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  第二編

     第九章 国への質問状

一節(国への質問状)  二節 (「回答請求事件」提訴) (第一回口頭弁論) (裁判官との面会)   三節  四節 (第二回口頭弁論)  五節 (地裁判決)  六節(控訴)  七節 (準備書面一)  八節  九節 (県議会へ陳情書)  十節 「訴その8」  十一節  十二節 (高裁判決)

 

              一 節

  昭和50年(1975年)

 昭和50年7月22日、質問状を厚生大臣と神奈川県知事の両者に送った。これは解雇された会社、ヤマナカに入社して三か月目のことだった。質問状の内容はほとんど同じなので、ここには厚生大臣あてのものだけを引用しておく。

 

     御 質 問

 私はこれまで十数年間にわたって、何者かにつけまわされ、私の人権、人格を完全に無視したやり方で中傷され、苦しめられてきました。私はこれまで、私をつけまわしているのは警察であり、警察は、私が以前勤めていた会社によって動かされているものと信じこみ、これまで警察とその会社をいろいろな手段で非難してきました。
 しかしあらゆる人権擁護機関、それに警察を何度も訪ねるなかで、国のある機関が何かの目的で、私をまともな生活ができない状態に追いこむために動いていることを知りました。警察はただ、その機関によって動かされたもののようです。
 警察を訪ね、追求するなかで、私をつけまわしていたのは、福祉関係の機関であることも感じとりました。
 もし厚生省、または厚生省の下にある何かの機関が私のことで動いていたのでしたら、その動いた理由、目的、及び私に関してこれまでに行なった行為のすべてを文書で答えてくださいますようお願いします。
 お答えは昭和50年8月20日までにお願いします。
 なお、私のこれまでのことを書いた本、「私の半生」、「女」、「訴」と言った資料もありますので、必要でしたら提出します。
 昭和50年7月20日
                    沢 舘 衛
  厚生省 厚生大臣 殿

 

 期日を過ぎても両者からの返事はなかった。それで督促の手紙を送った。これも両者に。

 

 7月22日、私は質問状をそちらへ郵送し、「もし、厚生省、または厚生省の下にある何かの機関が私のことで動いていたのでしたら、その動いた理由、目的、及び私に関してこれまでに行なった行為のすべてを文書で答えてくださいますようお願いします。お答えは昭和50年8月20日までにお願いします」とお願いしました。今日は8月26日ですが、私はまだ、そちらからの返事を受け取っていません。まだ発送していないようでしたら、すぐにも発送してくださいますようお願いします。
 それから、厚生省及び厚生省の下にある機関が、私に関して動いていた事実が全くない場合は、その旨お答えしてください。
 お答えは遅くとも昭和50年9月5日までにお願いします。
 昭和50年8月26日
                    沢 舘 衛
  厚生省 厚生大臣 殿

 

 もちろん、いずれからも返事はなかった。たぶん永久に沈黙をまもるのであろう。
 9月3日、県庁を訪ねた。秘書課へ行き、県知事あての質問状を見せ、これと同じものを書留で送ったけど届いているかどうか確かめた。すると、県民課のほうへ行っているだろうという。県民課へ行ってみると、届いているが担当者がいないのでわからないという。
 一週間後の9月9日、再び県民課を訪ねると、このまえと同じ、眼鏡をかけた職員が、
「今日も担当者が休んでいるけど」と言い、次のようなことを言った。
 具体的事実がなければ調査のしようがない。それに、県には個人を笑いものにする機関はない。それは県のやることではない。返事を書類で出すことは簡単にはできない。我々のようなペェーペェーが書いて出すんなら、いくらでも出せる。しかし、県知事の名で出すとなると、それなりにちゃんと調査してからでないと。「そんなことはありません」と書いてあんたに渡したんでは、県としてあまりにも無責任だろう? 調べるには時間がかかる。まだ待ってほしい。
「どれくらいかかりますか?」
「わからない」
「私は7月に質問している。それなのにまだ調べていない。これから調べる。それもどれくらいかかるかわからないというのは、それこそ無責任じゃないですか。待っていたら永久に返事はありませんよ。期限を決めてほしい。まさか10年も20年もかかるわけじゃないでしょう?」
 職員は困りきった様子で、その部屋の長らしい男に救いを求めた。その男が私の方へやって来た。小太り、色白でふっくらしていて、いかにも善人といった感じ。彼は言った。
「どれくらいかかるかは答えられない。県庁はあなたの都合に合わせて仕事をしているのではない」
 私はさらに期限を決めてほしいと頼み、そして言った。
「嘘を答えるのでなければ、そんなに恐れることはないでしょう」
「それじゃ、回答するかしないかを一か月のうちに回答する。それも文書では一切知らせないから聞きに来なさい」
「どうして文書では答えようとしないんですか。後にかたちが残るからでしょう。証拠になるからでしょう」
「証拠になるのが困るのではない! そんな時間がないんだ」
「時間がない? こうして何時間も無駄に堂々めぐりをして時間をつぶすよりは、『あんたの質問には一切答えることができません』と書いて、県知事の判を押して出せばいいんです。そうすれば送料の20円で済むんですよ。文章を書くのだって、一分かかるかどうかですよ。こうして時間を無駄にすることはないんです! これも県の税金でやっているんでしょ!」
 5時をとっくに過ぎ、女の事務員らはすでに帰り、部屋は静かだった。私は立ち上がりながら言った。
「口頭で答えてもらうときは、それをテープに取らせてもらいますから」
「ええ」
 立ち上がって体を横に向けたとき、はっとした。えたいの知れない男が数人、私の背後でうようよしていた。どこからやって来たのか! ことによっては私を取り押えるつもりではなかったのか? 部屋を出るとき、後ろで、
「うへっ、へっ!」
 と笑うのが聞こえた。出てから、あの場で何かやられていたらと考え、ぞっとした。

 

              二 節

  昭和50年(1975年)

 9月13日の夜、ふとんに入って考えた。彼らは質問に答えないだろう。ふと、ある考えがひらめいた。なんのことはない、彼らを訴えればいいのだ!
「被告は原告の質問に直ちに答えよ」と。

 9月17日、午後、横浜地方裁判所へ訴状を持って出かけた。裁判所に訴状を提出するのはこれが二度目であった。最初のは会社を相手にしたものであった。しかも、一度目と二度目との間は、わずか二週間しか離れていなかった。だから私はこれらの裁判を並行して争った。会社を相手の裁判は、国を相手の裁判の、ちょうどよい予行演習となった。
 訴状を持って行くと、受付の職員が、このまえと同じ件で来たと思ったらしい。
「あれではいけなかった?」
「いえ、これは別です」
 そう言って訴状を渡した。しかしまた訴状に不十分なところがあり、書き直して持って来ることにした。

 二日後の19日、書き直した訴状を持って裁判所へ行った。受付の職員は仕事をしていた。私が受付のカウンターの前に立っても顔を上げようとしなかった。私はカウンターを離れ、壁のはり紙を見ていた。5分ほどして50歳くらいの男が隣の事務室から出て来て、受付の職員の横に座った。私はそのまま、はり紙を見ていた。その男が職員に小さな声で言った。
「また来ている?‥‥困ったなぁ‥‥、〇〇さんから電話があってねぇ」
 私は振り返った。男も私を見た。私は彼からあまりいい感じを受けなかった。私は職員の前へ行った。
「書き直してきました」
 私は彼に訴状を渡した。彼は私の訴えが民事訴訟になるのか、行政訴訟になるのかと迷っていた。私が調べた範囲では、行政事件訴訟法には、当てはまる項目がなかった。この請求の主な趣旨は私の「知る権利」である。それで民事でやってくれるよう頼んだ。職員は考えていたが、
「〇〇に相談してこよう」
 そう言って、廊下で隔てられた向かいの部屋へ行った。彼は20分位して帰って来た。
「それじゃ民事で受け付けます」
 私は感激した。断られるだろうと思っていたから。訴訟費用を聞き、売店へ印紙、切手を買いに行った。
 印紙3,350円、切手320円6枚、100円3枚、10円7枚、5円4枚。合計5,500円。
 私は印紙を買い求めている間も不安だった。訴え受付けを取り消されはしないかと。早く手続きを済ませ、裁判所を出たかった。そうすればこっちのものだ。
 印紙、切手を持って受付へ。職員はうち沈んだ様子だった。とんでもない訴えを受け付けてしまったと考えているようだった。
 訴状に印紙を貼り、事件番号及び担当の係を告げられた。
 「昭和50年(ワ)1406号第三民事部イ係」
 裁判所を出た時、心はふわっと軽かった。

 

 ( 裁判書類の原本はすべて縦書き。「右代表者」などの「右」は「上」、「左」は「下」と読み替えてください。)

 

     訴  状
      横浜市戸塚区笠間町七一九
            原 告 沢 舘 衛
      東京都千代田区霞ヶ関一
            被 告 厚 生 省
            右代表者 厚生大臣 田中 正巳
      横浜市中区日本大通
            被 告 神奈川県
            右代表者 神奈川県知事 長洲 一二 
 質問状及び督促状に対する回答請求事件

     請求の趣旨

一、両被告は、原告からの質問状及び督促状に、直ちに文書で回答せよ。
 但し、被告厚生大臣は昭和50年7月20日付の質問状(別紙一)及び、8月26日付の督促状(別紙二)に。被告県知事は7月20日付の質問状(別紙三)及び、8月21日付の督促状(別紙四)に。

二、訴訟費用は被告の負担とする。

との判決を求める。

     請求の原因

一、昭和50年7月22日、原告は両被告に質問状(厚生大臣へは別紙一、県知事へは別紙三)を書留郵便で送り、期限付で回答を求めた。しかし、その期限を過ぎても、両被告からの回答はなかった。

二、そのため、質問状を発送してから約一か月後、両被告に督促状(厚生大臣へは8月27日、別紙二、そして県知事へは8月21日、別紙四)を送った。しかし、これに対しても両被告からの回答はなかった。

三、同年9月3日、神奈川県庁に県知事を訪ねた。しかし、県知事には会えなかった。秘書課の言うところによると、原告からの質問状、督促状は県民課へ回し、県民課に調査を依頼してあるから、そちらへ行けという。

四、同日、県民課を訪ねた。しかし、担当者がいないというので、原告は資料として、原告の著書「私の半生」、「女」、「訴(その一〜その七)」を県民課の職員に提出して帰った。

五、同年9月9日、再び県民課を訪ねた。
 県民課が民生部へ問い合わせたところ(注・原告は神奈川県民生部へも両被告へ送ったものと同じ内容の質問状、督促状を送っていた)、民生部から、原告が質問しているようなことを民生部ではしていない、という返事が口頭であったという。だから、原告が質問しているようなことを県はやっていないだろう、と県民課の職員は言った。

六、原告が、それ(原告が質問している内容のことを、神奈川県はしていないということ)を、県知事の名で文書で答えてくれと請求したが、県民課の職員は、文書では一切答えようとしなかった。

七、原告はこれまで10年以上、20年近くにわたって、えたいの知れない機関につけまわされ、中傷され、苦しめられてきた。はじめのうち原告は、その機関は警察であり、警察は、原告が以前勤めていたことのある会社に動かされているものと思いこんでいた。しかし、あらゆる人権擁護機関、それに警察を訪ね、調査を依頼したり、追求したりするなかで、警察とは違った性格の国家機関が動いていることを知った。
  その機関は、何かの目的で、原告をこの世から抹殺するか、あるいは発狂へと導くか、または経済的にゆきづまらせるか、または食物などを通して毒物を原告に投与し、原告の健康を害するかなどし、とにかく原告がまともな生活ができない状態に追いこむために動いているようである。
  警察はその機関に利用されていたものらしい。しかし警察は、その機関が何なのかを原告に問われても明らかにしようとしない。また、その機関が原告に対してやっている行為は犯罪行為であるから、といって調査を依頼しても調査しようとはしない。(調査しているかどうかはわからないが、とにかく、原告にその結果を知らせない)。
  警察を追求するなかで、原告をつけまわし、苦しめているのは福祉関係の機関であることを感じとった。
 しかし、その機関は決して原告に具体的事実をつかまれないようにしながら動いている。そのため原告は、原告をつけまわしていると思われる機関に質問状を提出し、そのようなことをやっているかどうかを問いただしてきた。
 これまでに原告が質問状を提出した機関は、鎌倉保健所、釜石保健所、鎌倉市役所、鎌倉福祉事務所であり、これらからは、原告が質問しているようなことは一切していない、という回答があった。
 ところが、最近原告から質問状を提出された両被告は、それに正式に答えようとしない。

八、長い年月にわたり、えたいの知れない機関につけまわされ、苦しめられ、青春を台なしにされ、これまでの人生をめちゃめちゃにされてきたことの損失は大きい。
 もし、このような恐ろしい(犯罪行為ともいうべき)ことを、国の機関、県の機関がやっていたとしたなら、原告は一人の国民、県民として、どうしてそのようなことが原告に対してやられたかを知る権利があるし、その機関は質問されたらそれに答える義務があるはずである。

九、よって原告は、両被告が原告の質問状、督促状に直ちに回答することを求める。

     証拠方法

一、原告が両被告に質問状、督促状を郵送したとき、郵便局が発行した「書留郵便物受領証」(但し、県知事への督促状は普通郵便にて送付)。

二、原告が両被告に郵送、提出した質問状及び督促状の写し。(これらは訴状に別紙として提出)。

三、必要があれば、原告の中学卒業当時から、これまでのことを書いた本、「私の半生」、「女」、「訴」及び、これらの本のもとになった原告の日記、その他。

右のとおり訴えを提起する。
 昭和50年9月19日
                   右原告 沢 舘 衛
 横浜地方裁判所 御中
 (別紙 ─ 質問状及び督促状は省略)

 

 この翌日の20日、神奈川県知事室県民課長から回答があった。「書面では一切答えない」と言っておきながら。

 

 昭和50年9月17日
  沢舘 衛 様
                   知事室県民課長
 お手紙拝見いたしました。
 ご要望の件、早速調査いたしましたが、神奈川県のいずれの機関もあなたに対し、お申し越しのような行為を行なった事実はありませんので、御了解ください。

 

 この書類の日付、9月17日といえば、私が裁判所へ訴状を持って行き、その訴状に不十分なところがあり、提出せずに帰った日であった。
 私の行動をすべて調べつくしている「機関」がそのことを県民課へ知らせ、返事を書かせたのだろう。
 10月に入り、裁判所から公判期日の通知が届いた。

 

    期日呼出状
      原  告 沢 舘 衛
      被  告 神奈川県 外一
      事件番号 昭和50年(ワ)第1406号
      事 件 名 回答請求事件
 右事件の口頭弁論期日が昭和50年11月5日午前10時と定められましたから、同期日に当裁判所民事第202号法廷に出頭して下さい。
 昭和50年10月7日
           横浜地方裁判所第三民事部
                  裁判所書記官 三浦 義昭
  原告 沢舘 衛 殿

 

 10月23日、山下法律事務所というところから手紙が届いた。初めて聞く名称であった。何だろうと思って開けてみると、神奈川県の訴訟代理人で、答弁書が入っていた。

 

 昭和50年(ワ)第1406号
      答 弁 書
                 原 告  沢 舘 衛
                 被 告  神奈川県他一名
 右当事者間の回答請求事件につき、次のとおり陳述する。
   昭和50年11月5日
          被告神奈川県訴訟代理人 山下 卯吉
               同指定代理人 長尾 栄次
                      土江  光
 横浜地方裁判所第三民事部 御中
       記
A.本案前について
   本件訴えを却下する
   訴訟費用は原告の負担とする
  との判決を求める。

      理 由

 第一、本訴の趣旨

本訴は、訴の請求の趣旨並びに原因の項の記載により推知できるように、原告は、国のある機関が、何らかの目的で、原告がまともな生活ができないような状態に追い込むために動いていることを知った。
 そこで被告の何らかの機関(行政事務担当者を指称するものと解せられる)も、嘗て原告に関することで、国の機関のように動いていたのなら、その理由、目的及び原告に関して過去に行なった総ての行為を、被告に対し文書による回答を求めるというもの、いわば、仮定的条件のもとに(行政機関としての)被告に作為を命ずる裁判を求めているものと解せられる。

 第二、訴却下を求める理由

一、給付の訴は、法律上の権利を有する者が特定の権利保護を求めることを目的として提起することを許される訴であるところ、原告は如何なる権利に基づき、如何なる権利保護を求めているのかの法的根拠を示さず、従って訴権の原因が明確でないのみならず、原告主張の如き事項につき、被告がこれに回答すべきことを定めた法規上の根拠はない。

二、原告は、事実の存否を確定していない、いわば、一定の事項の存在を前提とする訴で、かかる条件付訴の提起は許されない。

三、被告は、昭和50・9・17日付知事室県民課長名義にて原告に対し、被告の機関(行政事務担当者)が原告からの質問事項に該当する行為に出たことのない旨を、文書をもって回答したので、もはや訴の利益はない。

四、特別の規定のない限り、裁判所は行政庁に対し、特定の作為を命ずることは、三権分立の建前から許されないところ、かかる特別の規定は存在しない。

以上いずれの点からも、本訴は不適法として却下せららるべきである。

B.本案について

 第一、請求の趣旨について
     原告の請求を棄却する
     訴訟費用は原告の負担とする
    との裁判を求める。

 第二、請求の原因について

  一項

1.被告が、原告からその主張の如き、回答日を期限付とする質問状(訴状添付三)を受け取ったこと

2.被告が、これに対し、期限内に回答しなかったことは認める(但し、被告は昭和50・9・17日付知事室県民課長名義にて、原告に対し、被告の機関「行政事務担当者」が質問事項に該当する行為に出たことのない旨を文書をもって回答した)。

  二項 ─ 五項(原告と被告の事務担当職員との応答)

 認める。

六項(原告と被告の県民課員との応答)

否認する(事実は、被告は、原告から具体的事実の明示があれば調査する、現在までのところでは、質問内容が判然しないので答えられない旨を告げたに過ぎない)。

七項(原告の過去の環境)

 総て不知。

八項(回答の義務の存否)

 争う。

 第三、被告の主張

  前記第二、訴却下を求める理由の項に記載したとおりである。

 

 この答弁書に対し、私は準備書面を作成し、10月30日、裁判所へ送った。

 

 昭和50年(ワ)第1406号 回答請求事件
     準備書面(一)
                  原 告 沢舘 衛
                  被 告 神奈川県
                  被 告 厚生省(国)
 右当事者間の回答請求事件について原告は次のとおり陳述します。
 被告神奈川県からの「答弁書」に対する原告の陳述。

一、「第二、訴却下を求める理由」の第一項について。
 原告の訴えは、直接的には国民の基本的人権を保障した日本国憲法(第11条、12条、97条)に基づき、間接的には同じく日本国憲法及び「人権に関する世界宣言」に基づく。
 原告に「知る権利」がある以上、被告は原告に回答する(知らせる)義務があるはずである。

二、同第二項は否認する。
 原告が事実の有無を確定しているかどうかは、ここでは問題にならない。(もちろん、ほぼ確定しているが)。
 原告の訴えは、ある事柄を前提にしていることは確かである。しかし原告は決して、原告をこれまで苦しめてきたのは被告だと決めつけたり、被告が原告に対してやっていたかもしれない行為を責めたり訴えたりはしていない。原告はただ、日本国憲法の保障する基本的人権に基づき、被告がその事柄に関係していたのかどうかを知ろうとしているのである。そしてもし関係していたなら、その理由、目的その他を知らせてくれとお願いしているのである。

三、同第三項は、「もはや訴の利益はない」は否認し、そのほかは認める。
 原告が求めている回答書は、訴状に明記してあるように、神奈川県の長である県知事が責任をもって作成した回答書である。したがって原告は、県民課長名義の回答書は、原告の質問状に対する回答とは考えない。

四、同第二項は否認する。
 原告の訴えが基本的人権に基づいたものであることからいって、裁判所は行政庁に対し、特定の作為を命じうる。

五、被告は、請求の原因の第六項を否認しているが、これは失当である。
 第六項に記載の会話がなされたことは事実である。また被告の言うように、「被告は原告から具体的事実の明示があれば調査する」旨を告げたことも事実である。しかし、「質問内容が判然しないので答えられない」ということは言わなかったようである。
 参考までに、当日(9月9日)、原告と県民課職員との応答内容を、原告の当日の日記より引用し、まとめておく。

別紙のとおり。

六、それから、これはよけいなことかもしれないが、被告は、代理人を三人もつけ、回答する義務があるのないのと争うよりは、県知事自らペンをとり、回答文書を作成するほうが、税金を無駄に使わないで済むのではないのか。
昭和50年11月5日
                  右原告 沢 舘 衛
 横浜地方裁判所第三民事部 御中

「別紙」は省略。(県民課職員との会話。本書ですでに取り上げた。)

 

 11月5日、水曜日、回答請求事件の最初の口頭弁論が行われた。午前10時、202号法廷。
 法廷の外の廊下の椅子に、数人の男たちが座っていた。法廷内では他の件がすでに始まっているようだ。傍聴席の入口の内側につい立てがあり、内部はよく見えなかったが、たくさん人が入っているようだった。廊下にいる人たちは、自分らの番がくるのを待っているようだ。その中に、見覚えのある二つの顔があった。私が県民課を訪ねたとき会った職員二人だった。眼鏡をかけたのと、その上司らしい男。(神奈川県の指定代理人、長尾、土江、両氏か?)私は彼らに近づき、話しかけた。
「私の件で来たんですか?」
「ええ、訴状を送られたからには、出て来なければならないから」
 上司が答えた。それから、
調子のほうはどうですか?
 と、カビの生えたようなことを尋ねた。私は顔をそむけた。

 202号法廷は、解雇処分撤回請求事件のときの502号法廷に比べると、ずっと小さかった。裁判官も一人だけだった。
 傍聴席が空いたので私は中に入った。すると、このまえ、県議会の共産党の部屋へ法律相談に行ったとき、そこで会った弁護士が入って来て、名簿に記入し、傍聴席へやって来た。そのとき視線が合った。彼は微かに私に頭を下げた。私も同様に応えた。彼は私の隣へ、ずっと間をおいて座った。
 法律相談に訪ねたとき、彼は私に理解を示し、協力してくれそうだった。ところが、同室で仕事をしていた若い男が私たちの間に入り、みそ糞に私を攻撃し、ぶちこわしてしまった。

 数件の事件が処理された後、私の事件番号が読み上げられた。私は傍聴席から出て行って原告席に着いた。被告席には三人着いた。弁護士らしい男二人と、それに県民課の職員のうちの一人。
 被告厚生省からの答弁書が持ってこられた。私は相手がどんなことを言ってきているのかと、真剣に目を通していった。
「沢舘さんは原告本人ですか?」
 裁判官が静かにたずねた。
「はい」
 私は顔を上げて答え、すぐに書面に目を落とした。相手の弁護士が立ち上がって次のようなことを申し立てた。
「初めに申し上げておきたいが、原告の訴状には、被告を厚生大臣としているので、答弁書は厚生大臣とした」
 裁判官は私にたずねた。
「原告は、被告を国にするのか、厚生大臣にするのか?」
 私は立ち上がって答えた。
「私、よくわからないんですけど‥‥、これは当然、国になるというんでしたら、国でもかまいませんけど」
 すると裁判官は苦笑した。
「かまわないって‥‥、はっきりしてもらわねば」
裁判官は考えていたが、やがて言った。
「これはこのまま訴状どおりにしておきますね」

 私はこのまえ、書記官から、厚生省を相手にすることは、当然、国を相手にすることになる。このことについては、裁判官から釈明があるだろうと言われていた。だから私はこの法廷で裁判官が訂正を指示してくれるだろうと思い、自分では調べなかった。

 口頭弁論は簡単に済んだ。
「神奈川県は5日付の答弁書、厚生省は31日付の答弁書を陳述するんですね。原告は5日付の準備書面を陳述するのね」
 裁判官は我々に確認し
「26日、10時、判決します」と告げた。あっという間だった。

 私が原告席から傍聴席へ戻るとき、傍聴席から出て来るさっきの弁護士とすれちがった。今度ははっきりと頭を下げあった。私が傍聴席に着くと、今の弁護士が原告席に着くところだった。
 私は無事に終ったことをうれしく思い、誇らしかった。しかも、他の事件の関係者が大勢傍聴席にいる前で。
 私は書類をかばんの中にしまい、原告席の弁護士を見た。弁論はまだ始められていなかった。私は廊下へ出た。私の件のとき、被告席にいた三人が廊下でひそひそ話し合っていた。彼らは私の方を振り向いた。私は彼らのわきを何も言わずに通り抜けた。

 厚生省からの答弁書には、「横浜地方法務局」の名称の入った用紙が使われていた。厚生大臣の指定代理人には、横浜地方法務局の訟務課長、係長及び法務事務官があたっていた。何と皮肉なことだろう。私がこれまで横浜地方法務局の人権擁護課を訪ね、いくら訴えても正常に動こうとしなかったのに、私が独りでこの問題を解決しようとすると、その法務局が私の請求をつぶしにかかっているのだ。

 次は厚生省からの答弁書。

 

昭和50年(ワ)第1406号
                原 告 沢 舘 衛
                被 告 厚生大臣 他一名
昭和50年10月31日
            被告厚生大臣指定代理人
                   渡辺  信
                   丸山喜美雄
                   今関 節子
 横浜地方裁判所第三民事部 御中
     答 弁 書
    本案前の答弁
  被告厚生大臣に対する訴えを却下する。
  訴訟費用は原告の負担とする。
 との判決を求める。
    答弁の理由
 本件訴えは、要するに、原告の被告厚生大臣に対する昭和50年7月20日付け質問状及び同年8月26日付け督促状に対する回答を求めるというものであるが、その性質は、不作為の違法確認の訴えであると解される。
 ところで、右の質問状及び督促状の要旨は、厚生省または同省の下部組織が原告をつけまわすなどの行為をしたか否か、そのような行為をしたのであれば、その理由、目的、行為などを文書で回答せよというものであるが、原告が厚生大臣に対してそのような回答を求め得る法的根拠はなんら存在せず、厚生大臣においても右
の質問状及び督促状に回答すべき法的義務は存在しない。
 そうすると、本件訴えは、そもそも訴えの対象となる不作為を欠き、不適法であるといわなければならない。(昭和49年11月26日東京地裁判決、判例時報771号38ページ参照)
 仮に、訴えの対象となる不作為を欠いていないとしても、原告にその主張するような回答を求める権利はないのであるから、不作為の違法確認を求める原告適格を欠き、本件訴えは不適法である。
    本案の答弁
   請求の趣旨に対する答弁
  原告の被告厚生大臣に対する請求を棄却する。
  訴訟費用は原告の負担とする。
 との判決を求める。
   請求の原因に対する認否
 第一項及び第二項中厚生大臣に関する部分は認める。その余の事実は不知。
 第三項ないし第七項は不知。ただし第七項中厚生大臣が回答をしていない事実は認める。
 第八項の前段は不知。後段は争う。
    被告の主張
 本案前の答弁で申立てたとおり、本件訴えは不適法であって却下されるべきであるが、仮に不適法でないとしても、原告にその主張するような回答を求める権利はないのであるから、被告厚生大臣において回答しなくとも違法ではなく、原告の請求は理由がないことに帰し、棄却されるべきである。

 

 私はこの答弁書に対し、「準備書面(二)」を作成し、さらに被告を「厚生大臣」から「国」に変更する申立書、及び「証拠申立書」を持って、11月10日、裁判所を訪ねた。すると書記官が、この事件の口頭弁論はこのまえの一回で終り、あとは26日の判決だけだ。だからもう書面は受け付けられないと言う。でも書記官は、あとで裁判官に聞いてみるといって私の書面を受け取った。

 

 昭和50年(ワ)第1406号
     訴変更申立書
                     原 告 沢舘 衛
                     被 告 国
                     被 告 神奈川県
右当事者間の回答請求事件について、原告は次のとおり訴えを変更します。

    変更の趣旨

一、本件訴状の被告の表示中「厚生省、右代表者厚生大臣田中正巳」を「国、右代表者内閣総理大臣三木武夫」と変更する。

二、右の変更により、「請求の趣旨」の第一項の但書の「被告厚生大臣」は「被告内閣総理大臣」と変更される。

    訴変更申立の原因

 日本国憲法及び国家行政組織法に定められるところによると、国の行政機関である厚生省は内閣の統轄のもとにおかれ、又、国務大臣は内閣に属し、内閣の首長は内閣総理大臣である。
 昭和50年11月10日
                    右原告 沢 舘 衛 
 横浜地方裁判所第三民事部 御中

 

 次は準備書面。

 

 昭和50年(ワ)第1406号
                    原 告 沢舘 衛
                    被 告 国
                    被 告 神奈川県
 昭和50年11月10日
                    右原告 沢 舘 衛
横浜地方裁判所第三民事部 御中

     準備書面(二)

 右当事者間の回答請求事件について原告は次のとおり陳述します。

第一、訂正など

一、原告準備書面に整理番号を付すこととし、本準備書面を(二)とし、11月5日付のものを(一)とする。

二、原告準備書面(一)の一部を訂正する。
 第一項中、「日本国憲法(第11条、12条、97条)とあるところを、単に「日本国憲法」とし、カッコ内の条項は削除する。
 その理由は、これらの条項は、のちほどよく調べてみたら、関係なくはないが、あまり適切でないことがわかったため。

第二、被告国からの「答弁書」に対する原告の陳述。
 被告は原告の訴えを、「不作為の違法確認の訴え」と解しているが、これは誤解または曲解である。
 被告は原告に対し、被告による何らの処分または裁決を告げていないし、又、原告が被告に送った質問状は法令に基づいたものでもない。したがって原告は、行政事件訴訟法に基づいて訴えを提起することはできない。
 原告の訴えは、日本国憲法及び、「人権に関する世界宣言」の保障する基本的人権、知る権利に基づいたものである。

第三、原告の主張

一、日本国憲法は日本国民に、そして「人権に関する世界宣言」は、すべての人に基本的人権を永久の権利として保障している。ということは、これらの権利を侵すような行為が、だれかによって国民になされたときは、それがだれによってなされたかを、国民が知る権利をも、これらの法は国民に保障しているものであろう。

二、両被告は原告に対して、何らの処分も裁決も告げていない。しかし、両被告が原告に対して、ある特別な行為をとっていたとすると、両被告は原告に対して、何らかの処分又は裁決を、原告に秘密でしていたことになる。しかも、絶対に原告には知られないようにして。
 現在の日本国においては、(原告の調べた範囲内では)このような秘密を認めている法は、憲法第57条及び、国会法第62条と第63条である。
 原告に対する処分又は裁決は、これらの法で認められている秘密会議でなされたものなのか。
 しかし、秘密といっても、それは原告一人だけに秘密であるもののようだ。これでは、「すべての人は法の前において平等である」とは言えないではないか。

三、原告を、ある目的をもってつけまわしてきたのが被告の機関であれ、その他の機関であれ、これほどまでに強力な力を発揮できるには、その者たちの行為は法に基づいたものでなければならないだろう。
 憲法第31条には、「何人も法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」とある。しかし、原告はこれまで、数々の自由を奪われてきた。このことからも、原告に対するその者たちの行為は法律の定める手続きによったものと解せられる。
 その者たちの行為が法に基づいたものであるからこそ、警察も人権擁護局も、又、他の人権擁護機関も原告の訴えを取り上げないのであろう。自由法曹団及び東京合同法律事務所所属の田中富男弁護士は、「どこへ行ってもこれを取り上げてもらえないということは、今の制度では、この問題は無理なんですね」と原告に言っている。(昭和48年4月18日、東京合同法律事務所にて)。

四、被告らが原告に対して、秘密のうちにある処分又は裁決をなし、それに基づいて被告らの機関が動いていたとするなら、そして、もしその処分又は裁決の事実及び内容が原告に明らかにされることがあるなら、原告はその処分又は裁決をくつがえし、その処分又は裁決が誤ったものであることを証明するだけの自信があるし、又、必ず証明してみせる。

五、もし、両被告の主張するように、原告には回答を求める権利はなく、又、被告らはこの種の質問には回答しなくてもよいとするなら、それは恐るべき人権侵害(さらには殺人行為をも)許すことになるだろう。(そしてこのようなことは、これまでにも数多くやられてきたのではないのか)。
 ある機関に働く者に、ふとしたことで悪感情をもたれた人間は、もうそれで、その一生は破滅である。

 

 次は証拠申出書。

 

 (前おきは省略)
     証拠申出書
 原告は、その主張事実立証のため、次のとおり証拠の申出をする。

一、証拠の表示
 原告の著書「私の半生」、「女」、「訴(その一〜その七)」各一部。

二、証すべき事実
 原告をある目的をもってつけまわし、苦しめてきた機関の行為が(原告準備書面(二)に述べるように)法に基づいたものであるとするなら、(そして、特にその機関が被告らの機関である場合には)その機関は、本訴訟にも原告には秘密で介入し、原告の訴えを棄却させようとするだろう。
 ここに申し出る証拠は(証拠とはいえないかもしれないが)、原告に秘密で、本訴訟に介入するかもしれないその機関の力に対抗するものであり、又、介入してくる者たちの行為が誤っているものであることを、いくぶんではあるが、証明するものである。

三、右、「私の半生」、「女」の内容は、原告がこれまで長い年月にわたって、ある機関によってどのように苦しめられてきたかを書いたものである。その内容は事実に基づいたものであるが、かなり小説的であり、又、機関によって言いふらされている誤った原告の人間像をくつがえすためにも、かなり原告の私生活を取り入れてある。そのため、この二冊は裁判所へ提出するにはふさわしくなく、又、不必要かもしれない。
 しかし、「訴」と題する本は、機関の性格及び原告に対する機関の行動の方法、目的といったものを、かなり明らかにしているものと思われる。

四、これらの証拠は、被告神奈川県には、(資料としてではあるが)昭和50年9月3日、提出してあるので、ここには改めて提出することはしない。

 

 私は被告を「厚生省」から「国」に変更したとき、その代表者を内閣総理大臣とした。数日後、書記官からその間違いを指摘され、代表者を総理大臣から法務大臣稲葉修と訂正した。
 この訂正のために裁判所へ出かけたとき、書記官が私に言った。
「裁判官があんたに会って話してみたいと言っている。それも、何かの都合で裁判所に来たときでいい」
 さらに彼は、「これは出頭せよ、というのではない」と念を押した。
 私は11月14日の午前に来ることを約束した。

 裁判所を出て少し行ったところに、太った女が向こうを向いて立っていた。そのそばを通り抜けようとすると、その女は、「ウワッハッハッ!」と、腹の底から吐き出すような下品な笑い発した。私は『イヌめ!』と思ったが、その顔は見なかった。彼らは私のまわりでよくこのような笑い方をする。そうすることによって、私に不安を呼び起こそうとでもするように。だがそんなものは私に通用しない。
 これまで、路上や、電車内で私をあからさまに笑った者たちは、一般市民ではなく、「機関」のメンバーであったのかもしれない。

 11月14日、金曜日、午前、裁判所を訪ねた。11時25分から45分までの20分間、裁判官と話した。裁判官の調子はかなり冷たいものだった。
 裁判所を出、山下公園へ行って、裁判官との会話をメモにとった。
 次に記載する会話は、一まとまりごとに線で区切ってある。このまとまりごとの前後関係は定かでない。

 

「両親はいるの?」
「います」
「一緒にいるの?」
「いえ」
「釜石にいるの?」
「いえ、釜石のとなりの小さな町、大槌というところにいます」
「何をしているの?」
「何もしていません。年ですから。兄が養っています」
「両親と一緒に暮らしたほうがいいんじゃない?」
「いや‥‥、あの家族の中に入ったら、ノイローゼになってしまいます。家族は私をつけまわしている者たちに完全に押え込まれていますから」
「そう?」
「両親は、私が死んでしまうのを一日も早く願っていますよ。自分たちが逝くまえに、見届けておきたいんでしょう」

   ───────────────

「国が君の質問に答えなければならない義務はないのではないか?ぼく、まだこれを十分研究していないけど」
「私には知る権利があるから、国は答える義務があるんじゃないかなと思うんですけど」
「知る権利といっても、それはそんなに広い意味を持っているものではないんじゃないか? なんでもかんでも知る権利があるというもんじゃないだろう。国の機関が君に対して何かしていたというのなら、国家賠償でいくべきではないのか?」
「しかし私は、国の機関がやっているという、はっきりした証拠はつかんでいないんです。この訴えは、それ以前のもの、その証拠を得るための訴えなんです」

   ───────────────

「被告には回答する義務がない。それを定めた条文がない。質問されたのに、国や県がいちいち答えなければならないということはないだろう? 義務がなければ」
「ええ、もしこのような質問をする人がいっぱいいて、国や県がそれに答えなければならないとしたら、国や県の仕事は麻痺してしまうでしょう。しかしそんなことはありえないし‥‥」

   ───────────────

「このまえ、26日に判決すると言ったね。この事件は、『質問状を送った』、相手は『受け取った』ことを認め、それに『答えなかった』ことも認めている。するとこれはもう事実は出尽くしているから判決するだけだ」
「でも国からの答弁書を見ると、私の訴えを曲解しているようなところがあるので、そのことを述べ、それに付随して、私の知る権利といったものを強調したんですけど」

   ───────────────

「君がこれを取り下げないなら、判決しなくてはならないだろうな」
 さすがに裁判官は、訴えを取り下げろとは言わなかった。
「こんどの26日は判決できない。君のほうから書類が提出されたのだから」
「書類を相手方に送って、今度の26日、判決のまえに少し口頭弁論をして、それから判決することはできないんですか」
「判決は別に改めて日を決めなければならない」

   ───────────────

「これはむずかしい問題だ。裁判所に申し立てられるものの中には、裁判所がそれにあいさつしなくてもいいものもかなりある」
「民事の受付でも、これは訴訟になるかどうか、わからないと言われました」

 

 裁判官は本当に困っているようであった。それを見て私は、私の請求が頭から却下できない性質のものであることを知った。私の請求は筋の通ったものであるかもしれない。このことが私を勇気づけてくれた。
 私が裁判官との話を終え、出るとき、書記官二人に、
「どうも」

 と声をかけ、頭を下げた。私に応える彼らの顔には同情に似た色が浮かんでいた。その表情を見て私は、この訴訟はつぶされていることを知った。
 一週間ほどして、裁判所から、26日の判決はとりやめ、口頭弁論を再開するという通知があった。次の口頭弁論は12月24日。

 私が住んでいるアパートは、階下が家主の住居で、二階の四部屋が賃貸となっていた。私の部屋は一番奥だった。もう一方の端には若い男が入っていた。私はここに移り住んでまもなく、この男が「機関」の手先になったのを感じた。
 私の問題の移行に、この男は敏感に反応した。だからこの男の様子で、私の問題がつぶされたのか、それともかなりいいところまでいっているのかを察知することができた。私が不利になるやいなや、この男は揚々と鼻歌をうたった。
 裁判所から帰った日の夜、外から帰って来た男は廊下で鼻歌をうたった。夕方には階下から、家主のおばさんの、緊張から解かれたような声が聞こえてきた。

 

              三 節

  昭和50年(1975年)

 解雇されたヤマナカで私は四か月しか働けなかったので、失業保険はもらえなかった。失業していた三か月間にあちこち面接に出かけたが、徹底して妨害されるのを感じた。
 町を歩いていても、買い物に店に入っても、図書館へ行っても、うさんくさい男たちが私に付きまとった。
 私は面接に行った会社で、私のほうから私の問題にふれた。黙っていても、すぐに手がまわり、ぶちこわされるのを知っていたので。しかし、問題に触れると採用されなかった。
 ある会社は、面接に行ったとき渡した履歴書と、職業安定所からの紹介状をまとめて、一言の通信文もなしに送り返してきた。
 11月14日、金曜日、本郷台駅の近くにある、MH電気工業という電気工事店に面接に行った。問題に触れる間もなく、すぐに採用された。三日後の17日から働いた。
 作業現場は大倉山というところにある、ビクターの工場であった。コンベヤーラインの配線には簡単な制御回路(シーケンス)もあった。私は他の電工と違い、制御回路を理解できたので心強かった。
 ここもたちまち毒され、一か月半しか働けなかった。
 苦しい一か月半だったが、その苦しみは他の会社での苦しみとは異なるものだった。
 一方で私は国を相手に裁判で争っていた。会社へ行っても自分の世界は確固としており、そこから彼らを見下ろしているといった感じだった。別世界の生き物と一緒に仕事をしているようだった。

 12月10日、私は一人、工事店に残され、そこで仕事をしていた。午後1時、ビクターへ行っていた大谷(作業責任者)から電話があった。
「全然だめだぁ」という。
 私が先日やった配線が全くでたらめだという。
「すぐに電車で出て来い」
 私は電話を受けたとき、『そんなはずはない! たくらみだ!』と直感した。

 その内容は、配線の接続が入れ違っていた。ボックス内で接続した部分の絶縁テープの巻き方が悪くてアースした。電線に識別のために付けていた荷札の針金がテープ内に巻き込まれ、これもアースした。また荷札の針金が電線の被覆に食い込み、これもアースしたという。どれも私には全く考えられないことだった。
 私は電車で現場に向かいながら、不良箇所をそのまま残しておいてくれればいいがと思った。テープの巻き方を見れば、それが自分で巻いたものかどうか、すぐにわかる。荷札の針金はどんなにきつく電線に巻き付けても、被覆に食い込むことはない。そのまえに針金が切れてしまう。おそらく、食い込んだところは、ナイフでわざと切り込みを入れたものだろう。

 現場に着くと、大谷は私をやっつけにかかった。私は反論した。すると彼は、
「嘘だと思うなら、見てみろ!」
 と言った。私が見ようとすると、
「いや、もうそのところは切り捨てた」
 彼は力なく言った。
 私と大谷が口論していると、見かけたことのない男が数人、別に仕事をするでもなく、私たちのまわりをうろうろしていた。私はその者たちから「イヌ」の気配を感じた。いたずらをしたのはこの者たちか?
 私はこの件については、会社に文書で申し入れた。これは、私をつけまわしている者たちが、私を陥れるためにやったいたずら、デッチあげであると。

 こうしたある日、古川さんというおやじさんから電話があった。彼は、私が解雇されたヤマナカで、電気主任技術者として働いていた。私は彼とは人間らしい話をしていた。
 彼は、私を彼の知人のところへ紹介するから、そこで働いてみないかと言った。私はすぐに応じた。
 紹介されたのは、竹内電設というところだった。しかし社員は一人もいなく、社長が一人で、新宿にある、東芝電気工事(株)の中で仕事をしていた。仕事の内容は、原子力発電所の設計に伴う、電線管布設の図面書きだった。
 12月15日の午後、竹内氏と面接した。新宿、新大久保駅から電話すると、竹内氏が迎えに来た。会社までは行かず、途中の喫茶店に入り、長いこと話した。竹内氏は五十歳過ぎで感じのいい人だった。
 彼は、年が明けた15日から来てほしいと言った。
 一か月
先であった。一か月あれば気違い様たちに完全に狂わされてしまうだろう。

 

              四 節

  昭和50年(1975年)

 12月24日、回答請求事件の第二回口頭弁論が開かれた。この前日、私は二つの申立書を提出しておいた。

 

 昭和50年(ワ)第1406号
                    原 告 沢舘 衛
                    被 告 国
                    被 告 神奈川県
  昭和50年12月23日
 横浜地方裁判所第三民事部 御中
   判決の理由についての申立書
     申立の趣旨
 原告の訴えを棄却する判決をする場合は、その判決の理由をありのまま述べてくれるよう原告は裁判官に求める。
     申立の原因
 原告をこれまでつけまわし、苦しめてきた機関は、あらゆる方法で原告を精神異常者だというとにしてしまい、(原告の書いたものなどを精神科医に見せるなどし)、そして、原告の意志を無視し、原告の肉親たちの同意を得て、原告の行為を制限しようとするかもしれない。(この場合も原告には絶対に秘密で)。
 もしその機関が本訴訟にも介入し、右に述べたような、(あるいはこれと類似した)方法で、原告の訴えを棄却させようとするようなことがあるなら、本訴訟の判決の理由に、そのことを明記するよう、原告は裁判官に求める。

 
(
もし原告が精神異常者だとするなら、訴訟における当事者能力が、原告には始めからないことになる)。
 このようなことは、原告が改めて申し立てるまでもなく、判決の理由その他で述べられるものであろうが、原告は「機関」の卑劣なやり方を知っているので、前もって申立をしておく。

 

  (前おきは省略)
    裁判の進行方法についての申立書
 裁判の進行方法について、原告は次のとおり申立をします。
     申立の趣旨
 昭和50年12月24日の口頭弁論において、原告及び被告の両方から、特別に裁判継続の申立のない限り、弁論終了後、判決をするよう原告は希望する。
     申立の原因
一、事実関係がすでに明確であるため。
二、裁判を迅速にすませるため。

 

 私は、この一審で棄却されたら、二審、三審と進めるつもりだった。ここで無駄に日数を費やしたくなかった。

 12月24日、口頭弁論当日、被告席には三人着いた。
 裁判官は被告席に向かってたずねた。
「何か申し立てることはありますか?」
 被告は何も申し立てなかった。さらに裁判官は、国からは来ているか、と尋ねた。一人の男が立ち、
「自分は国からではなく、厚生大臣の代理として来ている」と述べた。
「訴変更の申立がされているでしょう?」
 裁判官は、非難するように言った。
「申立書はきています」
 男は答えた。
 次に裁判官は私の方を向いて言った。
「原告は準備書面(二)を陳述するのね」
「はい」
「1月28日判決します」
 これだけで、この日の口頭弁論は終った。

  昭和51年(1976年)

 12月27日から風邪で会社を休み、そのまま正月休みに入った。
 昭和51年正月、少しもめでたい気持になれなかった。
 会社は何日から始まるのかわからなかった。5日の月曜日から始まるのだろうか? 電話する気になれなかった。
 1月4日、日曜日の夜、なかなか眠れなかった。2時までテレビでつまらないドラマを見た。それから4時まで眠れなかった。冴えた頭で考えた。
『あの会社、もうやめよう』

 竹内電設へ1月15日から出ることになっていたが、15日は成人の日で祝日であった。電話で竹内氏に問い合わせた。すると彼は、19日、月曜日から出てくれと言った。
 
私は彼の会社の所在地を知らなかった。そこで、16日の昼、私が新大久保駅まで出て、そこから彼に案内してもらうことになった。
 会社、東芝電気工事は駅から歩いて10分ほどのところにあった。大きなビルの九階にあった。事務所と設計室が一つになった大きな部屋で、窓から新宿の町が見渡せた。
 
竹内氏の机はその部屋の中ほどにあった。彼は私を彼のわきへ座らせた。彼はまわりに気を使ってか、ぎこちなさそうだった。
 彼は私の顔をのぞき込んで言った。
「給与は月給制にしよう。そのほうが、金がいいよ」
このまえ彼は逆のことを言った。月給制だと、いくら残業をしても手当がつかないからばからしい、日給制のほうがいいよ。
 彼は私に、明後日の日曜日、久里浜の彼の自宅へ遊びに来るようにと言った。この日はこれだけで帰った。数分しかいなかった。

 1月18日、日曜日、竹内宅を訪ねた。彼の家は平屋で、婦人は秋田出身だといって、東北弁丸出しだった。親しみがもてた。竹内氏は原子力発電所の図面を山ほど持ち出して来て私に説明した。私には何がなんだか、さっぱりわからなかった。
 そのうち、私を竹内氏に紹介してくれた古川氏がやって来た。古川氏は、有限会社竹内電設の役員になっているようだった。彼は私に言った。
「竹内電設によく来てくれました」
 話は延々と続いた。私の問題にはふれられなかった。しかし古川氏は私に、
「あんたが前科者であってもかまわないんだ」
 と三度も言った。後半は、古川氏一人でしゃべり続けた。私は退屈だったし、かなり長居したので帰ることにした。出勤はさらに延び、21日からにしてくれと言われた。私の席が確保できないという。

 1月21日、水曜日、初出勤。竹内氏は私を何人かの役職にある人たちに紹介してまわった。私の席は、竹内氏からずっと離れた窓際の製図板(ドラフター)が並んでいる中の一つだった。
 簡単な図面の訂正の仕事が与えられた。仕事をしていると、後ろの方で二度、笑い声が起こった。シャープペンシルの芯をもらいに竹内氏のところへ行った。すると、女の事務員からもらえという。その女のところへ行くと、女は、ならず者を見るような、きつい目で私を見上げた。
 昼飯は数日間、近くの店からパンや牛乳などを買って食べた。みんなは弁当をとっていた。それを見ていると、10時頃、女事務員が弁当を頼むかどうかを聞いてまわる。昼近く、弁当屋が、弁当がいっぱい入った大きな箱を廊下に置いて行く。正午になると、みんなが次々とその箱から弁当を取って行く。どの弁当が誰に渡るのかわからない。これなら弁当に毒を入れられることはないだろうと思った。数日後から私も弁当をとるようになった。

 

              五 節

  昭和51年(1976年)

 入社して、一週間ほどした1月28日、回答請求事件の判決が10時から、横浜地方裁判所第202号法廷で言い渡された。
 私が法廷に入って行ったとき、裁判官と書記官が、意味ありげな視線を私に注いだ。原告席も被告席も空いたままで、傍聴席には、自分の番がくるのを待っている弁護士や、事件関係者たちが控えていた。
 やがてある事件番号が読み上げられた。それは、「昭和50年(ワ)第1408号」と聞こえた。私の事件番号は「第1406号」だ。私は傍聴席に座っていた。すると、書記官が私に向かって、出て来いと合図した。私は出て行った。被告の訴訟代理人が傍聴席にいるのが見えたが、彼らは出て来なかった。
 判決が読み上げられた。私は全神経を耳と目に集中させ、裁判官に見入った。その様子からは、良い感情も、悪い感情も感じられなかった。
「原告の請求をいずれも棄却する。訴訟費用は原告の負担とする」
 私は表情も変えず、法廷を出た。そして、第三民事部へ行き、今判決があったけど、その理由を聞きたいと言った。すると、応対に出た職員は、係の者はいま法廷に出ているのでわからない。理由は法廷で聞けば教えてくれたのに、と言った。判決とその理由は郵送されるので、今日出せば、明日にも着くだろうと言った。
 その職員は私の名前を知っていた。そして、以前、横須賀支部で支払命令の申立をしたことも、その相手が探偵社だったことも知っていた。
「どうして知っているんです?」
 と聞くと、彼は以前、横須賀支部にいて、私の支払命令を担当したという。もしかすると、支払命令の書き方など、いろいろ教えてくれたのは彼だったかもしれない。

 判決の翌日の29日、会社からの帰り、竹内氏と一緒に帰った。これまでにも何度か一緒に帰り、喫茶店に誘われたこともあった。この日、私が、私の特殊な問題にふれようとすると、彼は、その問題ならもうわかりきっている、やっても無駄だといった調子で、すぐに話をそらした。
 2月2日、月曜日、竹内氏は会社を休んだ。私は何も聞いていなかった。翌日、出社してきた竹内氏は、机に向かい、ポケーと気の抜けた顔をしていた。きのう休んで何かあったのだろうか? 私がドラフターに向かって図面を描いていると、竹内氏がやって来て、私の後ろの引出しをかきまわした。無断でひとの引出しをかきまわすなんて何だろうと思った。私が振り向くと、思いもかけない下劣な笑いが彼から返ってきた。
 また、昼休み時間、彼が私のところへやって来て、
「さわだてくん」
 と、ゆっくり呼びかけた。その声の異様な響きにぞっとした。
 この日、彼は私には何も言わず、一人でさっさと帰った。先に帰るのに、私に何も言わずに帰ったのは、これが初めてであった。
 職場全体も、ふやけてきたように感じられた。働き始めて、二週間目のことであった。

 ところで、判決から十日たっても、判決文が送られてこなかった。2月6日、電話してみた。書記官は、私が言い出すまえに、判決文の送達は切手が不足して送っていないと言った。特別送達が220円から750円に値上がりしたので不足になったという。不足の切手を送るか、取りに来るようにと言った。足りないなら足りないで、連絡してくれたらいいではないか。
 2月9日、月曜日、会社へ出るまえに裁判所によって判決文を受け取った。

 

 ( 裁判書類の原本はすべて縦書き。「右代表者」などの「右」は「上」、「左」は「下」と読み替えてください。)

   昭和50年(ワ)第1406号
     判 決
         横浜市戸塚区笠間町七一九番地
             原   告     沢舘  衛
         東京都千代田区霞が関一丁目一番一号
             被   告     国
             右代表者法務大臣    稲葉  修
             右指定代理人      渡辺  信
             同           丸山喜美雄
             同           今関 節子
         横浜市中区日本大通一番地
             被   告     神奈川県
             右代表者知事      長洲 一二
             右訴訟代理人弁護士   山下 卯吉
             右指定代理人      長尾 崇次
             同           土江  光
 右当事者間の昭和50年(ワ)第1406号回答請求事件につき、当裁判所は、次のとおり判決する。
     主 文
  原告の請求を、いずれも棄却する。
  訴訟費用は原告の負担とする。
     事 実
 原告は、「被告国は、原告に対し、原告からの質問状(別紙一)及び督促状(別紙二)について、直ちに文書で回答せよ。被告神奈川県は、原告に対し、原告からの質問状(別紙三)及び督促状(別紙四)について、直ちに文書で回答せよ。訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決を求め、その請求の原因として、次のとおり述べた。

一、原告は、昭和50年7月22日厚生大臣に対し別紙一記載の質問状を、神奈川県知事に対し、別紙三記載の質問状を、それぞれ書留郵便で送り、期限付で回答を求めたが、期限を過ぎても、何らの回答はなかった。

二、そこで、原告は約一か月後、厚生大臣に対し、別紙二記載の督促状を、神奈川県知事に対し、別紙四記載の督促状をそれぞれ送ったが、これらについても何らの回答もなされなかった。

三、しかしながら、原告が知る権利を有する以上、被告らは、前記各質問状及び督促状について回答する義務があるから、原告は、右各回答を求めるため本訴に及んだ。

次に、被告神奈川県の本案前の主張に対して、次のとおりのべた。
 一の主張は争う。原告に知る権利がある以上、被告らは回答する義務がある筈である。二の主張は争う。三の主張中訴の利益はないとの点は否認し、その余の事実は認める。四の主張は争う。
 被告国指定代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、答弁として、次のとおり述べた。
 原告主張の請求の原因事実中、厚生大臣が原告から、その主張の如き質問状及び督促状を受領したこと、厚生大臣が右質問状及び督促状に対し、回答していないことは認めるが、厚生大臣に右質問状及び督促状に対し回答する義務があるとする主張は争う。原告には、厚生大臣に対し、原告主張のような回答を求め得る法的根拠は何ら存在せず、厚生大臣においても、右質問状及び督促状に対し回答すべき法的義務はないから原告の本訴請求は意味がない。
 被告神奈川県訴訟代理人は、「原告の訴えを却下する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、その理由として、次とおり述べた。

一、給付の訴は、法律上の権利を有する者が、特定の権利保護を求めることを目的として提起することを許される訴であるところ、原告は如何なる権利に基づき、如何なる権利保護を求めているのかの法的根拠を示さず、従って、訴件の原因が明確でないのみならず、原告主張の如き事項につき、被告神奈川県がこれに回答すべきことを定めた法規上の根拠はない。

二、被告神奈川県は、昭和50年9月17日付知事室県民課長名義をもって、原告に対し、被告神奈川県の機関(行政事務担当者)が、原告からの質問事項に該当する行為に出たことのない旨を文書をもって回答したので、もはや訴の利益はない。

三、特別の規定のない限り、裁判所は行政庁に対し、特定の作為を命ずることは三権分立の立場から許されないところ、かかる特別の規定は存在しない。

次に本案について、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、答弁として、次のとおり述べた。
 被告神奈川県が、原告からその主張の如き、回答日期限付とする質問状を受取ったこと、及びこれに対し、期限内に回答しなかったことは認める(ただし、前記のとおり、知事室県民課長が文書をもって回答した。)が、被告神奈川県に原告主張の如き回答義務があることは争う。被告神奈川県の主張は、前記訴却下を求める理由として述べたとおりである。

     理 由

 厚生大臣が、原告からその主張の如き質問状及び督促状を受領したこと、厚生大臣が右質問状及び督促状に対し、回答をしていないことは、原告と被告国との間に争いがなく、また、被告神奈川県が、原告からその主張の如き質問状を受取ったが、期限内に回答しなかったことは、原告と被告神奈川県との間に争いがない。ところで原告が、その主張する質問状及び督促状に対し、被告らに対し、その回答を求め得るためには、法的根拠を必要とするところ、かかる規定はない。従って、被告らは、右質問状及び督促状に対し回答しなければならない法的義務を有するものではない。
 よって、原告の被告らに対する本件各請求は、いずれも失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第89条を適用して主文のとおり判決する。
          横浜地方裁判所第三民事部
                    裁判官 青山 惟通
 (別紙一〜四、質問状及び督促状は省略)
 右
は正本である。
  昭和51年1月28日
          横浜地方裁判所第三民事部
                 裁判所書記官 三浦 義昭

 

              六 節

  昭和51年(1976年)

 控訴状作成にかかった。しかし、はかどらなかった。控訴期限は2月23日であった。二週間足らずしかなかった。会社を一日休んで作成し、やっとまにあった。

 

原 審 裁 判 所 横浜地方裁判所第三民事部
同 事 件 番 号 昭和50年(ワ)第1406号
同 判 決 言 渡 昭和51年1月28日
同裁判正本送達 昭和51年2月9日
     控 訴 状
        神奈川県横浜市戸塚区笠間町七一九番地
              控 訴 人(原審原告) 沢舘 衛
        東京都千代田区霞が関一丁目一番一号
              被控訴人(原審被告) 国 
        神奈川県横浜市中区日本大通一番地
              被控訴人(原審被告) 神奈川県
     回答請求事件の控訴
 本件第一審判決は不服であるから控訴する。
     原判決の表示
  原告の請求をいずれも棄却する。
  訴訟費用は原告の負担とする。
     事実及び理由
  (省略)
     控訴の趣旨
 原判決を取り消す。
  被控訴人国は、控訴人に対し、控訴人からの質問状(別紙一)及び督促状(別紙二)について、直ちに文書で回答せよ。被控訴人神奈川県は控訴人に対し、控訴人からの質問状(別紙三)及び督促状(別紙四)について、直ちに文書で回答せよ。
 訴訟費用は第一、二審とも、被控訴人らの負担とする。
との判決を求める。

     控訴の理由

一、第一審判決は、国民の基本的人権及び知る権利を保証した、日本国憲法及び「人権に関する世界宣言」に違反した判決である。
 すなわち、もし国が国民のある特定の者たちに対して、不法にも恐るべき人権侵害行為(さらには殺人に近い行為)をやっているとし、その国民の一人が、国による自分に対する迫害を感知し、その証拠、事実をつかもうとする。しかし、国による気違いじみた妨害、押えこみのために証拠をつかむことは不可能だったとする。そこでその国民は直接国に質問する。国が自分に対して特殊な行為(人権侵害行為)をやっていたのではないか、と。
 しかし、第一審判決のように、国はこのような質問には回答する必要はないとするなら、国民の基本的人権を保障した日本国憲法は空文化してしまうことになる。

二、第一審の判決の理由には、本訴訟に第三者が控訴人に秘密で介入したことは述べられていない。しかし、第三者が介入したことは(確かな証拠はないが)十分考えられる。

     控訴人の主張

一、本控訴審にも、控訴人には秘密で第三者(たぶん国の機関)が介入するかもしれない。そして、いろいろな理由をあげて、控訴人の控訴を棄却させようとするだろう。
  たとえば、国が控訴人の質問に答えなければならなくなり、事件が表面化すると、国としては、国がこれまで長い年月にわたって控訴人を密かに調べ、丹念にかき集めたことがら(その多くはデッチあげであろうが)を明らかにせざるをえなくなる。それではかえって控訴人を傷つけることになる。だからこの控訴は棄却したほうが控訴人のためにもなるのだ、などと言って。
 しかし控訴人は、裁判官がこのような、くだらないことに耳をかさず、純粋に法に基づいて判決するよう裁判官に求める。

二、第三者が本訴訟に介入した場合は、裁判官はそのことを控訴人に秘密にすることなく、控訴人に明らかにするよう、控訴人は裁判官に求める。

三、控訴人は第一審において、はじめ、被告を厚生省とした。
  第一回口頭弁論において、裁判官が控訴人に、「被告を国にするのか、厚生省にするのか?」と聞いた。控訴人が「どちらにしていいかわからない。当然国になるなら国でもかまわない」と答えると、裁判官は「訴状どおり、厚生省としておく」と告げた。裁判官は、厚生省を相手にすることは、国を相手にすることであり、その代表者は法務大臣となるということを、控訴人に告げなかった。控訴人は後で変更申立をし、被告を厚生省から国に変更した。
 判決の後、裁判の記録を見ると、相手方からは、最初から法務大臣の名による委任状が裁判所に提出されていた。

四、第一審において、裁判官は控訴人を任意に出頭させ、昭和50年11月14日、面会した。その場で裁判官は控訴人に、「国が君の質問に回答しなければならない義務はないのではないか、それを定めた条文がない」とか、「これはむずかしい問題だ」、「君がこれを取り下げないなら、判決しなくてはならないだろうな」、「両親のもとに帰って一緒に暮らしたほうがいいんじゃないか」などと言った。

     証拠方法

 第一審摘示のとおり証拠を提出する。なお、著書「私の半生」を甲一号証とし、「訴」を甲二号証、「女」を甲三号証とする。

 右のとおり控訴を申し上げます。
  昭和51年2月23日
                 右控訴人 沢 舘 衛
  東京高等裁判所御中
  (別紙一〜四は省略)

 

 かかった費用は、印紙代5,025円、切手750円を6枚、350円を2枚、50円を10枚、20円を5枚、合計10,825円。
 事件番号は「昭和51年(ネ)第425号」。担当裁判部は第八民事部。

 ほっとして裁判所を出た。この霞が関へはこれまでに何度も足を運んできた。警視庁、法務省人権擁護局、日弁連など。しかし、そのいずれも、嫌な感じのものであった。足が地に着いていないような。
 しかし今回の東京高裁への足どりはしっかりしていた。私は自分の権利に基づき、金を納めて行動しているのだ。これまでのように、あやふやなものを頼んだり、お願いしたりして、追い返されるのとはわけが違った。

 

              七 節

  昭和51年(1976年)

 竹内氏は、私が入社したばかりの頃、仕事の内容を懇切丁寧に説明してくれた。聞いている私のほうがイライラし、くどい! と思うほどだった。ところが、数週間した頃から、仕事について教えるのをやめた。
 2月25日、私はある図面を描いていた。その図面への注記は、前の図面の注記をそっくりそのまま入れるようにと指示されていた。しかし、どう考えても関係のないものがあった。私は竹内氏にそれを確認した。すると彼は、あきれはてたように、グニュグニュ、フシャフシャ笑いこけた。その笑いは全く人をばかにしたものだった。私はどなりつけてやりたい衝動にかられた。
 3時の休み時間、私はコーヒーを買って戻って来た。竹内氏が私のドラフターの前に立って私の図面を見ていた。私は、「大体終りました」と言った。彼は「む」と答え、それから、私が図面の真中に引いた細線が、センターラインであることを示すため、「CL」と記入するのを忘れていたのを見つけた。彼はまるで鬼の首でも取ったように得意になり、私を責めまくった。
「このまえもそうだろう? このまえもそうだろう?」
 もう、あらさがしの病気にかかっているのだ。その子供じみた感情! それまでの上司、指導者といった品位をかなぐり捨て、私をこきおろす。それは、私の上に立つ者でもなく、対等の者でもない。それは私の下方から、私を突っつき落とそうとしているだけだった。釜石製鉄所での山崎に似てきた。

 2月末、気違いどもが、ひとつのパニック状態をつくろうと、また大がかりなばかおどりをやったようだ。それは、私が控訴したことへの報復でもあるだろう。会社で異様な空気がズンズン、伝わってきた。普通の人間なら参ってしまうだろうとさえ思われた。後ろの方で、ガキみたいなのが口走った。
「発狂寸前だ!」
 竹内や職場の者たちの様子を見ていて、私は準備書面を作成して裁判所に提出する必要を感じた。

 

 昭和51年(ネ)第425号
       準備書面(一)
              控 訴 人 沢舘 衛
              被控訴人 国
              被控訴人 神奈川県 
 右当事者間の回答請求事件について、控訴人は次のとおり申立をします。

一、控訴人は、控訴状の「控訴人の主張」においてもすでに述べたが、本訴訟に第三者が控訴人に秘密で介入した場合は、裁判官はそのことを控訴人に明らかにするよう、控訴人は裁判官に求める。
  控訴人をこれまで苦しめてきた「機関」は、本控訴審にも介入し、本件の本質とは関係のないようなことを並べ、本控訴を棄却させようとするだろう。
 その方法の一つをあげると、
 「機関」は、控訴人と接している者、または、控訴人を取り巻いているまわりの者たちすべてを「狂わせ」、そしてその者たちを動員して、さまざまなデッチあげや誇張でもって控訴人をめちゃくちゃ、みそくそにこきおろして大騒ぎをするというやり方がある。
 控訴人と接している者、控訴人をとりまいている者といえば、控訴人の住んでいるアパートの管理人や、同じアパートに住んでいる者たち、それに、控訴人の勤務先の者たちである。
  「機関」に「狂わされた」者たちは、もう、控訴人の良い面には一切目を向けず、そして控訴人の、ごく微細な失敗、不正を探し出しては(さらには作り上げては)、それを顕微鏡で拡大して見たように拡大して騒ぎたてる。
 控訴人は現在の勤務先には五週間ほど前に就職したばかりであるが、そこでの控訴人の雇主も、すでに2月24日か25日頃には、「機関」に都合のよい作業ができる状態にまで変えられ(狂わされ)てしまったようである。
 さらに「機関」は、控訴人と一緒に働いている者たちをも動員し、「勤務先における控訴人の様子は、どうも普通ではない、人と話をしない」などという証言を得るかもしれない。
 控訴人が勤務先で、めったに口をきかないのは事実である。しかしこれは、外部からの力によって、控訴人と、彼らとの間に正常な会話、正常な人間関係が決して成立しないような状態にされているためである。
 このような状態は、「機関」が、控訴人をとりまくすべての人間との間に、正常な人間関係が絶対に生まれないようにし、それによって、控訴人の精神内部に社会からの疎外感、断絶感、孤立感、それに不安感といったものを蓄積させ、控訴人を発狂させようとする「機関」の工作によるものである。
 控訴人は、第三者が本訴訟に介入した場合は、その事実を控訴人に告げるよう、重ねて裁判官に求める。
 また控訴人は、被控訴人国が控訴人に秘密で、右に述べたような卑劣な行為に出ることのないよう、国に求める。
 控訴人は、裁判官が事件の審理において、当事者に秘密で介入する第三者(または当事者の一方)に左右されることはないと思うし、また、このような申立を裁判官にすることは、控訴人自身、とてもばかばかしいことのように思える。
 しかし、ばかばかしいとは思いながらも、なぜか申立をせずにはいられないので、あえて申立をする。
  昭和51年3月1日
                 右控訴人 沢 舘 衛
 東京高等裁判所第八民事部 御中

 

 私をとりまく者たちが、気違いどもによって狂わされ、この世のものとは思えないような空気がただよう。が、すぐ後で、そういう彼らを戒める正しい力が、どこからか働くようであった。この準備書面を提出した翌日の3月2日もそうであった。準備書面の内容が彼らに伝わったのではないかと思われたほであった。
 ここ数日の職場の異様さが、かなり私の神経にこたえていた。それらが頭の中に蓄積され、しこりとなっていた。3月2日、その日の仕事も終り、大船駅へ着き、駅を出てからまもなく、どういうわけか頭の中のしこりが、さーっと解けて消えるのが感じられた。どうしたことだろう? それはまるで、悪い薬の効きめがその時点で切れたような感じであった。ちょっとした悪夢から覚めたようだった。そして、どうしてあのばかどもの思い通りになりかけたのだろうと不思議に思った。

 3月初めのある日、会社で午後遅く、竹内のところに、どことなく気違いじみた目つき、顔つきの男がずっと居座って、ひそひそ竹内に話しかけていた。私は7時まで残業した。その間もずっとひそひそ話は続いた。竹内はただ聞く側にまわっていた。竹内に話しかけているその男を、最初に「イヌだ」と感じたのは一週間ほど前だった。
 私が仕事に疲れ、ドラフターから体を離し、椅子の背にそり返っていると、前方から近づいて来る男がいた。しかし私は誰か近づいて来るのを感じただけで、その方は見なかった。男は私のわきへ来たとき、私のドラフターをのぞき込んだ。それは初めから意図した行為であり、通りすがり、ふと見たというものではなかった。それで、はっとしてその男の顔を見た。その目つき! とげとげしく、見る者をいらいらさせるような目。男はその目をドラフターから私へ移した。はっきり気違いイヌだと感じた。私はそしらぬ顔をしてぼんやりしていた。男は後ろの方へ通り過ぎて行った。
 この男はこの会社の者だろうか? どちらにしても、あのプロなみの狂った目つきはただごとではない。
 私は仕事を終え、帰るとき、この男の話に耳をかしている竹内のところへ行き、少し離れたところから、先に帰る旨を告げた。竹内は私を振り向いた。彼はまるで、何もわからないヒナを見るような目で私を見た。
 竹内が狂わされていくのを私はそのまま見ていられなかった。他にも言いたいことがあったが、彼はそれを避けているようだ。私は彼に手紙を書いた。

 

 毎日顔を合わせているのに、手紙でものを言うのは少し変ですが、会社へ出てもなかなか話す機会はありませんし、帰りも一緒になることは少ないので、手紙を書くことにしました。
 実は先日、労働省の失業保険課に電話をし、事業所の従業員数が五人以下で、事業主が失業保険に加入する義務がない場合、しかも、そこの従業員が失業保険に加入したい場合は、個人で加入することはできるのかと、問い合わせました。
 すると電話に出た職員の話によると、失業保険は昨年4月1日から「雇用保険」というものに変り、事業主は従業員数にかかわりなく、その雇用保険に加入しなければならないことになったということでした。そしてそのことを事業主に話してみなさいということでした。
 このようなことを私から言われることは、竹内さんにとって不快であることはよくわかりますが、私のおかれている状況からいって、どうしても失業保険(雇用保険)に加入していたいので、どうか入社時にさかのぼって加入していただけないでしょうか。
 私の特殊なたたかいは、私の一生のうちにやりおおせるかどうかわかりません。何しろこれは日本の警察も人権擁護局も日弁連も、それに他のあらゆる人権擁護機関もなしえなかったことなのですから。
 このことからいっても、私をつけまわしている者たちは、どうしても私を生かしておくことはできないのです。あるいは正常な状態でいられては困るのです。すなわち廃人にしてしまわなければならないのです。私にこのたたかいをさせておくと、しまいには彼らの楽しい仕事、職業、制度を廃止させられるようになるかもしれないのですから。これまで決して日の光にさらされることのなかった彼らの職業、制度が。
 彼らは私を始末するには何よりも、まわりの人々が私の問題を、まともな目で見ることのないようにしなければなりません。すなわち、人々の目を問題の本質から、滑稽じみたもの、愚かしげなものにそらさせなければなりません。
 彼らは私を始末するには、精神面と、物理面、それに経済面から攻めてきます。精神面では発狂へとかりたて、物理面では、機をみて毒物を投与し、また経済面では、どこからも私に金が入ってこないようにする。どうしても金が入ってくるときは、こんどはその額を少しでも少なくしようとする。
 こうして私の就職を妨害し、就職した場合は、汚物をぶっかけてそこから私を追い出させようとします。
 この意味からも、雇用保険には加入していたいのです。
 もし竹内さんにそのような力が働き、私に悪感情をお持ちになったら、どんなことがあったのかを残らず話してくださらないでしょうか。私を笑ったり、軽蔑したりするのは、それからでも遅くはないでしょう。
 竹内さんが、私をつけまわしている者たちに決して力をかすことのないよう、心からお願いいたします。何かございましたら、とにかく話合いをしてくださいますようお願いします。竹内さんが私の姿をありのまま見て、正当に評価してくださるようお願いします。

 昭和51年3月5日 午前零時
                     沢 舘 衛
  竹 内 様

 

 この手紙は土曜日には着いただろう。3月8日、月曜日、何かくすぐったいような重苦しい気分で会社へ出た。私は竹内の方を見ないようにして仕事をしていた。すると彼がやって来て言った。
「手紙届いたよ」
「あ、どうも失礼しました」
「うん、考えておくから」

 竹内は、私がどんなに真剣な態度で接しようとしても、彼はそれに応えてくれなかった。
 3月10日、孤独がかなり進んできているのを感じた。苦しかった。私のまわりには若い女の製図工が二人働いていた。男たちがガキみたいになっていくのに対し、彼女らは、私が話しかければ相手になってくれそうだったし、彼女らもそれを望んでいるようだった。しかし私は入って行けなかった。
 私は誰かと人間らしい会話をしたかった。私はカウンセラーの麻生さんに電話してみた。
 三日後の土曜日の午後、新宿の「カレー・パンドラ」という店で会うことになった。

 カウンセラーという職業は、こうして人の話を聞き、アドバイスするのが商売で、それによって生計を立てているのである。ところが私はそんなことは考えずに会ってもらったのである。全く虫のよい話である。
 麻生さんはこの日、全く別人のようだった。人間らしい暖かみはほとんど感じられなかった。私が今、国を相手に裁判で争っていると言うと、彼は、
「オホッ」と笑った。
 私はその裁判に関した書類を出して見せた。彼は読んでいった。しかし、彼の表情は少しも動かなかった。何か、味気ないものを食べているような表情。しかし、目だけは鋭かった。やがて彼は、私が具体的な事実をつかんでいないと言って私を責めだした。私は驚いた。私は麻生さんが私の味方なのか、敵方にまわった人間なのかを見極めることはできなかった。そのことはそのまま、麻生さんの心の内部の葛藤を表わしていたのかもしれない。彼は言った。
「君の問題に巻き込まれたんではたまらない。僕は妻や子を養っているんだし、もし君の問題に協力すれば、いま君が受けているような迫害の何分の一かはぼくの方へも向いてくるだろう?」
 また彼は、私のたたかいを、私の「道楽」だと言った。しかし、独り言のように言った。
「君はぼくのできないことをやっている」
 私が福祉事務所を疑っていることを話すと、彼は、
「なに? 福祉事務所? なんで福祉事務所が!」
 と言った。が、後になって、
どこかの福祉事務所の下っ端の役人が誤ったことをしたんだ
 と言った。

 私はその下っ端の役人の(名前は知らないが)顔を思い浮かべることができる。それは、私がまだ定時制高校に通っていた頃に感じとられたものであった。
 
その頃、私はまだ機関の存在を知らなかった。後年、機関の存在を知り、そのからくりも知り、過去をたどっていくと、その顔に行き当たった。
 だがこれは、私の心のレーダーによってとらえられたものであり、証拠は何もない。だから、その個人が誰なのかは、口が裂けても言えない。

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              八 節

  昭和51年(1976年)

 敵の思い通りに工作されつつあった竹内が、私に、いま私が書いている図面の現場を見に行こうと言いだした。福島原子力発電所第六号機。私は竹内を理解できなかった。
 3月23日、火曜日、4時半で仕事を切り上げ、福島へ出発した。上野から特急で四時間かかるという。私は竹内と、かなり話ができるだろうと思った。しかし、そんな雰囲気ではなかった。ほとんど話をしなかった。
 浪江という駅で降りた。寒かった。タクシーで東芝電気工事株式会社の寮へ向かった。途中、真っ暗闇の中を走っていると、タクシーの窓から夜空の星がたくさん、きれいに見えた。都会では決して見ることのできないものだった。
「わー、星がきれい!」
 そう言って私は竹内を振り向いた。すると竹内は、まるで、精神異常者が何かわけのわからないことを口走ったのでも聞いたかのように、恐れおののいた表情で私を見た。
私はうんざりした。
 寮へ着いた。部屋には先客が一人いた。いい具合に風呂があったので入った。ぬるかったが、それでも体は温まった。風呂から上がって部屋へ戻ると、竹内はすぐにふとんに入り、目を閉じた。竹内の鼻息が気になり、なかなか寝つけなかった。

 朝6時半頃、目が覚めた。竹内はふとんに腹ばいになり、たばこを吸っていた。目を閉じていた。
「おはようございます」
 私は彼に挨拶した。彼は目を閉じたまま答えなかった。
 顔を洗い、食堂で朝食をとり、7時頃、会社のバスに乗り、プレハブ造りの現場事務所へ着いた。竹内は私を残し、仕事の打合せに入った。私は何もすることがなかった。広い事務所はみんなで掃除している最中で、土埃がもうもうと舞い上がっていた。私は息を吸い込むのさえ恐ろしかった。寒かったが、近くの窓を開けた。彼らはその埃の中を平気で動きまわっていた。誰かが私の開けた窓を閉めた。
 やがて竹内と現場を見に出かけた。出かけるときヘルメットをかぶった。そのとき竹内は一番汚れたヘルメットを私に渡し、彼自身はきれいなのを取った。
 巨大なコンクリートの塊のような建物に入ると、竹内は私を案内しようとはせず、会議があるからといって、すぐに引き返した。私一人で見学し、11時半頃、事務所へ戻って来いと言った。見学するといっても、コンクリートの建物がやっと形づくられたばかりであった。何よりも寒かった。湿ったコンクリートの建物の中は、まるで冷蔵庫のようだった。外は天気がよかったが、風が冷たかった。時々雪がちらついた。灰色のコンクリートの塊をながめてもしょうがないので外へ出た。海岸の方へ下りて行ってみた。原子力発電所という現代的な施設のすぐわきには、しばらく見ることのなかった青く澄んだ海と、波が打ち寄せる砂浜があった。しかし寒くてそこにも長くはいられなかった。事務所へ戻った。内部はいくらか暖かかった。何もすることがなく、みじめな気持になった。空いている椅子に座り、メモ用紙に、昨日からのことを書きだした。

 それにしても、竹内の気持が私には理解できなかった。私にとって何の意味もない現場へ、なぜ連れて来たのだろう? 金までかけて。
 私はいつまでも事務所にいるわけにもいかず、また現場へ出かけた。しかし今度は隣の五号機の方へ行ってみた。こちらはほぼ完成していて、見ごたえがあった。原子炉の中心部へも降りて行ってみた。また、上方の階には巨大な発電機、その上方には巨大な天井走行クレーンがあった。自分で運転してみたくなった。
 昼、竹内と食堂へ行った。長い二つの列があった。
「向こうはカレーや肉丼、こっちはおそば、おれはおそば」
 私は別の列に並んだ。調理場は忙しそうに、次々に食事を出していた。これなら毒物を入れられることはないだろうと思った。
 私の前に並んでいるのが二人だけになったとき、食事を渡していたおばさんが、なぜか、並んでいる列に鋭い視線を向けた。まず私の前に立っている人間に、それから私に。その後、私はなぜか後ろを振り返った。たぶんおばさんの視線を追ったのかもしれない。私より数人後ろに並んでいた男が、列から少しはみ出し、笑いながらおばさんにうなずいてみせていた。
 私はその食事を食べたくなかった。しかし外へ出たところで、店などなかった。私は恐る恐るそれを食べた。何の異常も起こらなかった。でも、何も入れられなかったとは信じきれなかった。もしかしたら竹内は、私に毒物を投与するためだけに、私をここへ連れ出したのだろうか?
 食事を済ませた後、私はもう東京へ帰りたくなった。竹内はこれからまた3時半頃まで会議だという。私にその頃また戻って来いという。私はあの工事現場で時間をつぶすことを考えるとうんざりした。風邪をひいてしまう。
 私は現場からすぐに戻った。ここ数日間、日記をつけていなかったので、それらを思い出すままメモ用紙に書いていった。おかげでかなりのものが書けた。

 4時になっても竹内は帰って来なかった。さらに書き続けていると、やっと帰って来た。彼の表情はだらけきっていた。彼は今晩も泊まるようになるから、私一人で帰ってくれという。帰れといったって、双葉駅6時発の電車にはもう間にあわない。次の電車まではかなり時間がある。竹内は、時間はあるが、もう出かけろという。そして、私の知らないうちにタクシーを手配していた。別れるとき竹内が私にたずねた。
「明日はどうする?」
「家に着くのは12時過ぎになるので、明日は休みたい」
 夜の寒い駅で二時間も待った。そろそろ改札口が開く頃、私は少し腹がへってきているのに気がついた。そのとき、数人の男がパンを食いながら待合室へ入って来た。それを見て私もパンを買おうと思った。駅前の店でパンを買った。電車の中で食べるつもりで、それをかばんの中に入れた。
 待合室に戻ってみると、気違いじみた目つきをした男の数が増えていた。私が入って行くと、それらの目が私に注がれた。その目が語っているものは? 
 私は彼らの目から、彼らが何かにいらいらし、がっかりしているのを読みとった。
 電車に乗ってからも私は、彼らの目に現れたあの感情は何だったのだろうと考えた。
 私が知らない遠い地へ来て、しかも竹内とも別れ、一人きりになった。そして時間をもてあましている。そこで私がある行動にでることを彼らは期待したのではないのか。これまでのように、デッチあげだけでは迫力がない。動かすことのできない事実をつかもうとしたのではないか。駅のまわりに張り込んでいたが、電車が来る時刻になっても私が行動に出ない。どうもこのまま電車に乗って帰りそうだ。彼らは張り込みをやめ、駅の待合室へやって来たのではないか。そうだとすると、彼らの、くやしそうな、がっかりしたような目つきが説明できる。竹内が私をはるばる福島へ連れ出し、一人で帰らせたのは、彼らのこの計画のためだったのか? 何と次元の低い者たちだろう。

 翌日、24日、私は会社を休んだ。25日、出勤。竹内が私のところへやって来て聞いた。
「きのうは出た?」
「いや、休みました」
 竹内は何かを恥じているようだった。
 それから四日後の3月29日、竹内が私に新しい仕事を持ってきて説明した。その仕事にかかってまもなく、竹内の説明に矛盾があったので、竹内のところへ行ってたずねた。すると彼は言った。
「わざとと言っては悪いけど、わざとしたんだ
 さらにその仕事を続けていくうちに、驚くようなことがわかってきた。その仕事をするためには、多くの図面や資料が必要だった。その仕事のために竹内が私に渡したのはわずかの資料で、しかもそれはでたらめなものだった。私はあきれはててしまった。
 竹内に聞きに行った。すると彼は待っていましたとばかり、私をやっつけにかかった。私が質問していることとは、すぐ別なところへ話を持っていき、グチグチ私を責めた。そしてあいまに、
「冗談じゃねぇ!」とか「ふざけんじゃねぇ!」
 といった言葉が入った。私が何か言うと、ずっこけるしぐさまでした。さらに彼は、私が「不勉強だ」というところへ話をもっていった。私は反論した。
「こういうことは、初めに教え、説明すべきではないですか?」
「そんなことは昼休みか、家へ帰ってからやるんだ」
 私が何か言うと、もう、「ふざけんじゃねぇ!」の連発だった。
 たはっ! この人が。恥かしくないのだろうか。まわりには人々がいるのに。それとも、みんなの前で私をやっつけるのが目的か。
「ふざけんじゃねぇ!」
 そう言って私を見上げた竹内の顔に、ゲラッとした笑いが浮かんだ。私は、もう許せないと思った。
「私、ふざけてなんかいませんよ! まじめですよ!」
「ああ、おれもまじめだ」
 竹内はそう言いかけたが、私は最後まで言わせなかった。
「あんた! 上司らしくないですよ! 教えることも教えないで、あんたっ!」
 この一言で、竹内はすっかり、げしょんとしてしまった。顔を真赤にして黙り、もじもじしていた。やがて弱々しく仕事の説明をし始めた。さっきまでの威勢はどこへ行ったのだろう。おかしくなった。まるで子供だ。私は彼の説明を聞いていて、むかついてきた。

 竹内がなかなか雇用保険に加入しようとしないので、私は新宿公共職業安定所の電話番号や所在地を書いた紙切れを竹内に渡し、早く加入してくれるよう頼んだ。そのときの竹内の表情! これが大人の顔か!
 竹内は、事業所が横須賀だから、管轄は新宿ではなく、横須賀だと言った。その後、私が仕事をしていると、竹内がやって来て言った。
「うちは川崎かもしれない」
 横須賀に事業所があるのに、どうして管轄が川崎になるのか。
「沢舘君、調べてくれないか」
自分の会社がどこの職業安定所の管轄になり、その加入手続きはどうするのか、私に調べてくれという。
 私は3時の休み時間に労働省へ電話し、管轄は横須賀であることを確かめ、その所在地、電話番号を聞いた。それを竹内に告げた。すると、またやって来て、私に職業安定所へ行って手続をしてくれないかという。

 4月9日、水曜日、横須賀公共職業安定所へ出かけた。職業安定所へ行ったら、監督署へも行かねばならないと言われた。労災保険と雇用保険が一つになって労働保険というものになっているという。監督署に着くと、ちょうど昼休みに入ったところだった。1時になるのを待った。いろいろ説明を聞いて帰った。
 新宿の会社へ着いたのは3時半頃だった。竹内に報告し、もらってきた書類、説明書を渡した。
「今度は社長が来るようにと言っていましたよ」
「うん、本当ならぼくが行くべきなんだけど」

 

              九 節

  昭和51年(1976年)

 「訴その一」から「訴その七」まで、ほぼ一か月に一回の割合で発行してきたが、「訴その七」を発行してから一年間は発行していなかった。「訴その八」は、二つの裁判の記録が主であった。「解雇処分撤回請求事件」と「回答請求事件」。裁判の進行にそって少しずつガリきりをして原紙をためていた。原紙は22枚になった。250部印刷するので、用紙の枚数は5,500枚になった。それを数日がかりで印刷、製本した。一冊44ページになった。

 

  4月14日 水曜日

 県庁の議会事務局を訪ね、陳情書を提出した。それは、「県(国)による県民に対する人権侵害行為究明についての陳情」というものであった。
 事務局の職員は、私の陳情の仕方(文章)が悪いとか、陳情に対しては、「了承」か「不了承」としか答えられない。どうして不了承になったかは答えられないという。始めから不了承になることを前提にして話した。彼は同じことを何度も何度も繰り返し説明した。私はこれからも訪ねるところがあるからといってそこから逃げ出した。糞づけにされたような気分になった。
 県議会の各政党の部屋(事務所)にも陳情書の写しを配った。
「この陳情書を、今、議会事務局へ提出してきたけど、できれば請願書にしたいので、これを見て、紹介議員になってくれる人がいたらお願いしたい」と言って。
 公明党、自民党、県政会それに社会党の部屋を訪ねた。民社党の部屋のドアは閉まっていたので入らなかった。共産党の部屋へは、以前、法律相談に来たとき、めちゃくちゃに攻撃され、不快な思いをしたので、頼む気になれなかった。
 社会党へも行きづらかった。社会党には鎌倉市から出ている梅沢氏という議員がいた。以前、私が鎌倉市に住んでいた頃、何度か会って話したが、そのうち梅沢氏が「機関」に完全に工作されたのを感じ、会うのをやめていた。それに「回答請求事件」の相手方の神奈川県知事は、社会党公認だった。梅沢氏はこの日、出かけてここにはいないことは、玄関の表示板の名札で確認してあった。部屋をのぞくと、受付に女が一人いた。内部には数人しかいないようだ。足はいつのまにか、その女の前に進んでいた。説明しかけると彼女は、「待っていてください」と言って奥へ入って行った。やがて50歳位の、少し太った男の議員が出て来た。
 応接室らしいところへ通された。
「どういうこと?‥‥あんた、前にも来たことがあるんじゃないですか?」
 彼は私のことを知っていたようだ。
「いえ、梅沢さんとは個人的に会ったことはありますけど」
 陳情書を見て彼は言った。
「これを議会に陳情するのはナンセンスだ」
 彼と二時間近く話した。彼は、私に対する「機関」の行為は、「精神衛生法」に基づくものだと言い、本棚から分厚い本を持って来た。県の法令集か何かであった。彼は「精神衛生法」の部分を開き、その中から「機関」の行為の根拠を私に示そうとした。しかし、いくら探しても、「機関」の行為を保障した法はどこにも見当たらなかった。
 もともとそんなものはあるわけがない。ないからこそ、彼らは日の当たらないところでのみおどっているのである。
 彼は、私と同じ目にあっている人を、私のほかにもう一人知っていると言った。とっさに私はその人を知りたいと思った。が、なぜか教えてくれと頼まなかった。

陳情不了承

 県庁を出、検察庁の刑事事務課を訪ねた。数年ぶりのことだった。「国による、国民に対する名誉毀損行為の調査依頼状」といったものと、資料として「訴その一」から「訴その八」までを提出した。調査依頼状を読み終ると課長(?)は、
「うへっへっ!」と、黄色い声を発した。そして、
「これを〇〇のところへ」と、誰かに言いつけそうになったが、自分でどこかへ電話し、それから私に待合室で待っているようにと言った。
 しばらくして505号室へ通され、出田という検事に会った。検事は子供をあしらうように私をあしらった。
「会社はもうやめたのか? 休んでいるのか。社長が困っているだろう。出て行ってやれ」
 検察庁を出、横浜弁護士会の前を通ったが、入る気にはなれなかった。

 

              十 節

  昭和51年(1976年)

 次に、「訴その八」から、裁判の記録以外のものを引用しておく。「訴その八」の副題には、
 「まことに恐ろしいのは、気違いに刃物ではなく、気違いに権力である
 と書き添えた。

 

         「一」

 戦場(法廷)で正面から向き合ってたたかい、決着をつけるまでは、彼ら機関のほうが悪くて間違っていても官軍である。一般の人々は、悪くても官軍の言いなりになる。すなわち官軍でいるかぎり、彼らは一般の人々を狂わせ、私に対して好き放題のことをすることができる。
 彼らは、自分たちのやっていることが、私には絶対に知られないようにしながらおどっている。したがって、どんなことを言いふらしてもかまわないのである。私に知られることがなければ、私にくつがえされることもないのだから。
 彼らは私のことを、「あいつは夕べ、田んぼに入ってカエルを食っていた」と言いふらして、笑いものにすることぐらい、朝めしまえなのである。(彼らがそれを言いふらすと同時に、それを目撃した証人が、申し合わせたように、ぞろぞろ出て来るのだから面白い)。

 現在、日本(ひいては世界)は、ロッキード事件でわきたっている。しかしこれは、それほど驚くにはあたらないのではないのか。
 ロッキード事件は、金をもてあそんだだけの事件である。しかし、我が国では、人間の魂、生命をもてあそぶという、人食い人種以下のことが国によってやられているのだ。

         「二」

 精神科医の中には、精神病者を治療することもするが、精神病者をつくりだすこともする医師もいるようだ。
 何かのために、正常な人間を病人だと診断する。しかも直接本人に会うことなしに。そして、この診断をもとに、ばか力をもった者たちがばかおどりをして、その人間を本物の病人にしてしまう。
 私が血のにじむような苦しみから、どんなに真剣に真実を訴えても、ほとんど一人の例外もなく、私から顔をそむける。ある者はその顔に薄笑いを浮かべて。
 私はこうした現象を長い間見てきた。そして、彼らの心の根底に流れているのは、精神障害者に対する偏見と差別であることを知った。では私は精神障害者なのか? たぶんそういうことにされているのだろう。でなければ、少なくとも性格異常者ということに。では、誰が私を異常者と決めたのか? それを決めた人間は、はたして私より「正常」な人間なのか。

         「三」

 毒物を盛られるのを恐れ、飲食店に入ることを一切やめ、また廃人にされるのを警戒し、病院にも安心してかかれない。こんなことが今の日本にあっていいのか。それとも私はこのようなことをされてもかまわない人間なのか。もし「そうだ」と答える人があったら、それはその人が、私を精神異常者だと思い込まされているからであろう。そしてこのような考えは、「精神異常者にはどんなことをやってもかまわない」という、日本人の常識によるものであろう。
 しかし世の中には、どんなことを聞かされても、私を精神異常者だと思い込むほどばかでない人もいるかもしれない。そんな場合は、その人も始末してしまう。(この場合は一思いに)。

 私が飲食店に入ることに、ぼんやりとした不安を感じ始めたのは、今から6年近くまえの45年秋頃からであった。それは、岩手から逃れるようにして千葉へ出て来た頃であった。
 当時、何がどうなって、そうなったのかわからないが、便壺のように汚されてしまったいなかから逃れ、他県へ出た。しかし、私がその新しい地(千葉)へ着くと、すぐに私のことがその土地の人々に知れわたった。そして、そこもたちまち便壺と化した。私は、何とも形容しようのない、残忍な、人間のものとは思えない、悪魔的な心を持った者たちが私のことで動いているのを感じた。
 その者たちは、あるていど私を苦しめ、「これくらいでいいだろう」と手加減をするようなことは絶対にしないことも感じた。それは、私の存在を無にするまで続けられるであろうことを直感し、ぞっとした。
 悪魔的な笑いを浮かべ、じわじわと私を追いつめてくるその者たち。はたしてそれが何なのか? 人間だろうか? はたしてこれが、私と同じ形態をした人間のやることだろうか? 私はそのことを真剣に考えた。
 私の存在を無にする? 殺す? どうやって。いくらなんでも、刃物を持っておどりかかるようなことはしないだろう。
 デッチあげにデッチあげをついだばかおどりを展開し、私をノイローゼ、発狂へとかりたてる。しかし、それでも発狂しないほど私が鈍感な神経の持ち主である場合は、あとは毒物にたよらざるをえないだろう。
 私に密かにを投与できるのは、飲食店での食物を通してである。こうした考えが、ほとんど無意識に近い状態で、私の頭の中で形成されていき、飲食店に入ることに微かな不安を感じだした。
 私はそれとなく(しかし鋭く)店の者の様子を観察するようになった。しかし彼らの様子からは危険というほどのものは感じられなかった。私について何か聞かされていることはあっても、私の食べ物に何か入れたことから
毒物くる、彼らの心の動揺は感じられなかった。私は不安を感じながらも飲食店を利用した。同じ店に続けて入らないようにしながら。

 昭和46年、千葉から神奈川へ移り住んだ。
 49年春、とうとう不安に思っていたことが現実となった。
 49年春というと、勤務先の会社の空気がどうしようもないところまで毒され、私はもう会社を休むことを何とも思わなくなり、あちこち駆けまわっていた頃であった。
 また春といえば、気違いどもが私の頭がおかしくなったといって、いっそうのばかおどりをし、私への攻撃を強めてくる季節でもあった。私はそれをはね返すように、神奈川、東京、岩手と、駆けまわっていた。
 そこで彼らはとうとう、毒物を使用し始めたようである。

         「四」

 現在、私がとにかく就職もでき、外見上は普通の社会人として生活できているのに、どうしてこんなにまで「機関」を意識してたたかうのか、と不思議に思う人もいるかもしれない。さらには私がたたかうのは、損害賠償の銭ほしさのためだなどと結論づける人もいるかもしれない。
 しかし私のたたかいは、自分の生命を守るためのたたかいであり、巨大な悪を滅びさせるためのたたかいである。
 私がこれまでたたかってきたからこそ、現在の私が存在するだろう。私が絶え間なくたたかっていないと、気違いどもの思うままに始末されてしまう。

 彼らはいつも休みなく、私のまわりに、私を放り込むための無気味な環状の穴を掘って私にせまってくる。しかもそれを私に決して気づかれないようにして。
 本人の知らない間に(その内容を聞いたら、当の本人が誰よりもびっくりするような)デッチあげでもって、その人間のまわりに暗黒の穴を掘り続ける。その者が立っている地面がだんだん狭くなっていく。やがて、その者が立っているのに必要な地面だけが残る。すると彼らは、今度はその地面の下を少しずつ削り取っていく。そして、本人が、はっとしたときは、その穴に吸い込まれてしまう。
 私はこの穴が、私の立っているすぐ足もと近くまで掘られてきているのに気がついて、はっとしたことがこれまでに何度かあった。
 私をとりまくある者たちが、何くわぬ顔をして立ちまわっている。私は、その者たちの微妙な変化や不自然さから、その陰でやられている恐ろしい穴掘り作業を感知することができた。
 それを感知できなかった人は、何の苦もなく、その穴へ放り込まれてきたろう。(もっとも、感知できたところで、どうしようもなく、強引にその穴へ陥れられたろうが)。
 私は私のまわりに掘り進められる穴を埋めようとやっきになる。しかし、私一人の力ではとうてい埋めつくすことはできない。穴を掘り進める者たちの力は巨大である。
 私は、穴の向こう側にいる人々に救いを求める。ところがどうしたことだろう、みんな私を見てげらげら笑ったり、にたにたしたりしているだけで、誰一人として私に救いの手を差しのべてくれる者はいない。中には手を叩き、ぴょんぴょん跳びはねて喜んでいるおばさんもいる。
 この世に、自分を救ってくれる人が一人も居らず、私が気違いどもにもてあそばれ、始末されていくのをあたりまえのことのようにながめているまわりの人々。それを知ったときの私の恐ろしさ。
 このような状態が10年、20年と続けられる。その間私は、私のまわりに掘り進められてくる穴を埋めるためのたたかいにあけくれする。私が手を休めると、それだけ自分が立っている地盤が少なくなる。

 このたたかいは、苦しい、血のにじむようなたたかいである。このまま発狂してしまうのではないかと恐ろしくなったことがこれまでに何度かあった。
 力つきそうになったとき、私は自分自身に問うた。
『じゃ、おまえはこのまま、うじ虫のえじきになってしまうのか?』
『そんなばかな!』
 私はそれを打ち消した。

         「五」

 「機関」は、私をとりまく人々に実際の私とは似ても似つかない虚像を植えつけ、その人々が私に対して、もうどんなことをやってもかまわないと思える心理状態に導いていく。
 私をとりまくすべての人々が、そのような心理状態になると、その人々を利用して、さらに大がかりなデッチあげをし、私をあるところへ運び去ることができる。

 また、私をとりまく者たちにえさを与えて狂わせ、その者たちに私を評価させる。そこから浮かび上がるのは、当然、私の狂った人間像である。精神科の御用医師はなんのことはない、この「評価」に基づいて判断するのである。

 私を発狂させるか、あるいは経済的にどん底へ落とし込むか、または毒物によって始末することに成功したとき、誰一人として自分たちのやったことに対して、非難の目を向けることのないようにしておかねばならない。すべての人々がそのとき、「ざまぁみろ!」といって、私を笑える状態にしておかねばならない。
 彼ら機関に完全に狂わされた人間には、もうどんなことを言ってみても、やってみせても無駄である。狂わされた人間の頭の中にあるのは、ただもう、何がなんでも私をやっつけたい、破滅させたいという考え、衝動だけである。それを実行するためには、恥も外聞もあったものではない。
 私はなんとかしてその人を正気に戻そうと試みる。しかし、かえって逆効果である。自分が間違っていることを知らされれば知らされるほど、その人はますます狂う。そして、めったやたらに両手を振りまわし、手あたりしだいのものを私めがけて投げつける。
 この段階にまで狂わされた人を見るたびに、つくづく思い知らされる言葉がある。
「ばかにつける薬はない」
 同時に、人間という生き物に恐ろしさを感ずる。どうしてこんなにまで狂わされることができるのだろう?
 この段階にまで狂わされるのは、私とごく身近なつながりをもたねばならない人々である。私はこの人々を気の毒に思う。

         「六」

 私を陥れるために、何か巨大な、悪魔的な力が働いているのを感じ始めた頃、私は同時に、それとは逆の力、私をその悪の手から守ろうとする力も働いているのを感じた。 
 私を苦しめているのは、福祉事務所 ─ 国と大体見当つくが、私を守るために動いているのは誰なのかわからなかった。
 とにかく、それが誰であるにせよ、私を守ってくれようとするなら、どうして私に悪の正体を教えてくれないのだろう。決着をつけるまでは、「機関」は決してあきらめることなく私にたかりつくのであるから。
 この「良い力」がなかったら、私はとっくに「機関」によって、強引に始末されていたかもしれない。

         「七」

 日本のみなさん、このような恐ろしい、そして愚かしい「制度」を明るみに引き出し、廃止させようではありませんか。何ものをもってしても代えることのできない人間の魂、生命が、日本のあちこちで、報道機関にも人権擁護機関にも取り上げられることなく、人食い人種以下の気違いじみた者たちによってもてあそばれ、恐ろしい苦しみを味わわされたうえ、破滅させられていっているのです。

 (以上「訴その八」より─ 昭和51年4月13日発行)

 

             十 一 節

  昭和51年(1976年)

 4月16日、横浜地方裁判所から通知がきた。「解雇処分撤回請求事件」の判決は、4月20日の予定であったが、6月15日に延期するというものであった。その通知書の日付は4月14日であった。4月14日というと、私が「訴その八」を配り始めた日でああった。「訴その八」には、その裁判の経過をのせてあった。


 会社での竹内の態度は、がまんできないところまできていた。それで、私のまわりで図面を書いている者たちに、「訴その八」を配った。この日から一週間ほど、竹内はすっかりおとなしくなった。

 4月28日、水曜日、私は会社を休み、あちこち訪ねた。
 日弁連人権擁護委員会を訪ね、「訴その八」を渡した。これまで会っていた福島という職員ではなく、別の職員が私の相手をした。彼は初めから私を突っぱねた。
「厚生省がやっていた? 厚生省があんたにそのようにして何の得がある! 厚生省の誰がやっているのか、ちゃんと言ってもらわねば調べようがない。我々に調べてくれっていったって、厚生省に働いている人だっていっぱいいるんだ。その人たちを一人づつ聞いていくのはとてもできない。それに同一の件で二度申し立てはできない」

 次に法務省人権擁護局へ。出て来た職員に「訴その八」を渡すと、その職員は私にたずねた。
「これについて、何か返事をする必要はありますか」
「取り上げる場合は、そのことを返事してほしい」

 4月27日、竹内が私のところへやって来て、東芝電気工事(株)からの支払形態が時給になったので、私の給料も時給にしたいと言ってきた。そして、
「これくらいで、どう?」
 そう言って、紙切れに「600」と書いて見せた。時給600円ということだろう。少ないと思ったが、この竹内とは日常の会話もしたくないのに、金のことで言い争う気になれなかった。それにこの先、長くいる会社でもない。私はうなずいてみせた。竹内はすぐに自分の席へ戻った。しばらくしてまたやって来た。「覚書」と称するものを私の前に出した。時給600円で契約するということが書いてあった。私があきれてそれに見入っていると、竹内はみるみる不思議な顔つきになっていった。まるで、私からの反撃に身構えているようだった。その表情を見ていたら、何かばかばかしくなってきた。私は一言、「交通費は?」と聞いた。すると、交通費もこの600円の中に入っているという。そして、さらに愚かしげな表情を浮かべて身構えた。
「いいでしょう」
 私は答えた。計算してみると、月2万円近い減給になった。竹内は晴ればれした表情をしていた。そして、椅子から立ち上がったとみると、まるでマラソンでもするような格好で、両手を胸の両脇に構え、ひょいひょいと、飛び跳ねるようにして自分の席から離れた。私は視界の隅で竹内の姿を追った。彼は私の後ろの方に、ひとかたまりになっている者たちのところへやって来た。その中には、ふだんそこに見かけることのない顔ぶれの男が数人交じっていた。竹内はその中の一人に何かささやいた。そしてすぐに自分の席に戻った。そのあと、その群れの中から、「ふっ」と鼻で笑うのが聞こえてきた。

 私はそのとき、一時間残業を終え、まわりを整理していた。その時、私の顔に不意にあざけりの笑いがこみあげた。竹内のみにくいやり方と、その言いなりになろうとしている自分に対して。
 会社を出、『これは認められない』と思った。
 私は「申入書」なる文書を作成し、三日後の4月30日、竹内に渡した。竹内は一瞬、何事かという顔をし、読みかけたが、たいしたことない思ったらしく、それを四つに折りにたたんでポケットへ突っ込んだ。
 私は竹内がそれを全部読み終ったときの、彼の反応が見たかった。彼はそのまま外出してしまった。
 この夜、アパートの家主が私に電話だと言ってきた。竹内からだった。
「はい、沢舘ですけど」
「ああ、むしむしい(もしもし)、沢舘君? 竹内です。あれ読んでみたけど、どういう意味なの?」
 猫なで声で言った。私も静かに説明した。しかし竹内は次第にいきりたった。そうして、
「バカヤロー! オメェ何言ってんだ! なに子供みたいなことを言ってんだ! ふざけんじゃねえ!」
 この連発であった。竹内が怒り狂えば狂うほど、私は冷静になり、それをながめて楽しむほどの余裕があった。
「いやー、竹内さんずいぶんひどい言葉を使いますねぇ、まるでチンピラみたい」
「あたりまえだっ!」
 そうして彼は私の計算はおかしい。減給にはならないんだと言って、電話で何か計算式をくりひろげた。さらに彼は、私が「申入書」の最後につけ加えた文章が気にさわったらしい。
「どうしてこんなことを書くんだ! 金のことばかり書けばいいじゃないか! どうしてこんな、後に残るようなことをするんだ! 何でこんなわけのわからないことを書くんだ!」
 竹内は、その文章を読み上げようとしたが、舌がもつれて言葉にならなかった。
 私は申入書の最後に、次のように書いておいた。

「竹内さんと私は、いがみあうことはないのです。竹内さんと私がいがみあうのを見て喜ぶのは、私をつけまわしている者たちだけなのです。彼らは、竹内さんと私がいがみあうのを陰からながめて、ほくそえんでいるのです。」

 この、年下の人間に言い聞かせるような調子が、彼には面白くなかったのだ。
「おめぇ、誰に向かって言っているんだ、ええ? 誰に向かって言っているんだ、この言葉づかいは! 人を見てものを言え!」さらに、「おめぇ、役所に行く、行くと言って休んでいるが、本当に行ってんのか? それはいつ終ることなんだ?」
「一生かかるかもしれません」
「それをやったからといって、どうにかなるとでも思ってんのか!」
 そして、私の「申入書」を誰かに見せてもいいのか、と尋ねた。私は意外に思った。それを公表されて困るのは竹内のほうではないのか。
「ああ、いいですよ。なんなら私のほうで公表しますよ」

 翌日の5月1日から5日までは連休だった。
 5月8日、土曜日、竹内がやって来て、私の後ろで図面を探していた。私は話しかけた。
「このまえの話はどうなっていますか? 給料のこと」
 竹内の顔が、さっと固くなった。そして言った。
「午後話し合おう」
 この日は土曜日で、仕事は正午までであった。私は午後、寄るところがあるからと言って断った。それから、いつか機をみて言ってやろうと思っていたことを言った。
「このまえの電話、すごかったですねぇ。私びっくりしましたよ」
 竹内は「てへー!」といった笑いを浮かべ、二度ほど私を振り返った。まわりの者たちは静まり返っていた。
「私が誰かにあんなことを言ったら、すぐに精神病院へ連れて行かれますよ」
 私の前の席で図面を書いていた女が、びっくりしたように席を離れた。
 私はこれを言うときも、言った後も竹内を見なかった。竹内は何も言わなかった。

 私はこれまでに、「機関」に狂わせられた人間が、際限なくその愚劣さ、破廉恥さを発揮するのを見てきた。こういった人を見ると私は不思議な気持になる。大がかりな脳手術を受け、脳の構造を変えられてしまったのではないか、と思うことがある。(このころ、私はまだ「マインド・コントロール」という言葉を知らなかった)。

 11時半頃、書き終えた図面を竹内のところへ持って行った。
「あの話、簡単に決めてしまいたいんですが」
 そう言うと竹内は、今から喫茶店へ行って話そうと言った。このビルの地下の喫茶店へ行った。
 竹内は、私の計算による時間給は認めたものの、交通費は出そうとしなかった。
「交通費を出しても、どうせそれは税金に取られてしまうんだ」
 と、わけのわからないことを言った。
 私は竹内の顔に現れる笑いを見るとき、その笑いを通して竹内の心の中をすべて覗き見るような気がした。
笑いはその人のすべてを表わす」といったことを、ドストェフスキーが何かの小説の中で言っているのを、ずっとまえ読んだ。それを読んだとき、私もすでにそのことを感じていたので、さらにドストェフスキーに親しみをおぼえた。
 社長一人、社員一人という形態で、その社長は「機関」に工作され、私に対して賃金その他で屈辱的なことをしてくる。しかしそんな社長と言い合いをするのは苦痛だ。

 私はこの地区の組合に個人で加入することはできないかと考え、4月末、この地区の組合協議会を訪ね、議長の飛鳥井氏に会って相談していた。そして、私の問題の資料も渡し、協力をお願いした。
 彼は、私の人権問題に関しては、「代々木総合法律事務所」というところを教えてくれ、そこへ相談してみることをすすめた。
 5月10日、午後、仕事をしていると、竹内が弱々しい声で、「さわだてさん」と呼んだ。私に電話だという。誰からだろう? どこからも私に電話がくる心あたりたりはなかったので戸惑った。組合協議会の飛鳥井氏からだった。組合加入の件を頼んでいたのに対する返事だった。
 なんということだ! 私の行動に対して応答があるとは。しかも協力的だった。個人加入の方法や組合費、書記長との連絡方法などを教えてくれた。それから私の給料の件も、彼自身や、区労協議長などと話し合おうと言った。
「そのほうはあるていど解決したんですけど」
 私は答えた。すると彼は一時間あたりいくらになった、と尋ねた。竹内がそばにいるので私は答えられなかった。あとで公衆電話から報告した。保険関係のことも話した。

 私が主張して竹内に認めさせた金額は日記に記されていないのでわからないが、竹内の示した額に毛が生えたていどだったろう。飛鳥井氏からみれば、それは話にならないほど低いものだった。最後に飛鳥井氏は、
「じゃ、がんばってね」と言ってくれた。
 何日かして、飛鳥井氏から教えてもらった代々木総合法律事務所を訪ねた。飯田氏という弁護士が私の相手をしてくれた。裁判の記録をのせた「訴その八」を渡した。彼はそれにざっと目を通して言った。
「この訴えは九十九パーセント負ける」
 私が何を言っても、「それでもだめだ」と言った。とにかく「訴その八」を置いて帰った。

 

             十 二 節

  昭和51年(1976年)

 4月21日、「回答請求事件」の相手方、神奈川県から答弁書が送られてきた。一方、私は5月5日、準備書面(二)を提出した。しかしこれは相手からの答弁書に対するものではなかった。まずは県の答弁書から。

 

昭和51年(ネ)第425号
    答 弁 書
              控 訴 人 沢舘 衛
              被控訴人 神奈川県
右当事者間の回答請求控訴事件につき、次のとおり陳述する。
 昭和51年4月22日
        
被控訴人神奈川県代理人 山下 卯吉
東京高等裁判所
 第八民事部 御中
       記
第一、控訴の趣旨について
  本件控訴を棄却する
    訴訟費用は、第一、二審とも控訴人の負担とする
 との判決を求める。

第二、控訴の理由について
  被控訴人の答弁の趣旨は、原判決事実摘示のとおりである。

 

 次は私の準備書面

昭和51年(ネ)第425号
              控 訴 人 沢舘 衛
              被控訴人 国
              被控訴人 神奈川県
 昭和51年5月5日
              右控訴人 沢舘 衛
 東京高等裁判所第八民事部御中
     準備書面(二)
 控訴人を苦しめてきた「機関」は、控訴人には秘密で、あちこち官公署及び人権擁護機関に介入し、自分たち「機関」の行為を合法化させているようなので、控訴人はそのことについて、次のとおり陳述する。
 控訴人が考察するに、「機関」の行為は精神衛生法に基づいたものと思われる。そして、「機関」というのは、厚生省と、精神衛生審議会及び精神衛生審査協議会であり、これらのもとで知事、福祉事務所、保健所などが動いていたものと推察する。
 しかし、それらの機関がやってきたことが精神衛生法に基づいたものとされているなら、これは大きなまちがいである。それらの機関がやってきたことは、精神衛生法で定められていることとは、およそ正反対のことばかりである。
 精神衛生法の第一条(目的)には、「この法律は、精神障害者等の医療及び保護を行ない、且つ、その発生の予防に努めることによって国民の精神的健康の保持及び向上を図ることを目的とする」とある。
 しかし機関は健康な人間を精神異常者にデッチあげ、同時に、その人間を実際に発狂させようとしてやっきになっている。
 また同法第50条の2(秘密の保持)には、「精神衛生鑑定医、精神病院の管理者、精神衛生審査協議会の委員、第43条の規定により、都道府県知事若しくは保健所を設置する市の長が指定した医師又は、これらの職にあった者が、この法律の規定に基づく職務の執行に関して知りえた人の秘密をもらしたときは一年以下の懲役又は3万円以下の罰金に処する」とある。だが彼ら機関は、知りえたその人の秘密を大々的に言いふらし、その人をわらいものにし、社会から孤立させ、その人をノイローゼ、発狂へとかりたてようとしている。
 一方、この法には、当人(例えば控訴人)のことで、当人に秘密で活動しなければならないという秘密主義はどこにも規定されていない。
 控訴人を苦しめてきた機関の行為が、精神衛生法に基づくものとされ、合法化されているとしたなら、これははなはだしい誤謬である。彼ら機関が、これまで控訴人に対してなしてきた行為は、精神衛生法を隠れみのにした、恐るべき狂乱である。

 

 この準備書面の中で、私は「機関」の正体として、「厚生省と、精神衛生審議会及び精神衛生審査協議会であり、これらのもとで知事、福祉事務所、保健所などが動いていたものと推察する」と述べたが、後で、この推察は間違っていることがわかった。「機関」はそんな生やさしいものではなかった。

 この控訴審の口頭弁論が、5月20日、木曜日、東京高裁民事第四号法廷で開かれた。私はこの口頭弁論で、控訴状の、「被控訴人らは、控訴人の質問に直ちに回答せよ」の「直ちに」を、「判決確定後、一週間以内に」と変更する旨、申し出た。
 口頭弁論はこの一回で終り、判決は6月29日、午後1時と告げられた。
 この口頭弁論の当日、相手方の国からの答弁書を受けとった。答弁書には、「東京法務局」の名入りの用紙が使われていた。

 

昭和51年(ネ)第425号
             控 訴 人 沢 舘  衛
             被控訴人 国 外一名
 昭和51年5月20日
             被控訴人指定代理人
                  高橋 郁夫
                  玉山 一男
東京高等裁判所第八民事部 御中
      答 弁 書
   控訴の趣旨に対する答弁
 被控訴人国に対する本件控訴を棄却する。
 控訴費用は控訴人の負担とする。
との判決を求める。
     答弁の理由
 被控訴人国の事実及び法律上の主張は原判決事実摘示のとおりであり、原判決は正当であるから、本件控訴は棄却されるべきである。
     付属書類
一、指定書 一通

 


 判決当日、私は裁判所へ出頭しなかった。7月3日、判決が送達されてきた。

 


昭和51年(ネ)第425号
  (原審・横浜地方裁判所昭和50年(ワ)第1406号)
       判  決
           神奈川県横浜市戸塚区笠間町七一九番地
               控訴人       沢舘  衛
               被控訴人      国
                右代表者法務大臣   稲葉  修
                右指定代理人     高橋 郁夫
                同          竹沢雅二郎
                同          玉山 一男
               被控訴人      神奈川県
                右表者知事      長洲 一二
                右指定代理人弁護士  山下 卯吉
                右指定代理人     長尾 崇次
                同          土江  光
 右当事者間の回答請求事件について、当裁判所は次のとおり判決する。
     主 文
  本件控訴を棄却する。
  控訴費用は控訴人の負担とする。
     事実及び理由
 控訴人は「原判決を取消す。控訴人に対し、被控訴人国は控訴人からの原判決添付別紙一記載の質問状及び同二記載の督促状について、被控訴人神奈川県は控訴人からの同三記載の質問状及び同四記載の督促状について、判決確定後一週間以内にそれぞれ文書で回答せよ。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」との判決を求め、被控訴人らの各指定代理人はいずれも控訴棄却の判決を求めた。
 当事者双方の事実上・法律上の主張は、被控訴人神奈川県の指定代理人において本案前の申立て及び主張を撤回したほかは原判決事実摘示と同一であるからこれをここに引用する。
 当裁判所の認定・判断も原判決理由説示と同一であるからこれをここに引用する。
 してみれば、控訴人の本訴請求は理由がなく、これを棄却した原判決は相当であって、本件控訴は理由がない。よって、本件控訴を棄却することとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法95条、89条を適用して主文のとおり判決する。
       東京高等裁判所第八民事部
             裁判長裁判官 室伏壮一郎
                裁判官 三井 哲夫
                裁判官 河本 誠之
 右は正本である。
  昭和51年6月29日
      東京高等裁判所第八民事部
             裁判所書記官 前村 慎一

 

 これは上告する。同じ結果が出ることがわかっていても、上告する必要がある。最高裁にこの件を棄却させるために。少し高くつくが仕方がない。

 

 


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