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(2024.10.6)『能入抄』発刊

 連載しておりました『能入抄』が100回に達しましたので、単行本として発刊しました。電子書籍です。親鸞の浄土真宗開宗800周年という記念の年に、『歎異抄講義 第二期』に続き、『能入抄』を発刊することができました。今年は1月1日に能登地震が発生し、また9月にはまたしても能登で豪雨が起き、この世のことについては不安が尽きない状態が続いています。しかしだからこそ永遠を語るべき時代でもあると思っています。今回の発刊で、当面予定していたものはほぼ出すことができました。これからのこととしては、記事の執筆と論文の執筆、講演はある予定ですが、それらをまとめて単行本にするには時間がかかりますので、しばらく単行本の発刊はないかもしれませんが、今後も永遠を語り続けようと思います。今後ともよろしくお願いします。



(2024.8.6) 学会発表について

 2024年8月24日(土)明治大学駿河台キャンパス・リバティタワー1076号室)で開かれるアジア民族造形学会で渡辺郁夫が発表することになりました。「親鸞と聖徳太子信仰 ―浄土信仰との整合性をめぐって―」という題で発表する予定です。今年度は当日配布される学会誌に寄稿しており、寄稿だけで発表はしない予定だったのですが、8月になって事務局から発表の要請があり、急遽発表することになりました。本日ある程度発表データの用意ができましたので、ここに発表のお知らせを載せることにしました。『法華経』研究者として高名な植木雅俊先生による基調講演の後です。15:00〜17:00の時間帯の中で、30分程度の時間です。昨年から今年にかけて学会誌に書いたことの概略を話す予定です。以下に学会HPへのリンクがあります。

(追記)2024年8月24日に明治大学で発表しました。ご来場の皆様、ありがとうございました。学会誌に寄稿した論文はこの後、学会事務局を通してJ-STAGEに掲載される予定です。

イベント | アジア民族造形学会 (aef-a.com)



(2023.12.28) 2023年回顧と2024年に向けて

 例年この時期にその年の回顧と新年に向けての思いを述べてきました。今年は8月15日の終戦記念日に当たり経験したことを書きました。偶然にも終戦記念日での経験になったと思ったのですが、ひょっとしてそうではなかったのかという気になりました。これまでも同様の経験はあったのですが、それ以後のことを少し書きます。
 2023年は774年に空海が生まれて1250年目の年ということで、ここ数年テレビ等で空海が取り上げられることが多くありました。その中で空海との不思議な出会いを経験したのですが、それ以後も不思議な縁が続いているように思えます。ある寺に行った時のことですが、その寺は役行者が開き空海が再興したと伝わる寺です。一般的に寺では本堂内や本尊が撮影禁止ということがよくありますが、その寺は山門の中が撮影禁止となっていてこれほど厳しいところは少ないでしょう。山門をくぐってしばらくすると次第に意識が変化し始め、小さな滝があるのですが、そのあたりからまたたくまにぐわーんと拡大し立ち尽くしてしまいました。当分の間そうしていました。目を開けると修行の窟が見えます。しばらくして少し進みまたある意識に浸るという感じで、それを繰り返しながらかなりの時間をかけて境内を巡りました。山門を出るといつのまにか通常の意識に戻りました。山門内では撮影禁止どころかそういうことさえ頭に浮かばなかったので、撮影禁止の意味がわかったような気がしました。役行者や空海の時代に撮影があるはずがありません。その時代と同じようにするとすれば撮影に意識が向くはずがありません。修行の場であり別世界なのだとわかりました。そこからまたこの世界に戻ってきた感じでした。それを体験する場なのだとわかりました。
 年末にかけても場所を変えながらそういうことが何度かあったのですが、その中で2023年10月7日にパレスチナのガザ地区からイスラエル側への越境攻撃と人質奪取という衝撃的事件が起こりました。その事件を知った時に、その事件の衝撃とともに、8月15日の終戦記念日以降の経験はこの事件に備えるためだったのかもしれないという思いが起きました。もちろんだからと言って私が何かできるわけではありません。宗教学の授業でユダヤ人をめぐる古代からの経緯を語ったくらいです。しかしここ数年、私自身の身辺に起きてきた高齢の父母の病気から始まった様々な人生上の困難と、コロナ禍以降の世界情勢、ロシアのウクライナ侵攻、パレスチナでの紛争、ミサイルが飛び交う東アジア情勢という自分が置かれた困難な環境を考えると、その中でも完全なものがあるということを繰り返し経験できることは大きな救いです。多くの人にそういう経験があれば少なくとも人間同士が敵対しあうような世界にはならないはずです。人の世には調和がもたらされるはずです。古来様々な冥想法が説かれてきましたが、その意味がよくわかります。人間が世界と人間の本性を自覚し、その本性の自覚に基づいて生きるということ、それが宗教の意義です。またそれを言い換えれば彼岸と此岸を結ぶものとして宗教があるということです。私ができることは念仏三昧を語ることだけですが、宇宙的意識が私にそうさせているのだと思います。宇宙的意識が流入するのです。それが本願念仏です。一個人に起こることですが大事業です。大乗とはそういうことです。
 書いている内に年末ということで最後のメッセージのような気がしてしまいました。それでは皆様よいお年をお迎えください。失礼します。



(2023.8.15) 終戦記念日と浄土門

 ここ数年、この「SCL便り」は年末に書いていました。いつもあっという間に一年が過ぎ、連載している「能入抄」の新年の記事をアップしてから、このコーナーで一年の振り返りをするという年が続いていました。以前の記事を見ますと、2016年8月に原爆記念日に当たり、このコーナーに記事を書いていました。8月にこのコーナーの記事を書くのは7年ぶりということになります。

 少し経緯を書きますと、昨日自宅にいたところ母が入所している施設から母の体調がよくないと連絡があり、お盆の時期なのでどうしようかということでした。施設に行ったところ、これまでの面会はコロナの関係でワクチンの接種証明を提示して施設の玄関口で会う形だったのですが、母のいる室内に入っていいと言われました。母はコロナの最中に入所したので、その部屋に入るのは入所時に室内に所持品を持ち込む際に入っただけで、久しぶりでした。
 
 母はベッドで横になっていて熱があるとのことでした。この発熱はここ数ヶ月に何度もなった蜂窩織炎のせいだろうという予想でした。母が足が痛いというので触ってみると確かに熱っぽいのですが、これまで見た蜂窩織炎の際の腫れに比べればそれほどでもないような状態でした。施設に行く前にこれまでも通院した皮膚科の予約をしたのですが、お盆休みのために予約日まで4日もあり、その間どうしたらいいのか、施設の人と話し、とりあえず解熱剤を飲んで様子を見ることになりました。蜂窩織炎の再発は抵抗力の衰えた高齢者にはよくあることだそうで、これまでは連絡を受けて皮膚科に連れていくという形だったのですが、今回お盆で日数があくという事態になりました。病気は時期を選んでくれません。ベッドに横たわっている母の姿は痛々しくて何とか乗り切ってほしいと願うばかりでした。

 母のように戦争を経験した世代は、昨日のニュースによれば日本の人口の1割だそうです。その子どもの世代である私も60代半ばになり、私はまだ仕事を続けていますが、子どもの世代も現役世代ではなくなりつつあります。社会での発言力は低下するでしょう。世界的にも同じ現象が起きていて、ロシアのウクライナ侵攻のようなことが起こるのも世代交代と関係があるのでしょう。直接経験した世代やその体験を生で聞いて育った世代とそれ以降の世代で戦争や平和への考え方が違ってくるのはやむを得ないかも知れません。しかし同じ起こる変化なら戦争なんて知らないというのが当たり前のような時代になってほしいものです。そんな野蛮なことをしていた時代があったのですかと言えるような時代はいつ来るのでしょうか。

 そういう思いで昨夜は母のことを心配しつつ眠りにくい床についたのですが、今朝方起きてみると何か意識状態が変化しつつあるような感じがしていつの間にか念仏が止まらなくなってしまいました。「信心開発」と言いますが、何かが突発的に開ける感じで、あえて言えば、永遠そのものの、命そのもの、真実そのものという感じです。髪の毛一本入る隙がありません。当分の間それに浸っていました。そのうちやがてしだいに通常の意識に戻っていきました。そして思ったのは、昨日のつらい思いが逆転してこういう意識状態になったのかなという思いでした。伊福部隆彦先生が自分は俗情的に苦しいことがあると、ある意識状態に入るということを書かれていて、私自身の場合もその傾向があるような気がします。いわゆる「悪人正機」です。反転させる力が働くのだと思います。復元力と言ってもいいかもしれません。本来のあり方に復帰させようとする力が働くのだと思います。母の衰えた姿はまさに無常そのものですが、しかし一旦さきほど述べたような意識状態を経験すると、永遠そのものの、命そのもの、真実そのものの存在をはっきりと自覚します。いわゆる「不死」を得るということです。それが本当のあり方なのだと知らされます。伊福部隆彦先生は「人生道場」と言われましたが、自身の経験から厳しい現実と直面することによって開かれる世界があることを語っておられます。「念仏道場」というのも特定の場所のことではなく、「生老病死」の人生そのものだと思います。
 
 私と同世代の方で、高齢の親の介護や世話をしているという方は多いと思います。その現実だけを見るとつらい気持ちになるのが当然だろうと思います。私は父の死を先に経験したのですが、その約一年前から父の入院と自宅に一人で残った認知症の母の世話をする状態が続いて、母の入所後はそれがある程度軽減されたのですが、それでも母がよく体調を崩すので昨日のようなことが断続的に続いています。父の入院から数えると四年間こういう状態が続いています。母は入所してからも、脳梗塞なのでやむを得ないのですが、施設の室内で転倒して整形外科に連れていったところ骨折していたことがありました。数ヶ月かかってようやくそれが治った後から蜂窩織炎になり再発を繰り返しています。父の入院中からそうですが、電話がかかってくるとはっとします。電話に出たくないような気持ちになることもありますが、逃れようがありません。電話が恐いという経験がある方がおられると思います。

 そういう現実に直面する一方で、全面的な救いがあることも実感しています。何一つ残るものがない丸ごとの救いです。そしてこの二重写しの状態で生きていくことになります。別の言い方をすれば、「信心の智慧」が無分別智で、その無分別智をベースにして、無分別智に裏打ちされた分別知でこの世界に対応するとも言えるでしょう。あるいは「安心」という不動心をベースにして千変万化する現実に対処するとも言えるでしょう。ヤジロベエのように不動の一点があるか、糸の切れた凧のようになるかの違いです。あるいは天台で「空仮中」の「三諦円融」と言うのに当たるでしょう。ただし「三諦円融」というと円満で調和的なイメージでしょうが、厳しい現実と表裏一体です。そこに開けるのが逃れようのない現実との直面が引き起こす「全面全称」の世界です。「開発」という「開放」と「解放」の世界です。「生老病死」の全てにおいてそれが起こります。この現実の奥側から、向こう側から我々を現実に正対させ乗り越えようとさせるのが本願力です。ともすれば逃れようとする我々に現象世界を乗り越えさせようと働く真実の力です。禅の「面壁」も、此岸から彼岸へと向かうベクトルとしては同じです。一本の矢印のどちら側から語るのか、向こう側から語るのかこちら側から語るのかの違いです。浄土門は矢印の指し示す側、向こう側からの力の働きとして語ります。それが救いです。その力は全世界に及びます。一本の十字架が全人類を救うように一称の念仏が全世界の救いになります。何一つ残るものがありません。これが浄土門です。もはや門とは言えない開かれた世界です。全世界の救いを語るのが浄土門です。全宇宙の救いです。御名は全存在語であり、全宇宙語です。欲望には領域があります。しかし本願には領域がありません。これが欲望が本願に勝てない決定的理由です。逆に「私は世に勝ったのだ」とキリストは語るのです。この勝利宣言は全世界、全宇宙が救われるということです。全人類、全世界、全宇宙の救いを語るのが浄土門です。浄土門はそのために開かれたのです。浄土門の一人としてそのことをお伝えせずにはいられません。

 同じような立場にある方には救いそのものを実感していただくのがいいのでしょうが、少なくともそういう世界があるのだと思っていただけるだけでもいいかもしれません。たまたま終戦記念日に当たり経験したことを書きました。ご参考になれば幸いです。

アジア民族造形学会での発表について

 2023年8月27日(日)に東京神田の学士会館で開かれるアジア民族造形学会で「親鸞と聖徳太子信仰」について発表の予定です。学会誌にはすでに投稿していて発表用の資料を準備しています。20分間の発表ですので時間的には短いものですが、2021年から2022年にかけて聖徳太子1400回忌に合わせて広島で四回講演をしましたが、その内容を基に学会発表用にまとめたものです。コロナ禍の関係もあり、東京に行くのは久しぶりです。学会の友人とも再会の予定です。なお発表後は学会を通して論文を掲載予定です。今週チラシが届きましたので掲載します。
2023asia.pdf へのリンク
 学会のサイトに論文を掲載しました。以下がそのリンクです。
「親鸞と聖徳太子信仰」渡辺郁夫・2023年度アジア民族造形学会誌 第19号 2023年8月27日発行「2023年度アジア民族造形学会誌 第19号」に掲載された論文です。学士会館で開かれた学会で発表したものです。 | アジア民族造形学会 (aef-a.com)

中国新聞文化センターでの「歎異抄講座」2023年10月からの再スタートについて

 中国新聞文化センター(広島市)で毎月第三日曜日を原則に開講しています渡辺郁夫担当の「歎異抄講座」が2023年9月17日の86回目をもって第二期を満了することになりました。第一期が78回で満了でしたので、少し回数が増えました。渡辺が大学で『歎異抄』を読むゼミが2年後期から4年にかけて75回の予定ですのでこれくらいはかかるのだと思います。
 この「歎異抄講座」が10月から新たに第三期に入ります。それに合わせて中国新聞に新たな講座案内が9月中に掲載される予定です。広告の文面の元になるものを出すように要請がありましたので、以下のようなものを送りました。記事の分量の関係でこれを縮小したものが載るだろうということなので、ここに掲載します。

 『歎異抄』は親鸞の言葉を弟子の唯円が編集したもので、親鸞思想のエッセンスが語られています。親鸞の著書としては『教行信証』が有名ですが、大部で難解なために近代以降『歎異抄』がよく読まれてきました。『歎異抄』が分量的に少なく読みやすいという面もありますが、語録として親鸞の肉声を聞くような思いにとらわれるのが『歎異抄』の魅力です。またその内容が近代的精神が求めるものに合致し、人間存在の核心に迫るという面もよく読まれるようになった理由として考えられます。その『歎異抄』を渡辺郁夫・著『歎異抄を歩む』(みずのわ出版)をテキストに、仏教概論、浄土教概論を取り入れながらはじめて『歎異抄』を読む人でもわかりやすいように解説していきます。2023年10月からあらためて『歎異抄』の冒頭から再スタートします。

中国新聞文化センター

 この2023年9月で「歎異抄講座」の第二期が満了になりますので、その後編集して電子書籍として刊行する予定です。2024年には発行したいと思います。第三期が始まるに当たり、すでに刊行した第一期の一回目の講座を聞き直してみました。2009年10月が第一回目でした。この時に使ったICレコーダーはメーカーは同じですが現在使っているものとは違い、録音のデータ量を見ると今のものより少ないので音質は違います。ただ自分が今聞いても内容的には全く問題ないものでした。新鮮であっという間に終わりました。当然続く講座なのですが、一回完結でもいいものでした。現在私は茶道部の顧問をしていて、できるだけ会に顔を出していますが、一時間いてもあっという間です。「一期一会」が茶道の精神ですが、念仏も全く同じです。一杯の茶碗が命の器となるように人も真実の器となります。注がれたるものになります。常に新しい命が湧いてきます。20歳から書き始めてここまで書いてくることができたのも、あるいは『歎異抄』について書いてまたそれを何年も語ってきたのも新しい命が働いてきたのだと思います。命の泉があり、そこから湧き上がるのが本願念仏です。この命の証しとして第三期に臨みたいと思います。
 なお『歎異抄講義・第二期』の発行を2024年に予定していることを書きましが、その後の予定としては連載している『能入抄』が2023年8月号で86回ですので、2024年に100回になるはずです。その後、書籍化したいと思います。前回同様の連載だった『歓喜光 発掘歎異抄二』は紙版と電子書籍の両方を発行しましが、『能入抄』は電子書籍だけになるかもしれません。また『浄土教論集三』も予定していますが、これは2021年から2022年にかけて聖徳太子1400回忌に合わせて4回講演したものをもとに順次論文にしていますので、何年かかかりそうです。また2010年から雑誌に連載している「中国夢回廊」は2023年9月で43回になりますが、これは発行元との関係があり、私としてはまだ続けられますが、どうなるかわかりません。また書籍化についても同様です。SCLの新刊書籍の発行が2016年以降ありませんが、活動を停止しているわけではありません。何年かかけて蓄積したものを書籍化していますので、間隔があく結果になっています。2024年度からまた発行できそうです。書くことと語ることはこれまで通り続けていきます。今後ともよろしくお願いします。



(2022.12.30)2022年回顧と2023年に向けて

 2019年末からコロナ禍が始まり、いまだに感染が続き、この12月には1日の最多の死者数を更新してしまいました。ワクチンさえ打てば何とかなると思ったのはどうも違っていたようです。ワクチンは有効な期間が短く、また若い人は副反応が強いということで回数を重ねるごとに接種率が落ちているようです。
 
 このコロナ禍で今年の2月から始まったロシアのウクライナ侵攻は終わりが見えない状況が続いています。そのためにエネルギー価格があがり、我が家でも電気代が明らかに上がっています。物価高は終わりの見えない状態が続いています。連載に火災保険料のことを書きましたが、5年契約の更新期に約2.5倍になっているのに驚きました。これは災害が多発するせいなので、エネルギー価格の高騰や物価高とは要因が異なります。ただ家計は同じなので、多くの人が影響を受けるはずです。

 ウクライナで多くの人が家を失う状況を見ましたたが、これらは保険の対象になるのでしょうか。ならないとしたら生活の再建はどうなるのでしょう。この12月には広島でも大雪が降り、大変でしたが、ウクライナの寒さはこの比ではないでしょう。一日でも早く平和な日々が訪れることを願います。

 2022年は一般向けの大きな講演が4回あり、その準備におわれました。2023年は今のところは1つです。まずはその準備をしたいと思います。2023年がどういう年になるのか。1173年生まれの親鸞の生誕850周年の年ですが、それを祝えるような年になってほしいものです。皆様よいお年を。失礼します。



(2021.12.24)2021年回顧と2022年に向けて

 1年前に新型コロナウイルスのことを書き、1年後にワクチン接種で状況がよくなることを願いましたが、一時的にはその方向に向かいつつあると思ったのですが、11月末にまた新たな変異株が見つかり、そこから1月足らずのわずかの間に世界中に感染が広がりました。イギリスやロンドンの状況はワクチン接種の先進国とは思えない状況です。日本はワクチン接種が遅れた分だけワクチンの効果がまだ持続しているのかもしれませんが、今後2回目のワクチン接種から半年以上経つ人が次々現れることになります。私の母は高齢者でワクチン接種が2020年6月でしたので、すでに2回目のワクチン接種から半年が過ぎました。新しい変異株が日本で流行する前に次のワクチン接種を受けられるかどうかわからないようなタイミングです。

 2021年度から私はある大学の教員として宗教学や日本思想、日本文化を担当していますが、新型コロナウイルスにより授業に大きな影響を受けました。先日もある学生と話しましたが、その学生の場合、2年間この状況にさらされ、サークル活動がまともにできないことを嘆いていました。学生にとっては授業も大事でしょうが、サークル活動の比重もかなり大きく、それがまともにできないまま学年が進んでいくのは気の毒です。

 私の連載記事もこれまでは割と旅行しながら考えたこと、経験したことを書くことが多かったのですが、ここ2年ほどはそれもままならない状況で、日常の経験や自分が見た映画のことなどを書いています。本当に閉じ込められているようで、早く開かれた世界に出たいという思いです。またこの1年は大学の授業の教材作成が続いたため、時間的にも余裕がありませんでした。ここにきてほぼ後期も終わりが近づき、教材作成も一息つきました。これまでに5科目で75回分の教材を作成しました。コロナ禍のことがなければ、またどこかに出かけながらそのことを書きたいと思いますが、はたして新年がどうなるかわかりません。
 
 この閉じられた状況の中で、2022年1月号の連載記事は「開く」ことをテーマに書いてみました。2021年は聖徳太子1400回忌、最澄1200回忌の年でしたが、コロナ禍でそのことが前面には出にくいような年でした。明けて2022年は聖徳太子遷化1400年、最澄遷化1200年の年で、日蓮生誕800年の年です。日蓮の中には自分は聖徳太子、最澄の後継者だという意識があったと思います。聖徳太子遷化600年、最澄遷化400年の年に生まれたことはそのような自覚を持つには好都合の年だったはずで、そういう計画だったのだと思います。私も『法華経』は優れた経典だと思います。12月27日が今年最後の授業で、白隠のことを話す予定ですが、白隠も『法華経』を読んでいてコオロギの声を聞いて大悟したと言われています。日本仏教の展開の上で『法華経』の果たした役割、特にその「一乗思想」の役割は非常に大きいものがあります。
 
 比叡山で学んだ親鸞の「本願一乗」も「法華一乗」の展開の延長上にあると言えるでしょう。2022年がどういう年になるかわかりませんが、これまで同様に「本願一乗」を語っていこうと思います。2022年もよろしくお願いします。それでは皆様よいお年を。失礼します。



(2020.12.27)2020年回顧と2021年に向けて

 2020年は人類史の中でどういう位置づけになるのでしょうか。おそらくは新型コロナウイルスの世界的流行の年、それによって世界が大きく影響を受けた年ということになるでしょう。

 私の場合、父が6月に亡くなり、仕事がある中で、一連の儀式、またそれに続く事後整理の嵐という年でした。この事後整理の事務的手続きの煩雑さは、よくこんなことを皆さんされているなと思う事ばかりでした。税理士や司法書士の方を紹介してもらい、何とか乗り切りましたが、税理士や司法書士に頼めないこともたくさんあることを知りました。この歳になって初めて知るのかと思われるでしょうが、葬儀の日に、葬儀社の方からもらった事後整理の一覧表を見て信じられない思いでした。まだ幾つかしなければならないことが残っていますが、大きなことはかなり済みました。

 この嵐の日々で支えとなったのは、連載記事にも書きましたが、父の亡くなった日に病院でお経をあげていた時に経験した何とも不思議な気持ちでした。幸せな気持ちとしか言い様のない不思議な気持ちで、まさかそんな気持ちになるとは思いませんでした。『阿弥陀経』を読んだのですが、本当にありがたいことです。世俗の嵐を越えたところには平安の世界があることをあらためて実感しました。

 この父がなくなる前の時点で、今年の紀要の中心部分を書き終えていました。「源信と親鸞」というもので、私なりに考えたことを書きました。2021年3月発行予定です。例年なら夏休みに原稿を書くのですが、今年はコロナ禍の休校のせいで夏休みがなくなることが分かっていましたので、休校中の比較的時間がとれる中で書きました。天台浄土教と親鸞浄土教の関係をあらためて考えました。

 原稿を書き終えたのが2020年5月22日でした。それでその後気付いたのですが、昨年のこの欄の記事に書いたサンサーンスの交響曲第3番のことですが、昨年聴いた録音は、テレビで放送したものを録画したもので、その演奏の日付は2019年5月22日になっていました。原稿を書き終えてこの録画の演奏を聴き直したのですが、その時に気付きました。親鸞の重視した、真実五願と還相廻向の二十二願を合わせたような日付でしたので、縁を感じたのですが、その前の年の同じ日の録画の演奏にまで繋がっていたようで、導きを感じました。父が亡くなってお経を読むときのことにまでずっと繋がっていたような気がします。この嵐の年を何とかここまで乗り切れたのはこの導きのおかげのように思います。

 2021年にコロナ禍がどうなっているのか分かりませんが、ワクチン接種が始まれば状況は今よりはよくなるはずでしょう。それでは皆様よいお年を。失礼します。



(2019.12.30)2019年回顧と2020年に向けて

 2019年、令和元年が終わろうとしています。皆様にとってどのような年でしたでしょうか。広島では広島カープの四連覇は成らず、4位という残念な結果でした。ただし長年応援している身から言えば三連覇が奇跡のようなもので、それ自体に感謝です。長年低迷していてもここまでできるのだと勇気づけられた人が多いと思います。私はよくスポーツの結果を無常の例に使うのですが、1位から6位まである野球のリーグ戦は六道輪廻によく似ていると思います。

 もう一つ無常の例としてよくあげる、気象、特に災害は今年もありました。幸い広島ではさほどの被害はありませんでしたが、関東から東日本で大きな被害を出した台風の時には広島でも大変な風でした。我が家ではその時の風でベランダに置いて固定していた目隠しと雪除けのラティスが倒れたままで、ようやく雪のシーズンになるこの12月に片付けました。20年近く同じものを使っているのですが、秋の台風で倒れたのは初めてのことです。いかにすごい風だったかよくわかりました。皆様の地方ではいかがでしたでしょうか。できれば災害は避けたいものです。

 私の今年の執筆は「能入抄」の連載、「中国夢回廊」の連載の他、3月に広島の寺で講演したものを、「法華経と浄土教」と題して、自費で冊子にしました。これまで同様のものを学校の研究紀要の抜き刷りにしていたのですが、今年から紀要がデジタル版になり、印刷は自費という形になりました。これまでも私の講座の受講者等、有縁の方々に差し上げていたのでやめるのはどうかと思い、自費で印刷した次第です。

 2020年、年明けの3月には同様のものを「浄土教と平等」と題して、発行する予定です。これは今年9月に広島の浄土宗の講習会で話した内容がもとになっています。今のところ2020年の予定として考えているのはここまでです。「能入抄」の連載と「中国夢回廊」の連載は新年も続けます。夏頃にはまたまとまったものを書くかもしれません。

 私は旅行しながら考えたこと、感じたことを書くことが多いのですが、2019年は、春の宮崎と鹿児島、夏の信州、秋の奈良と旅行しました。鹿児島では久しぶりに霧島を訪れ、非常に感動しました。そこが聖地であることを実感しました。今でもその時の感動が蘇ります。今年もできれば旅をしながら考え、感じたいと思っています。

 それでは2020年、令和二年が皆様にとってよい年にりますように。失礼します。

 追伸(2019年12月31日) 
 
 昨日この記事を書いて仕事納めのつもりでした。先週から少し時間ができたので、何本か映画を見ていたのですが、どうも当たりが悪くあまり感動する作品に出会いませんでした。

 今日は大晦日なので、趣向を変えて音楽を聴こうと思い、もちろんベートーベンの第九でもよかったのですが、サンサーンスの交響曲第3番を聴きました。オルガンもあり、ピアノもありという壮大なスケールの曲で、それでいて30数分で長すぎず聴きやすい曲です。今日この曲を聴いてあらためて感動しました。おかげさまで年の終わりを感動で締めくくることができました。

 全くの偶然ですが、サンサーンスという名は日本語風の発音では「三三」が入っていて、さらに交響曲「三」番で「三三三」の曲です。あるいは、はじめの「サン」は「SAINT」なので「聖33」とも読める曲です。観音の変化身の数です。私の持っている音源では33分ほどの曲です。

 またサンサーンスは1921年に亡くなっています。この年は私が何度か言及してきた辛酉の年で、聖徳太子1300回忌、最澄1100回忌の年でした。この曲は私にはそのことを記念した曲のように聞こえるのです。そんな聴き方をしているのは私だけでしょうが、そう思って聴くと感動もひとしおです。何度か書いてきましたが、まもなく来る2021年は聖徳太子1400回忌、最澄1200回忌の年です。ここ数年そのことを意識しながら書いています。

 それではよいお年を。

 追伸その2(2020年1月1日)
 
 あけましておめでとうございます。昨夜、追伸を書いて床についたのですが、朝になり目が覚めて、もう一度サンサーンスの交響曲第3番を聴きました。昨日一年の終わりを感動で締めくくることができたので、一年の始まりも同じようにと思い、昨日とは別の音源でこの曲を聴きました。やはり感動は同様で念仏が止まりませんでした。壮麗な曲で特に二部構成の二部の途中から始まるオルガンの壮麗な響きに圧倒されます。世界が御名を称えているようです。それを表しているように思えます。

 聴き終わりカーテンの外が明るくなっていたのでカーテンを開けるとちょうどビルの上に朝日が昇るところでありがたく拝むことができました。ひとしきり念仏してふと時計を見ると8時6分でした。広島は晴れています。

 昨日は書かなかったのですが、サンサーンスの交響曲第3番は1886年に書かれています。この1886年は私の全てと言っていい十八願と八六=四十八願という本願を表す年のように思えます。今朝デジタル時計の86の数字を見て、昨日書かなかったことを書くべきかと思い書くことにしました。

 こういうのをシンクロニシティと言うのでしょう。言葉や概念としてはユングが提唱したものですが、日本では「縁」と言った方がいいでしょう。新海誠監督の作品の中核はほぼシンクロニシティでしょう。それが「縁」として自然に受け入れられるような構成になっているように思います。美しい自然描写もその重要な要素です。他人にとっては意味のないことでも本人にとっては大きな意味を持ちます。それは愛の一つの表れです。それを感じるとき偶然が必然に変わります。私と同様の経験をしている人がきっと同時にいるはずです。「君の名は」と聞きたくなります。皆様にとってこの一年がよい年になりますように。

 追伸その3(2020年1月2日)

 大晦日に音楽を聴こうと思い、ベートーベンの第九でもよかったのですが、サンサーンスの交響曲第3番を聴いてあらためて感動したことを書きました。今朝はわりと早く目が覚めたので両方を聴いてみようと思い、先にサンサーンスの交響曲第3番を聴き、次に、ベートーベンの第九を聴きました。連続して聴くのはたぶん初めてだと思います。先にベートーベンの第九を聴くと長い曲なので、また充分感動するのでそれ以上聴こうという気にはならないだろうと思います。

 今回連続して聴いてみると、歴史的な順とは逆ですが、サンサーンスの交響曲第3番の第二部の後半でオルガンの壮麗な響きから始まる部分と、ベートーベンの第九の第四楽章で独唱と合唱の声楽が加わる部分、いわゆる「歓喜の歌」の部分はよく対応していると思いました。

 私は「歓喜の歌」を聴くと、親鸞の「歓喜光」を思い出していつも感動するのですが、今朝もそうでした。親鸞の書いた「歓喜光」の書の複製が我が家にあり、あの跳ね上がるような書体は本当に親鸞が歓喜を感じて書いたのだと思います。同様のものが入っているのを感じます。

 歴史的には、親鸞の「歓喜光」、ベートーベンの第九、サンサーンスの交響曲第3番の順ですが、時間を越えた世界では全く同時に、今響いているのを感じます。まさに「今現在説法」です。『阿弥陀経』の言葉です。

 今『阿弥陀経』の言葉を引用しましたが、ベートーベンの第九も、サンサーンスの交響曲第3番も浄土教と対応するものがあると思います。サンサーンスの交響曲第3番で言えば、第一部の前半が無常で苦楽の交錯する不安の世界、後半が常住で平安の世界で、対照的に描かれています。これを『往生要集』で言えば、前半が「厭離穢土」、後半が「欣求浄土」に当たります。第二部では二つの世界の交渉が描かれ、特に後半では世界が御名を称える本願念仏の世界が圧倒的スケールで展開します。真実の世界はこちら側にあることを宣言しているようです。ですから念仏が止まらなくなります。これがベートーベンの第九では「歓喜の歌」になります。

 今朝二曲を聴き終わって、昨日と同様にカーテンが明るくなっていたので、カーテンを開けると今朝もビルの上に朝日が昇るところでした。ありがたい気持ちのままで目を閉じて念仏していると、昨日もそうだったのでしょうが、いつのまにかまぶたの裏が赤く見え、これぞ赤心という思いがしました。まごころです。まぶたの血管の色が透けて見えているのでしょうか、本当に鮮やかです。この心を日本人は尊んできたのだろうと思います。

 ひとしきり念仏して時計を見ると今朝も8時6分でした。デジタルの86の数字がきれいに並んでいます。今朝起きたこと全体がオルガンの壮麗な響きのようです。ただただありがたい世界です。『阿弥陀経』の最後は「歓喜信受 作礼而去(かんぎしんじゅ さらいにこ)」です。



(2018.12.31)2018年回顧と2019年に向けて

 昨年の年末に同様の回顧と展望の記事を書いていますが、もう一年経ったのか本当に早い気がします。今年も広島カープは優勝し三連覇を成し遂げました。しかし主力選手がFA制度によって流出しはたして来年はどうなるのでしょうか。スポーツの世界の栄枯盛衰は無常の世界ではあたり前のことですが、同じ無常でも災害だけは何とかならないものかと思います。
 
 平成最後の12月ですが、平成の時代は災害の時代と言ってもいいほどで、阪神大震災で終わりかと思ったら、そうはいきませんでした。東日本大震災、広島では2014年の土砂災害、今年2018年の西日本豪雨とありました。これほど短期間で起こるとは思いませんでした。来年はどういう年になるのでしょうか。新しい年号は4月に発表されるそうですが、気になります。

 私の活動は例年通りで、記事の執筆と講座とを続けました。今年の研究紀要は「法華経と浄土教」という題で書いていました。執筆と校正は終わっているのですが、年が明けてからもう一度校正しようかと思っています。概要としては、従来対立的にとらえられることの多かった浄土教と法華経の関係は、両立するものであり、特に観音信仰が両者に共通するものとしてあります。昭和33年生まれの私にとって、観音の変化身の数である「33」は自分にとって大事な数字ですが、これは法華経に由来するものです。近畿地方の三十三観音霊場は有名なのでご存じの方は多いでしょう。

 私もそんな多面的な活動ができればいいのですが、それが一つの希望です。来年が皆様にとってもよい年でありますように、心から願っています。



(2017.12.23)2017年回顧と2018年に向けて

 2017年の終わりが近づきました。今年は広島では広島カープの連覇といううれしい出来事がありましたが、残念ながら日本シリーズには進出できませんでした。それでも数年前までは、クライマックスシリーズに出るのがやっとでしたので、ずいぶんとチーム力が上がったものです。FAに頼らずに地道にチームを作ってきた成果でしょう。私にとっても励みになります。

 すでに中国新聞文化センターの講座が2サイクル目に入っているのですが、10月にその講座のある朝、テレビ番組の録画を見ていて、それが10周年記念の番組でしたので、自分はこれまでかなり講演をしてきたけれど、何回ぐらいしのか、録音したものを数えてみました。するとちょうどその日が、講演300回目でした。よく続けてきたものだと思います。

 私はある時から、千手観音に親しみを感じるようになり、いろいろなことを書いたり話したりしながら、千手観音のそれぞれの持ち物のように、変化に富んだものを出せたらいいなと思ってきました。講演と書いた記事等で、1000に行けるのではないかと思っていたのですが、その日にこれまでに書いたものを計算してみると700を越えていました。講演と合わせると合計でいつの間にか2017年に1000に達したようです。

 年が明けると1月に私は60歳になるのですが、60歳までにしようと思っていたことの一つが年内に達成できたようです。もちろんこれで終わりということはありません。ただし次の1000作は果たしてできるかどうかわかりません。何とか健康を維持しながら、一作一作進んで行こうと思います。

 2018年は浄土教にとって重要な18願と同じ数字の年です。本願成就の年となるように進んで行きたいと思います。皆様よいお年をお迎えください。



(2016.12.25)2016年回顧と2017年に向けて

 2016年が終わろうとしています。広島では5月のオバマ大統領の広島訪問、広島カープの25年ぶりの優勝と、記念すべき年になりました。私の連載「能入抄」にはこのオバマ大統領広島訪問関係のことを連続して書いています。オバマ大統領の核兵器廃絶への思いは引き継がれると思っていたのですが、大統領選挙では事前の予想に反して、トランプ候補の当選になりました。昨日の新聞ではトランプ次期大統領は核戦力の強化を図ると発言しているそうで、オバマ大統領の路線は否定されようとしています。非常に残念なことです。まだ大統領に就任したわけではありませんので、できれば今後の変化に期待したいところです。

 トランプ次期大統領はアメリカ第一主義を掲げて当選しましたが、アメリカ第一主義はナショナリズムと言っても間違いないでしょう。アメリカに限らず、このところ、世界的に右傾化の傾向が強く、オーストリアでは、すんでのところで極右出身の大統領が誕生するところでした。旧ナチス党員の作った政党の出身だそうですが、テロの影響があるのでしょう、恐怖心が人々を支配しているようです。

 ナショナリズムは愛国心とはいうものの、実態は「愛」よりはむしろ恐怖心です。恐怖による人心の支配です。他国にやられるという恐怖心を煽りながら、人々を強権的に支配します。この恐怖心に闇の勢力がつけこんで、人々を狂わせます。そうして闇の勢力の支配領域が増えるのです。

 ナショナリズムに固まった国がどうなっていったかは20世紀の歴史を見れば明らかです。自称愛国者が国を滅ぼすのを人類はさんざんに見たのです。私はタゴールのことを何度も書きましたが、タゴールの書いた「ナショナリズム」は今も読む価値があります。

 私の活動としては、2016年に『歎異抄講義』と『歓喜光 発掘歎異抄二』を発行しました。『歎異抄講義』は6年半の講義をまとめたものです。『歓喜光 発掘歎異抄二』は9年にわたる連載をまとめたものです。この両者の続編は、それぞれ同程度の年月がかかりますので、次の刊行はそれくらい先になると思います。私は2017年の1月で59歳になりますので、今の職場の定年まであと1年になりましたが、予定していたことはある程度できたと思います。1993年から出版を始め、2016年で24年になりますが、これまでに24点発行しました。さらに学校の研究紀要の抜き刷りの冊子を入れると48点になります。

 2017年の予定としては、3月に学校の研究紀要に、これまで書いたものをまとめたものを発行する予定です。その後の新年度にも研究紀要に何か書こうと思います。もうそれほど量のあるものにはならないかもしれませんが、定年前に何かは書こうと思います。

 人類和合と、普遍的な宗教や超宗派的な宗教心・信仰心。この二つが私のテーマです。これはこれまで書いてきたように、聖徳太子の「十七条憲法」の「和を以て貴しと為す」と「篤く三宝(仏法僧)を敬え」の精神と同じです。人類和合と人類の宗教、これが私の本願です。「大悲無倦常照我」、これからも倦むこと無く語っていきたいと思います。

 最後になりましたが、今日はクリスマスですので、ご支援いただいた皆様に一つの言葉を贈りたいと思います。私からのクリスマス・プレゼントです。12月の私の講座で紹介したもので、講座では大きな反響がありました。『シレジウス瞑想詩集』(岩波文庫)にある言葉です。シレジウスはこう言っています。「キリストが千回ベツレヘムに生まれても、あなたの中でなければ、永遠に無意味である。」シレジウスは12月25日に生まれていますので、今日はシレジウスの誕生日でもあります。この言葉は信仰とは何かを見事に語っています。私の中に真実の生まれる日、それが本当の私の誕生日です。

 それでは2017年が皆様にとっていい一年になりますように。よいお年をお迎えください。



(2016.8.7)71回目の原爆記念日

 昨日8月6日は広島の71回目の原爆記念日でした。私の学校には原爆慰霊碑があります。学徒動員された旧制中学の生徒が多く亡くなっているからです。校舎の裏にあるので目立ちませんが、時折校外からも平和学習の一環として見学者があります。8月6日には花が供えられて趣が変わります。私も朝お参りし、碑に水をかけました。花が生き返ったような気がして、厳かな気分になります。

 参拝の後、研究室で仕事をしました。例年のことですが、この時期に研究紀要のまとめの執筆をしています。これまでに書いたものに新たなものを書き加えました。今年から試験の制度が変わり、夏休み前の試験が無くなったので、夏休みに入る少し前から準備して8月の上旬からお盆前に終わればいいつもりで進めていました。8月4日と5日には福岡に出張があったので、紀要の仕事はその後に持ち越しになりました。

 順調に進んで午後三時頃には、一応終わりました。終わった時になってふと8月6日だったことに気付きました。その日が8月6日だということは朝からわかっていたことですが、紀要の仕事とそのことは切り離して考えていました。今年の紀要にも平和について書いていて、特に力を入れて書いたのは「慈心不殺」という言葉についてです。今連載している「能入抄」にこのことについて書いていますので、ご覧ください。『観無量寿経』の中にある言葉で、「不殺生」を語った言葉です。私が5月に夢の中で見て、そのことに関連して考えたことを書いています。8月6日を意識して終わらせるつもりではなかったのに不思議にその日に終わりました。「慈心不殺」が自分にとって大切な日である8月6日に向けて示された言葉であることをあらためて感じさせられました。

 今後の予定では9月になって原稿を印刷会社に渡して、何度か校正していくことになります。部分的な字句の訂正はあるかもしれませんが、内容的に大きく変わることはないだろうと思います。私は定年が近づいてきましたので、紀要の形で自分が考えたことをまとめるのはそろそろ終わりになりそうです。このHPでの連載や執筆は続けるつもりですが、自分の考えたことが紙版の形にならなくなるのは少し寂しい気もします。初めからデジタル世代である若い人にはこういう感じはないかもしれません。私も電子媒体を使っていますが、まだ紙媒体への愛着があります。今年の紀要も秋以降に充分校正して悔いの残らないようにしたいと思います。



(2016.5.3)熊本地震に寄せて

 4月14日と16日に連続して震度7の地震が起きた熊本地震から半月以上過ぎました。広島でもその揺れを感じました。私は一回目の時には気づかなかったのですが、二回目の時には深夜でしたが、揺れで目が覚めてしばらくテレビの速報を見ていました。その時点ではまだ震度7とは報道されていませんでしたが、夜が明けての報道で、一回目よりも被害が大きかったことがわかりました。

 私は2014年8月20日の広島土砂災害を経験していますので、他人事とは思えません。このHPで「発掘歎異抄」を連載していますが、今回いつもなら5月号の記事を載せるところですが、今回は6月号の記事を合わせて載せました。すでに6月号の記事を書いていて、そこに広島土砂災害のことを書いているからです。

 6月号で「発掘歎異抄」は200回になるのですが、そのまとめとして6月号の記事を書きました。そこに2011年の東日本大震災のことと2014年の広島土砂災害のことと、これらの災害を通して考えたことを書いています。少しでも参考になればと思い、今回の更新では5月号と6月号を合わせて載せました。

 お読みいただければわかると思いますが、私は現代を「無常と無明の複合する時代」と捉えています。今回の熊本地震については自然災害と受け止めるのが一般的でしょうが、東日本大震災の原発事故と広島土砂災害は、原発の存在と大気の循環系の狂いという人間の行為の結果が大きく災害に関係していると思います。無常だけでも人間は乗り超えるのが大変なのですから、無明の要素が複合するならさらに乗り越えるのが難しくなります。

 浄土教は無常に対しては無量寿という永遠の命を示し、無明に対しては無量光という無限の光を示し、両者を合わせて、無限の存在による人間の救いを語ってきました。それをあらためて語る時代になったのだと思います。
 
 最近読んだ本に森絵都・著『希望の牧場』という本があります。福島の牧場で原発事故により放射能に汚染された牛を処分することなく飼い続けている牛飼いの話で、実話です。こんなことがよくできるものだと感心します。

 しかし本当に汚染されているのは我々人間自身です。物質文明に犯され、煩悩に犯され、自分が見えなくなっています。牛飼いが汚染された牛の面倒を見続けるのは、無限の存在が汚染された人間を見守り続けているのと同じだと思います。親鸞の言う「大悲無倦常照我(大悲ものうきこと無く常に我を照らす)」です。この牛飼いの姿に「牧師」の原型を見る思いがします。

 そしていくら汚染されたとしても地球自体が「希望の牧場」であることを忘れてはいけないと思います。そのことに気付くことが地球を守ることになるのだと思います。すでに起こったことは変えられませんが、ヒロシマもフクシマも新たな人類史を築く礎となるのだと思います。

 熊本の一日も早い復興を願ってやみません。



(2015.12.27)2015年回顧と2016年に向けて

 2015年が終わろうとしています。今年印象に残った出来事としては、パリでの二つのテロ事件があります。一度目は新聞社を攻撃したものです。これは言論の自由という近代西欧社会の価値観に対する宗教的原理主義の戦いという面がありました。二度目はそのような理屈を抜きにした一般人へのテロ事件で、劇場とレストランにいた百人を越える人々への無差別攻撃であり、フランスで育ち、その社会への疎外感をもつ人が、ISへの共感から引き起こした事件のようです。またアメリカでもクリスマスパーティーの会場で銃の乱射事件がありました。これもフランスの事件に影響を受けたもののようです。

 一つの社会への疎外感を感じる人によってテロ事件が起こされるという点では、これまでのテロ事件と共通と言えるかもしれません。日本でも戦後、共産主義思想を背景にしたテロ事件がありました。何らかのイデオロギーが攻撃的な態度を正当化する手段として用いられるという形です。大きくはナチズムもそうだったと言えるでしょうし、日本の軍国主義にも天皇絶対主義を背景にしてその面があったと言えるでしょう。

 イデオロギーとテロの呪縛から人類が脱却するのはいつの日でしょうか。二十世紀の教訓が二十一世紀の現代にいかされるべきだと思うのですが、その経験がない人にとっては自分たちのしていることが新しいことに思えるのでしょう。仏教で語ってきた業の輪廻を感じます。

 個人的には長年連載してきた「発掘歎異抄」が200回をまもなく迎えます。100回までを単行本にしましたので、101回から200回までも2016年には単行本にする予定です。またこれと並行する形で続けてきた「歎異抄講座」が6年目を迎えました。これもまもなく歎異抄の全章を語り終える予定です。すでに発行しました「四十八願講義」と同様に「歎異抄講義」として2016年に録音集を発行する予定です。私の考える現代浄土教、あるいは超宗派的信仰、普遍的信仰のあり方を、書籍と録音で伝えたいと思っています。これで浄土教については、理論書、随筆、講演録音と三種類が揃うことになり、一応私の予定していた形になります。1958年に生まれた私は年が明けると58歳になりますが、その年に当初の予定を果たすことができれば何かの因縁を感じます。

 2016年がその記念になる年であってほしいと思います。また2016年が皆様にとってもよい年でありますように。今後ともSCLの活動にご理解とご協力をよろしくお願い致します。



(2015・3・25)『和の光 文学と平和』『四十八願講義』発行

 昨年の秋から新刊を何点か出していますが、この2月に『和の光 文学と平和』、3月に『四十八願講義』をSCLから発行しました。『和の光 文学と平和』はこれまで研究紀要に書いてきたもののうち、書籍として発行していなかったもので、文学と平和関係のものをまとめたものです。文学の方にもかなり平和関係のことを書いています。「和」を題名に入れたのはそのためです。そして今年2015年が広島の被爆70周年に当たることから、この時期にまとめておきたいと思いました。自分が広島の被爆70周年に当たり何ができるかと考えたときに、このことはぜひしておきたいと思ったのです。

 また『四十八願講義』は主にMP3録音によるもので、講義録の形をとっています。PDF版による文書も入れてあり、文書を見ながら聞いていただく形をとっています。講義はどうしても編集が必要で、その手間がかかるのですが、何とか3月に発行することができました。聴いてみるとその時期にあったことが、講義の中に折り込まれていて、時事問題等にどう向き合うのかといったことが自ずと語られています。
 この講義は2011年の法然800回遠忌、親鸞750回遠忌を念頭に置いて、現代の浄土教をどのように考えるかということを一つのテーマとしていました。その最中に2011年3月の東日本大震災が起こりました。講義を聴いていただいた方に震災の経験者がおられますし、私自身も報道を通してですが、心情的には被災者のつもりで語っています。

 それは『和の光 文学と平和』で私が被爆者のつもりで語っているのと同様です。心の被爆者、心の被災者のつもりで語っています。答えはでなくても、同朋同行として当然そのようになると思います。両者をお読みいただき、またお聴きいただければ幸いです。



SCL便り

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