5月28日告訴されているが、右告訴は親告罪の告訴期間経過後の告訴であるため、告訴の効力がないとの検察官の裁定をくつがえすに足る証拠がない。
二、本件被疑事実中、右被疑者和田金五郎が昭和47年3月18日公然事実を摘示して申立て人の名誉を毀損したという事実については、検察官のなした嫌疑不十分との裁定をくつがえすに足る証拠が発見できない。
よって、前記趣旨のとおり議決する。
こんなことは予想していたものの、通知を見てあきれた。
翌日の3月2日、もう少し詳しく知るために検察審査会を訪ねた。
第一項の「告訴期間経過後の告訴である」というのはともかく、第二項の「嫌疑不十分」というのが、どうしても納得できなかった。それに、会長の顔も見たかった。
「会長はここにはいない」といって、いつもの職員が出た。彼と20分ほど話したが、結果としては何も知ることができなかった。彼は「検察審査会法」とやらを取り出し、その第44条を私に示した。それによると、審査員は会議の模様とか各委員の意見を漏らすことはできないというのだった。
「私がこちらへ提出した書類を見たら、日本語を理解できて、正常な頭を持った人間ならば、あのような判断は下さないと思いますけどね。まさか審査会が警察や会社に言いくるめられたとは思いたくないですけどね」
そう私が言うと、職員は少したじろぎ、
「そんなことあんた、第26条に、審査会はこれを公開しないとあるんですよ。ですから警察だとか、他の第三者が介入するという言葉は考えてもらわないと困りますよ。ちゃんと45条だってありますよ。検察審査員に対し、不正な請託をしたものは一年以下の懲役又は二万円以下の罰金に処する。そういうこと自体において、あんた、全然受け付けられないんですよ」
「でも、審査会を取り締まる側が、反対の方向へ行っていたら、どうにもならないですからねぇ」
そう言って私は笑った。彼も笑った。
検察審査会を出た私は、今度は検察庁へ向かった。斎藤典男検事に会うためだった。しかし、行ってみると、斎藤検事は最近、新潟地検長岡支部へ転勤したということだった。私にそう説明してくれた職員は、
「しかも、支部長としてだよ」
とても信じられないといった調子で言った。
私は検事の転勤先の所在地を聞いて帰り、手紙で疑問点をただした。
私、鎌倉市人権擁護委員会へ人権相談に行き、全くお話にならないようなひどいことを言われ、47年5月、横浜地検へ人権擁護委員二名を名誉毀損で告訴しました。それを担当したのがあなたでした。
7月1日、不起訴処分の通知を受けました。
7月3日、検審へ申立てをしました。
今年(48年)の3月1日、検審より不起訴処分相当の通知がありました。
この件について、これ以上どうあがいても、どうにもならないことは私自身よく知っていますが、それにしても納得できないことがあるので、この手紙であなたに質問します。
一、47年3月、私が不起訴処分になった理由を聞きにあなたのところを訪ねたら、あなたの代りに若い男が出て来て、「不起訴処分になった理由は教えられないことになっている」と言って私をかえしました。刑事訴訟法第261条には、「検察官は、告訴、告発又は請求のあった事件について、公訴を提起しない処分をした場合において、告訴人、告発人又は請求人の請求があるときは、速やかに告訴人、告発人又は請求人にその理由を告げなければならない」とあります。だのに「教えられない」とは一体何でしょう。
先日、3月2日、横浜地検を訪ね、私に「教えられない」と言った若い男に会わせてくれるよう頼みましたが、刑事事務課の職員らは、「彼は検事の手足として動いただけだから」彼には責任がない、というようなことを言って会わせてくれませんでした。それであなたに質問します。二、「教えられない」と言われた同日、不審に思って再びあなたを訪ねたら、また若い男が出て来て、今度は、「大きいところしか教えられないことになっている」と言って、人権擁護委員が私にあのようなことを言ったのは、「罵倒するためではなく、激励するために言ったのだ」と言いました。
ところがこの3月、検審からの通知で知ったのですが、あなたは、私には「罵倒」ではなく「激励」だと言っておきながら、検審へは「嫌疑不十分」だと伝えたそうです。どうして私と検審へそれぞれ異なった理由を告げたのでしょうか。三、人権擁護委員が激励するために、あのようなことを私に「言った」のだと、あなたが私に伝えた以上、あなたは私が訴えた人権擁護委員の言動を認めてのことでしょう。それがどうして「嫌疑不十分」になるのでしょうか。
四、47年6月5日、告訴の件であなたに出頭を求められ、出頭したところ、「女の子に変なことをしなかったのか」と、あなたに聞かれました。どうしてあのようなことを私に聞いたのでしょうか。何か言葉を発する以上、そのようなことを言わせるための意識が働いているはずです。
以下は、その日の日記からの写しです。
6月5日 月曜日 雨のち曇
横浜地方検察庁へ出頭。
1時5分前に検察庁へ着いた。待合室へ通された。数人待っていた。最初に私が呼び出された。504号室。いかめしい調子で、まるで被告訴人を調べるような調子で聞き取りが行なわれた。検事もまた、
「女の子に変なことをしなかったのか」と聞いた。
そんな問には答えるのさえ口が汚れるような気がしたが、
「何もしていませんよ」と答えた。
調書が彼のわきにいた若い男によって書き上げられた。手紙でらちがあかないようでしたら、直接私がそちらへ出かけます。
それから、これは余計なことかもしれませんが、同封したチラシを去年の秋、一万枚以上新聞に折り込み、また、新日鉄の社長と同釜石製鉄所長にも送り、「同封したチラシで私が言っていることが根拠のないことでしたら、公の場で私を責めてください。私に秘密でこのような策を弄するとはあまりにも卑怯です。返事がなければ事実はあったものと受けとります」と言ってやりましたが、何の返事もありません。昭和48年3月11日
沢 舘 衛
斎藤 典男 殿
二週間以上して、さらに、
斎藤様、どうして私の問に答えてくださらないのでしょうか。答えられないほど無責任なことをしたのでしょうか。失礼ですが、私には、あなたのとった措置は、ふざけてやったものとしか受けとれません。
3月11日に出した私の手紙は届いていることと思います。郵政省のやることに間違いはないでしょうから。
手紙で答えることができないようでしたら、あなたの都合の良い日を指定してください。私がそちらへ出かけます。
昭和48年3月26日
沢 舘 衛
斎藤 典男 殿
これから三週間しても、何の返事もなかった。最後に私ははがきを書いた。
斎藤様、私の質問に答えないつもりでしょうか。それは、法的に手続きを経てなされた質問でないから、検察官のあなたが、いちいちそんな質問に答える必要はないかもしれません。が、あのような質問を受けて黙っていられるほど、人間は卑屈になれるものでしょうか。いつものことながら、人間という生き物には、ほとほと感心させられます。
昭和48年(1973年)
3月17日、土曜日、鎌倉市人権擁護委員会の相談日になっていたので出かけた。
人権擁護委員を告訴したところ、嫌疑不十分で不起訴処分になったが、人権擁護委員会は委員の言った言葉を否定したのかどうかを確かめたかった。
相談室のドアをノックしてすぐにドアを明け、内部にいる人たちをながめまわしながら、ずかずか入って行った。市役所の職員があわて、なかば恐れたように私の方に近づいて来た。私はその職員にたずねた。
「会長さんはいますか?」
「え、誰?」
「会長」
「いますけど、今ある問題で話し中だから」
そう言って彼は私に、部屋の外で待つように言った。
しばらくして、中にいた何人かの客がぞろぞろ出て行った。私が呼び入れられた。職員はひどくおずおずしていた。私は少しばかり貫禄のある男二人の前へ行き、
「会長さんは?」
そう言って二人を見くらべた。左側の男が、
「はい、わたし‥‥」
と答えた。私は彼の前に座った。まわりにいた人たちが、
「前にも来られた」とか、「和田さんと話していた」などと口をはさんだ。すると会長が言った。
「高橋さんとでしょ‥‥、最近は高橋さんと‥‥」
「ええ、高橋さんとも話しました」
「高橋さんが心配していた人だよ」会長が言った。「でも一応話を聞いておいて‥‥」
私は彼にチラシを渡し、人権擁護委員を告訴したところ、不起訴処分になったが、人権擁護委員会は事実を否定したのか、と聞いた。
私はこの会長との会話をテープにとっておく必要があると感じ、途中からカセットレコーダーをそっと操作し、会話を録音した。以下はその要約である。まず会長の言葉から。
「人権擁護委員会へは、検察庁からも、どこからも何とも言ってきていませんよ」
「何も言われていなければ、こんなこと言うはずはありませんよ」
「私はその場にいなかったからわからないが、和田さんや山ノ井さんがこんなことを言ったとは思えない」
「実際に言われているんです」
「もし言ったとすれば、和田さんや山ノ井さんに、そんなふうに言われるようなことを、あなたがおっしゃったから、それで和田さんや山ノ井さんが‥‥」
「いや、私、こんなことを連続的に言われて、びっくりして、何も言えませんでしたよ」
「いや、それは二度目か三度目に来られたときでしょう?」
「二度目です」
「ではその第一回目に来たとき、お話になられた内容によるんではないですか」
「一回目に来たときは、ただ、前の会社をひどい目にあってやめ、その後行く先々でもひどい目にあうということを話し、調べてくれるよう頼んだんです」
「とにかく、新日鉄だとか、警察から連絡があったからじゃないかと推測されるのは違いますね。そういうところからは何とも言ってきていませんよ」
「私、一回目に来て、二回目までは一か月の間があったんです。二回目に来るときには、私はもうそのようなことを言われることを予想してきたんです。これまでの経験から。そしたら、予想通りのことを言われましたからね」
会長は七秒間ほど黙り込み、私を見つめていた。
「ああ、そうですか、あなたはそういうふうに言われることを予想してたんですか」
それから彼は、
「新日鉄が何の必要があって、あなたにそんなことをするのか?」とか「警察だって、いろんな事件があって忙しいんだから、あなた一人のことでそんなに動くはずはないですよ」
などと言った。それから彼は私にたずねた。
「家へはずっと帰っていないの?」
「一度だけ帰りました。去年の春」
「春!」
会長はその一言に身を乗り出し、飛びついてきた。
会長の氏名は常盤温也といった。
斉藤検事から何の返事もないのをみて、今度は検察審査会へ手紙を書いた。それには検事へ書き送った手紙の全部の写しも入れた。
私は昭和47年7月、鎌倉市人権擁護委員二名を、名誉毀損で告訴したところ、不起訴処分になったので、そちらへ審査を申し立てました。ところが今年の3月、そちらより「不起訴処分は相当である」という通知を受けました。以下は、この件を担当した検事へ、納得できない点を質問した手紙です。検事は私の件を担当した後、新潟地検へ転勤したそうです。
(検事への手紙の写し一 ── 省略)
(検事への手紙の写し二 ── 省略)
(検事へのはがきの写し ── 省略)
会長の和田正及び当時の審査員のみなさん、検察官のとった措置がふざけてやったものだとすると、そのふざけた措置を支持した検審の議決は一体どんな意味を持つのでしょうか。私の愚かな頭では察しがつきかねます。昭和48年5月5日
沢 舘
横浜検審会長 和 田 正
他審査員一同殿
昭和48年(1973年)
前年の夏から働いている中山電機では、苦しみの連続だった。屈辱、怒り。それでも社長は私の能力を認めてくれ、班長として一つの班を私にまかせてくてた。
一方、室田という若い男が「敵」の手先になっておどっていた。会社内でさんざんばかげたことを言いふらし、私の一挙一動に目を光らせていた。
2月、3月と春近くなると、最後の一押しとばかり、陰うつな攻撃は激しくなった。身に危険を感ずるほどになった。いつ気違いに仕立て上げられるかわからなかった。
2月21日、水曜日、会社を無断で休んでいると、昼11時頃、社長がやって来た。私が社長に話したいことがあると言うと、社長は、「どうせ話すなら、見晴らしのいいところがいいだろう」そう言って、逗子までドライブし、海がぐるり見渡せる丘の上の公園へ私を連れて行った。
「例の問題ですけど、いつまでも放っておくと、悪化するだけですから、ここで一か月か二か月、会社を休ませていただいて、やるところまでやろうと思う。それに会社で、ある一部の人間の様子を見ていると、いつ陥れられるかわかりませんから」
私がそう言うと社長は、
「気の済むまでやってみたらいい」と言い、「相手が汚い手を使ってきているなら、君も汚い手を使っていいんだ。金でも色仕掛けでもいい、正攻法でやっていてはだめだ」
12時半過ぎまで話した。風が冷たく寒かった。帰り、由比ヶ浜でラーメンを食べた。そのまま社長の車で会社へ出た。作業場へ入って行くと、みんな明るく笑っていた。
この会社の社員には、「正」と「悪」の二つの力が、目まぐるしく働くようだった。「悪」の力が下劣なことを言いふらすと、「正」の力がそれを打ち消す。それで社員の態度はコロコロ変化した。彼らは自分自身の目というものを持っていないようであった。
「正」の力を行使しているのが誰なのか、何の組織なのか、私にはわからなかった。
「正」の力が優勢になると、「悪」の手先の室田はしゅんとなり、弱々しく顔を赤らめていた。
社長は時々室田と同調した。また社長のところに、ある男が時々訪ねて来た。その度に私に対する社長の態度が悪化した。
この会社では、各班の班長が毎朝集まって仕事の打合せをした。私が発言する番がくると、みんな異様に目を輝かせた。私に「異常」を見出そうとするかのように。当然私はぎこちなくなる。
2月24日、とうとう私の怒りが爆発した。打合せ会議でみんなの報告が終るのを待って私は口をきった。
「私個人のことですけど、一か月か二か月、会社を休ませてもらいたい。最近、会社にいても身に危険を感じてだめなんです」
みんな黙り込んだ。室田は顔をゆがめた。社長は目をしばたかせながら言った。
「それはいいが、いつから?」
「早いほどいいです。来週からでも」
社長は、それは困ると言い、せめてあと一週間待ってくれと言った。
私は会社を長期間休むことはしなかった。そのかわり、遅刻、早退、欠勤は数えきれなかった。朝も、定時に出勤するために無理に起きることはしなかった。寝不足だと思うときは、また眠り、自然に目が覚めてから出勤した。睡眠さえ十分にとっていれば、会社のどんな異様な空気にも耐えられたから。
この会社に、岩間さんという、私より十歳近く年上の婦人が働いていた。独身だった。彼女は40歳近かったが、心は少女のようだった。若い頃、親切にしてもらった男性が忘れられないという。その男性はすでに結婚しているが、今でもたまに文通しているという。社員の半分は婦人だった。彼女は他の婦人たちにくらべ、俗っぽさはなかった。彼女は私の本当の姿を見抜き、私を信じてくれようとしていた。
2月17日、土曜日、仕事が終り、手を洗いながら彼女にたずねた。
「岩間さん、バレーに関心ありますか?」
「踊りの?」
「ええ」
彼女は興味があるとは言わなかった。
「見に行くんですか」
「ええ、関心あるなら一緒に行きませんか」
「いつですか」
「7月‥‥夏‥‥行くんなら、切符買ってきてやりますよ」
彼女ははっきりした返事はせずに言った。
「じゃ、一緒に帰りましょう」
一緒に帰り、大船駅前の西友で買物をした。別れぎわ、明日の日曜日、私が鎌倉の彼女の家を訪ね、近くの瑞泉寺へ梅の花を見に行き、それから東京へ一緒に切符を買いに出かけようということになった。
翌日は雨だった。東京へ出かけるのは中止した。午後になって雨があがったので、瑞泉寺へ梅を見に出かけた。
翌日の月曜日、会社へ出て行くと、私が岩間さんの家へ行ったことがみんなに知れわたっていた。異様な雰囲気だった。
次週の土曜日(2月24日)、彼女の家のカーテンレールを取り付けてやるために、会社の帰り、そのまま彼女のところへ行った。レールを取り付け、夕食をごちそうになり、話し込んでいるうちに遅くなり、彼女の家に泊まることになった。別々の部屋で寝た。翌日の日曜日は、油壺の水族館や、城ケ島を訪ねた。
こうして数か月が過ぎた。
朝の打合せ会議で、彼らの数人が私の力になってくれようとしているのを感じた。彼らは、会議の席で私が「問題」を提起するのを期待していた。
4月末、会議の終りに私は「問題」を持ち出した。
「みんなのところへ、ケイサツから私のことで、いろんなことを言ってきていると思うけど、その事実を教えてくれないかな。事実さえつかめれば会社とケイサツを相手にたたかえるんだけど、今、証拠をつかんでいないので、手を出せないでいる」
彼らのある者は深刻な顔をし、またある者は眉を八の字に寄せて黙っていた。この機会を逃したら、もう決して教えてもらえないだろうことを知りながら、私はこの沈黙に耐えきれず、
「今でなくてもいい」と言った。
数日後の5月2日、もう一度「問題」にふれるつもりで、会議の始めに私は、
「打合せが終ったら、私個人のことで話があるから」
と言っておいた。それにもかかわらず、打合せが終ると、みんなそそくさと解散した。
私はその場にじっとしていた。激しい怒りがこみ上げてきた。私はもう一度みんなを召集させた。だが彼らは、「何も知らない」と答えた。
社長は、なかば私を信じながら、私の問題に社員らが協力するのを妨害し、外部に対しては私をこき下ろしているように感じられた。
岩間さんも私と話をすることもなくなっていた。以前、彼女をバレーに誘っていたが、私は自分の分一枚だけ買った。しかし、彼女の態度が変化したからといって、自分の分だけ買ったことに私は責任を感じていた。
ある日、まわりに誰もいないのを見て彼女に話しかけた。
「バレーに一緒に行くことにしていたけど、私の分だけ買いましたから‥‥、そのわけは説明しなくてもいいでしょう?」
すると彼女は力なく答えた。
「わたしのほうが悪いのかもしれない」
だがすぐに激しい口調で言った。
「社長が悪いのよ! 社長が一番悪いのよ!」
私は胸の中で『そんなことは言われなくてもわかっているよ』と答えた。
5月31日、木曜日、午後から会社へ出た。会社の様子が一変していた。またケイサツがくだらないことを言いふらしたのだろう。私は一人のおやじさんにたずねた。
「昼時間、私のことでずいぶんばかげた話が出たでしょう」
彼はうつむいて何も答えなかった。
その他にも面白くないことがあり、翌日から十日間、無断で会社を休んだ。欠勤五日目に社長に手紙を書いた。
少しばかり考え事がありますので、今週いっぱい休ませていただきます。平凡な頭でいくら考えても、らちがあかないのはわかりすぎるくらいわかっていますが、それでも考えようとする凡人の悲しさ。
昭和48年(1973年)
休んでいる間に、横浜弁護士会の人権擁護委員会を訪ねた。
6月6日、チラシと、もう少し具体的に記述したものを持って行った。受付に申し出、待っていると五十歳位の職員がやって来た。彼は私をエレベーターで相談室へ案内した。大きな部屋の真中にテーブルが一つあった。少し隅に寄ったところに事務机があり、その上には六法全書などがのっていた。
彼は私の渡したチラシを見ると、
「ああ、これかぁ」
ぞんざいに言って、左手に持っていたチラシを右手の甲で叩いた。一応読み終ると、彼は私が事実をつかんでいないことを責め始めた。そして、
「弁護士は捜査権を持っていない。それにそんな予算もない。弁護士には捜査する権限はないんだ。あえて捜査すると、それは違法行為になり、弁護士という職を失うことになるんだ。弁護士というのは、それをやめてしまうと、もう他に何もできないんだ」
彼はまた、私の学歴、職歴を問いただした。前の会社での仕事は事務系か技術系かと聞き、技術系だと答えると、今度は技術者か、工員かと聞いた。まるでそれによって私への対応の仕方を決めようとでもするように。やがて彼は、
「あなただけが全能ではないんだ!」
と、話をとんでもないところへ持っていった。それが私の相談している問題とどんな関係があるのか?
もし私が自分を全能だと考えていれば、それで会社の犯罪は帳消しになるのか?
「自分だけが正しくて、他の者はみな排斥する」。これは前の会社で作業長に言われ、その後、行く先々で同じことを言われてきた。
「私、どこへ行っても同じことを言われますけど、それを読んだだけでそう思いますか?」
「いや、そんなことじゃなく」
彼はすぐに話題を変えた。たしかに私には、人がばかに見えてくることがよくある。だがそれはその人がばかなことをするからで、何もしない人をばかに見ることはない。
彼はまた、ケイサツの行為を弁護し、
「警察は犯罪防止のために、いろいろ捜査する義務がある」と言い、さらに、小学校の社会科の先生が教室で言うようなことを言った。
「強制わいせつしたとかすれば」
という言葉まで飛び出した。『こいつもか!』と思った。
彼は、私がなぜこの問題にいつまでも取り組んでいるのかを理解できないようであった。
「放っておいても、もうこれからやっていくうえで、何も支障はないでしょう?」
しかし、私がこれまで受けてき、これからも受けるであろう精神的苦痛、経済的損失、狂わされた一生、台なしにされた青春、これらはどうなるのか。
だが、放っておいても、これからやっていくうえで支障はない、と彼に言わせた根拠は何であろう?
彼は、私の提出した書類を委員長に見せ、後で私に電話で連絡すると言った。
しかし、二週間たっても連絡はなかった。私のほうで黙っていたら、何十年待っても返事はないように思われた。6月18日、私は直接出かけた。受付で女に告げた。
「こちらから連絡するということでしたが、連絡がないので直接来ました」
しばらくすると、この前の職員が、副委員長だという人を連れてきた。職員はなぜかあわてていた。
「私は、何もあなたを呼び出すとは言いませんでしたよ。ただ、委員長にこれを渡しておくというだけにとどめておいたはずですけど」と言った。
副委員長は私とあまり年の違わない男性だった。彼は私を相談室へ通した。彼は私が提出しておいた書類をまだ読んでいないようであった。彼はテーブルにかがみ込み、それをむずかしい顔をして読んでいた。時々大きな咳払いをした。私はテーブルの下で、カセットレコーダーをいつでもまわせるように用意した。そのとき、部屋の外で電話のベルが鳴った。副委員長はしばらく無反応だった。ベルは鳴り続いた。やがて彼は出て行った。私は不思議に思った。彼への電話なら、どうしてこの部屋にある電話にかけなかったのだろう?
電話から帰って来た彼は、明るい顔をしていた。また読みだしたが、今度はゆったりと椅子にそり返り、足を組み合わせ、その足をリズミカルに動かしていた。顔には微かな笑いすら浮かんでいた。
「弁護士会に何をしてもらいたいんですか?」
読み終ると、彼はすべてを御破算にしたようなことを聞いた。
「事実を調査してもらいたいんですけど」
「事実を調査してもらいたいと言ってもね、弁護士会の人権擁護委員会というところは、どういう事実があるから、こういうふうにしてほしいということでないとね‥‥」
「ここに書いてあることを裏付けるような事実を探してもらいたいんですけど‥‥、私個人の力では、これまでやってきたんですけど無理なんです」
「中山電機は長いんですね」
「去年の8月からですから、まだ一年になっていません」
「今、中山電機では、何かやられていますか」
「今はずいぶん直りました。私があちこち運動して歩いたせいか。でも時々、ずいぶんひどいことが、ケイサツか、どこからか言われるらしいんです。みんなの様子が、がらりと変ることがありますから」
「あなたの話を聞いていると、どういうことを、どう取り上げてほしいのか、はっきりしないですけどねぇ‥‥、ただ、なんか新日鉄のほうから嫌がらせをやられているらしい、調べてくれというのではねぇ‥‥、弁護士会の人権擁護委員会というのは、警察や検察庁のように強制捜査権はないですからねぇ‥‥」
彼はまた、私に「人権擁護委員会とは別のところへも行っているようですね」と言い、「日本民主法律家協会」はどうして知った?「自由法曹団」はどうして知った?
「弁護士会の人権擁護委員会」はどうして知った?
と根掘り葉掘りたずねた。それは、ばかにそんなことがわかるはずはないのだが、と言わんばかりだった。
「あなたの話を聞いていると、雲をつかむようでねぇ」ややしばらくの沈黙の後、彼は言った。「うちの人権擁護委員会としても、ここに書いてあることだけではねぇ」
「今、私が働いている会社では、みんな口止めされていますよ。そこへ私が行って教えてくれと言っても誰も教えてくれませんよ。口止めしている側に匹敵する位の力でもって聞き出せば教えてくれるかもしれませんよ」
「横浜弁護士会は、警察や検察庁のような力はありませんよ。これだけあんた、いろんなところへ行っても調べてもらえないものを、ここの弁護士会へ持ってきてもむずかしいですよ」
「むずかしい、むずかしくないっていうより‥‥、ただ事実さえつかめれば、あとは裁判でたたかえますから」
「だから、それをつかむのがむずかしいんですよ」
「この問題がむずかしいということじゃなく、事実をつかむのがむずかしいということですか」
「うん、だって、『こちらは人権擁護委員会だが、おまえさんのほうでこんなことを言ったそうじゃないの』と照会して、『はい、そういうことを言いました』と言う人はいませんからね」
「ええ、ケイサツに聞いたって教えないでしょう。でも普通一般の人に聞いたら教えてくれるかもしれませんよ」
「だけどね、横浜弁護士会の人権擁護委員会だといって、その辺を歩いている人をつかまえて、こういうことを言われたんじゃないか、ああいうことを言われたんじゃないか、ということはできませんからね。これは横浜弁護士会で取り上げるのはむずかしいですよ」
「別にむずかしいことはないでしょう」
「どうしてあんたはそんなことを言えますか」
「だって、証拠は町中に振りまかれていますからね‥‥、実際にこんなことがやられているとすると、ただごとじゃないですよね、それをただ、事実をつかむのがめんどうだということで、こちらで断るんですか」
「めんどうだということではなく、つかめないということなんですよ」
「やってみないうちに、もうわかりますか」
「家へ帰って両親に相談してみたらどうです?」
「弁護士会に相談して解決しないことを、親に相談して解決すると思いますか」
副委員長と私が話していると、さっきの職員が入ってきて私たちのわきに座った。
「ま、様子を見てね‥‥」副委員長は言った。「せっかく、だんだん、そういう噂をされることも減ってきているということなんだから‥‥、今までのことは大変だったというもののね‥‥、それよりは、どうしようもないことについては、やはりがまんするよりほかにしょうがないですよね」
「どうしようもないことだとは思いませんけどねぇ」
「それはあんたのほうでそう思っているだけのことで、私らの判断としては、ちょっとむずかしいということなんですよ‥‥、それをあなたの考えで、むずかしくないはずだからやれやれと言ったって、実際やらされるほうはむずかしいんだ。そんなことは世の中では成り立たないんですよ」
「じゃ、証人を連れて来たら、何とかしてくれますか」
「うん、それはまぁ、その証人があった段階で、取り上げるかどうか検討してねぇ‥‥、そういうことで、これ(書類)は一応お持ち帰りいただいて、様子をみられて‥‥ね」
そこへ、私たちの話を聞いていた職員が口を入れた。
「これまでのところは、どこもあなたから自発的にやめたんでしょう?
新日鉄もやめることはなかったんでしょう?
とめられたんでしょう?」
だが、彼はそのようなことを、どこから知り得たのだろう?
「私はもう、そんな会社にはいたくもなかったですからね」
「‥‥でも会社がそんなことをするかなぁ。岩手と神奈川では、だいぶ離れているでしょう?
あなたが就職した先がすぐにわかるんですかねぇ」
「だからケイサツがやっていることは間違いないですよ」
「ケイサツにそんな暇はないと思うけどなぁ」
「暇がないと言ったってね、会社から、私が今にも犯罪を犯しそうな人間のように言われたらどうします!」
「言われたってさ」副委員長が引きとった。「今まで長い間、あなたは何もしていないわけですから‥‥、ケイサツが追っかけていたということはあるかもわかんないですけどねぇ‥‥、実際問題としては考えられませんからねぇ」
「じゃ、どうして人権擁護委員が、ここの書いてあるようなことを言ったり、劇団の団長がこんなことを言ったり、ケイサツが私の家へ電話したりするんです?」
「だからさ、そういうことをやっているのかもわかんない、向こうはね。向こうはそんなことをやっているんだろう。ただあなたのほうで‥‥」
「ただごとじゃないでしょう、やっているとしたら。それを『やっているだろう』なんてどういうことですか!」
「だからさ、そういうことはあなたのほうで気にしないほうがいいんじゃないかという気がしますね」
「人権を傷つけられ、どんな目にあっても、『気にするな』ということにしたら、人権擁護委員会なんて必要ないですよね‥‥、ひどい目にあった人を救うのが人権擁護委員会でしょう? それを、相談に来た人に『気にするな』とは一体‥‥、聞いておかしいんですけどね」
「だからさ、私らのほうでは、そう言うほかに言いようがないからさ」
「どうしてですか?
押え込まれているんですか、どこかに」
「あなたのほうでそう考えれば仕方がないですけどねぇ」
「法律の専門家が」と、職員が口を入れた。「法律の専門家ができないと言っているんだ。あんたは専門家じゃないんだ。人権侵害を医者のところへ持って行って、そんなことはできないと言われて‥‥、おかど違いですよ」
職員は意味のわからないことを言いだした。さらに彼は言った。
「横浜弁護士会だけが、特別な、常識を超越したような権限は持っていないんだ!」
「そんなこと私考えてませんよ」
「考えていないと言ったって、あなたは何か期待しているでしょう。やれと言うには、そういう期待をするからやれと言うのであって‥‥、そういう常識を無視するわけにはいきませんよ。するかしないかは専門家が決めるんだ。あんたは素人なんだ。釈迦に説法ですよ。あんたの言っていることはみな主観ですよ。何も根拠がない。ケイサツがあなたの写真入りの手配書を配っているというならそれをここへ持って来なさいよ。それを見た人を連れて来なさいよ」
そこへ副委員長が静かに口を入れた。
「だからさ、もう少し様子を見てさ‥‥、ゆっくり話しましょう」
「あなたの言うことに」と、また職員が言った。「あなたの言うことに誰もすぐに添わなければならないということはないんだ!
あなたに弁護士が添わなければ、あなたは不愉快でしょう。その不愉快を押し売りする必要はないんだ。今日はこれで引きとってください」
昭和48年(1973年)
横浜弁護士会へ提出した書類と、そこでの会話を文書化したものをコピーし、職場で配る一方、劇団ちろりんと、SK電器(ちろりん退団後、すぐに就職した会社)へも郵送した。職場では、おばさんの一人から「事実」をつかみかけたが失敗に終った。
それから間もない7月20日、父から手紙がきた。
衛君、毎日旱天続きで三十度を降ることのない毎日です。君よりは何の消息もないので何をどうして居られることか、さっぱり判らない。去る7月16日午後4時頃、神奈川県大船警察署の福岡という例の人より電話があり、宏子(私の姉)が受けたのですが。話しているうちに宏子の顔色が変ってきた。俺が替わったが次の様な内容です。
君は写真入りのプリントを方々に郵送した。それは劇団チロリンにも郵送されたという。これはどういう意図のもとに出されたものか。事件が起きたりしては困るといったようなことで、(劇団が)警察に相談に行ったという。衛君のプリントは何も脅迫している様なものではないけれど、このまま過ごしているうちに何か事件でも起こしたりすると大変だから、どなたか上京してよく話し合って病院にでもかけてみたらどうでしょう。私も衛さんにその後会っておりません。
以上です。それで俺は言った。衛は安全靴を送れと言って来たので送った。それをはいて今働いていると思います。職場の人達らしい方々と一緒に写した写真も来ております。レクリエーションらしいと言ったら、福岡さんは驚いたように、ハハー、自活しているんですね、と言った。それで俺は、明日にも手紙を書いてこのことは衛に知らせておきますと言って電話を切った。福岡氏の言うこともさることながら、この俺が上京しても話しは平行線を辿るのみで何の進展も見ることはない。君は釜鉄やその他を相手に訴訟を起こそうとして、その証拠となるものを探して年月を過ごしている。正義を叫んで一生を送ったって得るものは、君は正しかったと話題に上っても、それはどれ程の価値がありましょう。君の考えている様に正義には皆味方するものでもなし、訴訟したって、闘争資金がない人には日弁連で貸してくれるそうだが、それは確実に勝訴するのでなければ絶対に出さない。
弁護団を編成し、原告も又あらゆる資料を備え、中々むずかしい婆のスモン訴訟も最早二年になる。漸く口頭弁論に入ったばかり。向こう何年かかるものか判らない。その中には原告患者二人死んで終った。口頭弁論には婆も一度法廷に立たなければならぬと思うが、それは大変です。代人は認められない。臨床尋問にきりかえるかもしれない。7月17日
幸 三
衛 君達者でばかり暮らせよ。
翌々日、私は返事を書いた。
劇団やSK電器へ郵送したものと同じものを送ります。劇団などへは、このほかに便箋一枚に、「これをお読みになり、お心当たりのある方は御協力をお願いします。お礼はいたします」と書き添えました。
手紙によると、劇団がケイサツへ行ったそうですが、これは面白い発見です。(劇団へ送った「横浜弁護士会へ提出した書類」のコピーには、劇団を屈辱に耐えきれずにやめたこと。退団後、団長に電話で罵倒されたことも書いておいた)。
刑事が今頃また病院を持ち出したようですが、これはどたん場へ追い込まれたケイサツの悪あがきです。気にしないでください。
先日、渋谷に今度新しくできたNHKホールへ、コンサートを聴きに行ったのですが、電車の中でも、渋谷の町を歩いていても、若い女が私を見ると吹き出します。そんなとき、私はやり場のない怒りに思わずこぶしを握りしめます。大船の町にいては、道ですれちがう女や、職場のおばさんたちまで、下劣な光をおびた目で私の性器のあたりを見つめます。一体どんなことが言いふらされていると思います? もちろん、そんなことを言いふらしているやつらを私は嘲笑い、軽蔑し、憐れんでいますが、それにしても、この会社とケイサツの悪ふざけは度が過ぎているとは思いませんか。
(以下省略)昭和48年7月22日
衛
両親・家族へ
父から手紙を受け取った翌日、大船警察署の福岡刑事と署長の二人に手紙(質問状)を書いた。
福岡刑事への質問状。
質 問 状
昭和48年7月20日、父からの手紙で知ったのですが、あなたはまた私の家へ電話をし、私を病院へかけてみるようすすめたということですが、一体どうしたことでしょう。
過去になんら後ろ暗いものを持たず、さらに現在、どんな立派な市民でも、とうていおよびもつかないほど模範的な生活をしている私に、どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。いたずらにしては少しひどすぎはしないでしょうか。
一人のまじめな市民をつかまえ、病院へ行ってみてもらえなどというのは、どう考えても異常としか考えられません。また、あなたにどんな権利があってそのようなことを言うのでしょうか。そのような常識では考えられないことを言うには、それなりのただごとならぬ理由があるはずです。どうかそれらを細大もらさず私に伝えてください。
それらを伝えるときは、電話ではなく、手紙でお願いします。電話での会話はテープにでもとらない限り、消えてしまいますから。なお、手紙にはあなたの署名、捺印をお忘れしないようお願いします。昭和48年7月21日
沢 舘 衛
大船警察署 福岡 殿
質 問 状
昭和47年4月から5月にかけて、大船警察署の福岡と名乗る刑事が数回にわたって私のところを訪ね、いろいろ調べたあげく、同年4月26日、午前8時頃、私の家(岩手)へ電話をし、私のことをいろいろたずね、そのうえ、私が病気のようだから病院へ連れて行ってみてもらったほうがよいと言ったそうである。
さらに昭和48年7月16日、午後4時頃、再び私の家へ電話をして、私を病院へかけてみたらどうでしょう、と言ったという。これらは福岡氏個人としての行為でしょうか。それとも大船警察署としての行為でしょうか。もし、大船警察署としての行為でしたら、そのようなことをする理由をお聞かせください。
返事は手紙でお願いします。昭和48年7月21日
沢 舘 衛
大船警察署長 殿
一週間しても返事はなかった。私は催促の手紙を書いた。
福岡様、できるだけ早く私の質問にお答えしてくださらないでしょうか。
もしあなたが私に対し、なんら後ろ暗いこと(早くいえば犯罪につながる行為)をしていなければ、私の質問に対し、何の躊躇もなく答えることができるはずです。昭和48年7月26日
沢 舘 衛
大船警察署 福岡 殿
それでも返事はなかった。私はさらに、福岡氏にははがき、署長には催促状を送った。
福岡様、私の質問に書面で答えるのが嫌なようでしたら、直接会って話し合いましょう。あなたの都合のよい日時、場所を指定してください。
昭和48年7月29日
催 促 状
昭和48年7月21日、質問状を出し、福岡氏の、私に対するばかげた干渉は福岡氏個人としての行為なのか、それとも大船警察署としての行為なのかと質問しておきましたが、こんな簡単な質問にどうしてすぐ答えてくださらないのでしょうか。答えられないような後ろ暗いことでもあるのでしょうか。
昭和48年8月2日
沢 舘 衛
大船警察署長 殿
少し気が向いたので、家へも手紙を書いた。
前の手紙で、福岡刑事と署長へ出した質問状の写しを送りましたが、彼らからは何の返事もありません。その後、手紙、はがきと送りましたが、それでもうんともすうとも言ってきません。一体彼らは、これまで私にさんざん下劣で卑怯なことをしておきながら、いざという場になって私に背を向けて逃げようというのでしょうか。全くあきれはてたやつらです。
おそらく直接出かけるほかに方法はないでしょうが、あいつらのことですから、何をやりだすかわかったものではありません。もし私が一人で出かけたら、彼らはみんなで言い合わせ、私の様子がおかしいということで、いきなり病院へ送られ、そこで病気と診断され、実際に本物の病人にされてしまうのではないかと思ったりもします。
父は、「正義を叫んで一生送ったって得るものは、君は正しかったと話題に上るだけ。それはどれ程の価値がありましょう」と言っていますが、それでは一体どのように一生をすごせというのですか? 会社やケイサツが言いふらしているように、「クルクルパーでドロボーで色気違いだ」とみんなに笑われながら一生をすごせというのですか、これまで私が受けてきた苦しみは、私だから耐えてきたものの、普通の人間ならとっくに気が狂っていたでしょう。
私が、会社やケイサツの言うとおりの人間になっていれば、何ごともなく済んだでしょう。彼らは私を取り押え、社会の笑いものにし、それなりのところへ放り込んでしまう。ところがそうはいかなかった。そこでもう、例の「何がなんでも」という調子になった。
今後、彼ら(ケイサツ)は、「悪事」がうまくいかないのに、べそをかきながらでも私を陥れようとし、そのためにはどんなに見え透いた破廉恥なことでもするでしょう。そしてそれは、彼らの「悪事」が成功するまで続けられるでしょう。なぜなら、ケイサツの「悪事」が「正しかった」ということにならなければ、現在ケイサツのやっている行為は何とも説明がつかないではありませんか。
ケイサツが悪事をはたらいていたとなったら、それこそケイサツの威厳を根底からくつがえすことになるでしょう。だからこそ、自由法曹団の弁護士も「今の制度ではその問題は無理だ」と言ったのでしょう。
しかし、この問題をこのままにしておくのは何の解決にもなりません。それは、これからの私の精神的苦痛、破滅につながるものです。会社、ケイサツが、これ以上「悪事」をはたらくのを防ぐには、今のうちに、今後、彼らがそんなことをできないように、その出鼻をくじいておくよりほかに方法はありません。私のことを、「沢舘はああだ、こうだ」と最初に言いだしたのは、民青(同盟)の仲間たちでした。私が民青も党もやめて、ちゃんとしていると、彼らにはそれが面白くない。どうしても私を、彼らが考えたとおりの人間にしてしまおうとする。それが職場、さらに会社の上にまで達し、とうとう私は会社をやめた。私がやめた後、会社は自分らの過ちに気付いていながら、私に、自分らの言いふらしたとおりの人間になってもらおうと悪あがきを始め、ケイサツを動かした。そうしてケイサツが今、何がなんでも私に、ケイサツが言いふらしたとおりの人間になってもらおうとあがいている。家へ電話するのもその現れの一つです。
もし私が死んで天国へ行ったなら(間違っても地獄へ落ちることはありません)、ケイサツは今度は、天国においても私が、自分らの言いふらしたとおりの人間になってもらおうとして、天国の神々に私のことをさんざん告げ口することでしょう。
ケイサツが家へ電話して、私を病院へかけてみるようすすめるには、家族に「なるほど」と思わせるような「事実」をいっぱい並べたてたのではないでしょうか。理由もなく病気のようだなどと言うことはないでしょう。それらを、どんなことでもかまいませんから、ありのまま教えてくれませんか。もちろん、どんなことかぐらいはわかっていますが。
それから会社が私の女性関係云々といっているのは、ほかでもない、私が女にもて、そのうえ、女に潔白なのを、会社の者どもが大人げなくもねたんで言いふらしたことです。
次はある本から、面白く感じたところを書き抜いたものです。気が向いたら読んでください。一度などは受勲の上申さえしてもらったくらいです。あなたはほんとうになさらないかもしれませんが、ほんとうのことです。あなたにはうそをつきません。ところがどうでしょう、それを何もかも邪魔する悪い連中が現れたのです。あえて申しますが、わたしは教育のない愚かな人間かもしれないけれど、心にはほかのだれと比べてみても変わったところはありません。そこでヴァーリンカ、その悪人がわたしにどんなことをしたか知っていますか? そいつらのしたことは、口にするのもけがらわしいほどです。なぜそんなことをしたかというと、ほかでもない、わたしがつつましい人間だからです! わたしがおとなしい人のいい男だからです! わたしという人間が、彼らのお気に召さなかった。そこで、何もかもがわたしに当たってくるようになったのです。そもそものおこりは、『マカール・アレクセェヴィチ、きみはあぁだ、こうだ』というのがはじまりで、それから『もうマカール・アレクセェヴィチに頼まなくてもいいよ』ということになり、とどのつまりは、『そりゃもうマカール・アレクセェヴィチに決まっているさ!』と片づけられてしまったのです、こういう始末になってしまったのですよ。なにもかもマカール・アレクセェヴィチのせいにして、マカール・アレクセェヴィチを役所じゅうのことわざにまでしてしまいました。わたしをことわざにして、悪口の種にしただけではあきたらず、わたしの靴、制服、髪の毛、わたしの顔かたち、何から何までとやかくいうようになりました。なにもかもが彼らのお気に召さない、いっさいがっさいつくり直さなけりゃならない、といったわけです。なにしろ、これはいつの昔からか、毎日のように繰り返されているので、わたしは馴れてしまいました。それというのも、わたしがなんにでも馴れるからです、おとなしい人間だからです、つまらない人間だからです。が、それにしても、どうしてこんな目にあうのでしょう、わたしがだれかに悪いことでもしたのでしょうか? だれかの官等でも横どりしたのでしょうか? 賞与を余分にねだったのでしょうか? 何か人を中傷するような真似でもしたのでしょうか? いやいや、もしあなたがそんなことをお考えになったら、罪というものです! なんの、わたしにそんなことができるものですか?
(河出書房新社 ドストェフスキー全集「貧しき人々」より)
8月8日、水曜日の早朝、、部屋のドアへ手紙が差し込まれた。父からのものだった。3日の消印である。届くのに5日もかかるだろうか。
前略 何を語ろうと手紙を書き送ろうと本当にされじまいなので余り手紙を出さないことにしているが、どうしても書かずにいられない。手紙を出せば幾等かでも胸の中が楽になる。君から見るとばからしく思われる。いつも郵便受を誰よりも先に開けて、君よりの通信を発見すれば婆や宏子にも見せることなく隠してしまう。見せると苦をさせるから。苦は俺一人で沢山だ。婆はやむを得ないが、宏子も近頃病身で寝て居る程でもないけれど通院加療、針灸をこととしている。今日、市民病院へ行くので子供等をあずかることになっている。今日、朝から雷雨がはげしい。婆は、いつまでも衛をそのままにしておかないで、どうしても一度俺に行って見てもらいたいと嘆願される。行くことはいいが、行ってどうするか。二人で病院へ行って診てもらってほしい。婆の本心はそれだ。俺は行って君を説得できればそれもよかろう、診てもらって異常なしとなればこれに増したることはないが、この手紙を読んだら、おかしくて開いた口がしまらないことと思われる。婆の願いに負けておれが行ったところで、この前の二の舞で終ること必定である。
而し君より書状、質問状などを出し、きつく回答を求めているが、質問状、既に即決戦状の様だ。その回答はどの様な形で来るであろうか、君は警察をとっちめて窮地に押し込めてやる気でいるようだが、そう簡単に権力が兜を脱ぐものであろうか。君は世の一切の者が愚かしき者等と決めつけ、自分のみ無欠の人間と思いこんでいる、それ自体も変だと思う。かたくなに自分を定規に世間を推し計ろうとせず、ここで一寸踏みとどまって、何辺も何辺も考え抜いたことであろうとも、もう一度考え直してみることも敢えて無駄でないと思う。君は親どもは何を馬鹿なよまい事をしているかと思うでしょう。俺達から見れば君のやること、考え方にもいささか腑におちない点もないでもない。それはどっちも不完全な人間だから。
それからこれ程自分はまじめな善人であるのに、世間の人は何故協力してくれないと思うであろう。真実を吐露し写真入りで協力を求めたが、期待した程の収穫はあったでしょうか。君にしてみれば重大な問題だが、君が思うほど世間は関心を持っていないでしょう。君の知っている人の多い故郷でも様子をきく人もない。うたかたの様に消散してしまった様だ。実際の話は大船の市民はどの様な意味の嘲笑だかは知らない。それは殆ど若い女性であり、職場の人も女性らしい。そしてこともあろうに君の性器のあたりを注目しているとか、聴いてこっちはあきれて物が言えない。君にしてみれば、これが事実なんだ。何があきれるんだと言うであろう。而しそれにしても考えさせる事もある。見ているなぁと感じても、そっちは何を見ているか知れない。原因は君自身にそれと直結する何かあってすぐ連想して、先方はそう見なくても君のほうで見られていると思いこむのと違うかな、普通はそう解釈すると思う。何辺も言うことだが、ありもしないことを会社が大がかりな国家の通信網を動員して急速に君を嘲笑させなければならない理由はわからない。警察は捜査と逮捕ならわかるが、性器の付近を見させたり、笑いものにしたり、恥をかかせたりするとは。会社に依頼されたとしても、それを否定してやるべき警察はその手助けをして、彼らの奸策に君を陥れようとしている。その証拠を得たい為に砕心していると思うが、会社としてもそうしなければならぬ訳はなんであろう。その辺は全然わからない。電車の中で大声で君を笑う女性等から聞く外術がない。警察からどんなことを聞かされたかを、だがそれも口どめされているかな。而し口どめされているとしたら、公衆の面前で大声で笑いだすはずもない。どう考えたらわかるのか益々わからなくなった。遠藤馬吉さんに会ったとき君の事を聞いたら、労務課、動力課とよく調べてくれた。会社で中傷なんてした事実はない。絵の勉強するために退職したので解雇ではない。無口で内向性であった。党活動はなし。これは責任ある掛長の話だという。
君は、警察は悪あがきをし始めた、断末魔のあえぎをしているとでも思っているのか? それとも窮地に追い込んだように考えている様だが、そう簡単に国家権力が兜を脱ぐものでしょうか。俺には只苦をするのみで考える能力もなにも枯渇してしまった。思うまいと思ってもどうしてこれを根から忘れ去ることができよう。婆も俺も懊脳として楽しまないので自然と無言になっている。こう言うても君はそれも信じまい、だから書きたくもないペンがそのままこうして運ばれる。中傷が事実で、国家権力が応援しているとなったら、国外に去ってもつきまとうであろう。あと俺は何も言わない、只何処に居ても達者でのみ居るよう、まことの心から祈っている。8月3日
私は会社に行くのをやめ、返事を書きにかかった。
いつもですが、父の手紙を見ていると、まるで鎌倉市人権擁護委員会の会長の話を聞いているような気がします。それほどよく似ています。
母が本気で私の病院行きを願っているようですが、それを聞いては、ただもう、鳥肌がたつような寒気と恐ろしさを感じます。
私の質問状について父は、「その回答はどの様な形で来るであろうか」と言っていますが、ケイサツは決して堂々と質問に答えることはしないでしょう。(これは悪いことをしている者の常です)。そうして彼らはこれまで以上に下劣な策動を強めるだけでしょう。
ケイサツは「悪あがき」はしていますが、「断末魔のあえぎ」はしていません。探偵も言っているように、新日鉄にしろケイサツにしろ「化け物」です。そう簡単にいくものではありません。
「自分のみ無欠の人間と思い込んでいる」、これは以前から父が手紙の中で強調していることですが、私はそのようなことを意識したことはありません。私はこれまで、ただ自分の良心に従って行動してきたまでです。それにしてもどうして父にだけでなく、行く先々で同じことを言われるのでしょう。「自分だけが正しくて他のものはみな排斥する」、これは私が釜鉄にいた頃作業長に言われたことです。会社をやめて、その後、行く先々で同じことを言われてきました。とくにそれを力説するのが鎌倉市人権擁護委員会です。さらにこのまえ、横浜弁護士会へ出かけたら、職員が、私の持って行ったチラシを読み終ると、いきなり「あなただけが全能ではないんだ!」と言いだしました。私が、「行く先々で同じことを言われますけど、それを読んだだけでそう思いますか」と聞くと、職員は「いや、そんなことじゃなく」とすぐ話を変えました。
しかし言われてみると、確かに私は、普通の人間に比べたら、ずっと無欠の人間だと思います。そして現在、とくにそれを自覚しています。(何しろ、人間のみにくさをいやというほど見せつけられてきましたから)。しかし、それが悪いことでしょうか? そのことをどうしてみんなで騒ぎたてる必要があるのでしょう。私は子供の頃、やっと物心がついた頃から、「どうしてみんなはこんなに意地悪で、悪い人ばかりなのだろう?」といつもいつも不思議に思っていました。それは教習所時代まで続きました。会社へ入り、「混沌とした過度期」(それは苦しいものでした)を経て、やっと、「自分はみんなとは少し違う」ことを意識するようになりました。
私の性格の特殊な発展段階の過度期が、ちょうど会社(釜鉄)にいた頃にあたりました。会社が異常な攻撃をかけてくるのも、おそらくこのことと無関係ではないでしょう。
また父は、私が「自分を定規にして」ものを見るといつも言っていますが、だれにせよ、自分を定規にしてものごとを考えるのは、ごく自然であたりまえのことではないでしょうか。
私がチラシをまいたのは、協力を求めたかったためではありません。(といっても、もしかしたらという期待も全然なかったわけではありませんが)。ただ暴露したかったのです。あのチラシをまいた数日後、例の刑事が道で私をつかまえ、「一通の手紙でもあったのか」とあざわらいました。
私を笑っているのは女ばかりではありません。それと同じくらい男にも笑われます。それはほとんど学生らしい男です。ただ男に笑われるより、女に笑われるのが気にさわるだけです。以前、私を見て笑う者たちをにらむと、ますます吹き出したものです。が、今では、笑うほうも極力それを押えているようです。ただ、がまんできなくなって吹き出すといった感じです。
不思議に思うのですが、父からの前の手紙と、今度の手紙の違いは一体どうしたものでしょう。私には百八十度の転換としか考えられません。その変化は、私が送った手紙によるものばかりでしょうか。前の父からの手紙、そしてそれへの私の返事、そこから今度の父の手紙が生まれるものでしょうか?
父からの今度の手紙は8月8日の早朝、(たぶん6時頃)私がまだ夢うつつでいたとき、ドアのすきまへ押し込まれました。家主が持って来たのでしょう。おそらく家主のところへは前日、あるいはそれ以前に来ていたものでしょう。
封を切る前に、内容は大体察しがついていました。そしてそのとおりでした。
(中略)
会社で、ある者は本当に私に同情して、今にも何もかも話してくれそうになることもあります。そうかと思うと、何かえたいの知れない力で引っぱって行かれてしまい、私にひどくあたってきます。近寄る(信ずる)、離れる(疑う)、この繰り返しです。これはこれからも果てしなく続くでしょう。
誰が何と言おうと、私は自分が本当に人間らしい心を持った人間だと思っています。だからこそ、これまでのことも耐えてこられたのです。この地球上で誰一人にも信じてもらえず、笑われても、「おれは誰よりも人間らしい心を持っている」という考えが、どんなに私を勇気づけてくれることでしょう。
母は私に病院へ行けというのですか。母は自分の子(もしそう考えているなら)を病人に仕立て上げてまで安心したいのですか。私はそんな必要は夢にも思いません。雲一つない晴天の日に、雨ガッパを着、長靴をはいて雨傘をさす必要を感ずる人はいないでしょう。もしそんな人間がいたら、それこそ気違いで病人です。
ケイサツや会社、それに人権擁護委員会にとり、私を病人にしてしまうのが最も簡単で、最も完全な、この問題の解決方法なのです。
父は私の手紙の最も肝心な点を避けています。そして話は、「会社がどうしてそんなことをするのか」、「どうして笑われるのか」といった振り出しに戻っています。(人権擁護委員会、弁護士らと話していても、いつもそこへ帰っていきますが)。それらの理由を知りたかったら、私が送った原稿、それに、私のこれまでの手紙を冷静になって読み返してみてください。私には父が無理に、自分で自分の目をふさいでいるように思えてなりません。
そのように、家族を「異常な状態」に陥れるには、どんな力が働いているのでしょう。
父は、私の前の手紙を見て、まず感じたのは、「とんでもないことをしてくれたな!」ということでしょう。私があちこちへ出した手紙を見たら、普通の人は、私を向こう見ずの人間だと驚き、果ては攻撃的性格だ、異常性格だなどと結論するでしょう。
現在私が経験していることは、すでに釜鉄にいた頃経験したものです。会社にいた頃、私がじっとしていると、どこまでもばか者扱い、変人扱い、うすのろ扱いされ、しかもそれが際限なく、止まるところを知らない。あまりの苦しさに、私がちょっと身動きすると、今度はそれが悪いといって攻撃してくる。どっちにしても私には立つ瀬がなかった。どうせ苦しむなら、立ち上がって苦しもうと私は決心した。そうして、とうとう怒りが爆発し、会社をやめるにいたったのです。会社はその時の私の行為だけを取り上げ、「異常だ」と結論するでしょうが、そのかげには蓄積された10年間の怒りがあったのです。
私が今度あちこちへ「常識外れ」の手紙を出したのにしたって、それ以外に方法はなかったのです。「クルクルパーでドロボーで色気違いだ」と笑われて生きているのは、私にとって、もはや生きていることではないのです。
「自分の面が曲がっているのに鏡を責めて何になろう」これはプーシキンの言葉だったと思いますが、私はこの言葉を思い出すたびに愉快になります。
私には、会社にしろ、ケイサツにしろ、彼らは私という「鏡」に彼ら自身のみにくい姿を映し出して騒いでいるように思えてなりません。
私の手紙を見ると、例の「問題」に走り回っているように思うでしょうが、そんなことはありません。映画、演劇、音楽会、バレーなどと、いなかにいてはテレビでしか見ることができないものを、ここでは生の舞台を楽しんでいます。このまえ、ボリショイ・バレーを観ていて思わず涙を流しました。
何か月も前に申し込んでいて、やっとこのまえ手続きを済ませ、この10月からNHK交響楽団演奏会の定期会員になることができました。これからN響の定期公演には、いつ行っても私の席があることになります。
お盆に、子供たちに花火でも買って送ろうかと思っていましたが、そちらで私の病院行きを真剣に考えているようでは、とても花火どころではありませんね。
朝から書き続けて、今、正午を過ぎました。これから書店へ出かけ、この手紙のコピーを一部とり、それから郵便局へ出かけ、それから会社へ出ます。48・8・8
昭和48年(1973年)
8月10日、大船警察署長から返事があった。一体どうしたことだろう? 警察にどんな変化が起こったのだろう。
前略 ご質問にお答えします。
一、昭和47年4月から5月にかけて、福岡刑事が数回あなたのところをお訪ねしたのは、近くに強姦事件が発生したので、その聞込み捜査のためです。もちろんお宅だけではなく、付近一帯の家へ聞込みに行っております。
二、次に、当時、岩手県のあなたの実家へ電話したのは、上記の捜査結果の確認のためです。なお、そのとき、あなたが病気のようだから病院へ入れたほうがよいと、あなたのお父さんに福岡刑事が言ったというのは、あなたに入院する必要があれば、まず、そのことを両親が考えるのが先決問題であるという意味です。
三、次に昭和48年7月16日、再び福岡刑事があなたの実家へ電話したのは、大船警察署としての行為です。
電話をした理由は、あなたが「横浜弁護士会人権擁護委員会へ提出した書類の写し」を各方面へ郵送したため、それを受け取った方が警察へ訴えて来たためです。
四、なお、ご不審の点があればいつでも警察までおいで下さい。ご説明いたします。
昭和48年8月9日
大船警察署長
沢舘 衛 殿
翌日、11日、土曜日、警察へ出かけようと電話すると、署長は出かけていないという。それで13日、月曜日に出かけた。
「署長はいますか」
受付の女に聞いた。彼女は私の名前を聞き、少し離れてところに、所内を一目で見渡せる位置に置かれた机に向かっている男のところへ行った。やがてその男の前へ通された。彼は「次長大塚」という大きな名札を胸につけていた。
「署長さんはいませんか?」
「わたしが代ってします」
私は訪ねた理由を説明した。彼は神妙に、
「はいわかっています。‥‥わかっています。‥‥はい、それもわかっています」
いちいちうなずいた。そこで私はカセットレコーダーを取り出して言った。
「あとで整理する都合がありますから、テープにとらせていただきます」
「ことわる!」
彼は言った。
「え?」
「ことわる」
「どうしてですか?」
「私が嫌だと言っているんだ」
「でも会話をテープにとっては悪いということはないでしょう?」
「わるい!」
「そんなことをしてはいけないという規則はないでしょう? あんたにそれを断る権利があるんですか」
「権利があるかだとぉ?
法律で禁じられていなくても、そんなことはいけないということは道徳で大体決まっているだろう?
法律で禁じられていないことなら何をやってもいいというのか?」
私がそうだと答えると、彼は、私には常識がないといってさんざんわめきちらした。
「テープにとられては、嫌なことは言わなければいいんです」
「なに?
嫌なことは言わなくていいだとぉ? 取調官みたいなことを言うな!
それじゃ立場があべこべじゃねぇか!」
彼は、テープにとるのはいけないが、メモをとるのならいいと言う。そこで私はたずねた。
「それじゃ、後で私のとったメモに署名してくれませんか」
「署名しろだとぉ?
署名しろだとぉ?」
彼はかんかんになって怒った。
私がメモするのを見ていた彼は、
「あ、それはだめだ、消せ」
と言った。私がおかしくなって笑うと、
「何がおかしいんだ!
おめ、からかいに来たのか? からかいに来たのならもう帰れ!
帰れよ!」
そう言って戸口を指さした。
彼は私に笑われるのがひどく気にさわるらしく、私が顔に現わさないように笑っても、彼はそれを目ざとく見つけ、「なんでわらった?」と、いちいち問いただした。
私が具体的な質問に入ろうとすると、彼は言った。
「とにかく警察はあなたには何の干渉もしていません! 就職の邪魔もしていません! それどころか、あんたとはもう縁を切りたいんだ、接触したくないんだ!」
とにかく私は質問を始めた。
問 ─ 「強姦事件が発生したので」私のところを訪ねたとあるが、どうしてこんな、いやらしい事件と私が結びつくのか?
答 ─ あんたのところだけでなく、付近一帯へ行っている。
問 ─ どうして数回(たぶん四回)にも渡って私のところへ来たのか?
答 ─ どこへも何度も足を運んでいる。
問 ─ 福岡刑事に、「女の子に変なことをしたことはなかったのか」とか「本当に女の子の後をつけたりしたことはなかったのか」と聞かれたが、どうしてこんなことを聞いたのか?
答 ─ 近所の人が訴えてきたものらしい。
問 ─ 刑事に、「うーん、こうして話してみると、ノイローゼにもおかしくも見えないがなぁ」と言われたが、どうして私がノイローゼで、おかしいと思っていたのか?
答 ─ あなたの親から聞いて知った。あんたは入院したことがあるそうじゃないか。
問 ─ 「ノイローゼにもおかしくも見えない」と言われたのは、刑事が私の親と話をする以前のことである。入院したことはない。
答 ─ あんたがビラを配ったから、おかしいんではないかと思ったんだ。
問 ─ いや、ビラを配る前に言われたことである。そのようなことを言われたことはビラにも書いてある。
答 ─ その前に、近所の人から言ってきたのだ。
問 ─ 刑事が、「おれ、この仕事をして二十何年になるが、こんなことは初めてだ」といったが、「こんなこと」とはどんなことなのか?
答 ─ みんながおかしいと言うが、そうではないことである。
問 ─ 刑事に、「君は仕事もしないで毎日ヒョロヒョロしているだろう? そうすれば、『ああ、あそこの二階にいるのはこれ(クルクルパー)でドロボーで色気違いだから気をつけろ』と言って歩くこともある」と言われたが、一体これはどういうことか?
答 ─ そんなことを言ったはずはない。
問 ─ 福岡刑事がいるなら会わせてくれないか?
答 ─ 刑事のしたことは警察としての行為だから、その必要はない。そんなことは言っていない。
問 ─ 手紙に、「捜査結果の確認のため」私の家へ電話したとあるが、「捜査結果の確認」とは何のことか?
答 ─ あんたが本当に岩手のどこそこから出てきているのか確認したのだ。
問 ─ 刑事は、私が「病気のようだから、病院へ入れたほうがよい」と父に電話したというが、「病気のようだ」というのは、誰の判断か?
答 ─ 近所の人の判断である。
(私がメモに「近所の人の判断」と書き込むと、それを見ていた大塚次長は、「それは近所の人の迷惑になるから消せ」と言ったが、私は消さなかった)。
問 ─ 47年7月、福岡刑事が再び私の実家へ電話したのは、私が「横浜弁護士会人権擁護委員会へ提出した書類の写し」を各方面へ発送したため、とあるが、書類を発送した行為がどうして病気と言えるのか?
答 ─ 書類を受け取った人が、「これは、気がおかしいんじゃないか」と、警察へ訴えてきたんだ。
問 ─ あれには事実を書き並べただけだ。(おかしいのは私ではなく、事実そのものではないか)。
大塚次長は私の質問に答えながらも、
「こんな質問をして何するんだ!」と言った。
「私、事実をつかんだら、警察を相手に人権侵害でたたかいますよ」
私は低い声で答えた。次長は真剣な顔をしていた。
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