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  第二編

     第六章 カウンセラー  

一節 (探偵事務所) (「私の半生」) (カウンセラー)   二節 (カウンセラー)   三節 (いなかへ 2)   四節 (食事に毒物?1)   五節 (神奈川県警本部)   六節 (いなかへ 3)   七節 (ある方との出会い)   八節 (いなかの親戚、知人への手紙)   九節 (法務省人権擁護局   十節 (親戚、知人との手紙の交換)   十一節   十二節 (共産党鎌倉市委員会、同鎌倉市議会議員、同神奈川県委員会人権擁護委員長)   十三節 (日弁連人権擁護委員会)

 

              一 節

  昭和48年(1973年)

 バスの中の広告から、逗子に逗子探偵事務所(仮名)というのがあるのを知り、訪ねてみた。私をつけまわし、笑いものにしている者たちの正体をつかむための調査を依頼した。しかしなかなか引き受けてもらえなかった。その後、何かある度ごとに私は探偵に資料を郵送した。大船警察署でのやりとりも報告した。その結果、探偵はやってみようという気になったらしい。8月末、彼は調査費として、とりあえず10万円用意してくれないかと言った。
 数日後、金を用意して持って行った。
 その翌日から会社の者どもの様子が硬直した。社長は会社に姿を見せなくなり、ケイサツの手先の室田は突然会社を休みだした。彼は会社をやめるそうだという噂が流れた。事務の女、井口の顔からヘラヘラ笑いが消えた。
 だがこれも三、四日しか続かなかった。まずそれは井口に現れた。彼女の顔にヘラヘラ笑いが戻った。それを見て私は、『社長が出て来ているのでは?』と思った。事務所へ行ってみると、やっぱり出て来ていた。室田も昼から出て来て、はりきって仕事を始めた。これらを見て私は、『探偵も押えられたな』と感じた。

 こうしたなかで社長は、カウンセラーだという人を会社に呼んでみんなに紹介した。そして、個人的なことでも何でもいいから、問題のある人は相談しなさいと言った。カウンセラーは月一回、月例の懇談会になっていた5日に会社に来ることになった。カウンセラーは麻生さんと言った。
 こういう小さな会社がどうしてこんなことをするのだろうと不思議に思った。社長には多分に理想主義的はところがあったが、それだけでは説明しきれないものを感じた。社長は、私がカウンセラーに私の「問題」を打ち明けるのを期待したのではないか? カウンセラーから社長にそのことが報告され、そこで社長が私に協力してくれようとしているのではないか? そういう方法をとれば、社長が自ら進んで私に協力したことにはならず、「敵」の復讐も、まともに受けずに済む。
 しかし、社長がこれまで陰でどんなことをやってきたかを感づいていた私は、それに素直に飛び込んでいく気になれなかった。

 「私の半生」の原稿は出版できる状態にまとめられていた。それに新しい経過を書き足していた。どこかで区切りをつけて出版しなければならなかった。
 ちょうど一緒に働いていた長谷川さんというおやじさんの親戚が印刷所をやっているというので、話をつけてもらい、そこで安く出版してもらうことになった。「私の半生」の最後の部分は、大船警察署での次長とのやりとりのところまでとなった。
 製本して300ページになる本を、400部で25万円という、赤字にならないだろうかと思うくらいの安さでつくってもらった。そのかわり、校正は私が自分でやった。
 安いといっても、余裕のない私には大金であった。それに探偵に10万円払ったばかりで、一度には払えなかった。金を得るため、私は会社を欠勤することもせず一生懸命働いた。
 次はその本のために書いた「はしがき」である。

 

 この本は、私のこれまでの日記、メモ、会話を録音したテープなどをもとに書かれたものである。卑劣な「力」と闘い、私の一生を破滅から救うにはこれよりほかに方法はなかった。全く恐ろしい世の中である。
 私はこれを本にするまえ、この原稿を数人の人に読んでもらった。が、誰一人として私を信じてくれなかった。あるいは、一時信じたかもしれないが、その後で、私の書いたものをくつがえすだけの特殊な力が彼らに働いたものらしい。ある者は、信じないだけではあきたらず、みにくいまねまでした。
 しかし、それでも私はこれを本にすることにした。真の人間の心を持った人がこれを読んだら、どんな中傷を伝えられようと、私を信じてくれるだろうから。

 

 私はこの本が無事に出版されようとは思っていなかった。それを出版されては困る「敵」が、徹底した妨害をするだろうから。しかし、遅れはしたものの、出版することができた。印刷所の人達は良心的だった。
 10月26日、とうとう本「私の半生」が完成した。依頼してから四か月ぶりのことだった。
 完成した本を数日がかりで、あちこちへ発送した。県知事、鎌倉市長、斉藤典男検事、横浜検察審査会、それから、むかしの友人たちに。また、この地の中学、高校及び、いなかの中学、高校の図書館あてにも送った。反応は数えるほどしかなかった。いなかの高校二校と、この地の高校一校から礼状が来た。
 むかし、私の友人に、佐々宇道さんという素朴な青年がいた。彼の結婚披露宴には、私も幹事を頼まれたりした。彼にも送ったところ、彼の夫人の名前で返事がきた。開いてみてびっくりした。彼は既にこの世にいなかった。白血病で昨年七月に亡くなったという。彼は本当にいい人だった。
 本ができてから一週間後の11月1日、中山社長に一部渡し、翌日には会社内の数人に配った。会社内の空気はどんどん良い方向へ向かった。
 5日、カウンセラーが来社し、懇談会があった。例によって私は個人的な問題は一切出さなかった。懇談会が終り、私は作業場を整理していた。そこへ社長がやって来て、本をもう一部くれと私に言った。カウンセラーに渡すという。私は社長に本を渡し、着替えをして会社を出ようとした。そのとき、カウンセラーがやって来て、少し離れたところから微かに私に頭を下げた。私も会釈した。私たちは言葉を交わさなかった。

 本を発行してから二か月後、鎌倉市人権擁護委員会と新日鉄に「私の半生」を送った。
 人権擁護委員会へは次の手紙を添えた。

 

 この本は、私のこれまでのことを書いたものです。ここに書いてあるようなことが実際にやられているとすると、全くひどい、許せない犯罪行為であり、人権侵害です。ところが、その犯罪行為を擁護しているかに見える鎌倉市人権擁護委員会の行為はどうしたものでしょうか。

 48・12・24
                    沢 舘 衛

 
鎌倉市人権擁護委員会 殿

 

 新日鉄へは、本社(社長)と釜石製鉄所(所長)へ、それぞれ次の手紙を添えた。

 

 この本は私のこれまでのことを書いたものです。あなたがたがこの本に書いてあるとおりのことをしていたのなら、またしているのなら、私と堂々と、法の前で闘おうではありませんか。

 48・12・31

 

 私は「私の半生」のはしがきで、次のように書いた。
「私はこれを本にするまえ、この原稿を数人の人に読んでもらったが、誰一人として私を信じてくれなかった。あるいは、一時、信じたかもしれないが、その後で、私の書いたものをくつがえすだけの特殊な力が彼らに働いたものらしい。ある者は、信じないだけではあきたらず、みにくいまねまでした。」
「私の半生」をあちこちへ配った後、これと同じことがやられているのを感じた。また同書の本文の中で私は、

「私がどんなに『私』を説明していっても、どこか深いところで壁のようなものにぶつかり、相手ににやりとされるのを感じてきた。それは一体なんだろう。もっとも深いところで私の人格をくつがえすような根強いものが彼らに働いているように思えてならない。それは何だろう。とにかく思いきりばかげたことにちがいない」とも書いた。

この思いきりばかげたことが言いふらされ、「私の半生」から力を失わせるどころか、人々に、それを読む気さえなくさせているのを感じた。
 人の心が見え透いてくる私には、それがどういうものかがわかってくる。それを打ち消すためには、それを言いふらしている者たちと同じレベルにまで自分を引き下げねばならなかった。それは私にとり、非常な苦痛であった。
 私は実行した。そしてそれは効果を発揮した。それは一枚の用紙の裏表に、あることを述べただけであった。
 私はこの反論のための印刷物を、「私の半生」を印刷してもらった印刷所に頼んだ。頼みに行くと、彼らの様子はすっかりひっくり返っていた。苦しかった。だが、反論の印刷物を読んだ後の彼らは、たちまち正常に戻った。
 やっぱりこんな、桁外れにくだらないことが言いふらされ、私の人格がくつがえされていたのだ! 私はあきれると同時に、不思議に思った。どうしてこんなことが、人間の社会で立派に通用するのだろう?
 この反論文をここに引用するのは苦しいし、ばかばかしいのでやめる。

「私の半生」はつくりごとで、でたらめだと言いふらされているのも感じた。
「書くだけなら、どうにでも書ける」という言葉にぶつかるようになった。
 しかし私は確信していた。書かれた文章を見て、それが真実か嘘かを直感できる種類の人間がいることを。私自身がそうだから。
 それに私は真実しか書けない。つくりごと(小説)を書こうとすると、頭の中が真っ白になり、何も浮かんでこない。

 

              二 節

  昭和49年(1974年)

 昭和49年1月7日、仕事始めの日、月例の懇談会があった。カウンセラーの麻生さんも出席した。懇談会は5時に終った。それから近くの飲食店で、希望者だけで新年会をやった。出席したのは麻生さんを含め五人だけだった。社長は来なかった。私が彼らと飲むとき、彼らの話している世界は、私の世界とは全く異質のもので、どうしてもその中に入って行けなかった。でも、この晩は麻生さんも同席していたので、何とか私も入って行ける世界が展開されていた。
 途中から若い女性社員が一人加わった。しばらくすると、男たちと彼女は別の店へ出かけた。後には私と麻生さんだけが残った。私たちは誰にも気を使わず自由に話した。

 麻生さんは、「私の半生」を読み、すぐに電話し、私に会おうと思ったという。しかし私と会うのが恐かったという。
 彼は涙まで流して感激してくれた。彼は私のことを本当に純粋だと言った。
「あれに書いてあるのはみな真実だ。真実であり、事実だからこそ読む人に訴える力は大きい。あんたと同じ目にあっている人は、他にも多くいるだろうから、あの本を出版社から出版し、社会に広く発表することは社会性があり、かなりの反響を呼ぶだろう」と言ってくれた。
「どうしてあんたのような強い人間が生まれたんだろう?」
 彼は本当に不思議そうに言った。私は、『この人はおれの本当の姿を見ている』と感じた。そして、そのような人が存在しえたことが私には驚きであった。
「これからも友人としてやっていこう」
 彼は私に握手を求めた。
 会話の中で、私が一緒に働いている婦人、岩間さんのことに触れると、彼は顔を曇らせた。彼のその表情から、岩間さんと私のことで、どういうことが言われているかを知ることができた。

 翌月(2月)の懇談会に来社した麻生さんは、懇談会の後、私と一緒に会社の近くの食堂で夕食をとった。費用は会社持ちで、結構いいものを食べた。中山社長は、よく麻生さんの食事に私を同行させた。社長は、私が麻生さんに協力を求めるのを期待したのだろう。しかし、私たちの話はいつも人生論や芸術論へ向かった。
 この日、麻生さんは酒を飲まなかった。暗い感じで話もはずまなかった。食堂を出てから、私はもっと話をしたいと思った。彼もそれを望んでいたようで、彼のほうから喫茶店に入ろうと言った。
「先生、今晩いつもと様子が違いますね」
 私は言った。
「酔ってないから」
「いえ、初めから違っていましたよ。社長に何か言われたんですか」
 普通の人なら、「いや、べつに」と答えるのだが、彼は、
「うん、言われた」
 と答えた。社長は私があまりにも会社を休んだり、遅刻したりするので困る、と言ったそうだ。だがそれは氷山の一角らしい。麻生さんは私に言った。
「何も聞いてくれるな、何かを聞かれても答えたくない。それを聞かれると、嘘を言うために苦しい思いをしなければならないから」
 それを聞いて私は『なんて素直な人なんだろう』と思った。
 私はこの頃、ある小冊子を出すために原稿を書いていた。以前親しくした岩間さんとのことで、私の想像を絶するような下劣なことが言いふらされているのを私は感じていた。それをはね返すために、また書かねばならなかった。
 だがその小冊子は、岩間さんをこのうえなく傷つけるものであった。だからここには引用しない。
 この本は次の書き出しで始まり、彼女の家に泊まったいきさつを述べ、私の女性観を述べ、さらには、私は童貞であるといったことまで書いた。

 

 Yは三十一歳である。しかし、これまでに、キスはおろか、女の子の手も握ったことがない。女にもてなかったのかというと、どうもそうでもなさそうだ。なぜなら、これまでに、数人の女がYのために涙を流しているのだから。
 ところがこのYが、めでたい世の中に生まれたおかげかどうかはよくわからないが、女たらしで、性病を持った人間で、そのあげく、色気違いで、クルクルパーだと言いふらされているらしい。

 

 印刷するにあたって、当の岩間さんの承諾も得た。もちろん最初は反対された。しかし私の強い願いを聞き入れてくれた。よく許してくれたものだと思う。
 私はその原稿を麻生さんに読んでもらった。一週間ほどした2月11日、祝日で休んでいると彼から電話があった。これから私のところへ来るという。大船駅へ向かいに出、私の住まいへ案内した。
 麻生さんの態度はすっかり悪化していた。彼は今度の小冊子を発行することに激しく反対した。それは前の「私の半生」をぶちこわすものだと言った。
 彼は私にたずねた。
「どうしてそんな目にあうんだ?」
「めでたい世の中に生まれてきたからですよ」
「めでたい世の中? てめぇが、めでてぇんじゃねぇか!」
 カウンセラーの彼から、こんな言葉を聞いて私は驚いた。
過去にどういうことがあったかはわからないが
 彼は数回そう言った。

 夜通し話し、明け方彼は帰った。駅まで私も一緒に出かけた。タクシーは来ないかなと思い、私は何度も後ろを振り返った。
「何をあちこち見回すんだ!」
 彼は、トンボみたいに自分の首をくるくる回しながら言った。
「おめぇなんか、そこへ落ちてしまえ」
 彼は私を足蹴にする仕草をした。左側を川が流れていた。
 カウンセラーはこの後、何度か来社したが、いつの頃からか来なくなった。

 2月4日、「女」と題する小冊子が完成した。この小冊子は、下劣なことを言いふらしている者たちには大きな痛手となるはずであった。だから彼らはカウンセラーを通して阻止させようとしたのではないのか。社長も反対した。

 探偵事務所に調査を依頼してから五か月以上になるのに、どうなっているのか、さっぱりわからなかった。電話で問い合わせると、いつも女の声で、「伝えておきます」とか「こちらから返事するまで待てないんですか!」と言われた。何度か出かけて行って、やっと探偵に会うことができた。
「調査の結果は最終的なものしか出さない。途中で手の内を見せるようなことは決してしない」
 彼はそう言った。しかし彼の様子から、私は望みがないの感じた。後日、電話で調査依頼を取り消し、前に払った調査費を返してくれるよう頼んだ。だが、それも返してもらえそうがなかった。返してもらうにはどうしたらいいかを調べた。裁判所から「支払命令」なるものを出してもらえることを知った。管轄の裁判所は横浜地方裁判所横須賀支部であった。
 2月15日、金曜日、会社を休んで横須賀へ出かけた。しかし私が作成していった書類には不備があり、受け付けられなかった。でも裁判所の若い職員が、嫌な顔もせずに直してくれた。その日のうちに清書して提出したかったが時間がなかった。
 翌日、土曜日の朝、また出かけた。私は裁判所の職員に、もう手がまわっているのではないかと懸念した。しかし前日にもまして彼は親切だった。

 探偵事務所は「支払命令」が送達されてから、二週間の期限内に異議を申し立てず、金も返さなかった。それで私は「仮執行宣言申立書」を準備した。これを裁判所へ提出すれば、探偵事務所は強制的に私の請求額を支払わされる。
 私はそのまえに探偵に会った。そうするまえに返してほしかった。3月10日、探偵事務所を訪ねた。彼は裁判所から送られてきた「支払命令」を前にして怒った。
「うちとしては、沢舘さんという人を理解してから調査を開始しようと思っていたんだ」
 これから一か月ほどして、「仮執行宣言申立書」を裁判所に提出した。
 後日、裁判所を通して、請求していた金額が返ってきた。しかし、心から喜べなかった。探偵に悪いことをしたようで後味が悪かった。

 私は自由法曹団(東京合同法律事務所)へも「私の半生」を送っておいた。彼らがそれらを読んだ後も、まだ私の問題を取り上げてくれないのかを確かめるため、3月8日、電話してみた。弁護士らしい男が出た。彼は私の本のことはよく知っていた。彼の話のよると、その本を読んだ田中富男弁護士は、こんなことを書かれる筋合いはないと言って怒ったそうだ。
 私が協力を要請すると、彼は答えた。
どのようにしてほしいのかわからない。また、どんな結果が出ればいいのかもわからない」

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 鎌倉市議会にも陳情書を提出し、鎌倉市で行なわれている私への人権侵害問題を取り上げてもらおうとした。しかし、私の陳情は、「軽易な陳情である」という、常任委員会の判断で取り上げられなかったという。

 

              三 節

  昭和49年(1974年)

 3月22日、両親に手紙を書いた。

 

 またお願いします。私のことで何があったのか教えてください。
 あなた方が私に隠しごとをしているのは目に見えています。もし、あなた方が私に本当のことを言わずにあの世へ行ったら、私は一生思うでしょう。
「おれの親は、おれに大きな嘘をついたまま死んでいった」と。

 

 4月1日、早朝、岩手へ発った。

 私が個人でどこへ訴えても、どこでも相手にしてくれない。まるで、出来そこないの人間のように見られる。両親らが後ろだてにならなければ、どうにもならないのを感じた。ところがその両親は、私の足を引っ張ることがあっても、私のためには働こうとはしない。家族らと話し合う必要を感じた。
 午後3時過ぎ、家に着いた。母が独りでいた。しかし親しみのこもった感情の交流は全くなかった。父が勤め先から帰って来た。父は私を見るなり、私の眼光が鋭くなっていると言って、えらく感心した。
「なにもかも鋭い、らんらんとしている! 武蔵もこんなだったにちがいない」
 両親と話した。父は私の言うような事実は何もなかったと言い、目に涙まで浮かべた。
「親がなんで子に隠しごとをするか!」
 しかし、この父が話しているのをふとやめ、下を向いて、ずるそうな、不思議な笑いを浮かべるのを私は二度見た。
 夜、両親、兄、姉夫婦、それに花巻から帰って来ていた弟らが一堂に集まり、酒を飲みながら話した。みんな、私の言うような事実はなかった、と言った。
 私はいずれ、家族何人かで鎌倉へ出かけてくれるよう頼んだ。この話になると、父の表情は異様に緊張し、じっと前方を見つめ、目をしばたかせた。母も悲しそうに下を向いた。明らかに私の問題が解決するのを喜ばない様子。姉と弟は、この問題の混みいったからくりをまだ知らないらしい。私は酔って眠ってしまった。

 翌朝、目が覚めたとき、夕べのことが思い出された。何という親だ! 私は恐ろしさと悲しさから、ふとんの中で泣いた。
 昼、姉と弟の二人と話した。彼らは私を信じてくれそう。一方私は、両親の様子を見て恐ろしくなった。他の人間はどうあれ、父と母だけは、私が真剣に心から訴えたら、心が通じ合うものと思っていた。しかし、この父母とこれ以上いくら話しても、どうにもならないのを感じた。
 私の味方になってくれる人を一人ずつ増やしていくしかない。姉は私を信じてくれている。次は姉の主人を味方にしなければならない。
 弟は夕方帰った。薄暗い部屋に独りでいた私に声をかけ、「私の半生」を持って行った。

 私は姉に、今晩、義兄と話したいと伝えた。そばで父がこの話を聞いていた。夜、姉の家で義兄の帰りを待っていると父がやって来た。別に用件があって来た様子はなかった。父はこたつに入り、時計を見ては、しきりに、「正彦は遅いな」と言った。私は父が何のためにやって来たのか知っていた。父自身、これから醜い役を演じなければならないことを苦しく思っているようであった。
「父さん、正彦さんに何か用があるの?」
 私は冷たくたずねた。姉も父に、
「家さ行ってたら?」
 と言った。父はしばらく考えていたが、帰って行った。
 義兄が帰って来たが、私たちは混みいった話はしなかった。彼は明日、会社を休むと言っていた。私は明日ゆっくり話そうと思った。この晩から帰るまでの間、私は姉の家に泊まった。あの両親と同じ屋根の下で寝泊まりするのは、私には耐えられなかった。

 4月3日、朝、私たちが起きてこたつに入っていると、父がやって来た。父は部屋の障子を開け、その場に立ったまま、冷たくすわった目を、どこか空中の一点に据え、肌で部屋の空気を観察していた。何事もなかったのを感じたのだろう、安心しきった表情でこたつに入った。
 私は父の目を凝視した。父は眼鏡の縁で、私の視線をさえぎった。それでも私が凝視していると、父は、
「なんで、君ぁ、ひとんどごそんなに見るんだ!」
 そう言って私に食ってかかった。
 母もやって来た。これも不思議な目をしていた。眼鏡をかけていたが、目はその奥へずっと沈み、暗かった。私の向かいに座って、まばたきもせずに私を見つめていた。私もじっと見つめた。が、ぞっとして目をそらした。これが母の目だろうか、親が自分の子をこんな目で見ることがあるものだろうか。私はもう決してこの母と心が溶け合うことがないのを知った。私は母に言った。
「母さん、帰って‥‥、席を外して」
 隣にいた姉が泣きだした。母は何も言わずに立ち上がり、部屋を出た。
「おらぁ、はぁ、死んでしめぇてぇ」
 母が障子の陰で泣き崩れるのが感じられた。

 父、姉、義兄としばらく話し合った。しかし、いくら話しても父の態度は固かった。何を話しても、その落ち着いた表情を変えなかった。私は父に訴えた。彼らが私の問題を放っておくのは、私を見殺しにするようなものだと。しかし父は少しも感じなかった。かえってそうなってくれることを願っているようだった。それは母からも感じられてきたことだ。全体として私は、父母が、一日も早い私の死を願っているのを感じた。
 彼らと長いこと話したが、もう、どうにもならないのを感じ、私は仰向けに寝ころんだ。一体どんな力が働き、父をこんなに変えてしまったのだろう。ふと、私は思い当たることがあり、身を起こして彼らに話した。だが父は受け付けなかった。姉は泣いてばかりいた。私はまた寝ころんだ。父と義兄は、ちょうどそのとき訪ねて来た客を相手に世間話をしていた。後になって私は、この客は、様子を偵察しに来たのではないかと思った。
 この客も帰り、しばらくして私はまた起き上がった。そして言った。
「今考えたんだども、もしかしたら、おれが以前、一緒に絵を描きに行った高校生が買収され、絵を描いたばかりでなく、何かあったということまで言わされたんではないかな? そうすれば、あの本(「女」)でおれが童貞だと書いてあることも、まるで、でたらめなものになってしまうな」
 そう言って私は正面の姉を見た。姉はあわてて顔をそらした。私はそのまま右側の父を見た。父は真空状態の顔を私の方へ突き出し、無言のまま、ブルブルッと首を横に振った。そして何か言いかけた。が、私は、
「ああ、わがっている!」
 と、父の顔の前で手を振り、また後へ倒れた。ところが、今度はさっきとは様子が違う。しーんとしている。しばらくして起き上がってみると、父は横になり、手拭いを目に押しあてて泣いていた。
 さっきまでは、私が何を言っても、「どごにそんなごど‥‥」と言って否定したり、ほくそ笑んだりしていた父が‥‥。やっぱり私について、どこからか、さんざんひどいことを聞かされ、それを信じていたのだ。父はその過ちに気がつき、泣きだしたのだ。
「宏子、このごどだったのが? このごどだったら、あんまりひでぇぞ」
 私は姉にそう言い、声をあげて泣いた。起き上がった父にも同じことをたずねた。すると父は、
「うん? なに? 高校生? だれぁそんなごどしゃべったぁ?」
 父はとぼけだした。その顔は以前の硬さをすっかり失っていたが、目はさらに邪悪な光をおびていた。さっきまでの目は、同じ邪悪でも、私を悪人だと決めてかかっている確信があった。だが、目の前の父は自分の非を知りながら、何かの魔力に打ち勝てず、その非を押し通そうとするいやらしさがあった。だが父は、恐ろしさからか、拳をぐっと握りしめ、首をガクッと落とし、
「うううっ」
 と、今にも泣き崩れそうに体を震わせた。それでもとぼけ通そうとする父に私は言った。
「父さんは今、おれに真相を言われたんで、それで泣いたんだべ?」
「何だ、おれの真相て何だ? ううん? 何だ!」
 父は私に詰め寄った。思わず私は顔をそむけた。それは、親が子に対する顔ではなかった。
 父がとぼけ、否定するのを見て、私は姉夫婦に助けを求めた。
「宏子、正彦さん、おれの一生を救ってくれ!」
 姉は私と一緒になって泣いてばかりいた。義兄は表情も変えず、私の本「私の半生」をめくっていた。『これに書いてあるのは、本当のことだったのか?』と思っているようだった。
 父は、初めの間、何かを恥じるように、姉たちから顔をそむけ、隣の部屋の畳の一点を見つめていた。姉や義兄がいつまでも何も言わないのに力を得たのか、父は彼らの方へ顔を向け、彼らを威圧した。私はこれはまずいと思い、父に言った。
「父さんの意見は聞いたし、あとは宏子や正彦さんの意見を聞きたいから‥‥」
 すると父は、
「中座しろと言うのか?」
 低い声でそう言って立ち上がった。立ち上がりざま、父は姉をものすごい目つきで睨みつけた。
 義兄は、父と同じように、「何もなかった」と言った。姉は激しく泣き出した。
 私は横になって考えた。肉親らが何者かにだまされ、私を全然間違った見方をしている。この問題がこのまま闇に葬り去られたなら、私自身、これから生きていくだけの気力があるかどうか不安だった。しかし、私は肉親たちが、自分らの間違いをさとりながらも、私を見捨てようとしているのをまのあたりに見た。私は底力のようなものが湧いてくるのを感じた。

 4月5日、午後、姉の家を出た。姉も泣き、私も泣いた。姉が3000円くれた。家には寄らずに帰った。
 4月6日の朝、大船へ帰った。アパートの部屋へ戻ったとき、
私は恐ろしい孤独感に襲われた。ウィスキーをがぶがぶ飲んだ。午後、目が覚め、鏡を見た。まるで死人のようだった。顔を洗い、渋谷のNHKホールへ出かけた。アカデミー・ロシヤ合唱団の券を買ってあった。演奏会がこんな日にぶつかったことを悲しんだ。
 レコードで聴いて、あんなに感銘を受けていた、アレクサンドル・スヴェシニコフ指揮のアカデミー・ロシヤ合唱団。だが、精神状態が状態だけに、心から楽しむことはできなかった。しかし、苦しみの中から生まれたロシヤ民謡だけに、聴いていて慰められ、力づけられた。


 あきれはてた肉親たちであるが、あきらめはつかなかった。4月20日、土曜日は鎌倉市人権擁護委員会の人権相談日であった。その場に家族を連れて来たかった。4月12日から14日までは国鉄がストライキ。15日また岩手へ出かけた。
 4月19日の夜行で、家から父、義兄、それに弟の三人と共に鎌倉へ戻った。兄は仕事が忙しいといって参加しなかった。
 4月20日、人権相談に出かけた。しかし何の進展もなかった。家族らはあまり話さなかったし、会長は「具体的事実がない」の一点張り。どうしようもない話を切り上げ、我々がその部屋を出ようとした時、父が一人残って、会長とひそひそ話をしていた。それを見た私は、『同じ穴のむじなが!』と胸の中でののしった。
 この部屋で私たちが話している間、その部屋に居合わせた市役所の若い男性職員が、私の父を軽蔑した表情で二度ほど見たのに私は気付いていた。
 この夜、みんな私の部屋に泊まった。四畳半に四人、こたつで雑魚寝であった。
 夜遅くまで話し合った。それまで私に対して扉を閉ざしていた義兄が、その扉を開き始めた。その表情も人間らしくなってきた。私は心強く思った。彼は、いったん家(岩手)へ帰り、私の兄や姉も含め、みんなでよく話し合おうと言った。

 4月21日、日曜日、夜行で岩手へ帰った。花巻駅で降り、花巻からは弟の車で大槌へ向かった、
 4月22日、月曜日、家族全員で話し合った。ところが、我々が鎌倉へ発つ前までは私の味方であった姉が、反対側へまわっていた! その変化を知った義兄は目を大きく見開き、姉をじっと見つめた。義兄の態度もあやしくなった。結局
何の進展もなしに、私は一人で鎌倉へ帰った。本当に情けなかった。

 5月5日、弟の結婚式でまた岩手に帰った。そんな席に出られるような精神状態ではなかったが、出席しないわけにもいかなかった。
 9日までの五日間、大槌に滞在して、あちこち訪ねた。家族とはもう口をきく気になれなかった。
 共産党の岩手県東部地区委員会(釜石)を訪ねた。「私の半生」を持って行った。ところが様子が変だった。長いこと外で待たされた。中では何か相談しているらしい。やがて中へ通された。そのとき、田中君をチラと見かけたが、頭を軽く下げただけで言葉は交さなかった。田中君というのは釜石製鉄所の教習所での同期生で、同じ職場に配属になり、私を党に推薦した党員。
 私とは初対面の男が一人で、私の相手をしてくれた。私は持って行った「私の半生」を出した。が、彼はその本については、もう知っていた。出版して、すぐ釜石の高校へ送ってあったが、そこの高校の先生(党員)を通して見せられたという。内容もよく知っていた。
 私は苦しい思いをした。「私の半生」が、彼ら党組織に大きな打撃を与えたろうことを私は知っていた。私はやむを得なかったことを話し、できたら協力してくれないかと頼んだ。
「あんたの来るのが、もう少し早ければよかったのになぁ」

 
彼は言った。私はその言葉の意味がわからなかった。さらに彼は次のようにも言った。
「人形劇団で、ずっと働ければよかったのにね」

 釜石市の人権擁護委員や、大槌町の人権擁護委員も訪ねた。私は釜石市の人権擁護委員の住所を釜石市役所で聞いた。だからその委員にはすぐに手がまわるだろうと考えた。その家を探して行くと、前方で、道へ飛び出してこちらをながめている人影があった。私をつけまわしている者たちが先回りしているのだろうと思った。その人影がひょいと隠れたところが探している家だろうと思った。そのとおりだった。
 訪ねて行った人権擁護委員は、柳田さん(仮名)といって、印刷所を経営していた。明らかに彼に手がまわっているのを感じた。「私の半生」を資料として渡した。その本は、横浜の印刷所で自費出版したこと、発行部数と、それにかかった費用を告げると、彼は計算していたが、「非常に安い」と驚いていた。いろいろ話していくうちに、彼はまじめな調子になり、そして言った。
「これは、調べていくと、とんでもないことが出てくるかもしれないね」
 私はこの人は私の力強い協力者になってくれるかもしれないと思った。久しぶりに晴ればれした気持になってそこを出た。数日後電話すると、柳田さんはもう倒れ、口もきけず、病院へ入っていて面会謝絶だということだった。私は背筋が寒くなるのを感じた。

 親戚の人たちや、生家の近所の人たち(知識人)にも「私の半生」を配り、話をした。
 また、いなかの知人から弁護士を紹介してもらった。藤原弁護士といった。彼は私がこれまで会ってきた弁護士とは全く違っていた。思い過ごしだの、具体的な事実がないなどと言って、はねつけるようなことはしなかった。私の親がその気にさえなれば、いつでも引き受けてくれそうな気配だった。だが、私の親には、間違ってもそれは望めないことであった。
 こうして動きまわる私に、義兄は、
「いいかげんにしろ、と言いたい」
 と言った。
 大槌を発つ前の晩、私はふとんに入っている両親の枕元へ行った。
「父さんも、母さんもだまされているんだ」
 私は切々と訴えた。母は子供のように泣いた。父も泣いていた。母は今にも、何もかも話してしまいそうに見えた。私は母をとてもかわいそうに思った。こんなことをしている自分が恐ろしくなり、そこを離れた。
 大槌での最後の日の昼、やるせない気持で姉の家にいると、外を父が歩いて行くのが見えた。そのときの父の表情! その顔は醜い喜びの感情で満ちあふれていた。父の頭の中には強烈な感情が渦巻いているらしく、歩き方にまで神経が行き届かないようであった。右手と右足を同時に前へ出すという、ぎこちない歩き方をしていた。このときの父の表情は、他のいくつかの父の表情とともに、一生忘れることができないものになるだろう。

 家に滞在中、本棚から父の手記を見つけた。私はそれを鎌倉へ持ち帰ったが、よくないことのように思えたので、コピーをとり、父に送り返した。この手記の日付は4月3日となっているので、一か月前に書かれたものであった。次はその手記である。

 

 49年4月1日、鎌倉より衛は来た。その晩は一丸も正彦、宏子、花巻の優も来、色々話をした。それは、衛の言う釜石製鉄所が衛を中傷して就職を妨げている、その中傷は家族にも来ている筈だからその真相を聞かせろと迫られるが、聞いたこともないし、そんな事実がないので、何とも言われない。口止め料をなんぼ貰ったかなど無理難題。俺がこんなに苦しんでいるのに両親までが俺に協力してくれないと憎み返されている。どうして無を有にされよう。どうすれば衛の期待している協力かと聞くと、どこへ行っても受け合ってくれないから、身内の者が上京して衛の行かんとする処を訪れ、この問題を取り上げ調査してくれるよう願い出てくれ、とのこと。それで衛の苦しんできたことが解決されるなら、日時をえらんで行くことにしてある。
 正彦さん一家に何と言ってよいか、申し訳ない限りである。本人の衛同様に食欲もない。胸が一杯だ。好きな酒も飲みたくない。心痛を重ねていると、いつあたって(脳卒中で)倒れるかわからない。どうしても上京したい。わからず(無能)でもついて歩きたい。それまではあたりたくない。衛は自分は天真爛漫、清純、潔白であると言い、その俺を皆侮辱し馬鹿扱いをする。これは誰かが悪く噂を立て、ひろめているためだと考えている。
 (精神鑑定が必要ではないかなと思う)。
 倒れない前に記して置く。

  4月3日

 

 私はこの手記を読んだとき、『証拠湮滅にかかっている!』と直感した。
 家から帰って来て間もなく、姉に手紙を書いた。

 

 そちらにいたときは、本当にやっかいになりました。こちらへ帰り、手がまわっているとは知りながら、ある会社へ応募してみました。全く予想とおりでした。持って行った履歴書も、その場で返されました。
 私が現在、精神的にどれほど高いところまで達しているか、また、女性に対してどんなに高潔な感情をもっているか、家族には理解できないでしょう。それを知っているのは、これまで私をつけまわしてきた者たちと、これまでに私と交際のあった女性だけでしょう。
 何度か家へ帰るなかで、私は宏子も優も、私から次第に離れていくのを感じました。宏子が私を弟としてではなく、素性の知れない男を警戒するように警戒していたことが何度かあったのを私は感じています。
 優は、この事件のからくりはよく知らず、ただ、両親、兄らからよくないことを聞かされ、私を見る目を変えてきているようです。が、宏子の場合、私は理解しかねました。最初、家へ帰ったときは、完全に私を信じてくれていました。二度、三度帰るうちに宏子の様子が少しずつ変ってきました。私が父母の態度を、ああだ、こうだと言うと、宏子は親を弁護することが度々ありました。しかし、その宏子が、父や母を前にしたとき、きつく責めるようなまなざしで父母を見つめていることがありました。私にはそれが理解できませんでした。
 私はここ一か月ほどの間、家族と接しているうちに、家族(とくに両親と兄)の頭の中で、私の虚像が、とほうもなく成長させられているのを感じました。この虚像には釜鉄にいた頃からずいぶん苦しめられました。いったんこの虚像が人の頭の中に巣くうと、どうしようもなくなるのを私は知っています。私の言うこと、すべてが、この虚像を成長させるように作用するのです。

 

              四 節

  昭和49年(1974年)

 こんなことをしていて、私は会社、中山電機をずっと欠勤していた。規則のうるさい会社だったら、とっくに解雇されていたろう。
 5月14日、しばらくぶりに会社へ出た。昼食は外へ出、会社の近くの食堂に入った。チャーハンと玉子スープを注文した。スープの味が変だった。店を出てから、喉の調子が変で、軽いめまいを感じた。体全体の具合が悪くなった。ふと、食事に何か毒物が入っていたのではないかと考えた。そういえば、店の婦人の様子が変だった。店を出るとき、金を払おうとしても、調理場の奥から私をじっと見つめているだけで、出て来ようとはしなかった。そのときの変な目! 彼女の主人らしい男が隣に立っていたが、彼も無言のまま私を見つめているだけだった。私は仕方なく、代金をカウンターの上に置いて店を出た。会社へ戻り、喉が変なので、何度も水を飲んだ。翌日は、パンと牛乳を買ってきて食べた。

 17日、いつもみんなが出前を取っている食堂、「〇〇〇」から私もとった。異常はなかった。
 18日(土)、19日(日)は休日。
 20日も出前を取った。昼近く、事務の女、井口が食事の注文をとりに来た。そのときの井口の様子から、断ろうかと思ったが、つい注文した。かつ定食。
 かつの味が変だった。食事を残したことのない私が半分ほど残した。また、喉の調子が変になり、軽いめまいがし、頭がぼんやりし、体から力が抜け、膝に痛みを感じた。
 この日、「〇〇〇」から出前を取ったのは私だけだった。みんなは他の店から取っていた。私は出前を頼むとき、店の名前までは指定しなかった。いつもみんなそこから取っていたから。

 私が会社を長く休職する直前、出前で届けられた食事を見て、成田という男が、
「青酸カリが入っていないべな」
 と、誰に言うともなく言ったのを思い出した。

 

              五 節

  昭和49年(1974年)

 私は肉親たちに、どうしても目を覚ましてもらいたかった。私は自分の日記を姉あてに送った。

 

 ここに、私が釜鉄の寮にいた頃からの日記を送ります。みんなで読んでください。人に見せるために書いたものではないので、字は乱暴で読みづらいと思います。家族に向かって言えないことも、日記には書いています。感情を害するところもいっぱいあるでしょう。でも消すようなことはしないでそのまま送ります。
 家族に見せる時機は宏子にまかせます。必要があれば、家族以外の人に読ませてもかまいません。

  49・5・25

 

 小包で送ったが、すぐに、とんでもないことをしたと思った。再生不可能な日記を、郵送という手段で手放してしまったことを後悔した。この日記は、私の裸の姿を表わしたものであり、いつかは私を救ってくれる最大の武器になるものであった。

 

    5月24日、金曜日。

 今日も会社を休んだ。
 正午までふとんの中にいて、いろいろ考えた。
 いったいこれはどうしてことだろう。
 私の一生て、一体何だろう?
 こんな不合理なことってあるだろうか。
 三十一歳の童貞が、女たらしで、色気違いだといってさわがれる。
 まるで、キリストがわいせつ行為のかどで追いまわされているようなものだ。
 曇り一つない美しい心を持った人間が、えたいの知れないグロテスクなものに見られたり、
 親が子の不幸をよろこんだり、
 人権擁護委員会が人権侵犯者を擁護したり、
 警察が犯罪を守ったりする。
 ばかが、りこうを見て、ばかだと笑う。
 汚れた者が、美しく澄んだものを見て、うす汚いとののしる。
 この世は、私が生きていくためには、あまりにも汚すぎたことだけは間違いない。

 

 警察を非難した内容の「私の半生」を警察へも配り、何度も足を運んで、彼らが罪を認め、真相を明らかにするよう頼んだ。
 神奈川県警本部の総務課を訪ね、橋谷田さんという人と話をする中で、あることが見えてきた。
 会社(新日鉄)は、この件には関係がないようである。
 警察を動かしたのは、会社以外の何かの機関であることもわかった。その機関は、警察へ私の情報を流し、一方で市民を狂わせてそそのかし、さんざんばかげた訴えを警察にさせた。そこで警察も動きだしたようだ。もちろん橋谷田氏はこんなに具体的に話してくれたわけではない。それでも私は、彼の少ない言葉の陰に、これだけのものを感じとった。
 橋谷田氏は次のように言った。誰が警察を動かしたかを私に教えることはできない。この問題はまず大船警察署へ行って相談しなさい。大船警察署の次長に電話をしておいてやる。
 これは5月13日のことであった。すぐに大船警察署を訪ねればよかったのに、私は三日後の16日に大船警察署を訪ねた。

 大船警察署の次長は、以前、会った人ではなかった。入れ替っていた。名札はつけていなかった。次長は、私が何を言っても、
「考え過ぎだ。いろんなことを考えるからノイローゼになるんだ」とか「警察は君の味方だ、安心してやっていけ!」
 と言って、真剣にとりあってくれなかった。
 県警本部の橋谷田氏に電話をし、次長との成りゆきを説明し、会ってくれるよう頼んだ。しかし彼は忙しくて十日ほど会えないと答えた。
 5月27日、橋谷田氏と会ったが、もう様子が変っていた。そして、今後は分庁舎の総務課行政相談の石川氏を訪ねるように言われた。
 いつか橋谷田氏に電話したとき、すっかり様子が変っていて、「気違いだ!」という言葉まで、彼の口から飛び出したことがあった。が、いつのことかわからない。

 橋谷田氏から紹介された石川氏に会った。彼から私は人間らしい感じを受けることができなかった。石川氏は私に言った。
「沢舘君! 心配ないよ! やって行きたまえ!」
 警察をあてにすることはできないと感じた。

 共産党の神奈川県委員会も訪ね、協力を求めたが、何の手ごたえもなかった。私が提出しておいた「私の半生」について担当者は、
「これは小説でしょう」と言った。

 いなかへ帰ったとき、叔父(父の弟)にも会って話した。私はこの叔父に、私の親たちに、どこからどんな力が働いているのかを調べてくれるよう頼んできた。その叔父から手紙が届いた。

 

 衛 君
 君とお会い出来た、あの日以来、随分と期待の中に、俺から届く便りを待ったことでしょう。今夜書き送る内容は全くご期待に添えかねる文面なので申し訳ございません。許して下さい。決してサボッたりして今の時間まで参った訳ではないのです。

 

 こういう書きだしで始まり、私から頼まれたことを探り出せなかったことが説明されていた。私はすぐに返事を書いた。

 

 お手紙ありがとうございました。亀蔵さんは、「俺から届く便りを待ったことでしょう」と書いておられますが、失礼ですが、私はあまり期待していませんでした。それというのも、私がこれまでに訪ねた機関にしろ、人にしろ、「あとで連絡する」とか「結果はあとで知らせる」と言っておきながら、それが実行されたことがないからです。
 ですから、亀蔵さんからの手紙を手にしたときは本当にうれしく思いました。お手紙の内容は、私の問題を解決する手がかりになるものはございませんでしたが、亀蔵さんの手紙が真心でもって書かれていることが、私には何よりうれしく感じました。このような真心の感じられる手紙に接したのは、ここ数年、(姉からの手紙の一、二通を除いては)ありませんでした。
 亀蔵さんは、私の本を読んで、私のことを「心堅固」だと言っていますが、本当にありがとうございます。私の本を読んで、私のことを「強い」と言ってくれたのは、亀蔵さんが二人目です。「私の半生」を読み、私の精神の強さを感じ取るのが正常な人の反応でしょう。
 ところが、最近、大槌の方のある人々から、私の本を読んだ感想として、口をそろえて次のようなことを言ってきます。
「あなたの文を通して見た感じは、疲れているとしか思われないのです。ぜひ、こちらに帰って、みなさんと相談して、疲労回復の治療にとりかかることだと思います」
 「私の半生」を出してから八か月になりますが、このような感想はこれまでに聞いたことがありませんでした。それが急に大槌の人々から聞かれるようになったのです。一体どうなっているのでしょう。
 私の家族の多くは、私の問題が解決するのを喜びません。それどころか、両親は私の悪い面を見たり聞いたりすると喜びます。私を悪人、または異常者と見ることによって「安心」しようとしているのです。全く恐ろしいことです。
 両親は、いつかきっと、ひどく後悔する日がくるでしょう。
 亀蔵さん、どうか私の父の良心を目覚めさせてくださいますようお願い致します。

 49・6・2
                     衛
  亀 蔵 様

 

 姉にも手紙を書いた。

 

 ここ数日、また会社を休んでいます。なまけたいのではなく苦しいのです。どうして人間は、人が不幸になるのを見てこんなにも喜ぶのでしょう。
 会社へ出かけ、社長その他の者たちの顔を見、声を聞くのは、精神衛生上よくありません。といって、今の会社をやめて、どうなるというわけではありません。他の会社へ行っても同じことの繰り返しでしょう。陰で動いている力をやっつけないかぎり。

 

              六 節

  昭和49年(1974年)

 6月5日、会社の帰り、一緒に働いている相川さんという若い女性社員と共に帰った。彼女は私に何か言いたいことがあるようだった。彼女は私を喫茶店に誘った。30分ぐらい話した。彼女は会社内のさまざまなことを私に教えてくれた。
 「女」に出てくる、岩間さんという婦人が私をこき下ろしているという。さらに彼女が私の子供を妊娠したということまで言いふらされていることも知った。私は開いた口がふさがらなかった。
 おばさん連中が私のことを変態だの、病気だのと言っているという。相川さんが、「とても沢舘さんは、そんな人には見えないけどね」と言うと、みんなから、「あんたは何も知らないからそんなことを言うんだ」と言われ、さんざんひどいことを聞かされるという。
 妊娠のデッチあげがやられたのは、どうも私が鎌倉市議会へ陳情書を提出していた頃のようだ。
 当時、それまで親身になって相談にのってくれていた議員や、議会事務局の職員らが、急に態度を悪化させたことがあった。デッチあげを知った今、やっと納得がいった。

 6月21日、また、いなかへ帰った。昼、大槌へ着いた。小雨の中を、家へは寄らず、姉の家へ行った。姉の様子もどこか違う。私がふれないかぎり、決して私の問題にふれようとしない。私の問題にふれるのを、義兄が嫌うからというが、義兄がいないときでも決してふれることはなかった。私が送った日記でも目は覚めなかったようだ。

 翌日、22日、親戚の婦人を訪ねた。
 
前回、いなかへ帰ったとき、数日あちこち歩きまわり、むなしい気持で帰ろうとしているところへ彼女が訪ねて来た。私は彼女に「私の半生」渡した。彼女は稲子おばさんといって、いなかでは知識人に属する婦人であった。そして、私に最初の縁談を持ってきてくれた婦人であった。たぶん、あの「彼女」との。
 この日、姉も私と一緒に出かけた。姉は、私の問題が解決するのを望んでいないかに見えたり、そうかと思うと私に協力してくれたりしていた。
 おばさんの様子は不自然だった。話をしていて、私は頭が変になりそうだった。

 午後、川崎君が訪ねて来た。前もって、私のほうから連絡しておいたのである。
 川崎君というのは、釜石製鉄所の教習所での同期生で、寮で私が絶交状を書いて交友を絶った昔の親友であった。彼は自分の車でやって来た。彼は私を誘い出した。私は彼の車に乗った。
 私は彼にたずねた。寮にいた頃、彼が私にとった異様な行動は、外部から、何者かの力が働いたためではなかったのか、と。彼はそれには答えず、まずドライブインに入って食事。それから、どこかへ行って話そうと何十分も車を走らせ、船越の国民宿舎「たぶの木荘」へ行った。だがそこは夕方なので泊まり客しか受け付けないといって断られた。部屋へ上がることはできなかった。引き返して、今度は、大槌の赤浜に新しくできた国民宿舎へ向かった。そこは満員。それで今度は、さらに数十分かけて、釜石の彼の社宅へ行った。彼はそこでもなかなか本題に入ろうとしなかった。私がしびれをきらしていると、彼はやっと答えた。寮での彼の行動は、彼自身のものであり、他からの力によるものではないと。ただこれだけのことを答えるのに、なんと長い時間を費やしたことか!
 私はそれ以上、彼と話しても無駄なことを知り、岩渕さんのところを訪ねてみると言った。彼はは顔を曇らせ、なかなか立とうとしなかった。
 岩渕さんというのは、釜石製鉄所で同職場だった党員。彼の家はすぐ近くだった。川崎君と二人で出かけた。が、岩渕さんは不在だった。30分ほど喫茶店で時間を過ごした。そこで私は
川崎君の心の深部をかいま見ることができた。彼は私の言うことすべてを憎悪をもって打ち消した。しかし、その憎悪は表面には現れないものだけに、何か、すごいものを感じた。

 再び岩渕さんの家を訪ねた。彼は帰宅していた。部屋へ上がると、彼は何の前おきもなく、「私の半生」の内容について、私に抗議すべきところを一通り抗議した。もう夜もふけていて、彼の子供は寝ていた。起こしてはいけないからという川崎君の提案で、川崎君のところに場所を移した。
 そこで、彼らは私には全く身に覚えのないことで私を責めた。それは、「野田いくやが私の就職を妨害している」という題名のビラを上野駅でまいた、というものであった。

 
(野田いくやとは何者なのか私は知らない。釜鉄内の党組織の幹部か?)

 私が否定すると、岩渕さんは驚いた。
「本当にそんな事実はなかったのか?」
 彼は念を押した。彼はそのビラを実際に見たという人から直接聞いたという。そのビラは謄写版刷りのものだったという。
 彼は、実際には無かったことが、あったとして言いふらされていることにびっくりし、そして言った。
「これでは、親たちでも、すっかりだめにされてしまうのは当然だ
 これはデッチあげの氷山のほんの一部にすぎないだろう。
 この一件から、岩渕さんは真剣になった。それからの話は完全にかみ合った。彼はこの件を調べてみると言った。
「おれはこれで帰って寝るから」
 岩渕さんはそう言って私に握手を求めた。1時か2時であった。

 
(このデッチあげについてはその後、彼からは何の報告、連絡もなかった)。

 川崎君と朝の5時頃まで話した。6月23日、日曜日の朝だった。私たちはこたつに入ったまま、横になって少し休んだ。
 彼は車で私を大槌まで送ってくれた。家族らとも会った。川崎君、私、姉夫婦、それに両親が一室に集まった。みんなどんな話が出てくるかと動揺していた。が、父一人だけは落ちついた様子で立ち上がり、笑いながら出て行った。父は、川崎君がどのような位置にいる人間かを知っていたのであろう。

 この夜、私は二階で休もうとしていた兄と少し話をした。この兄と私は年が11歳も離れていて、個人的な話をめったにしたことがなかった。二人きりになると、いつも気まずい思いをした。兄はふとんに腹這いになって私の話を聞いた。私は鎌倉でやられているデッチあげの話をした。「女」に出てくる婦人が私の子供を妊娠したと言いふらされていることを話した。すると兄は、『やっぱりそうだったか!』というように顔を枕に埋めた。
 兄と話をして階下へ降りて来ると、両親が微かに動揺しているのが感じられた。兄が私の理解者になるのを恐れているのだろうか?

 6月26日、釜石警察署と釜石保健所を訪ねた。
 釜石警察署では、防犯課の係長と話をした。「事実のはっきりしていない事件の調査はしない」と言った。しかし彼は私の事情(からくり)は知っていたようで、私に同情的だった。
 次に釜石保健所を訪ねた。様子が変だった。私は、保健所が私の件にかかわっていないのか、とただした。すると、高橋という課長は、
「どうして保健所がかかわっていると考えたか、具体的に書いて来い」と言った。
 翌日、27日、また出かけた。課長は私を所長室へ通し、そこで一時間以上話した。彼は何とかして、私が思い過ごしをしていると思い込ませようとした。それから私の性格について延々と語られた。
 翌日の28日、昼、兄が昼飯を食べに、勤め先(教育委員会)から家へ帰って来た。兄の話すところによると、午前中、釜石保健所から大槌町役場を通して兄に電話があったという。内容は、来月、保健所から先生(医者?)が来て、私のことについて兄と相談したい、と言ったという。
 私は「機関」が何かをたくらんでいるな、と直感した。両親は私を病人に仕立て上げたくてうずうずしている。医者がやって来て、肉親らに私は病気だと認めさせれば私を強制的に病院へ入れることができる。
 私は食事をしている兄にこの考えを話した。すると、その場にいた母があわてて立ち上がり、台所を歩きまわった。

 保健所のたくらみは実行されなかった。数日後、保健所から、私が資料として提出しておいた本が返送されてきた。「女」という小冊子は、誰が分析したのか、ほとんどのページにわたって意見がぎっしり書き込まれていた。(この本は現在もとってある)。

 29日、叔父の亀蔵さんを訪ねた。彼は私の両親について、
「あの人たちは衛さんのことでは、何とかしてやるべきだ。おらぁ、衛さんのことを考えると気の毒でなんねぇ」
 そう言っていきなり泣きだした。
 私自身、父の性格の恐ろしい一面をすでにのぞいているが、叔父からも、父の性格のある一面を聞かされた。叔父は言った。
「あの人は、並々ならぬ執念でこれを隠している。これから先、どんなことがあっても絶対に言わねえぞ」

 この地区の人権擁護委員会は、遠野地方法務局の管轄になっているという。七月初め、遠野地方法務局を訪ねた。
 局長(?)と1時から5時過ぎまで話した。私が中山電機で聞き込んだ具体的な事実については信じてくれるのだが、行く先々の会社、市民の間へ迅速に中傷が伝えられることを話すと、全然信じてくれなかった。というよりは信じたくなかったのかもしれない。
 彼は私を「かわいそうだ」と言った。また会社(釜鉄)が他の会社から照会を受けたとき、釜鉄で実際にあった事実を伝えただけなら、それは人権問題にはならない、と何度も強調した。彼はかなり正義感の強い人間のようだった。同じ東北人のせいだろうか、話していて心が通じ合うところがあった。

 7月6日、午後、稲子おばさんのところを訪ねた。数時間話した。彼女は私の本当の姿を見つつあるようだった。彼女は話していて涙ぐむことがあった。彼女は、釜石に井上さんという、立派な婦人がいるから、紹介してやると言ってくれた。私の今後の仕事についても、その婦人なら何とかしてくれるかもしれないと言う。
 8日、おばさんと二人で釜石へ、井上さん宅を訪ねた。井上さんは七十歳位のおばあさんだった。その容貌、特に目を見たとき、並の人ではないなと感じた。もう一人、嫁さんらしい若い女の人もいた。
 話していて、井上さんが私を過少評価しているのを感じた。「心が小さい」とか、「劣等感を持っているから、他人から陰口を言われているように思うのだ。元気を出しなさい」と、全く正反対のことを言われた。
「何かにつけまわされている」という話になると、頭から否定された。「私の半生」を置いて帰った。
 夕方、勤め先から帰って来た父と、家の前で出会った。父はなぜか、怒りの目で私を見ていた。
 9日、おばさんから、私の兄と姉(両親にではない!)に電話があり、井上さんに、兄や姉からもお礼を言うようにと言ってきたという。
 姉が電話したら、井上さんは私のことを姉に言ったという。
「少しもおかしくない。あの子の目を見てやりなさい」
 生家のほうにいると、私に電話がかかってきた。受話器をとると、
「井上です」と言う。
「はぁ」
 そう答えたものの、誰なのか、すぐには思い出せなかった。気がついたときは、彼女は何かしゃべりだしていた。彼女の言葉が切れるのを待って、私は昨日のお礼を言った。彼女は「私の半生」を70ページあたりまで読んだという。私が夜、泣きながら堤防を歩いたというところが、彼女の心を打ったという。
「ああいうことがあったということは、あんたは多感な青年である証拠である。多くの人はそんなことを感じないでしまう」
 私はあまりにも誉めそやされ、気味悪くなった。すぐ後に反動がくるのを知っていたから。
「鎌倉へ帰る前に、もう一度遊びに来なさい」
 彼女はそう言ってくれた。

 こうしたある晩、父はどこかへ出かけ、母が独りふとんに入っていた。私は母の枕元へ行き、話しかけた。
「母さんは、おれがどんなに立派なことを言っても、父さんのほうを信じるべ?」
 母は泣きだした。母と話していると父が帰って来た。彼は居間を歩きまわっていた。母が父の後ろ姿を、一瞬きびしく睨んだのを私は見逃さなかった。

 12日に鎌倉へ帰るので、前日の11日、井上さんのところを訪ねた。気がすすまなかった。
 1時過ぎ電話した。嫁さんらしい人が、事務的な調子で、「待っています」と答えた。2時半に着いた。井上さんはいなかった。嫁さんと話をした。彼女は私に尋ねた。
「資本主義とか、マルクス主義といったことを知っている?」
 まるで子供扱いであった。話は終始、会社や警察が私一人のために動くことは絶対にないということだった。それなら、誰が動いているのか、私は教えてもらいたかった。やがて、井上さんが帰って来た。
「私の半生」を手に持って来て、私の向かいに座った。
「わたしは、本には線を引いたりはしないのだが、この本にだけは、心を打つところに線を引いてある」
 そう言って彼女は本を開いた。
 しかし、彼女の話も結局は同じだった。彼女は、私が何かに追われていると感ずるのは、釜鉄にいた頃、作り上げた自分の影におびえているのだと言った。その一点を除けば、私は非の打ちどころのない好青年だ。私がこだわっているその一点は、爪の先ほどのちっぽけなものだと言った。
 それからはもう、私には言わせず、井上さんと嫁さんが二人でしゃべり通した。これほど立派な人がこんな下品なことを、とびっくりするようなことまで井上さんは口にした。私は彼女らの心がすでに崩れ始めているのを感じた。

 夜、母の枕元へ行き、
「おれ、あした帰るから」
 と言った。母はすぐに泣きだした。父はいなかった。が、私と母が話していると、父が帰って来た。風呂に入るのだろう、開いている障子のところへ来て、服を脱ぎながら私を睨んでいた。父は風呂に入った。母は私を信じてくれ、本当の涙を流しているときでも、ふと泣くのをやめ、私の顔をじっと見つめることがあった。それは、私を信じかけたことを恐れているようであった。

 12日、大槌での最後の日、井上さんから電話があった。彼女は軽い調子でほとんど一人でしゃべり続けた。
「わたしのように年をとっていても、若い女の子がぴっちりしたジーパンをはいているのを見ると、あの割れ目のところが気になり、あの中はこうなってなどと考えるよ。まして若い男だもの。でもそれは生まれながら備わっていたものではないんだよ、心配しなくてもいいんだよ、ハハハ」
 そう言って彼女は私を慰めたり、勇気づけてくれたりした。前日訪ねたときも、彼女は同じようなことを言った。

 大槌を午後に発ち、花巻で弟のところに一泊し、13日の朝、花巻から「やまびこ1号」で帰ることにしてあった。
 出発まで、私は家に居たたまれなかったので、姉のところへ行った。すると母がやって来た。よそよそしかった。
 家へ戻って飯を食べ、兄嫁に礼を言って家を出た。父は裏庭にいたが、私は声をかけるどころか、顔も合わせたくなかったので、そのまま出た。
「気ぃつけて」
 母が言った。その言葉には何の感情もこもっていなかった。

 私は今回、いなかへ帰るとき、鎌倉のアパートで不審を感じたインスタントコーヒーを一びん持って来た。ある日それを姉に、「これに何か入れられたかもしれない」と言った。すると姉は何も言わず、つと立ち上がり、どこかへ姿を消した。あることが、さっと私の頭をかすめた。しばらくして帰って来た姉は、何の疑いももたずにそのコーヒーを飲んだ。姉がどこへ行ってきたのか気になった。かなり後になって、あのとき姉は父に会ってきたのかもしれないと考えた。

 

              七 節

  昭和49年(1974年)

 夕方、花巻駅へ着くと、弟が車で迎えに来ていた。嫁さんも一緒だった。
 弟のところで一泊するのは、花巻で、弟の紹介である人に会いたかったからである。しかし、弟から連絡してもらったところ、その人はその晩は都合が悪いということであった。だが、翌朝の「やまびこ1号」の指定券はすでに買ってあったし、会えなくても弟のところに泊めてもらうしかなかった。
 弟のアパートに着いて間もなく、弟はウィスキーを買いに出かけた。嫁さんと二人だけ残された。気まずかった。彼女は台所で仕事をしていた。私は新聞の、1ページを使った短編小説を読みにかかった。弟はなかなか帰って来なかった。その小説を読み終る頃、やっと帰って来た。帰って来るなり、
「いま喫茶店に寄ってみたら、小原さんが帰って来ていた」と言う。
 小原さんというのは、私が会いたいと思っていた人であった。小原さんは花巻駅前で、食堂や喫茶店を経営していた。あることから弟が彼と知り合い、「私の半生」を読んでもらったという。小原さんは私のことを「純粋だ」と言い、また、
世の中には、どうにもならないことってあるからなぁ
 と言ったという。

 小原さんの店へ近づくと、店の若い女店員たちが外へ出て来て、めずらしそうにながめていた。私が車から出ると、彼女らはさーっと消えてしまった。一人だけ残った女が私たちを二階へ案内した。
 部屋に入ると、テーブルを前に、白髪を短く刈った五十歳過ぎの男性が座っていた。私を暗い表情で見上げたが、それは一瞬のことだった。
「初めまして、沢舘です」
 そう言って頭を上げると、彼の表情はすっかり晴れていた。彼の奥さんにしては、かなり若い女性がコーヒーや菓子を出してくれた。彼女はすぐに自宅へ帰った。弟が彼女を車で送って行った。私たち二人だけ残された。しかし、気まずさは全くなかった。彼は国内外の、プロの写真家がとった写真を見せてくれた。どれも素晴らしい写真だった。室内にも何枚かの写真や絵がかけてあった。
 弟が帰って来た。小原さんと私が、写真の構図の素晴らしさに感心しても、弟にはそれがわからないようであった。
 やがて、私の「問題」の話になった。
「富士製鉄(新日鉄)を相手にたたかっても勝てるものではない」
 彼は言った。さらに、「そんなことにかかわっていないで、絵でも描いたほうがいい‥‥、弟さんの意見はそうらしいから」
 と、弟の方を見た。弟が小原さんに、私をそのように説得するよう頼んだのか? 小原さんなら、私に真相を話してくれたかもしれない。
いつまでも、うじ虫みたいなやつらとたたかっていると、あんたがみんなに笑われるよ
 彼はそう言った。しばらく話した後、三人で小原さんの自宅へ行き、さらに話した。話は進み、弟もうれしそうだった。さっきの若い女性が、素晴らしくおいしいお茶を入れてくれた。そのことに言及すべきであったろうが、私は何も言わなかった。小原さんは私に、
あんたは、我々とは住んでいる次元が違うんだ」とか「あんたは、あんまり勉強しすぎたんだ」などと言った。
 私がいつも、私を理解しかけた人に対して感ずる、『そのうち、ひっくり返るだろう』という考えは、小原さんに対しては全く湧かなかった。

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              八 節

  昭和49年(1974年)

 7月13日に鎌倉(大船)へ帰って来たが、それから一か月以上も会社へ出なかった。会社へ行くのはこのうえなく苦痛だった。便壺に身を沈める思いだった。

 帰って数日後、稲子おばさんに手紙を書いた。

 

 前 略
 おととい、鎌倉に帰ってきました。
 先日、帰郷した際は、並々ならぬお世話になり、本当にありがとうございました。今度の帰郷は、これまでになく、意義のあるものでした。それというのも、5月に家へ帰り、数日過ごした後、むなしい思いで大槌を発とうとしているところへ、おばさんが訪ねて来て出会ったことからきています。あの時おばさんとお会いしていなかったら、今度の帰郷で、和田先生にお会いすることもなかったでしょうし、井上さんをも知らずに終ったでしょう。そして、これまでと同じように、両親らと、けんか別れに終っていたでしょう。

 こうしてみると、私の両親の無力さを、つくづく感じさせられます。無力さに加え、私の立場が少しでも良い方向へ向かうのを喜んでいません。そして折があれば、精神病院へ連れて行こうとするのです。一体何のために私が精神病院へ行く必要があるのでしょう。私がありもしないことを親から聞き出そうとするからでしょうか。しかし、もっと大きな理由は別なところにあります。両親は私のことで、ずいぶん下劣なことをどこからか聞かされているのです。それは、両親が私を見るときの目つきから、いやでも感じさせられます。それでいて私がたずねると、何も聞いていないと言うのです。こんな環境の中にいたら神経がいらだち、ノイローゼになります。
 両親のことに言及するのはこれくらいでやめます。書く私も悲しくなりますが、お読みになるほうが不愉快でしょうから。

 おばさんが旅行へ発った翌日の午後、私独りで井上さん宅を訪ねました。井上さんは外出していませんでした。嫁さんとしばらく話しました。やがて、井上さんが帰って来て話に加わりました。彼女らの話を要約すると、
 誰も私をつけまわしてなんかいない。会社にとり、私は一本の釘にすぎない。だから私など全然眼中にない。また、私をつけまわしても、何の利益にもならない。「追いまわされている」と考える、その一点を除けば、私は健全な青年だ。
 ということでした。
 井上さんには、今日の昼、本5冊と手紙を送りました。

 7月15日
                    沢 舘 衛
  佐々 稲子 様

 

 次は井上さんへの手紙。

 

 前 略
 帰郷中はいろいろお世話になりました。また、貴重な助言などいただき、本当にありがとうございました。
 今度の帰郷で、井上さんにお目にかかれたことは大きな収穫でした。
 しかし、井上さんとお話する中で、私がどうしても納得できなかったことが一つあります。それは、「私が何者かにつけまわされ、中傷されている」という話になると、みなさんは、そんなことがあったのかな、と考えてみることはせず、頭から否定なさったことです。
 私のこれまでの苦しみは、その下劣な「つけまわし」と「中傷」から生まれたのです。そのようなものは存在せず、私の苦しみはすべて、自分の作り出した影におびえていることから生じたものだと言われても、私はそれを認めることはできません。それに私はこれまでに、あまりにも多くのことを見てきました。
 お約束の本「私の半生」を5部、別便でお送りします。
 井上さんからいただいた本のうち、「地底からのうた声」は読み終りました。あとの二冊はまだ読んでいません。今、ドストェフスキーの「未成年」を読んでいます。これを読み終ってから、他の二冊は読ませていただきます。
 一か月近く大槌で過ごし、こちらへ帰って来てから最初の朝、目が覚めたとき、自分がどこにいるのか、数秒の間わかりませんでした。部屋の中をながめまわし、やっと、「ああ、おれは鎌倉へ帰って来たんだっけな」と思いました。

 昭和49年7月15日
                    沢 舘 衛
  井 上 様

 

 次は、親戚の和田さんへの手紙。

 

 前 略
 数日前、鎌倉へ帰って来ました。そちらにおりましたときは、私のために働いてくださり、本当にありがとうございました。
 今度の帰郷で、和田先生にお会いできたことは最も大きな収穫でした。それも稲子おばさんのおかげだと思っています。
 和田先生のお名前は、以前からお聞きしていましたが、どんな方かは全然存じませんでした。ですから、この前の夜、稲子おばさんをはじめ、私の家族が集まっている席へ、和田先生が入って来られたとき、私は『誰だろう?』と思いました。稲子おばさんは、和田先生が来られることを私に知らせていませんでしたから。
 稲子おばさんには本当にお世話になりました。私の両親や家族が、私がこんな問題をかかえているのに、涼しい顔をしているなかで、稲子おばさんが私を心配してくださり、いろいろ動いてくれるのには、本当に恐縮し、また感謝しました。同時に、私の両親たちの無力さをつくづく感じさせられました。家へ帰って、父母の様子を見ていて、私はすっかり恐ろしくなりました。
 なぜか、ずっと以前に読んだ、ドストェフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中の、父親殺しの場面が頭に浮かんできます。それを読んだときは、いくらなんでも、子が親を殺すなんて、と思い、理解できませんでしたが、現在の私には、その心理、感情がわかるような気がします。
 今どんな方に会っても、私の言うような事実はないと言います。ある人などは、「絶対にない」と言いきり、「あんたは、自分で作り上げた、爪の先っぽほどの小さな影におびえているんだ」と言いました。
 しかし、例外的な方が一人だけいました。。その方は私に、
「いつまでも、うじ虫みたいなやつらとたたかっていると、あんたがみんなに笑われるよ」と言いました。
 しかし、私をおとしいれようとして動いた者たちが、うじ虫のような者たちであれ、その者たちのしたことは、一人の人間の一生を台なしにし、また健全な人間を廃人にしてしまおうという恐ろしい犯罪行為です。
 本物のうじ虫は健全なものには寄りつきませんが、このうじ虫たちは、計画的に健全なものに寄ってたかり、それを台なしにしようとしたのです。このうじ虫たちを許しておいてよいものでしょうか。
 今後ともよろしくお願いいたします。

 昭和49年7月17日
                    沢 舘 衛
   和田 信吉 様

 

 父にも手紙を書いた。

 

 これは、私があなたに書く最後の手紙でしょう。
 この4月から数回家へ帰り、あなたの言動を見ていて、あなたの本性を知ることができました。そしてこれまで、家族の中で、あなたが一番私の力になってくれるものとばかり思い、手紙を書き続けてきた自分自身にあきれてしまいました。どうしてもっと早く見抜くことができなかったのかと。
 あなたが私に対して持っている感情は、人間の持ちうる感情の中で、最も醜いものではないでしょうか。表面上はどのような形をとっていようとも、その感情の根本になっているのは、私に対するねたみでしょう。
 しかし、いつかは(たぶん、死の直前でしょう)きっと罪の意識に苦しめられるでしょう。そのことを思うと私は恐ろしくなります。あなたのために。
 しかし、もしあなたが、罪の意識に苦しむことなくあの世へ行ったなら、私はいっそう恐ろしく思うでしょう。
 私があなたに何を願っているかは、あなた自身、よく御存じでしょう。

 昭和49年7月18日
                    衛より
  父へ

 

 ドストェフスキーの「未成年」を読んでいて、次の文章に行き当たったとき、私はまるで宝物でも見つけたように心が躍った。

 

 それに自分はどれほど滑稽に意気地なく見えようとも、この自分の中には尊い力がひそんでいて、いつかはすべての世間の人に、自分に対する意見を変えさすときがくるという意識が、屈辱に充ちた少年時代から、わたしの唯一の生の泉、わたしの誇り、わたしの武器、わたしの慰藉だったのだ。もしこれがなかったら、わたしは、まだほんの子供の時分に自殺していたかもしれない。

 次も同書の中から。

 さまざまな人知れぬ不快な衝突、論争、涙 ─ 簡単にいえば、ありとあらゆる醜悪な場面が家庭内で演じられたのである。

(河出書房新社 ドストェフスキー全集「未成年」より)

 

 私は青年の頃からドストェフスキーに魅了され、読み続けている。ときどき、ドストェフスキーの性格と私の性格とが重なって見えてくることがある。

 

              九 節

  昭和49年(1974年)

 横浜地方法務局の人権擁護課へ行っても、らちがあかないことをいやというほど思い知らされたので、直接、法務省の人権擁護局を訪ねた。次の書類を持って。

 

       訴

                鎌倉市岩瀬一 - 十七
                    沢 舘 衛

 私はこれまで、下劣で悪質な中傷のために苦しめられてきました。人権擁護委員会、弁護士会を初め、いろいろな機関を訪ね、訴えたり、調査を依頼したりしましたが、どこでも取り上げられませんでした。その理由は、相手方が誰なのか、はっきりしないからというのです。私が、相手方は新日鉄、警察、保健所で、それらが共同してやっているのではないかと言うと、そんなことはありえない、といって調べてくれようとしませんでした。
 横浜地方法務局の人権擁護課を何度か訪ね、調査を依頼しましたが、それへの答えとして、人権擁護課からは、
「あなたの問題は大きすぎて、われわれの手には負えない」とか、「客観的に見て、あなたの言われるような人権侵犯があったとは思えないし、また、ありえないことだから調査はしない」と言った答えが返ってきています。(いずれも、人権擁護課職員、菅沼氏の言葉)。
 私のこれまでのことを書いた本「私の半生」を提出します。この本の中で、中傷の内容及び、中傷の事実があったことをうらづけると思われる箇所には、赤鉛筆で印をつけてあります。
 必要がありましたら、私の日記(昭和35年以降のもの)を提出します。
 どうか、調査をしてくださいますようお願いいたします。

 昭和49年7月23日
                    沢 舘 衛
   法務省人権擁護局 御中

 

 ここでも、あちこちで言われたことの繰り返しであった。
「会社が何でそんなことをするのか。そんなことをして何の得になるか」
 しかし、私の相手をしてくれた職員と話していて、私はいらいらすることはなかった。彼は私の言うことに否定的だったが、否定するための異常な熱意はなかった。私が黙っていると、彼のほうからいろんなことを話した。
「きのう、食事に毒を入れられる、と言って相談に来た人がいる」
 これを聞いて私は、その人は私と同じ目にあっている人だろうと考えた。彼は次のようなことも言った。
あんたの問題を取り上げたために、うちがつぶされるようなことがあっては困る」・・・「我々は税金泥棒だと言われている」

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 5時になり、私が帰ろうとすると、職員は、私が提出した書類をすべて私に返そうとした。私の問題に取り組む意志は全然ないということか! 私は受け取らなかった。
 一週間ほどたった、8月1日、人権擁護局に電話した。
「沢舘と申しますけど、このまえそちらを訪ね、人権のことでいろいろ相談し、調査を依頼する書類や本を置いてきたんですけど‥‥。このまえ私の相談にのってくれた方のお名前を聞くのを忘れたんですけど、その方いますか? 何という方でしょうか?」
「はい」
 電話に出た男は、全く感情の入っていない声でそう答えたきり黙っていた。私はまた同じ説明を繰り返した。
「はい」
 また沈黙が続いた。
「そちらは調査課でしょう?」
「はい」
 私はとにかく、このまえ私に会った人の名前を教えてくれと頼んだ。男はやっと受話器を置いて調べているようだった。ややしばらくして答えた。
「このまえ会ったのは加藤です」
「今、いますか?」
「いません」
「何時頃帰って来ますか?」
「来週」
 また沈黙が続いた。このまえ調査をお願いした件が、どのようになっているか知りたいと言った。
「調査できないです」
「どうしてです?」
「人員が少ない‥‥、予算もない」
 私はびっくりした。これが日本国の法務省人権擁護局の答えなのだ。


 8月2日、鎌倉市役所の「法律相談」に行き、人権擁護局の調査課から、こんなことを言われたが、どうしたものでしょう、と相談した。相談を受けた、末岡という弁護士が私に言った。
いつまでやっても、同じことの繰り返しになるからやめたほうがいい君、悪が栄えることもあるんだよ」とか「裁判長でさえ買収されることがあるんだ」と言った。

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 また彼は、
「君は健康そうに見える」
 と、私が聞きもしないことを何度も言った。私をつけまわしている者たちに見込まれたら、毒を盛られて、とてもこうやって健康に生きていられるものではないことを彼は知っていたのか。
そうやって生きていられるというだけで十分ではないか
 彼は少しの同情も見せずに言った。
「家族の者たちの考えはどうなんだ」
 そう言って、にやにやした。

 相談室を出ると、明らかに私をつけまわしている「機関」の一員と思われる男が、妙な表情を浮かべて私に近づきかけた。相談室はつい立で囲っただけのものだったから、内部の会話は外へ筒抜けだった。その男はたぶん外で私たちの会話を聞いていたのだろう。

 

              十 節

  昭和49年(1974年)

 8月2日、稲子おばさんから手紙が届いた。

 

 衛君、先日はお手紙、続いて「私の半生」そしてまた今日お手紙と、本当にありがとう。私のような者を力にしてて、ありがたいと思います。あの時、衛君と別れて以来のこと、前の手紙でよくわかりました。そしてその文の中で井上さんとの会談の一部がありましたが、その光景もよく推察出来ました。またあなたが書いているとおり、井上さんは、今をときめく文壇人、息子さんに傷つくことがあったら‥‥云々、これは、あなたの考えている通りだと推察できますね。おばあさんや嫁さんは語ってないけど‥‥、それを考えてやるべきなのが常識というものでしょうね。同時に息子さんだけでなく、わらび座にしてもですよ。おばあさんは、わらび座員、また劇団長、原先生などにとっても親しい知人です。その人(井上さん)が、変人を紹介したとあっては、井上さんの名も不信に問われるでしょう。あなたという人をよくわからないと紹介が出来ないでしょう。紹介していただいたときの確立は大きいことはたしかです。それで要は、あなたが、分筆はかなり立つという一点は認められたわけですから、正常な心身の持ち主であることの証明さえあれば、必ず「わらび座」へでも、息子さんの原稿書きにでも世話してくれる事は、私が受けあいます。
 だから、あなたは、心身が健全だという証明書を作って送ることは出来ませんか。
 内科的に、整形科的に、耳鼻科的、その他(普通の病院で)、精神科的(精神病院で)。
 殊に、私は衛君が、決して精神科的に欠陥があるとは思いませんが、(あれ程のものを文にしている才があるから)、私が証人になることは出来ません。やはり、それなりの機関を通じて「異常なし」の判が必要ではないでしょうか。それを携えて私は、井上さんに絶対お願いしたいのです。
 それで精神科の診断は、あの本を直接、精神病院の先生に読んでいただいて、そして証明書をいただくことにしたらどうでしょうね。
 肉体労働でない、精神労働を主としていく職業については、特にそれを懸念すると思うのです。それもあなたが拒否するとすれば、次の方法を私には、どうしていいかわからないのです。というのは、あなたは、陰の力が、井上さんにも働いているなどと失礼なことを考えているようなので、実は私は、悲しくなりました。あれ程、善意で、あれ程しっかり屋で、あれ程、貧しい者、恵まれない者のために、着る物も食べる物も節約してカンパしている人達を、そんなレッテルをつけて評価するという衛君の考えは、まさしく正常ではないと私自身が疑いたくなったからです。井上さんは衛君の話に耳を傾けて親身になって話に乗ってくれたではありませんか。誰がわずらわしい、忙しい世の中で、五体満足なものが、社会のために働こうともせず、私的な事を悩んでいる大の青年に同情する者があるものですか。あんな方々であればこそ、「青年の苦悩」として理解してあげようと思っているのです。それに対して、「彼女らが落ちついて私をながめられるようになるまで、様子を見ていたほうがよいのではないでしょうか」などと‥‥高飛車な言い方であなたは表現しています。そうかと思うと、「わらび座のほうの話がつきそうでしたら‥‥」という書き方ですもの、やはり当方の考え方は、混乱状態でいると言えるように思えます。職業の斡旋にしても、結婚の仲介にしても、人物の信頼に立って責任を持ってやる事だと思うのです。
 あれだけ衛君を認めてくれているのだから、もう一息のところです。13日の夜、井上さんから私へも電話がありましたが、「私の半生」を全文読ませて貰いました。何かにつけられる、追いまわされている‥‥の文がやはり気にかかるようでした。
 そこで、「私は完全なり」という証明書を誰にでも見せてやりたいのです。それが衛君の勝利だからです。「この通り病気がないんだぞ」と大いばりでいられるからです。
 こう言えば、あなたは又、稲子おばちゃんにも陰の力が働いているというでしょうか。どうして、どうして、私はこの辺の誰とも交渉もないし、交際範囲は別のところです。何の力も受けていません。衛君の味方です。味方だからこそ、そうさせたいと思います。
 そして、大手を振って、文化人にでも、わらび座にでも、井上さんから紹介出来ると思うのです。
  (中略)
 その中、必ず良い時が来ますからね。私が前に書いた事を実行していきましょう。
 健康を祈ります。暑さに負けないでがんばりましょう。

 7月30日
                    稲 子
  衛 君

 

 次は、おばさんへの私の返事の一部。

 

 ある人が私を信じていても、強力な力で、私のバカな面をいっぱい頭へ注ぎこまれると、その人は私という人間をどのように判断していいのか、すなわち、価値の判断に混乱が生じます。このような混乱は人に不愉快な感情をひき起こします。人は不愉快な状態にいることを好みませんので、意識的、無意識的に、それから逃げようとします。逃げるためには混乱をなくすことです。混乱をなくすには、二つのうち、どちらかを信ずることです。二つとは、すなわち、私の人格か、あるいはそれを否定する「力」かです。
 私は味方のほとんどいない個人ですし、「力」のほうは複数の人間、しかも強力で組織的ときています。「力」は、私に協力してくれようとする人を私から引き離し、私の敵にしてしまうまで、決してあきらめることなく工作を続けます。したがって、私に協力しようと思いたった人は、その考えを捨て、私を敵にまわすまでは混乱状態が続くことになります。人はそのような状態には長くは耐えられないので、その「力」に屈してしまいます。
 「力」に屈してしまうには、その人は、「力」よりも私のほうが正しいと思っていると、その後、良心の呵責を受けることになります。ですから、無意識のうちにもその人は、私を「力」の言うとおりの人間だと思いこもうと努力します。こうすることによってその人は不愉快な混乱状態からも、良心の呵責からも逃げることができます。
 しかも「力」は、いろいろな証拠、写真、証言などを使って、私の「異常さ」を証明したなら、人は容易に「力」を信ずるでしょう。
 私はおばさんの手紙をお読みし、これから私がおばさんと、私がこれまで、私の父とやってきたことを繰り返そうとしているような気がしてなりません。そうだとすると、結末は最悪なものになります。それでこのような手紙を書きました。最悪の状態になるのを避けることができるかもしれないと思って。

 昭和49年8月4日
                      沢 舘 衛
  佐々 稲子 様

 

 さらに数日後(8月7日)、彼女への手紙の中で次のように書いた。

 

 これまで私を中傷してきた者たちは、ただ私を破滅させたいために、人間なら誰でも(天皇陛下でも、牧師様でも)持っている陰の部分を大々的に拡大し、大騒ぎしてきたに過ぎないのです。私はそいつらに言ってやりたいです。
「私を調べた徹底さで、自分の息子を調べてみなさい」と。

 

 8月12日、井上さんにも手紙を書いた。

 

  前略
 今日(12日)姉より手紙を受け取りました。その中で姉は井上さんのことにもふれておりました。少し気になることがありましたので、この手紙を書きました。井上さんには言葉じりをとらえるといって叱られそうですが。
 井上さんは、
「陰の力とか、敵とか言っていることが理解できない。神経がひどく疲れているようなところもあるので、性格判断をしてもらっては」
 というようなことをお話になったそうですが、現在までに私は、陰で動いている者が誰であるかはつきとめていませんが、そいつらがふりまいた中傷が流されていることをつきとめています。
 私から見ると、私がこれまで、常識では考えられない異常な目にあってきているのに、陰で動いているものなんかいない、とする考え方のほうが理解できません。
 また、私の神経が疲れていると言われていますが、疲れているかどうかは、本人の私が誰よりもよくわかります。それに私はずっと以前、ちょっとした悩みごとから、ノイローゼ気味になるほど、神経をさいなんだ経験をもっています。神経が疲れきった状態から生ずる苦しみは、ノイローゼ気味になるほど悩んだことのない人間にはわからないでしょう。その頃の私を、私は本当に未熟であった自分をながめるようにながめています。
 また、神経の疲れと、性格判断はあまり関係がないのではないかと思います。
 夕べは、東京文化会館で、キエフ・バレーの「白鳥の湖」をみて感激しました。こうしたバレーをみて、うっとりしたり、その音楽を聴いて涙の出るほど心を打たれたりすると、もうこれ以外の喜び、楽しみは何もいらないといった気持になります。
 私が井上さんのお宅を訪ねたとき、それに後日の電話で、井上さんは、女の子がはいたジーパンの、おまんこの割れ目がどうのこうの言って笑っておられましたね。私には、井上さんがどうしてこんなことを言われるのかわかるのですが。
 今日は、横浜地方法務局の人権擁護課を訪ねました。課長と数時間話しましたが、彼は私のほうで、はっきり、犯人はこれだと言って行かない限り、動くことは躊躇しているようでした。陰で動いている「力」に気がねをしているようでした。

 昭和49年8月12日
                    沢 舘 衛
  井上 様

 

 井上さんに会ったとき、彼女から数冊の本をもらった。その中に、「地底からのうた声」という本があった。編者は一条ふみさんという、岩手の一戸町に住んでいる婦人だった。
 8月15日、一条さんより手紙と本が届いた。うれしかった。手紙をもらおうなどとは思ってもいなかったから。送られてきた本は彼女が編集した「淡き綿飴のために」。

 

 1974年8月11日、午前2時45分

 沢舘さん

 先日釜石へ行きました時、井上さんから、あなたのお書きになられました「私の半生」をいただき、読ませていただく機会が与えられました。何となく多忙で、まだ、二度程読み返しただけです。私は、「地底からのうた声」の編集者です。まもなく8月15日がきます。あの時私は情熱もひしぐ僻地校で女教師をしていました。今や教師たちは、聖職者か労働者かで大論争をしています。教育の本質を見失ってはならないと願うのみです。
 山谷の梶さんの多大の協力で発行しました「淡き綿飴のために」をお贈りいたします。時間をさかせることになりますが、御一読下さい。お盆間近ですので、これで失礼しますが、又あとからしたためたく思います。
 お元気で、川の音のみの静かな真夜中です。

                    一条 ふみ

 

             十 一 節

  昭和49年(1974年)

 他の会社には就職できそうもなかったので、8月19日の夕方、会社、中山電機へ電話した。
「解雇になっていなければ、明日から出たいんですが」
 そう言うと社長は、
「ふふ、これから出て来いよ、長く休んだんだから」
 私は電話を切って会社へ行った。6時頃だった。社長室へ。
「いったいどうしたんだい」
 社長は笑っていた。私は黙っていた。
「ずっと遊んでいたのかい」
 私はむっとなり、
「ええ」
 と答えた。社長はすぐに改まった態度になった。私は、中山電機に戻るのが苦しかったので、あちこち仕事を探して歩いたこと、しかし、妨害されてうまくいかなかったことを話した。すると社長は、私が応募した会社から中山電機に、問い合わせがあったことを話した。
 さらに社長は、私に関した中傷など、どこからも言ってきていないと言った。私は
「社員の数人から、中傷があった事実を聞いて知っている。ただ、誰が中傷を振りまいているのかは聞いていない」と答えた。
「それなら知っている者から聞けよ、知らない人間に聞くことはないんだ!」
「その人たちはもう、すっかり押え込まれていますよ。その押え込むのには、社長の力も相当働いていると思うけど」
 そう言ったとき、私はまともに社長と目を合わせることができなかった。テーブルの上を見つめていた。社長が一瞬驚いたように私を見つめていたのを、私ははっきり感じた。この後、社長は私を見くだした調子で激しく責めだした。
「今後、会社でこの問題を出しては絶対にいかん。もし出したら、叩き出すように石渡君にも、室田君にも言っておく。嫌々ながら出て来るなら、来なくていいんだ!」
 私は耐えきれず、いつでも出せるように準備していた退職願を出した。社長は真剣な顔でそれを読んだ。
「仕方ないだろうなぁ」
 彼は力なく言った。それから婦人に電話して、私の給与のことなど話していた。
 私は退職願を出した後考えた。ここをやめて、失業保険がもらえる六か月間に就職できるだろうか? 徹底した妨害が入っている。今日だって、他社へ就職できず、ここへ戻って来たではないか。社員の中には協力的な人も出てきている。今の会社を絶対やめるなと言った叔父の言葉も思い出された。
 私は恥をしのんで、社長に、退職願はもう少し待ってほしいと頼んだ。
「みんなの反応を見て」
 と私はつけ加えた。社長はすぐに私の申し出を受け入れた。しかし、
「みんなの反応を見てからと言ったって、君がみんなの顔を見るのは嫌だが、仕方なく来るというのであれば、みんなとはうまく行かないんだ」
 と言った。
「みんな中傷に毒されてしまって‥‥」
「中傷に毒されたって、そのことで誰が君を追い出そうとしたか! 事実のないことをあったといって責められることくらい不快なことはないよ。中傷は無視しない限り絶対なくならんよ。それを無視できないかい」
 彼はさも、ききわけのない子供を見るように私を見た。社長は、これからまた働くにしても、まずみんなに一言挨拶してから働くようにと言った。私は明日、3時の休み時間に来て挨拶することにした。

 8月20日、火曜日、嫌々、3時の休みに合わせて会社へ行った。二か月ぶりであった。休憩室に入ると、好奇と白々しい視線が私を迎えた。「めずらしい人が来た」と言う者もいたが、多くは無視して、おしゃべりを続けた。とうとう挨拶する機会を逃してしまった。きまり悪かった。鈴木のおばあさんは観察するようなまなざしで、度の強い眼鏡の奥から、じっと私を見つめていた。
 「元気かい」石井があざけるように聞いた。この「元気かい」という言葉、へどが出そうになる。
 8月23日、金曜日。  
人間という生き物に、すっかり考えさせられる。下等さにおいて。会社の人間たちを見ていると‥‥。
 会社に出ると、心が汚されるのを感ずる。
 また、私に不利なデッチあげをされるようでならない。これはずっと以前から感じている。
 社長は敵とグルになって、敵に都合のよいデッチあげに手を貸しているように思えてならない。それがデッチあげではなく、事実だと証言するようなのは、会社の中にはうようよいる。
 会社に出て三日目であるが、会社の者たちの様子を見ていると、こうしてはいられないという気持と怒りで体が熱くなる。

 この後も、警察、人権擁護機関等を何度も訪ね、訴え、手紙を書き、それを無視されると、異議申立書なるものを突きつけていた。だが、どんなに私が訴えても責めても、どうにもならなかった。それどころか、あるところでは、げらげら、にたにた笑われた。
 しかし、このような者たちでも、時には正気に戻ることがあるらしく、深刻になることもあった。しかしそれも長続きはしなかった。
 人権擁護機関というところは、人権の擁護に関しては、全く無力であることをつくづく思い知らされた。法務省人権擁護局の加藤氏が、「ぼくたちは税金ドロボーだと言われている」と言ったが、まさにそのとおりだ。

 こんな中で『あれ、どうしたんだろう?』と思うことがあった。
 9月4日、水曜日、横浜地方法務局人権擁護課の佐藤係長が、中山電機を訪ねたことがあった。
 午後、社長が私のところへやって来て、
「沢舘君、ちょっと‥‥」
 と、顔だけで笑って声をかけた。心は緊張しているのが感じられた。社長は作業場の入り口の方へ私を連れて行った。そこには見覚えのある人が立っていた。しかも、どこかでしょっちゅう会っている人だ。だが誰なのかすぐには思い出せなかった。向こうは親しげに私に話しかけてきた。やっと佐藤係長であることがわかった。
「ちょっと、鎌倉まで来たもんだから」
 私はこのとき、無意識のうちに社長を目で探した。すると社長は顔色を変え、何か危険にさらされた者のような表情で、事務所への階段をかけ上ろうと、手すりに右手をかけたところであった。私は佐藤係長に言った。
「社長と話したって、しょうがないですよ」
「うん、いや、初めに社長にことわってからでないと」
 彼はあまり話をせず、
「二、三日中にまた‥‥、そういうことで」
 そう言って、雨の中へ出て行った。
 人権擁護課が動きだしたのだろうか? 後で横浜地方法務局を訪ねて知ったが、遠野地方法務局から尻を突付かれたみたい。

 4時頃、社長が私を社長室へ呼び入れた。彼は、人権擁護課から職員が来たのであわてたらしい。しかし、どこかへ電話して、「なに、大丈夫だ」という返事をもらったのだろう。安心しているようだった。そして、この「問題」を解決しそうなところまでもっていく私に腹を立てているようだった。
「このまえも言ったね、今後いっさい、会社の内外で君の問題を持ち出してはいけないと」
「会社の外での私の生活まで拘束することは、社長にはできないでしょう」
「いやぁ、会社の外でもやってもらっちゃ困る。とにかくこれからはそのようなことをしてはならんからね」
「でも、会社の外で私のやることまで規制する権利は社長にはないし、そんなことをしたら、基本的人権の侵害ですよ」
「権利があろうとなかろうと、ぼくは言っておく。人権侵害だというんだったら、人権擁護局なり、労働基準局なり、どこへでも訴えるがいい、ぼくは受けて立つ」
「私が訴えたってねぇ」
 私はにやりと笑った。
「それならどうしてやるんだ!」
「私の問題ですか」
「うん」
「やっていれば、わかってくれる人も出てきますよ。みんな、ばかばかりじゃないですから」
「うん」
 彼は微かに答えた。
 こんな論争を一時間以上にわたってやった。

 10月3日、木曜日、法務省人権擁護局へ電話すると、西田という男が出た。私の問題は知っていると言う。そして言った。
「具体的事実がないから調査しない」
 私は、これまで私が提出した書類に基づいて調べれば手がかりは出てくるだろうと言った。
「それくらいのことは、横浜の法務局でやっている。それで事実が出てこないからやらない」
 さらに彼は、
法務省の人権擁護局が、何から何までやるところじゃない。人権侵害だからといって、何でも取り上げるところではない。いくら法務省へ電話しても、訪ねて来ても無駄だ。どこでもあんたの問題は取り上げないことにしているんでしょう。だから、どこを訪ねても同じ返事が出てくるのでしょう」

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 10月2日、水曜日、大船警察署の次長に電話した。数日前、新たにつかんだ情況を提出してあった。
「沢舘ですけど」
「ああ、どうしたい?」
「どうしたって‥‥、それは私のほうで聞くことで‥‥」
「あれは立派だったよ! 手紙ね、あれは立派だったよ。あんたも良い人間だ」
「それで調査をしていただきたいんですけど」
「調査? そんなことはすることないじゃないか、うん? あれはあれで立派なんだから、それでいいじゃないか。これからは大丈夫だよ。君には警察がついているから安心してやっていけよ」
 10月21日、大船警察署を訪ね、次長に会った。私が次長に話したいことがあると言うと、
「なによぉ! 急ぐことではないんだろう? 今日は忙しい。おれは忙しいんだ、君のようにぶらぶらしているんじゃないんだ!」
 そう言って取りつくしまがなかった。私は次長に渡すつもりで持って行った書類を、福岡刑事のいる部屋へ持って行った。福岡刑事は私の顔をのぞき込んで尋ねた。
「体のほうは大丈夫か?」
 彼はこれを数回たずねた。彼は、「機関」に見込まれたら、長くはもたないことを知ったのではないか? 
 彼は私に、「角を立てるな」とか「人をキリで突っつくようなことはやめろ」と言った。
 彼と話していると、若い男が入って来て私の横に座った。私をじっと見つめていたが、一言、
「沢舘君か?」と聞いた。
 福岡刑事のところから出て来ると、次長がこげついたような笑いを浮かべ、
「心を大きくもってやっていけ」
 そう言って私の肩を叩いた。

 

             十 二 節

  昭和49年(1974年)

 10月25日、共産党の鎌倉市委員会の事務所を訪ねた。資料は前から提出してあった。吉岡という若い男が、次のように私を説得してくれた。
「会社の仕事をまじめにやっていくのがいい。誰かに頼ったり、何かの機関に頼む、これはだめ。あんたはいったん地に落とされたんでしょう? そこから這い上がるには、みんなに認めてもらうことが必要なんだ。それには、人を助けるようなことをしなければならない」

 共産党鎌倉市議会議員の小島氏は、9月23日、電話で言った。
「あの本を読んでも、どこまであんたの言っていることを信用していいのかわからない」
「とにかくお願いしたいんですけど」
「うん、検討してみて、何か利益があるなら

 

    10月1日 火曜日

 会社を休む。午後、陶山圭之輔法律事務所を訪ねた。陶山弁護士は、共産党神奈川県委員会人権擁護委員長で、度々選挙にも立候補して顔が知られていた。この人ならなんとかなるのではないかと思った。
 私が事務所に入ろうとすると、中にいた男が私を見て笑っていた。その笑いは明るく感じのいいものだった。そこで渡された用紙に、私が住所、氏名を記入していると、
「どうも、どうも」
 と、大きな声でやって来た男がいた。さっき私を見て笑っていた男だろうと思い、私は記入する作業を続けた。すると、その人は私の前に、名刺を差して出し言った。
「すやまです」
 びっくりして顔を上げると、そこには選挙のポスターで見なれた陶山氏の顔があった。相談コーナーへ通された。
「どういうこと?」
 彼はたずねた。私はこれまでのことを説明した。
「よくわからない」と言う。
 私は持って行った資料の一部を見てもらった。彼はそれを真剣な顔で、うなずきながら読んでいたが、だんだん、どうしようもない調子になっていった。
「弁護士には捜査する権限はないから、本人から具体的な事実を持ってきて、こういう事実があるがどうしたらいいのかと相談されるのならいいが、このように雲をつかむようでは」
 さらに彼は、数年前まで横浜弁護士会の副会長をしていたことを話した。それを聞いて私はがっかりした。横浜弁護士会に所属する弁護士は、私に対しどんな態度をとるかわかっていたから。
 彼は別の資料にも目を通していたが、あるところに目をとめ、
「なんだ、これは、ううん?」
 さげすむように言った。その箇所は、私にあびせられた汚物をはね返すために、私が、私を迫害している者たちと同じレベルにまで自分を引き下げて記述した部分であった。
「あんたは横浜弁護士会の悪口ばかり言って」
 さらに、彼はなにか私を非難するようなことを言った。私は『これはもうだめだな』と感じた。私はさっき胸のポケットにしまった彼の名刺を取り出そうとした。それを察したのか、彼はそそくさと立ち去った。私は彼の名刺をテーブルの上に返し、そこを出た。
 私は彼の前で、横浜弁護士会の悪口など、一言も言わなかったし、他の場所でも言ったことがなかった。ただ、横浜弁護士会の人権擁護委員会を訪ねたときの様子を、ありのまま「私の半生」にのせただけであった。

 彼の事務所を出、階段を降りて行くと、下から私を睨み上げている男がいた。『汚い、出来のよくない人間』といった感じを受けた。その男は何かを恐れ、あわてているようだった。私が階段を降り終るやいなや、男は私のわきをすり抜け、あたふたと階段を駆け上って行った。『そんなにあわてることはなんにもないよ』私は胸の中でつぶやいた。

 

             十 三 節

  昭和49年(1974年)

 10月3日、木曜日、日本弁護士連合会人権擁護委員会を訪ねた。次の書面を持って。

 

   御協力のお願い

 私はこれまで、十数年にわたる、私への人権侵犯を解決するため、あらゆる機関、人を訪ねてきました。市、町の人権擁護委員会、横浜及び遠野地方法務局人権擁護課、法務省人権擁護局、横浜弁護士会人権擁護委員会、日本民主法律家協会、自由法曹団、警察、検察、いくつかの法律事務所、探偵事務所、鎌倉市議会など。しかし、どこでも、私を十数年にわたってつけまわし、中傷し続けている者たちに押え込まれるらしく、私の問題を取り上げないばかりでなく、罵倒されることもありました。
 それで、日本弁護士連合会に御協力をお願いにあがりました。
 参考書類として、拙著「私の半生」、「女」その他を提出します。
 私が現在勤めている会社の社長との会話の記録を提出しましたのは、この社長によって、会社における私の言動が、事実とはかなり違ったものに変えられ、あちこちへ言い伝えられ、私の人格、人間性が故意にゆがめられ、私の問題の解決を妨害しているように思えるためです。
 どうかよろしくお願い致します。

 昭和49年9月18日
                     沢 舘 衛 
  日本弁護士連合会 御中

 

 およそ三か月後の、12月14日、日弁連から次の手紙が届いた。

 

  前 略
 貴殿の人権侵犯救済の申立につき貴殿が長年にわたり悩み苦しんできたことはわかりますが、貴殿に対する中傷の具体的内容がはっきりしません。どの様な中傷をされているか簡単で結構ですから、貴殿にわかっている範囲で書面で御説明下さい。

 昭和49年12月12日
            日本弁護士連合会人権擁護委員会
  沢舘 衛 殿

 

 私の返事。

 

 御質問にお答えします。
 私に対する中傷の内容は、これまでにもいろんなもので主張しているように、「精神異常者」、「変質者」、「どろぼう」といったことです。「私の半生」には、私をつけまわしているのは誰で、具体的にどんなことをやっているかということは、あまり述べられていないでしょう。しかし、何かの機関が、大がかりな方法で私をつけまわしていたことは、「私の半生」、「訴その一」および「訴その二」で明らかでしょう。もし私が、でたらめを書いたのでなければ。
 具体的な事実は、私の書いたものにもとづいて調査すれば出てくるのではないでしょうか。
 中傷の具体的事実を説明してくれと言われても、私には「私の半生」、「訴その一」、「訴その二」で説明したこと以上はできません。

 昭和49年12月14日
                    沢 舘 衛
 日本弁護士連合会人権擁護委員会 殿

 

 また、再三にわたって私から責められる鎌倉市人権擁護委員会が、文書で私に回答してきた。これは鎌倉市人権擁護委員会の会長、常盤温也氏の書いたものだという。

 

 前略、昭和49年10月8日付、貴書拝見いたしました。
 貴方をつけ廻している者や、貴方を中傷している者がいるのではないかというお申し出により、当委員会は調査いたしましたが、そのような事実は全くありませんでした。
 当人権擁護委員の言動は何によるものかとの申し出ですが、貴方のお手紙にあるような言動はあったとは考えられませんし、又当委員会へは、貴方への中傷その他何の力も働いておりませんので、この段ご返事申し上げます。

 昭和49年10月19日
                 鎌倉市人権擁護委員会
  沢舘 衛 殿

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