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  第二編

  第十章 大学病院 精神科へ

一節 (大学病院 精神科へ)   二節 (「解雇処分撤回請求事件」判決)   三節 (日弁連へ申立て)   四節 「訴その9」   五節 (「回答請求事件」上告   六節 (いなかへ 4)   七節 (上告理由書   八節 (横浜地検)   九節   十節 「訴その10」   十一節   十二節 (県議会への陳情、不了承) (亡命?)

 

              一 節

  昭和51年(1976年)

 どうも、私が精神異常者である、ということが根強く働いているらしい。当の本人にしてみれば、全くばかばかしいことであるが、日本の社会ではそれが揺るがすことのできない事実として通用するらしい。
 私は日本の精神医学の最高権威者によって、私があたりまえの人間であることを証明してもらう必要を感じた。
 私は、日本精神神経学会なるものが存在することを知り、電話した。そして、妨害に耳をかさず、ありのままの私を鑑定してくれる医師を数人紹介してほしい、と頼んだ。すると、ここではそんなことはしていないという。代表者(理事長)の名前をたずねた。東大病院分院神経科の平井医師だという。
 5月1日、平井医師に電話、精神鑑定をお願いした。
 以下は会話の内容。傍線を境にして、その前後関係は不確か。まず、医師の答えから。


「それはわたしにはできません。わたしは精神鑑定医の資格はないから。鑑定医は、都や県の精神衛生センターへ行けばいますよ。ふつうの病院の中にもいますよ」
「でもそういうところへ行って鑑定してもらおうと思っても、そういうところは、すぐに押え込まれてしまいますから」
「そこまで考えたんじゃ、もうどうしようもないですな」
   ───────────────
「では、精神鑑定ということではなく、診断してもらえませんか。私はこれまで精神異常者扱いされてきました。私は、自分の精神のどこが異常なのかを知りたいんです」
「あんたは自分で自分を異常と思っていないんでしょう? ぼくはそんな人はみない。ぼくは自分で異常を感じて治してもらいに来る人だけみる」
「精神病者で、自分が病気だと自覚する人は少ないでしょう」
「いや、そんなことはないですよ。ちゃんと自分で言ってくる人もありますよ」
   ───────────────
「ぼくは診断しても、証明書は書きませんよ」
「はあ? そうですか」
   ───────────────
「とにかく、今日うかがった内容はひきうけられません。以上です」
 ガチャン、電話が切られた。

 私はこの電話を公衆電話からしたのだが、このことがすぐに職場の者たちに知れているのを、彼らのたわごとから感じとった。

 私は会社の近く(新宿)に大学病院はないかと、地図を見て探した。慶応義塾大学病院があった。
 5月21日、金曜日、会社に出社するまえに病院へ寄った。
 まず、若い医師によって予診が行われた。私はそこで簡単に説明した。
「私、20年近くにわたって、まわりの人々から頭がおかしいの、ノイローゼだの、精神分裂病だのと言われ、落ち着いて生活もできないんです。ある会社では、精神分裂病らしいと言って解雇されたこともあります」
 それから少しずつ「機関」のことにふれていった。

 予診が終り、しばらく廊下で待たされた。やがて呼び入れられたが、まだ診察室の外。待っていると、さっき私の予診をした医師を含む、数人の若い医師が一つの診察室から出て来て、その隣の診察室へ入った。そのとき私は、予診をした医師の顔に、ただならぬ動揺を見てとった。
 何だろう? もしかしたら、「機関」が入り込んで、強引に何かおっ始めようとしているのではないか? 私は気持を引きしめた。もしもの場合はどうしようか?
 やがて数人の医師が入って行ったその診察室へ私が呼び入れられた。中には五人の医師がいた。その真中にいた、他の医師たちより少し年長の、落ち着きのある医師の前に座らされた。若い医師たちは、診察室の中に分散した。私は四方から囲まれる状態になった。
「機関というのは何だと思いますか?」
 医師が私に尋ねた。
「厚生省と、その下にある機関でしょう。福祉事務所、保健所など」
「‥‥裁判で争っているということですが、精神科へ行って診断を受けることについては弁護士のすすめによるものですか?」
「いいえ、私、弁護士なしでやっていますから。‥‥弁護士を頼みたくても、弁護士にはもう手がまわっているらしく、どこでも同じ調子ではねつけられます」
「どこか、よそを訪ねてみました? こういうことで」
「いいえ」
「ここが初めて?」
「はい」
「どうしてここを選びました?」
「どこか、町の病院へ行っても、私をつけまわしている者たちに押え込まれ、その者たちに都合のよい診断結果を出しますよ。そういう力を受けつけないところを選んだつもりなんですけど」

 この問診が終り、別の部屋で筆記による検査が行なわれた。
 検査は、体の状態を調べるもの、書きかけの文章を完成させるもの、それにもう一つは、何か性格テストのようなものだった。
 検査には時間がかかった。文章を完成させる問題は量が多かった。
 検査室を出るとき、私はこれまでに発行した印刷物を一式提出した。それらを机の上に置くと、
「あ、本にされたんですか」
 医師たちはその上に顔を寄せた。

 会社に着いたのは午後4時だった。
「どうも遅くなりました」
 私は竹内に声をかけた。彼は私を見上げ、うんざりしたように、
「ああ」とだけ答えた。
 私は自分の席へ着いた。事務所内の雰囲気が変だった。異様な生ぬるさ。何かあったのか? 後ろの方で一人の男が、竹内の方に向かって大きな声で言った。
「とうとう失業したのか!」
 この男はよくこの種のたわごとを口走った。おかげで私は「機関」の動きを知ることができた。私がここで働いている間、この男は次のようなことを口走った。
「食わねば死ぬし、食えばあぶないし、困ったものだ」
「長生きされては困る」
「生きていること自体が危険だ」
「この秋までもつだろうか」

 5月24日、病院へ電話した。私はこの次いつ病院へ行くべきかわからなかった。するといつでも何か心配があったら来なさいと言われた。このまえの検査の結果が出るのには二週間位かかるという。それから、このまえ私と話した医師は星先生だということも知った。今度の木曜日がその医師の担当だという。

 5月27日、木曜日、病院へ行った。
 会社へは普通に出社し、10時に出て3時に帰った。9時45分、竹内のところへ行って、外出することを告げた。
「あの、竹内さん、病院へ行ってきたいんですけど」
「あ、たいへんだね」
「10時に出ますので」
「どこか悪いの?」
「ええ、頭が悪いらしいんです」
 私はまじめに答えた。そのとき竹内の顔に現れた驚きと動揺。まわりには仕事をしている者たちがいた。私は自分の席に戻り、吹き出しそうになるのをやっとこらえた。

 小雨の中を病院へ行った。診察室へ呼び入れられた。が、このまえの医師ではなかった。沢医師という若い医師だった。医師は私のカルテに目を通し始めた。何か長々と書いてあった。私は医師にたずねた。
「あの、星先生が担当じゃなかったんですか?」
 彼は少しびっくりしたように、
「あ、星先生のところへ来たのね? うんじゃ星先生のほうへ」
 そしてまた診察室の外で待たされた。すると星医師が別の診察室から出て来て、「トホ」というような笑いを浮かべて、さっき私が呼び入れられた診察室へ入って行った。しばらくして私は星医師の診察室へ呼び入れられた。彼は笑って立っていた。そして私に言った。
「数人の医師にみてもらったほうがいいんじゃないかな。自分は自分で考えを述べたけど。それで今日は別の医師にみてもらったほうがよいのでは」
 それから、私がこのまえ渡した本は、今、一人の医師が読んでいるという。私は別の医師にみてもらうことを認めた。さらに私は医師に言った。
「それから、薬はあったほうが良さそうなんですけど、精神安定剤かなんか」
「うん、わたしもそう思う」
 医師は言った。
「毎日は必要ないんですけど、ときどき‥‥」
 診察室にいた看護婦が明るく笑っていた。

 また廊下で待たされ、再び沢医師のところに呼ばれた。長いこと話した。彼は、今日、診ただけでは分裂病かどうかは言えない。でも今日、会ってみた限りでは分裂病とは思えない。分裂病というのは、もっと生活が乱れているものだ、と言った。

 薬局で薬ができるのを待った。薬局内は外からは見えなかった。薬を渡す窓口がほんの少し開いているだけだった。しかし、あまり心配しないで待っていた。しばらくして、異様な雰囲気の中年の男が、私の前方を左から右へ歩いて行った。私たちの前方を通るとき、男は私たちの方へ顔を向け、かすかにうなずいた。私はその男の顔を見た瞬間、ただごとならぬものを感じた。
 男は帽子をかぶっていた。背が高く、頭をまっすぐ上げ、平然と歩いていた。その表情は、『おれたちには、怖いものは何もない、どんなものでも好きなように料理できるんだ』と言っているようだった。
 私はその男を目で追った。壁際の椅子まで行って、そこに置いてあった小さなかばんを取り上げた。そこにかばんを置いて、どこかへ行って来たのだろう。男は座らず、後ろの方へ行き、そこの長椅子の上に、かばんを放り出した。ずっと間をおいて座っていた人が思わず腰を浮かせ、横ずさった。男はそこに腰を下ろした。
 男はどこへ行ってきたのだろう? 薬局の内部へ行ってきたのではないのか? 男がやって来た方向に、薬局へ通じる出入り口があるのだろうか。私は気になって見に行った。あった。薬局の受付を曲がったところにドアがあった。嫌なものを感じた。しかしその男の様子から、もし男が内部で何かを申し出たとしても、それは受け付けられなかったのだろうと感じた。

 二週間後の6月10日、このまえの検査の結果が出たというので病院へ出かけた。どんな結果が出ているか心配だった。心配といっても、検査が外部からの力に干渉されずに、ありのままに判断されたのなら、少しも心配はないのだが。
 このまえと同じ沢医師だった。彼は検査結果を見ていた。私は彼にお願いしてそれを見せてもらった。心配していたことはなかった。そこには次のようなことが書かれていた。
「情緒もあり、字も几帳面である。しかし、「組織」がどうのこうのというのは、パラノイアといえば言える。また、家族が当人に毒を盛ろうとしていると思っているが、これは被毒妄想か」
 薬は飲んでいるか、と医師が私に尋ねた。飲んでいないと答えると医師は、
「病気ではないんだから、苦しくなければ飲む必要はないだろう」
 と言った。そのうち、ロールシャッハ検査を行なうが、まだ日程はわからないという。
 数日後、病院から電話があり、ロールシャッハ検査を15日午後3時から行なうという連絡があった。

 6月15日、火曜日、午後、会社から病院へ出かけた。この日は「解雇処分撤回請求事件」の判決日になっていたが、もともとそっちへは行く気はなかった。
 ロールシャッハ検査とはどういうものかを私は本で知っていた。それを私が受けることに興味があった。なにしろ、どんな検査をされても、問題となるような異常は決して出てこないことを私自身よく知っていたから。
 ただ、ロールシャッハを担当した医師の様子が変だった。「機関」の力が働いているのを感じた。
 この医師は私の精神が異常かどうか結論を出せないと言った。「機関」が実在し、そのようなことをやっていることが事実だとわかるまでは、私の言っていることが、異常さゆえのことかどうかわからないという。
 私はこの医師と話していて、右の耳に変調をきたした。これは不自然な会話を続けているときに生ずる症状であった。

 ロールシャッハの検査結果を聞きに病院へ行ったかどうかは、日記に記されていない。ただ、検査全般に対する診断書は、7月8日付で発行してもらっている。

 

      診 断 書
                 沢 舘 衛 殿
一、病名 パラノイアの疑い
 付記 当院神経科には本年5月21日初診で以後四回通院しているが、その間の面接及びSCT、YG、ロールシャッハ検査より総合的に判断して、分裂病との断定は難しい。むしろ頭記パラノイア的機制の関与を思わせる。
 右診断致します。
  昭和51年7月8日
       東京都新宿区信濃町三十五番地
              慶応義塾大学病院
                         医師 沢 温

 

 パラノイアの定義は「広辞苑」によると、「体系だった妄想を抱く精神病。偏執病」となっている。
 この診断書には、パラノイアと思われる根拠については何も語られていないが、私は病院で医師の話を聞いたり、カルテを見せてもらったりしている。それによると、私が「機関」がどうのこうのと、異常なほどこだわっていることが、パラノイア的だということであった。
 確かに、私にうじ虫のようにたかりつき、私を苦しめている「機関」が実在しないなら、私は疑いのないパラノイアである。

 

              二 節

  昭和51年(1976年)

 「解雇処分撤回請求事件」の判決が、6月15日に言い渡されることになっていたが、私は行かなかった。二日後の9月7日、判決が送達されてきた。

 

 ( 裁判書類の原本はすべて縦書き。「右代表者」などの「右」は「上」、「左」は「下」と読み替えてください。)

   昭和50年(ワ)第1309号解雇処分撤回請求事件
      判 決
             横浜市戸塚区笠間町七一九番地
                原 告  沢 舘 衛
             川崎市川崎区旭町一丁目○○番
                被 告  株式会社ヤマナカ
                右
代表者代表取締役   山中正一
                右
訴訟代理人弁護士   平田 達
                同           久笠康裕
     主 文
  原告の請求をいずれも棄却する。
  訴訟費用は原告の負担とする。

     事 実
(
省略 ─ 原告と被告のやりとりを列挙したもので、とても長い)

     理 由

第一、雇用契約の成立と解雇通知

一、原告が昭和50年5月6日、被告のクレーン運転要員として雇用された事実、そして、以後原告が被告の横浜工場で天井走行クレーン、ジブクレーンの運転に従事していた事実は、当事者間に争いがない。

第二、合意解約の主張について

原告が昭和50年8月28日被告から解雇予告手当を受領した事実については当事者間に争いがない。しかし、原告主張のような録音テープであることに争いのない検甲第一号によれば、原告が、右予告手当の受領の際、被告の労務担当者の従業員である訴外赤城春芳に対し、右受領によって解雇を承認するものではない旨を告げ、赤城もこれを了承している事実を認めることができ、右事実に照らせば、前記解雇予告手当受領の事実によっても合意解約の成立を推認することはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

第三、就業規則に基づく解雇について

一、解雇に至る経緯

成立に争いのない乙第三号証、職歴欄及び参考欄のメモ部分以外の部分の成立については争いがなく右メモ部分については証人赤城春芳の証言によって成立を認める乙第五号証、証人杉江啓之助、同赤城春芳及び原告本人の供述(後記採用しない部分を除く。)を総合すれば、次のとおり事実を認めることができ、原告本人の供述中右認定に反する部分は同認定に供した各証拠に照らしてこれを採用することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

 (一) 原告が勤務した前記横浜工場では、くず鉄、スクラップ車等をシュレッダーを用いて粉砕するのを主たる業務としており、このため、800坪の工場に、天井走行クレーン一基(地上約17メートルの高さにあり、10トンのマグネットを上下して、屑鉄の積み降ろしを行う。)とジブクレーン一基(天井走行クレーンよりは低い位置にあり、スクラップ車を専門に積み降ろしする。)を備え、顧客が自動車で運び込むくず鉄、スクラップ車の積み降ろしを行っているが、右作業の間、荷を搬入してきた自動車の運転者は運転席に留まっているため、もしクレーン操作を誤れば、右運転者の生命身体にも危険を及ぼす恐れがあるものである。

 (二) 原告は、被告に入社の後、約三か月間は天井走行クレーン、その後、解雇通知のなされるまではジブクレーンの運転作業に従事した。しかし、原告は、昭和50年6月ごろ、天井走行クレーンの操作中にその操作を誤って一トントラック車のボディのアオリを損壊したことがあり、又ジブクレーンの操作に際して投げ落とすような操作もみられたが(以上の事実は当事者間に争いがない。)、そのほかにも、天井走行クレーン操作の際に、マグネットの操作を誤って、トラック運転席の後部窓ガラスを破損したこともあり、又ジブクレーン操作中に、その操作を誤り、数回にわたり、一旦つり上げたスクラップ車を落下させたり、クレーン周辺のはしご、パイプ等を破損するなどの事故を起こしたことがあった(以上の事実は原告の自認するところである。)そのため、被告は、顧客から、クレーンの運転手を交替させるよう申入れを受けていた。

 (三) 被告に就職するまでの原告の職歴は、昭和35年4月から同45年4月までは富士製鉄株式会社に勤務したが、その後四回にわたり、長い所で一か月、短い所は五日という短期間の転職を繰り返し、昭和47年7月から同49年7月までは中山電機製作所(仮名)に勤務していたというものである。原告はこの間に、ある国家機関が原告の優秀性をねたみ、その生活を妨げるために、就職先に手を回して同所における原告の人間関係を悪化させ、原告を人間扱いしないようにさせて、結局退職せざるを得なくし、さらに、原告が新たな職場を求めて就職に努めても、そこにも手を回して就職を妨害していると考えるようになった。そこで、原告は、警察、法務省人権擁護局、弁護士会等へ赴き、調査を求めたが、もともと満足できる回答は得られなかった。
 原告は、被告に入社後も、暫く経つと、被告にも機関の手が回ったと考えるようになり、所得税を納めなければ、遂には財産の差押を受け、裁判所に差押停止を申し立てることにより、裁判の経過で、陰で動く機関の正体が明らかにされるのではないかと思考するに至った。

 (四) かくて原告は、昭和50年8月26日、被告の横浜工場経理事務担当者に対し、「8月分以降の給料から所得税を引かないで欲しい。」と申入れた。(以上の事実は当事者間に争いがない。)。右事務担当者の訴外杉江啓之助は、原告に対しその理由を書面をもって明らかにするよう求めるとともに、被告本社にあてて、右申入れの事実を連絡した。被告本社では、原告の以前の職場に照会を行った結果、原告には精神分裂病と疑われる精神の異常があるとの回答を得た。

 (五) 原告は、翌8月27日、杉江に対し、「お願い」と題する書面を提出し、再度所得税を控除しないよう求めたが、その理由としては、「ある事情から」と記するのみで、これを明示することがなかった。右のような文書提出を受けて、被告本社では、労務担当の前記赤城により事情聴取を行うこととし、同人は、同日午後、被告の横浜工場長高橋某とともに、原告に面接したが、原告は赤城の問いに対し、かえって「税金は何に使われるのか。」等と反問し、また、「私の払った税金を使ってある機関が私を監視している。」等と答えるので、赤城は、詳しく調査することを断念した。

 (六) 被告本社は、赤城の報告を受け、原告の精神には異常があると判断し、同27日、原告の作業内容に照らし、クレーン操作中に原告が精神の異常から何らかの事故を起こしては人命にも係わるとの考慮のもとに、原告を被告就業規則42条3号、7号に則り、翌28日付で解雇することを決定した。

二、就業規則の定め

被告の就業規則42条に、「会社は社員が次の各号の一に該当するときは解雇する。」との規定があり、同条3号には、「身体精神に故障があり勤務に堪えられなくなったとき、但し業務上の傷病に基づく場合はこの限りではない。」との、同条7号には、「その他前号に準ずる理由があるとき。」との各規定がある事実は、当事者間に争いがない。

三、解雇の相当性

そこで、右一、二の事実に基づいて、前記第一の二の解雇の意思表示の効力の有無を検討する。

右一の(二)ないし(五)に認定した事実に弁論の全趣旨を併せ考えれば、原告の精神に尋常ならざるところがあると容易に推認することができる。しかるに、原告の職種は前記第一の一のとおりクレーンの運転要員であり、かつ、その作業現場には右一の(一)に認定のとおりクレーンの誤操作により重大な危険の生ずる場所であって、しかも右一の(二)に認定のとおり原告には被告に入社以来短期間に頻回の事故歴があるから、これらの事実を併せ較量すれば、前記一の(六)に認定の、原告の精神に異常があり勤務に堪えられず、かつその事由が前記被告の就業規則42条3号に準ずる場合として同条7号に該当するとの被告の判断は、もとより相当であり首肯しうるものであるといわざるをえない。

第四、結論

以上のとおり、被告のした解雇の意思表示は有効であるから、その余の点につき判断するまでもなく、原告の本訴請求はいずれも失当である。よってこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法89条を適用して、主文のとおり判決する。

         横浜地方裁判所第六民事部
              裁判長裁判官 中田 四郎
                 裁判官 江田 五月
                 裁判官 清水  篤
 右は正本である。
  昭和51年6月15日
         横浜地方裁判所第六民事部
               裁判所書記官 廣川 勇

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 私はこの判決を読んでいくうちに、むかついてきた。人間という生き物全体が嫌になるような‥‥。
 それを畳の上に放り出し、夕飯をとった。もうそんな判決のことはすぐに忘れた。食べ終って、ふとその判決が目に入ったとき、私は思わず「ゲラッ!」と吹き出してしまった。
 しかし、ひとつ、まじめな気持で興味をおぼえたことがあった。『はたして、この判決を書いた裁判官は恥かしさを感じなかっただろうか?』
 いや、恥かしがることはないんだ。恥かしく思わなくてもすむように、世の中の人々のほうを変えてくれる者たちがいるのだから。日の当たらない下水道を駆け回って暗躍している者たちが。

 私の精神に異常がある云々はさておき、私には「入社以来短期間に頻回の事故歴があった」というが、これは相対的に見てのことなのか。何に比べて頻回なのか。また、仕事のミスは、その仕事に慣れるまでの短期間に起こるものではないのか。また、人命にかかわるのなんのといって騒いでいるが、私の運転で、かすり傷ひとつでも負った人間がいるのか。
 また判決の中には、「ある国家機関が原告の優秀性をねたみ」とあるが、いつ私が自分を優秀だなどと言ったろう。私が優秀な人間だったら、今頃、弁護士か裁判官になっていたろう。
 それにしても、この裁判官たち、裁判官をしているよりは、精神病院を開業したほうが成功するのではないかしら。
 この事件はこれでおしまい。控訴はしない。最後まで争っても、これと似たような判決が出るだろう。何かもうアホらしくなった。

 

              三 節

  昭和51年(1976年)

 6月初めから、また、関節、筋肉に鈍い痛みを感じている。朝、起き上がるとき、足首に疲労のような痛みを感じ、一気に立てない。日中はすねから膝にかけて鈍い痛み。足の骨が芯からもろくなるような感じ。それから、すねからももにかけての皮膚がむずがゆい。足全体がだるく、歩くと、体重のかかる足の裏も痛い。
 これは毒物によるものであることを、私は経験で知っている。しかし、ここ数か月間、毒物を盛られる機会はなかったはずである。会社での弁当も、大丈夫とは思いながらも、あまりとらないようにし、外へ出て、店から自分の手で選んで買ったものだけ食べていた。 昼休み時間、乳酸飲料販売のおばさんが事務所へまわって来て、時々買って飲んだことがあるが、おばさんからは少しも不自然さを感じなかった。ただ、それを買うとき、少し離れた席から竹内が奇妙な表情を浮かべてながめていたことが二度あり、気になっていた。
 それとも、アパートの部屋へ何者かが侵入したのか? しかし、部屋へ誰か入ればわかるように工夫していた。誰か入ったことがわかったときは、部屋に置いてあった食べ物、調味料は捨てていた。

 このころ、ちょうど慶応義塾大学病院の精神神経科にかかっていたので、同病院の整形外科へ行ってみてもらった。
 医師は毒物については頭からとりあってくれなかった。あたりまえであろう。そんなことがこの世にあってたまるか。手足のレントゲン写真をとり、血液もとった。
 一週間後の6月29日、再び整形外科へ。この日の医師は、年配の名医のような感じを受けた。しかし、もう一人、えたいの知れない男が医師のそばに座り、時々ものすごい表情で、ニキャッと笑って医師を見ていた。
 レントゲンには異常はないという。血液は血沈を見ただけだが、それも異常はないという。私はまた毒物の話をし、その背景を簡単に説明した。現在、精神神経科にもかかっており、そちらへは詳しく説明してあることを告げた。医師はもう一度血液を調べてみようと言った。
 一週間ほどしてまた訪ねた。「異常ない」という。さらに医師は言った。
別の面で治すんですね」

 

  6月7日 月曜日

 会社を休んで、横浜地検、神奈川県警、日弁連、それに法務省人権擁護局を歩きまわった。
 午後1時、まず横浜地検へ。待合室へ入り、出田検事への面会を求めた。まもなく呼ばれた。部屋へ入って行くと検事は立っていた。私に座れと言わなかった。そして私にたずねた。
「何のことで来たの?」
「このまえ(二か月前)調査申立てしたのについて‥‥、その後どうなっているのかと思って」
「あんたそれは検察庁にまかせておかなければ‥‥、そうやって来られても‥‥、ロッキード事件だって検察庁にまかせているだろう」
「ええ、今日はちょっと、こっちへ出て来たんで、ついでに寄ってみたんです。その後どうなっているかと思って」
「どうなっているかって‥‥、そんなこと知らせるわけにはいかないよ」
「だって私、申立てした本人なんですよ。私が申立てしたことを調査しているのか、それとも初めから全然相手にしていないのか、それだけでも知りたいんです」
「全然相手にしていないかどうかなんてこと、知らされないよ。通知があるまで待ってなさいよ」
 このとき、机の上の電話が鳴った。彼は電話に出、それから、
「通知するまで待っていなさいよ。ぼくはこれから上の人に呼ばれているから」
 部屋を出て行こうとする彼に私は問いかけた。
「十年でも何十年でも、通知があるまで待っていなければなりませんか?」
「そんなことはわからない!」
 彼はドアの外へ姿を消した。私はその部屋の人たちに、「どうも」とひとこと言ってそこを出た。彼らはしっかりした声で、「あ、どうも」と答えた。そのことがせめてもの救いであった。

 次に県警を訪ねた。「訴その八」を持って行った。石川氏は定年退職したといっていなかった。菅井氏と話した。この部屋の空気はかなり改まっていて、紳士的であった。

 そこを出て東京へ。まず日弁連を訪ねた。担当の福島氏は外出していなかった。一人の職員が私を椅子に座らせた。そのとき彼は、「ゲラッ」と笑った。そして彼はそのまま部屋を出て行った。少し離れたところで電話に出ていた職員が、電話が終り、私のところへやって来た。何を話してもだめなのを感じた。
 彼は同一の件で二度申立てすることはできないと言った。しかし、最初に申し立てたとき、彼らは調査することなしに、「そのようなことはありえない。妄想だ」といって不採用にしたのである。

 このような問答の後、彼は言った。
「じゃ、文書で申し立てなさい」
 しかし彼は、申し立てたところで、どうにもならないだろうと言った。私も言った。
「ええ、どうにもならないでしょう。なにしろこの問題は、今の日本の制度では無理なそうですから」
 私と職員が話していると、五十歳くらいのやせた男が異様な目つきで入って来た。彼は私の右後ろに陣どった。
 職員は、私との会話が途切れたとき、立ち上がってその男の方へ近づいた。近づきながら彼は、
「先生」
 と、こびるように呼びかけた。彼らは向かい合ったが、言葉は交さなかった。

 日弁連を出、法務省人権擁護局へ。
 玄関で守衛に取次ぎを頼んだ。守衛は電話で調査課と連絡をとり、私に告げた。
「向こうで、来いと言っている。五階だよ」
 前に来たときは、もっと下の階だったが、部屋が変ったのか。
 五階へ行ってみたがそんな部屋はない。四階へ降りてみたがそこにもなかった。そのとき後ろから中年の女が近づいて来た。その女にたずねた。
「調査課は何階ですか?」
 女は五階だと答えた。そして、以前は四階だったが、五階へ移ったという。さらにその部屋はエレベーターの後ろだという。
 行ってみると、五階のエレベーターの後ろはうす汚い流し場であった。あの女、イヌか! 調査課もグルか! 五階で会った男に聞くと三階だという。
 調査課の部屋へ入って行くと、このまえ「訴その八」を渡した職員が、私を苦しそうに見上げ、そのまますぐに目を落とした。別の若い男が私を一階、守衛室の後ろの部屋へ連れ戻した。
 この男、田平といった。話していて私は、この男の頭の上から熱湯をぶっかけ、正気づかせてやりたい衝動にかられた。私の提出した書類について彼は次のように言った。
 客観的に見て真ぴょう性に乏しい。書く気になればどんなことでも書ける。真ぴょう性を確かめていてはきりがない。人員、費用がかかる。調査のための電話は、電話代がかかるからしない。軽々しく調査はできない。調べられる相手にも人権はあるんだから、逆に人権を傷つけることになる。
 私は彼の言葉を、彼の目の前でメモしていた。すると彼は、「念のため」と言って、そのメモを私から受け取り、平然とそれを書き写していた。
 まるで、心を糞づけにされたような思いでそこを出た。すると、イヌらしい男が出口に立っていた。私はずっと歩いて角を曲がるとき、振り返ってみると、その男はじっと私を睨んでいた。

 7月9日、日弁連に文書による申立をした。

 

    人権侵犯救済申立書

 これまで度々そちらと交渉してきているため、人権侵犯内容を詳細に説明することはさけます。
 ここに新たな資料「訴その九」を提出します。「訴その一」から「訴その八」までは提出済みです。
 以前、申立したときは、「そのようなことはありえない」ということで不採用になりました。
 これまで提出しました「訴その一」から「訴その九」までの資料は、申立のような人権侵犯がやられている可能性を十分に証明しているものと考えます。
 しかし、そちらの職員の方とのこれまでの交渉からいって、不採用になるだろうことは予想しています。不採用になさるときは、その理由を簡単でいいですからお知らせくださいますようお願いします。
 昭和51年7月9日
                申立人 沢 舘 衛
 日本弁護士連合会 人権擁護委員会 御中

 

              四 節

  昭和51年(1976年)

 日弁連に持参した「訴その九」は発行したばかりものだった。
 
「訴その九」には、回答請求事件の判決(東京高裁)と、解雇処分撤回請求事件の判決のほか、次のことものせた。

 

         「一」

 日本の政治云々といったところで、私にはそれは、ガキ大将の一声でどうにでも好きなように変えられる、子供の遊びごとのように思えてきてならない。

         「二」

 私は「訴その七」で、ソルジェニーツィンに関したことで、いろいろ言った。その中で私は、「もしロシヤ革命の後、政権を握った人たちがみな、マルクスやレーニンと同等の人たちだったら、このような悲しいできごとは起こらなかったろうし、その体制はソルジェニーツィンの理想と一致するものであったろう」と述べた。しかし、彼の「収容所群島」を読みすすむにつれ、彼の矛先はレーニンその人にも向けられていることを知った。意外であった。
 私はレーニンのものはほとんど読んでいない。しかし、ソルジェニーツィンを通してみると、レーニンもずいぶん恐ろしいことを言っている。

         「三」

 ここ10年ほどの間に、私は病院に何度かかかった。風邪、腹痛、その他で。病院にかかるたびに、私は病院の雰囲気に不審を感じた。具合が悪いのに治療しようとしないこともあった。それを見て私は初め、これは医師のところへ、私をつけまわしている者たちがやって来て、さんざんばかげたこと言い聞かせ、医師に、私を治療する気をなくさせたのではないかと考えた。
 しかし、さらに病院へ行くなかで、医師はそればかりではなく、私という人間は、そのうちこの世から抹殺されてしまう人間だから、治療しても無駄だと思い込まされたのではないか、と考えた。
 しかし、「機関」の性格が明らかになってくるにつれ、その考えもしっくりしなくなってきた。医師は「機関」から、私を治療するかわりに、廃人にしてやるようにと持ち込まれたのではないのか。しかし、良心ある正常な医師にはそんなことはできない。だが「機関」は例の執拗さでくいさがる。そこで医師は治療もそこそこに私を病院から締め出すのではないのか。
 さらに病院にかかる中で、また別のことが見えてきた。(これは「機関」の動きの変化にもよるものであろう)。
 病院内に、「機関」に工作された看護婦がいるのではないのか?あるいは「機関」から派遣された看護婦が入っていて、医師がいくらちゃんとした処方をしても、その看護婦が処方とは全然別の治療をするのではないのか? 医師以上の力をもって。私の感じたところでは、医師はそのことを知っているようである。しかし医師にはそれをどうすることもできないようだ。
 また、毒物によるものではないかと思われる不審な症状で病院へ行き、調べてもらっても、そこからはもとより、異常は一切出てこない。

         「四」

 私が彼ら機関の攻撃に対抗するためには、会社勤めなど一切やめ、そのうえ、私の分身が何千もあり、活動資金が何百億円あっても足りないくらいである。彼らにはそのどちらも無尽蔵に備わっている。
 私が就職も思うようにできず、就職できても十分な賃金も得られず、ぎりぎりの生活をしながらたたかい、そのたたかいのために、月に数日会社を休む、するとその欠勤が私を攻撃する材料になり、「こいつは勤めもこのありさまだ、救ってやるには及ばない」ということになる。そして、しまいには、「生かしておいても、しょうがない」ということになる。

 私が昭和45年春、釜石製鉄所をやめてからこれまでの6年余りの間に就職できたのは、合計して3年ほどしかない。その内訳は次のとおりである。

45年10月        10日間
46年1月         5日間
同年3月         6日間
同年3月〜4月      30日間
47年7月〜49年7月         2年間
50年5月〜8月      4か月間
同年11月〜12月     1か月間
51年1月〜現在     6か月間

 このうちの二か所からは、なんらの支払いもなかった。またあっても、その額は約束の額より大幅に下まわるものであった。またあるところでは、まるで子供をだますような手で私の賃金を減らそうとした。私がそのでたらめさを静かに指摘すると、相手は気が狂ったようにわめき出した。
 約束どおりの金を払い、そのうえ、ちゃんと定期的に昇給してくれたのは中山電機だけだった。それに二年間も働くことができた。
 私は「訴その一」で、中山社長のことを手ひどく非難した。しかし今になってみると、私がこれまで転々としてきた中で、中山社長が一番、「機関」の力をはねのけて私を自分の会社に置いてくれた社長であった。

         「五」

 私とごく身近な関係をもたなければならない人々が、特に完全に狂わされてしまうということは、前号の「訴その八」で述べた。身近な人々といえば(私の肉親たちはいうまでもなく)、私の行く先々、就職先での雇主や上司、同僚、それに同じアパートに住む者たちである。
 とくに就職先での雇主には本当にうんざりさせられる。この人たちが陰でどんなことを言って私をこきおろしているかは、私には手に取るようにわかる。
 しかし、どこの雇主も私に対し、「あんたのことで、どこからも何も言ってきていないし、また、あんたのことをよそへ悪く言い伝えるようなことはしていない」と言う。
 私から見ると子供のようにしか見えない雇主たちのこきおろしが、世の中で立派に通用するという事実は本当に驚きである。
 私は雇主たちが、「そんなことはやっていない」という、その行為をくつがえしにかかる。だがこの作業には本当にむかつく。この作業は何の得にもならない。糞を体から払いのけるだけで、私が人間的に成長するわけでもない。またそんなことをしていたら、一生かかってやってもまにあわない。きりがない。次から次へとそのようなお膳立てがやられるのであるから。
 だがこの作業をやらないと、糞が私の体にひっついたままになる。そして、「こんな汚物はこの世から消してしまえ」ということになる。どうしてもこの糞を払い落とさなければならない。次から次へとおっかぶせられる糞を。
 だがこうした私の努力のかいもなく、雇主たちはどこでも、全く同じ「公式」にあてはめられたように同じ段階をたどって変化していく。といっても、完全に同じではない。その人がどのていどばかか、どのていど利口かでいくらかの差がある。ばかな人ほど工作されやすいようである。
 おどりに巻き込まれた雇主たちは、しまいには気違い様たちの狂気がそのまま乗り移ったのではないかと思われるほどになる。こうなるともう、その目つき、顔つきがすっかり変ってしまい、別人のようになってしまう。皮膚の色具合、質まで違って見えてくることもある。その顔には破壊を楽しむ表情が現れる。そして、私の問題の進展に敏感に反応し、その精神は「極度に不安定な状態」になる。だから私はその人の目を見、声を聞くと、私の問題が陰でどのようになっているか、とか、気違い様たちの動きといったものが、手に取るようにわかる。

 雇主らが私を刺激してくる、その手口は、私の人格を完全に踏みにじり、桁外れに私を侮辱する行為である。
 もし他の誰かが私の立場に置かれたらどうだろう。行く先々でこんな目にあい、それを追求しても何の手がかりも得られず、さらに苦しい立場に追い込まれていくとしたら、その人はどうするだろう。おそらく鉄道に爆弾を仕掛けるか、あるいは、爆弾が手に入らないときは、爆弾を仕掛けたといういたずら電話で世の中を騒がせ、腹いせするくらいのことはするだろう。そのことは彼らがよく知っている。知っているからこそ、そのようなことをやらせようとしてやっきになっているのだ。
 私は現在のところへ就職できたときも、私は最大の努力をして雇主と私の間が悪化するのを食い止めようとした。仕事を一生懸命やり、そして残業しても残業手当がつかないのに、毎日のように遅くまで残業した。話し合う機会も持つようつとめた。
 だがそのかいもなく、最悪の状態になったとき、私はもう一切の努力を捨ててしまった。私のほうから雇主を避けるようになった。私は雇主に頼んだ。
「何か問題があったら、陰にまわって私をこきおろすようなことはしないで、直接私に言ってくれませんか」
 それに対し、雇主は、
「そんなことは一切してないよ」と言い、さらに、「ぼくはそんなことをするような悪い人じゃないよ」と言った。

         「六」

 気違い様たちの毒牙にかかった人々は、いずれもその人の本性を現す。それまで上辺をつくろっていたものをすべてかなぐり捨て、私に向かって歯をむく。このような人々を私はこれまでに数多く見てきた。
 それがどんな人でも、気違い様たちの毒がまわったとき、その顔にどんな表情が浮かぶかを容易に想像することができる。街角などで、選挙にたつ立派な人々の顔写真を見ても、いつのまにかその顔に、例の愚かな表情を思い浮かべてしまっている。
 彼ら機関は、表面に出ないところでのみ、何ゆえにこんなにまで熱を上げるのかと不思議になるほど、ヤッサモッサと休みなくおどっている。(もっとも、それが彼らの仕事だからであろうが)。
 彼らがそうやって、ヤッサモッサしなければ、何の波も起こらず、すべてが順調に流れていくものを‥‥。
 私を取り巻くすべての人々を巻き込み、狂わせ、ワッセ! ワッセ! おどっているのを見ると、あまりのおかしさに私は思わず笑いだすことがある。あきれかえってしまう。彼らのやっていることは、私から見ると、まるで煙を網で捕えようとしておどり狂っているようにしか見えない。しかも国をあげて。彼らは煙に何かを加えたら網で捕えられるようになるかもしれないと思い、さまざまなことを試みているが、たぶん失敗に終るだろう。
 だが彼らのやることを笑ってばかりいられない。彼らのその執拗さ、執念深さ。放っておくと私の心身、生命が危なくなる。そこで私は、「こんなことが私に対してやられている!」と社会に向かって叫ぶ。
 私の訴えに同調しそうな人がいると、彼らはこんどはその人に寄ってたかり、その人の頭をかきまわし、そうして、その人に、彼らの行為は正当で立派なものであると思い込ませる。場合によっては金の力を借りて。
 私はときどき本当に不思議に思うことがある。私は生まれてこのかた、何か悪いことをしただろうか? 人を傷つけたり、人をだましたり、または絶大な迷惑を誰かにかけたことがあるだろうか? 私から被害をこうむった人がこの世に(あの世にも)一人でもいるだろうか? いたらお目にかかりたい。

 
(しかし、「機関」とのたたかいの過程で、私の印刷物で傷つけられた人々は除くことにする。なぜなら、彼らのばかおどりがなければ、私もそのようなことはしなかったのだから)。

 私のために、国をあげてこんなにもばかおどりをするところをみると、私はよほどとんでもないことをやったにちがいない。いったいこの男、何をやったのだろう?
 私が何をしたのか、私もぜひ(金を払ってでも)知りたい。もっとも、それを知ろうとして、すでに裁判にかなりの金をかけているが。

 私から見ると、彼ら機関のやっていることは、けつの穴のわきに生えた毛の一本分の値しかない。しかしこれで、日本のすべての人、すべての組織が変えられ、押さえ込まれる。
 たしかに何かが狂っている!
 もちろん中には、「狂っているのはおまえの頭だ」と言う人もいるでしょう。まあ、それならそれでもいいでしょう。なぜって、この愚かな現象が、私一人の頭が狂っているがゆえのものであるなら、まだ救いようがありますからね。

         「七」

 次は最近の私の日記からである。

 

 6月18日 金曜日

 近くの風呂は休みなので、笠間十字路まで出かけた。
 体を洗いながら思いにふけっていた。何が人々を押え込んでいるのか? 人々に暗い影を落としているのは何か?
 もちろん私はそれを知っている。
 ふと、それを明らかにすべき時がきているのではないかと考えた。が、すぐに「いや、おれにはできない!」と否定した。そんなことをするのは、自分の心を汚すように思えてならない。そんな言いわけ、弁解をするには、あまりにも私の心はそのものからかけ離れている。金(ゴールド)が、鉄屑や、アルミの破片その他に向かって、「おれは糞ではない!」と言い、それを証明するためにあくせくするようなものである。そんなことをするのは、私の自尊心が許さない。
 では黙っているか。それとも、ごくわずかの人々 ─ それを話しても自分をあまり苦しめずにすむ人々だけに話すか?
 しかし‥‥しかし、もし私を完全に信じてくれている人、あるいは信じたいと思っている人なら、そのわだかまりを私に示して問いただすずである。だが、誰もそんなことはしなかった。その人々は、その点に関しては私に確かめるまでもなく、私を疑っているのだ。私に直接問いただすには、あまりにもその人々は汚れてしまっているのだ。
 これまででさえ、全くばかげきったことをも、私に問いただすことはせず、私を疑い、笑っていたではないか。そう思うと、ごく数人の人にだけでも、という考えは消え失せた。
  (中略)
 ところで私が、人々に暗い影を落としている「それ」を明らかにすべきではないか、と言ったのは、ほかでもない、「それ」が気違いども、糞どもの考えている次元とは全く正反対の次元から現れたものであるということである。

 
「それ」を見て、こんなにまでもさわぎたてたとすると、彼ら気違いたちは、私の「それ」に、彼ら自身の姿を映し出して、これはとんでもないことだ! と思ったのだ。それはほかでもない、彼ら自身がとんでもない、ことを証明するものである。私は「それ」に、彼らの次元の見方があろうとは夢にも思わなかったのである。彼らが「それ」をどのように受けとり、さわいでいるかを知って、初めて私は、そのような汚らわしい次元があることを知り得たのだ。

 そして、「それ」が気違いたちのすべてのばかおどりの原動力になっている。
 また「それ」は、私の人並み外れた感受性とは切り離すことのできないものであった。
 ただ「それ」が、ゴキブリやうじ虫の耳に入ったということが、私の運の悪さであった。あとはもう、その一点にだけ目を据えた、ゴキブリやうじ虫どものばかおどりが待っているだけであった。

 

 この日記を書いた翌日、ドストェフスキーの「作家の日記」を読んでいると、次の箇所が震えるような共感とともに私の胸に響いてきた。

 わたしは自分で自分を汚さないために、この点から自己「弁解」に触れるのさえ望まない‥‥
   
(河出書房新社 ドストェフスキー全集「作家の日記」より)

 

 現在私は、ある大学病院の精神神経科で、診断と検査を受けているが、どうも私の頭はばかおどりに値するほど狂っていないようである。
 まだ最終的な結果は出ていないが、少なくとも精神分裂病ではないという。(これは、精神分裂病についての正しい知識をいくらかなりとも持っている人なら、当然の判断であろう)。
 (以上「訴その九」より ─ 昭和51年7月10日発行)

 

              五 節

  昭和51年(1976年)

 7月16日、「回答請求事件」を最高裁に上告した。

 

 ( 裁判書類の原本はすべて縦書き。「右代表者」などの「右」は「上」、「左」は「下」と読み替えてください。)

 

上 告 状

         神奈川県横浜市戸塚区笠間町七一九番地
              上 告 人     沢舘  衛

         東京都千代田区霞が関一丁目一番一号
              被 上 告 人        国
              
右代表者法務大臣    稲葉  修
              右
指定代理人      高橋 郁夫
              同           竹沢雅二郎
              同           玉山 一男

         神奈川県横浜市中区日本大通一番地
              被 上 告 人       神奈川県
              右代表者知事      長洲 一二
              右指定代理人弁護士   山下 卯吉
              右指定代理人      長尾 崇二
              同           土江  光

     回答請求上告事件

左記第二審判決は不服であるから上告する。

     第二審判決の表示

東京高等裁判所昭和51年(ネ)第425号事件

     主 文

 本件控訴を棄却する。

 控訴費用は控訴人の負担とする。

  昭和51年6月29日   判決言渡
  昭和51年7月 3日  判決正本受領

     上告の趣旨

 原判決全部を破棄する旨の判決を求める。

     上告の理由

 追って上告理由書をもって明らかにする。

  昭和51年7月16日
                右上告人 沢 舘 衛
  最高裁判所 御中

 

 7月22日、「上告受理通知書」が最高裁から送達されてきた。上告理由書を作成しなければならない。

 

              六 節

  昭和51年(1976年)

 NHK交響楽団の演奏会を毎月一回聴きに行くほか、ソ連からやってきた、「アレクサンドル・歌と踊りのアンサンブル」(赤軍合唱団)や、バレー「白鳥の湖」を観たり聴いたりしている。

 むかし、いなかの家や、会社の寮で、それらのレコードを聴いて感激していた頃の自分を思い出した。それらのレコードやステレオ装置は、いなかの家に置いてきた。

 これまでは引越の繰り返しで、荷物を増やせなかった。しかし少し落ち着いてみると、それらのレコードやステレオ装置を手元に置き、聴きたい時、いつでも聴けたらいいなと思った。会社の夏休みを利用して、それらを取りに行こうと思った。あの肉親らと顔を合わすのは苦痛であるが。

 

  7月29日 木曜日

 朝、岩手へ向けて出発した。肉親らには、私が行くことを一切知らせなかった。
 数年前、岩手に帰ったとき、電車内にまで気違いどものイヌがつきまとい、私が席をしばらく離れ、戻って来ると、まわりの人々の様子が一変しているということがあったが、今回それがなかった。
 数年前に帰ったときと異なり、私の心の持ち方は大きく異なっていた。あの頃は泥沼から、急な斜面を這い上がろうともがいていた。苦しかった。が、今はその斜面を一段登りつめ、なだらかなところへたどりついたような気分だった。帰ってから、是が非でもこうしなければならないという気持はない。ただステレオなどを取りに行くだけだ。そして、ついでに「訴その九」をあちこちへ配り、話をし、そこから様々な動きを感じとるだけである。
 肉親たちとはもう何も話すまい。話すこともない。彼らには「訴」も送っていない。
 花巻で釜石線に乗り換えた。そこからは普通列車で、古いディーゼル車。でも、窓の外の景色が私の心を楽しませてくれた。子供の頃よく歩きまわったような田んぼのあぜ道、小川などなど。空気も澄んできて、遠くの山々がくっきり見えてきた。
 むかし、普通に接していた自然が、新鮮なものとして映った。駅で乗り降りする田舎の人々、懐かしい東北弁。かぶと虫の幼虫をつかまえて、ビニール袋に入れて乗って来る小さな子供たち。素朴な女生徒たち。
 二時間ほどで釜石に着いた。ここで山田線に乗り換えるのだが、しばらく待ち合わせ時間があった。私は釜石駅の外へ出た。すぐ目の前に製鉄所がそびえている。駅前のベンチに腰かけ、駅へ来る人々をながめていた。5時を過ぎて、製鉄所で働いている人たちが帰って来た。本当に土くさい感じの人々である。なかには見覚えのある顔もあった。
 7年前まで、私もこの人たちと一緒に、巨大な製鉄所に吸い込まれ、この時刻頃になると吐き出されていたのだ。この人たちは、私が向こうへ出て、大きなたたかいをし、釜鉄時代のことを、くすんだ遠い過去のことのように思っていた間も、ずっとこうして釜鉄構内に通い続けていたのだ。ほとんど何の変化もなしに。
 時計を見ると5時十数分であった。7,8年前、この時刻になると、いつも彼女が駅の向こうからやって来て、駅前を通り過ぎ、大渡町の方へ帰って行った。そして、猫の子を捨てるように私を捨て、あとで悲しんでいた彼女。私はその方を見やり、彼女との再会を思い浮かべたりした。

 やがて、三両編成のディーゼル車で大槌へ。駅から家までは歩いて数分である。家に近づくにつれ、変だなと思った。家並みが大きく変っていた。むかし見なれた家はそこにはなかった。しかも、すぐ隣の家が無くなり、大きな空間ができていた。あまり変化のない向かい側の家並みをながめ、そこから私の家の向かいにあたる家を探し、それからその反対側を見た。それが私の探していた家なのだ。そこには見たこともない新しい家が建っていた。嫌な感じがした。
 どうしても玄関から入る気になれず、家のわきの細い通路を通って裏へ抜けた。納屋は以前のままあった。ほっとした。この納屋の二階に泊まるつもりで来たので。納屋にかばんを置き、ステレオなどを探した。以前来たとき置いたところにはなかった。レコードプレーヤーだけはやっと見つけたが、他のものはなかった。いやでも誰かに聞かなければならない。
 家のほうへ行って中をのぞくと、母が独り、畳の上に横になっていた。ふと私の胸に、本当の母に対する感情が湧いた。入って行って、
「ものを取りに来た」
 と告げた。母はいかにも母らしい調子で、
「だぁ、いづ来た?」
 そう言って立ち上がって来た。だが、二言、三言ことばを交して、それが本当の母の心から出た声でないことがわかった。ねこなで声。
 母の言うところによると、私の荷物はほとんど、少し離れたところにある、叔母(父の妹)の小屋(住居)へ運んだという。それを聞いて私は不快になった。この叔母はノイローゼで病院に入院しているが、退院してもいいと言われても、病院を出たがらないという。独りで生活するのが嫌らしい。病院にいれば、毎日の食事も心配しなくてすむ。
 そこに私の荷物を運んだということは、どうしようもない私を連れ戻し、そこに住まわせるつもりではなかったのか? 以前から肉親たちが、私を連れ戻して、あまり立派でなくてもいいから、小屋っこを建て、そこにあれを入れようと相談しているのを私は知っていた。
 私の家の近く、町の中に畑が少しあった。姉が結婚すると、その畑の一角に家を建て、それから、その斜め前に叔母の小屋を作ったのである。残った畑はつぶされ、駐車場になっていた。

 母は私に、
 「今、どごに居だぁ?」とか、「稼いでだのが?」などとたずねた。
 その質問の声の調子から、母と私との隔たり、次元の違いといったものが、胸にぐっとこたえた。
 「そんなごどぁ、どうでもいい」
 私は母をさえぎった。母は、
 「泊まっていぐべ? ‥‥今晩、ええ(家)さ泊まっつぁ」
 と言った。私は内心の驚きを隠し、8月2日までの一週間ほど、納屋の上を貸してくれと言った。

 私はプレーヤーをきれいに拭いてから、小屋のほうへ行くため家を出た。ところが、どこからか自転車で帰って来て、向かいの家の前で話している父と顔が合ってしまった。その顔を見たとき私は、父は私が来ること、あるいは来ていることを、すでに知っているのを感じた。
 父と視線が合ったが、私はまるで見知らぬ人間と会ったように、無表情のまま視線をそらし歩きだした。父が自転車で後からついてくる気配がした。私は父と口をききたくなかった。それはあまりにも汚らわしく、苦痛なことだった。父はすぐ近くまで来たが、引き返したようだった。ほっとした。

 小屋へ着くと、母が先に来ていた。私はスピーカーやレコードを取り出した。レコードの上にはいろんな物がのっていた。なんということを! 必要なものを出し揃えたとき、外はもう暗くなっていた。小屋の中には裸電球がぶら下がっていた。斜め前の姉の家の前に、父と兄が来て立っていた。何だろう? 二人の様子から、彼らが何かを懸念し、少なからずあわてているのが感じられた。姉の主人のところで何かが発覚するのを、こいつらは恐れているのだろうか? ということは、姉の主人は正気に戻っているのか?
 しかし私は、初めから肉親たちとは、以前のようなことはもう演ずる気持はなかった。姉の家へは声もかけなかった。
 荷物を揃えたところで作業をやめ、外へ出た。まず亀蔵さん(叔父・父の弟)のところへ出かけた。
 娘が出て来た。小さな子供の頃別れたきり、20年近く会っていなかった。顔がその母親そっくりなので、すぐに娘とわかった。部屋に上がり、叔父に「訴その九」を渡した。ところが叔父は、それにはろくに目をくれず、すぐにテーブルの下に放り込んだ。びっくりした。これで叔父の姿勢もわかった。以前、私を心配してくれ、涙まで流した叔父がここまで変えられている。叔父が私に、
「まえにいた会社はやめたか?」
 とたずねた。どこの会社のことだろうと思って聞き返すと、中山電機だという。これで私は、叔父は私がこれまでに送り続けてきた「訴」に全然、目を通していないことを知った。
 娘の主人だという男性が出て来て、叔父一家四人がそろった。が、まるで別世界の人々のよう。叔父はテレビばかり見ていた。私がさっき渡した「訴その九」についてふれた。すると叔父の顔に忌わしそうな表情が浮かんだ。そして何も言わない。私はそれ以上、一秒も長くそこにいたたまれなかった。
「あとでゆっくり来る」
 そう言って出たが、もう訪ねる必要を感じなかった。「訴」ももう送る必要はない。

 次に稲子おばさんの家を訪ねた。こちらは父方の親戚にあたるらしいが、私にはその系図がわからない。
 叔父の家も、このおばさんの家も、祝田地区という、釜石製鉄所が社員のために安く分譲した敷地内にあった。この敷地の一角には私の土地も70坪あった。私がまだ会社にいた頃、その数年後には自分の家を建てようとして購入したものであった。まわりには立派な家々が建ち並ぶなか、私の土地だけが空地になっていて、草がぼうぼうと生い茂っていた。
 おばさんと話していて、彼女も「訴」に目を通していないことを知った。彼女も中山電機のことにふれた。
「やめたの? 手を切ったの? もう関係ないの?」
 どうして、叔父にしろ、このおばさんにしろ、中山電機のことにこだわるのだろう。私が中山電機にいた頃、兄らが出て行って何か交渉したらしいが、そのほかに何か特殊なことでもやられたのか。

 彼女は「訴その九」をめくっていたが、
「東京高等裁判所なんて書いてあるけど、こんなところへ出かけて行くの? そこで衛君の言うことを、ちゃんと取り上げてくれるの?」
 と聞いた。話していると、彼女の主人が帰って来た。相変らず私に対して好感を持っていない様子。以前、おばさんが私に持ってきてくれた縁談を私が断ったからだろうか。その娘さんは彼の姪だという。そして、私は心の中で、その娘さんは、あの初恋の「彼女」と同一人物ではないかと、ずっと思っている。
 私が帰るとき、彼も玄関まで出て来てくれた。

 納屋へ戻り、短いはしごを登り上がった。押し入れからマットレスを取り出し、荷物の間のわずかな空間に敷いた。シーツはない。枕もない。衣類をたたんで枕がわりにした。
 昼のうちに蚊とり線香を買っておくのを忘れた。大変なことになったと思った。眠れないかもしれない。
 電灯を消し、横になった。間もなく兄がやって来て下から声をかけた。
「いるか?」
 そして、家のほうへ来て寝ろと、しきりにすすめた。
「ここのほうが気楽でいいから」
 私はそう言って断った。でも蚊とり線香をかしてくれるよう頼んだ。母も出て来たが、母は、家のほうへ来て寝ろとは、あまりすすめなかった。
 この納屋のほうが、精神的にはどんなに落ち着くことか。あの肉親たちの目にさらされ、声をかけられたりすることを考えると、ぞっとする。

 翌朝(7月30日、金曜日)早めに目が覚めた。そっと出、荷物を置いてある小屋のほうへ出かけた。荷造りしていると、敬子(姉の子)がやって来た。
「けい子」
 やさしく声をかけた。彼女はもじもじしていたが、そこにあったビニールホースを持って出て行った。まもなく姉がやって来た。
「夕べ、寄っかど思ってだっけぁ、寄んねぇで行って‥‥」
 私は姉の様子、声の調子から、姉が敵なのか味方なのかを見極めようとした。味方ではないにしろ、他の肉親たちよりはましだと感じた。私は肉親たちには何も訴えまい、何も渡すまいと思っていたが、この姉には、「訴第一部」(「訴その一」から「訴その七」までを一冊にまとめたもの)と「訴その八」と「訴その九」を渡した。姉はそれを持って行って家の中で真剣に目を通していた。
 私が小屋の外の明るいところで荷造りしていると、学(姉の子)がやって来て手伝ってくれた。なかなか気がきく。やがて姉が外に出て来て、洗濯物を裏返していた。その横顔を見て、姉もやっぱり私の味方ではないことを知った。問題が解決するのを望んでいない。
 荷造りが終り、リヤカーにそれらを乗せ、駅へ出しに行った。学と敬子がついて来た。敬子はリヤカーに乗せてやった。
 帰り道、三人でかき氷を食べた。

 夜、阿部良司、三浦弘一両氏の家を訪ねた。阿倍さんというのは、定時制高校時代、一緒に学んだ青年で、私より七、八歳年上。町外れにある彼の家を訪ねたのは8時頃だった。彼は風呂に入っていた。やっと、まともに話しあえる人間に会えた感じがした。といっても、彼もむかしのようではなかった。「訴」は、ずっと彼に送り続けていた。彼は問題の本質にはふれようとはせず、ただ、法律をよくあそこまで勉強したな、と言って感心していた。
 すべりの悪い会話をしていると、誰か訪ねて来た。花石さんという先輩だった。むかし私が日本民主青年同盟(民青)に入っていた頃、同志だった「花石さん」の弟である。彼は私がいることに別に驚きを示さなかった。知っていて来たのか。彼らは釣りの話を始めた。彼らの会話に、花石さんの兄の話が出た。そこで私は口をはさんだ。
「お兄さんは私のこと、怒っていませんか? これまでずいぶん失礼なことをやってきたので‥‥」
「ははは」阿部さんが笑った。
「なに、あれはそんなごど、気にするようなやつではない」
 花石さんが答えた。私はこれから三浦弘一さんのところに寄って帰るからといって立った。花石さんは、
「おれが来て追い返すようだな」
 と言ったが、その声にも顔にも全く感情がなかった。

 三浦弘一さんというのは、本書には初めて登場するが、むかしこの町で一緒に絵を描いたりした先輩である。
 彼はいた。彼は私の送る「訴」を全然読んでいないという。しかし悪意は全く感じられなかった。「訴」の分量が多いし、それに法律の第何条と言われてもわからないという。
 私が病院で検査を受けたことを話すと、彼は、診断の結果を必要なところへ示すべきだと、何度も何度も力説した。
 閉めきった部屋で蒸し暑い。その中に、彼のたばこの煙がもうもうとたちこめる。扇風機はあるが回そうとしない。窓も開けない。
 彼の家を出、少し行くと、後ろから自転車の来る音がした。追い越されぎわ、その方を見ると、民青時代お世話になった、「三浦さん」だった。彼も私だと気がついたみたい。とたんに彼は鼻歌をうたいだした。それは例の調子、自分でその鼻歌を楽しむわけでなく、ただ私に対して自分の優越を示したいばかりに出る、あの鼻歌であった。彼はその鼻歌に合わせ、上体を左右に揺すり、自分の後ろ姿を気にするかのように、右手でズボンの後ろをなでた。

 7月31日、土曜日。昼、小学校のわきの山に登ってみた。小学生の頃、よく遊んだ山。「お茶山」とか「サイレン山」と呼んでいた。お茶の木がたくさんあり、頂上にはサイレンがあった。
 しかし、その山もすっかり変っていた。山の上のほうが削り取られ、何かの建物が建ち、舗装された道がその前まで続いていた。草の上に寝ころんで休んだ。毒物によるものと思われる足の痛みとだるさが気になった。町を見下ろした。すぐ下に墓地が見え、それから町。子供の頃、私とこの町の間には何の隔たりもなく溶け合っていた。が、いま見下ろしている町は全く異質のもの。なにがこんなにまで私とこの町を隔てたのか。気違いどもの毒。私が住めないように完全に毒してしまったのだ。
 小学校の裏山にも登った。そこには「学園神社」と呼ばれた、小さな木造の神社があるはずだ。山道のわきには椿の木がたくさんあり、よくその木に登ったり、実を取ったりして遊んだものだ。途中から長い石階段になり、それを登りつめたところに小さな広場があり、そこには神社がある。しかし、登ってみると、そこには子供の頃見なれた神社は跡形もなく、神社があったところには、小さな石のほこらがあるだけだった。
 私は石階段の一番上の段に腰を下ろし、思い出にふけった。むかしここにあった神社を思い浮かべた。風雨にさらされ、白ちゃけた木造の神社。その軒下に吊るされた色あせた太い布製のひも。そのつけ根にぶら下がった鈴。ひもを揺すると、鈴はガラガラと鳴り、ひもは今にもちぎれて落ちてきそうだった。
 思いにふけっていると、ふと、私のまわりをやぶ蚊が飛び交っているのに気がついた。あわてて階段を降りた。

 午後、村井さんのところを訪ねた。まえもって電話をしていなかった。彼は隣の町、鵜住居に住んでおり、製鉄所で知り合い、ずっと絵の指導をしてもらった先輩である。
 彼のところへは、大槌からバスで行った。鵜住居の町に入るとすぐに、親しい顔が乗り込んで来た。製鉄所にいた頃、同じ職場で一緒に働いた遠野さんだった。
「遠野さん!」
 私は呼びかけた。彼もすぐに私のことを思い出してくれた。私の隣に座った。しかし、ゆっくり話はできなかった。私はまもなく降りなければならなかった。彼は私の件をどれだけ知っているかわからないが、
「まぁ、がんばって‥‥」
 と言ってくれた。
 村井さんの自宅へ着くと、夫人が出て来た。村井さんは乙番(午後4時から深夜12時までの夜勤)だといって居なかった。玄関で彼女と話した。
「来るまえに電話をすればよかったのにね」
 彼女はそう言った。が、何を思ったか、ふっと私から顔をそらした。私はそこからの帰り、ずっとその意味を考えた。
 村井さん宅からの帰り、川伝いに根浜海岸までぶらぶら歩いた。砂浜にはテントがいくつも張られ、海水浴客でにぎわっていた。夕刻であったので、炊事しているのやら、食べているのやら。
 海をしばらく眺め、帰途についた。途中ふと、製鉄所で同職場、しかも同じ試験班で働いていた先輩の鈴木さんを訪ねてみようかと思った。小学校前で食料品店をやっていると聞いていた。すぐに見つかった。彼はいた。
 寝ていたのか、眠そうな顔をして二階から降りて来た。体型がすっかり変っていた。私が会社をやめる頃、彼はほっそりしていたが、目の前の彼は、腹が出、全体に丸々していた。
 歓迎されていないのを感じた。私に何か、もくろみがあって来たのではないかと疑っているようだった。ビールを一本出された。そのほかに刺身などの食べ物をびっくりするほど多く出されたが、食べろと言われなかったので手をつけなかった。朝からろくに食べないで歩きまわっていたので腹はへっていた。
 私は「訴」を発行するたびに、私がむかし働いていた職場、電気掛あてにも送っていたが、鈴木さんはそんなことは全く知らないと言った。やっぱりここでも「訴」はどこかへ吸い込まれていたのか。そこで私は、本一式を彼に渡した。これからも続きを送るために、彼の住所を聞こうとすると、
「うーん、受け取っていいものかどうか」と言う。
 そこを出、帰りのバスを待っていたが、空腹に耐えきれず、バス停留所の前の店からパンと牛乳を買ってきて食べた。

 夕方、家へ帰ってくると、家の前に白っぽい乗用車が止めてあった。弟の車ではないか? 土曜日に弟が帰って来るということを、姉の子らが話しているのを聞いている。
 私は弟と顔を合わせたくなかった。私は引き返し、あてもなくぶらぶら歩いた。町外れに出、そこからさらに高校のほうまで行ってみた。
 帰って来ると、まだ車はあった。私は家のわきの細い通路を音もなく通り抜け、納屋に入り、電灯もつけずに横になった。
 8月1日、日曜日、朝、兄が釣りに行くらしく、納屋の下に釣道具を取りに来た。そのとき、例の調子の鼻歌をうたっていた。兄嫁もやって来たが、これも同じ鼻歌。

 近所の海産物屋を訪ねた。そこの婦人は、町でも指折りの教養人であった。私は印刷物を発行するたびに彼女あてにも送っていた。しかし訪ねて行ってみてびっくりした。そこの嫁さんの話によると、老夫婦とも脳卒中で倒れ、養護施設に入っているとのこと。一年以上になり、口もきけないという。
 婦人は、私の送ったものを、丹念に読んでいたという。彼女が私を救うために立ち上がったとしたら‥‥。本当に気の毒に思った。実の親が死んでも、これほど悲しむことはないだろう。
 私の問題の解決を望まない者が、その老夫婦のことに言及するとき、その心の底に驚きとともに、よろこびの感情も存在するのを私は感じた。

 小屋のほうへ行って、本類などの荷造りをした。小屋へ行ったとき、弟の嫁さんが姉の家の前にいた。ちらと目が合ったが、私はそのまま小屋の中へ入った。弟の車は姉の家の前にあった。姉の主人が、家を出たり入ったりしていたが、小屋へは来なかった。姉がやって来たが、弟が来ていることは一言も言わなかった。家のほうで、母もそのことには一切ふれなかった。私は、彼らが弟を私に会わせたがらないでいるのを感じた。なぜか?
 本類をまたリヤカーで駅へ運び、発送した。駅から帰り、リヤカーを物置に片づけ、そのまま姉の家の前を通って帰った。

 この日の朝、岩渕さんに電話し、夕方訪ねて行く約束をしていた。この岩渕さんというのは、私が製鉄所にいて、共産党に入党したとき、大変お世話になった党員で、彼も「私の半生」で打撃を受けた一人であった。
 岩渕さんの家に到着し、私が入って行くと、彼はじーと私の顔に見入っていた。

 
「訴」を党の岩手県東部地区委員会(釜石)にもずっと送っていたが、彼はそんなことは知らないという。ここでも「訴」は誰の目にもふれていないらしい。

 岩渕さんは地区委員会へ電話をし、「訴」について問いただしていた。届いているとのこと。電話の相手の話に耳をかたむけていた彼の顔に、ふくみ笑いが浮かんだ。
 電話が終ってから、彼の言うところによると、地区委員会はそれを熟読していなかったという。そして、「熟読していれば、なんとかなったかもしれないどもなぁ」と言っているとのこと。
 彼は原水禁の活動のために出かけねばならないらしい。そのことで電話がかかってきた。しばらくして、地区委員会の事務所から来た男だろう、見覚えのある男がやって来た。しかし岩渕さんを迎えに来たようではなかった。彼は岩渕さんの子供を相手に遊んでいた。一時彼は「トホー」といった表情を浮かべて私を見た。
 私は岩渕さんに、むかし、党員らが私に対してとった異様な態度は、「機関」の工作によるものだと言い、寮での川崎君の態度もそうだと言った。川崎の名が出ると岩渕さんは、数年前、私が彼らと会って話をして帰った後、川崎は私について言ったという。
あれは成長しなかった
 私は思わず苦笑した。
「一杯やろう」
 岩渕さんは戸棚から酒びんを持って来た。

 酔いが少しまわった頃、彼は胸の中にうっせきしていたものを私にぶちまけだした。「私の半生」について、ずいぶんきついことを言われた。
「あれさえなければ今頃はなぁ‥‥、いつもあの本のごどが頭のどこかにある。党の全貌を明らかにしたんだものなぁ。あんなごどをしていながら、よくこうして『岩渕さん』なんて来られると思うぞ。あんちちしょう、いつかどうにかなんねぇがな、と思うごどもあるぞ」
 さらに彼は、職場(電気掛)に手紙を書けと言った。
「私の半生」の中で、私が党に関して書いたことは、実は嘘であった、と言明しろという。
 私はびっくりし、断った。それでなくても「私の半生」はでたらめだと言いふらされ、読む気をなくさせられているのに、私が自ら「嘘を書きました」と言ったらどんなことになるか。
 私は「私の半生」の中で嘘は書かなかった。悪いことをしたと思うのは、小川さんという人に対してだけだった。はっきりした確信もなしに、「すでに入党しているものと思われる」と書いたから。

 岩渕さんは、むかし私が彼に日記を見せ、救いを求めたことに言及した。あんな、取るに足らない悩みごとで他人に救いを求めた私のばかばかしさを指摘した。私は彼の言うことを認め、それから私の意見も言った。
 私が悩んだことは、ばかばかしいものだった。しかし、当人はそのことで普通の状態ではなくなっていた。他人から見れば、なんだこんなこと、と思うようなことでも、異常な状態におちいっている当人にとっては、もうどうにもならないことなんだ。もし私が誰からか、あのようなことをうち明けられたら、私はそれこそ赤子を扱うように、手をとり足をとりして、その人を助ける。そうしてその人が立ち直ったら、あとは独りで歩かせる。
 私のこの意見に対し、岩渕さんは何も言わなかった。彼は話題を変えた。
「激しい恋愛でもしろ」
 私はすぐさま、その不可能なことを話した。すなわち、いい女がいると思って近づくと、その女はすぐに狂わされ、私をまるで、うすのろを笑うようにわらう。そうなれば私のほうがその女を避ける。
「困ったごどだな‥‥、いやほんとに困ったごどだな」
 彼は言った。この「困ったことだ」という言葉を彼はこの後も何度も発した。しかし、その「困ったこと」を解決してやろうという気持は、彼には生じないようであった。
 外はもうとっくに暗くなっていた。彼は党の事務所へ行くために家を出た。階段を降りながら、彼は私の健康のことをたずねた。私は毒物のためと思われる体の痛みを話した。彼はそれにはなんにも答えなかった。そして言った。
「文学書を多く読んで、人間を高めろ」

 

  8月2日 月曜日

 明日の朝帰る予定であったが、もう帰りたくなった。どうしてもなじむことのできないこの町の空気。故郷であるはずなのに。まるで悪臭を放つどぶの中に身を沈めているような感じ。駅へ出かけ、この日の夜行、寝台車の指定券を取ろうと思ったが、そんなものはもうなかった。
 正午、電話もせずに村井さんのところを訪ねた。彼は居た。私は彼に話したいことがいっぱいあった。しかし彼は自分のこと、会社、職場の葛藤をぶちまけ、私が口をはさむ間はなかった。彼が私のことにふれたのは、たった一言だけだった。
「どうだ、世の中というものがわかったか?」
 彼と話していると、耳に変調をきたした。やっぱり不自然な会話を続けていたのだ。
 村井さんのところから帰って来ると、家の前で姉と出会った。「どこへ行ってきた? 」と聞かれた。
 ふと姉が、何かを悲しむような、また、喜ぶような
不思議な笑いを浮かべ、きのう、弟が帰って来たのに、私が会わなかったことにふれた。
「男の兄弟だって!」
 そう言い終った姉の顔には、うれしさの表情さえ浮かんでいた。
 姉と話していると、近所に住む岩間さんという婦人が通りがかった。私を見ると、たのもしそうな笑いを浮かべて言った。
「こっちへ帰って来い。祝田に家を建ててこっちに住め」
 この婦人が私に好意を持ってくれていることは以前から感じていた。私は彼女に言った。
「鬼のような家族のそばには帰って来れない。親父や母の顔を見ただけで、具合が悪くなる」
 姉があきれたように、
「これんすと、こんなごどべあ!(これ、こんなことばかり)」
 と言った。その姉の顔を見、私は良からぬものを感じた。姉も深いところでは、親父らと同一なのだ。

 納屋に上がって横になり、一休みした。明日の朝はここを発つ。そのまえに会っておきたい人が一人だけあった。製鉄所の教習所時代の先生、朽木さん。しかし、昼はみんな働きに出ている。夕方でないと帰って来ない。それまでの数時間は出かけるところがない。やるせない気持。納屋の中は蒸し暑く、下にたくあんのたるがあるらしく、そのにおいに悩まされた。
 下に母がやって来た。私は上からそっとのぞいた。そこにはひもを張り、私が自分で洗った下着が干してあった。その洗濯物の間から母の顔が見えた。母は私がのぞいているのに気がついていない様子。そのうち、上を見上げた母が、にやり、と笑った。おお、その笑い! またひとつ、一生忘れることのできないものを見てしまった。
 私は上から身を乗りだし、
「これ!」
 と呼びかけた。どうしても「母さん」とは呼べなかった。
「これ!」
 数回声をかけられて母はやっと答えた。
「だれ? おれのごどが?」
「うん」
 私は納屋の前につないである犬(柴犬の小犬)を夜、別のところへつないでくれないかと言った。夜中吠えて眠れないから。さらに私はつけ加えた。
「おれのようなのが、この家さ来てこんなごど言うのは、おかど違いかもわかんねえども」
 母はその後もごそごそやっていた。私は母が近くにいるということだけでいらいらした。
「何してんの!」
 私はとがめるように言った。
「カッツァ(農器具の一種)探してる」
 私はそれなら姉の家の小屋にあった、と言った。するとそれではないと言う。なおもごそごそやっているので、私はがまんできなくなって言った。
「あしたでよがったら、あしたやってさ!」
「なぁして、やがますぃが?」
「おれ、おめさまどぁ、近くにいるだげで、ぐあいが悪ぐなっから」
 さすがにこの言葉を言うとき、私は頭から血がスーッと引くのを感じた。
「ああ、そうが?」
 母は平常に答えた。少しして、
「これ、落づでこねぇべが?」
 と、積み上げてあった何かについて言った。その調子は、心は少しも動揺していないことを証明しようとしているようであった。
 やがてカッツァを探し当てたようだ。見るとそれは草取り鎌だった。母はそれを持ってしゃがみ、納屋の床を掻くようなしぐさをした。私にはそれが、子供のしぐさのように見えた。そして、そんな母をいじらしく思った。土に愛着を持って生きてきた母。しかもスモン病で足の自由がきかず、好きな畑仕事も思うようにできない母。その母に一瞬ではあったが、本当の母に対する感情がこみ上げた。

 母が出て行った後、私は納屋に居たたまれず、外へ出た。海岸の方へ行き、釣りをしている子供たちをながめた。
 6時を過ぎ、朽木さんに電話してみた。帰宅していた。
「今帰ってきたばかりだ」と言う。
「これから訪ねて行っていいですか?」
「ええ、遊びに来なさい」
 朽木さんのところで10時近くまで話した。彼とは本音で話し合うことができた。
 朽木さんの言うところによると、教習所時代の同期生の何人かが、私のことを心配してくれているという。これは私には思いもかけないことだった。なにしろ、教習所時代、私はみんなから、一人前の人間として見られず、親しい友人もほとんどいなかったから。

 8月3日、火曜日、朝、顔を洗うために家に入った。母が奥の部屋から私を盗み見ていた。しかし、きのうの言葉が効いたのだろうか、悪事を見抜かれた子供のような雰囲気。
 納屋に戻り、ずっと敷きっぱなしだったマットレスを片づけた。9時半だ。大槌発9時47分のディーゼルに乗る。今から出れば十分だ。荷物を詰め込んだかばんを持ち、納屋を出た。が、家のわきの通路は通らず、隣の敷地の方へ出、誰にも何も言わず駅へ向かった。
 駅へ着くと、窓口には切符を買う人がいっぱい並んでいた。乗車券はすでに買ってあったので、急行券は車内で買おうと思った。
 乗車する前に、「訴その九」を駅の職員に渡したかった。「訴」は発行するたびに、大槌駅にも送っていた。しかし、きまりが悪かった。それに駅員もみな、急行が来る時刻がせまっていたので忙しそうだった。ふと、駅の郵便受はないかな? あったらそれに入れようと思い、外へ出て探した。すると、誰かが私の名を読んだ。
 姉だった。敬子も来ていた。見送り? 全く予想していなかった。姉は家へ行ったところ、私が出た後なので、走って来たという。小さな敬子は姉のそばで息をはずませて私を見上げていた。思わず私は彼女の小さな鼻をつねった。なんて性格のいい子供なんだろう。
 姉は「ほんの少しだども」と言って、紙包みを私に差し出した。私は断った。姉はそれを私のシャツの胸ポケットに差し込んだ。そして、気持はわかっているから、このことについては礼状は書かなくてもいいと言った。主人に気を使ってのことだろう。姉は、汽車が来てから別れるのはつらいから、これで帰ると言った。
「バイバイ」
 敬子と私が同時にそう言い合った。
 姉が私に餞別をくれた。これはどういうことだろう。

 帰りの列車に乗った。ぼんやり外をながめていても、ある一つのことが頭から離れなかった。胸にポッカリ穴が開いたようだった。しかしそれは、どうがんばっても取り返しのつかないものであった。
 私が北鎌倉にいた頃、天気さえよければ、スケッチに出かけていた。スケッチブックとクレパスを持って、気にいったところを手あたりしだい描いていた。数多く描いているうちに、対象がどんどん省略されていき、線も少なくなっていった。描いていて、自分がある段階に達しつつあるのを感じた。だがそれらの絵は、見る人によっては、子供の描いた絵に見えたかもしれない。
 数年前、いなかへ帰るとき、私はスケッチブックから満足できるものだけを外し、絵の先輩、荘介さんに見せるために持ち帰った。荘介さんに見せてから、私はそれを筒状に丸め、輪ゴムかひもでしばり、家の洋服だんすの中に入れておいた。持って帰るつもりだったが。そのまま忘れて鎌倉へ帰った。次に家へ行ったとき持って来ようと思っていた。が、そのうち数年たってしまい、今回帰ったら、古い家は壊され、建て替えられていた。
 家の者にその絵のことを聞いてみたかどうかはわからない。たぶん聞かなかったろう。なにしろ、肉親は私の人間はもとより、絵を描く才能なんてものも、全く認めていないのだから。彼らから見たら、それはただの紙屑でしかないのだ。
 あのスケッチを失ったことを考えると、それから15年以上たった今でも、胸にポッカリ穴が開くのを感ずる。もちろん、そのまま絵を描き続けていれば、それ以上のものが描けたであろう。しかし、気違いどもとのたたかいで、絵を描くどころではなかった。あのスケッチが私の描いた絵の中で最も高いレベルのものであり、思い出の作品でもあった。

 3日の夜遅く、横浜のアパートに帰り着いた。いなかから送った荷物がドアの前に届いていた。帰ってから数日間はステレオを置くための部屋の配置がえに費やされた。
 ステレオは、音は出たが満足できなかった。私のステレオ装置は高音がきれいに出ないことは、まえから知っていたが、今度聴いてみて、それが以前より気になった。この地へ出て来て、生の演奏を数多く聴いたので、耳が肥えたのだろう。

 

              七 節

  昭和51年(1976年)

 ところで、「回答請求事件」の上告が受理されていたので、そろそろ「上告理由書」を提出しなければならなかった。その下書きは、岩手に出かける前から作成し、岩手への電車の中でも目を通し、修正を加えていた。それを清書し、8月13日郵送した。

 

     上 告 理 由 書
                上 告 人 沢舘 衛
                被上告人 国
                被上告人 神奈川県

右当事者間の昭和51年(ネオ)第280号回答請求事件について、上告人は次のとおり上告する。

第一、第一審及び第二審判決は、日本国憲法第11条、第12条、第13条、第14条、第25条に違反した、あるいは、これらの憲法を無視した判決である。すなわち、

一、憲法第11条は、国民の基本的人権の享有及び基本的人権の永久不可侵性を保障している。この法は、国民の基本的人権が何者かによって侵されたときは、それが誰によって侵されたかを、国民が知る権利をも保障したものであろう。

二、憲法第12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」ことを規定している。

上告人が、被上告人らに、本件の主題であるところの回答を求め、上告人に対する被上告人らの行為に誤りがあることがわかったときは、それを正そうとする上告人の行為(回答請求)は、この憲法が国民に課している「自由及び権利の保持責任」の現れである。

三、憲法第13条には、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国策の上で、最大の尊重を必要とする」とある。しかしながら上告人はこれまで20年間にもおよぶ長い年月にわたり、被上告人国の機関によるものと思われる行為のために数多くの自由を奪われ、名誉を毀損され、人権をふみにじられてきた。

上告人は、生まれてこれまでの間に、人を傷つけたり、人をだましたり、また、一般に「盗み」と言いうるほどの行為もしたことがない。
 上告人は公共の福祉に反する行為をしたことがない。
 それにもかかわらず上告人は、被上告人国の機関と思われる機関によって、常識では考えられないほどの迫害を受けてきた。そのため上告人は、被上告人国が上告人に対してそのような行為をしていたのかどうか、していたのなら、その行為の原因、理由、目的を上告人に明らかにするよう求めた。しかし、被上告人国はこれに回答しようとせず、また裁判所の第一審及び第二審判決は、上告人のその請求を理由がないとして棄却した。

四、憲法第14条は、すべての国民は法の下に平等であることを定めている。

しかし、上告人に対する、被上告人国の機関によるものと思われる行為の原因、理由、目的といったものが、その機関によって、上告人をとりまく人々、それに警察及び人権擁護機関に告げられ、その機関の行為が合法化されながら、上告人一人に対しては厳重に秘密にされているようである。
 機関のこのような行為及び裁判所の第一審及び第二審判決は、国民の法の下における平等を定めたこの憲法を無視し、これに違反したものである。

五、憲法第25条は、国民の生存権を認め、「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とのべている。

しかし、被上告人国の機関と思われる、その機関の上告人に対する行為は、その行為の方法、手段をみれば明らかなように、その行為の最終的な目的は、上告人をこの世から抹殺することにある。この機関のこのような行為は、憲法第25条が保障する国民の生存権をふみにじったものである。また機関がその行為の有無及びその原因、理由、目的を上告人に明らかにしなくてもよいとする、裁判所の第一審及び第二審判決は、この憲法を無視したものである。
 上告人は、この機関によるものと思われる妨害のために、正常に就職することもできなかったし、また、上告人とまわりの人々、社会とのつながりを一切断とうとする機関の工作のために、上告人は発狂寸前にまで追いこまれたことも度々であった。さらに現在は、一年以上前から、機関がどこかで上告人に投与した毒物のためではないかと思われる身体上の症状に苦しめられている。この身体の症状については、二つの病院で調べてもらったが、そのいずれからも「異常は認められない」という結果が出てきた。しかし、上告人は、機関の力がそこの医師たちにまちがいなく働いていたことを感じとっている。

第二、上告人を心身の両面から迫害し、苦しめている者は必ず存在するのである。しかもその者たちは被上告人国の機関であることを、これまでのたたかいのなかでつかむことができた。
 被上告人国の機関として、そのような行為を行いうるのは、厚生省と、その下にある機関しかないことを確信し、厚生省その他に質問した。(もちろん、その機関は厚生省ではないかもしれない。それは被上告人国がその旨の回答を上告人にしたとき、初めて明らかになることである)。
 上告人から質問を受けた被上告人らはそれに回答しようとしないし、裁判所の第一審及び第二審判決は、上告人には回答を求めうる法的根拠はないし、被上告人らは回答すべき法的義務はないとしている。
 上告人が被上告人らに回答を求めうる法的根拠は、前記第一に述べたとおりである。
 また、被上告人国にしろ、他の機関にしろ、上告人の、この種の質問には回答しなくてもよいとするなら、これは恐るべき人権侵害行為、殺人行為を許すことになるだろうし、この面では、国民の基本的人権を保障した日本国憲法の前記各条項は空分化してしまう。
 したがって、被上告人らが、上告人からの質問に回答すべき規定が法に成文化されていないにせよ、前記の日本国憲法の各条項に照合してみて、被上告人らは、上告人の質問に回答すべきである。

  昭和51年8月13日
                 右上告人 沢 舘 衛
  最高裁判所 御中

「上告状」へ      「判決」へ

 

 この判決が出るまでには数か月かかるらしい。しかし、どのような判決が出ようとも、どうなるものでもないだろう。彼ら機関は、自分たちがどんなことをやっても、誰も彼らを非難しないように、日本の国民を変えてしまうことができるのだから。

 

              八 節

  昭和51年(1976年)

 会社(竹内電設)のほうは、もう最悪の状態になっていた。8月25日、次の文書を竹内に手渡した。

 

 竹内電設 殿
                 沢舘 衛
昭和51年8月25日

  土曜日の休暇願について
 当分の間、土曜日は休ませてくれるようお願いします。
 理由は仕事探し(転職のための面接)のため。
 転職の理由は、便壺のように汚された職場、人々の中で働くのが苦痛なため。
 せいぜい、転職の妨害をしないようお願いします。

 

 8月29日、日曜日の夜、なかなか寝つけなかった。日中も心が不安定だった。明日、月曜日から、またあの会社へ行かねばならないと考えると気が重くなった。深夜2時頃になり、明日は休もうと考えた。休んで検察庁へ出かけようと考えた。
 五か月前に調査を申し立てたのに、何の返事もこない。もっとも、永久に返事がこないことはわかっていたが。

 8月30日、月曜日、雨が降っていたが、午後2時頃、検察庁へ出かけた。待合室で出田検事への面会を申し込んだ。まもなく504号室へ呼び入れられた。私の調査申立については、
「検察庁から連絡があるまで待っていろ」と言う。
「私、出田さんと話していて、これはもう何十年待っても返事がないことがわかるんです。出田さんの様子から」
「それは、二年かかるか、十年かかるかわからない。調査の方法はおれたちにまかせておけ。君は文句を言いに来たのか」
 私は現在苦しめられている、毒物によるものと思われる身体上の症状を話し、調べてもらえないか、と頼んだ。病院へ行っても異常はないと言われるが、私はそこの病院に「機関」の力が及んでいるのを感じている。私の訴えに対し、検察庁は、具体的事実がないというが、私の症状が毒物によるものだとわかれば、それで一つの事実が出てくるのではないか。
 しかしこれもほとんど相手にされなかった。検事は、これまでに私がどこの病院を訪ねたかを聞いた。私は答えた。すると検事は、
「なに? 整形外科へ行った? どうしてそんなところでわかるんだ‥‥、強姦だろう?」
 なんでこんな言葉がここで飛び出すのだろう。検事はすぐに、
「あ、なに、君のほうが患者として行ったのか!」
 と言った。一体この検事は何を考えていたのだろう。検事はもう、私が何を言っても、
「君の言うことはもうわかったから帰ってくれ。もう君が何を言っても、おれは一切答えないぞ」
 そう言って彼は机に顔を埋め、仕事にかかった。私は彼をじっと見つめた。『このおやじ、検事なんだ。この子供じみたことをしているのが』
「国が動いているんですから」私は怒りを抑えた低い声で言った。「国が動いているんですから、国家機関が押え込まれるのはあたりまえですよね、検察庁も」
 最後の言葉「検察庁も」と言ったとき、私はもう立ち上がりかけていた。その声は震えていた。今後、横浜地方検察庁を訪ねることはないだろうと思った。

 法務省人権擁護局、横浜地方法務局人権擁護課、それに横浜弁護士会の人権擁護委員会へは、もうすでに訪ねるのをやめていたし、「訴」の続きを配るのもやめていた。
 国家機関はもとより、そのへんの普通の組織は簡単に押え込まれてしまう。それで私は、日本共産党へ協力と救済を求めて何度も通っていた。地区委員会や県委員会はもとより、中央委員会(本部)へも二度訪ねた。しかしこちらは、法務省の人権擁護局と負けず劣らずであった。私は元共産党員である。当時私は、党の中央委員会というと、神様の集まっているところのように思っていたものだが。

 会社へは8月30日、月曜日、欠勤してから引き続き一週間出勤しなかった。連絡もしなかった。
 9月3日、金曜日、会社をやめようと思った。
 竹内に電話し、会社をやめる意志を伝えた。会社をやめるにあたって、ひっかかることがいくつかあった。入社してしばらくの間、月給制だからといって、残業しても時間外手当が支払われなかった。途中から時間給に切りかえられたが、時間外手当の割増率が低いように思われた。私は労働基準法を調べてみた。その結果、月給制でも時間外手当は支払われること、割増率は25パーセントであることがわかった。しかし会社はそれよりかなり低い率で支払っていた。
 また、雇用保険を受給するには、六か月間、雇用保険に加入していなければならないのだが、私は5月から8月までの四か月しか加入していない。実際には八か月間働いた。入社した時期にさかのぼって加入してもらわないと、私は雇用保険がもらえない。

 9月3日、横須賀公共職業安定所を訪ねた。まえに来たことがあるからだろう、すっかり毒されていた。「機関」は、私がどこかを訪ねると、そこの者たちが私から受けた、ありのままの印象を消してしまおうとして「糞塗り」の作業をする。この職業安定所にもそれがやられたらしい。
 職員は、会社が私の入社時にさかのぼって加入することをこばんだ。私はその職員とさんざん口論した。
 会社から職業安定所に提出されていた書類を見ていくうちに、会社のでたらめさがわかってきた。登記上、有限会社になったのは、昭和49年6月4日である。それなのに、事業の開始年月日も雇用保険の適用も51年4月29日としている。しかも、私の保険加入手続は51年8月19日になっているのに、私はその四か月前の5月から雇用保険料を引かれていた。
 その場で竹内に電話した。そのときの竹内の狼狽ぶり、突っ込んでいくと、社会保険士に頼んであるので詳しいことはわからないという。私は竹内に、入社時にさかのぼって保険に加入するように頼み、もし会社がそうしないときは、私もそれなりの行動に出ることを告げた。書類から、社会保険士は阿部光一という人物だとわかった。
 9月6日、月曜日、横須賀公共職業安定所へ電話し、その後のなりゆきをたずねた。すると、私の主張どおり、1月にさかのぼって適用するとのこと。それで退職願を書いた。

 

      退 職 願

 私をつけまわし、迫害し、苦しめている気違いじみた者たち(国の機関)による工作のために、社長や、一緒に働いている者たちが最悪の状態にまで毒されてしまった。これらの者たちの中で働くのは、これ以上耐えられない。むりに耐えようとすれば、私の精神にかなりの負担を与え、精神衛生のうえからほんとによくない。(これが気違いじみた者たちの目当てとするところなのだが)。そのため、昭和51年9月1日付で退職させてくれるようお願いします。
 昭和51年9月4日
                    沢 舘 衛
 竹内電設社長
  竹内 輝男 殿

 

 さらに、時間外手当の割増率について精算し、月給制であった頃の時間外手当も支払うよう申し入れた。ついでに次の手紙も加えた。

 

 やりかけの仕事を終らせることなく、途中でやめることになったことを申しわけなく思っています。なんとかケリのいいところまで決めてからやめようと思ったのですが、一日も耐えられない状態になったので仕方なくやめました。
 会社に出て行くことは、心に大きな負担となっていることは前から感じていました。8月末、土、日、月、火と続けて休み、ほとんど部屋に閉じこもって考えこんでいました。が、気をとり直し、9月1日出勤しました。まわりの、悪性の熱病にかかっているような者たちのたわごとや、その者たちのかもしだす異様な雰囲気などは気にしないで、私独りの世界に入りこんで仕事をするのですが、5時になり、会社を出たとき、ふっと、精神の疲れのようなものを感じました。これが何日も続くと、精神衛生によくない結果をもたらすことは、これまでの経験でよく知っています。そして、『あの会社に出て行くのは、もう限界にきているな』と感じました。そうして、その翌日からまた休みました。もうやめるつもりでその準備をしていました。
 私が休むとき、電話連絡しないのは、社長と口をきくのが本当に苦痛だからでした。連絡しないで無届欠勤をすると、私に不利な状態を惹起することがわかっていてもどうすることもできませんでした。

 

              九 節

  昭和51年(1976年)

 9月9日、釜石の岩渕さんに手紙を書いた。

 

 前 略
 そちらから帰ったら、すぐに手紙を書くつもりでしたが、帰ってから上告理由書の作成やら何やらで、こんなに遅くなりました。
 なにしろ、仕事が5時過ぎまでで、通勤には二時間ほどかかりますので、アパートに帰り、夕食のしたくをし、食べ、かたづけるともう8時、9時になります。風呂に行ったりすると、その日の日記をつける時間もなくなります。
 本題に入りますが、先日、岩渕さんのところを訪ね、岩渕さんが最後のほうで酒を飲みながら私にまくしたてたこと、その内容が私の心に複雑な感情を起こしました。

 
「私の半生」を出した頃、私はむかしの党の仲間に対して怒りや恨みといった感情を抱いていました。ですから当時、後日になって岩渕さんと言葉を交すようになろうとは夢にも思っていませんでした。

 「私の半生」を出してから何年かたち、むかし、党や民青の仲間は、私を苦しめはしたが、それは彼らの意志からではなく、陰からの力によっておどらされ、利用されていただけなのだと知って、心から悪いことをしたと思いました。ですから、ぶんなぐられるかもしれないと思いながらも、地区委員会を訪ね、謝り、そして、もしできたら、陰で動いている者たちの正体を教えてくれないかとお願いしました。しかし、誰もが私に対してする返事、「そんなことはなかった。ありえないことだ。思い過ごしだ」という、型にはまった返事が返ってきました。
 もし実際に陰で動いている力などというものは一切存在せず、すべては私の思い過ごし、妄想だとしたら、私は党に対し、むかしの仲間に対して、とんでもないことをしたことになります。それはどんなにあやまってもあやまりきれるものではありません。
 しかし、実際にはそのような力は存在し、みなさんに働いていたのです。その証拠は私の感覚と、これまでの経験です。もっともこんなものは証拠とはいえないでしょう。しかし、なによりの証拠は、そういうことがあったという事実です。その事実はみなさんが知っているのです。
 このまえ岩渕さんが私に感情をさらけ出したとき、私は自分の行為 ─「私の半生」の発行が、どれだけ岩渕さんたちの心の中でしこりになっているかを改めて思い知らされました。
 同時に、そういうことを言う岩渕さんを、視野がせまいとも感じました。岩渕さんは、私が岩渕さんたちに不利なことをしたという事実ひとつだけを見て私を非難しています。私がなぜそういうことをしたのか、とか、なぜそういうことが起こったのかということには目を向けていません。もちろん、初めから目を向けなかったのではないでしょう。向けたけど、ある力によってそらされたのでしょう。私が受けている災難、迫害は当然受けるだけの原因、理由はあるのだと思い込まされてしまったのです。ですから、私のことが話題にのぼると。「ああ、あのサワダテか!」と、一笑のうちにかたづけられてしまうのです。
 何者にもせよ、楽しみやねたみで、一人の人間をつけまわし、迫害していることを、世の中の人々に知らされそうになったら ─ 彼らの行為の本質が暴露されそうになったら、自分たちの行為を正当化させるために、いろいろ口実を考えることはあたりまえでしょう。しかも、その者たちが人間の心理にあくどく精通し、どんな人間をも狂わせてしまうことのできるテクニックと金を持っており、また、どんな機関をも自分たちの思い通りに動かせる力を持っている場合は、それはなお容易でしょう。
 この者たちにとって、金とならぶ最大の友はデッチあげです。ところが岩渕さんは、私のほうが嘘を言っているのではないかと疑っています。いったい、私が嘘を言える人間だと思いますか!
 まあ、岩渕さんは、私が地区委員会へ送っていた「訴」に目を通していなかったといいますから、私と岩渕さんとの間には、大きなへだたりがあったことは当然でしょう。
 私は地区委員会へ、ずっと送っていたのですから、それは当然、むかしの職場の仲間や、大槌のほうの仲間の目にもふれているか、あるいは少なくとも耳に入っているものと思っていました。
 私が岩渕さんのところへ置いてきた「訴」に目を通したとき、岩渕さんが私を見る目がどのように変るか、私には正確には予想できません。が、少なくとも一時は「オヨヨ!」と思うでしょう。しかしすぐに例の力が働いて、「オヨヨ!」と思ったその感情を、ある時間かけて、なしくずしにしてしまうでしょう。岩渕さん自身が「心理工作」されていると気づかないままに。
 しかし、工作はもっと手っとり早く、岩渕さんに私の書いたものを読む気をなくさせるように働くかもしれません。その場合、私をつけまわしている機関に所属している者が、直接岩渕さんに接し、工作することは少ないでしょう。岩渕さんに接する人は、岩渕さんの同志で、信頼している人でしょう。私をつけまわしている者たちは、よくこの二段階方式による押え込みの手を使います。
 私が「訴」を岩渕さんに渡し、その続きを今後、送ろうと申し出たとき、岩渕さんは「期待しないでくれ」と言い、私も「期待していない」と答えました。この返事はもしかすると、岩渕さんにはおもしろくなくひびいたかもしれません。しかし、私がはっきりそう答えたのは、どんな人間でも押え込まれるのを、これまでに嫌というほど見てきているからです。そして岩渕さんたちがこの問題に協力してくれるのを期待するのは、奇跡が起こることを期待するのに等しいことを知っていたからです。
 警視庁、警察庁、横浜地方検察庁、日弁連人権擁護委員会などへ、ずっと以前から、文書で調査や救済を申し出ているのですが、もとよりどうにもならないようです。
 奇跡を起こし、協力してくださいますようお願いします。
  昭和51年9月9日
                    沢 舘 衛
   岩渕 敏雄 様

 

 この翌日、姉にも手紙を書いた。

 

 このまえは見送りありがとうございました。
 これはお願いですが、このまえ、そちらへ帰ったとき、「チェーホフ全集」を探したのですが、見当たりませんでした。やっぱり「チェーホフ全集」も手元に置きたいので、いつでも暇なときでいいですから探してみてくれないでしょうか。そして送ってくれないでしょうか。手数料、送料はもちろん払いますから。全集は全部で20冊くらいで、えび茶色の箱入りです。
 私の本の中に、ほしいもの、必要なものがありましたら活用してください。
 お願いします。
  昭和51年9月10日 午前1時
 これまで勤めていた会社も、もうがまんできない状態にまで毒され、今月初めやめました。
 今また気違いじみた妨害にあいながら仕事を探し、あちこち面接に行っています。たった今も、不採用の電話がありました。こんなことは、私が生きているかぎり、永久に続くでしょう。
  9月11日

 

 9月12日、日曜日、竹内電設へ私を紹介してくれた古川氏を訪ね、竹内電設をやめたことを報告した。やめるまでのいきさつを説明しようとしても、古川氏は、「思い過ごしだ!」、「精神異常だ!」とまくしたて、話にならなかった。

 9月14日、竹内から、私の申入れに対する返事が郵送されてきた。それを見てあきれた。『たはっ! どこまで‥‥』

 9月16日、労働基準監督署を訪ね、私の主張と、竹内の主張の、どちらが正しいのかをたずねた。すると、私のほうが正しいという。竹内に電話した。17日(金曜日)の夜、久里浜駅で直接会って話すことにした。その後、古川氏から電話があった。竹内から事情を聞いたのであろう、ものすごいけんまくでいきまいた。明日、彼も立ち合うという。

 9月17日、約束の時刻7時ちょうど、久里浜駅に着いた。竹内と古川氏が待っていた。駅の近くの喫茶店へ。
 さんざんやりあった。そして、竹内の人格に目を見はらされた。
 私は「六法全書」を持って行き、私の主張の根拠を示した。向こうは、不正に不正を重ねてきたのに対し、私はあたりまえのことを主張した。私の主張は監督署も認めている。いくら相手が年寄り二人でも私の言い分は通った。その場で四万いくら受け取った。
 喫茶店を出るとき、私が先に立った。コーヒー代を私が払っていると、私のすぐ後から立ってきた竹内が、自分らの分も私が払うものと期待しているようだった。私は言った。
「私、自分の分しか払いませんよ。私、人の分まで出してやるほど、お人好しじゃないですから」

 

              十 節

  昭和51年(1976年)

 私の住んでいるアパートには、独立した部屋が四部屋あった。真中の二部屋は、住人が入れ代ることがあっても、「機関」の手先、イヌが入り込むようであった。彼らはめったに私の目にはふれないし、また、どういうわけか、窓を内側から覆って、部屋の光が一切外へ漏れないようにした。彼らはその部屋の中でひっそりしていて、私が参ってしまうのを待っているようだった。私にはそれがひどくしゃくにさわってしょうがなかった。
 ある日の昼、イヌの部屋の前に、「お役目ご苦労」と書いた紙片を、その部屋から出て来ればすぐに目につくように、その部屋の前の窓の下に貼っておいた。その二つの部屋はドアがすぐ隣合せだったので、どちらの部屋から出て来ても、すぐに目につくはずであった。
 しばらくして、ドアの開く音がした。一つ向こうの部屋のようだ。が、足音はしない。紙片を見て考えているのか。胸がすーっと軽くなるのを感じた。やがて足音。トイレに行った様子。それから外へ出て行った。すこしして隣の部屋へ誰かやって来たような音がした。しかしそれは微かな音でしかなかった。夕方、隣の住人の女が帰って来た。この女が外したのか、紙片はなくなっていた。
 この紙片、かなりの効果があったようだ。数日間、張り込みに来なかった。端の部屋の若い男も鼻歌をやめた。

 9月18日、「訴その十」を発行した。原紙5枚、10ページの短いものだった。その内容は、上告状及び上告理由書、横浜地検での出田検事とのやりとり、精神神経科の診断書、それに竹内電設をやめたことをのせた。それ以外には次のことものせた。

 

 私に協力しようとする人、私を弁護する人は、「機関」から見ると、私と同等に見えるであろう。ということは、その人にはもう、どんなことをやってもかまわないのである。「おれたちにさからうと、おまえもどうなるかわからないぞ」といったぐあいである。そしてそれを実行する。
 検察、警察及び人権擁護機関のそれぞれの人々は、私の問題を取り上げようものなら、逆に自分の地位、さらには生命があやうくなることを知っているのであろう。
 こうして、みな、私の問題を取り上げることはせず、「機関」の工作によって私が参ってしまうのを待っているのだろう。時がすべてを解決してくれる。
 彼ら機関は、「なに、取り上げることはない。どうせそのうち参ってしまう。それはもう時間の問題だ」とふれ歩いているのだろう。だが、私に関するこの言いぐさ、手口は、もう何年も前から使い続けられているのだが。
 彼ら機関ほど、一方的で、自己本位的で、わがままで、執念深いものは、この世に存在しないであろう。ところが彼らは、こういった非難が彼ら自身に向けられることを避けるために、これらの非難を、逆に私へおっかぶせ、世の人々の視線を私のほうへそらさせている。おそらく、私に向けられている「精神異常」という非難も、実は彼ら自身のことであろう。

 「讒謗(ざんぼう)せよ、しからば常になにものかが残るであろう」
 これはドストェフスキーの言葉だったと思う。

 彼らの恐るべき犯罪行為を支えているのは、もはや金の力のみであろう。デッチあげは、今ではそれにつぐものでしかない。ばかげたデッチあげがいつまでも続くはずがない。デッチあげを通用させようと思えば、そこに金をばらまいてからでなければならない。
 問題は彼らがその金で、どこまで社会を腐敗させることができるかである。日本の国すべてを腐敗させることに成功したとき、それは彼らの輝かしい勝利となる。彼らにとって怖いものは何もなくなる。

 私はもう、「みなさんの御協力をお願いします」とは言えなくなってしまった。やっぱり人間は人間でしかなかったのだ。
 しかし、今ではさらに次のようにつけ加えたい。
「私に本気で協力しようと思ってはいけない。決していけない。廃人にされるから。とくに人生の大半を終えた年配の方は十分に注意されたい」

 それにしても、私はなんてふざけきった国に生まれたものだろう。

  (以上「訴その十」より ─ 昭和51年9月18日発行)

 

             十 一 節

  昭和51年(1976年)

 国が悪い人間を葬り去るためのばかおどりに、一人当たり年間六億円使うという。この日本に悪い人間が何人いるのかわからない。とにかくその額は膨大なものになるだろう。その金はどこから出てくるのか? 税金 ─ 国の予算からだとすると、なんという名称の機関が、なんという名目で予算を請求するのか?
 その機関がおおっぴらにされては困るものだとすると、その資金の出所からは別の匂いがしてくる。汚職、犯罪‥‥金屏風?
           (この項は平成5年現在の記述)

 

             十 二 節

  昭和51年(1976年)

  10月1日 金曜日

 「訴その十」に対する報復だろう、気違い様たち、底抜けにばかげたことを言いふらして歩いているようだ。たははは! なんと形容したらいいやつらだろう、まったく! とても人間とは思えない。糞ともいえない。もったいない、糞以下だ。何だろう。

 10月8日、神奈川県議会事務局から通知があった。私が議会に陳情していた件についてだった。
 
「9月29日、総務企画常任委員会の議決により不了承と決定した」とのこと。不了承の理由は、「諸般の事情により」であった。
 10月7日の神奈川新聞に、「九月県会」の記事がのっていた。その中に、「請願・陳情の処理状況」という欄があり、そこに、私の陳情が不了承になったことが、事務的にたった六行のっていた。

 

  11月8日 月曜日

 雇用保険は、11月、12月、1月の三か月間もらえる。その間に決めなければならない
 いくつかの会社へ応募してみたが、就職はできそうもない。気違いどもは、これで、もう私を始末してしまおうと思っているようだ。その気配が、このアパートの自室にこもっていてもピリピリ伝わってくる。
 きのうなど、昼近くまで眠って、午後1時頃、雨戸を開けると、その音を聞いて、「すわ!」と思ったのだろう、庭をはさんで斜め前のアパートの一室の窓が勢いよく開けられた。若い女がこちらを見た。部屋の中には男が座っていて、これもこちらを見ていた。私がまだ発狂していないのを見ると、女はきまり悪そうな顔をした。男は笑っていた。

 「訴第一部」(その一〜その七)の残り部数が少なくなってきていたので、再版しようと思って以前からガリきりしているが、量が多いし、目が疲れる。それに、まわりの情勢、気違いどもの動きからいって、あまり楽観はできない。
 残っている分を配ってから決行するか? こんなふざけきった国で、こんなことをして自分の心身を苦しめることはない。どうせ、この気違い国家の中では、どんなに叫んでみたところで、どうにもならないのだ。それなのにどうしてその中に長くいる必要があるのだろう。負けずぎらいの心からか? このばかどもの正体をもっと暴露してやりたいという気持からか? たぶんそうだろう。
 この気持は、釜石製鉄所をやめるときの気持に似ている。あのときも私は、この会社にこれ以上いたら、本物の気違いにされてしまうと思いつつも、会社の恐ろしい犯罪行為を暴露してやりたいという気持があった。しかし耐えられなくなって逃げ出した。ところが‥‥、犯人は会社ではなかったのだ。

 決行後もこれと同じことになるのだろうか? たぶんならないだろう。国が、他の国を狂わせることはできないだろう。これは、この気違い国家の内部だけでのことなのだ。
 この気違い国家の狂乱を暴露する作業は、国外へ逃れてからでもできる。迫害の手から逃れて。それなら早く切りかえて、自分のこれからの生活のため、新しい出発のために力をつくすべきではないのか。
 最高裁の判決が出てからと思っていたが、それもあまり期待できない。こんな気違い国家は見捨てよう。

 


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