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  第二編

      第八章 「訴」によるたたかい (二)

一節(「訴その7」/心のレーダー)   第二節 (横浜弁護士会、神奈川県警、横浜地方法務局、日弁連)   三節 (「解雇処分撤回請求事件」提訴) (第一回口頭弁論) (第二回口頭弁論) (最終口頭弁論)

 

              一 節

  昭和50年(1975年)

 「訴その六」を完成させた後、ソルジェニーツィンの「収容所群島」を読んで、すぐに「訴その七」を発行する必要にせまられた。

「訴その七」 

  「一」( 「心のレーダー」)  「二」(内なる力)  「三」  「四」(エピソード)  「五」 (アンナ・カレーニナ)  「六」(私のルネサンス)  「七」  「八」  「九」  「十」  「十一」

 

         「一」

 私が最近読んだ本 ─ ソルジェニーツィンの「収容所群島」(木村浩訳、新潮文庫)の中に次のような箇所があった。

 

 だが、私がどんなにこの新しい友人に対して心を開こうとしても、またその間に交した言葉がどんなに少なかったとしても、私はこの同年輩の前線帰りの軍人から何となく異質なものを感じとり、すばやく、そして永久に、自分の心の扉を彼の前から閉じてしまった。
 私はその時まだ《 監房スパイ(ナセトカ)》という言葉も、どんな監房にもその種の人物が必ずいるということも知らなかった。私がこのゲオルギー・クラマレンコという人間は虫が好かないと考えて自分にそう言いきかせる前に、私の中にある精神的な継電器探知器が作動して、私の心を相手から永久に閉ざしてしまったのである。もしこのような例が唯一のものだったら、私もこんなことは書かなかったであろう。ところが、私は間もなく自分の中にあるこの継電器探知器の働きを、自分に与えられた天性として、驚嘆と不安の気持で、自覚するようになった。歳月が流れてゆき、私は何百人という人びととともに同じ板寝床に寝起きし、同じ隊列を組み、同じ作業班で働いた。そのときになって、自分がその創造にまったく関与しなかったこの神秘的な継電器探知器は、私がそのことを思い出すより早く作動した。相手の顔や目を一目見たとたん、あるいはその声を耳にした瞬間、それはひとりでに作動して、私の心をその相手に開放するか、ほんの少ししか開かないか、あるいは完全に閉じてしまうかするのだった。それは常に誤りがなかったので、私には保安将校が懸命に密告者を狩り出すのもばからしく思われたほどである。なにしろ、裏切り者の役を買ってでた連中はその顔を見ても声を聞いてもすぐわかるからだ。非常にうまく化けているように見える連中でも、どこかしっくりしないものだ。また、これとは逆に、私の探知器は、自分が最も大切に心にしまっていたこと、たとえばもし当局に知られたらそれこそ死刑にでもなるような隠しごとや秘密を、知り合った最初から打ち明けてもいいような人々の識別にも力をかしてくれた。こうして私は懲役八年、流刑三年、さらに危険性では前者に少しも劣らない地下著作業の六年を過し、この十七年間にわたって何十人という人びとに軽率にも心を打ち明けてきたが、ただの一度も失敗したことはなかった! ─ こんなことはどの本でも読んだことがないので、私はここに心理学の愛好者のために書きとめておくことにする。このような精神的メカニズムは多くの人々に備わっているように思われる。だが、あまりにも技術と知性の発達した時代に生きる私たちは、このような奇跡を軽視し、それが自分のなかで発達することを妨げているのである。

 

 私はこれを読んでびっくりした。ソルジェニーツィンの「継電器探知器」と全く同じものが私にもあるからである。
 私はこのことを人に語ったことはない。信じてもらえないのを知っていたから。私はそれを胸にそっとしまいこみ、私の最大の武器、最大の友としてきた。
  私はこの作用を「心のレーダー」という言葉を使って表現していた。
 私が自分の内部にあるその特質を、自分に与えられた天性だと自覚するようになったのは二十代半ばであった。この発見は私に驚異と不安な期待を呼び起こした。
 それが私に与えられた天性だと知るまでは、それを有していることにより苦しめられた。
 だが、それが私(だけ)に与えられた天性であることを知ってからは、それに振りまわされることはなくなり、逆にそれを胸深くに秘め、私の最大の武器とするようになった。

 この特質は、すでに私の少年時代から現れていた。学校などで、誰かが失敗をしても、私にはその者がどうしてそのような失敗をしたのか、そして、その者が今どんな気持でいるかといったことが、不思議なほど手にとるようにわかった。だからその失敗によって、その者が責められる必要がないとわかれば、私は決してその者を悪く思うことはなかった。
 また、私が失敗をしてみんなに迷惑をかけるようなことがあっても、それがやむを得ないものであった場合は、私が言い訳しなくても、私の心はみんなに伝わっているものと信じて疑わなかった。しかしそれは通用しなかった。このため私は何度苦しめられたろう。これが私に与えられた天性ゆえに苦しまなければならなかった始まりであった。

 人の心が見え透いてくるということは、人の意地悪さや嘘が見え透いてくるということにもなる。
 もの心がつき、目が外へ向き、他人を見ることができるようになったとき、私は驚いた。
「みんな、ひとり残らず意地悪で悪人ばかりだ!」
 青年時代に入った。葛藤は激しくなるばかりだった。目に入るものすべてが嘘と悪意に満ち、愚かしく、そして汚染されていた。そのようなものばかり目にしていることは、とても耐えられなかった。私は小説(古典)を手あたりしだいに読みあさった。
 だが、それらの作家たちは、その作品によって私をなぐさめはしたが、さらに醜いものを見わける力を私に与えた。

 二十歳頃から私はいろいろな団体に加盟するようになった。そして、いろいろな集会に出席するようになった。それらの席で、私は意見を求められても、何も答えることができなかった。というよりは何を答えていいかわからなかった。十代後半頃、私はその場で何が話されているのかを理解できないこともめずらしくなかった。
 しかし、このような極端な現象は次第になくなり、その場で話されていることが大体わかるようになった。だがそれでも意見を求められると、何を言っていいのかわからなかった。私がまごついていると、誰かが代りに答える。それを聞いて私はびっくりする。

 
『そんなことなら私にもわかる! だが、そんなわかりきったことを、わざわざ言葉に出して言うことはないではないか!』。だが話し合いはそれで立派に成り立ち、進行していく。さらに質問からかけ離れた内容の返事をしても、みんなはあたりまえの顔をしている。再び私に当てられる。私は内心あせる。『あたりまえのことを言えばいいんだ、あたりまえのことを言えばいいんだ』だがそのあたりまえのことが出てこない。そうして誰かがあたりまえのことを答える。

 私はなんとかして人並みに話し合いに加わろうと苦心する。そのあげく神経がへとへとに疲れて、もう話し合いに加わることを完全にあきらめてしまう。あきらめたとたん、私の世界は、その話し合いの場から急速に、恐ろしいところまで沈んでしまう。私は目の前でみんなが話しているのを、まるで別世界のものをながめるようにながめている。そのような自分を悲しみながら。
 話し合いに加わることをあきらめたとたん、私の脳と唇は鉛のように重くなってしまう。もうテコでも動かない。こんなとき意見を求められようものなら、顔をひきつらせ、ゴボゴボと口ごもるだけであった。

 会社に入社したが、休み時間、みんなの雑談にも加われなかった。雑談の内容が、飲んだ、食った、女に触った、といったたぐいのせいもあるが、それ以外の誰でも加わることのできる雑談でも私は加わることができなかった。
 話す必要のないようなことを、面白おかしく話し、笑っている者たちの気持が私には理解できなかった。

         「二」

 少年期から青年期の初めにかけて、私の内部では、未来に開花すべきものが、渦巻き、煮えたぎっていたようである。それで私の目がときにはもうろうとして、外界にうまく適用できないこともあったようである。
 しかし、その未来に開花すべき力が、全く愚劣なたたかいのために浪費させられてきた。この力を別のことに向けていたら‥‥、そう考えると、涙が出るほどくやしくなる。しかし、使い果してしまった力と、過ぎ去った時間はどんなにもがいても取り戻すことはできない。

 私はずっと以前から、いつかは何らかの形で表現されなければならない何かが、私の内部で息づいているのを感じていた。そして一方で、もし一生のうちに、それを表現する手段、技術を見出すことができず、その表現されるべきものがそのまま私の内部でくすぶったままになってしまったらどうしようと恐れ、焦り、心配した。そしてその表現の手段となるべきものを探した。
 私は会社に入ってまもなく絵を描き始め、会社の美術部にも所属した。私は表現の手段を絵に求めた。しかし何度も絶望した。絵では表現できないのではないか? 
 それでも私はひたすら描いた。しかし、なかなか絵に没頭できなかった。筆を持った手はキャンバスの上を動きながら、頭は全然別のところを漂っていた。職場の者たちの異様な目つき、顔つき、言葉といったものが私の頭から離れなかった。それらが一塊の黒雲のようになっていつも私の頭の中にあった。
 我に返ったとき、脳はすっかり疲れきっていた。絵は、と見ると、もう破り捨てたいものになっていた。

 職場の者たちの異様さは、無視してすむような生やさしいものではなかった。私の頭上には、恐ろしく下劣な色合いを帯びた厚い氷がぎっしり張りつめていて、なんとかしてその氷の上に顔を出さなくては窒息してしまいそうだった。私の未来など考えることもできなかった。
 狂気の嵐が荒れ狂いだしてからは、それとのたたかいで精一杯で、絵どころではなくなった。
 私には、内にひそんだ力があったからこそ、悪魔を相手にこれほどまでたたかうことができたろう。かつて、この悪魔を相手にこれほどたたかいえた者がいただろうか。多くの者はそれに睨まれただけで体がすくみ、その悪魔のえじきになってきたろう。
 だから、私の存在は彼ら悪魔にとって驚異であろう。彼らが前代未聞の気違いじみたばかおどりをやったのも、このことと無関係ではないだろう。

         「三」

 岩手から出て来た後、私はいろいろな美術展を見る機会に恵まれるようになった。
 日本でもあるていど名の知れた画家の個展を見に行っても、私は感動することは少なかった。その頃、私はそのていどの絵も描けなかったが、いつかはそれ以上の絵が描けるという、内にひそんだ力を感じていた。
 またあるとき、セザンヌの小さな(そしてとても簡単な)素描の前に釘付けになり、霊感のようなものに打たれ、涙を流したこともあった。

         「四」

 ここで私が絵を描き始めた頃のエピソードをのせておこう。
 私が誰からも義務づけられずに、自分から進んで絵を描きだしたのは十八歳のときであった。描いた絵を会社の美術展に出品したところ、自然に美術部員になってしまった。美術展は春と秋の二回開かれ、春はスケッチ展、秋は油絵展になっていた。美術展の間、中央から著名な画家を招いて、作品の講評をしてもらうのがならわしであった。
 私は暇さえあればスケッチブックを持って近辺を歩きまわっていた。(このころ、黒雲はまだはっきりした形で私を圧迫していなかった)。

 私の町の奥にある、新山(しんやま)という標高千メートルほどの高原に私は特に魅せられた。その高原に一歩足を踏み入れると、そこには描きつくせないほどの画題が豊富にあった。
 昭和37年5月3日にも私は登った。5月といっても、東北、しかも山の上となると、雪がまだあちこちに多量に残っていて、春の気配はまだなかった。
 山頂付近は、夏になると、牛や馬が放牧される草原であった。木々は谷あいを除いてはほとんどなかった。それらはほとんど白樺であった。ゆるやかな起伏を繰り返して、どこまでも続く高原は、とても日本の風景とは思えないほどだった。
 この日、登ったのは私一人だけだった。見渡すかぎり人影一つない山頂付近で水彩スケッチをした。風は冷たく強かった。手がかじかんだ。枯れ草の上に腰を下ろし、風でスケッチブックがめくられないように気を配りながら描きだした。
 私のいる草原がいったん谷へ落ち込み、そこから向こう側へ這い上がったあたりの斜面に残雪があり、その中に木立が黒く立ち並んでいた。木の生えぎわの雪が解け、幹のまわりを黒く縁取っているのが印象的だった。私はそのあたりを描き始めた。
 私はそのままその絵の中に入っていったらしい。ふと我にかえった。『一体おれはどこにいるのだろう? 何をしていたのだろう?』。私はまわりを見まわした。
 灰色の空の下、人影一つ見えない荒涼とした大地、風に波打っている枯れ草。このとき初めてのようにその冷たい風の音が耳に入ってきた。それから目の前の、描きあげられた一枚の絵を見、考えをめぐらせた。『おれは今朝、新山へ登るために早く家を出、そしてここでこの絵を描きだしたのだ』
 絵を描いていた時間がどれほどだったのか、私にはわからなかった。時計を見た記憶からいって、一時間はたっていたようだ。
 私は絵を見た。不思議なことに、その絵は初めて見る絵のように目新しく映った。絵を描いていて、このような境地におちいったのは、後にも先にもこの一回だけであった。

 私はこの絵を、この年のスケッチ展に出品した。(この年、春に行なわれるはずのスケッチ展が8月31日から行なわれた)。9月1日、中央から荻野耕児画伯が招かれ、作品の講評が行なわれた。私は自分の絵を専門の絵かきに批評してもらうのは、これが始めてであった。
 このスケッチ展に私は七、八点出品した。一人あたりの出品数では、私が一番多かった。
 講評が始まった。私は二人目であった。胸がドキドキした。いよいよ私の番がきた。私は画伯の前に押し出された。画伯は私の絵を一枚一枚講評していった。絵具のことなどについてたずねられたが、専門用語を使うので、さっぱりわからなかった。

 
「残雪」と名づけられた例の絵の前に来た。画伯はそれまでの調子を変え、その絵にずっと近づいて見入っていた。それから私の方を振り向き、ニコニコしながら近づいて来た。今にも私の肩を抱かんばかりであった。そして言った。

「あんたは絵を描くことが本当に好きですね」
 私はすっかりどぎまぎして、ただ、
「はあ」と答えた。
「そういう感じが、これを見るとよく表れている」
 最後に画伯は美術部長たちの方を向いて、
「有望ですね」と言った。
 このとき私は、芸術(作品)の持つ不思議な力といったものを考えさせられた。あの特異な境地で描いた絵が、その道をきわめた画家の心をわずかなりとも打つことができたのだ。

         「五」

 エピソードがとんでもなく長くなってしまった。
 私はこれまで述べたような理由から、人とは最小限のことしか話さなかった。だから人からはよく、「無口だ」とか、「おとなしい」と言われた。
 しかし、私が会社に入ったばかりの頃、職場の人たちは、おとなしいということで、私をかわいがってくれるといった向きもあった。だが、二年、三年とたつうちに、彼らの様子に変化が起こり始めた。まったく下劣な目で私を見るようになった。通勤の汽車の中では、若い女たちが、もすごい表情を浮かべて私を見るようになった。職場では私の言うこと、やることすべてが、私の意図とは全く正反対の下劣なものに結びつけられた。私がプラス五のことをすると、それはマイナス五の言動として受けとられ、プラス十のことをすると、マイナス十にとられた。しかもそのようなことは私に対してだけやられ、他の者たちに対してはなぜかやられなかった。
 私のちょっとした過失や、連絡の手違いが、私の想像もしていなかったものに受けとられていることを知って、唖然とすることが多くなった。たとえば、倉庫へさまざまな品物を払い下げに行き、たまたまその中の一つの品を忘れてこようものなら、彼らは私の精神状態を疑った。もちろん彼らはそのようなことを言葉に出して言ったわけではない。私がそのことを知るには、そのときの彼らの目を見るだけで十分であった。

 こうして、彼らの中で、私の異様な虚像が成長し始めた。これは彼らに、心の正常な働きを狂わせる異常な力が外部から働いていたためである。だが、この頃の私には、そのような異常な力が存在しようなどとは夢にも考えられなかった。ただ苦しんだ。
 会社に入って八年ほどの間、そのような状態が続いた。同僚、上司はただ私をあざ笑ったり、私の言動をまったく別のものにとったり、また、春になると、年中行事のように、私の「頭がおかしくなった」といってさわいだりするだけであった。そこにはまだ、何がなんでも私をやっつけ、精神異常者に仕立て上げてやろうという狂気はみられなかった。

 一方私は会社に入って数年後に、日本民主青年同盟に加盟し、さらに数年後、共産党に入党した。しかし、それら同盟や党の中で仲間たちが私に対する異様さは、職場の同僚たち以上であった。私の頭の状態を疑うだけでなく、私をまるで裏切り者のように見、警戒した。それで私は、あの手、この手で彼らに試された。
 私をつけまわしている者たちは、私を同盟や党の仲間から引き裂くのに、私が同盟や党を裏切っているというようなことを党員たちの頭に注ぎ込んだらしい。
 私をつけまわしている者たちは、ある人を私から引き離そうとするときは、まずどんなことをその人の頭に注ぎ込んだなら、その人が私を憎んだり、警戒したりするかを考え、そうして、私がそのものずばりのことをやったと告げるらしい。
 相手がどんなに感情を隠しても、それが見え透いてくる私に対して、同盟や党の仲間たちは、あざけりと、精神異常者を見るような表情をありありと浮かべて私を見、あるときはそれを言葉に出してまで言った。
 私は涙を流して彼らに抗議したこともあった。しかし彼らは口をそろえて、「そんなつもりはなかった。思い過ごしだ」と言った。

 私にもわからなくなることがあった。このように何もかも見え透いてくるのは、何かの病気のせいなのか? 見え透いてきていると思っているのは、ただのまぼろしか? だがすぐに考え直す。『いや違う、思い過ごしなんかじゃない。この目でちゃんと見たんだ、この耳でちゃんと聞いたんだ。それに抗議する前と後では、彼らの様子が大きく変ったではないか』
 こうしたとき、トルストイの「アンナ・カレーニナ」を読んだ。私はそこから大きな力を得た。私は思い過ごしなんかしていないという確信をもった。
 アンナが夫を見る目、夫の微かな目の表情、言葉の調子、しぐさから、夫の心を恐ろしいほど深く読みとる。
 アンナが夫を見る目と、私がまわりの人たちを見る目とは全く同じであった。そして私の場合は「思い過ごしだ」と片づけられている。私は「アンナ・カレーニナ」を読んでいて、トルストイが、アンナが夫について推察したこと、考えたことはすべて思い過ごしであったと結論づけるのではないかと気にしながら読んでいった。しかし作者はそのようなことはしなかった。アンナの感情はその中で立派に通っていた。
 トルストイがこの本でこのような心理描写ができたということは、トルストイ自身、そのような状態を経験していなければならない。アンナの心理描写は、心理学やその他の学問を修めただけで書き表すことのできるものではない。

         「六」

 私は同盟も党もやめた。それから数年間、今考えても、よくそこから這い上がることができたものだと思えるほどの精神的苦悩、どん底に落ち込んだ。精神病院の門までくぐった。
 どん底に落ち込んで、自殺まで考えることのあったこの時期にも、突如、私はむせぶような幸福感、喜びにおそわれることがあった。それが何なのか、どこから現れるのか、私は本当に不思議であった。
 精神病院にまでかかり、私は永遠に這い上がることができそうもなく思われた泥沼から這い上がることができた。私は生まれ変ったような、別の新しい生命を見つけたように感じた。

 立ち直ることができた後、私は自分の鋭い感受性を大事にするようになった。それまでの私は、標準器クラスの敏感な計器をテスターなみにこき使っていたようなものだった。私の神経の感度が、普通の人のそれとはかなり違うことを知ってからは、それまでのように、何もかも直接それにぶっつけ、苦しむということはしなくなった。私はそれを胸の奥にしまいこみ、外界のいろいろな現象をフィルターを通してからそれに当てるようにした。ということは、私とまわりの人たちとのギャップ、私と社会とのギャップをはっきりと認め、その両者を一致させることはできないことを認識したのである。

 私は自分がどんな人間であるかをしだいに知るようになった。それと同時に、自信も湧き、自分でもびっくりするほど強くなった。急に視野が開け、私にはまわりのものが、私の足の下に広がっているように思えた。
 
(私がこのような気持を言葉に出して言うまえに、私をつけまわしている者たちは早くもこれを読みとり
何と素晴らしい力であること! これを人々に言いふらした。それを聞かされた人々が私に向かって言う言葉が、「あんただけが正しいんじゃないんだ」、「あんたを中心にして、世の中はまわっているんではないんだ」といった言葉である)。
 私はこのころの新しい気持を日記に、「これは私のルネサンスだ」と書きつけた。私は、私の未来に、何か輝かしい、偉大なものが約束されているのを感じた。
 こうしたときであった、職場で狂気の嵐が荒れ狂いだしたのは!

 この嵐は会社内だけでなく、一般市民の間にまで広がりだした。店に入っても異様なものを感じた。その例を一つのせておこう。
 私が釜石市にいた頃、時々入ることのあった喫茶店に「車門」という店があった。気が滅入ったときなど、よく入ってブランデーやウィスキーを飲んだ。何度か行くうちに、店員の様子が異様になった。女だけでなく、男の店員まで、すごい表情で私を見るようになった。(といっても、それは普通の人には感じられないものだったかもしれない。それは目で見て感ずるというよりは、体全体で感じとられる性質のものだったから)。彼らの表情から私は、彼らが見ているのは私ではなく、私の代りに何か恐ろしくグロテスクなものを見ていることを知った。それがあまりにも激しかったので、私自身、彼らの前では本当の自分が消え失せてしまうように思われた。私は氷づけにされた冷たいかみそりの刃で、胸をずたずたに切りさいなまれるのを感じた。店の中が薄暗いので、その感じはなおさらであった。
 私はその異様さを感じながらも、内心では、こんなことはありえないことなんだと自分に言い聞かせた。そして私はさらに何度かその店に入った。
 ある日、私はジンフィーズをたのんだ。運ばれて来た半透明の液体の底に、何か小さなものが沈んでいるのに気がついた。グラスの中には真赤なサクランボが一個入っていた。底に沈んでいるのは、サクランボの種のように見えた。まさか! そんなはずはない! 店が客に対してそんなことをするはずがない。それでも不快な気持で、それを見ないようにして飲んでいった。最後にサクランボをほおばり、種を放り出した。それはグラスの底のものと全く同じものであった。
 私が店を出るときの店員たちの様子! 何も言わず、金を払って出た私が、彼らにはどのように見えたろう。
 彼らが私のことをどこからも知るはずはないと思いながらも、私のまわりで異様なことがやられているのを感じた。

 病院へかかっても同じ。途中から治療がぞんざいになった。私は医師の様子の中に、「どうせまもなく廃物にされるんだから、ちゃんとした治療は必要ないんだ」といった心を感じとった。
 職場のほうはもう、「何がなんでも」といった調子になった。
 しかし、私はもう以前の私ではなかった。まわりの者たちがどんなに下劣なことで私を笑っても、私にはそれが私の足下で吠え叫んでいる野良犬のように見えた。私は彼らを心からさげすみ、その愚劣さに驚きの目を見張った。そして、それとは対照的に、自分という人間像が私の内部に確立し、自覚されていった。
 この異様なたたかいの中で、私の鋭い感覚は「心のレーダー」として働き、不思議な力を発揮し始めた。それは私の意志とは全く関係なく動きだし、相手の心を私に教えてくれた。科学で説明できそうもないこの不思議な現象を私はすぐには信ずることができなかった。しかし、何度となく回を重ねるにつれ、その不思議な「心のレーダー」の作動には誤りがないことがわかってきた。
 私が会社や警察を非難したのは、この心のレーダーの誤動作によるものではない。心のレーダーはただ、私が接する人の心を私に見せてくれ、その人の心の中で何が起こっているかを教えてくれるだけである。その人がどうしてそのような心の状態にあったのか、その人の背後で動いているのは誰か、といったことは私自身で探究しなければならない。

         「七」

 狂気の荒れ狂う会社をやめ、家へ帰った。ところが家族! その家族からも逃れ、遠い地へ。見知らぬ土地、人々は私にとり、白紙であった。私の心のレーダーは、その白紙の上に現れる現象を、どんなに細かいことも逃さずにとらえていった。
 私は人権擁護委員会だの何だのと駆けまわって騒ぎたてるまでは、じっとまわりに起こる現象を見守っていた。そして、こともあろうにこの私に対してこのように見え透いた、愚劣な手を使って中傷し、笑いものにしてくる者たちの底なしの愚かさに目を見張った。こんなことがこの世にあるのだろうかと、ただただ驚かされた。
 平凡な日常生活において接する人々の心を読みとるのは、心のレーダーの存在を意識するまでもなく、空気を吸うのと同じように何の意識もなしにできた。それがあたりまえの状態だから。
 陰で特殊な力がおどりだして、人々が私に対して微妙で、異様な現象を示すようになってからは、相手がどうしてそのような現象を呈していたのかを知るには、多少時間がかかることがあった。それは相手と別れてから数時間後、または数日後であることもあった。というよりは、相手の言動に不審なところがあったということは意識されていないことが多かった。それなのに、ある時間がたち、何を考えるともなくぼんやりしているとき、不意に、その相手の正体といったものが、ぱっと浮かんできて、私の頭いっぱいに広がる。そのときになって初めて私はうなずく、『どおりで‥‥、あの時、無意識のうちに不審を感じていたものな!』と。
 このようなことを何度となく繰り返し、また、陰で動いている者たちの手口にも慣れてくるにつれ、その人に会ったとたんに、反射的に知るべきことを知るようになった。
 それでも現象がきわめて微妙なときは、瞬時に、というわけにはいかないこともあった。例をあげると、
 私はその人の存在は、ある人を通して知っていた。しかし会ったことも、話したこともなかった。ある日、その人から電話があった。相手は私を紳士として話していた。(こんなことは久しくお目にかかっていなかった)。私もそれにふさわしい調子を保った。しかし電話が終った一分後に、私は屈辱と恥かしさから体中熱くなった。
 私は納得できなかった。
私は心のレーダーを責めた。しかし、心のレーダーはこのときも正しかったようだ。

 初めの頃、私は心の目に見えてきたものをそのまま相手にぶつけ、非難するということをよくやった。相手は「そんなことはない。思い過ごしだ」と言った。しかしその後に相手の様子が変わった。それは単に私から見当違いのことを言われたことに対する怒りではなかった。本当のことを見抜かれていることへの恐れと怒りであった。
 こうしたなかで私は、心の目に見えてきたものを相手にぶつけるのは、相手に深い怒りを呼び起こすだけで、解決にはならないことを悟った。それからは、私は接する人々から見てとったものを、そっと胸に秘め、それを手がかりにその人たちの背後でおどっている者たちの行為を明らかにするようになった。
 背後でおどっているやつらがどういう者たちなのか、私には、その目つき、顔つき、性格、癖、といったものまで、まるで一人の人間を目の前に見るように見ることができる。そして、目の前の人間の心の動きを感じとるように、その者たちの心の動きを感じとることができる。
 彼らが私に対して気違いじみたばかおどりをして攻撃したのは、自分たちのやることをすべて、私に見抜かれてしまうことに対する恐れと怒り、ねたみからではなかったのか? 

 相手から見てとったものを、やむをえず相手にぶつけることもあった。
 鎌倉市人権擁護委員会を訪ねたばかりの頃(二度目)、人権擁護委員が、気違いどもに毒されていることを、自らの言動でもって、みごとに証明していながら、「つけまわしている者たちなんかいないんだ」と言うのに対し、私はいらいらし、
「私には今あんたが考えていることがわかりますよ! これから考えることもわかりますよ!」
 そう言って、その人権擁護委員をあわてさせたこともあった。

 この心のレーダーは、私に相手の心を見せてくれるだけでなく、私がどんな苦境に立たされたときでも、常に私に進むべき道を示してくれた。暗黒の中にひらめく光のように。私はこの不思議な力の導きがあることを信じていたので、どんな苦境におかれても比較的楽観的でいられた。

 そのものが本来あるべき姿、自然の姿から少しでも外れると、たちまちそれを感じとってしまう、この不思議な天性、特質は、すぐれた真の芸術家にそなわっているものではないのか? 私はそれを、そういった芸術家の作品からから感じとることができるから。

         「八」

 私がソルジェニーツィンという作家を初めて知ったのは、だいぶまえ、彼の「イワン・デニーソヴィチの一日」(岩波文庫)を読んだときであった。人間的な暖かみをもった、そして物を見る目の鋭い作家だなと思った。
 最近「収容所群島」を読み、心を揺さぶられた。
 読み初めてすぐ、当時ソルジェニーツィンらを逮捕し、破滅へ追いやっていた者たちと、私をつけまわし、破滅させようとしている者たちの間に、共通した心理があることにびっくりした。そして考えさせられた。人間はある種の仕事をしていると、不可避的にある一つの方向、ある一定の心理状態に落ち込んでいく性質を持っているのではないか。
 他人が苦しむのを見て楽しみ、また、その楽しみのためにその仕事をするという、人間本来の天性から外れた心理状態に。(人間の限界といったものを感じさせられる)。
 この異常心理が顕著に現れた例が、ナチスによるユダヤ人虐殺ではないのか。

 ソビエト政権樹立の際に、このような(ソルジェニーツィンが書いているような)ことがやられたということは、本当に悲しいことである。私は以前、「世界をゆるがした十日間」(岩波文庫)を読んでいただけに、いっそう悲しかった。
 現在、そのような事実があったことを摘発している者を迫害するのではなく、その事実に対して罪があるならその罪を認め、今後再びそのような過ちを起こさないように戒めあっていくべきではないのか。

 
「収容所群島」の中には、反共主義者が読んだら、さぞ喜ぶだろうと思われる表現があちこちにある。しかし、それでソルジェニーツィンを反共主義者だとすることはできない。反共主義者が喜びそうな彼の批判は、マルクス・レーニン主義そのものに向けられたものではない。

 もしロシヤ革命の後、政権を握った人たちがみな、マルクスやレーニンと同等の人たちだったら、このような悲しい出来事は起こらなかったろうし、その体制はソルジェニーツィンの理想と一致するものであったろう。

         「九」

 私が「訴その六」(前号)をあちこちへ配ったが、その押え込みも数日で完了したらしい。それは市民の様子から知ることができるし、また、敵が私を取り囲んでいる無気味な(それでいてばかげた)輪をぐんと縮めて私にせまってくることからも知ることができる。私のまわりには、獲物が参ってしまうのを、今か、今かと息をのんで待っているカラスのようなのがうようよしている。

         「十」

 ここ数年、彼らの動きを見ていると、私という人間は彼らの公式には当てはまらなく、それでも彼らはなんとかして公式に当てはめようとし、また当てはまっているかのように思い込んで私のまわりでおどっているようだ。それを見ると私はおかしくなる。私は彼らのその動きから、彼らの公式がどんなものなのか、また普通の人間は、どの段階でどのようになるはずなのか、といったことまで知ることができる。彼らの公式に私が当てはまっていたなら、十年ほど前に(彼らの動きが感じられてから数年後に)は、私は彼らのえじきになっていなければならなかったのだ。
 私という人間をわかるには、私以上の人間でなければならない。
 人間の心理を読みとることには抜群の力を持ち(それ以外のことにかけてはおそろしく下等であるが)、そして、どんな人間をも自分たちの思うような心理状態(発狂)にまで導くことができ、目をつけた人間を何の苦もなく料理してきた彼ら。その彼らに私はどのように映るだろう?

 彼らの通ったところ、彼らの息のかかったところはすべて狂ってしまう。
 私の心のレーダーは、不自然な心に敏感に反応するだけでなく、その人の心がこれから「自然の法則」にしたがって、どの方向に進んでいくかといったことまで教えてくれる。しかし、彼らの息のかかったところは、その法則がぶちこわされ、その人の心はとんでもない方向へ引きずられていってしまう。

         「十一」

 私をずっとつけまわして調べたなら、彼らは、私の(普通の人間ではとても考えられないほどの)女に対する潔白さ、高潔さをいやというほど見せつけられたろう。(この高潔さを一番よく知っているのは、私と交際のあった女たちであろう)。彼らはそれに目を見張らされたにちがいない。そしてこの事実とは全く正反対のことを言って私を苦しめようとしたのではないのか。その動機になったのは私に対するねたみ ─ 余りにも完全で、純真で、美しいものに対するねたみであろう。
 事実とは正反対のことを言って、その人間を苦しめるのは、彼らの常套手段であるようだ。精神的に参らせ、発狂へ導くにはそれがてっとり早い。その者が人権侵犯だの何だのといって騒いだら、人権擁護機関を押え込んでしまえばいい。そうすれば、その者に与える精神的打撃は絶対的なものになる。
 それに彼らは、私に対して強大な妨害をしなければ、私がいつかはかなり高いところまで、輝かしいところまで登りつめるだろうことを予測したろう。彼らほどの者がそれを見抜いていないはずがない。見抜いていたからこそ気違いじみたばかおどりをして妨害したのであろう。
 彼らが大々的に言いふらしている、下劣でばかげたことは、ただ、私を破滅に導くための口実にすぎない。美しいものを人々の目につかないように埋めてしまうには、思いきりばかげたものを、無限に集める必要があったのだ。もちろんデッチあげをおりまぜて。
 だが、そのばかげた事がらにしても、他の人間、たとえば彼らの息子、あるいは彼ら自身を徹底して調べたなら、そこからは出てこない性質のものであろうか?
 人のきんたまばかり見つめて仕事をしているような者たち。

 (以上「訴その七」より ─ 昭和50年4月26日発行)

 

 私は「機関」に工作され、狂わされていく者たちを見て、彼らに哀れみと、さげすみを感じている。しかし、ふと思うことがある。もし、彼らと私との立場が逆だったらどうだろう? はたして私は「機関」に工作されずに、自分自身を貫くことができるだろうか?

 

              二 節

  昭和50年(1975年)

  4月28日 月曜日

 「訴その六」と、上記の「訴その七」を持って、横浜弁護士会、神奈川県警、それに横浜地方法務局を訪ねた。横浜弁護士会の受付で、
「会長さんはいますか?」
 とたずねた。受付の女は私を見たが、すぐに視線をそらし、顔をゆがめて答えた。
「います」
 彼女は電話を使わず、受付を出て行った。
 やがて事務局長が降りて来た。彼は、座っている私を見下ろしながら、私の前を行ったり来たりしながら言った。
「会長はいま忙しくて会っていられない。就任したばかりだから」
「代ったんですか?」
「うん‥‥、一年だから」
 私を見下ろしている彼の目、表情には、ある感情がありありと現れていた。『おまえがいくら正しくても、どうにもならないんだ、だめなんだ』
 彼はそのまま帰って行こうとした。私はあわてると同時に屈辱を感じた。私は「訴その六」と「訴その七」を鞄から取り出し、彼を追っかけた。
「ではこれを渡してください」
「あ、渡すのね」
 彼は簡単に答え、階段を上って行った。

 そこを出、すぐ近くの県警へ行った。分庁舎、広報課の石川氏を訪ねた。彼は話し中だった。私は立ったまま待った。部屋の若い女たちが、私をまるでセックスのためにしか生きていない男を見るような目で見ていた。
 石川氏に「訴」を渡し、どうにもならない話を展開した。
「警察は私をつけまわしている者たちに押え込まれているんでしょう?」
「警察を押え込むことのできるのは法だけだ。ここは日本なんだ。日本にはそんなものは存在しない」
 さらに彼は、
「家族はあんたについて行けないと言っているんだろう?」
 と言った。私はその言葉の裏に、『家族がおまえを見放している以上、警察がおまえの問題を取り上げることはないだろう?』という彼の心を感じとった。

 私の「訴」について彼は言った。
「これは‥‥、この文章は怪物だ‥‥。これを別のことに向けていたら、大したものになったろう」
 それまで私は彼を、話のわからないおやじとばかり思っていた。しかし、彼がそう言うのを聞いて、『なんだ、ちゃんとわかっているじゃないか!』と思った。

 県警を出、横浜地方法務局の人権擁護課を訪ねた。課長が立ち上がって、私の方へ近寄って来た。
「日弁連のほうはどうなりました?」
 彼は落ち着いた調子でたずねた。私は、今県警へ行ってきた、と言った。すると課長はふざけた笑い方をした。
「警察では何と言っていました?」
「こちらで取り上げるのが常識でしょうけどねぇ」
 すると、彼は「思い過ごしだ」と言った。

 

  4月30日 水曜日

 日弁連の人権擁護委員会を訪ねた。ずっと以前、日弁連に救済を申立てて、まだ回答をもらっていなかった。しかし、二日前、横浜地方法務局を訪ねたときの課長の様子から、日弁連も押え込まれたことは知っていた。福島という職員と話した。数日前に私に通知を出したという。どのような内容かとたずねると、私の申立ては「不採用」としたというものだった。理由は記されていないという。理由は当人には知らせないことになっているという。
 奥のテーブルに移って話した。私は「訴その七」を参考までにと言って渡した。私は不採用になった理由をどうしても知りたかった。私は彼に理由を見せてくれるよう頼んだ。彼は一冊のファイルを持って来て開いて見せた。私はそれを読み、そして彼にたずねた。
「これ、写していいですか?」
「いや、写すことはできません。本当は当人にも見せないことになっているんですから」
 そう言って彼はその書類を胸に抱きかかえた。
 別れるとき彼は私に、
「失礼しました」
 と言った。彼は日弁連が私の問題を取り上げないことを気の毒に思っているようだった。
 私は別に腹は立たなかった。日弁連でも取り上げてもらえないだろうということは予想していたから。なにしろ、どんな者でも押え込む力がおどっているのだから。
 日弁連を出てすぐ、玄関のわきで、いま見た不採用の理由を書きとめた。それは次のようなものであった。

 

 当人は、新日鉄や警察の策謀によってつけまわされ、苦しめられているといって調査を申立てられた。そしていろんな著作物を出して訴えている。しかし、それを読んでみると、当人の苦しみはよくわかるが、その苦しみは当人の心の内部から生じたもののようである。著作に目を通したが、そこからは調査の対象となるものを見出すことはできなかった。そのようなことはありえないことである。
 当人はこれまでに、弁護士会の人権擁護委員会、警察、検察庁等へも行き、どこでも不処置とされている。これは同じ理由によるものと思われる。

 

 日弁連を出、警視庁にも寄ろうと思い、窓口になってくれている飯塚氏に電話した。しかし飯塚氏はいなかった。電話に出た男が私の名前を聞くと調子が変り、
「飯塚はいないから、そこから帰ってくれないか」と言い、「わるいね」とつけ加えた。
 数日後、日弁連からの通知が届いた。

 

 昭和50年4月28日

      日本弁護士連合会人権擁護委員会
                   委員長 関谷 信夫
  沢舘 衛 殿

    不採用決定について(通知)

 昭和49年10月3日、貴殿より申立があった事案について、本委員会は不採用の決定をしたので通知します。

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 日記を調べても、どこにも記されていないので、それがいつのことかわからないが、次のようなことがあった。
 いなかへ帰り、親戚のおばさんと話していて、ある一人の刑事が私を救うために動いてくれているらしいことを知った。私が知っている刑事といえば、大船警察署の福岡刑事だけだ。彼が私のことをさんざん調べ、私が正しい人間であることを知り、動いてくれているのだろうか? しかしおばさんは、ちょっと口から漏らしただけだったし、私もそれ以上聞き出さなかった。
 私はうれしく思う反面、その刑事の身の上を案じた。
 これもまた日記には記されていないが、いなかへ帰り、姉の家にいたとき、いきなりすぐ近くで、「ぎゃー、ははは!」と大きな笑い声がした。ぞっとしてその方を見ると、それは姉の家で飼われている九官鳥だった。

 

              三 節

  昭和50年(1975年)

 昭和50年6月29日、アパートを引っ越した。鎌倉市岩瀬から、横浜市戸塚区笠間町へ。移り住んだ戸塚区は後でいくつかに分割され、引っ越した先は栄区という名称になった。

 引越の二か月前の4月末、横浜市金沢区にあるヤマナカという会社に、クレーン運転工として就職が決まった。失業して五か月ぶりのことだった。なぜか妨害は入らなかった。私は面接で私の問題には一切ふれなかった。簡単に採用が決まり、5月の連休あけから出勤した。
 ここはスクラップを扱っている会社だった。私はこの会社で、スクラップ以下の扱いを受け、四か月で解雇された。屈辱に満ちた四か月であった。
 解雇を告げられたとき、私は迷った。たたかうべきか、それとも、唾を吐きかけて去るべきか。だがこれから先、就職できるか? 気違いどもの妨害は間違いなく続く。就職できてもこれまでと同じことの繰り返しになる。私はたたかうことにした。(全くばかばかしいことではあるが)。
 私は会社に入ることができたとき、生活の足場はできたし、あとは仕事を真面目にやり、この会社に少しでも長くいられるようにし、地道に私を迫害している「機関」の正体を明るみに引き出すつもりでいた。
 そうして7月、厚生大臣、及び神奈川県知事に質問状を送った。「私を迫害しているのはあなた方ではないのか、もしそうなら、その行為の原因、理由、目的を私に知らせてくれ」と。

 
「機関」は、これは何とかしなければならないと考えたろう。解決するにはどうすればいいか? それには私が生活できないようにすればいい。生活できるからこんなことをするのだ。生活できなくするには、金がどこからも入ってこないようにすればいい。これは、「機関」のおなじみの定理である。

 一方私は厚生大臣も県知事も決して質問に回答しないことを知っていたので、「機関」を明るみに引き出すための別の手段として、税金を納めないことにした。私は会社に、給料から所得税を引かないでくれと申し出た。

 解雇された後、労働基準監督署へ行って相談したが、どうにもならなかった。労働基準法に基づいた手続きをふんで解雇していれば(解雇予告手当を支払っていれば)、解雇の理由がどうであれ、監督署としては問題にしないと言った。監督署の職員はさらに次のようなことを私に言った。
 解雇が不服だったら裁判で争う以外にない。しかし自分一人で裁判を起こすことはちょっとできないだろうから、弁護士を頼まなければならない。弁護士がそれを見て勝目があればやるだろうし、勝目がないと思えば引き受けないだろう。負けるのをわかっていてやるばかはいないだろうから。

 私は裁判所へ訴えを起こした。これは弁護士なしで行なった。弁護士が私を相手にしてくれないことはわかっていた。それに私は弁護士を頼む余裕はなかった。私は法律書を買ってきて、訴訟の方法を勉強した。
 この訴訟は私の力を試し、私の力を証明することになるだろうと思った。
 この訴訟の記録をそのままのせると、かなりの量になるので、ここには要約したものをのせておく。

 昭和50年8月27日の朝、私は会社に次の書類を提出した。

 

  お願い

 昭和50年8月支給分の給料及びそれ以後支給する私の給料から所得税を差し引かないでくださいますようお願いします。
 ある事情から税金を納める必要を全然感じませんので。

 

 次は、私がこのような非常識な申し出をした理由。(裁判所へ提出したもの)。

 

  原告が右の別紙(お願い)を被告に提出した理由

 原告が税金を納めなければ、税務署が原告に督促状を何度も送るだろう。それでも原告が納めなければ、最後の手段として、原告の財産の差押えとなるだろう。
 しかし原告は、差押え停止の申立てを裁判所にする。もちろん、停止を求める理由をはっきり述べて。
 原告が長い年月にわたって、ある国家機関によってつけまわされ、苦しめられてきている、この国家機関の犯罪行為を警察へ訴えても取り上げない。国の人権擁護機関も取り上げない。
 国家機関が全く下劣な方法で、原告を破滅に導こうとしているのに、他の国家機関である警察や人権擁護局が、ただ見守っているとしたなら、原告は法の保護から完全に外されていることになる。
 日本国の国籍を持ち、日本国に住んでいるのに、日本国の法の保護から外され、さらには国によって迫害を受けているとしたなら、原告は国民の当然の義務である、納税の義務からも外されていいはずである。
 原告はこの理論を裁判で展開するつもりであった。裁判所は原告が主張しているようなことが国の機関によってやられているかどうかを調べるだろう。(だが、もしかすると調べないかもしれない。原告の言うことには具体的な裏づけがないということで)。原告は資料を提出すると同時に、警察その他を証人として法廷へ呼び出し、尋問し、原告をこれまで苦しめてきた気違いじみた者たちを明るみに引き出すつもりであった。
 被告会社は、原告が別紙を提出した理由として、右(上)のことを説明しようとしたが。原告の提出した別紙の内容は「非常識だ」の一言で片づけてしまい、原告の説明を一切聞こうとはしなかった。

 

 税金を引かないでくれと会社に申し出た日の午後、本社(川崎市)から労務係の赤城という男がやって来た。その赤城と、横浜工場の工場長高橋の二人に呼ばれ、解雇を言い渡された。税金を引かないでくれと申し出た「お願い」を社長が見て、かんかんに怒ったという。
「こんな非常識なことをする不届き千万な者はやめさせろ!」
 赤城も私に、
「会社にこのような書類を出したのは、会社をやめたくなったからだろう?」と言い、「それならやめさせてやろうということになった」と言った。
 私はその書類を提出したわけを説明しようとした。しかし彼らは耳を貸さなかった。
「そんなことをぼくらが聞いても何のことかわからないし、またわかる必要もない」
 翌日、赤城は解雇通知書を持ってやって来た。私はこの日の会話はテープにとっておく必要を感じ、カセットレコーダーを持って行った。
 解雇通知書の解雇理由は「業務の都合により」だった。「お願い」を申し出たための解雇なのにおかしいなと思い、赤城にただした。すると、
「個人の都合でやめさせては、あなたがかわいそうだから、業務の都合にした」
 と言った。それじゃ業務の都合とはどういうことかとたずねた。工場長の高橋が答えて言うには、私の運転技術が未熟だという。また、就業時間内に運転室でマンガを見ていた、とも言った。
 高橋が私をこき下ろすのを聞いていた赤城は、独り言のように言った。
「人のあらさがしをしてはきりがないんだ」
 赤城は解雇予告手当を小切手で私に渡した。私はそれを受け取るのを拒否した。受け取ったら、解雇処分を私自身認めることになる。しかし赤城は、一応取っておけと言った。そこで私は彼に念を押した。
「一応取っておいて、解雇を撤回させてもらったときはこれを返しますから」
 それに対し、赤城は答えた。
「ええ、そうそう、はいはい、結構ですよ」
 この会話はもうテープに録音されているので、私は安心してその小切手を受け取った。

 解雇されてから一週間後の9月3日、横浜地方裁判所に訴えを提起した。

 事件番号「昭和50年(ワ)第1309号解雇処分撤回請求事件」
 第一回の公判(口頭弁論)が10月7日に行なわれた。裁判官は三人。私は法廷というところに入るのは、これが初めてだった。それに加え、私には弁護士がついていなかった。かなり緊張した。しかし、この最初の口頭弁論を経験し、私にも何とかやれそうだという自信が持てた。
 公判当日、被告会社の代理人(弁護士二人)が答弁書を持って来た。そこには、予想していたようなことが述べられていた。
 非常識な申し出をした。解雇予告手当としての小切手を「原告は異議をとどめずしてこれを受領した」など。

 以下はそれ以外の部分を答弁書より引用。

 

 被告会社は、原告を運転免許を有するクレーンの運転要員として雇用したものであるが、昭和50年6月頃天井走行クレーンの操作で、一トン車ボデーのあおりを操作ミスでつぶし、あるいは、ジブクレーンの操作にあっては投げ落とすような感じの操作もあり、常に危険を伴う職場としては、原告のクレーン運転技術は未熟であると評せざるを得ないものであった。
 のみならず、ジブクレーンの操作中、間のある間、足を投げ出し、マンガを読んでいるなど勤務態度も不真面目であった。
 以下の点は、原告を傷つけることを避けるため解雇理由の告知の際には告げなかったが、原告は日頃から精神的に極度の不安定な状態にあった。
 以上の事実から、被告会社の常務内容に鑑み、原告はクレーン運転要員として不適格であり、また被告会社の日常常務の遂行にも原告は支障となる、と被告会社は判断し、「已むを得ず」原告を解雇したものである。

 

 裁判長は、この被告の陳述に対して原告は何か言うことがあるか? あるなら後で文書で提出するようにと言った。
 私は会社がどのようなことを言ってくるかを知っていたので、私は私の言い分を準備書面にして持って来ていた。それを提出した。裁判長は後でそれに目を通すと言い、次回の公判は11月4日にすると告げられ、この日は終った。
 私が用意して行った準備書面は、会社が持って来た答弁書の内容にほとんど合致するものであった。これには私自身驚いた。

 次は私の準備書面の要約。

 

 「業務の都合」というのはこじつけである。被告は原告をやめさせるために、このほかにも無限といっていいほどのあらさがしをやっているだろう。これは原告を破滅に導くために、原告を20年近くにわたってつけまわし、おどっている者たちのやり方である。
 あらさがしによってかき集められた事柄が原告を解雇するに足るものであるなら、はっきり懲戒解雇にしてほしい。そして解雇通知書には、あらさがしによってかき集めた事柄を一つ残らず書きつらねてほしい。
 原告の運転技術が未熟であるなら、その未熟度を客観性のある数字で示すべきである。そのためには実技試験を実施するか。あるいは同一の作業を原告と現任の運転士の両者にやらせ、その作業遂行にかかった時間の差、出来具合の比較、また必要があれば適性検査なり、知能検査なりを実施すべきである。
 原告は釜石製鉄所で、専門にではないが六年余りクレーンの運転をしていたし、原告自身クレーンの運転は人並みにやれる自信があった。だから被告会社に入社したときから、原告はすぐにも熟練工と肩を並べて仕事をするつもりでいた。ところが会社は隣接する土地に新しくつくる工場のクレーン運転要員として原告を採用したようだ。新しい工場ができるまでの一、二年の間、現任の運転士について教わるのだという。
 数週間で原告がスクラップの分類を覚えてしまってからは、現任の運転士も原告と一緒に乗っている必要を感じなくなったのか、午前と午後、交替でクレーンを運転するようになった。
 そうしているうちに会社内に、原告にクレーンを運転させるのは危険だという空気がただよいだした。これは原告の運転状態によるものではなく、会社に対して外部から異常な力が働いたためであろう。そしてこれは原告が予想していたものであった。
 原告がどこへ就職しても、すぐにそこへどこからか大きな、気違いじみた力が働き、原告は何もできない無能力者だ、クルクルパーだと執拗に言いふらし、その職場、会社の人々を毒し、とても原告がそこにいたたまれない状態にもっていく。

 天井走行クレーン運転中に起こした事故について。
 リフティングマグネットを用いて、小型トラックからスクラップを下ろす作業をしていて、マグネット(重さ4トン)を下げすぎ、トラックの荷台の枠を押しつぶしたこと一回。
 この失敗をしたとき、現任の運転士は原告に、「おれは五回もやっている。気にするな」と言い、事務員の山中(社長の息子)も、「前田さん(現任の運転士)も何回もやっている。荷台の枠をつぶしたり、窓ガラスを割ったり‥‥、だから気にするな。でも注意はするように」と言った。
 同じ種類の作業中、マグネットに吸い付けた長いスクラップの先端がトラックの運転室後部の窓ガラスに触れ、ガラスを破損。これも一回。

 入社して二か月後の7月11日、原告は天井走行クレーンからジブクレーンの運転にまわされた。ジブクレーンというのは天井走行クレーンに比べ、その行動範囲がごく狭く限られ、操作も簡単。
 会社における社員の仕事の内容を変更するときは、普通、工場長か、事務員の山中によって本人に告げられるのであるが、原告の場合は、同僚の真崎が事務所へ呼ばれ、そして昼休み時間、真崎が原告に、「おれもこんなことは言いたくないけど」と、言いにくそうに、原告の仕事の内容を変更することを告げた。
 原告は面白くなかったので、運転室で仕事のないとき、両足を運転室の前のガラスに突っ張って本を読んだりした。しかしそれはマンガではなかった。
 姿勢は会社から注意されてやめ、本を読むのは運転室が暗く、目に悪いのでやめた。

 

 第一回口頭弁論から一週間後、私は「準備書面(二)」を提出した。これは、会社側が答弁書で私のジブクレーンの運転に問題があると述べていることへの私の陳述であった。以下はその要約。

 

 また、文中「ジブクレーンの操作にあっては、投げ落とすような感じの操作もあり」とあるがこのような操作は原告が意識的にやったものであり、運転技術の未熟からではない。
 ジブクレーンというのは、油圧シリンダーによってアームを動かし、アームの先端の爪で荷をはさんで持ち上げ、移動するものである。油圧シリンダーによるアームの動きは遅く、忙しいときは荷を一、二メートルの高さから放り出すこともある。また、上下逆さまになって入荷してきた乗用車は吊り上げて左右に振り、その反動を利用して放り出し、上下を入れ替えることもする。それに荷のスクラップ車は、すぐにシュレッダーという機械に放り込まれ、粉々に粉砕されるものであり、丁寧に扱う必要はない。
 ジブクレーンの運転に関して、原告は前任者に比べ、誤操作が多かったことは認める。しかしこれは、前任の運転士は数年やっている熟練者であり、一方原告はこの種のクレーンを動かすのは初めてであったことを考慮すべきである。しかし数週間で原告は、それまでの運転士と同程度にやれる自信を持てるようになった。
 また「原告は日頃から精神的に極度の不安定な状態にあった」と言っているが、何を根拠にこのような精神科医が言うようなことを言うのか不思議である。原告をつけまわしている「機関」の異常な力が被告会社に働いていることを、被告自ら自白しているようなものである。

 

 11月4日、第二回口頭弁論。会社側は準備書面を用意してきた。それは上記の私の陳述に対するものであった。会社は私の運転技術の未熟をどこまでも主張し、次のように言ってきた。

 

 原告は作業手順について、しばしば誤操作を行ない、そのため、得意先から、危険だから前任者と交替さてほしいとの申し入れがあったほどであり、被告会社はその都度「経験が浅いので、面倒をみてほしい」旨、得意先に謝っていた。

 

 さらに会社は、私の解雇を正当づけるために就業規則を持ち出してきた。

 

 被告会社就業規則第42条は、いわゆる通常解雇を定めている。同条2号によれば、「技術が著しく劣り度々誤作品を出すなど発達の見込みがないと認めた時」被告会社は従業員を解雇することができ、また、同条3号によれば、「身体精神に故障があり、勤務に耐えられなくなったとき」通常解雇しうる。

 

 ここまで言われると、自分のことではなく、他人事のようの思われた。
 この日の口頭弁論で会社側は、証拠(人称)申出をし、次回の口頭弁論において、会社の赤城と杉江、それに原告本人を証人として尋問する旨申し出た。さらに会社側は裁判の進行についての申立てをし、次回の法廷でその証人尋問の後、その法廷で判決するよう申し出た。そして受け入れられた。

 次回の口頭弁論は昭和51年1月13日と定められた。
 一週間ほどして私は準備書面(三)と、証拠申出書を提出した。次はその要約。

 

 原告の運転の危険性を「被告会社出入りの業者からも、つとに指摘されたところである」と述べているが、このようなことがあったことは事実であろうと思う。原告自身、被告会社で働いていた頃すでに感じていたことだ。
 原告をつけまわしている「機関」は、被告会社と、そこに出入りする業者との間に、矛盾した原告評価が出てくるような過失は絶対にしないから。
 被告会社の就業規則には、被告の主張するような規則があることは認める。しかし、その規則に原告が該当するという、被告による証明がなされていない。
 被告会社が相対的な見方をせず、原告に過失があったということだけで解雇するのは差別である。
 また、身体、精神の故障で解雇する場合は、常識からいって、医師の診断が必要ではないのか。
 被告会社に、原告をつけまわしている「機関」の異常な力が働き、それで「已むを得ず」原告を解雇しようとしているのなら、その「機関」の名称及び、その「機関」が被告会社にどのようなことを言ってきたかを原告に教えてもらえれば、原告は被告会社に感謝する。

 

 証拠申出書では、私がこれまでに発行した印刷物を提出した。「私の半生」、「女」それに「訴」のシリーズ。

 最終口頭弁論(証人尋問)が昭和51年1月13日午後1時から行なわれた。私は午後1時すこしまえに裁判所に着いた。
 裁判所の玄関に近づくと、そこには証人として呼び出された赤城と杉江の二人が立っていた。私は彼らに近づいて挨拶した。しかし彼らはそれには全くおかまいなく、まるで物を見るように私を見つめた。そしてささやきあった。
「なに、元気そうだ‥‥、元気そうだよ」
「うん、元気そうだ」

 相手方の弁護士が遅れて来たので、法廷が開かれたのは1時半だった。最初に、私が提出しておいた録音テープの証拠調べが行なわれた。
 テープを聞き始めるとき、裁判官らの間には、こんなものを真面目に聞かされるのはたまらない、といった空気が感じられたが、聞き終ったときにはそれはすっかり消えていた。相手方の弁護士は残念そうに、このテープは同席者には無断で録音されたものであると言った。
 その後、証人尋問がやられた。私は興味を感じた部分や、意外に思われた部分をメモした。それを次に引用する。

 杉江への尋問

弁護士「入社時の面接で、原告について何か感じたことはなかったか?」(杉江が黙っていたためこの質問は何度か繰り返された)

杉 江「薬くさかった。‥‥保健所へ行ったときのような‥‥」

弁護士「それが何のにおいか、原告に聞いたか?」

杉 江「聞かなかった」

弁護士「『訴』と題する原告の書いた本を読んだか?」

杉 江「半分ほど読んだ」

弁護士「読んでどう感じたか?」

杉 江「精神異常と感じた」

弁護士「『お願い』と題する書面が原告から提出されたとき証人はどうしたか?」

杉 江「本社へ電話で伝えた。それで本社では沢舘について調査した」

弁護士「その調査結果を証人は聞いたか?」

杉 江「高橋(工場長)を通して聞いた。それによると、原告は非常識で、仕事の上でもミスがあったので、会社にいてもらいたくない、ということだった」

 

 弁護士及び裁判官による尋問が終り、私が尋問する番になった。私は一つだけたずねた。

私 「会社にいた頃、私は杉江さんの様子から、機関の力が杉江さんに一番強く働いているのを感じたんですが、本当にそんなことはなかったんですか?」

杉 江「そんなことは一切ありません」

 

 赤城への尋問

弁護士「税金を引かないでほしいという原告からの申出を証人が知ったのはいつか?」

赤 城「27日の朝、経理課長の及川を通して知った。及川課長は原告の履歴書から、中山電機(仮名)へ電話をして原告のことをたずねた。中山電機で電話に出た者(井口だろう)の話によると、『その者(原告)からは大変迷惑をこうむった。そちらではそんなことはなかったか。どうもおかしな人間だ。これは社長夫人から聞いた話だが、その者は精神異常者らしい』と言ったという。こういったことを聞かされた社長は、『そんな者はやめさせろ!』と言った。こうして及川課長がわたしに横浜工場行きを命じた。本社では原告のことを調べたとき、『これはあぶない!』と言った」

弁護士「あぶないとはどういう意味か?」

赤 城「常識外れの人間にクレーンを運転させておくのは危ないという意味だろう」

弁護士「解雇の理由、決定は社長がしたのか、それとも会議によってか? 会議には証人は出席したか?」

赤 城「会議によったものだろう。わたしは出席しない。及川課長がわたしに指示を与えた」

弁護士「解雇の中心理由は何か?」

赤 城「『お願い』と題する書面によるものだろう。非常識だという‥‥」

弁護士「解雇理由には、社長の段階では、原告のミスは入っていたのか?」

赤 城「入っていない」

弁護士「27日、原告を解雇するとき、精神不安定ということは原告に告げたか?」

赤 城「告げない」

弁護士「どうして精神不安定と思ったか?」

赤 城「精神分裂病ではないかと判断した」

 

 弁護士による尋問が終り、次に裁判官が尋問した。

裁判官「証人は原告をどうして精神分裂病と判断したのか?」

赤 城「原告の『私の半生』を読んで、原告は精神分裂病に似ていると感じた。以前、ある本で読んだのに似ている」

 

 次に私が尋問した。

 私「非常識なものの考え方をする人間にクレーンを運転させるのは危険だと言うが、非常識なものの考え方と運転技術とは関係あるのか?」

 このとき相手方の弁護士が、原告のこの質問は証人に意見を求めるものだと、裁判長に異議を申立てた。しかし裁判長は私に続けさせた。証人は答えた。

赤城「非常識なものの考え方をしていると、それが行動にも現れるだろう」

 私「身体、精神の故障により解雇したとあるが、これには精神科医、または他の医師の判断は入っているのか?」

赤城「入っていない」

 私「ではどうして?」

赤城「以前、ある人から精神分裂病について聞かされたことがあるが、それにあなたがよく似ている」

 私「精神分裂病というのは、どんな病気か知っているか?」

赤城「よくわからない」

 裁判長は、専門的な話になるからといって私を止めた。

 杉江と赤城の尋問が終ったところで法廷は休憩に入った。

 私はこの法廷で提出するつもりで、ある証拠を用意してきていた。しかし私はそれを法廷が始まる前には出さなかった。その証拠提出によって、証人の証言が変るかもしれないから。私はそれをこの休憩時間に提出した。

 

     証拠申出書

一、証拠の表示

原告が被告会社を解雇された後、被告会社のクレーンの運転士前田が原告に送ってきた葉書二枚。

二、証すべき事実

原告のクレーン運転技術が未熟かどうか、どのていどのものかを一番よくわかるのは、そのクレーン運転を自分の職業としている専門家である。
  一般の人をごまかすことができても、この専門家の目をごまかすことはできない。その専門家が原告にクレーン運転の仕事を紹介してくれている。原告の運転技術が被告の主張するように、未熟で危険なものであるなら、クレーン運転の専門家が原告にクレーンの運転の仕事を紹介するはずはない。
 このことからみても、被告の主張は失当であると考えられる。

 前田氏からの葉書の写し。

 (9月1日消印のもの)

 御免下さい。
 在職中は御世話でした。会社を退職された様子ですが、その後如何お過ごしですか。
 貴君よりの本を今読んでいますが、国家権力によって弾圧を受けられた様子、色々と苦労された由、大変な人生航路であったことと思います。又、今後も更に予想される自身の近辺についても、多くの協力者や、理解者が必要と思います。
 短い期間でしたが、縁あって連絡する次第です。今後一度御出下さい。

 (9月15日消印のもの)

 先日は御苦労様でした。
 来る19日(土)に是非御出掛け下さい(夜)。貴君の著書を数名の方が(会社以外の人)見ています。
 貴君の味方になる人、理解者、すべてにおいて協力者が必要だと思います。クレーンのほうでしたら配慮します。今一名必要な企業があります。(マグネット)
 事前に電話して下さい。

 

 この日の法廷で、会社側からは、私の履歴書のコピーが提出された。その履歴書の空欄には次の走り書きがあった。これは赤城が記入したものだという。その内容は及川課長から聞いたものだという。及川課長は中山電機に問い合わせて知ったという。

 

 8月22日 所得税を控除しないよう申し出た。
 前歴調査の結果、精神分裂病?のような精神異常者であると前職者の話。

 

 やがて休憩時間も終り、法廷が再開され、私が証人席についた。
弁護士「どうして『機関』が原告をそのように苦しめるのか?」
 私 「わからない。私もそれを知りたい」

 このとき、後ろの傍聴席で杉江が鼻であざ笑うのが聞こえてきた、杉江はなぜ私がこんな目にあうのかを「機関」から聞かされて知っているのだろう。もっともそれらは、きんたまがどうのこうの、女がどうのこうのといったたぐいのものであろうが。

弁護士「『女』という本はどういうつもりで書いたのか?」

 私 「私の女性観を書いたものだ」

弁護士「その本に出てくる婦人は実在するのか?」

 私 「実在する」

 弁護士はこのほかにも、「訴」の中の、私と中山社長の会話を書いた部分を示し、「この会話は実際にあった会話か?」などとも聞いた。

 最後に裁判官が私を尋問した。

裁判官「どうして『機関』が原告の就職を妨害するのだろう?」

 私 「生活できなくするためだ。私が生活できる状態にあると、どこまでも『機関』の正体を追求されるから」

裁判官「原告は『訴』の中で、『機関』が原告を苦しめるのは、原告に対するねたみだと言っているが、そのように思うか?」

 私 「思う。『機関』はただ、楽しみのため、ねたみのためにやっているとしか考えられない。ちゃんとした理由があるんだったら、堂々と私の前に現れるはずだ」

裁判官「証人が原告と面接したとき、証人は原告が薬くさかったと証言しているが、原告はそれについて思い当たることはないか?」

 私 「クリームか、ヘヤートニックのにおいであったろう」

 裁判官は「私の半生」の一部にふれた。それは私が、なだいなだ氏からの手紙を読み、「あの人がねぇ」と独りごちた、という部分であった。「それ以外に何か言いようがなかったか」という。裁判官は、なだいなだ氏の言い分のほうが正しいと言いたそうだった。

 私への尋問も終り、この事件の審理はすべて終り、あとは判決だけであった。前回の法廷で被告側からの申立により、判決はこの法廷でくだされることになっていた。
 しかし裁判長は「裁判の進行方法について合議に入る」旨を告げ、裁判官たちは別室へ去った。間もなく裁判官らが法廷に現れ、判決は4月20日にすると告げられた。三か月以上先である。私はずいぶん先へ延びたなと思った。
 こうして法廷は終った。時計を見ると、もう5時であった。私は時間のたつのも忘れていた。ひと仕事をした後の快さがあった。
 とはいっても、このたたかいは全く無益で、むかつきを伴ったものであった。これは会社とのたたかいではなく、愚劣な「機関」そのものとのたたかいであった。私は会社に対しては少しも悪感情を持っていない。

 どんなところにも入り込んで病原菌を振りまくゴキブリのような「機関」。

 会社に対しては少しも悪感情を持っていないと言ったが、そこに働く杉江一人に対してだけは別であった。彼はある宗教団体に属していて、日頃から私に「仏の心」なるものを説いていた。あるとき彼は、その団体の小さなグループの集まりに私を招いた。私は杉江には「私の半生」その他を渡してあったし、杉江のほうも、その心の底には冷たいものが流れていたが、表面的には私の理解者のようにふるまっていた。彼らが私に協力してくれようとは考えられなかったが、私は彼に誘われるまま、その集会に出席した。
 なんのことはない、杉江はまえもって彼らに私のことを伝え、私を彼らに見せるために引っ張り出しただけだった。その場にいた婦人が何度も言った。
を見れば、がわかるのよ!」

 解雇通知書を渡された日、会社を出るとき、私は杉江に言った。
「杉江さん、今度のことでは、仏の心とはどういうものか、ほんとによくわかりました」
 杉江は青ざめた顔をし、一言も言わなかった。怒りを押し殺しているようだった。

 


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