読者のお便り

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 NEW! 『奥の細道』について

   よく寄せられるご質問への答え
   

   読者の方からお寄せいただいたお便りの中から、
   ご感想、ご質問などを紹介していきたいと思います。
    「SCL便り」を開いた時に皆様からのお便りを紹介すると言いながら
    そのままになっていました。今回リニュアーアルに当たり
掲示板の設置も考えましたが、
    管理が難しそうなので、こういう形で読者の方のご感想、
    ご質問等を載せることにしました。
    いただいたお便りの中から他の方の参考になるような部分をとらせていただき、
    必要に応じてコメントや答えをつけました。
    また同じような質問についてはまとめさせてもらいました。
       個人 情報に関するもの、個人的ご相談等プライバシーに関するようなものは載せませんが、
                            もし不都合がありましたらご連絡下さい。
                            またいただいたお便りの中からこのような形で紹介
                            させていただくことがあるかと思いますが、ご承知おき下さい。
     
          
皆様のお便りをお待ちしています。お便りは下記宛に

     こちらへメール クリックして下さい。メールにリンクします。)

    
新着記事

NEW! 『奥の細道』について
日本の宗教について興味があり、日本古来からの神道、中国から入ってきた仏教、さらにはキリスト教についての歴史的な一連の流れを学びたいと考えております。これらを学ぶためのよいテキストがありましたら教えていただけると幸いです。

(静岡Iさんより抜粋)

渡辺郁夫が担当している講座のシラバスの内容を紹介した後で、どれか一つとなると、日本の「道」の文化を代表する一冊として『奥の細道』がいいと紹介しました。「不易」と「流行」という「風雅の誠」をよく体現し、芭蕉が「不易」と「流行」、「風雅の誠」を説き始めたのがこの旅からだと言われています。今年も『奥の細道』を授業でとりあげ、あらためてこの本は「道」の文化を代表する一冊だと思いました。宗教の点でも芸術の点でも、このホームページの題にしている「精神文化」を代表する一冊だと思います。「閑さや岩にしみ入蝉の声」や「荒海や佐渡によこたふ天の河」は奥行きでもあり、広がりでもあり、見性から生まれた句であるように思えます。冥想の句です。親鸞で言えば、「閑さや岩にしみ入蝉の声」が「竪超」、「荒海や佐渡によこたふ天の河」が「横超」を描いているように見えます。まさに「縦横無尽」です。宗教を特定の教義だと思い込んでいる人にはそこから解放する力があります。心の枠を飛び越えて存在そのものの中に投げ込む力、引き込む力があります。浄土教でいう本願力が宿っています。解放感、開放感、神秘感、神聖感、寂静など、いろいろな言い方ができるでしょう。これらの句は存在そのものから生まれた句で、読む冥想になります。なお渡辺郁夫・著『和の光 文学と平和』(SCL刊)に「『奥の細道』を読む」を収録しています。渡辺が年数をかけて現地を訪ねながら書いたもので、講座ではこの本の一部を用いています。書籍の紹介のページにあります。
(渡辺)

      

前回購入させていただきました「歎異抄を読む」は、
詩のように心にしみいる本でした。
僕にとって、何度でも読み返せる本になっております。
ありがとうございました。

(香川Tさんより)

「詩のように心にしみいる本」という言葉は私にとってうれしい言葉です。
愛読していただきありがとうございます。(渡辺)

     

 (前略)
  ラ−マクリシュナのことばに
 「私は道具、あんたが使い手。私は人形、あんたが意識を通わせている。
  あんたのさせる通りに、私はする。言わせる通りに言う。」とあり
 「たりき じりきは ありません いちめん たりき 才市」
 「一切が仏智に働かされてもろうて、動かされてもろうて、腹も立たせて
 もろうて、愚痴もこぼさしてもろうて、泣く時には泣くようにさせてある、
 笑うと時には笑うようにさせてある。如来のお計らいを自分でヒン握って
 采配しておったつもりの自分が情け無くなる  妙好人 山越 初枝」

 ここが私の目標です。「一切は如来のお計らいだった」と分かることが。

 (広島Wさんより抜粋)

ラーマクリシュナや妙好人は私が関心をもってきたものです。同じような
道を歩いてこられたことがよくわかり、うれしく思います。(渡辺)

     

渡辺様の学識で下記につきご考察頂けたらと思います。現代人には浄土を信ずるのは難しい。
曽我量深師も浄土は善業方便といい、消息にも、「弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり」
とありますが、浄土を介さずして、信心獲得、大安心への「真宗」に発展できないものか。
久松真一師の高弟阿部正雄氏は若年時念仏者でした(白秋のご子息隆太郎氏は禅一筋でしたが)
新念仏道で讃岐の床松、物種吉兵衛、浅原才市のように目覚める道は開かれないものか

( 岐阜Aさんより)

わたしが存在教という言い方をしたのはご質問のようなことを想定したからです。
伝統的浄土教では他界としての浄土に往生することそのものが目的でした。
それはそれでかまわないと思いますが、今の自分をどうするかということが
問題である人にとってはそんな悠長なことは言っていられないでしょう。
死後の救いではなく、今救われることを中心にしているのが、私の浄土教であり、
親鸞の言う「頓教」です。それは長い修行がいらないという意味ではありません。
問題の先送りをしないためのものです。浄土を問題の先送りの場 にしないために
言っているのだと思います。 他界としての 浄土往生は今救われていることの
付録だと思います。  (渡辺)

     

「タンニショウを読む」 時間がなくて、ざっとページを捲っただけなのですが、
時間をかけて、心を込めて、丁寧に書かれた本だと云うことはわかります。
落ち着いた情熱を感じさせられます。
最後にある、 「私は信仰を信条や信念とは区別している。信じれば救われるのではない。
信が起こるから救われるのだ。」と云うのは名文句ですね。

(京都Fさんより)

最後の言葉に注目していただきありがとうございます。浄土教が信仰の大安売りを
ているのでも、また争いの種をまいているのでもないことがわかっていただければ
幸いです。(渡辺)

     

『歎異抄を読む』、楽しく読了いたしました。
万教同根の立場から書かれているので、大変理解しやすかったです。
バクティヨガとして理解すると、浄土教の本質が見えることがよく分かりました。
読んでる途中から、念仏が唱えたくなり、今も毎日唱えています。
私はキリスト教が長いので、バクティ系の宗教は性に合うようです。
なんとも言えない安心感で満たされる感じです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
(中略)
しかし、渡辺さんのこの本は、万教同根をどうどうと唱え、しかも、チャクラという視点で様々な宗教の存在意義を
とらえるなど、 非常にユニークで価値ある書物だと感じます。
学問をやるとどうしてもアジナーチャクラ優位になってしまい、『信愛』が論理面だけで語られてしまうきらいがある
のに対し、 渡辺さんの著書は学として浄土教を研究された経験をお持ちでいながら、存在に対する信愛が満ちて
いる感じがし、 読んでいるうちに自然に念仏を唱えたい気持ちにさせれれました。
(後略)

(神奈川Hさんより抜粋)   

私の本が「読む念仏」になればと思いましたが、読んで実際に念仏してくださればもう言うことはありませせん。
また理論的な面もしっかりと読みとっていただき、現代の浄土教を打ち出すという意図も理解してくださっており、
うれしく思います。  (渡辺)

    

「イリュージョン」を知ったのはもうずいぶん前のことです。
感動したとか面白かったとか そういう読み物ではありませんでした。
とらえようがないけど 妙にひっかかる 変な感じの本でした。
初めて読んだ時も今も「救世主入門」は”本当のこと”だと感じていました。
これをわたしもいつか理解できる時がくるかもしれない・・
そんな思いで何度となく読み返していました。
すごく好きな本でした。
 
初めて読んだ日から 時間が過ぎ、経験が過ぎ、だんだん
あの中に書かれていることが「ワカル」という感覚も感じられるように
なりました(少しですけど・・)
「ああ スゴイ本だ・・」と感じていた矢先、渡辺さんのHPに出会いました。
「ダンテス・タイジ」という名前は無明庵EO師のHPで目にしていました。
でもいったいどんな人物だったのかは全く知りませんでした。
 
本はタイジさんの人柄が感じられてとても馴染みやすい雰囲気です。
いま 読み進めながら「先を知りたい」という気持ちと
「読み終えるのが惜しい」という切ない感じを味わっています。
感想は また改めましてじっくり感じてから差し上げたいと思っています。
 
ひとつ お聞きしたいことがあります。
わたしはあの「イリュージョン」の最初にある「イントロダクション」の寓話が好きです。
最近になってようやくあの寓話の意味が「ア・・ワカッタ」という感覚があります。
あの寓話についてタイジさんは何かお話しされたことはなかったのでしょうか。
そんなことが気になりました。
 
きょう 「十三番目の冥想」を手にして「こんなことってあるのかしら」と思いました。
魔法みたいです。
いま ここに「本物の救世主入門」があるんですから。
この不思議をどう言い表すのかわかりません。
 
あの日 これからやってくる未来になんの不安も抱いていなかったわたしに
「イリュージョン」を手にとるよう仕向けたのは誰なんでしょう。
そういう存在があるのならわたしはその存在に感謝します。
・・もしかしたらそれは自分自身かもしれませんけど・・。

(長野Yさんより抜粋)

ホームページを開いたとき、「イリュージョン」からダイジにたどりつく人が出ることを期待していました。
すでにダイジのことを知っていた人からはそれ以前から接触がありましたが、「イリュージョン」の読者
の方とはホームページを開かなければつながりがなかっただろうと思います。
Yさんのお便りはその経緯がよくわかり、ホームページを開いた甲斐があります。
「イリュージョン」という本は「イントロダクション」の寓話と「救世主入門」が本当の中心かもしれません。
{イントロダクション」で救世主を廃業する話はイエスキリストとダイジの違いをよく表していると思います。
水瓶座の時代の救世主像を暗示しているようです。  (渡辺)

      

ダイジの著作を初めて知ったのは、大学4年生の頃でした。 

書店で偶然、 『アメジスト・タブレット・プロローグ』を見つけたのがきっかけでした。
 
現在は、『アメジスト〜』の他に、同じく森北出版の『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』を持っています。
『絶対無の戯れ』も読んでみたかったのですが、既に絶版になっているということでした。
 
残念なことに私は、ダイジの言葉を、真の意味で理解することはできないのですが、
それにもかかわらず、ダイジの「言葉そのもの」から、何故か、安らぎのようなものが漂ってくるように感じられたのです。 
頑なになりがちな私の心を、優しく解きほぐしてくれるような・・・そんな感覚を覚えました。
そんなわけで、 行き詰まったときなどに、折に触れてページを開くようになっていました。
リチャード・バックの『イリュージョン』と共に、私の大切な愛読書でした。 
 
最近になってから、『十三番目の冥想』という講話録があることを知り、
さらに渡辺様のホームページを通じて、 講話録が頒布されており、入手可能であることを
知って、心が躍りました。今こうして講話録を読むことができるのも、渡辺様のおかげです。 
感謝いたします。 
 

(兵庫Mさんより抜粋)

ダイジの本は「読む冥想」になります。それを優美な言葉で表現されていて感心しました。
今後も折に触れて読み返してください。時に応じて答えが返ってくると思います。
『絶対無の戯れ』が絶版になったのは残念ですが、東京の古書大予言に入ることが
あるそうです。古書大予言の連絡先は「書籍の紹介」のページをご覧下さい。
(渡辺)

     

東京の「古書大予言」で「十三番目の冥想」を買った者です。
とても素晴らしい内容で感激しました。

むかし、はじめてダイジの著書を手にしたときは、
なにやら摩訶不思議なことばかり書かれていて、
正直言って胡散臭く感じたのですが、
最近ふと「アメジスト」を読んでみたら、
とつぜん彼の言葉が理解できるようになり、
驚いて彼の本をもっと読みたいと思って探してみたら、
この「十三番目の冥想」にめぐり合ったというわけです。

このような本を出してくださったことに深く感謝しております。
ぜひこれからもっとダイジの本を世に出してほしいものです。
(後略)

(神奈川Nさんより抜粋)

ダイジの本や「十三番目の冥想」を手にされた方の中で、何年か経ってから突然その言葉が響いてきた、
あるいはその言葉の意味がわかり、それから愛読者になったという方がよくあります。
それがこの本の性質を よく表していると思います。   (渡辺)

    

よく寄せられるご質問への答え


ダイジの本にある「基本推薦図書12冊」について問い合わせがありましたので、以下に紹介します。

「臨済録」
「イリュージョン」(リチャード・バック 集英社)
「維摩経」
「自己変革の方法」(クリシュナ・ムーティー)
「愛の叡智」(ヴィヴェーカーナンダ)
「イクストランへの旅」(カルロス・カスタネダのドンファン・シリーズより)
「荘子・内篇」
「生と死の記録」(佐藤幸治 講談社)
「究極への旅」(ラジネーシ)
「生命の実相」シリーズより 「観行篇」「生活篇」(谷口雅春 日本教文社)
               「観行篇」と「生活篇」で2冊です。
「バガヴァッド・ギーター」

ダイジの行法について

ダイジの『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』を読んでクンダリニーヨーガに興味を持ち、独習しようと
される方があるようですが、独習は危険だと思います。クンダリニーヨーガの指導をしているところを
尋ねられることがありますが、私が知っているのは本山博氏のIARP(国際宗教超心理学会)で開いている
各種のヨガ冥想クラスです。本山博氏の各種の著作はダイジの推薦書でした。本山博氏の講座で具体的に
どのような指導が行われているかは知りませんが、著作から見ると、チャクラの覚醒法なのだろうと思います。
一応参考までに紹介しておきます。
ホームページはhttp://www.iarp.or.jp/です。
禅については禅寺に行かれればいいと思います。


ダイジの私家版についてのお問い合わせ

現在頒布していません。私家版のうち、最も分量があるのが、『メディテーション・トラベルガイド』ですが、
その中の『原典救世主入門』は『十三番目の冥想』に付録として入っています。また2002年3月発行の
『君がどうかい?』に『メディテーション・トラベルガイド』の後半部の朗読が入っています。
他に講話としてテープがあるものは、将来講話録の一部に入れたいと 思います。
『超宗派的冥想』は紹介の予定はありませんが、内容的には『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』
にほぼ含まれています。


今後のダイジの講話録の発行についてのお問い合わせ

できれば1年に一冊くらいの割合で発行したいと思いますが、はっきりとしたことは言えません。
今年(2002年3月)講話録の2冊目『君がどうかい?』の発行にようやくたどり着きました。みなさんのご支援のおかげです。

1冊目『十三番目の冥想』、2冊目『君がどうかい?』に続き、3冊目『最高に生きたい』、4冊目『素直になる』の講話録4冊と、
講話録付属の録音CD6枚を発行しました。
書籍の紹介ページをご覧ください。

ダイジの死についてのお問い合わせ
(なぜ亡くなったのか、またその死因について)

この件については「即身成仏」という言い方もされているようですが、それは一つの解釈でしょう。
ダイジの人生そのものが大きな謎であり、死もその謎の一部です。
その謎の中から、 必要なとき、必要な人に、そのメッセージが届くのだと思います。
それを受け取るときダイジとの出会いが起こります。
いったんそれが起きれば、肉体的にダイジが生きているか死んでいるか、
またその死に方がどうかはもはや問題ではなくなると思います。

この件についてのご質問に私がお答えしたものの一部を下に引用します。


「このことについては「十三番目の冥想」を発行したときからよく受けた質問です。
それで私のホームページにぼかした形で書きました。
「自殺」という受け取り方は、私の書き方からそのように受け取られた方もいると思
います。
その解釈自体は外面的には間違いとは言えないでしょうが、内面的にはいわゆる自殺
とはかなり違うと思っています。
渡り鳥が帰るように、時期がきたから肉体を離れたのだろうと思います。
ダイジが亡くなったのは、神に目覚めてから20年、東京で冥想指導をして10年、
本も出版していましたから、十分な時間をとったと言ってもいいのではないかと思います。
たとえばイエスキリストに比べれば何倍も長いはずです。
おそらくダイジは37歳で亡くなるまで、途中何度もこのまま世を去ってもいいと
思ったことがあるはずです。

ダイジが長生きすれば自分も会えたのにと思われる方も多いでしょう。
ダイジの人生は、生きていても、亡くなっても、誤解だらけの人生であり、その誤解
は人を容易に近づけないバリヤーのような面があったと思います。
必要な人にしかそのメッセージは届かないのだと思います。
そのメッセージを受け取る上で、死因は特に関係ないと思っています。
自殺者の書いたものだから価値がないと思われる方は、ダイジのまいたバリヤーに
ひっかかっているのでしょう。
ダイジを聖者としてあがめたい人には困ることかもしれませんが、自分の問題を解決
したい人にとってはあまり関係ないと思うのです。

お気にめさない考え方かもしれませんが、以上のように考えています。」

    


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