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  第二編

     第七章 「訴」によるたたかい (一)  

一節 「訴その1」   二節   三節 (文芸春秋社/週刊文春)  四節   五節 「訴その2」   六節 (週刊文春)   七節 (国会に請願書共産党本部)   八節 (謄写版)   九節 「訴その3」   十節 (戸塚−鎌倉駅間に時限爆弾)   十一節   十二節 「訴その4」   十三節 (横浜弁護士会他)   十四節 「訴その5」   十五節 「訴その6」 (尾行−過度の演出)

 

           一 節

  昭和49年(1974年)

 私はとても信じられないような現象に出くわすたびに、それを書きつづっては何部もコピーをとり、警察、人権擁護機関、知人、親戚の人々に送り続けてきた。しかし、もっと多くの部数を作り、「私の半生」を配ったところすべてに配る必要を感じた。でも印刷所に頼んで印刷してもらう余裕は私にはなかった。謄写版で印刷しようと思った。ガリきりは自分でやり、謄写版はどこかで使わせてもらおうと思った。ガリきりは、私はプロに近い仕事ができる自信があった。私は最小限の機材、やすり、鉄筆それに原紙を買ってきて仕事にかかった。
 こうして私は「訴」と題する印刷物を次々に発行することになった。最初の「訴」発行時、まさかシリーズになろうとは思わなかったので、番号をつけなかった。しかしその後必要にせまられて発行し、「訴その二」、「訴その三」‥‥と、昭和55年までの7年間に「訴その十六」まで発行した。私にとり、敵とたたかう武器はペンだけであった。
 次は「訴その一」のまえがき。

 

 私はこれまで、みなさんに「私の半生」その他をお配りし、真実を訴えてきました。本を出した後も、何かあるたびごとに、私は警察及び人権擁護機関、それに私の肉親や親戚の人たち、知人の方々に訴えてきました。私の訴え、真実を、もっと多くの方々に理解していただきたいために、これまで一部の方たちに訴えてきたものを、ここに収録しました。
 私を破滅させようとしておどっている者たちは、私の出した本はでたらめだのなんのと言い、「女」という本にいたっては、それに出てくる婦人が、私の子供を妊娠したという、あっぱれなデマで、その本の訴える力を失わせました。しかし私はどんな下劣な妨害を受けようとも、真実を訴え続けるでしょう。
 もしかすると、私の一生は、この下劣な者たちとのたたかいのみで終ってしまうかもしれません。それでも私は、この「下劣の見本」みたいなやつらとたたかい続けるでしょう。これまでに、私と同じ方法で葬り去られてきた人たち、及びこれからも葬り去られるかもしれない人たちのためにも。こんなことが堂々とやられることを少しでも少なくするために。
 長い年月にわたるたたかいで、みなさんへの訴えを印刷所に頼んで刷ってもらうだけの余裕はなくなり、これは自分でガリきりをしたものです。
 みなさんの御協力をお願い致します。

  昭和49年11月5日

 

 私が「私の半生」を発行すると、「機関」はその本の訴える力を失わせるために猛反撃に出、私をこき下ろした。「訴その一」から「訴その四」までは、それをはね返すために反論したものであった。
 次は、「訴その一」からの抜粋である。

 

 「敵」にすれば、私が寮に入ったことは、私の私生活を調べる絶好のチャンスであったろう。寮から鍵を借りて私の部屋を自由に調べることができる。
 ところが、部屋の中には立派なステレオがあり、棚には百枚近いクラシックのレコードが並んでいる。そのわきには特級クラスの洋酒が並んでいる。本棚にはロシヤ文学を中心にした高度な本がぎっしり詰まっている。机の上には、通信教育のテキストや参考書が開かれたままになっている。
 この部屋をながめたときの「敵」の者たちの気持がわかるような気がする。また、机の下に、段ボール箱に入れて置いた、私の十代の頃からの日記を見たら、私という人間は、彼らが考えているものとは、似ても似つかない人間であることがわかったろう。そこから、私に対するねたみともいうべき醜い感情が生まれていったろう。

   ──────────────

 私は会う人たちのほとんどから、私の健康状態を云々される。彼らは私を廃人同様の不健康な人間か、あるいは、そのうちそうなるものと思い込んでいるようである。初めて会った人に、「なぁに、健康そうに見えるじゃないか」と言われることがある。おそらく「敵」は私を不健康な人間のように言いふらしているのであろう。それは、これから彼らが卑劣な手段で私の健康を奪っていくための下準備であろう。

   ──────────────

 私はよく人から、「あんたは神経がひどく疲れきっている」と、身に覚えのないことを言われる。
 「敵」にすれば、私をつけまわし、その「すぐれたテクニック」で、私をノイローゼにしてしまうか、あるいは発狂させるだけの自信はたっぷりあったろう。ところが私がなかなかノイローゼにもならず、発狂もしない。それどころか、逆に自分たちの正体を暴露しにかかっている。「敵」はあわてると同時に、いつまでたっても私が発狂しないのにしびれをきらし、自分たちで勝手に、私が疲れていると言いふらしているのではないか。

   ──────────────

 「敵」が私をつけまわし、攻撃してくるそのテクニックを見ていて、私は、彼らがこのような「作業」にかけては、かなり熟練していることを感じとった。
 彼らはこれまでに、多くの人間を同じ方法で葬り去ってきたのではないか? たぶん、警察、人権擁護機関の黙認のうちに。あるいはそれらの機関を押え込んだ状態で。またあるときは警察の協力まで得て。そう考えたとき私は恐ろしくなった。
 数年前、「今の制度では、あんたの問題は無理だ」と言った、自由法曹団の田中弁護士の言葉が思い出される。
 彼らは人間の心理にはかなり通じていて、それを悪用して攻撃をかけてくる。
 彼らは私を、普通の人間を計る尺度でもって計ったのではないか? それは彼らの思わぬ失敗につながるだろう。私だからこれまで耐えてきたものの、普通の人間だったら、とっくに参っていたろう。

   ──────────────

 世の中の人はどんなことを聞かされ、私に協力する気持を失わされるのだろう。おそらく「敵」は、それを聞いたなら、誰よりもこの私がびっくりするようなことを言いふらしているであろう。
 それを聞かされた人は、ただ私を白い目で見、嘲笑うだけで、私の肉親をはじめ、誰一人として私に、「あんたのことで、このようなことが言いふらされているが、本当なのか?」と言ってくれた人は一人もいない。本当に冷たいものである。
 それにしても、こんなに大々的にあることが言いふらされていながら、それが具体的な形で私にはつかめないということが不思議でならない。私に決してシッポをつかまれない、そのテクニックの素晴らしさには、ただただ驚かされるばかりである。

   ──────────────

 とにかく、私をつけまわしてきた者たちは、正常な人間とは思えない。かたわ ─ 精神的かたわ、あるいは糞みたいなやつらである。ところが、その精神的かたわ、糞みたいなやつらが、私たちの納めた税金で動きまわり、おまんまを食っているとしたら、日本の社会とは一体何なのか。
 また、そいつらが、日本の警察、報道機関、それにあらゆる人権擁護機関を押え込み、好き放題のことをやっているとしたなら、これはもう‥‥。
 私をつけまわしてきた者たちは、どんなに私から罵詈雑言をあびせられても、決して私の前に堂々と姿を現すことはしないだろう。なぜなら、彼らは自分たちのやっていることが、前例のないほど悪質で下劣きわまる犯罪行為であることをよく知っているからである。

(以上「訴その一」より ─ 昭和49年11月13日発行)

 

              二 節

  昭和49年(1974年)

 中山電気で、私が長い休職や欠勤の後、会社に出た9月初め、事務員の井口が私に、健康保険証を返してくれと言った。理由を聞くと、私の休みが多くて給料がほとんどないとき、保険料を引くのに困るので、私の保険は取り消したという。こんな措置をとったのは社長夫人だという。
 夫人に抗議するなかで、びっくりするようなことが判明した。私はこの会社を一か月半も前に退職しているという。私が連絡なしで14日以上休んだので、7月14日付で自然退職したことになり、今はアルバイトのかたちで働いているのだという。
 就業規則には、14日以上理由なく休んだときは解雇することがある、とある。しかし私は会社から解雇を告げられていない。また、自然退職なるものは就業規則にのっていない。私は夫人に説明を求めた。すると、
「答える必要はないし、そんな時間もない」
 という返事が返ってきた。

 藤沢労働基準監督署を訪ね、相談した。数日後、返事があった。

 

 前略 貴殿の申告事件について調査の結果を連絡します。
 先ず、健康保険の取り扱いにかかる自然退職の件ですが、貴殿の出勤が悪いため、健康保険を扱う社会保険事務所の担当者と相談の結果、資格喪失の手続きをとったとの申立てで、貴殿が勤務する意志があり、かつ、出勤が確実であれば、直ちに加入の手続きをとるとの申立てでした。この点について争いがあれば申立てされたい。

 昭和49年10月2日

 

 この文面からも、私が自然退職したことになっているかどうかわからなかった。10月23日、監督署に電話した。その結果、社長がびっくりするようなことをしていたことを知った。
 監督署の青木課長の話によると、社長は会社のとった措置を、私の両親から了解を得たという。その話しぶりでは、私の肉親がこの地へ出て来たらしい。(岩手から!)。さらに社長は青木課長に、近いうちに私がいなかへ帰ることになっていると話したという。
 私は唖然とすると同時に、「敵」がまた、とんでもなく破廉恥なことをたくらんでいるのを感じた。
 最後に課長は、私の出勤状態から見て、監督署が私の立場に立って会社と争ってやることはできかねると言った。社長は私のタイムカードを持って行って見せたという。
 彼と話しても、自然退職なるものが、まかり通るのかどうかわからなかった。
 11月11日、このことを社長に問いただした。それに対して社長は言った。
「自然退職も解雇もないだろう、君が会社に出て来ないんなら話にならないだろう? やめたことにするのがあたりまえだろう」
「やめたことにするのなら、どうして就業規則に従ったやり方をしないんですか」
「すべては君が正常に出て来るかどうかにかかっているんだ!」
「社長は私の家族に会い、私の自然退職や、健康保険の取消しを私の家族の了解を得たというが、これはどういうことですか」
「会っていない」
「おくさんは?」
「会っていない」
 しかし私が念を押していくと、社長は、
「うちのかみさんが君の兄さんに電話したそうだよ」
 と言った。どんなことを話したのかと聞くと、夫人は私の兄に、私を「引き取ってくれ」と頼んだという。
「社長は、監督署の青木課長に、私が近いうちにいなかへ帰ることになっていると言ったそうですが、これはどういうことですか」
「そんなことわからんよ」

 10月28日、国民健康保険に加入するため、鎌倉市役所を訪ねた。すると私の保険証は、すでに10月15日に発行して私に渡してあるという。いろいろ調べてもらったところ、この日、私が持参した「健康保険脱退証明書」とは別の証明書がすでに提出されていた。だがそれには会社印がなかった。国民健康保険加入による「住民移動書」には「澤舘」の印鑑が押してあった。しかしそれは私のものではなかった。だが記入されている文字の筆跡には見覚えがあった。兄ではないか?
 職員の話によると、私の保険証を交付してもらいに来たのは、年令三十代の男三人だという。彼らは私が入院したので、すぐに保険証を使いたいと言ったそうだ。
 『何のためにこんなことを?』という考えが頭をよぎった。私を強制入院させようとしているのか?
 私に無断でこのようなことをした者たちを私は大船警察署に届け出た。しかしどうにもならないことは知っていた。(そして、どうにもならなかった)。

 それにしてもこんなことをしたのは誰だろう。私の肉親だろうか。労働基準監督署の青木課長の話しでは、私の肉親がこの地へ出て来たらしい。
 このまえ大船警察署に電話したら、次長が、「兄さんと話してみろよ!」と言うのを聞いて、私の兄も完全に狂わされてしまっていることを知った。
 私はいなかの叔父に手紙を書き、事情を説明し、誰か鎌倉へ出て来なかったか調べてくれるよう頼んだ。
 叔父からの返事によると、私の兄と弟、それに姉の主人の三人で出かけたという。
 叔父は手紙の中で次のように言ってきた。
「両親、兄弟共々、一体どんなことを考えているのか、益々見当がつかなくなってきた訳です。恐ろしくなってきました。とことん、衛さんの努力を打ちこわす為の行動の様です」

 兄らはともかく、あの弟までがこの悪事に加わったということが私には驚きであった。が、すぐに『弟も普通の人間なんだ』と思った。
 私の兄弟たちがこの地でどんなことをして行ったかを私は想像できた。
 私をつけまわしている者たちは、私の肉親たちを引っぱり出し、警察や人権擁護機関へ、私の問題を取り上げてくれるなとお願いして歩かせたのではないのか?

 

              三 節

  昭和49年(1974年)

  11月29日 金曜日

 NHKと文芸春秋社(週刊文春)を訪ねた。
 まずNHKの相談センターを訪ね、私の問題をドキュメンタリーの形で取り上げてもらえないか、と相談した。相談を受けた杉本さんという職員は、これは人権擁護機関へ行って相談すべき問題だと言った。私は、人権擁護機関へはこれまで訪ね歩いたがどうにもならなかったと話した。すると彼は、人権擁護機関でどうにもならなかったんじゃ、NHKとしてもむずかしいと言って断った。
 相談室を出ると、左の壁ぞいの椅子に男が二人座っていた。その一人が笑っていた。その笑いを見て私は、はっとした。その男の顔には見覚えがあった。『イヌだ』と感じた。

 NHKを出、文芸春秋社へ向かった。受付の婦人に用件を告げた。
「こちらの週刊誌で取り上げてほしいことがあるんですけど」
「はい、どういうことです? 内容によって係がありますから」
「私、十年以上にわたって、ある機関につけまわされているんです。警察や人権擁護機関へ行ったけど、私をつけまわしている機関に押え込まれてしまうらしいんです」
 彼女は電話を使わずに、どこかへ立って行った。
 6,7分して彼女は帰って来た。待っている私の前を通って行くのに、私には何も言わなかった。受付の席に戻ってからも黙っていた。変だなと思った。しばらくして彼女は言った。
「さわだてさん、いま上から降りて来ますから、しばらくお待ちになって」
 まもなく一人の男性が降りて来た。別の部屋へ通された。私が説明しようとすると、彼は私をさえぎり、
「いま上で聞いてきた」と言い、今、忙しいところを出て来ている。今晩はこれから徹夜で仕事をする。それで私とも長くは会っていられない。話を簡潔にするために言うけど、と言って、次のようなことを話した。

 あんたと同じことを言って来る人は1年に15人(?)もいる。それでぼくはそろばんをはじいて計算してみた。なり何なりが、ある人をつけまわして、それにみあったペイ(pay)があるのかどうか。ぼくの言うことわかるだろう? 一人の人間をつけまわすには、一日少なくとも何人(?)の人がついて何円(?)かかる。一か月に何円(?)、年に六億円かかる。いいか? これくらいの金をかけて追いかけまわす理由があるのか? その人間が何かするか、あるいは話すことによって、六億円に値する何かを持っているのか? ぼくは、あんたがその六億円に値する何かを持っているときだけ取り上げる。それがなかったら取り上げない。

「そんなものは私、持っていませんよ」
 私は笑って答えた。
 私と同じことを言ってくる人が多くいるということを聞いて、私はびっくりした。私をつけまわしている者たちが、私を破滅させようとして駆使するテクニックを見て、私は、彼らがこのような作業にかなり熟練しているのを、ずっと以前から感じていた。やっぱり彼らは、多くの人間を同じ方法で破滅に追いやっていたのだ。週刊誌社を訪ねたのは、その攻撃にあるていど耐え抜いた、わずかの人たちであろう。その陰には、さらに多くの人々が抹殺されているのではないか?
 週刊誌社を訪ね、そこでも取り上げてもらえなかった人たちはその後どうなったのか。現在でも、まともな姿で生存しているのか?
「私と同じことを言ってくる人は、ほかにもいますか!」
「ああいる。1年間に15人も来た。しかし、その人が帰った後、その家族に電話して聞いてみると、そんなことは全然ないという。家族もそれで困らされていると言ってくる。その人は、そのことか、あるいは別のことでノイローゼになっているんだ」
 それを聞いて私はまた驚かされた。私の場合も全く同じだ。私の家族へ電話すれば、
「そのようなことは全くない。ないことをある、あると責められ、困っている」
 そう言うに決まっている。

 私は持って行った資料を彼に渡した。「私の半生」、「女」、「訴その一」。
「ここへ来るときもつけられたか?」
 彼はたずねた。さらに彼は続けた。「あんたがこのビルに入って、どの出口から出るのか、つけている者たちにはわからないだろう。出口は三つあるから、少なくとも三人で見張らなければならない。もしあんたがこのビルからこのまま出ないでいたら、どういうことになるのかな」
 彼は私と一緒に玄関の外まで出た。歩きながら私は彼の名前をたずねた。村田さんといった。私は彼に言った。
「私をつけまわしている者たちが、ここへ来るかもしれませんよ」
「ああ、来たってびくともしない。来れば、かえってつけまわしているということが事実だとわかる。だが押え込まれることは絶対にない」
 玄関の外へ出た。もう暗くなっていた。村田さんも外へ出、そこでしばらく話をした。
「ぼくんとこへ何も言って来なければ、そんなことはないということになる」
「でも、それだけの事実がありますからね」
 私は彼に渡した資料を指さして言った。
「あんたをつけている者が、どこかで見張っているとすると、ぼくが見えるように、こうしているんだ」
 そう言って彼は、その資料を高く持ち上げ、暗闇に向かって振ってみせた。私はうれしくなり、彼と別れた。
 彼が私をつけまわしている者として、まっさきに「」という名称を使い、また私と同じことを言ってくる人間が、ほかにも多くいるということが不気味に私の心に残った。

二度目の訪問

 

              四 節

  昭和49年(1974年)

 「訴その一」を発行したのは11月半ばであった。それからしばらくの間、家主のおやじはアパートの廊下を掃除しに来なかった。ところが12月5日、おやじがやって来て鼻歌をうたいながら、威勢よく掃除を始めた。私の部屋のドアをほうきでガサガサ擦った。私はそれまでの経験から、家主がこのようなデモンストレーションをするのは、私の努力がぶちこわされたときであることを知っていた。このとき私は、「訴その一」も力を失わされたことを知った。
 私はじっとしていられなくなって、あちこちへ電話をした。警視庁、文芸春秋社、自由法曹団、それに横浜地方法務局へ。それらへは「訴その一」を郵送、または手渡してあった。
 警視庁防犯総務課の飯塚さんの答え。
「あの本を読んだが、さっぱりわからない。具体的事実がどこにもない。あれでは裁判所へ持って行ってもどうにもならない」

 文芸春秋社の村田さんにも電話。
「沢舘ですけど‥‥」
「ああ‥‥、このまえ、二、三日ひにちをくれと言いましたね。今日でまる二日しかたっていないですよ。あんたは勝手な人ですね‥‥、私のほうにも都合がありますよ。あんたを中心にして世の中はまわっているんじゃないですよ。本当に勝手な人ですね」
「ええ、みんなにもそう言われます」

 自由法曹団及び、横浜地方法務局では、担当者がいないと言って断られた。どこへ電話しても期待した返事が得られず、傷ついた心で、カウンセラーの麻生さんに電話してみた。
「沢舘ですけど」
「ああ、どうだい、電話を待っていたよ」
「先生、怒っていませんか」
「なに、怒ってなんかいないよ‥‥、会いたかったよ」
 私は「訴その一」に、中山電機とカウンセラーについても書いた。そしてその「訴その一」をカウンセラーにも送ってあった。
「私、これまで何度か先生に電話しようかと思ったんですけど、何か怒られそうな気がして恐かったんです」
「恐くなんかないよ。おれは君が怖いんだ。この世でおれにとって怖いのは君一人だ」
 かなり長く話した。公衆電話で、400円ほど使った。彼は言った。
この世の中は、みんな愚図ばっかりだ。ぼくみたいな愚図ばかりなんだ。その中で君一人だけが純粋だっていうことを忘れてはいけないよ。その中で、君一人が一生懸命になって真実を叫んでいるんだ。みんな愚図でも、その中には少しは、そういうものに共鳴する心を持った人間もいるんだ。その人がどれだけ君のためにやってくれるかなんだね。君にゆすぶられて、少しは心を打たれる者もいるんだ」
「世の中の人が、みんな先生のような人ばかりだといいですけどね」
 私は今あちこちへ電話したこと、そして期待できる返事をもらえなかったことを話した。
「世の中の、君についていけない人たちがそんなことを言ってごまかしているんだ」
「泣き寝入りしなければならないですかね」
「いや、泣き寝入りすることはないよ。ただ、たたかいの方法だな。君は文章も書くし、絵も描く。そのほうで君の信念を表現したらと思う」
「私、これまでのことを、どんなに長くなっても、書くつもりでいますけど」
いまに、世の中が変ってから‥、これから十年先、あるいは、ぼくも死に、きみも死んでから、世の人に認められるときが来るかもしれない」
「そうなら、ありがたいんですけどね」
 私は麻生さんと話して、心が救われたような気がした。

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 12月6日、金曜日。

 大船警察署へ電話をし、次長と話した。
「何の用だ?」
 次長が言った。私は、人権問題及び、このまえの文書偽造の調査を催促した。
「心配するな、警察にまかせておけ。警察はいま調べている。兄に相談しろ、兄と一緒に来たら相談にのってやる。会社へは行っているのか? ‥‥じゃ、別な仕事でも見つけて一生懸命働け。そんなことを心配しているからノイローゼになるんだ」
「ノイローゼになるなら、とっくになっていましたよ」
「ハハハ、まだなっていないのか、これからか」
 次長は私の兄についてたずねた。
「兄さんは福祉か何かに関係した仕事をしているんじゃないか?」
「教育委員会ですよ」
「教育委員会にいるなら、立派な兄さんだろう」
「兄は完全に押え込まれていますよ。私はそのことを、このまえ次長と話していて感じとりましたよ」
 だが次長は、もう私の言うことには耳をかさず、
「兄に相談しろ、兄と一緒に来い」
 と繰り返すばかりだった。
「狂った兄に相談したって、どうにもならないでしょう」
「君のほうが狂っているんだろう」
 もしかしたら、このまえ兄らがこの地へ出て来たとき、兄は次長にも会い、意気投合したのではないのか。

 午後、会社、中山電機へ電話をし、やめることを告げた。どうしても私には出て行けなかった。がまんしていると自分がだめになるのを感じた。

 

              五 節

  昭和49年(1974年)

 「私の半生」を出した後も、市民の間から膿のようなものがにじみ出てくるのを感じた。それを一掃するために「訴その一」を配った。それで十分だろうと考えていたが、それでも嘲笑は消えなかった。とくに鎌倉市役所市民相談室の坊主頭の若い男や、市議会共産党事務局の上田の表情が目に浮かんだ。

 「訴その一」を発行してから一か月後には「訴その二」を発行した。「訴その一」が40ページだったのに対し、「訴その二」はわずか7ページだった。
 「訴その二」には、NHK及び、文芸春秋社(週刊文春)を訪ねたことをのせた。しかしこれらはすでに本書で取り上げたので、それ以外のものを次に引用する。

 

 「敵」はこれくらい私をつけまわし、中傷し、そして私が救いや協力を求めて訪ねるあらゆる機関、人を押え込み、私を受け付けないようにしたら、私が発狂するか、あるいは自暴自棄になり、暴力行為を起こし、とっつかまることを確信していたろう。(それが彼らの「公式」であろう)。
 ところが、神様のような私がそれに耐え、これまでやってきた。だが「敵」は、その私をあちこち突っついたり、ひっくり返したりして、さんざんあらさがしをし、ニキビ一つを見つけては、らい病患者のように言いふらす。

   ───────────────

 「敵」は私の性格を、どうのこうのと、たわいのないことを言うことで、自分たちの下劣な犯罪行為を紛らわし、ごまかしてしまおうとしているのではないのか。
 私には、ほんのわずかの欠点、不正も許されない。普通の人なら誰でも、あり余るほど持っているようなものの、ほんのわずかでも私が持っていると、それはもう私の人格、人間性、さらには私の生存価値をも否定することにつながる。
 つい最近、ある人から「あんただけが正しいんじゃいんだ」と言われたのに対し、私は答えた。「別に私だけが正しいとは思っていませんよ。私がみんなより飛び抜けて正しいというよりは、相手があまりにも下劣で悪質なんですよ。私は普通の人間ですよ」

   ───────────────

 ここで、みなさんに言っておきたいのですが、私に対する非難が、事実にもとづいたものであったとしても、どうして私がそのようなことをやったのかという、私の説明、言い訳なしで言いふらされているということを忘れないでいただきたい。私を非難している者たちは、私に秘密で、しかも私の耳に入らないようにしておいて中傷をふりまいているのです。私に反論されると、その中傷はたわいのないものになってしまうのを知っているからでしょう。
 私はまわりの人たちの様子から、どんなことが言いふらされているかを察して、その中傷、非難をくつがえしてきたのです。

   ───────────────

 私はよく人から、「そうやって働かないでいて、よくこんな立派な本を出すことができるね。その金はどこから出ているんです?」と疑い深い目で見られることがある。私が盗みなんかで手に入れた金でこんなことをしているというのか。
 私の金がどんなものかは、私をつけまわしている者たちがよく知っている。しかし、人々にそのような疑いを植えつけているのは、その、私をつけまわしている者たちであろうが。
 税金を使って不正行為を働いている者たちが、私がこつこつ貯めた金で、悪(彼ら)とたたかい、真実を通すためにたたかっているのを非難しようというのか。

   ───────────────

 このまえ、文芸春秋社の村田さんが、真っ先に「国なり何なりが、ある人間をつけまわして‥‥」と言った、その「国」という言葉が鋭く私の心に響いた。それは、私の心の中で、すでにうずいていたあるものと呼応したようだった。
 私はこれまで、私をつけまわしていると思われる、いくつかの機関を訪ね、追求してみた。警察、検察庁、公安調査局、保健所など。それらのうち、いくつかの機関は、あるていど動いていたようだ。初め、警察がその中心になって動いているのではないかと考えた。しかし、警察は他のある機関に動かされたものらしい。保健所の力からいって、保健所が中心になっているとは考えられない。検察庁は警察と一体みたいなものだ。すると公安調査局か? しかし、私に対する中傷、攻撃の内容は、「精神異常者」だの「変質者」だのという病的なものであり、公安調査局の受け持つ仕事の範囲とはかけ離れている。
 それでは、中心になって動いていたのは誰なのか? もしかしたら、一般の市民、国民には知られていない国のある機関が、あらゆる国家機関を総動員しておどっているのではないのか。
 何のために?
 国のある機関が、あることから、「この人間を生かしておいては、社会のために良くない」と判断したときは、その機関は、国のあらゆる機関を動かし、その人間をこの世から抹殺する作業を開始するのではないのか。社会福祉のため、人類の発展のために。
 しかし現在の法のもとでは、いくら生かしておいてはよくない人間だからといって、何もしないのに捕まえてきて、馬や牛を殺すようには殺せない。そこで、どんなに膨大な人員と費用を注ぎ込んでも、徹底してその人間をつけまわし、どんな小さな悪事をも見逃さず、つかもうとする。また、あらゆるテクニックを用いて、その人間が悪事を働くようにしむける。
 それには、下劣きわまる中傷、デマを市民に広くふりまき、その人間を笑いものにし、どこへ行っても人間扱いされないようにしておき、そのはけ口のない怒りから、その人間がとんでもないことをやりだすか、あるいは発狂するような状態に追い込んでいく。
 一方、警察やその他の機関に、恐るべき先入観を植えつけ、それらの機関にも調査させる。また犯人の出てこない事件にすべてその人間を結びつけさせようとする。保健所にはその人間の精神分析をやらせ、そこから自分たちに都合のよい結果を引き出すのではないのか?
 とにかく、あらゆる手段で、その人間を「自殺」あるいは「発狂」または「刑務所」へ追いやろうとする。そのためには、どんなに破廉恥なデッチあげでもなんでもかまわない。どうせ、そのうちこの世から抹殺してしまう人間なんだ。どんなことをやってもかまわないのである。
 だから人権擁護機関も手を出さないのだ。人権擁護機関がその問題を取り上げることは、それは、愚劣な者たちに対しては、「公務執行妨害」になるのではないか。
 病院または刑務所へ入れてしまえば、あとの作業は簡単。適当な薬で、廃人にしてしまうか、あるいは病死ということにしてしまう。
 週刊誌社を訪ねて行った人たちは、その後どうなったのか?
 この気違いみたいなやつらに見込まれた人こそ、とんだ禍である。
 私がこれまで耐え、たたかってきたので、この恐ろしい現実が表面に出てきたのであって、これまでは、闇から闇に葬り去られてきたのではないか?
 「敵」に利用され、私に対してその愚劣さ、破廉恥さを発揮した者たちが、その愚劣さ、破廉恥さを私にあばかれ、名誉を傷つけられた人はいっぱいいる。
 しかし「敵」は、そういった人たちに、「なに、心配すんな、いまにあいつに汚名をきせて、この世から消してみせるから」となだめ、自分たちの恐ろしい作業に加担させてきたのではないか?
 私が、まだこんな恐ろしいことを考えるようになっていなかった、今年(49年)の5月の中頃、昼食に、何か(毒が)入れられたのではないかと感じたことが二度あった。二度とも、食後、全く同じ症状が現れたから。私はそれからは会社へ出ても、外食したり、出前を取ったりすることをやめ、近くの店から、パンや牛乳など、自分の手で選んだものばかり食べるようになった。

   ───────────────

 49年春、岩手の生家へ帰ったとき、母は私を、まるでこれから死におもむく人を見るように、あきらめと憐れみの表情でじっとながめていることが何度もあった。
 また知人の何人かは、目に涙を浮かべ、「どこへ行っても体にだけは気をつけてな」と、どうにも救いようのない人間を見るように私を見送った。
 私をあきらめと憐れみで見た人たちは、いったんそれに見込まれたら、もう決して助かることのできない、恐ろしい機関が私のことで動いていることを知っていたのであろう。
 私の父などは、私がどんなにもがいても、私に協力する人が出てこないことも、解決しないことも完全に確信し、安心しきっている。父は、私をつけまわしている者たちの素晴らしい力を信じきっているようだ。

 (以上「訴その二」より ─ 昭和49年12月8日発行)

 

              六 節

  昭和49年(1974年)

  12月17日 火曜日

 「訴その二」を持って文芸春秋社(週刊文春)を訪ねた。そのまえに警視庁に寄り、飯塚さんに「訴その二」を渡した。彼は、
「その後、何かあった? 今、仕事は? ‥‥やめた、うーん」
 と言い、「訴その二」を手に取っても、
「これだけじゃむずかしいね」と言った。

 文芸春秋社へ。
 「訴その二」に目を通した村田さんは激しく怒った。彼との会話を、彼に無断でのせるなんて非常識もはなはだしい。しかも、ニュアンスが違っているという。
 それでも「訴その二」の中の、食事に毒を入れられたらしいことを書いた部分を読むと、彼はそこに印をつけ、さらに詳しく私に問いただした。彼は私の言うことを丁寧にメモした。それから次のようなことを言った。
 わたしのところへは、どこからも何とも言ってこない。つけまわしている者が本当にいれば、その者は誰よりも、このわたしを恐れるはずだ。それがわたしを放っておくはずはないだろう? これをどう説明する?
 「実際に誰かがこちらへやって来て、こちらが押え込まれていれば、『来た』なんて言いませんからね」
 私がそう答えると、彼はかんかんに怒った。
「それは、わたしと文芸春秋社に対する侮辱だ! 今言った言葉を訂正しなさいよ、訂正しないんなら、すぐにここを出て行ってくれ!」
 なぜか私は訂正しなかった。ずっと後になって、この日の日記を読み返したとき、『訂正していれば、別の道が開けていたかもしれないな』と思った。その頃の私は、どこを訪ねてもそこがつぶされるので、もう、そういうものだと思い込んでいたのかもしれない。
「わたしの言うことを疑っているんなら、話しても無駄だ。これでこの問題の話はおしまいですね」
 彼は、私が提出しておいた資料を全部私に返した。
「失礼しました」
 私は静かに言って彼の前から去った。
「不愉快だっ!」
 彼は私の背中にあびせた。

 

 「訴その二」をあちこちへ郵送した後、いなかの稲子おばさんと、井上さんから便りがあった。
 おばさんの手紙。

 

 衛君、長らく御無沙汰しました。ごめんなさいね、つい心から離れてはいませんが、物を考える力の減退していくこの頃の自分は、衛君のような鋭い感覚の持ち主に、満足のゆくような手紙の書けないのも理由の一つかも知れません。ほんとうにごめんなさいね。
 今年も逝こうとしています。早いものです。衛君は元気で居られることと思います。相変らずいろいろと考えごとをしているでしょうね。今どんな本を読んでいますか。
  (中略)
 お正月には帰って来ませんか、忙しいですか。昔といっても衛君達の子供の頃のような雰囲気ではないでしょうが、やはり正月という行事は、昔乍らの様式を止めています。
 それぞれの過去を反省する良い機会なのかも知れませんね。お餅でも食べましょう。帰っておいでなさいね。

 12月17日
                    稲 子
   衛君へ

 

 「正月には帰って来い」。この言葉は、私が家を出されてから、肉親たちからは、ただの一度も聞いたことのない言葉であった。
 次は、井上さんからのはがき。

 

 すっかり調子が悪く、床におる日が多く、お手紙にも訴えにもお返事がおくれました。当方には衛君に対しての何の調査も一度もございません。私は思うのですが、衛君の根底からの思いたがえから、今だ、自分が色々圧迫されていると勘違いしておられると思います。
 色々な場所に足をはこばれても、相手方は一応にも二応にも調べてくれている筈なのに、衛君への迫害の事実がないので貴郎にそんなことないと謂うのですよ。ひとりやふたり善意で正義のために闘争してくれる人がもうあってもいい筈なのに、今だにそれがないということは、迫害の事実がない証です。せっかくの文才のある貴君なので、すっぱり今までのことを忘れて、働きながら創作して見てはどうですか。そして貴君は自分の事のみに専念しておられるが、もっと広く社会のさまざまな現象を知ることです。寒いのでおからだに気をつけて下さい。そして生きるために働くことです。お大切に。

 

 次は、井上さんへの私の返事。

 

 おはがき受け取りました。
 私が主張していることが根底から私の思い過ごしだという井上さんにびっくりしました。まだ、くすぶっている火事の現場に立ち、「火事はなかったのだよ」と言われているようでなりません。思い過ごしで長い年月にわたって、私がさわいできたのだとしたら、私の精神は正常ではありません。どうして井上さんは私に精神病院へ入院するようすすめてくださらないのでしょうか。それどころか、文才を生かして創作をするようすすめています。もし私の心が病んでいるとしたら、何を創ることができるでしょう。
 ある人(弁護士)は私に、「裁判長でさえ、買収されることがあるんだ」と言いました。ふつうの人が押えられて私に協力しないのは当然でしょう。

 

              七 節

  昭和49年(1974年)

 「私の半生」の中で、私は新日鉄釜石製鉄所、共産党それに警察を非難したが、発行してから一年ほどして、それが間違いであることがわかってきた。その背後には、国の機関がおどっていることがわかった。警察にはすでに文書で謝罪してあった。
 12月25日、釜石製鉄所長あてにも手紙を書いた。

 

 私に対する人権侵犯に関して、何かお心当たりがありましたら、御協力していただけないでしょうか。
 私がこれまで新日鉄釜石製鉄所を非難してきたのは、おそらく間違っていたでしょう。そのことがはっきりしたときは、処罰を受けることも、謝罪広告を出すことも覚悟しています。
 御協力をお願い致します。

 昭和49年12月25日
                         沢 舘 衛
  新日本製鉄株式会社 釜石製鉄所長 殿

 

 私はこのころ、鎌倉市岩瀬にある、古いアパートに住んでいた。私の隣の部屋には若い女が一人で住んでいた。ある頃からその女の部屋に、五十歳過ぎの女が入り込んで一緒に住むようになった。その老女とは、めったに顔を合わせなかったが、その人相を見たとき、その女がどんな仕事をしている人間か、すぐにわかった。
 この老女は、若い女が働きに出た後も、ずっと部屋に一人で残って息をころしていた。そして、私が参ってしまうのを、発狂するのを、今か、今かと待っているようだった。
 私がこんなことを言うと、ほとんどの人は「思い過ごしだ」と言うでしょう。私もそう考えた。しかし、心のレーダーがびりびり作動していた。私は心のレーダーを信じるしかなかった。

 ある時期から若い女は働きに出るのをやめ、何か月にもわたって張り込みに加わった。
 私があちこちを訪ねて訴えたり、印刷物を配ったりして、問題が良い方向へ向くと、彼女らは小さくなっていた。が、それがぶちこわされると、彼女らは緊張の解けた声でさえずった。
 日中、老女はよく窓を開け、窓辺でパチン、パチンと爪を切った。ある日、老女は爪を切りながらつぶやいた。
「よく持つわねぇ」
 私はどこへも出かけず、部屋に閉じこもっていても、彼女らと、このアパートの家主のおやじの様子から、私の問題の進退を手に取るように知ることができた。

 

  12月29日 日曜日

 「訴その二」をあちこちへ配ったが、それもぶちこわされたのを数日前から感じている。
 私の問題は、まっこうから取り組み、いろんな機関を訪ねて頼んでも解決するものではないことは、私もすでに感じている。それでも私が今、いろんな機関を訪ねているのは、私のたたかいにまとままりをつけるためにやっていることである。これらは後で重要な材料になるはずである。

 国会に請願書を提出しようと思い、作成した。その内容は要約すると次のようなものであった。

 「これまで私は、何者かにつけまわされ、人権を侵害されてきた。私をつけまわしているのは、警察その他の組織をも自在にあやつれる力を持った国のある機関であるらしい。その機関が何なのか、またどうして私に対してそのような行為をとったのか、その理由を明らかにしてほしい。この機関の存在を明らかにし、国民に広く知らせることにより、私と同じ目にあっている人々を救い、このような恐ろしい仕組みを廃止させたい」

 昭和50年1月6日、この請願書を持って国会へ出かけた。しかし、請願するには紹介議員が必要だといって断られた。
 その足で共産党の中央委員会(本部)を訪ねた。党から紹介議員を出してもらえないかと思った。
 入口玄関を入って右側の応接室で、中野と名乗る三十五、六歳の男性と会った。私は資料(本)を渡し、私がおかれている状況を説明し始めた。私が説明している間、彼は私の顔は見ず、ずっと下を向いていた。まもなく男が二人、私の後ろへやって来て座った。心のレーダーがその者たちに反応した。
 そうしているうちに、誰が連絡したのか、もう一人の、てきぱきした男がやって来て、私に次のようなことを言った。
「こういった面の問題は、党としてはやっていない‥‥、もう少し、ある時間をおいて、様子をみてから話し合うことにしますか(それまでにはあなたは始末されるでしょう)。どんなことを言われても、気にしないでやっていったらどうです?‥‥新宿の駅へ行ったことある? 夜遅く行くと、地下道に乞食みたいなのがゴロゴロしているよ。あんな者たちのほうがよっぽど問題なんだ
 彼はしゃべりなれたせりふを言うように、言うだけのことを言うと、私の言うことなど聞こうともせずに立ち去った。
 私と中野が残された。彼は小さくすくみあがり、弱々しい、驚いたような笑いを浮かべていた。私は彼の様子から、私の後ろの男二人から鋭い視線を浴びせられているのを感じた。
 紹介議員の話など、持ち出せなかった。翌日、手紙でお願いしたが、何の反応もなかった。

 私は、それまでの印刷物を、過去に交際のあった女性たちにも送り続けていた。「訴その二」を送った後、そのうちの一人から、封も切らずに「受取拒否」で返送されてきたことがあった。それは、私が大槌から釜石へ通っていた頃、心をひかれ、手紙を書いた、当時の高校生であった。少しばかり驚いた。すぐに、はがきを書いた。

 

 本日郵便物をお返しされ、私がこれまでお送りしていたことがご迷惑になっていることを知りました。そのうえ、またこんなはがきを書くあつかましさをお許しください。ただ一言いっておきたいことがありますので。
 私がこれまで本その他をお送りしましたのは、私をつけまわしている下劣なやつらによって、あなたの思い出の中の私に泥を塗られ、あなたが不快な思いをしているとしたら、その不快さを少しでも軽くしてやることができればと思って送ってきました。それ以外に他意はありませんでした。
 このはがきはお返しになるには及びません。破いて捨てるなり、焼き捨てるなりしてください。今後は絶対にこのようなことはいたしません。失礼いたしました。

 昭和49年12月25日

 

 しかし私は、返送されてきた郵便物を見たとき、これは彼女自身の意志によるものではなく、彼女の家族が彼女に無断でやったことだろうと思った。

 

              八 節

  昭和50年(1975年)

 「訴その二」から、わずか一か月ほどで、「訴その三」を発行する必要にせまられた。
 原紙のガリきりは済んでも、それを印刷するのは困難だった。「訴その一」は逗子まで出かけて商売人にやってもらった。「訴その二」は近くの幼稚園の謄写版を借りて刷った。しかし、今度はそのどちらも断られた。
 電話帳で、謄写印刷をやっているところを探し、出かけても、法外な値段をふっかけられて、すごすご帰ったこともあった。
 戸塚商工株式会社というところでも謄写印刷をやっているようなので電話してみた。すると、むかしの謄写版による印刷ではなく、輪転機だという。私の原紙は取り付けられないという。
「謄写版はないんですか」
「あるけど技師がいない」
「使わないなら安く譲ってもらえないですか」
「それはできない」
「じゃ、私が行きますので使わせてもらえませんか」
 電話の男性は誰かに相談していたが、
「外におっぽり出して、雨に濡れているけど、よかったら持って行きなさい」
 私は喜んで雨の中を出かけた。大船から戸塚までは電車で一駅。

 行って見ると、軒下に謄写版やヤスリ、ローラーなどが一かたまりになって雨にうたれていた。まるでゴミの山だった。『使えないんじゃないか?』謄写版を取り出してみた。それは初めて見る形のものだった。網を張ってある枠は反り返っていた。用紙をくわえる金具もなかった。使い方を聞くと、用紙はただ台の上に重ねて置き、刷り上がったのは手で横へ引き抜くのだという。これが本物の謄写版かと思った。肝心の網はピンと張っていてほとんど傷はなかった。それで『もらおうか』という気になった。しかし網には古いインキがついたまま固まり、網の目が完全にふさがっていた。インキを伸ばす鉄板製の皿も取り出した。これにもインキがへばりついていた。ゴムローラーは傷がついていて使いものにならなかった。
 雨の中でそれらを選び出している間、何度もやめようかと思った。こんながらくたを貰っていく自分があまりにもみじめだった。しかも冷たい雨が降っていた。
 だがこれを貰うのをやめたら、印刷はどうする? 新しい謄写版を買うか? きのう、店で聞いたら1万5千円もする。この謄写版を修理したら使えるようになるかもしれない。それに私は今、失業中だ。修理するための時間はいくらでもある。私は持ち帰ることにした。私は中へ入り、段ボール箱を貰おうとした。すると、さっき私を案内した男は、すっかり様子が違っていた。顔をゆがめ、私をさげすむように見ていた。私を尾行していた者たちから何か聞かされたのか? 箱は貰えなかった。大きな紙と黒いビニール袋、それにほんの少しばかりの紐を貰った。インキ皿と謄写版を重ね、紙で包み、ビニール袋に入れたが、袋が小さく、中身がはみ出した。紐は短く、一重にしかかからなかった。紐を持って下げることはできなかった。それをわきの下にやっとかかえ、傘をさして、帰る方向を確認もせずに歩きだした。すると、さっき入って来た入口とは別の出入口(門)へ出た。守衛室があり、守衛が二人いた。守衛が私を呼び止めた。そこは日立の通用門だった。戸塚商工株式会社というのは、日立の構内にあったらしい。
「どこから来た?」
 守衛が聞いた。
「商工会議所‥‥、いや、印刷工場から古い謄写版をいただいて来たんですけど」
 一人の守衛は、ニタニタ笑いながら私から顔をそむけた。ああ、なんという屈辱!
 戸塚商工を訪ねたときから、私は一種の病的な神経状態におちいっていた。口が重く、舌がうまくまわらない。このような状態はよく知っているものであった。こんなものからはとっくに脱していると思っていただけにショックだった。

 荷物は重かった。それをかかえた腕の指先がやっと下にかかった。腕はしびれ、指が痛かった。そのうち、指をかけている部分のビニールが破れた。駅まで15分もこんな状態で歩くのは苦痛だった。雨は強く、冷たかった。ズボンは濡れ、靴に雨がしみこんだ。このがらくたを持ってこのまま歩いたら、ますますみじめになり、救いようがなくなるのを感じた。
 どこかへ捨てて帰ろうと考えた。ゴミの収集場所を探しながら歩いた。途中の空き地に古雑誌が紐でしばられて捨ててあった。私はその隣にがらくたをおっぽり出した。それを捨てることにより、辱しめからも開放されるように感じた。
 電車に乗った。謄写版のインキで手が汚れているのが気になった。大船へ着いた。こんな精神状態では、アパートへ帰ってからやりきれないだろうと思い、ブランデーを買って帰った。部屋へ入るなり、すぐに飲んだ。気持がいくらか落ち着いた。手の汚れを石けんと軽石で完全に落とした。
 今日、自分のとった行動がおかしくなった。印刷はどうする? ふと、捨てた謄写版が惜しくなった。ほろ酔いかげんで気持が軽くなった。明日、晴れたらあの謄写版を取りに行こうか、という気持が起こった。たぶん、あのまま同じところにあるだろう。私は自分の謄写版を持ったときのことを想像してみた。誰にも気を使わず、夜でもいつでも自分の好きなときに、自分の部屋で印刷できる。しかも印刷物の内容を事前に「敵」に知られることなく。そうしたらなんと楽しいことか。
 ふと、これから取りに行ってこようかと考えた。雨が降っていて外は暗いが、まだ4時前だった。私は出かけることにした。長靴を履いてなら足元が濡れることもない。レインコートを着、丈夫な長い紐も持った。ほろ酔いかげんで出かけた。バスで行った。駅から長い道のりを歩くのは嫌だったから。「日立入口」で降りた。裏道へ入った。初めて通る道で、謄写版を捨てた空き地がどこにあるのかわからなかった。歩いているうちに小便したくなった。裏道で夕方、それに雨が降っていて人通りはない。私は立ち止まって、道端の、雨であふれそうになった溝に向かって立ち小便をした。行く手を見ると、がらくたを捨てた空き地がすぐそこに見えた。おかしくなった。
 あんなに屈辱を味わわされた、がらくたを拾うことに、あまり抵抗を感じなかった。あの屈辱を伴ったがらくたは、さっき完全に捨ててしまったのだ。捨てるとき、私は後でそれを拾いに来ようなどとは夢にも思わなかった。今は、完全に捨ててあるものを、誰にも屈辱を感ずることなく拾うのだ。これは前のがらくたとは別のものなのだ。
 近くの建物の軒下で紐をかけ、楽に下げられるようにした。バスはなかなか来そうがないので駅まで歩いた。

 部屋へ持ち帰り、新聞紙を広げ、その上で掃除、手入れにかかった。謄写版は、網が張られてある枠が下がりっぱなしで、自力で上がってくれなかった。スプリングを引っかける金具が破損していた。金具を作り直せば、枠はスプリングの力で持ち上がるだろう。
 固まりかけたインキがベトベトして大変だった。ほとんど徹夜で、物の気につかれたようにやった。疲れを感じたが途中でやめることはできなかった。気のすむまでやった。なんとかなりそう。うれしくなった。手は真っ黒、顔もベトベトして気持悪かった。湯をわかし、顔を洗い、手の汚れをすっかり落としてふとんに入った。
 翌朝、といっても正午頃起き、町工場へ行って金具を作らせてもらった。早くそれを持って帰り、うまくいくかどうかみたかった。途中、金物店で必要なビス、ナットを買い、文房具店で謄写版用のインキとローラー買った。部屋へ帰って組み立てた。うまくいった。網枠が持ち上がった。
 いよいよ受け皿にインキをたらし、ローラーで伸ばした。謄写版の網にガリきりした原紙を張り付け、刷ってみた。
 謄写版はすごく調子が良かった。用紙はただ、台の上に重ねて置くだけなのに、ほとんどずれなかった。これは大きな発見だった。ローラーから力を抜けば、網枠は自動的に上がる。そしたら左手で刷りあがった上の一枚をさっと横へ引き抜く。同時にローラーを網に当てたまま下方に押し下げる、前方へ転がす、この間、左手はいっさい枠には触れない。慣れると輪転機のようなスピードで刷れた。
 原紙をセットする枠が反り返っているのを、はじめ変形しているのかと思っていたが、ちゃんと意味があることに気がついた。ローラーで下方に押された部分の原紙だけが用紙に接触し、他の部分は用紙から浮いている。刷りあがったばかりの文字が、原紙のわずかなずれで汚れないようにするためだった。とにかく細かいところまで気を使って作られた謄写版だった。
 刷りあがった「訴」を、夜更けまでかかって二つ折りにし、綴じた。さすがに疲れた。翌日、太ももが痛かった。謄写版を畳の上に置き、あぐらをかいて印刷したためであろう。
 できあがった「訴その三」を郵送した。郵送するための大型封筒は、ほとんど自分で作った。スーパー(店)でくれる紙袋を開いて裏返して使った。とにかく金がなかった。

 次は「訴その三」からの引用。

 

              九 節

 昭和50年(1975年)

(訴その三)

 私をつけまわしている者たちは、自分たちの立場があやしくなると、今度は、「これからはもう何もしないから」と言って、他の機関が私の問題を取り上げるのを押え込んでいるようである。
 しかし、その反面、私に対する陰うつな攻撃を決してゆるめていない。それどころか、私に自分たちの正体を追求されるたびに、私への怒りを増しているようである。
 人権擁護機関、警察その他を訪ねても、
今も何かやられていますか?」とか、
これからはもう大丈夫だから、安心してやっていけ」
 などと言われる。こんなばかなことがあるか。
 例えばここに十人の子供を持った人がいるとする。その人が何者かによって、その子供のうち五人までを次々に殺されたとする。その人は五人もの子供を無惨に殺されたくやしさと、犯人に対する怒りから、警察などを走りまわる。すると警察その他から、「今はもう殺されていないだろう? これからはもう殺されないから安心しろ。そんなつまらないことを気にしないで元気にやっていけ」と言われるようなものである。

 私をつけまわしている者たちは、表向きは、私にはもう何もしていないと言っているようだが、私を取り巻く人たちには徹底した力が働き、そこでは、この世のものとは思えない世界が展開されている。
 私のまわりには不気味な海溝ができているように見える。その海溝に向かっては、私が何を言っても叫んでもむだである。その海溝を乗り越え、どこかへ行って訴え、お願いして帰って来る。しばらくすると、そこは私のまわりの海溝と同じほどの深さにぽこんと落ち込む。それを埋めるのは不可能である。
 私にどんな異変が起きても、私をつけまわしている者たちに都合の悪いことは、この海溝が吸収してくれ、まわりには、私を滑稽に見せるものだけが散っていくだろう。

   ───────────────

 私をつけまわしているのが国で、地方自治体の町や市も動いているとすると、岩手の大槌町役場や釜石市役所も動いていたのではないのか。そして最初に動き出したのは私が生まれた町、大槌町の役場ではないのか?
 私が釜石製鉄所をやめる四か月ほどまえ、釜石市長の娘との縁談が私に持ってこられたが、あれは何だったのか。
 それはちょうど私が会社で、愚劣で気違いじみた攻撃を受け、苦しいたたかいを続けていた頃でもあった。また、私が近づいた女との間を、何者かによって引き裂かれたりしていた。やっぱり釜石市のある機関が私をつけまわしていたのではないのか? そしてこの頃になって、自分たちのやっていることが間違っていたことに気がついたのではないか? 市長の娘との縁談は、私に対する彼らの「罪ほろぼし」ではなかったのか? しかしいくら罪ほろぼしといっても、愚劣なことでつけまわされなければならなかった人間に、市長の娘を結びつけることができたろうか? 
 彼らは、あることから私を変質者だと思いこんでしまい、それを証明するための、より確かな事実をつかもうとして私をつけまわしたのではないのか? 確かな事実をつかみ、私をそれなりに始末したかったのだろう。
 だが、つけまわしてみると、私にはおかしな面もあるが、肝心なところでは、普通の人間には真似もできないほど純粋で正しい。初めの頃、それが彼らのしゃくにさわったのだろう。
 彼らは調べた内容にでっちあげをおりまぜて振りまき、私を苦しめ始めた。ところが、そういう彼らの行為が、私という鏡に映し出され、その醜さを彼ら自身が思い知らされるようになった。彼らは彼らの醜い姿を映し出す鏡を破壊したくなった。彼らは私が会社をやめる一年ほどまえからは、もうあたりかまわず暴れだした。とにかく私にとどめを刺したかったのだろう。
 ところが、それまで無口でおとなしく、神経質で少しのことにもくよくよし、すぐにノイローゼになってしまう人間だと思いこんでいた私が、際限のない底力をもってその激しい攻撃に耐え、たたかっている。そこで彼らは自分たちの誤りを認め、改めようとしたのではないか? しかし、間違っていたからといって、そのまま手を引いただけでは具合が悪い。それまで、私の人権を完全に無視した彼らのあくどいやり方を多くの市民が見ている。それらの市民の目を無視するわけにはいかない。市民を納得させる必要がある。そこで市長の娘を持ち出したのではないのか?
 またこのようなことをするには、それまで、私が近づいた女との間を次々に卑劣な手段で引き裂いてきたことへの反省もあったろう。
 しかし私はその縁談を断った。その後、私に対する気違いじみた攻撃はさらに激しくなった。私はこのままこの会社にいたのでは、本物の気違いにされてしまうのを感じ、45年4月、会社をやめた。
 会社にとどまり、愚劣で全く無益なたたかいのために、多大な労力を費やすのがばかばかしかった。私は、会社の愚劣な者たちの目の届かないところへ行こうと思った。
 会社の寮を出、生家へ戻った。ところが異様さを増す家族。それに町の様子。
 私はこれでは会社から逃げて来たかいがないと思い、遠く他県、千葉県へ出た。ところがここでも同じ。汚物は迅速についてまわった。しかもだんだん異様さを増し、恐ろしいほど気違いじみてきた。千葉から鎌倉へ。ここでも同じ。
 私が岩手から他県へ出た。連絡を受けた他県の「機関」は、それまでのいきさつを知らないから、連絡されたことをそのまま信じ込み、少しの手加減もせずにばかおどりをする。どんなことがあってもこの世から消してしまうという、例の方法で。

   ───────────────

 私の肉親たちが、私の問題が解決するのを喜ばないのは、「敵」にただ、心理面で工作されているだけではないようだ。そこには利害がからんでいるようだ。
 私のことで良くないことを聞かされ、それを信じ込まされただけなら、私が真剣に私の正しさを訴え、証明したなら、肉親たちはそれを喜ぶはずである。ところが全く正反対である。私の良い面には目を向けたがらない。逆に私の悪い面を見て納得し、安心しようとしている。
 だが、どんなばかな親でも、自分の子の不幸を喜ぶようになるということは、容易には起こりえないことである。
 彼ら「機関」は、かなり早い時期から私の父に接し、長い年月をかけて、慎重に、そして確実にその下地をつくってきたのではないか?

   ───────────────

 昭和49年春、家へ帰ったとき、裏庭にあった物置小屋が建て替えられていた。しかも、ただの物置小屋にしては、丁寧な造りがしてあった。建物の面積は三坪か四坪なのだが、二階(というほどのものではない、人の背丈ほどの高さのもの)まで造り、その階には押し入れまであった。ひと一人、寝起きできるようになっていた。それを見たとき、私はなぜか嫌な気持がした。私が家に残しておいた私のものが、ほとんどこの物置小屋の方へ運ばれていた。

   ───────────────

 とにかく、私の問題に関しては、どこへ訴えても、それに対しては、なしのつぶてである。
 警察及び人権擁護機関は、ある時期がやってきて、私の問題に片がつくのを待っているのであろう。ある時期とはすなわち、私をつけまわしている者たちが、あらゆる手段で私を精神的、あるいは経済的に行きづまらせ、私が身動きできなくなったところを適当に始末する、その時期のことである。
 私をつけまわしている者たちは、その時期がくるまでは、どんなに破廉恥なデッチあげでも何でもかまわない、たとえそれがすぐにばれることを知っていても、そのデッチあげで、私の問題がどこかで取り上げられることを押える。そのデッチあげを私に暴露されたら、また別のデッチあげで押えればいい。とにかくその時期がくるまでは、デッチあげにデッチあげを継いで時間をかせぐ。なにしろその一瞬がくれば、この問題はこのまま闇に流し、めでたし、めでたしということにできる。
 私が協力を求め、訴えた多くの機関は、この時期がそのうちやってくるのを知っていて、私の問題では動こうとせず、また私の申立てに対しても答えようとしないのだろう。時がすべてを解決してくれる。
 大船警察署に調査してくれるよう、何度も頼んだところ、次長は、
「急ぐ問題ではないだろう!」
 と言った。

   ───────────────

 彼らは表向きは「もうこれからは何もしない」と言いながら、決してあきらめることなくこの作業を続けるであろう。
 彼らのやっていることが明るみに出、大きな社会問題になったとすると、責任を追及されるのは、私一人に対するものだけではないだろう。また、彼らの行為が明るみに出ると、これからの「殺人作業」がやりにくくなる。だからこの問題は、どんなことをしてでも明るみに出ないようにする必要があるのだ。そのためには何億円でも使うだろう。
 彼らは、生かしておいてはよくない人間を、どんどんこの世から消し、この世を清潔にすることに、限りない快感を覚えているのではないか?

   ───────────────

 私をつけまわしている者たちを見ていると、まるで、ドブネズミがライオンを裁き、支配しようとしているように思えてならない。彼らにそんなことをする権利があるのか。
 一か、二の範囲しか見ることのできない者が、その数十倍から、数百倍もの範囲をながめて行動している人間を、どうのこうのすることができるのか。もっとも個人として非難、中傷するのなら、いくらやってもかまわない。容量の小さい者たちが、容量の大きい人間に向かって、気違いじみたばかさわぎをするのは、歴史を振り返ってみれば容易にわかることである。
 しかし、国がその愚劣な役を買っていたとすると、これはもうお話にならない。
 容量の小さい人間が私を見たら、私のほんの一部しか見えないだろう。それも自分たちの世界と似かよった部分だけ、ちょうど、自分たちの姿を、私という鏡に映し出したように。そうして彼らは、「大変だ!」といって騒いでいるのだ。

   ───────────────

 それにしても、なんと愚劣なことをやる人間もいたものであろう。まるで人間の醜さを抽出したような者たちである。このような者たちでも生きている価値があるのか。
 狂った脳みそで人を見、「あいつはおかしい、こいつはおかしい」といってばかおどりをし、愚劣のきわめつきの手でその人間を窮地に追いやり、そして「おかしくなった! 金がなくなった!」と言って、ばかおどりの総仕上げをするときがくるのを、唯一の生きる喜びにしているような者たち。
 狂犬を放し飼いにしているようなものである。
 飼い主は国か?

 (以上「訴その三」より ─  昭和50年1月25日発行)

 

 私はこの「訴その三」で、市長の娘との縁談にふれ、それは、市がばかおどりをしていたことを反省し、私に対する「罪ほろぼし」のためにやったことではないか、と書いた。
 しかし、ずっと後になって、それは違うように思われた。市長はただ、ある者たちから、あることを聞かされ、ある書類に判を押しただけにすぎないのかもしれない。だが後で、それがとんでもない過ちであることがわかった。縁談は罪ほろぼしというよりは、魔の手から私を救ってやろうという、市長個人の良心から出たものかもしれない。
 それに私をつけまわしている者たちが、「反省する」などという、人並みな心を持った者たちでないことは、これまでの彼らのやり方からみて、あまりにも明白である。

 

              十 節

 昭和50年(1975年)

 2月3日、月曜日。

 失業認定日であった。朝9時から9時半までの間に戸塚公共職業安定所へ行かなければならなかった。
 昼と夜のサイクルが狂ってしまい、明け方まで仕事をして、正午頃まで眠っている私には大変なことであった。8時にラジオが鳴るようにタイマーをセットした。ラジオの音量は大きめにしておいた。
 翌朝、鳴りだした音楽が、私の大好きなバッハの「管弦楽組曲第二番」であった。それでやっと目を開け、前の晩のうちに作っておいたコーヒーに手を伸ばして飲んだ。
 駅へ急いだ。大船駅へ着いてみると、様子が変だった。ホームへ下りる階段のところに人がたむろしていた。改札口には警官が立っていた。全体にものものしい感じ。時刻表を見ると、二分後に出る電車があった。急いで切符を買い、改札口を通った。電車はホームに止まっていた。しかし、電車は運転されていないというアナウンスがあった。理由は説明されなかった。事故か? 私はホームにいた駅員にたずねた。
「戸塚まで行きたいんですけど」
「それが、今、動いていないんですよ」
 私は精算所へ急ぎ、切符を払い戻した。精算所の中にも警官が立ってこちらを睨んでいた。このとき私の心のレーダーが作動した。『私に関したことか!?』
 私はバス停留所へ急いだ。バスを待っている人々が話しているのを聞いて、初めて知った。鉄道に時限爆弾が仕掛けられたという。

 職業安定所へ着いたのは9時25分だった。間に合った。これから職業安定所に来るときはバスを利用しようと思った。バスは職業安定所の近くに止まってくれた。
 職業安定所を出、文房具店をいくつかまわり、「四国原紙」製の謄写版用原紙(3ミリ原稿)を探した。原紙はこれまでにいろんなメーカーのものを使ったが、「四国原紙」以外のものは弱くて修正がきかなかった。1枚50円で20枚買った。
 バスで帰ろうか、電車で帰ろうかと迷った。電車はもう動きだしたろうか? バスだと80円だが、電車だと50円ですむ。戸塚駅へ行ってみた。電車は動いていた。
 夜、酒を一升買った。精神安定剤のつもりで買っても、あると、つい度を過ごして飲んだ。夜、独りで部屋にいると、長く続く孤独感から、ふっと、今にも気が狂ってしまいそうになることがあった。そんなときの救いは酒だけであった。
 酒の飲み過ぎのせいか、体の調子はあまりよくない。でも、気が狂ってしまうよりはいいだろうと考えた。

 この日の新聞の夕刊に、戸塚−鎌倉駅間に爆弾を仕掛けたという電話があり、混乱したという記事が大きくのった。この記事のおしまいのほうに、この事件に対する、ある精神科医の意見がのっていた。それは次のようなものであった。


 いたずら電話をしたがるのは、自己顕示欲が人一倍強く、自分が社会でどうあるべきかという要求水準を普通の人より高いところにもっている「うぬぼれ人間」に多い。しかし、要求と現実の間にギャップが大きいと、これが社会に対する不平不満となって現れ、世間を騒がすことで自分の不満を解消する。

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             十 一 節

  昭和50年(1975年)

 井上さんの紹介で知った、一条ふみさんとは、会ったことも、電話で話したこともなかったが、手紙のやりとりはしていた。「訴」を発行するたびに送っていた。しかし一条さんは、いつも私のガリきりがうまいといってほめるだけで、その内容には一切ふれなかった。彼女も謄写印刷で文集を発行して私にも送ってくれていた。
 2月10日、一条さんに手紙を書いた。

 

 こんなことをお願いしてもむだなのを知っていながらお願いいたします。いつもおたずねしようと思っていたことですので。
 私の問題について、知っていることがありましたら、どんなことでも教えていただけないでしょうか。もっとも、こんなことをおたずねすれば、一条さんからは、「あの本を読んで知ったこと以外、何も知らない」という返事が返ってくることは知っていますが。それにこのようなことは、私のほうからお願いしなくても、その人に、教えようとする気持があれば、お願いされなくても教えてくれるものでしょうから。
 私はこれまでの経験からいって、私が接する人には徹底した力が働き、すっかり変えられてしまうのを知っています。
 私はこれまで、一条さんからお手紙をいただくと、その文面から、一条さんにどの程度「力」が働いているかを見極めようと、全神経を集中させます。でも一条さんは他の人たちのように「あなたは神経が疲れきっている」とか「思いすごしだ」といったことは全然お書きになりませんし、私の問題そのものにもふれないようにしているようですので、一条さんにどのていど、力が働いているのか読みとることができませんでした。
 一条さんと手紙を交すようになってから、もう半年以上になります。もし一条さんに力が働いているとしますと、もう、まちがっても私の問題に協力しようという気持を起こさせないところまで変えられてしまっているはずなのですが。
  (中略)
 夜と昼がすっかり逆になってしまいました。昼、寝て、夜、仕事をしています。なんとか正常に戻そうとするのですが、なかなか困難です。午前の、ある時刻までに出かけなければならないときは大変です。
 でも深夜、深く静まりかえった中で仕事をするのは何ともいえません。この宇宙が自分の世界、宇宙が私のものになり、私の思考は宇宙を飛びかいます。
 こんなとき、私をつけまわしている者たちが、ふと私の世界に現れると、『一体あの者たちは、何なのだろう?』と不思議になります。
 こんなことを言っているうちに、もう3時です。

 

 私が釜石製鉄所にいたときの職場にも手紙を書いた。

 

 動力課電気掛のみなさんへ

 私は45年春まで、みなさんと一緒に働いていましたが、それ以上、みなさんの職場にいたんでは、今にも気が狂ってしまいそうになり、逃げるように会社をやめました。
 その後、千葉、鎌倉と転々としていますが、どうも、本物の気違いみたいなやつらが、徹底して私をつけまわし、ばかおどりをしているようなのです。しかも、日本の警察、その他の機関まで巻きこんで。
 私はこれまで、犯人は新日鉄だの、警察だのといって、それらを非難してきました。しかし、最近それがまちがっていることがわかってきました。(まちがいとはいえ、私もとんでもないことをしてしまったものです。逆に訴えられても仕方ないでしょう)。
 私はみなさんと一緒に働いていた頃、みなさんにおかしな目で見られ、そのため、みなさんを軽蔑し、憎んだりもしました。しかしその後、どんなに神様のような人をも、たちまち毒し、狂わせてしまうような猛毒をもった者たちが、私のことで陰で暗躍していること知りました。その正体を最近、ほぼつかむことができました。しかし、決め手になるような具体的な事実に乏しく、困っています。
 それで、みなさんにお願いしたいのですが、当時みなさんのところへ、私のことで、どこから、どんな形で、どんなことが伝えられ、言いふらされていたかを教えていただけないでしょうか。
 十年間も私と一緒に働いたみなさんですから、私がどんな人間か知っているでしょう。また、気違いみたいやつらが言いふらしているようなことを、私が実際にするような人間かどうかも、みなさんは御存じでしょう。
 どうか御協力をお願いします。
 私がたたかううえで、これまでに出した本、その他を一式お送りします。「私の半生」はすでにみなさんの職場でも読まれているということを耳にしましたが、その中では名誉を傷つけられた方もいるでしょうし、また、多大な被害、損害をこうむった方もいることと思います。そのことについては深くお詫びいたします。
 あの本を出した頃、私は、やり場のない怒りでカッカしていました。初め、あの本に出てくる人を全部仮名で原稿を書いていましたが、あまりの怒りから、全部本名にしてしまいました。それ以外に怒りのぶつけようがありませんでしたので。でも、こんな言い訳をされると、ますます、私に対して腹が立つ方もいるかもしれませんね。
 現在私は、これまで勤めていた小さな会社をやめ、失業保険をもらいながら仕事を探していますが、徹底した妨害で就職は困難でしょう。とにかく、私をつけまわしている者たちと、法の前ではっきりと決着をつけないかぎり、彼らはどこまでも私に、うじ虫のようにたかりつくでしょう。
 その意味でも、みなさんの御協力をお願い致します。

 昭和50年2月10日
                   沢 舘 衛
  電気掛一同 様

 

             十 二 節

  昭和50年(1975年)

 「訴その三」から、ちょうど一か月後の2月25日、「訴その四」を発行した。
 次は「訴その四」からの引用。

 

         「一」

 こんなおかしな人間の子を、ベロベロ産まれたんでは、そのあと始末が大変である。本人は好きなことをやって、ベロベロ、この世へおかしなのを送り出すだろうが、こっちはそうはいかない。
 そのおかしなのが、その子からその孫へと、ネズミ算的に増えていったんでは、たまったものではない。そのおかしな者たちを保護したり、救済したりするのにかかる費用は膨大なものである。それよりは、それにかかる費用の何分の一かで、そのおかしな人間をこの世から消してしまうか、あるいは、きんぬきをしてしまい、おかしな子孫が増えるのを防げば安あがりであり、国庫の損失を防ぐことができる。(人間だけあって、なかなか賢いことを考えるものである)。だが問題は、どうやってその作業を遂行するかである。
 豚や馬なら、どんなに鳴こうが叫ぼうが、その手足(いや、前足、後足)を押えつけ、しゃにむに、そのきんたまをもぎ取るが、人間の場合はそうはいかない。「法」という全くやっかいなものがある。そこで、あらゆる手段を用いて、その人間を破滅へ追いやろうとする。
 またある人間を陰からいろんな手を使って刺激し、その人間が神経をピリピリ震わせ、怒り狂い、あちこちへ八つ当りしながら、破滅に向かって突進して行くのをながめるのは、なんといっても楽しい。

 愚劣で悪質な陰謀を果てしなく繰り広げ、気違いじみたばかおどりをし、その人間が、この世に居る場所がないような状態に追い込んでいく。(もっとも、精神病院の門だけは広く開けてあるが)
 彼らの追跡、陰謀によって追い込まれる精神の極限状況が、どんなに恐ろしいものかを、私はこれまでに何度も経験してきた。そのとき私は思った、普通の人間ならこれで発狂しているだろうと。私でさえこのまま発狂して、何か叫び出すんではないかと恐ろしくなったことが、これまでに二度か三度ある。
 しかも、私をつけまわしている者たちは、私がいつ、そのような精神状態におちいるかを、まえもって知ることができるようである。そして、私のまわりには警戒体制がしかれる。
 私をつけまわしている者たちは、極限状況におかれた人間が発狂していく過程を、よく知り抜いている精神科医、または心理学者の指導を仰いでいるように思えてならない。
 精神病院へ入れてしまえば、後はどうにでも料理できる。てっとり早く、この世から消してしまうか、あるいは本人に気づかれないうちに、薬によるきんぬきをするか、または性交不能の体にして病院から出す。
 病院へ突っ込まれるまでに、「気違い様」たちに、いろいろ手数をかけた人間は、それなりに、きつい仕置をされるのではないか。
 彼らが長年にわたって、膨大な税金と、人員を使って私をつけまわし、気違いじみたばかおどりをしてきたのは、ただ、私のきんぬきをしたいためだけだったのか?
 この日本に住んでいて、「気違い国家・ジャパン」といった感じのするのは私だけであろうか。

         「二」

 きんぬきをするまでは、その人間の女性関係には特に気を使い、女に近づけないように、また、女が近づかないようにする。そのおかしな人間の子供が、この世へ、ベロリと顔をのぞかせてからでは手遅れである。
 それには、そのおかしな人間が足を運びうる範囲に住む女には徹底して手配しておく。それを聞かされたら、どんな女でも、その人間を気味悪がり、軽蔑するようにしておく。
 彼らはずっと以前から、その人間の細かい私生活を調べつくし、女たちに気味悪がらせ、嘲笑させる材料集めをやってきたのだろう。
 だが、世の中には本当にばかな女もいて、そのおかしな人間に近づくかもしれない。また逆に、そのおかしな人間に目をつけられる、へんちくりんな女もいるかもしれない。そんなときは、そのおかしな人間が女に近づくまえに、自分たちがその女に近づき、どんなことがあっても、そのおかしな人間以上の力でその女をコントロールできるようにしておかなければならない。だから、おかしな人間から瞬時も目を離せない。道を歩いていて、その人間がどの女を特別な目で見たか、何度振り返って見たか、といったことまで調べ上げる必要がある。そして、その女に先回りし、手を打つ。

   ───────────────

 私は、あまりにも、女やセックスのことでばかおどりをされてきたので、すっかり女ぎらい、人間ぎらいになってしまった。どうしよう。

   ───────────────

 私が最近まで働いていた、中山電機という会社で、私をつけまわしている者たちに完全に教育され、狂わされ、彼らの忠実なイヌとなり下がっていたとみられる室田という男は、独りで作業をしながら、かん高い声でよく叫んだ。
「子供ができないように結んでしまえ!」
 とか、
「おまえは、もう用がないから打ち首だっ!」
 そんなとき、職場のある者たちが、決まって、すばやく私に視線を注いだ。

         「三」

 好ましくない人間の子孫が繁栄しないようにするために、そのような人間が見つかったときは、その人間をこの世から消したり、きんぬきをしたりしてもいいという、面白い法律がはたしてあるものかと思い、「六法全書」を引っ張り出し、「優生保護法」、「精神衛生法」といったものを調べてみた。そしたらあった。
 優生保護法に、「不良な子孫の出生を防止するために、生殖を不能にする手術」をしてもいいとある。しかし、その手術をするときは、「本人、又は配偶者の同意を得る」ことになっている。だが、その後に但し書きがあって、「未成年者、精神異常者についてはこのかぎりではない」とある。そして、「医師は、精神異常者の後見人、配偶者、又は親権を行なう者の同意があったとき、『都道府県優生保護審査会』に手術の適否を申請し、許可があったとき手術をする」とある。
 これでみると、精神異常者と直接会い、手術の手続きをしたりするのは医師である。決して福祉事務所などではない。
 福祉事務所が、おかしな人間を見つけ、そいつのきんぬきをさせたいが、それほど異常というわけではなく、もちろん、本人の同意を得ることなどできない。このような場合は問題である。だが、それでもその者のきんぬきをしたいとなると、何がなんでもその人間を精神異常者にデッチあげ、有無をいわさずきんぬきをしてしまう以外に方法はない。
 そこで、その人間を精神異常者、性格異常者に仕立て上げるための華麗な作業が始められる。広く市民に、その人間のことを、ノイローゼだの精神分裂病だのと言いふらし、それを裏づけるものとして、さまざまなものを見せたり、聞かせたりする。そうして、その人間を笑いものにし、孤立させ、本物の精神異常者にしてしまう。
 その人間を精神異常者に仕立て上げることに成功すれば、その人間を、その人間の親権者となるべき肉親たちの一存でどうにでもできる。だから、その人間を精神異常者に仕立て上げる作業と並行して、その人間の肉親たちに巧みに接し、その者たちの頭を変えていく、というよりは狂わせていく。
 ところで、精神異常者にデッチあげて病院へ入れ、きんぬきできる状態になったところで、当の本人が病気でもなんでもなく、自分がきんぬきの手術をされたことを知るようでは困る。そんなときはどうするか。毒物を使って、本当に脳を損傷し、廃人にしてからきんぬきをするのか。それとも、本人に気づかれないうちに、「精神病を直す薬だ」と称して、飲み薬や注射で、長い時間をかけて生殖不能の体にしてしまうのか。

         「四」

 私がどんなことを言って、みなさんに訴えても、私をつけまわしている者たちはそれに対し、いろんな下劣なことを並べたて、なし崩しにするでしょう。ちょうど、うじ虫が形あるものに寄ってたかり、その形を崩してしまうように。
 それでも私がこのようなものを配り、いくらか効き目があると、彼らはどこかで私の問題が取り上げられはしないかと小さくなり、押え込みの作業に走りまわる。(たぶん、札束を持って)。そして押え込みに成功したとなると、にわかに勢いを盛り返す。殺虫剤を振りかけられ、動きの鈍っていたうじ虫が、しばらくすると、また勢いを盛り返すように。そして、報復だといわんばかりに、糞のにじみ出てくるようなことを言いふらす。

         「五」

 このまえ、読売新聞に、「精神病でないのに強制入院」させられたという記事が出ていた。それによると、精神病でもないのに、五年以上も精神病院へ入院させられていた人が、病院を相手に賠償訴訟を起こしたというのであった。

 以下、読売新聞よりの抜粋。ただし、人名、地名は、私が適当に英文字に変えた。

 

 訴えによると、Cさんは、44年5月26日、自宅に来た医師や保健所職員という四人の男に「健康診断」と称して麻酔注射され、意識不明のまま同病院へ運ばれた。その後、再三退院を要求したが黙殺され、昨年9月30日まで、五年四か月余り入院させられた。強制入院させられるまで、事前調査や、専門医による問診、診断を受けたことはなく、院長面接は三分ほど一度受けただけ。担当医も月一回ほど食欲や便通、睡眠について、一、二分聞く程度。母親のBさん(昨年暮れ死亡)の同意による入院という形が取られているが、同意の事実はなく、姉が病院の説得で印鑑を渡したにすぎないという。
  (中略)
 I病院は、30年10月設立され、現在入院患者は約40人。院長はA市の市長で、Cさんの訴えについて、「T市の社会福祉事務所から持ちこまれたので、診断した結果、精神分裂病と判断した。責任者の同意書も取りつけてあり、医師法に照らして当然の医療行為だ」と言っている。

 

 病院は、「責任者」の同意を得ていると言っているが、その責任者が、人間をどのような心理状態にも変えることのできる技術(というよりは猛毒)を持った者たちの手にかかっていたとしたら、こんな恐ろしいことはない。

 (以上「訴その四」より ─ 昭和50年2月25日発行)

 

 私はこの記事を読み、すぐに、当のCさんに手紙を書いた。
 先ず、私のおかれている状況を説明し、私をつけまわしている者たちと、Cさんを強制入院させた者たちの背後に存在するのは同一の「機関」ではないか、といったことを述べ、さらに続けた。

 

 しかし、もっとも大きな問題は、彼らがどうしてCさんにそのようなことをしたか、ということです。何か大きな目的がなければ、彼らが病気でもないCさんを入院させることはないでしょう。ところが、デッチあげてまで入院させる必要のあったCさんが、どうして5年4か月後、病院を出ることができたのでしょうか。それもまともな姿で。
 Cさんが病院へ入れられていた間に、彼らがCさんを入院させた目的は達せられたとみられるのではないでしょうか。
 これは私をつけまわしている者たちのやり方から感じとったことですが、彼らは、ある人間が結婚し、子孫を後に残すようになっては困るとみたときは、その人間をあらゆる手段を用いてこの世から消すか、あるいはデッチあげで精神病院へ入れ、そこで「病死」のかたちで殺してしまうか、あるいは、もうその人が子孫を残すことができないような体にして病院から出す。
 この意味からいって、Cさんが内科医のところで、各部の診断をしてみてもらってはどうかと考えます。

 

 最近私は「福祉」という言葉を聞くと、すぐに「殺し屋」を連想するようになった。

 私のまわりで結婚し、この世へ子供を送り出している人々を見るとき、私はいつも彼らの勇敢さに驚かされる。私には、自分の子供をこんな世の中に送り出す勇気はない。

 

 この件から20年ほどたった頃(1996年)、ある新聞から同じような記事を見出した。「理由もないのに十数年強制的に入院させられた」という人が損害賠償を求めて訴えを起こしたというものだった。
 裁判長は「市長の入院同意は国の機関委任事務としてなされたもので、国も損害賠償義務を負う」として、国と同市、病院に支払いを命じた。
                   (2004年2月27日追加)

 

             十 三 節

  昭和50年(1975年)

  3月5日 水曜日

 「訴その四」を持って横浜弁護士会を訪ねた。受付の女が私をさげすむように見ていた。会長に会いたい、と言うと、会長はいないという。
「代りの人は?」
「今日は、役員は誰も出てきていません」
「そんなことってあるんですか」
 すると、局長ならいるという。
 局長というのは、前にも会ったことがあり、「私の半生」の中に「職員」として登場した人物であった。彼は言った。
「あんなことを書かれて不愉快だ! 知らない人が見れば、その気になってしまうよ。あんたは、自分一人の人権を守るために、他の多くの人を傷つけている。ここの受付の女の子たちも、あんたと話すのを恐がっている。何を書かれるのかと。わたしは『マネー』なんて言った覚えはない。あの書かれたものを見たら、知らない人は、横浜弁護士会の受付なんて、ほんとにけしからんと思うだろう。わたしはあんたとこうして話しているのに、感情を押えているんだ」

 私はどこかを訪ね、そこで話されたことは、そこを出たところで、すぐに書きとめる。私自身、話された言葉を違えて、事実を曲げるようなことがあると、私の良心が許さないから。また、少しでも時間をおくと、忘れてしまうこともあるから。記録が長くなるときは、喫茶店に入るか、あるいは公園などで書きとめる。そのとき、自分でも不思議なほど、その会話の場面があざやかによみがえってくる。相手の言った言葉、そのときの表情、心の動きといったものが、まるでスクリーンを見るようによみがえってくる。ときどき私は、これは私に与えられた特殊な能力の一つではないかと考えることもある。

 3月7日、金曜日、県警を訪ね、どうしようもない不快な気持になってそこを出た。橋谷田氏が私に言った。
「あんたがそのようなことをされるには、それなりの原因があったんじゃない?」
 その不快さから逃れようとするように、私は関内駅から、カウンセラーの麻生さんに電話した。私は彼の声の暗さにびっくりした。が、私だと知ると、その声はいくらか明るくなった。
「今、横浜からかけているんですけど、例の問題で、今、県警へ行ってきたんです。もう、どうにもならないようですね。どうにかならないですかね?」
 麻生さんはこのまえとはだいぶ様子が違った。このまえまでは私を「きみ」呼ばわりだったが、それが改まっていた。彼は私のことを本当に心配しているようだった。
「このまえ、『訴その四』を送ったけど、届いたでしょうか?」
「届いた。でも読んでいないよ。最初のも読んでいない」
 私はよくない予感がして息をのんだ。私が黙っていると彼は言った。
「こわい、読むのが怖い」
 それで私はほっとした。私は彼の言う、こわいという言葉の意味はわかったが、
「いや、先生のことを書いたのは、最初のだけで、あとは書いていませんから」
 そう答えた。
「うーん、そうかい」
 それら麻生さんは私の問題について、次のように言った。
 私の問題を法の上から解決するのは無理だろう。別の面から解決する以外にないだろう。多くの人を別の方法で啓蒙する以外にない。市民は、正しいと思ってもなかなか協力してはくれないだろう。
世の中は、金の力が強い
 彼はこの言葉を何度も繰り返し、強調した。

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 3月8日、土曜日。家主の盛んなデモンストレーション。鼻歌、さえずり。このことから「訴その四」の押え込みも完了したことを知った。発行から二週間後のことだった。
 夜、ドアがノックされ、「サワダテさーん」という甘ったるい声がした。ドアを開けると、読売新聞の勧誘員だといって、きざな眼鏡をかけた若い男が立っていた。学生アルバイトで、練馬からやって来たと言った。だが男は新聞をすすめるのはそっちのけで、
「ああ、先輩! うーん、暗くて先輩のハンサムな顔がよく見えない」
 そう言って私の表情が見えないことをしきりに気にしていた。偵察に来たのか。その男からは何か薬品のような強い臭いが漂ってきた。
 その後、アパートの出口で、二人の男が長いこと小声で話していた。一人は私のところから帰った男らしい。その男は新聞の勧誘員だと言っていたが。他の部屋へは寄らず、まっすぐ私の部屋へ来た。新聞も勧めなかった。

 

             十 四 節


 3月25日、「訴その五」を発行した。
 次に、そのほとんどを引用しておく。

 

         「一」

 私は最近、町を歩いていても、店に入っても、ある種の笑いでもって見られる。中には、私を見て、私のほうでびっくりするような黄色い声をはり上げ、息も止まらんばかりに笑いだす女もいる。
 私をつけまわしてきた者たちは、これまで、ごく一部の人々を押え込み、狂わせるのに使ってきた材料を、多くの一般市民にまで御披露しているようである。(まあ、いくらでも御披露するがいい。それは自分たちの気違いぶりを証明することにもなるのだから)。
 それにしても、そんなことを言いふらしている者たちは、一体どんな心の持ち主なのだろう。私には想像するのも困難である。
 言いふらしている者たちにすれば、それは、妻子を養うため、おまんまを食うためにやっていることであろうが、それにしても‥‥。
 そのような仕事をやって得た金を持ってくる、パパやママのおかげでおまんまを食い、学校へ行き、濁りのない目で、牧師さまの子供と同じような生活をしている子供もいることを考えると、なんとも不思議な気持になる。
 彼らは主に、私の過去のことを持ち出して、私を笑いものにしているようである。彼らは、一個の人間は、いつも同じ次元にとどまっていることはなく、常に発展、成長するものであることを知らないのであろうか。それとも、人間という生き物は、常に発展、成長するものと思い、私自身、発展、成長していると思っているのは、私のまぼろしか。
 彼らを見ていると、まるで、私が十年も前に脱ぎ捨てた抜け殻を指さして笑いころげているように思えてならない。

         「二」

 彼らの手にかかった者たちから見たら、どんなに純粋な人間でも、恐ろしくグロテスクで異常な人間に見えてくるだろう。
 彼らのこのような行為が合法的なものであろうか。私の調べた範囲内では、彼らのそのような行為を認めているような法はない。しかし、弁護士は、「今の制度では、あんたの問題は無理」だと言うし、ある弁護士会へ行くと、「弁護士会で取り上げるような問題ではない」と言う。法務省の人権擁護局へ行くと、「内容からいって、我々が調査するにはふさわしくない」と言う。
 そこで警察へ行く。いろんな印刷物を持って行くと、やっても無駄なことに、このようなものを作り、金と時間をかけるのはもったいない、と言う。
 私をつけまわしている者たちの行為は合法的なものなのか?
 私をつけまわしている者たちが、私を攻撃するために使う最大の武器は、「下劣、愚劣、破廉恥」である。そして、その彼らのほうに勝ち目があるようである。ある弁護士も言うように、「悪が栄えることもある」のか。
 弱い一個の人間 ─ 私をやっつけるために、こんなにまで長い年月と、膨大な税金と人員を使い、また、世界に誇っても少しの遜色もない、素晴らしいテクニックを駆使し、気違いじみたばかおどりをしなければならないとしたなら、一体、私という生き物は、どんな怪物なのか。

         「三」

 どう見ても私には女には見えない者たちが、私にその端麗な容姿を鑑賞されはしないかと気を使ったり、私を警戒したり、また、さげすんだりするのに出会うと、私はほんとに情けなくなる。
 私をつけまわしている者たちは、私が「交尾」したくて、いても立ってもいられないような人間のように言いふらしているらしい。
 彼らにすれば、30年以上、異性なしでやってきている私の存在は、とても考えられないであろう。彼らは、私の立場に自分たちを置きかえてみ、そこから、間違いなく私が「交尾」したくて、いても立ってもいられない状態にあるだろうという結論に達したのだろう。
 どこまで愚劣にできた者たちであろう。

         「四」

 彼らは現在でもなお、私のこれまでのことを書いた本「私の半生」は、でたらめなものであることにするための作業を執拗に続けているようである。
 
「私の半生」の中には、長い年月にわたって私をつけまわしてきた者たちのあくどいやり方が、ぎっしり書き込まれている。この本をまともに読まれては苦しい。読まれないようにする必要がある。それには、あの本に書かれてあることは、みなでたらめだということにし、そして、あの本に出てくる人たちに、誰が問い合わせても、あの本に書かれてあるようなことは言わなかった、無かった、という返事が返ってくるようにしておかなければならない。

         「五」

 刑法第230条[名誉毀損]には、「公然と事実を指摘して人の名誉を毀損した者は、その事実の有無を問わず、三年以下の懲役もしくは‥‥」とある。 
 私をつけまわしてきた者たちには、日本国の法律は適用しないのか?
 彼らはただ、楽しみのためだけに私をつけまわし、ばかおどりをしてきたように思えてならない。
 それは彼らにも気分転換、気晴らしが必要なことは私にもわかる。たまには、たいしておかしくない人間を、陰からいたずらし、きりきり舞いさせ、喜びたくもなるだろう。しかし、その楽しみの材料にされた人間は、えらい迷惑である。何しろ、一生を台なしにされるのだから。
 私がこれまで働いていた会社、中山電機の社長はよく言った。
「中傷なんていうのは、無視しないかぎり絶対になくならんよ。怒ると向こうは、ますます面白がって中傷するんだ」
 彼らは、人を見わけることにはすぐれた力を持っていて、人を押え込むにも、決してみな同じ方法ではない。その人に合った方法をとる。ばかな人間を押え込むには、いきなり私のばかな面を見せ、私を笑いものにし、私から引き離す。しかし、利口な人間を押え込むには、巧妙な方法をとる。
 彼らは先ず、その人が私に対して持っている感情に同調し、私を賛美するようなことを言う。しかし、その中にちょっぴり毒を盛ることを忘れない。それから徐々に、その毒の量を増やしていく。最初の毒にその人がなじむと、今度はその倍の毒を盛り込む。やがてそれにも慣れると、さらにその倍。そうしてその人は、どんどん彼らの狂った世界へ引きずり込まれていく。
 私はこのような人を、これまでに、うんざりするほど見てきた。

         「六」

 このまえ、戸塚 鎌倉駅間に爆弾を仕掛けたという、いたずら電話があり、電車が混乱したことがあったが、あれは、私をつけまわしている者たちがやったことではないのか?
 彼らの「公式」に従えば、すでに私がそのようなことを演じていなければならないのだろう。彼らは、私に代って、あのようなことをやってくれたのではないのか?

 
(またこの事件は、私が「訴その三」を発行してから、十日後のことであった。それは「訴その三」を発行したことへの彼らの報復とも受けとれた)。

大船駅庶務室へ

 私は今、就職のため、あちこちへ面接に行っているが、就職はできそうもない。私という人間は、何もできない無能力者のように言いふらされているようだ。
 彼らは、一般市民に対しては、私のことを、ただ滑稽な、また、ばかげたもののように言って笑いものにしているが、私のまわりでは真剣そのものである。
 私をつけまわし、ばかおどりをしているのは、はたして人間であろうか? これが人間のやることであろうか。
 彼らと闘っているうちに、私まで彼らの狂った世界に引きずり込まれ、本来の自分の姿を見失いそうになることが最近ある。
 長い年月にわたって、下劣きわまることを言いふらされ、人々にもそのように見られていると、私自身、ふと自分がそのような人間に思えてくることがある。本当に恐ろしいことである。

 (以上「訴その五」より 昭和50年3月25日発行)

 

 3月26日、横浜からの帰り、大船駅の庶務室へ立ち寄り、「訴その五」を渡した。「訴」のシリーズは、警察、市役所のほか、駅や郵便局などの公共機関にも配っていた。
 庶務室へ入るなり、その場の異様さがビリビリ感じられた。左側の机の上に職員らが頭を寄せ合い、何かひそひそ話し合っていた。私が入って行くと、みんなの視線が私に注がれた。私は一人の職員に「訴」を差し出した。職員は何か警戒しているようだった。
「これ読んでほしいんですけど」
「‥‥‥」
「この『訴』の『一』と『二』は、これまでに、こちらへ渡してありますから」
 こんな話をしているうちに、みんなは私に視線を注ぐのをやめ、異様な空気も急速に和らいだ。
「読めばいいのね」
 「訴」を受け取った職員が言った。さらに、すぐ近くに座っていた小柄な職員が、ふてくされたようにつけ加えた。
「自分の本もなかなか読めねえ」
 駅を出てしばらくして、あの「訴」には、このまえの、駅での爆弾さわぎのことも書いてあったことに気がついた。どうしてそのことが駅へ行くまえに意識にのぼらなかったのだろう? おかしくなった。駅職員たちの異様な雰囲気は何だったのだろう?

 
「訴その五」にのせた、あの内容が、ずばり的中していたのだろうか!

 

             十 五 節

  昭和50年(1975年)

 「訴その五」から、わずか二週間後の4月10日、「訴その六」を発行した。

         「一」

 3月26日、横浜地方裁判所を訪ねた。「審査請求申立書」なるものを持って。この申立ては、行政不服審査法に基づいたものであった。
 横浜地方法務局(人権擁護課)が正常に動こうとしないので、同法務局へ「異議申立書」を提出してあった。が、三か月たっても返事がないので、その上級機関の法務省(人権擁護局)へ「審査請求申立書」を提出した。だが、例によって二か月近くたっても、何とも言ってこなかった。私のほうから電話して問い合わせると、
「我々は処分したわけではないし、処分するところでもない。決定は内部だけのものだ。審査請求される筋合いはない。法務省の仕事は行政不服審査法にはのっかってこない。裁判所へ訴えたらいい」という返事があった。
 私自身、「行政不服審査法」を調べたとき、その行政庁に上級機関がないときは、裁判所へ審査請求するものと解釈していた。しかし、裁判所へそれを持って行ったら、「審査請求」というのは、裁判所では受け付けない。裁判所へ訴えるには、原告、被告をはっきりさせてからでなければならない、ということであった。
 これは「行政不服審査法」ではなく、「行政事件訴訟法」に基づいてやるものなのか。
 弁護士が私を相手にしてくれないので、本当に苦労する。なにしろ、「悪が栄えることもあるんだ」と言って笑っている弁護士もいるのだから。

         「二」

 3月26日、前記の用件で、横浜地方裁判所(関内駅下車)を訪ねるため、大船駅から午後2時頃の電車に乗った。
 発車まで間があったので、私は時刻表のある近くの車両に乗り、窓越しにその時刻表を書き写した。それが終り、私はずっと後方の車両に移るためにその車両を出た。(関内駅の出口は、ずっと後方なので)。
 ところが、私がその車両を出ようとすると、出口のところに一人の男が立っていた。私はその男がどんな者かは見なかった。若いのか、年をとっているのか、どんな人相なのか。私はその男を視界の隅の方で感じただけであった。しかし「イヌだ!」と直感した。
 このように電車の入口から監視されるのはこれまでにも何度か経験している。彼らは、私が発車まぎわに電車から飛び出し、姿をくらますとでも思っているのだろうか。彼らはドアが閉まる直前に乗り込む。
 私はその車両を出、ホームを歩きながら考えた。今の男はイヌだろうか、それとも、私の考え過ぎか? 私は後ろの車両に乗り込むとき、振り返って見た。男がイヌだとすると、私の方を見ているはずである。でもこのとき私は、こんなことは私の考え過ぎで、その男はもうそこにはいないか、あるいは、いたとしても、どこか別の方を見ているだろうと思った。
 その男は、私が別の車両に入るのをじっと見つめていた。それは若い男だった。やっぱり私の後をつけていたのだろうか?
 私は車内に入った。男のことが気になったが、『なに、考え過ぎだろう。あの男が私の方を見ていたのは偶然だろう』と考え、私はすぐにそのことを忘れた。私は持ってきた書類に目を通し始めた。
 やがて電車は動きだした。発車してまもなく、さっきの男が電車の中を通って来たのか、私の乗っている車両に現れた。乗客はまばらであった。私がその男の出現にハッとしているうちに、男は私の隣に、一人か二人分の空間をおいて座った。私はじっと書類に目を落としていた。男が私の書類の方へ目を注いでいるのが感じられた。私は男から文面が見えないように書類を傾けた。
 私はただごとならぬものを感じた。私は書類をしまい、何事もないように、車内のポスターなどをながめまわし始めた。やがて男は目を閉じた。私は男の様子を観察した。薄い色のついた眼鏡をかけていた。
 靴、白い靴下、灰色の、細かい格子模様のズボン‥‥、そこまで見ていったとき、ズボンの膝から下に、大きな染みがあるのに気がついた。それは血のようであった。両方の手の平でも覆い隠せないほど大きいものであった。そのまわりにも小さな染みがいっぱいあった。血だろうか? 私は上の方へ目を移していった。いくぶん黄がかった白いセーター。
 セーターの左手首のところにも同じ、血のようなものがついていた。このほうがズボンのそれよりは血らしく見えた。手首から手の甲にかけても血を拭い取ったようなあとが残っていた。

 
「屠殺場」から直接出て来たのだろうか? 男は眼鏡を外し、それをセーターの襟元へ引っかけた。顔をまっすぐ上げ、目を閉じていた。男の顔には少しも気違いじみたところはなかった。そればかりか、知的なものすら感じられた。そのことが私をいくらか安心させた。

 乗ってくる客も、男のズボンの染みを見て、顔をしかめ、男の顔に見入っていた。
 この男が一度、座席から腰を浮かし、誰かを探すようなしぐさをした。すると、向い側に離ればなれに座っていた若い男二人が、その男のしぐさに応えた。『なんだ、同志だったのか!』というように。それを見て私は、私のまわりにはいつも数人の者(イヌ)がつきまとっていることを知った。(だが彼らに対しては心のレーダーは作動しなかった)。
 この男は私の行くところまで後をつけるのだろうか? それとも、途中で何かやりだすのだろうか? 尾行が目的なら、このように私の目につくようなまねをする必要はないだろう。何かあるにちがいない。
 男は目を閉じていた。電車が駅へ着いても目を開かなかった。しかし、私がそっと立ち上がって電車を出たなら、男は決してそれを見逃さないだろう。私は、ある駅でドアが開いている間に、靴でコトと小さな音を立ててみた。男はパッと目を開き、首は動かさず、その暗い目で私の足元を見た。
 途中から、男はしきりに窓の外へ気を使うようになった。ある駅へ着き、ドアが開いた。男はそわそわして立ちそうな気配。ドアが閉まりぎわ立ち上がった。が、外へは出ずに、ドアのわきへ立った。私に飛び出さられるのを警戒してか?
 いくつか駅を過ぎた。男は反対側のドアの方へ移った。が、すぐにそこからスーとやって来て、私のすぐ右隣(ドアに近い方)に座った。男は腕を組み、じっとしていた。電車は関内駅へ着いた。私は男の前を通らないよう、遠いけど、左側のドアに向かって歩きだした。男も降りるだろうか? ホームから車内を見やった。居ない。つけているのか。私は階段へ急いだ。階段の降り口の右側にある鏡の前を通るとき、鏡の中をチラとのぞいた。私の背後には男の姿は見えなかった。私は階段を急いで降りた。
 私はトイレに入った。男をまくことが出来るかもしれないと思った。男が私を尾行しているなら彼もトイレに入って来るだろう。トイレに他の客がいなかったら‥‥。私は危険を感じた。トイレに入るとき、私は後ろを見やった。階段を駆け降りてくる男の足が目に入った。やっぱり!
 トイレの中には客が二人いた。私が入ってまもなく男が飛び込んで来た。しかし他に客がいるのを見ると、男は入口のところで立ち止まり、そわそわしていた。やがて水道の栓をひねり、手を洗うしぐさをした。私が出ようとすると、男は話しかけてきた。
「あの‥‥、すみません」
 男はちょっと頭を下げながら小さな声で言った。その調子は以外に素直そうで、学生といった感じだった。
「は?」
 私は答え、そのままトイレの外へ。男も一緒に出て来た。私たちは向かい合ったまま立っていた。男は私に言った。
「あの‥‥、わたしに何か話があったんじゃないですか」
 私はその意味がわからず、男の顔をじっと見つめた。やがて私は、
「いえ‥‥私、全然存じませんから」
 私は動揺した小声で言った。男もかなり動揺していた。
「あの‥‥、あの‥‥」
 男は手を胸のあたりで上下に動かし、言葉を探しているようだった。私は軽く頭を下げ、男のわきをすり抜けた。道を渡り、市庁舎の角を曲がり、木立の陰に入ってから、やっと後ろを振り返り、つけて来ていないことを確かめた。

 一体あの男は何だったのだろう。私をつけまわしている者たちの一味であることは間違いないであろうが、どうしてこのように目につく方法をとったのか?
 私が「訴その五」を出したことから、自分たちの立場が危うくなり、焦っていたのか。機会があったら、場所を選ばず始末をつけようとしたのか。それで、ふだん「始末」のほうを仕事にしている者が出て来て、無器用な尾行をしたのか。
 あるいは故意に私の目につくように尾行し、私が抗議するように仕向けたのか。男が私に「何か話があるんじゃないか」と言ったのは、それを向こうから催促したのではないのか。あるいは私が暴力行為に出ることを期待したのではないのか?
 あの血のような染みは何だったのか。おどかしか、それとも本当に「屠殺場」から、作業を済ませて出て来たのか?
 私は護身用に、いつも何かを携帯しておく必要を感じた。

         「三」

 彼らは、私のことで好き放題なことを言いふらしておきながら(しかも私に秘密で)、私がそれに反論しようとすると、徹底してそれを妨害する。全く汚いやり方である。自分たちのやっていることが正しいという自信があったら、私と堂々とたたかったらいいではないか。

         「四」

 彼らの「公式」からいって、私が精神的に窮地におちいっているとみなされるとき、私が外へ出ず、部屋に閉じこもっていると、彼らはいろいろな方法で私の様子を見にやって来る。新聞購読の勧誘などのかたちで。もっとも中には純粋に勧誘が目的でやって来る者もいるが。しかし多くの場合、彼らはどの部屋にも寄らず、まっすぐ私の部屋へやって来て、用がすむとまたまっすぐ帰って行く。

         「五」

 彼らの手にかかったら、世界一、清廉潔白で、血統書付きの人間でも、たちまちえたいのしれないグロテスクな者に変えられてしまうだろう。
 彼らは、彼ら自身の誤りを認めるということは絶対にしないらしい。それは、彼らが白を黒に変え、1たす1は3にもしてしまう自信があるからであろう。それに途中まで作業を進め、自分たちが間違っていたからといって、手を引いては、その運よく生き延びることができた人間に、後々まで自分たちの正体を追求される恐れがある。だから消さねばならぬ。
 とにかく、おおっぴらにされることだけは避けねばならない。ごくわずかの人々に、自分たちのやっていることを、薄々知られるだけなら問題はない。その者が死んでしまえば、記憶も一緒に消えてしまう。おおっぴらにされたとなると、消されたり、消されつつある者たちに対する責任よりも、自分たちの「制度」そのものが問題になる。自分たちのやることに間違いがあるとなっては、これからの作業がやりにくくなる。
「おれたちのやることに、絶対間違いはないんだ。だから、法律抜き、裁判抜きで仕事をできるんだ。つべこべ言うと、おまえもぶっ殺すぞ!」
 彼らのリストにのせられ、この世から消されたり、適当に始末されたりする人間は、決して裁判や、法に基づいてそのようなことをされるのではない。
 それにリストにのせられた時から、その者は法の保護から外されてしまうようである。だから、人権や人格など、認められようはずがない。
 彼らの行為が法に基づいたものでない以上、不必要にことを荒だて、彼らのやっていることが社会の表面に現れるようになることは絶対に避けなければならない。
 彼らが、私のことを広範囲の人々に知らせ、笑いものにしたのは、そうでもしなければ、私を参らせることはむずかしいとみてとったからであろう。しかも、自分たちの存在は、あくまでもヴェールで覆ったまま。
 その気違いじみたばかおどりのもとでは、私が反撃するまもなく参ってしまうだろうという確信が彼らにあったろう。
 私に汚物をぶっかけ、葬り去れば、人々の目には、「汚物がこの世から消えた」としか見えず、記憶にもほとんど残らない。しかし、かぶせた汚物を私からはね返されたとなると大変(本当に大変!)である。
 私はつい最近まで、私をつけまわしてきた犯人として、新日鉄及び警察をあげ、非難してきた。会社、警察が、私から非難される筋合いがなければ、逆に私を訴えることができたはずである。事実、会社は私を訴えようとしたらしい。私をつけまわしている者たちは、会社が私を訴えようとするのを制止したのではないのか。会社が私を訴え、「会社はそんなことをやっていない」となると、では誰がやっていたのか、ということになり、自分たちの存在が明るみに出ることになる。
 だが、会社を制止するためには、こんなことをやっているのは会社ではない、ということを密かにでも人々、社会に知らせる、という条件が絶対必要であったろう。
 私が間違いであっても、会社や警察を非難してきたために、陰で動いていたのは会社でも警察でもないことが私にわかってきたのだろう。私が沈黙していたら、いつまでも犯人像がわからず、ただ頭の中で、会社、警察だろうと思い込み、そしてそのまま、誰にも気づかれないうちにこの世から姿を消していたろう。
 しかし、非難のまとにされた新日鉄釜石製鉄所、警察、それに党の仲間たちに対しては、いくら詫びても詫びたりない気持である。
 だが警察であるが、警察が私をつけまわしている者たちに翻弄されていたことは間違いないだろう。私をつけまわしている者たちの行為が犯罪行為だとわかったら、調査、取締りに乗り出してくれてもよさそうなものである。

         「六」

 私が女に近づくのは、それ以上黙っていては、その女が気の毒になり、話しかけるのが私の義務に感じられたときである。
 私が近づく、一大事とばかり気違いどもがその女を狂わせにかかる。さすがの女もたまったものではない。それまで深い神秘をただよわせていた女の目は、たちまち俗っぽくなり、ビー玉と化していく。あげくのはては、私をまるで子供を笑うように笑う。
 これでもう、その女が私の心をひいていたものは完全にゼロになる。私はもうその女に近づくようなことはしない。だが気違い様たちは、いったん歯を立てたら、それをすっかり噛み砕き、消化してしまわないと気がすまない。そこで女をどこまでも狂わせていく。私はその女の目にさらされることに、極端な苦痛と嫌悪をおぼえるようになる。
 一時的であれ、私をつけまわしている者たちに毒された女とは、私は肉体関係をもつことはできないだろう。

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 私が自分の一生のうちにやろうとしていたことの中には、結婚とか、女とかいうものはほとんど眼中になかった。もっとも、結婚するに足る女が現れたときは話は別であるが。しかし、そのようなことは起こりえないことのようだ。性欲のはけ口はオナニーで十分である。「心」を持たない女と肉体関係をもって不快な思いをすることはない。
 ところが、その女やセックスのことで愚劣なばかおどりをされ、私の一生が台なしにされようとしているのだ。
 気違い様たち、本当にえらいことをやってくれたものである。
 彼らが、こんなにまでばかおどりをしたのは、私の真の姿を見抜いていたからではないのか?

  (以上「訴その六」より ─ 昭和50年4月10日発行)

 


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