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このページの内容
新連載記事 「能入抄」
これまでこのページで200回連載しました「発掘歎異抄」に続く新連載です。
浄土教を中心にした宗教的エッセイです。
「発掘歎異抄」2016年6月号までの記事1回から200回は 連載記事バックナンバーへ
中国新聞での掲載記事が浄土教部門のページに、紹介記事が書籍の紹介ページに
ありますので、あわせて御覧ください。
掲載記事
「能入抄」
題名は親鸞の「正信念仏偈」の一節「速入寂静無為楽 必以信心為能入」から採りました。
浄土教を中心にした宗教的エッセイです。
第1回から第100回までを『能入抄』として発刊しました。
書籍のページをご覧ください。
新着順に並んでいます。
新着記事へ
☆2024年
12月号102回 「コウソウのシンコウケイ」
11月号101回 「導き」
10月号100回 「振り向けば」
9月号 99回 「年中無休」
8月号 98回 「俯瞰」
7月号 97回 「もう一度」
6月号 96回 「カンセンショウ」
5月号 95回 「ホウカシキエン」
4月号 94回 「希望」を越えて
3月号 93回 「龍の踊るとき」
2月号 92回 「揺るがないもの」
1月号 91回 「証し」
☆2023年
12月号90回 「故人」
11月号89回 「発生源」
10月号88回 「ファイル名」
9月号 87回 「鐘」
8月号 86回 「86」
7月号 85回 「永遠の時」
6月号 84回 「基準」
5月号 83回 「正しさ」
4月号 82回 「永遠」
3月号 81回 「国宝」
2月号 80回 「受信」
1月号 79回 「手」
☆2022年
12月号78回 「78」
11月号77回 「77」
10月号76回 世界が泣いた日
9月号 75回 「主の呼び声」
8月号 74回 「黄色」の椅子
7月号 73回 「黒言」から
6月号 72回 金言
5月号 71回 「正法」
4月号 70回 ハッチ
3月号 69回 「カエル」世界
2月号 68回 「開かれた」世界へ
1月号 67回 「開く」年
☆2021年
12月号66回 「有限」から「無限」へ
11月号65回 「有限」と「無限」
10月号64回 「常時接続」
9月号 63回 「接種」と「摂取」
8月号 62回 「光る糸」
7月号 61回 「白土」
6月号 60回 「2021年のメモリー」
5月号 59回 「2021年」
4月号 58回 「乃至十年」
3月号 57回 「焼き氷」の「氷点」
2月号 56回 「無い」世界
1月号 55回 「成道会」と「浄土会」
☆2020年
12月号54回 コロナ禍の中で
11月号53回 永遠の姿
10月号52回 「いのち」の時間
9月号 51回 父の「いのち」
8月号 50回 「いのち」
7月号 49回 携帯の「往生伝」
6月号 48回 「往生伝」の中
5月号 47回 蓮のうてなに
4月号 46回 「災厲不起」
3月号 45回 「12月8日」
2月号 44回 夫婦蓮
1月号 43回 瞬時に咲く花
☆2019年
12月号42回 闇から咲く花
11月号41回 二千年の闇から
10月号40回 戒をめぐり
9月号 39回 闇の中を
8月号 38回 矛盾の雨音
7月号 37回 「和合」と「和順」
6月号 36回 「鳳凰」
5月号 35回 和合の光
4月号 34回 志士の楼閣
3月号 33回 「再生可能」
2月号 32回 幻の年
1月号 31回 「平成」
☆2018年
12月号30回 「瓦・泥・砂」
11月号29回 「いし・かはら・つぶてのごとく」
10月号28回 「現世安穏・後生善処」
9月号 27回 旗
8月号 26回 反射と感謝
7月号 25回 隣の本願
6月号 24回 二重唱
5月号 23回 「33」と「34」
4月号 22回 「33」
3月号 21回 「一切の有情」
2月号 20回 見る光、感じる光
1月号 19回 光と精神
☆2017年
12月号18回 真実の蔵
11月号17回 「ドリミネーション」
10月号16回 「超越クラブ」
9月号 15回 「横超」の人
8月号 14回 浄めの鶴
7月号 13回 彼岸を目指して
6月号 12回 「道徳的」
5月号 11回 折り鶴
4月号 10回 最後のアーチ
3月号 9回 「五」縁のアーチ
2月号 8回 アーチストの祈り
1月号 7回 西から東へのアーチ
☆2016年
12月号 6回 アーチ
11月号 5回 碑文秘話
10月号 4回 「change」の中に
9月号 3回 「change」
8月号 2回 「慈心不殺」
7月号 1回 「まはさてあらん」
能入抄新着記事
能入抄102回 「コウソウのシンコウケイ」 2024年12月号
・・・「33」・・・
法隆寺の五重塔の高さは32.55メートルで約33メートルである。当時の人がメートル法を使うわけではないので約33メートルというのは偶然だがよくできた話である。聖徳太子信仰はいつしか観音信仰と重なり太子信仰は「救世観世音」としての信仰になった。『法華経』に観音が三十三身を持つとされることから観音信仰には「三十三」がよく現れる。日本で『法華経』の最初の講説をしたとされる聖徳太子についての発表をする場が法隆寺の五重塔と同じ高さというのは不思議な縁である。リバティタワーは120メートルの高さを誇るのでその高さから言えば33メートルの位置を示した理由は何なのだろう。
聖徳太子信仰にはいろいろな要素があり、日本の様々な信仰が融合しているのではないかと思えるほどである。長らく聖徳太子信仰に関わってきたが、私の場合は親鸞の聖徳太子信仰との関わりで考えてきた。日本に聖徳太子信仰を広める上で浄土真宗の果たしてきた役割は非常に大きい。聖徳太子像のない真宗寺院はない。親鸞の直接の師は法然だが、法然像は浄土七高僧の一人として描かれていて大きいとは言えない。聖徳太子は僧ではないがその存在感は高僧以上の高僧と言える。
・・・「唯物」と「唯仏」・・・
いつしか私にとっても聖徳太子の存在感は非常に大きくなり、この連載でも書いた聖徳太子の言葉とされる「世間虚仮 唯仏是真」は私にとっては真実の言葉としていつも響いている。「私にとっては」というのは聖徳太子関係の本を何冊か読むとわかることだが、聖徳太子信仰の中で語られてきた聖徳太子像は次々と否定されるとともに、その像を外側から削っていって最後には芯に当たるものさえなくなってしまいかねない状態である。
先の「世間虚仮 唯仏是真」で言えば、「世間虚仮」が表すのが「唯物」的な見方で、「唯仏是真」が表すのが文字通り「唯仏」的な見方でこの二つをつなげている。それが「仮」と「真」の関係になっているので本当にあるのは「真」である「唯仏」だけになる。聖徳太子像で言えば外側にあるのが「仮」の「唯物」で芯にあるのが「真」の「唯仏」になる。
・・・「虚像」と「実像」・・・
私のような見方ではまず芯に当たる「唯仏」の部分がありそれが核心になって外側に「唯物」的なものが付加されていったという考え方で、付加されるのは磁石のように芯の部分に求心力があるからだという見方である。「唯物」的な見方の人は付加を削りながら内側に進み、何もかも虚像であるように見なしてしまう。それを自分の手柄にして誇っているように見える。大仏を破壊してただの物質に過ぎないだろうと見せているようなものだ。
ただ実像と虚像の境がどこにあるのか見極めにくいので疑う内に行きすぎてしまう面があるのも確かである。疑いと信は両立しにくく全面肯定や全面否定はわかりやすいが、境を引こうとするとどこに引くかで様々な立場になる。親鸞の場合はほぼ平安時代に成立していた聖徳太子信仰に従っていると言ってよく、それで言えば現代の目からすれば虚像と言っていいものも多々含んでいると思われる。
・・・「芯」と「信」・・・
しかし芯に当たる核心は把握されそれが確信になっている。浄土信仰との関係で真実を得たという思いが聖徳太子信仰にも反映し、またそれが相互に反映しあっていると思われる。親鸞においても「真」と「仮」の見方ははっきりとある。浄土の真実を表す「顕浄土真実」というのが基本的立場である。これがまさに「唯仏是真」である。「真実」が見えなければ「虚仮」は見えないということになる。
明治大学がリバティタワーの中に法隆寺の五重塔の高さの位置を示した理由はよくわからない。現代の技術水準を示すためなのだろうか。それとは別に法隆寺の五重塔で示されたものがどんどん先に伸びていっていることを示すとするなら五重塔の芯は今も伸び続けていることになる。聖徳太子信仰が今も生き続けていることを示しているようにも見える。高僧が高層になる信仰の進行形である。
能入抄101回 「導き」 2024年11月号
・・・東京の五重塔・・・
東京で五重塔というとどこを思い浮かべるだろう。浅草寺の五重塔は東京大空襲で焼失したので再建である。寛永寺の五重塔は残っているが現在は上野動物園の園内にあり、旧寛永寺五重塔という扱いである。上野公園全体がもとは寛永寺の境内だったのでいかに規模が大きかったかよくわかる。東叡山と言われるように西の比叡山に対する位置づけで、江戸の中心寺院だったと言えるだろう。
池上本門寺の五重塔は空襲による焼失を免れこれも貴重である。寛永寺の五重塔が上野動物園内にあるのに対し池上本門寺の五重塔は寺の境内にあるので、東京にある寺の境内の古建築としては重要な存在と言えるだろう。東京都内ではないが都内に近い千葉県市川市にある中山法華経寺にも五重塔があり、これも古塔である。旧寛永寺の五重塔、池上本門寺の五重塔、中山法華経寺の五重塔はいずれも国の重要文化財に指定されている。
・・・過去と現在・・・
現在の東京のように高層建築が多い都市では五重塔は決して高い建物とは言えないだろうが、古都の奈良や京都で五重塔を見れば現在でもかなり高いという印象を受ける。まして創建された時代に見た人には驚異に見えたに違いない。世界最古の木造建築とされる法隆寺の五重塔を今でも目にすることができるのは奇跡に近いかもしれない。この法隆寺の五重塔は長らく再建、非再建の議論があったが、現在では再建に決着している。再建と知った上で見ても、それでも世界最古の木造建築であることには変わりないので、やはり残ったのは奇跡に近いかもしれない。
今年2024年は574年生まれとされる聖徳太子の生誕1450年に当たる。また774年生まれの空海生誕1250年にも当たる。親鸞が浄土真宗を開宗したとされる1224年から800周年にも当たる。親鸞の師である法然が四十三歳の時、1175年に専修念仏に開眼したとされ、その開宗の年を1年目とすると850年目に当たる。2024年は日本仏教の重要な節目の年である。
・・・太子の縁・・・
なお聖徳太子との関連で言えば、聖徳太子は622年没で、その200年後の822年には最澄が亡くなっている。また600年後の1222年には日蓮が生まれている。さきほどあげた浅草寺と寛永寺は天台宗の寺で、池上本門寺と中山法華経寺は日蓮宗の寺である。天台宗も日蓮宗も『法華経』を所依の経典とし、日本でその『法華経』の最初の講説をしたのが聖徳太子とされている。これらの寺に五重塔があるのはその縁なのだろうか。
今年あるところから特別講座の依頼を受け、聖徳太子の生誕1450年の年なので、それに因んで「法隆寺と聖徳太子」という題にした。これは10月の講座である。その前に8月に東京の明治大学で開かれる学会で親鸞と聖徳太子信仰について発表があり、聖徳太子漬けの夏だった。こちらの方は昨年も同様のテーマで発表し、その続編である。昨年の会場は学士会館だった。学士会館はその後に立て替え工事に入ったので学士会館で聖徳太子について発表したのは私が最後かもしれない。
・・・タワーと塔・・・
その立て替えのために今年の会場は明治大学になった。明治大学の駿河台キャンパスのリバティタワーというところで、私はその案内があるまで明治大学のリバティタワーを知らなかった。それで学会の前日に上京し、一応会場の下見をした方がいいと思ってリバティタワーに行った。御茶ノ水駅から歩いてすぐである。大学のキャンパスと言っても都心にあるような大学は街と一体化していてどこからが大学のキャンパスかよくわからない。
それでもリバティタワーは他を圧倒していた。日本の大学でこのレベルのタワーが他にあるだろうか。飛鳥時代に法隆寺五重塔を見た人の気分かもしれない。会場に着いて驚いた。会場になる階の高さが法隆寺の五重塔と同じと表示してあった。本当にタイムスリップしたかのようである。過去なのか現在なのか。「永遠」が私を導いたように思えた。
能入抄100回 「振り向けば」 2024年10月号
・・・数量主義か・・・
この「能入抄」と題したこの連載もいつの間にか100回になった。数量主義になってはいけないのでそれからすれば1回目も100回目も同じということになる。前回書いたように「年中無休」の本願力のあり方から言えば一回一回ということになる。そうするといつの間にかそれがある回数に達することになるが、達すると考えるとこれがいつの間にかまた数量主義に陥ってしまうことになる。
この連載とは別の連載があり、そちらもかなりの年数続けている。連載を始めた頃には雑誌に幾つかの連載があり、私はその中で後発だった。いつの間にか他の連載が終わっていき、残ったのは私だけになった。書くことがなくなれば終わるかもしれないし、その雑誌自体がいつまで続くかわからない。コロナ禍の頃は発行が止まってもおかしくはない状態だった。幸いまだ続き私も書き続けている。
・・・美作と備中・・・
今年のこの連載で小早川秀秋のことを書いたが津山をはじめ岡山県に何度も足を運んだのはその雑誌の関係が多い。広島と岡山では距離は近いのだが知らないことが多く勉強になった。津山のある美作の国は法然の生まれた国でもあるし、備中国にはさらに栄西も生まれている。鎌倉仏教を代表すると言っていい浄土宗と禅宗の二つの宗派の開祖になる人が生まれているのだから重要な地域である。
小早川秀秋の記事で小早川秀秋が備前と美作の領主になったことを書いた。小早川秀秋は木下家定の五男だが父の木下家定は備中足守藩の領主なので親子でこの地域に縁が深かったことになる。では二人が法然や栄西に関心をもっていたかというとどうだろう。
・・・縁と向き・・・
戦国時代の修羅場をくぐった人には関係ない話かもしれない。しかし昨年の大河ドラマでもそうだったが徳川家康が「厭離穢土 欣求浄土」を旗印にしていたのは有名である。木下家の人間ながら西軍から東軍に寝返ったと言われる小早川秀秋が徳川家康の旗印を知らないわけがない。彼がもう一度向きを変えていたらと書いたが法然の生まれた美作の領主になったのだから縁はあったはずだ。しかし出会いはなかったのだろう。向きは変わらなかった。「年中無休」の本願力が働きながら一生出会わないままということが起きるのである。縁がありながらも出会わないのはあまりに惜しい気がする。逆に縁がなければ出会えないとも言えるのであり縁の重要さを思う。
そうするとどこかに縁があればそれが端緒になるかもしれない。私の頭には千手観音の姿が浮かぶのだがそれぞれの手に違うものを持ちながらしかも働きとしては同じであるというのは優れた考え方だと思う。これは数量主義とは言えないだろう。一本の幹から多数の枝や葉が生まれあるいは地中にはおびただしい数の根がはるのと同様の命の営みである。
・・・節目の年に・・・
念仏の場合は始まるかどうかが非常に大きい。これが向きを変えるかどうかということである。回心や廻向と言われるものである。親鸞の場合はこの要素が極めて強い。数量主義ならば比叡山を出るのは愚の骨頂である。積み重ねたキャリアを捨てることになるからだ。それは法然の場合も同様で『一枚起請文』の「安心起行」に彼は人生の全てをかけた。同時にそれはそれまでの比叡山でのキャリアを全て捨てることだった。人生の終わりに彼はその全てを『一枚起請文』に託した。
昨年の大晦日に「ゆく年くる年」を知恩院からの中継で見て2023年の終わりと2024年の始まりを迎えた。これまで何度も痛い目にあった節目の年という意識を新たに持った。そしてその日に能登半島地震が起きた。時間が経つにつれまたかという思いよりもむしろだからこそという思いが強くなった。順縁もあれば逆縁もある。無常の中では定められない。しかしどう揺れようが振れようが決して離れないものがある。揺さぶられて気付くこともある。禅なら「脚下照顧」と言うだろう。振り向けば世界が変わる。私が変わる。出会いの力である。本願念仏。全面全称。
能入抄99回 「年中無休」 2024年9月号
・・・「一日違い」・・・
母が今年の2月にコロナに感染したことを書いた。感染がわかった日の次の日がワクチン接種の日だった。一日違いである。ただすでにコロナウイルスに感染していたならワクチンはすぐに効かないので接種しても発症しただろう。電話を受けた時に接種が済んだと思ったのは接種日をはっきりと覚えていなかったからだ。それにしてもこのタイミングというはどうなのだろう。これが同じ感染症でも蜂窩織炎ならそうは思わなかっただろう。
こんなことは考えても仕方のないことで電話が終わってからまず次の日のことを考えた。入試は終わったものの翌日は追試のある日で追試の試験監督は事務職での対応になっている。これが再試の場合は出題者の監督となっているので話が違ってくるが今回は追試なので試験監督は事務職、採点と入力は担当教員となっている。その採点と入力の期限を覚えていなかった。追試があることはわかっていたのに覚えていないのはおかしいが、追試問題を作成して提出したところで済んだような気がして頭が先のことまで回らなかった。
・・・明日のことは・・・
母のことを思うと最短で済ませなければならないが、試験時間が午前中だったことは覚えていた。午前中に試験があり昼休みに答案を受け取り午後に採点と入力を済ませばいいと思った。明日になればわかることだと思ったがやはりその日は寝付きが悪かった。
大晦日に家族の者とコロナが少し落ち着いてきたように思えたので北陸旅行を考えようと話した翌日の元旦に北陸で大地震が起きた。一日違いである。今回はワクチン接種の前日にすでにワクチン接種が済んだと思っていたのに母がコロナに感染した。追試のこともあり、もう一日遅ければ追試も済んで動きやすかったと思った。ただ蜂窩織炎の場合は私が母を医院に連れて行くのだが、コロナ感染では前回2022年8月には接触禁止だったので母のところに行くことはなかった。前回の時は8月6日で広島の原爆記念日だったのでどうしてこういう日にと思ったものだ。
・・・年中行事・・・
無常の中で起こることをあれこれ考えても仕方ないことだろう。今回のコロナ感染は2月の節分を少し過ぎたころで、昔の人ならこういう感染症を目に見えない鬼の仕業のように思ったのだろう。節分の行事は今も続き年中行事として定着している。本来節分は季節の変わり目なので年に四回あるはずだが冬だけに定着したのはそれなりに意味があるのだろう。近年は恵方巻きがはやるが私が子どものころは広島では聞いたことがなかった。現在はスーパーやコンビニで恵方巻きが売られているのを見て節分かと思うようになった。
民間の節分行事の原型はおそらく追儺にあるのだろう。追試は知っているが追儺を知らない人は多いかもしれない。平安時代の宮中行事で民間にも広まった。今年の大河ドラマは紫式部が主人公だが一回目から陰陽師の安倍晴明が登場した。人々の意識を支配していたものが何だったかがよくわかる。安倍晴明は京都の晴明神社に祀られる。神になった彼が現在の恵方巻きを見たらどう思うだろう。節分には恵方巻きでバレンタインデーにはチョコレートと、神道もキリスト教も仲良しなのはいいことだ。争うよりはるかにいい。
・・・昔から・・・
一日違いでどうこうという話は昔からあり今もそうだろう。仏教では無常の一言で済ませるがどうしてこの日なのかということはあるだろう。人によってはそれがメッセージのように思えることもあるだろうし、あるいは考えても仕方ないことを考えていると日の吉凶や占いに結び付く。陰陽師の出番である。
私の追試は次の日に何とか無事に済ませた。ただし午前中試験で午後に採点入力の予定を、昼食を先に延ばして採点と入力を済ませてから昼食にした。急変に備えるにはそれくらいしかできない。日の吉凶にこだわる人にはたとえば「日日是好日」という言葉がある。禅的な言葉である。浄土教はただ念仏である。年中行事ではない。本願力は年中無休である。
能入抄98回 「俯瞰」 2024年8月号
・・・予定・・・
津山の原稿を書いて一息つき、2月にかけて定期テスト、卒論審査、二日間ある自分の大学の入試と続いた。また変則的だが定期テストの追試が大学入試の前後になる形になった。すると定期テスト期間に入ってすぐに追試の申請があった。普通は試験の実施日以降に追試の申請があるので試験の実施前というのは異例だと思ったが、追試問題を作成した。
2月になり試験科目の採点が終わった頃に記事の確認依頼が送られてきた。元の原稿には地図はないが記事には地図がついている。津山城周辺の地図の確認もあらためてした。その雑誌は地図の製作会社が発行しているので地図には誤りがなく逆に地図から見て自分の原稿の内容が正しいかどうか確認した。
・・・城からの俯瞰・・・
かつて鶴山と言われたという津山城跡は津山周辺を俯瞰することができる絶好の場所にある。城を下から見上げるとどうしても裏側は見ることができない。周囲を巡っても頭の中での再構成で全体を見ることになる。城主となればそれが一望のもとに可能である。一国一城の主になりたいというのは戦国時代を生きた武将の誰しもが思い描いた夢だろう。
小早川秀秋が関ヶ原の戦いの際に陣取った松尾山城も全体の戦局を俯瞰できる場所で、戦況を見ながら自軍の動きを決めるぎりぎりのタイミングを計ったようだ。彼の中に寝返りという意識があったかどうかはわからない。戦国の習いで勝つことが第一条件だったのだろう。結果的に彼の判断が関ヶ原の戦いを極めて短時間に終わらせたことは確かだろう。
・・・歴史の俯瞰・・・
その戦功が備前と美作の大大名という地位に彼を昇らせたのだから非常に優れた判断力の持ち主だったということができるだろう。ただしそこで寝返りとか裏切りという評判がその後の人生にどう影響するかまで判断できたかというと難しいところである。戦国時代の最中なら寝返りや裏切りはごく日常的なことで先に述べたように勝つことが第一条件でいわゆる勝てば官軍だった。歴史を語るのは勝者の特権である。死人に口無しである。
しかし彼は戦国時代を終わらせてしまった。関ヶ原は判断基準の変わり目でもあった。江戸時代は秩序の安定を求めて儒教倫理が支配する。小早川秀秋につきまとう寝返りや裏切りという評価は多分に江戸時代の判断基準を過去にあてはめたものだろう。その基準を変えたのは自分だったことになる。名将なのか裏切り者なのか。その後も明治維新後に敗者だった楠木正成が忠臣大楠公として祀り上げられた例もある。それがさらに戦後には戦前の皇国史観として批判にさらされることになる。人に歴史の俯瞰ができるのだろうか。
・・・城から俯瞰はできても・・・
私にはその力がないのでその日その日をせいいっぱい生きるだけである。津山の原稿に間違いはなかったのだが、津山城に立って俯瞰したと想像すると表現を変えた方がいいと思うところがあり修正をした。過去に原稿の修正を巡って混乱した経験があるので修正はしたくなかったのだが修正原稿を送った。
次の日から入試が二日続き、勤務解除後に早めに帰宅して休んでいた。そこに電話が鳴った。母が入所している施設からの電話だった。この原稿に書いてきた蜂窩織炎の再発かと思った。再発を繰り返しながら正月を迎えていたのである程度覚悟していた。電話に出ると同じ感染症でも別のもので全く予期していないものだった。コロナの感染だった。コロナの予防接種を新たに受けるか聞かれた時に受けると答えていたのでそのことを言うと次の日が接種日でその前日の感染だった。
言葉を失い翌日の追試を思い答えられなかった。2022年8月にもコロナに罹っている。二回罹るとは。ある程度免疫があると思っていたが変異株に罹るのだろう。施設内で療養するということだった。過去にも未来にもとらわれない安心があるのだろうか。自分はどこにいるのか。本当の地図はどこにあるのか。ワクチンは所詮気安めに過ぎないようだ。思わず念仏する。これは気安めではない。
能入抄97回 「もう一度」 2024年7月号
・・・薬物問題・・・
「オーバードーズ」のことを初めて聞いたのはいつのことだろうか。薬物問題自体は子どものころから聞いていた。いわゆる覚醒剤で戦後の日本で戦争中に軍隊で使用した元兵士が戦後も軍隊から放出された覚醒剤を使用した。私らの世代で「ヒロポン」の名を知らない人はいないだろう。映画やドラマで描かれていたので子どもでも知っていた。やがてそれが裏社会と結びつき資金源となる。
その次に聞いたのは音楽関係で、ミュージシャンの間の薬物使用だった。本当かどうかわからないがビートルズの「Lucy in the Sky with Diamonds」が頭文字をとると「LSD」になると聞いたことがある。その後も芸能人関係の麻薬使用がよく報道され現在もそれが続いている。これらはある一定の社会の中のことだったように思われる。さらにそれが若者に広まり、学生の使用が問題となり、有名大学の運動部での使用が大きく報道された。広島でもある大学の運動部員の間で使用があり、学内でも注意喚起があり研修会もあった。
・・・合法的・・・
これらは違法な薬物になるのだが、合法的な薬物の使用があり、「オーバードーズ」の場合は市販薬を過剰に摂取することで何らかの心理作用を得るもののようだ。市販薬なので取り締まりの対象にはなりにくい。以前から思っていたが近年スーパーマーケットと同規模のドラッグストアがあちこちにできてどうしてこんなにあるのか不思議に思っていた。
かつては薬局にはカウンターに薬剤師がいて指導を受け購入し使用したものだ。この連載に書いた蜂窩織炎の時も初めは靴擦れだったので絆創膏と抗生物質入りの軟膏を薬局で購入した。自分で選んだのではなくて薬剤師に相談した上で購入した。それで大丈夫でしょうと言われたが結果的には悪化して医師の治療を受けることになった。これは一つのパターンと言えるだろう。薬物の購入と使用に薬剤師や医師の管理が働いている形である。
・・・大量に・・・
それがドラッグストアになると一応は同様の形になっているのだろうが、指導や管理はかなり後退している印象を受ける。カウンター越しのやりとりからレジの通過に変わったという印象である。さらに薬のネット購入も可能になった。購入履歴は残るのだろうが対面販売ではないので敷居がかなり下がった。
ドラッグストアの店内で何か場違いな感じがするものがある。酒類である。ケース売りもあってかなりの数量である。メーカーから大量に仕入れるせいだろうが、かなり安くなっている。これはかつての薬局ではありえなかったことだ。薬局は医師の処方箋に基づく調剤薬局とドラッグストアに分かれていったと言ってもいいのだろう。ドラッグストアでも店内の一角に調剤コーナーがある場合があるが、多くの店はスーパーマーケットと同様の大量仕入れと大量販売を行う形である。これらが「オーバードーズ」の背景にあるのだろうか。確かに市販薬を購入しやすくなった。
・・・寝返りから・・・
1月に締め切りがあり、7月にも締め切りがくる原稿がある。この1月には岡山県の津山のことを書く予定だった。ちょうど昨年の大河ドラマで徳川家康の生涯が描かれ、その一つのクライマックスが関ヶ原の戦いだった。さらにその節目に小早川秀秋の動向がある。豊臣家の一員でありながら西軍から東軍に寝返ったと言われドラマでもそうだった。
ドラマではそこまでだがこの戦功で彼は備前と美作を治める大大名になった。美作の中心地が津山である。これだけの大大名になりながら彼の治世は二年程度だった。第二次朝鮮出兵の総大将も務めたそれなりの武将だったが彼は七歳頃からの飲酒で体を壊しそれが二十二歳での早世に繋がったと言われる。出兵や寝返りの過去も含め彼は相当のストレスを抱えていたに違いない。現代人の抱えるストレスも同様かもしれない。ストレスから逃れるには彼はもう一度向きを変えるべきだった。今度は東から西へ、此岸から彼岸へである。その向きを変えるのが本願力廻向である。
能入抄96回 「カンセンショウ」 2024年6月号
・・・同音異義で・・・
体の「ホウカシキエン」は「カンセンショウ」の一種である。心にも「ホウカシキエン」があるはずだと書いた。体の「カンセンショウ」である「ホウカシキエン」には抗生物質が効く。では心にも「ホウカシキエン」があるとすればどう対処すればいいのか。
前回の流れでは念仏がそれになる。別の言葉では「カンセンショウ」になる。体の「カンセンショウ」と同じ発音でコロナ禍以来いやというほど聞いてきた「感染症」と同音である。では心の「ホウカシキエン」への処方箋になる「カンセンショウ」とは何か。念仏の「カンセンショウ」であり「勧専称」と書く。この連載の「能入抄」の「能入」と同じく親鸞の『正信念仏偈』の一節である。
・・・数量主義・・・
コロナ禍が始まった時に「カンセンショウ」と聞くと頭に「勧専称」という言葉が浮かんだ。今でもそうである。『正信念仏偈』を唱えてきた人には同様の人がいるはずである。もちろんそれで「感染症」が防げるわけではない。ただし「勧専称」はあらゆるものへの処方箋になる。法然の『一枚起請文』について書いた時にこれを一枚の処方箋として書いたことがある。「生老病死」の全ての苦への「処方箋」となるということである。今年は浄土宗開宗850年目だが、そのエッセンスが『一枚起請文』になる。人間の本性を見失い病んでしまった現代文明への処方箋である。
薬の過剰摂取は薬が苦痛を除くことが基本にあり、多く飲むほど効くはずというのは一面理にかなっているようにも見える。目的や手段という合理的思考から導き出される数量主義は一見正しいようだが人間の物差しに過ぎない。念仏も数量主義になるとバベルの塔になってしまい自我中毒に陥る。「安心起行」のはずが数がないと安心できない矛盾に陥る。
・・・目的と手段・・・
「勧専称」はあらゆるものへの処方箋と書いたが目的と手段という合理的思考になれた、というかならされてしまった人は宗教も同様に考える。しかし宗教の世界は合理的思考とは同次元にはないので目的と手段という考え方では堂々巡りになってしまう。追いかけても追いかけても目標は遠ざかるばかりで回転ケージの中のリスのような状態になってしまう。念仏では多念主義になりこれでは輪廻と同じことである。多念と三昧は違う。「永遠」は時間的継続の延長線上には開かれない。
だからと言って非合理的なものだと言うと理性を捨てた怪しげな宗教と同じに見なされてしまう。明晰さの上に飛躍がある法然の教えもついて行けない人からは邪教と見なされた。あるいは昔から言われる「宗教はアヘン」という言葉も共産主義がかつてほどの力を持たない時代でも根強く残っているだろう。よく言えば気安め、あるいは現実逃避、為政者にとっては統治の仕方として人々に現実から目を背けさせる手段ということになるだろう。頭のいい人にはそう見えるだろう。
・・・永遠の命・・・
では沈黙するしかないのだろうか。その閑けさを守るのも一つのあり方だろう。ただ現代人をむしばむ薬物問題や法然や親鸞の苦労を思うと黙っていていいのかとも思う。薬物と人間の関係は難しく、突き詰めるところ人間に苦がありそれを何とかして除きたいというところから始まっている。仏教が「生老病死」の四苦の現実から出発し四諦が「苦諦」から始まるのもそのためで、宗教の一つの役目はそこにあると言ってもいいだろう。
薬物も薬師如来が象徴する救いの一つのあり方だがその掌の薬壺に入っているのは一つの薬である。薬師如来の本願であり一枚の処方箋と同じである。薬壺を幾つかき集めても意味はない。本当の救いに数量はない。薬物問題は現代文明の起こす深刻な問題だが、突き詰めれば人は肉体ではないことになる。人はパンのみにて生くるにあらず。私の体と私の血を食するものは永遠の命を得る。命の泉がある。永遠は永遠からしか与えられない。無量寿とはそういうことである。『正信念仏偈』は「帰命無量寿如来」から始まる。
能入抄95回 「ホウカシキエン」 2024年5月号
・・・北陸旅行で・・・
「ホウカシキエン」と聞いて意味がわかる人がどれくらいいるだろうか。私がこの言葉を初めて聞いたのは北陸を旅行中で福井でのことだった。能登半島を一周した時とは別の旅行の時のことである。ちょうどお盆の時期で子どもが足が痛いというので見ると腫れている。前日に靴擦れができて痛がるので薬局に行き絆創膏と抗生物質入りの軟膏をもらい、これで大丈夫でしょうと言われていた。
ところが翌日また足が痛いというので見ると前日より赤く腫れていてこれはおかしい、菌が急速に増殖しているに違いないと思った。旅行中なので土地勘もなくどこか医院がないかと探して行ったところたまたま開いていた。ただしかなり混み合っていた。順番を待って診てもらったところ、「ホウカシキエン」と言われた。その時に初めてこの言葉を聞いた。患部が急に赤く腫れ上がっていたので「ホウカ」と「エン」で放火による炎上のように聞こえたが、漢字では「蜂窩織炎」と書く。
・・・増殖・・・
そこでは抗生物質入りの点滴をして抗生物質の飲み薬を処方された。旅行が終わってからは家の近くの外科で診てもらい、やはり同様の治療を続け一週間くらいで治った。その後に再発はなかったので完治したと言っていい。一晩の変化を見ると菌が増殖する時の速さは我々が想像する以上のものがあるのだろう。かつて福井県に「もんじゅ」という「高速増殖炉」があり結局失敗に終わったが人間が制御できないものがあるということだろう。
母が認知症と脳梗塞で要介護になり施設に入所してから今年の五月で二年ほどになるが、この間にまたしても「ホウカシキエン」の名を聞くことになった。母の足が急に赤く腫れ上がり、施設からの連絡で紹介された皮膚科に行った。私が「ホウカシキエン」ですかねと尋ねると医者がよく知っていますねという表情なので以前の経験を話した。抗生物質入りの点滴と抗生物質の飲み薬を処方されて治ったことも話した。しかしその時は抗生物質の飲み薬の処方だけで点滴はなかった。点滴並みに効くという飲み薬だということだった。
・・・不安と過剰摂取・・・
しかしある程度よくなるものの完治したとは言えない状態で何度も再発を繰り返した。その内の一回が昨年のお盆の時期で抗生物質の種類も関係あるだろうから同じ医者に診てもらう方がいいと思い、盆明けの診察をネット予約した。四日間も待たないといけないのでもつかどうか不安で寝付きにくい夜だった。次の朝、起きがけから何となく意識状態が変化し始めているのを感じいつのまにか変容していった。通常の意識に戻ってからその日が8月15日の終戦記念日であったことに気付いた。そのことを私のホームページに書いた。この連載の92回に書いたのがその時のことである。様々な不安や心労は吹き飛んで「無憂樹」とでも言いたくなるような状態だった。
幸い盆明けまで母の足の状態はさほど悪化せずこれまでと同じ処置だった。しかし残念ながらその後も再発を繰り返した。そもそも母が普段から飲む薬は数量が多くさらに何度も追加して体がもつのか心配だった。薬を過剰摂取する「オーバードーズ」の問題もある。心身の苦痛や不安から一時的に逃れるためだろうが結果的にさらに心身を痛めるはずだ。母の場合は過剰摂取にならないのだろうか。
・・・火種・・・
医者の処方なので問題ないはずだが再発と投薬を繰り返し火種は残ったままである。正月もお盆のことから無事に迎えられるかどうか不安だった。母に問題は起きなかったが能登半島地震が起きた。火災を見ながら「ホウカシキエン」のことを思い出した。小さな火種からあっというまに燃え広がったのだろう。
私達の心の中にも火種はくすぶっている。自らを焼き尽くす「ホウカシキエン」がある。字を当てるなら「放火識炎」だろうか。不安も同様である。増殖させない方がいい。幸いに命の泉がある。鎮めてくれる。浄めてくれる。それが涸れることはない。「摂取不捨」に浸るのを過剰摂取とは言わない。三昧と言う。
能入抄94回 「希望」を越えて 2024年4月号
・・・あれから八年・・・
2016年4月に起きた熊本地震からこの2024年4月で八年になる。この「能入抄」の連載の第1回が2016年7月号でそのころの記事に熊本地震のことを書いている。「東日本大震災で終わりではなかったようだ。」と書いているが、今回も同様だろう。今回の能登半島地震が起きた後で見たのだが、2016年の熊本地震で被害を受けた阿蘇地方のことを描いた番組を見た。内容からして今回の能登半島地震とは関係なく事前にかなりの時間をかけて取材したもののようで、たまたま放送されたのが能登地震の後になったという流れのようだ。能登地方や石川県でこの番組を見た人も当然おられるはずである。
阿蘇地方がようやく復興してきたという内容で南阿蘇鉄道の全線再開に合わせて取材され、その全線再開が2023年の7月である。全線再開に七年以上かかった。九州では高千穂鉄道が2005年に台風による甚大な被害を受けた後に復旧されることなく廃線になった例がある。それだけによく全線再開にこぎつけたものだと思う。高千穂は日本神話のふるさとと言っていい場所だけにそれが再開されないというのは「天の岩戸」が閉じられたままのようで複雑な気持ちだった。日本の置かれた状況を象徴していたのかもしれない。
・・・2052年には・・・
番組では熊本地震以来の流れを振り返る中で当時の映像も流れた。熊本であるいは能登地方や石川県で、また阪神大震災や東日本大震災の被災地でこの番組を見た人はこの番組をどのような思いで受け止めただろうか。私のように広島にいるものでもあの時の衝撃が思いだされたのだから被災当時の映像を冷静に受け止めるのはかなり難しいだろう。
この時に被災した熊本城の石垣の復興はまだまだ時間を要するということで、現時点では完全復旧は2052年と言われている。28年後になる。はたして私はその姿を見ることができるのだろうか。映像では見ることができるかもしれないが現地で見ることはもはや難しいだろう。桜が満開の時期に熊本城に行ったことがあり、その時の映像が残っているが、これまで経験した花見の中でも何本かの指に入るくらいの見事さだった。城は修復中だが今年も桜は咲いているに違いない。
・・・過去も未来も越えて・・・
昨年末に自分のホームページに「2023年の回顧と2024年に向けて」という記事を書いた時に2024年10月号でこの「能入抄」が100号になるのでそのことを書こうかとも思ったが予定に過ぎないのでやめた。またその記事には2023年10月に起きたパレスチナでの紛争のことを書いたが先は見通せなかった。仮定の話だがあと六回で100号になる。2016年から2024年にかけてあしかけ九年で100号である。年月をかけたがその間に何か見通せただろうか。
2016年に熊本地震、2024年に能登半島地震が起きた。熊本地震での例からも復興には相当の時間を要するに違いない。鉄道では南阿蘇鉄道と同様の状況にあるのが「のと鉄道」である。曲がりくねった線路を見ると見通せない未来を象徴しているようにも見える。確かに見通しはつかないが一方で過去も未来も越えたものがあることは確かである。
・・・「我が大地は」・・・
これまでもそうだったが「希望」という言葉が色あせるくらいに使われるだろう。阪神大震災の時には20世紀末だったこともあって過去はそうでも21世紀にはいい時代になるような思いが何となくあった。経験したわけではないが小説や映画などで描かれる終戦後のような気分と言っていいかもしれない。
しかし21世紀になってもこれだけ災害が続くと単純に未来に希望を持ってとはいいにくい。では不安を抱えたままできるだけ備えるしかないのだろうか。そうしても備えあれば憂いなしと言えたのは過去の話だろう。もっと厳しい現実を突きつけられている。それ故に今こそ過去も未来も越えた「六字一つ」の念仏三昧を語るときなのだと思う。本願の大地は微動だにしない。安心の大地である。
能入抄93回 「龍の踊るとき」 2024年3月号
・・・地震と火災・・・
元日の能登半島での大地震の発生からテレビ番組はその報道が中心になった。ずっとテレビを見ていたわけではないが、テレビをつけては情報を確認する状態が続いた。気になったのは津波の被害と輪島市での火災である。火災は阪神大震災の時を思わせるものがあった。能登半島を一周したときは輪島市と珠洲市が能登半島の北端に当たるのでそこを目指して西側から東側に回るという経路だった。
輪島では輪島塗を見学した後で昼食をとった。輪島の朝市のあるあたりだった。今回の火災を見ながら昼食をとったのがどのあたりだったのか映像を見ながら確認したかったのだがよくわからなかった。朝市そのものには昼食後だったのでその場所を確認したくらいで通り過ぎて珠洲市に向かった。禄剛埼灯台まで行き、軍艦島も近くまで行き、夕刻には日本海に沈む夕日を見ながら金沢に着いた。
・・・能登半島と記念館・・・
さらに日をあらためて西田幾多郎の記念館と鈴木大拙の記念館を見学した。この二つの記念館は仏教学者の記念館としては日本では数少ないものである。松江市に中村元の記念館があるが、金沢や松江という地域と仏教学者の記念館は相性がいいように思う。落ち着くものがある。仮にこれらの仏教学者の書籍を読んだことのない人でも観光を兼ねて見学し、そこから書籍に親しむという形もありうるだろう。ただしそこからさらに先となると興味関心だけでは続かないかもしれない。
能登半島一周とともに二つの記念館を回ることで目に見える世界においても目に見えない世界においても何か全体を見たような気がしてくる。今年が辰年だからだろうが昨年末から今年にかけて龍を話題にした番組を幾つか見た。龍に関係する寺社は非常に多い。ある番組で語っていたが日本列島がそもそも龍のような形をしているとも言われている。ただし日本人が日本列島の形を本当に知ったのは幕末以降のことで、龍への信仰はそれ以前から日本各地にあることは言うまでもない。
・・・龍・・・
一般に仏教では龍は龍神として仏教の守護神という位置づけで、龍樹や龍智、龍猛のように僧の名にもあるし、本願寺の山号も龍谷山である。禅宗寺院ではいたるところに龍の絵があり、法堂では天上画として巨大な龍の絵が描かれていることがある。京都では幾つかの禅宗寺院を巡って龍の絵を見ないということはまずないはずである。龍が仏教の守護神であるということと水を司ることから火難除けのために寺院で描かれると説明される。
法堂の天上画としての龍の絵では「八方睨み」と言われる描き方があり、堂内のどこにいても龍の眼差しと自分の視線が合うと言われる。私も経験があり、見つめられているということからすれば守護されているとも言えるし、そこから逃れることができないという意味では射すくめられるようでもある。禅宗では達磨大師の絵がよく描かれ、白隠禅師のものになると巨大な目が描かれ龍の目によく似ている。現象を見つめさらにその背後にある真実を見いだすという目である。「面壁」とは此岸と彼岸の間の壁を見破ることだろう。
・・・「二河白道」のただ中で・・・
別の言い方をすれば此岸から彼岸へ向かうことであり、一般的には禅宗では此岸からの自力でそれをなし、浄土教では彼岸からの本願力でそれをなすことになる。此岸から彼岸へ向かうベクトルとしては同じであり、此岸からの推進力としてそれをなすか、彼岸からの引力としてそれをなすかの違いになる。彼岸に引きつけられる方で言えば、それだけを見つめていると壁も距離も消えてしまいただそれだけになる。それが念仏三昧である。
とは言え、今回の能登半島での火災と津波を見るとあらためて我々は「二河白道」のまっただ中にいるのだと思い知らされる。火の河、水の河の波に彼岸へと通じる白道は脅かされている。日本を襲う地震や水害を経験するたびにそれを思い知らされる。それでも念仏には永遠の命が宿っている。命の泉が湧いている。そこには龍も踊っているに違いない。
能入抄92回 「揺るがないもの」 2024年2月号
・・・2023年末・・・
2023年の年末を思い返している。12月27日に会議があった。これはリモート会議だったので自宅でも受けられたのだが、パソコンが得意ではなく、リモート会議に慣れておらず、何かあった時のために出勤して会議を受けた。新年度のシラバスについて各自のものを再検討するというもので、教育学の先生から最新の情報の提供を受けた後で、さらに小グループに分かれてリモートでディスカッションをする流れだった。画面共有のところでわからなくなったが、何とか教えてもらいながら乗り切りこれで勤務は終わった。
次の日の12月28日からが実質的な冬休みになり、まずしたのはこの連載の前回91回を書くことだった。前回に書いたように昨年10月7日から始まったパレスチナでの紛争の先行きが見通せずその状況を見ながらのことだった。二ヶ月を過ぎたところでまだ見通せないもののパレスチナのことを書いた。
・・・終戦記念日に当たって・・・
その記事を私のホームページにアップして次にいつも年末に書いている近況報告をホームページの「能入抄」を連載しているページとは別のページに書いた。その時にその前の最新の記事を読み直した。その前の記事とは2023年8月15日の記事で、終戦記念日に当たっての思いを書いていた。8月15日の朝起きたところからいつのまにか始まった意識の変化について書き、通常の意識に戻ってからその日が8月15日だったことを思い、終戦記念日に当たってのメッセージのように思われたのでそのことを記事に書いていた。
それ以降のことをあらたに書いた。ある寺を訪れた時にそこは山門内が撮影禁止なのだが山門を入ったところから意識が変化し始め、山門を出たところで通常の意識に戻り、それで撮影禁止どころかそういうことさえ考える場ではないことをあらためて知らされた思いがしたことを書いた。そういう意識の持続の中で10月7日にパレスチナでの紛争が起こり、自分としてはそういう事態への備えだったような気がするということを記事に書いた。
・・・北陸に思いを馳せ・・・
私の年内の仕事はこれでほぼ終わった。12月31日は昼食に年越しそばを食べ、その時に家族の者と来年のことを話した。コロナ禍の影響で長らくできなかった遠出を再開しようかという話である。以前は私一人でも東北まで車を運転して出かけていた。平泉のことを授業で扱ったが、平泉は家族でも行ったことがあるし、その後に私一人でも行ったことがある。家族の者がコロナ禍でとれなかった長い休みが来年にはとれるかもしれないというので行き先を考えようという話になった。
それで私が思ったのは北陸のことである。以前家族の者と北陸を回ったことがあり、その時には能登半島も一週していたが、能登半島やその周辺でまだ行ったことのないところがあるのでその話をした。前回に訪れた後だが、能登半島では群発地震があり、コロナ禍の影響がなくても行きにくい状態だった。少し落ち着いてきたように思えたので来年の行き先の候補の一つであることを話した。
・・・「六字一つ」・・・
その夜は「紅白歌合戦」に続き「ゆく年くる年」を見た。知恩院の大鐘楼からの中継で何度も行った場所である。また2024年が法然が浄土宗を開宗して850年目に当たるということで法然像も映されてありがたい思いになった。日付が変わり「令和六年一月一日」ということであらためて「六字一つ」の念仏にふさわしい年の始まりになった。安らかな眠りについて朝を迎え、昼には家族とともに無事に新年を迎えられたことを祝った。
その後のことである。私は自室にいて長い揺れを感じたように思った。しばらくしてテレビをつけて能登半島で震度7の大地震が発生したことを知った。テレビは最新の情報を映し出す。正月気分は吹き飛んでしまった。よりによって「一月一日」で前日話したばかりの地域のことである。いまだに頭の中が揺れている。それでも「六字一つ」は揺るがない。この世で建てられたものではないからだ。
能入抄91回 「証し」 2024年1月号
・・・進歩と変化の中で・・・
AIの進歩は止めようとしても止まらない。それが科学技術そのものがもっている性質なのだろう。技術を開発したのが人間だからそれをコントロールする力もあるはずだというのも一つの見方だろうが、そう楽観できそうもない気がする。加速度的に進歩、あるいは変化する科学技術の後を遅れながらも追いかけているか、あるいはいつしか追いかけるのをやめているかというのが実情だろう。
昨年2023年10月7日、パレスチナのガザ地区からイスラエル側に越境攻撃が行われ、多くの死傷者が出るとともにしかもイスラエル側から多くの人質がさらわれるという事件が起こった。後期の授業が始まってまもないころで宗教学の講座で『旧約聖書』から『新約聖書』にかけて授業をする時期だった。刻々と情勢が変化する中で事件のことを授業でどのように扱えばいいのか私なりに考えた。
・・・紛争と侵攻の中で・・・
予期していなかったので仕方ないが、はじめに書いたように起こったことを遅れながらも追いかけるか、時間の関係もあり追いかけるのをどこでやめるか考えた。ジャーナリズムなら当然追いかけるし、それが求められるのは当然で、私も報道を見ながらできる範囲で考え、授業内容に関係することは時間の許す限り話したり扱ったりということをした。
一方で気になったのは引き続き戦闘が続いているロシアの侵攻を受けたウクライナのことである。世界の目、あるいはジャーナリズムの目がパレスチナに向けられることはロシアから見れば好都合だったに違いない。パレスチナでの越境攻撃はロシアのウクライナ侵攻と連動しているのではないかと思った人も多いだろう。アメリカがウクライナを支援している以上に、これまでの経緯からすればアメリカがイスラエルを支援することはほぼ明らかで、アメリカとしては二方面作戦のような状態になる。さらに以前からの問題である日本周辺の東アジア情勢もアメリカが目を向けなければならない重要な方面である。二方面あるいは三方面に目を向け、あるいは力を向けるというのは大国とはいえ厳しいだろう。
・・・加害と被害の中で・・・
授業では『旧約聖書』から『新約聖書』への展開の中でこれまで通りモーセの「十戒」をとりあげ、また映画の『十戒』をこれまで以上に時間をとって見てもらった。私自身今回の事件があったことでこれまで以上に真剣にこの映画を見ることになった。中東で同様の思いでこの映画を見た人もいるだろう。
この映画がユダヤ人問題の始まりとすれば問題はその後の展開の特に現代につながる部分で、この部分は気が重い。ナチスドイツによるユダヤ人虐殺がユダヤ人のパレスチナへの帰還とイスラエルの建国に結び付き、またナチスドイツによる開発を恐れて進められた原爆開発がナチスドイツ降伏後も継続し、ドイツの同盟国だった日本に落とされた。この開発の進言者がアメリカに亡命したユダヤ人科学者であるアインシュタインで、さらに開発責任者がユダヤ人科学者であるオッペッンハイマーだったことなどを話した。日本は加害者でもあり被害者でもあり、結局この流れは行き着くところまでいってしまった。
・・・業と破壊の渦中で・・・
別の言い方をすれば人間の業の渦が、台風が発達するように次第に加速度をつけて発達し、行き着くところまでいってしまったということになるだろう。このような業の台風の発生が二十世紀で終わったのかどうかだが、ロシアのウクライナ侵攻や今回のパレスチナでの紛争を見ると過去の話には思えない。
科学技術はあらゆる面でとめどなく進む。核兵器は人間破壊の最たるものだが、AIの進歩は人間を廃人にしないのか。精神破壊の最終兵器にならないのか。AIに管理され人間焼却炉に向かって進むのが人生か。人間の本性からすれば必ず反転するはずである。ハーケンクロイツも反転させれば卍になる。この問題を考える時に思わず念仏してしまうのは私にとっては本性の存在する証しになる。AIも読み方を変えれば「愛」になる。
能入抄90回 「故人」 2023年12月号
・・・編集ソフト・・・
生成AIと関係があるのかどうかわからないが、コンピュータ関係のトラブルで奇妙な経験をした。ある学会誌に寄稿した論文の校正中のことである。こちらの送ったデータを使って出版社が編集する。編集ソフトがどういうものかわからないがデータを書き換えることはないはずである。出版社から送られてきた校正データをはじめはパソコンで見ていたのだが、プリントアウトして見た方がいいかと思い、紙で確認していたときのことだ。
使った覚えのない文字があり、自分の送ったデータを確認してみたが、その箇所にそういう文字は使われていない。どういう文字かというと「做」という文字である。今使っているパソコンのソフトでこの文字を入れることができる。「做」という文字だけを見てこれまでの知識を使ってこの文字の意味を知ろうとするとどうなるだろう。「人」と「故」の組み合わせなので、「故人」と同じような意味だろうと想像してしまう。そういう意味であってもおかしくはない文字に見える。漢字にはそのような組み合わせでできた文字がある。
・・・旧字と俗字・・・
そういう当たりをつけて漢和辞典を引いたところ全く当てがはずれてしまった。「作」の俗字と表示されている。ごくありふれた字だった。出版社に送ったデータのその箇所を見ても確かに「作」とある。つまり意味は同じでなぜか俗字に置き換わっていたのだ。私が出版社に送ったデータは仏教関係の原稿なので元来が旧字体が多く使われている。
以前に述べた「恋慕渴仰」は旧字体では「戀慕渴仰」となる。この場合は「戀」が旧字体で「恋」が新字体になる。この新字体の「恋」は旧字体の「戀」の俗字体が新字体として採用されたものである。その理由はほぼ想像がつく。画数の違いである。旧字体の「戀」は明らかに画数が多い。墨と筆で書いていた時代はにじんでしまっていただろう。
・・・「戀」と「鸞」・・・
「戀慕渴仰」を使うのに「恋慕渴仰」でもかまわなかったのだが、引用した原文がそうなっていたのと、もう一つはこれを使った親鸞からすれば「戀」と「鸞」の字の類似が関係ありそうな気がしたからである。「戀慕渴仰」の心情を抱いた親鸞を表すのに「戀鸞」という言葉があってもおかしくはない。
新字体の前の旧字体の「戀」を書くのに「いとしいとしというこころ」と覚えていたそうだが、確かに「戀」を表意文字として考えるとこの「いとしいとしというこころ」という覚え方は偶然としてもよくできている。「鸞」もそれに倣えば「いとしいとしというとり」になる。仮に「戀鸞」とすると「いとしいとしというこころ」で「いとしいとしというとり」になるだろう。浄土でそう鳴いている鳥がいてもおかしくはない。親鸞の聖徳太子和讃は二百首もあるが、その鳴き声がそのままこの長大な聖徳太子和讃になったのだろうと思える。岩にしみいる蝉の声のように聖徳太子の耳に届いたのだろう。「豊聡耳」と言われた太子にはそれが可能なはずである。
・・・消えても・・・
「戀」の旧字体を用いた影響なのだろうか。「戀」と「恋」、「作」と「做」は旧字体(正字)と俗字体の違いはあっても、「作」と「做」では俗字体の方が画数が増えるので普及しなかったのだろう。仮にソフトの方で旧字体(正字)を俗字体に置き換える設定になっていれば置き換わってもおかしくはない。ただしそうすると対象となる字は著しく多い。まず「作」が他の箇所で「做」になっているかを目で見て確認した後、検索をかけて検出したが他の箇所ではそうなっていなかった。
何とも不思議である。「做」は「故人」の意味ではないかと思ったと書いたが、『法華経』や聖徳太子和讃の「戀慕渴仰」からすれば「作」よりも「做」が合う。出版社に問い合わせたが全く原因不明で次の校正では「作」になっていた。今は消えてしまった「做」を見ながら「故人」を偲ぶと自ずと念仏が湧いてくる。なぜかそうさせるものが浄土の側にあるのだろう。消えても残るものがある。
能入抄89回 「発生源」 2023年11月号
・・・三回目・・・
授業中に提出されたファイルが白紙のデータだったことを書いたが、この授業では主なデータ提出が三回ある。これまで経験したトラブルは上書き保存の問題でこれを忘れると白紙だったり、白紙に近い状態で提出されることになる。前回書いた学生の場合はそれとは違い、内容のあるデータがパソコン内に残っていたのでそれを探して何とか提出にこぎつけた。二回目の課題提出の時にも注意し当該の学生も内容のあるデータを送ってきた。
次の三回目の時に授業時間内の終わりになって提出データを確認していたところ、以前白紙のデータを送ってきた学生のデータがやはり白紙で送られてきていた。もうそういうことはないだろうと思っていた。授業時間の終わりだったので、他の学生を帰した後で、そのパソコン内のデータを探すことになった。
・・・業の迷路に・・・
前回の時に今後はこの授業の名を付けたフォルダを作成して、必ずそこにデータを入れていくようにと言っていた。二回目の時はうまくいっているので、そのフォルダを開けさせると、二回目の時のファイルがそこに入っていた。今回も同じようにしたはずだというのだが、それがうまくいっていない。その学生は3年生で、3年生ともなるとこれまでの授業関係のフォルダやデータの蓄積が多くあり、以前と同様に業の蓄積の迷路に入りこんだような状況になる。全く輪廻である。
以前の学校ではパソコンは全員必携で、早くから慣れさせていたのと、何かパソコンでトラブルがあると誰かが助けに来てくれて何とかなったものだが、その時は他の学生は帰っていてわからない。本人もまさか同じようなことをするとは思っていなかったようである。とは言え、学内システムの更新があってから間もない時期で、その間の課題提出はそれほどの回数のない時期なので、3年生とは言え、やむを得ない面があるだろう。二人で探しながら何とか探し出すことができた。
・・・コピペや生成AI・・・
その学生にはこれからゼミで卒論に向けて何度もデータ提出があるはずで、卒論作成時にこういうことが起きると大変になるので注意しようと言い、私の授業内で授業時に作成させて提出させている理由をあらためて話した。その一つが今回もあったデータ内容の確認である。何度も上書き保存を呼びかけるのは白紙データの提出を防ぐためである。
授業時に作成させるもう一つの理由はネットからのコピペ(コピー&ペースト)や生成AIの利用を防ぐためであることを説明した。はたしてうまく伝わったかどうかわからないが、学内の委員会で昨年から今年にかけていろいろな議論を聞いていると私自身もよくわからないところがある。人により立場が違う。
・・・二つの委員会で・・・
昨年度所属していた委員会は卒論の委員会で、これに当たるとすでに提出され単位認定された卒論を再審査する。今後の卒論指導に役立てるためである。割り当てられた卒論を読むのは大変でなぜかというと専門が全く違う分野の卒論を読まなければならないので評価できない。それでもコピー&ペーストの部分は何となくわかるように思えた。ネットからでも出典を明記していれば問題はないが、明記していてもその比率が高ければ引用の羅列になってしまう。それを防ぐためにどうするかという話が多かった。ただし昨年の時点では生成AIについては議論はなかった。
今年所属した委員会は別の委員会で学生が中心になってプロジェクトの案を作成する必修ゼミのための委員会である。広告業界出身の先生はもう生成AIを使わせているということだった。これからはそれを使いこなせる学生を育てなければならないのだから当然という立場だった。私の頭に浮かんだのは授業でとりあげた「不易流行」のことだった。「不易」と「流行」とどちらに軸足を置くかで対応は変わってくる。これは浄土とこの世の関係に置き換えても同じだろう。生成AIの発生源はどこにあるのだろう。本願念仏の発生源は当然この世を越えた根源の世界にある。
能入抄88回 「ファイル名」 2023年10月号
・・・トラブルの対処・・・
6月下旬にこの連載の記事を更新しようとしできなかったことを書いたがこういう時の対処法というのは可能性があるところを一つ一つ当たっていくしかない。これまでもこの連載にパソコンやコンピュータ関係のトラブルのことを何度か書いた。家でも学内でも随分と経験し、学内の場合は学内の詳しい人に聞きながら何とか解決するという形をとってきた。自分は詳しくない、というか素人だという自覚があるので、その方が確実である。
どういうわけか今年の五月の連休明けから学内の教育と事務の全学システムが更新されることになり、私にとっては負担が大きかった。なぜこの時期かというと学内全体が長期間システムを使わない時期となると大型連休になるらしい。連休明けに関係者のところに質問に行ったところ代休をとっているところだと言われてそれもそうだろうと納得した。
・・・AI対処・・・
今年もある授業で何度か学生に課題を提出させるということがあった。昨年も同じ授業を担当していたが、その時には課題提出は前のシステムで行われていた。今年の場合はそれが新しいシステムである。なおかつ新たに「生成AI」の出現という問題が生じてどう対応していいのかよく分からなかった。
4年のゼミは卒論必修だが、これについてはできるだけ授業内に書こうと提案し、6月から書き始めていた。データが消えてしまうのが心配なので授業時間の終わり近くになるとそのデータを送信させて確認していた。これに倣う形で、他の授業でも昨年までは課題提出をシステムを通じて一週間以内としていたのを授業時間内にするという形にした。学生が提出して私が確認した段階で受領済みという形である。これでうまくいくはずである。
・・・白紙撤回・・・
紙がデータに置き換わっただけの話のようである。授業中は室内を回っているので課題作成にAIを使うことはまず無理だろう。これでうまくいくはずなのだが、ある学生の提出した課題は白紙でこれは撤回させるしかない。送られてきたデータ名には本人の学籍番号と名前が付いていたので白紙のデータとは思わなかった。室内に残っていた学生を呼んで確認をしたところ、前回と同じようにしたという答えだった。実はシステム更新があったので前の回に全員で新しいシステムでの課題提出をしてみようと練習時間をとった。
これはシステム更新の前からもあったことだが、今の若い人はスマホを使ってもパソコンは使わないという人が多いので注意が必要だと聞いていて確かにそういうこともあった。それに加えてシステムが変わったので、私自身も含めて全員で練習してみようということで前の時間に一緒に練習をした。その時には出席者の全員が正しくデータを送っていた。
・・・迷宮の出口・・・
ただしよく考えてみるとその時は与えらえたファイルをそのまま送信するだけでデータの中身はない。前回と同じようにしたというのでまさか中身がなくてもいいと受け取ったのかと思い、確認したがさすがにそれはないと自信たっぷりに言う。しかし私のところに届いたファイルを開けて見せると何も書かれていない。本人も驚いている。私も授業時間内に何回も室内を巡回していたので確かにその学生も作成をしていたように思った。そこからが問題で作成したデータはどこに消えたのだろうか。パソコンは各自で違うので私にはその学生のパソコンがよくわからない。パソコンの迷宮である。どうやらファイル名の書き換え時の問題のようで何とか探り当てた。
前回我々の心情が向こうの世界に届くのかという話をしたが、今回の場合で言えば届かなかったことになる。出されたファイル名を変えずにそのままの提出なら問題はなかったのだろう。それを自分のパソコンに入れて自分の名前を付けるときに間違いが起こる。これが自力の念仏である。長い長い名の自信たっぷりの「業ファイル」になる。「名号」か「名業」か。答えはいつも「六字一つ」である。長い長い迷宮の出口がここにある。
能入抄87回 「鐘」 2023年9月号
・・・命日の翌日・・・
6月10日が「時の記念日」でそれに関することを書いたが、6月の下旬にいつものようにこの連載の次の号の記事をホームページにアップして更新しようとしたところ、なぜか更新できない。前日が父の命日でもう三年が過ぎたのかと感慨にふけったばかりである。亡くなって二年目が三回忌になるので、三年目は特に法事等の大きな行事はないが、三年というのはそれなりの意味があるのかもしれない。平日はなかなか時間がとれないので、更新しようとした日は日曜日で、たまたまそれが父の命日の翌日に当たっていた。
父は亡くなったものの私の場合はなぜか存命中よりも夢で会うことが多くなった。朝起きてああまた会ったな思う。亡くなった人で夢で会うのは父に限らないが、身近な人では父が多いように思う。存命中にも夢で会っていたのかもしれないが、気にしていなかったのかもしれない。同じ敷地で隣合わせに住んでいたのだから会おうと思えばいつでも会える存在だった。亡くなるとそうはいかない。
・・・「恋慕渇仰」・・・
いつでも会えなくなるのが会いたいという気持ちになり、それが夢で会うことに繋がるのだろうか。『法華経』の「如来寿量品」に「恋慕渇仰」という言葉があるが、仏滅後の仏弟子の心情を表す言葉として名句である。「如来寿量品」という品名からわかるように仏滅とは言うものの実は如来は「久遠仏」として生き通しなのだと明かされることになる。
しかし信仰のない人から見ればそれは会えなくなったので「恋慕渇仰」の心が起こり、その心情が「久遠仏」という観念を生み出したのだという解釈になるだろう。それでも物語としては「恋慕渇仰」の心に応えて「久遠仏」であることが明かされるという方がありがたい気持ちになる。浄土教の「無量寿如来」のありがたさと同様である。大乗仏教の展開の仕方がよくわかる例と言えるだろう。
・・・「執着?」・・・
おそらく原始仏教の段階では「恋慕渇仰」のような心情は執着に繋がるものとして評価されることはなかったのかもしれない。大乗仏教になるとそれが如来への心情としては許容というかむしろ肯定されるものになってくる。信仰の立場から見ればそうだろう。『バガヴァッド・ギーター』の「バクティ・ヨーガ」に通じる心情である。親鸞も聖徳太子和讃の中で「恋慕渇仰」を用いていて親鸞の聖徳太子信仰をよく表す言葉と言えるだろう。
親鸞は比叡山の出身で、天台宗所依の経典である『法華経』を当然のことながら読んでいるので、この「恋慕渇仰」を知っているはずである。聖徳太子和讃の場合は直接的には親鸞が和讃の中で述べている『四天王寺御手印縁起』にある「恋慕渇仰」を承けているのだろう。四天王寺は天台宗の影響が強く、この『四天王寺御手印縁起』は聖徳太子自身が書いた形になっているが、実は平安時代に四天王寺で書かれたもので、おそらくは天台僧の手によるものだろう。親鸞は比叡山を出て法然のもとに行ったが、聖徳太子和讃を読むと比叡山から四天王寺に移ってもおかしくはなかったのかもしれないと思えてくる。
・・・問い続けるもの・・・
親鸞が「恋慕渇仰」を使うとその心情は並々ならぬものがあり、これだけでも宗教になると思えるほどである。現在法隆寺が「聖徳宗」を名乗っているが、親鸞の「恋慕渇仰」は聖徳太子信仰としての自身の「聖徳宗」を成立させていると言えるほどである。有名な親鸞が京都六角堂で聖徳太子の示現を受けた話は親鸞の「恋慕渇仰」の心情に太子が応えて起きたものだろう。もちろん合理的な立場から言えば『法華経』の「如来寿量品」と同様に心情が生み出した観念に見えるだろう。
賢い人からはそう見えるだろうが、はたしてそうなのだろうか。ホームページ更新の問題は分別知で何とか解決した。これは心情で解決する問題ではない。しかし「命」の問題は分別知では解決しない。時間の壁を越えられないからである。「時の記念日」はどちらに立つのかを問い続ける。鐘は鳴り止まない。
能入抄86回 「86」 2023年8月号
・・・止まった時計・・・
2022年11月号77回の題を回の数字のまま「77」としてヒロシマの77周年のことを書いたが、今回2023年8月号がこの連載の86回目になった。「8月6日」と同じ数字の並びである。前号に被爆地ヒロシマとの関連で止まった時計のことを書いた。原爆投下時刻8時15分を指したまま針が止まった時計である。原爆関係の資料は悲惨なものが多く正視できないという人も多いだろうが、止まった時計は正視に耐えられるし時の証人としての意味も大きい。永久保存できる。
私も子どもの頃に実物を資料館で見て強い印象が残っている。家に帰って見ると資料館で見た時もそう思ったが、我が家の時計とほとんど同じ振り子式の柱時計である。当然毎朝8時15分を指す。戦後十数年の時代で家庭にある時計は昭和二十年に使われていたものとほとんど変わらなかっただろう。昭和二十年と同じ時計が動いている家もあっただろう。時計は無事でも被爆者がいた家庭はあるだろう。もし広島独自の「時の記念日」があるとすればこの日になるかもしれない。すでに実質的にそうなってきたように思う。
・・・溶けた時計・・・
もう一つのダリの溶けた時計の絵のことだが、これは広島に限らず国際的に有名である。ただなぜか私がダリの溶けた時計の絵を見たのは広島県立美術館でのことだった。地方の美術館でよくあるのはご当地出身者の展示が中心という形だろう。遠方からの来訪者のためにもご当地出身者のコレクションを充実させるのは地方美術館の重要な役目だろう。
広島県立美術館でも当然それはあり、広島出身の平山郁夫や奥田元宋の作品がそれに当たるだろう。平山郁夫の場合も奥田元宋の場合もそれぞれさらに県内の地元に美術館がある。平山郁夫の場合は被爆者ということもあり、また法隆寺の金堂壁画にも関係があり、仏教伝来のシリーズとの関係など、広島と平和を語るときには欠かせない画家である。
・・・シュール・・・
おそらくそういう期待をして広島県立美術館を訪れた人は常設展にダリの絵があるのを見て驚くのではないかと思う。しかも巨大でダリのことを知っている人なら一目でダリの絵とわかるはずである。そして私に限らないと思うが溶けた時計に目がいくはずである。私の場合は子どもの頃に原爆で止まった時計を見ているので同じく原爆で溶けた時計があったとしてもおかしくないのではないかと思ってしまう。金属の時計が溶けるほどの高温があるとするとそういう想像をしてしまう。
ただし絵を見るとわかるが仮にこれが原爆のような高温で溶けるとすると文字盤や針が読み取れる形で残ることはありえないと思われるので作者の頭の中で作られたものだとわかるだろう。現実がもとになったのではなくいわゆる超現実主義、シュールレアリズムの作品という位置づけになる。時計自体が溶けることはないものの時間が溶けるような感覚を人は体験し惹かれるものがあるのだろう。
・・・ゆがむ時空・・・
心理的体験としてはありえることで、特に夢の中ではそうである。時間的な連関が崩れ、特に順序が直進的にはならないのは経験されることである。また一方で物理的にどうかというとこれはアインシュタインの相対性理論以来、それまでの時空の概念が崩れてしまうことになった。それで心理的なものと物理的なものとが相乗する形としてダリの溶けた時計が描かれたのではないかと思ってしまうが、ダリ自身はそれを否定しているようである。
アインシュタインは1921年度のノーベル物理学賞を受賞した。1921年は聖徳太子千三百回遠忌の年である。時の記念日は1920年制定で、人々の中で時空がゆがむ前のぎりぎりのタイミングだったのかもしれない。ダリが溶けた時計を描き始めるのは1931年からで原爆投下前である。それでも何か関連があるように見えてしまう。溶けた時計は元には戻らない。溶けた時間の観念もそうだろう。それを越えた時間があるのか。答えは「無量寿」の中にあるはずである。
能入抄85回 「永遠の時」 2023年7月号
・・・補い合いながら・・・
父が2020年6月下旬に亡くなってから三年が過ぎた。昨年三回忌で一区切りつけたつもりである。亡くなる前の年から入院していて父の入院から母の一人暮らしが始まった。二人とも認知症だったが父と母が二人で暮らしていたときには二人で何とか補い合いながら暮らしていたようだ。私は実家に置いている本を見るためもあり実家に出入りしていた。
ある時に父から非常に難しい場所の電球の交換を頼まれたので無理せずに地元の電器店に電話するとすぐに来てくれた。その時に父母が直接電話するかもしれないのでよろしくと伝えた。するとむしろそういう高齢者からの依頼で店が成り立っているのだと聞いた。
・・・選択も比較もなく・・・
私の近所には家電量販店もあるが個人の電器店も数は減ったが残っている。高齢者はそこに電話して対応してもらい修理や場合によっては新製品を買うのだそうだ。それで店が成り立つようだ。我々が家電量販店に行くと陳列してある複数の製品を比較して検討し場合によってはネットでも検索して選ぶ。前に述べた比較と選択でそれが普通だろう。電器製品はそこそこ高額だが、そうではない買い方もあると知った。まさに信頼関係である。
親子の間は比較も選択もない信頼関係だが、母の状態が疑わしくなっていった。行く頻度が増えると気になることも増え、というか認知症の進行のせいで実際に以前より件数が増えたのだと思う。時計のずれなどは当然のことで、電池切れのままの時計も増えた。高い位置にある掛け時計は母には無理だった。
・・・デジタル表示・・・
その内に少々のずれや電池切れではすまない状態になってきたのではないかと思うようになった。家族の者も同様に思ったようで日にちも曜日も時間もわからなくなってきたようなので家族の者が母のために電波時計を手の届く所に置いていた。母は電波時計ということはわからなかったようだが新しい時計を置いてもらったと私にうれしそうに語った。ただしデジタル表示なので母にそれがわかっただろうか。人によって違うだろうが、私などはいまだにデジタル表示がいったん頭の中で時計盤の針に置き換わっている。頭の中での再操作がいるとすると高齢者にはどうか。
その電波時計の表示が母に理解できたかどうかはわからないが少なくとも母のところに行く回数が増えた私には便利だった。それとその時計には室温と湿度の表示があり、特に室温の表示は高齢者にはいいと思った。母がそこまで見たかどうかわからないがある冬のこと光熱費の請求に驚いた。電気代、ガス代、水道代を足すと母の年金のほとんどが消えた。
・・・常時・・・
照明は以前からつけ放しだったがこれは夜中に起きたときや防犯にはむしろいいかと思っていた。おそらくさらに居間と寝室のエアコン、電気ごたつ、電気毛布がつけ放しになり、さらにガスや水道代は風呂の湯が流し放しになったせいだろうと思われた。母の所に行く頻度を増やしても簡単には解決しない。冬の寒さや夏の熱中症を思うと冷暖房はつけ放しの方がいいのではないか。こうして常時二十四時間営業の店のような状態になった。
母は認知症に加え脳梗塞にもなり脳神経外科の画像で脳内の変化はわかっていた。それに伴い時間の観念が変化する、というか失われていくようだった。日付、曜日、季節もわからなくなったようだった。ダリの絵の溶けた時計や被爆地ヒロシマの止まった時計を見るようだった。古代人は太陽と月の運行から季節を知りストーンサークルを作った。やがて暦、一日の内の時間と細かくなり、日本では庶民は長らく寺の鐘が基準だった。母にはその鐘が今も聞こえているのだろうか。あるいは別の時間に移行してしまったのだろうか。「永遠の時の記念日」があるとすればそこには永遠の響きがあるはずだ。別の常時の響きである。この世ではそれが念仏の響きになる。「時の記念日」の「6月10日」の数字を「六字一つ」あるいは「六字十方」と読み替えたい。「響流十方」の響き合う世界である。
能入抄84回 「基準」 2023年6月号
・・・一家に幾つも・・・
時計を二つも三つも比較しても正しい時間がわからないというのは奇妙な話だが、一方贅沢な話でもある。ある時期まで時計は高級品の代名詞だった。宮沢賢治の伝記に学生時代に賢治の父が人前で懐中時計を出し、それを賢治が恥じたことが書かれている。賢治の歌にも残っている。実家が裕福だったことが賢治にとっては罪悪感につながっていたようだ。賢治にとって父が見せる懐中時計は富とともにその裏の人間の業の象徴だったようだ。
ただ初めて読んだとき懐中時計を富の象徴と受け取っただろうか。少なくとも家には時計があり父は普段は腕時計をしていた。一般的に懐中時計は時計が小型化する過程での腕時計への過渡期的存在だろう。父が勤めの関係で業務用の懐中時計を持っていたが職場で毎朝全員で同じ時計を合わせると聞いた。ずっしりとして時と職責の重みとを感じさせた。
・・・職場で家庭で・・・
共通テストの朝に監督者全員が集まった会場にはオフィシャルクロックがあり、必ず全員秒単位で時計を合わせるようにという指示があった。私も試験会場に向かう前にその時計であらためて自分の時計を確認した。そのオフィシャルクロックは電波時計である。もちろん私の腕時計も秒単位で合っていた。
父が職場で毎朝全員で時計合わせをするのを聞いたが何を基準にしていたのかは聞いていない。父の腕時計はおそらく職場の正確な時計から合わせていたのだろう。我が家の時計は子どものころの記憶では柱時計があり、三十分に一回と毎時に時報の鐘が鳴り、時報はその鳴る回数で何時かわかるようになっていた。紛らわしいのは十二時から一時台で十二時半に一回鳴った後、一時に一回、一時半に一回鳴る。三度も一回が続くと回数ではその鐘がどの時間なのかわからなくなる。
・・・時報を基準に・・・
その鐘の音は今も耳に残っているが、いつのまにか自分がその時計係になった。振り子式の時計でゼンマイが中にあり、これが一月できれるので巻かなければならない。それからさらに専門的なのは振り子の先に調整用のねじがあり、季節などによりそれを調節することだ。その理由を当時の小学生は学校で習ったはずだ。小学生になると時計の文字盤の読み方をまず習い、さらに理科の時間に振り子や金属の膨張についてなどを習う。身近な教材だったのだろう。振り子が振れている様子を眺めるのは好きで永遠とか永久ということを思うようになったきっかけかもしれない。
それでさらに家の時計を正確に合わせる基準はラジオかテレビの時報だった。当時は昼にはサイレンも鳴っていたはずだが、正確なのはラジオかテレビだった。つまり電波だったわけで当時はまだなかった電波時計の役割を放送の時報が果たしていた。今でもラジオの時報で自分の時計が合っているかどうか、特に車に乗っている時にラジオをつけているとそれをすることがある。習性かもしれない。
・・・ずれない狂わない・・・
ラジオはまだそれが有効なのだが、テレビのデジタル放送が始まってからテレビは正確ではなくなった。初めのころ何か変だと思ったのだが、デジタル放送は時間がずれることを放送局の人に聞いた。その人の局はラジオとテレビの兼営局でラジオの時報は今もある。もうそのころは電波時計を使っていたが置き時計式の電波時計はデジタルなので最新のデジタル放送がずれるのは何か変な気がした。
柱時計のゼンマイを毎月巻いていた私が驚くのは幕末に万年時計を作った人がいたことだ。正しくは一年間で鐘も鳴る。ある電機会社の前身を興した人でからくり儀右衛門と言えばわかるだろうか。家康の洋時計は三十時間だったそうだ。いずれも重要文化財になっている。私の腕時計が一年を越えてもったのは電池式腕時計を持つ二十代後半になってからだ。万年時計の技術力には驚嘆する。ただし何を基準に合わせたのだろう。これが人生の基準になるともっと難しい。一生狂わない基準は何か。6月10日は時の記念日である。その日も寺の鐘は「唯仏是真」と響くだろう。
能入抄83回 「正しさ」 2023年5月号
・・・二つでも三つでも・・・
予備の電波式腕時計と電波式置き時計とのずれは電波式置き時計のずれを修正してからそれほど時間が経っていなかったので電波式腕時計の方がずれているのだろうと思った。予備の電波式腕時計の受信ボタンを押してしばらくして表示が直った。予備の電波式腕時計は普段使っている電波式腕時計がずれた時の保険だが、いったんずれると二つの比較では答えがでない。これでは保険にならない。
また家族に頼まれた電波式置き時計はとりあえず直したのだが、それを直した時に新しい電波式置き時計を予備に買ってもいいのではないかと言われた。それもそうで三つの電波式置き時計の表示がみな違っていた時の驚きはまだ残っている。三つでも比較では答えがでない。いったい何が正しいのか。
・・・現代でも過去でも・・・
ここ数年、世の中全体がそういう状態だったように思う。コロナ禍に入ってから何が正しいのかわからない。2022年末にはコロナ禍が始まった国の中国がいきなりゼロコロナ政策を放棄するという信じ難い方針転換を行った。また2022年2月からのロシアのウクライナ侵攻開始以来様々な情報があり、何が正しいのか本当のことがわからない。
ちょうど共通テストの日に再放送された番組に太平洋戦争中の大本営発表を担った三人の軍人スポークスマンに焦点を当てた番組があった。彼らは自分の発表を正しいと思っていたのか、また本当のことを知っていたのか。このあたりの判断は非常に難しい。時期によっても違ってくる。番組によれば戦争後期から末期には戦況や戦果の報告において現場の戦闘員からの報告がそのまま検証されずに通る、というか検証できない状態だったようだ。
・・・現場でも中枢でも・・・
太平洋や大陸の果ての戦場で起こっていることが確かめられないのはその通りだろう。中枢の大本営が正しい情報を把握できなかったのだろう。対戦国からの情報もあるはずだがそれもまた正しいかどうかわからないし、耳を貸す状態ではなかったのだろう。軍人スポークスマンは基本的には軍人でありジャーナリストではない。国民の前に立つ軍人として戦果を期待する国民に応えたい気持ちもあっただろう。まず現場の戦況があり、それがよくわからず、そこから大本営の把握、さらに大本営発表。コラナ禍やウクライナ侵攻を巡っても同様のことが起きたのだろうか。
共通テストは公開され報道されるので隠されてはいないが毎年のように誤植などの出題ミスがある。厳密に問題を作り正しさを追求しているはずだがそれでも間違いがある。今年の場合は報道された二科目に自分が教職科目でその関連科目を担当している科目があったのであらためて恐さを感じた。正しさを追求した結果がこれで現場は中枢を信用するしかない。現場と中枢の麗しい信頼関係である。
・・・比較でも選択でも・・・
時間の正しさは問題の正しさに比べればはるかに単純だろう。それでも報道されたように今回ある大学で時間のミスがあり再試験になった。私の場合たまたま年末の経験があったので年が明けて家族からの新しい電波式置き時計を買ったらどうかという提案を受け、たまたまたまっていたポイントで買えたので新品を買った。その最新のものを受信するとすでにある電波時計との差はなかった。全く予備の何乗かわからない状態になった。
試験会場では時計を二つ持つ受験生が何人もいた。三つの人もいた。そして彼らは選択肢を比較する。正しい答えがその中にあるはずと信じている。それが選択式で比較し正しいものを選択する訓練を受ける。しかし現実はどうか。この世ではいったい何が正しいのか。比較して選択で答えがでるのか。「世間虚仮 唯仏是真」。これが聖徳太子の答えである。親鸞も言う。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」。二人は正しいのか。これは比較ではない。選択でもない。「選択本願」もそうでこの世の選択ではない。
能入抄82回 「永遠」 2023年4月号
・・・年末に戻って・・・
置き時計の電波時計のことを書いたが、電波時計の表示を正しくするためにまず電池のチェックをし、電池の容量があることを確かめてから三つの電波時計を窓際において電波受信のボタンを押した。放っておいても定期的に受信するはずだが、電波受信のボタンを押す方が早い。結果的に三つとも秒単位で同じ表示になった。いずれもかなり古いものなので経年変化、あるいは劣化もあったのかもしれないが、一応三つとも同じ表示になったので故障というわけではなかったようだ。
年末の忙しい時期だったのでとりあえずはそれでよしとした。年が明けて共通テストが近づき、長い時間をかけて詳しい説明を受け、あらためて時間の重要性を強調された。監督者の時計についてはアラーム付きの時計は使えない。試験中に音が鳴る危険性があるからである。私が普段使っている時計は腕時計の電波時計でアラーム付きである。前に書いたように電波式腕時計をしたまま通院し、通院後に時間のずれに気付いたことがある。
・・・永久時計?・・・
その時はそのずれを直せなかった。家電量販店で買った時計で、保証はメーカー保証の一年を越えて保証される。それで修理に出したのだが、その時に店でいろいろと話を聞くことができた。まず私のように電波時計が正しいと思っているのは思い込みに過ぎず他の電波や電子機器の影響を受けるものだということ。これは実際に経験してよくわかった。
もう一つが私の電波時計はソーラー充電池を備えたもので、買った時には電池交換もいらないし電波時計で時間も正確だし、私の頭の中ではほぼ永久に完全な時計のはずだった。ただし値段が高く置き時計の電波時計の何十倍もの値段だった。電池式の腕時計と比べても何十倍の値段だった。それまで使っていた電池式の腕時計は月に数秒のずれで日用的には特に問題はない。ただし二年程度で電池が切れる。この電池切れで痛い思いをしたことがあった。なおかつ電池交換が技術料を含むせいだろうが、安い電池式腕時計を買うのと同じくらいにかかるのである。何か変である。
・・・永久の予備・・・
そういう経験からソーラー充電池の電波時計をこれでもう安心だという思いで高くても買ったのである。その買った店でたぶん買うときには聞かなかった話だと思うのだが、ソーラー充電池には寿命があり、私が修理に出す時間のずれがソーラー充電池に原因があると消耗品になるので有償になるとのことだった。それはしかたないのだが、ソーラー充電池の寿命は数年程度だというのである。
永遠とまではいかないにしてもこれは短かすぎると思った。それと修理に出すとメーカーに出すので二週間程度はみてほしいと言われた。そこではたと思った。電池式の腕時計で痛い目にあったのに電池式の腕時計に戻り二週間を過ごすことになるのか。修理に出す電波式の腕時計が経年変化でソーラー充電池が消耗しているかもしれないことを思えば電波式の腕時計を新たに買うのがいいのか。ただし値段が高い。迷ったあげく結局は同型の電波式腕時計を新たに買った。修理に出したものは電池に問題がなくそれを予備にした。何か変だが自分にできる最大限の対処だった。
・・・また年末に・・・
それでテストが近づき二つある電波式腕時計は同型でアラーム付きなので使えない。電波時計で通院時にずれを経験したので通院のため電波式ではないソーラー充電池の腕時計を予備にもっていた。これはずれるがテストでは時間を合わせて使うしかない。その横に予備の電波式腕時計を置いていた。予備同士の二つの腕時計を見るとずれている。もちろん電波式が正しいはずだが、確認のために電波式置き時計を見た。何とまた三つとも違う。
年末に見た光景でまさに輪廻である。予備の電波式腕時計もずれていた。今の正しさを永遠にしようとした私の努力を自力無効と言うのだろうか。今を永遠にすることはできない。逆である。永遠が今を生きている。自力から他力への転換である。人生に予備はない。
能入抄81回 「国宝」 2023年3月号
・・・「城」・・・
昨年のことだが、衛星放送である映画が放送されるのを知って録画予約をしておいた。織田信長の築いた安土城を建てた大工の話で、それまで見る機会がなかった。私は織田信長は苦手で、比叡山の焼き討ちや伊勢長島一向一揆、石山本願寺との戦いのことなどを思えば仕方ないだろう。ただこの映画は信長が主人公ではなく城を建てる大工が主人公である。
城を築くまでの過程やどのようにして城を建てたのか興味があった。文化センターで担当している講座の一つに国宝建造物を巡る講座があり、国宝建造物は圧倒的に寺社が多い。私の場合は基本的には宗教建築が関心の対象だが、国宝には城や教会や近代建築もある。
・・・「四聖」・・・
国宝の城だけなら有名なものが多いのでいいのだが、城に限らず国宝建造物は増える傾向にあり、その前段階がある。まず市町村の重要文化財、次に都道府県の重要文化財。それが国の重要文化財になり、さらに国の重要文化財が国宝になるというのが通例である。仏教で「声聞、縁覚、菩薩、仏」という聖者の四段階を「四聖」という。実際の寺の本尊として多いのは仏(如来)だが、菩薩が本尊の寺や菩薩像がある寺は多い。西国三十三所観音霊場では観音菩薩が本尊である。文化財もこの「四聖」の構造と似たところがある。
この講座のもとになったのはある雑誌に書いた中国地方の国宝建造物を巡る記事で、それを書いたことにより文化センターの講座を担当することになった。次にまた別の雑誌に連載の形で中国地方の国宝建造物を巡る記事を書くことになった。その連載は中国地方の国宝建造物を巡り終えた段階で終わってもよかったのだろうが編集部との話で、国宝建造物の次は国の重要文化財で連載を続けることになった。ここで対象が一気に広がった。その連載の間に重要文化財だったものが国宝になることがあった。松江城がそのいい例で、講座で国宝の城を紹介していると、なぜ松江城が重要文化財で国宝ではないのか疑問に思っていた。実際にそれが国宝に指定された。
・・・「天主」・・
こうなると全国の重要文化財は国宝になる可能性があり、行けるときには行っておいた方がいいことになる。中国地方の場合はまだしも全国となるとそう簡単ではない。ましてやここ数年のコロナ禍の中では旅行自体が制限されたり、はばかられる。それで行けるかどうかは別にしてまず情報を得ることになる。ネット情報もあるが、テレビ番組が重要な情報源になる。城郭考古学の専門家が解説する城に特化したテレビ番組もある。自分が国宝建造物の講座で紹介する城もその番組を見ることで新たな知見を得ることがあった。
安土城はそれ以後の国宝の城への前段階として重要で、私は麓まで行ったものの城跡には登っていない。番組では城跡の紹介とともにコンピュータ・グラフィックスで復元された映像も紹介された。普通の城の中心は「天守」というが安土城では「天主」と呼ばれる。信長は西洋の文物への関心からだろうが、キリスト教に寛容だったとされるが、「天主」という言い方は神を連想させる。「天主」は信長の自画像だったのではないかとも思える。
・・・「乱」・・・
こういう経緯から安土城がどのように建てられたのか関心があった。その録画を見ようとしたときのこと、映画の冒頭から画像がひどく乱れている。録画機の故障かと思ったが、しばらくして電波が乱れていたのではないかと思った。雷だろうか。乱れは冒頭部分だけで、その後は見ることができ、城は完成した。しかしその後、冒頭の乱れが暗示するかのように戦乱の中で日本最大の城は焼け落ちた。
電波も乱れる。受ける側も乱れる。日本最大の城も焼け落ちる。自意識も崩れ去る。最大も最高も。残るものは何か。その問いに答えるものは何か。信長が焼いた比叡山を開いた最澄は「一隅を照らす(一隅に照る)」ものを「国宝」と言う。念仏者も「国宝」いや「世界の宝」である。もちろん遺産ではない。今ここに生きている。今、永遠を生きている。
能入抄80回 「受信」 2023年2月号
・・・時間に追われ・・・
現代人は普段から時間に追われているが、それでも年末年始は普段以上に時間を意識する時だろう。実際にやらなければいけないことが多くある。後期の試験は年明けにあるが、学校によって違うだろうが、問題提出は年内になっている。授業の回数としてはかなり進んでいるものの実際に授業をしてみてから問題を作るのが普通だろう。先に作っているとその箇所の授業をするのに変に意識してしまうので授業が済んでから作るのが無難である。
時間に追われて作るのはどうかと思うが、年が明けると全国共通のテストがあり、その説明会が年明けすぐにある。各教室の分担に加えて、一教室だけで数名の割り当てがあり、その中での役割分担がさらにある。私の勤める学校では普段の定期試験でも二三人の教員で監督を担当し役割を分担するが共通テストでは人数も役割も増える。定期試験ではその後に採点業務がある。共通テストではそれは機械だが、監督は全く人の仕事である。
・・・時間をかけて・・・
特に前年にスマホとインターネットを使った不正が起きたばかりなので、監督の精神的負担が大きくなっていることは確かだろう。コロナ禍での入試もすでに三年目になり、このコロナ対策だけでも負担が増えているのにスマホを使った不正のせいでさらに負担が増え、非常に時間をかけて説明がある。昨年の共通テストの時にはかなり報道があった。当初は試験会場であれだけの厳重な監督のもとでどうして可能なのかと思うとともに、外部の協力者をどうやって集め、試験時間内に正解を知るのかわからないことが多かった。
その後の報道で詳しいやり方がわかったが、現場でこれを防ぐのはかなり難しいというのが実感だった。実際に昨年の場合は試験会場で見つかったのではなく、協力者は共通テストの問題とは知らされずに解き、そこからの通報でわかり、受験生の特定も本人が出頭したことによるものだった。現場で監督に当たった人がそのことを後で知らされたのかどうかはよくわからないが、通常の監督の仕方では見抜けなかったのは仕方ないだろう。
・・・時間の管理・・・
この監督業務に付随する形で意外に重要なのは時間の管理である。以前の学校では校内のチャイムを使用して時間を統一していた。なぜかチャイムは電波時計と連動しておらず、逆に教室の時計が電波時計となっていて普段からずれがあった。試験前には調整していたようだが、チャイム優先という形だった。
ところが今の学校では共通テストの時はチャイムを使わずに、各自の時計によるという形で、その各自の時計は監督者の集まる部屋で電波時計に合わせるという形である。その電波時計がオフィシャルクロックという位置づけになっていてその時計の表示が全体の基準になる。また一応各教室にも電波時計が渡されて時間を管理することになっている。
・・・時間の保険・・・
個人的には時間管理の担当が最も神経を使いそうな仕事に思える。私の担当にはならなかったがそれでも時計のことは気になる。年末のことだが家族の者が電波時計を私のところにもってきて時間が正しいかどうか見てほしいと言う。私の部屋には置き時計の電波時計が二つある。それを見たところ何と三つの電波時計でみな時間が違うのである。部屋に電波時計が二つあるのは電波時計でもずれることがあるのを経験し保険のために違うメーカーのものを置いていたからである。電波時計は置き場所、気象条件や昼夜での電波状況の違い、他の電子機器の影響などを受けるようだ。しかし電子機器のない部屋などない。
家ではある程度のずれは問題なかったのだが試験の時にこれが起きれば大きな問題になる。これまでに経験した大きなずれとしては腕時計の電波時計でのことがある。ある医院を出た後にずれに気付いた。院内の機器の影響のようだった。世の中のあらゆるものが電波を発している。正しい電波はあるのだがそれを正しく受信するのは難しい。親鸞の「正信偈」が書かれた理由がわかるように思える。
能入抄79回 「手」 2023年1月号
・・・年末の葉書・・・
年の瀬の迫ったある日、保険会社からの葉書が届いていた。その保険会社は亡くなった父が自宅の火災保険を契約していた会社である。父は入院してすぐに話ができなくなり、そのまま会話ができないまま亡くなってしまった。その後の手続きは本来は母がかなりの部分をすべきなのだろうが、母が私に全て頼むというので仕方なく引き受けることになった。その一つが火災保険の契約で、父の名義で契約されているはずだった。その契約の名義を私の名前に書き換える必要があった。
この件に限らず父の家のいったいどこに何があるのかわからない。母も以前は覚えていたのだろうが、聞いてもわからない状態だった。幸いにして結婚前に一緒に住んでいたので、その時期に金庫を買っていた。耐火金庫で私が買った方がいいと提案したものだった。結婚して実家から出て同じ敷地内の別棟に移る時に自分自身の金庫を持っていなかったので実家の金庫を共有させてもらっていた。それで私もその金庫の鍵を一組預かっていた。
・・・パンドラの箱・・・
その預かっていた鍵で父の家の金庫を開けたところ実にいろいろなものが出てきた。パンドラの箱とはこういうものだろうか。珍しいやらあきれるやらで、保険会社だけでも数社あった。連絡しなければならない順序としては生命保険が先で、次が火災保険だった。
火災保険らしきものがかけてあった会社は私が聞いたことがない会社だった。私が結婚して別棟に移った時にその時の建物はまだ父の名義だったので、保険料を私が払うことになり、毎年払っていた。父が住んでいた棟と私が住んでいた棟と、両方とも父の名義だったので保険会社は同じだったはずである。その会社だろうと思っていたのだが、どうも違うようだった。金庫にあった保険会社に連絡をしたところ、その会社で間違っていなかった。聞いたことがない会社でどうして父がその会社を選んだのかわからなかった。
・・・見直し?・・・
名義変更だけのつもりだったのだが、保険会社としてはこれを機に保障内容の見直しをしてはどうかということだった。保険会社としては当然のことだろう。広島でも土砂災害が起きて私の家も災害に遭ったのでその流れになるのはやむを得ない。ただし当然保険料はあがることになる。当時は父の死に伴ってやらなければならないことが山のようにあり、また出費も多額で、とりあえず名義変更を済ませて内容の見直しはまたいつかとなった。
それで保険会社の葉書を見るとこれまでの契約の保険料が書いてあった。別のところに更改の内容と保険料が書いてあり、保険料が約2.5倍になっているので、またいつかと思った見直しに応じた額が書いてあるのだと思った。翌日保険会社に連絡したところ、そうではないことを知った。同じ保障内容で約2.5倍ということなのである。見直せばもっと上がることになる。五年契約の更新でこの五年間でそれだけ上がったということなのである。同様の問い合わせが多いそうだ。
・・・「災害正機」・・・
その確認をしたところで電話を切り、今度は私の住んでいる家の契約をしている保険代理店の人に電話をして事情を説明した。その人とは何度も顔を合わせているので、突っ込んだ内容を聞くことができた。保険会社によって違いはあるものの、概ね似た傾向があるそうで、近年の災害の増加により、全国一律で上がっている面と、さらに災害の多い地域の地域性が加わるのだそうである。広島も高いが九州はもっと高いそうだ。とりあえずその人に新しい見積もりを頼むことにした。
それにしてもである。『歎異抄』を読んでいる年内最後のゼミで「悪人正機」の話をしたばかりだった。「悪人」から先に救われるという親鸞思想の要である。これに倣えば「災害正機」のはずである。苦しんでいる人が優先のはずである。代理店の人によれば災害保険からはもう手を引きたいのが保険会社の本音らしい。阿弥陀仏の御手との何という違いだろう。やはり本当の安心はここにしかない。
能入抄78回 「78」 2022年12月号
・・・「77」の次・・・
前回がこの連載の77回で今回が78回になる。この「78」という数字を見ながら後世この数字が残るのかどうかという思いがある。令和4年、2022年が終わろうとしているが、今年はどういう年として記憶されるのだろう。2019年末からのコロナ禍の継続と、2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ侵攻は歴史に残るだろう。
前回8月6日の広島の原爆記念日に、私の母がコロナウイルスに感染したことを施設からの連絡で知り、驚くとともに二度目の被爆のように思えたことを書いた。偶然と言えば偶然だが全く偶然とは言えないものがある。しばらくして自治体の長の発言からぼかした形ではあったがやはりと思えることがあった。
・・・偶然?・・・
原爆記念日のころ広島のコロナ感染者数は過去最多を更新したが、今年は全国的に行動制限がなく県外からの来訪者も多かった。そのことも一つの要因ではないかということで、私の思っていた通りだった。しかし原爆記念日があるためにそれにより被爆者がコロナウイルスに感染するというのは何とも変な話である。これもこの世の矛盾を感じる点である。
もう一つ頭をよぎったのはこれは高齢者の家族で同様の連絡を受けた人がおそらく思うはずのことだが、抵抗力が弱いので重症化しないか、その際に入院等がうまくいくのかという問題である。過去最多の感染者数なので医療は当然厳しくなり、数日後には県から医療提供体制について広島県独自の「医療非常事態警報」が出された。東京の感染者数も何万人という単位で多かったが、人口比で考えると広島の感染者数が医療提供体制を圧迫するのは当然と思えた。ただ幸いに母の症状は心配したほど悪化することはなく、もともと個室だったので施設内での隔離療養で済んだ。
・・・「一六タルト」?・・・
その母が施設に入所する前後、要介護になった母が書類を書くのは無理で全て私が書いた。施設関係だけなく関連して役所関係のものが何枚もある。被爆者であることも関係する。また通院していた医院での診断書と紹介状をもらうための手続きもある。そのために何度も書き、今後も書くはずの数字がある。
何かというと「111111」である。書類にある「年月日」欄にこの数字を入れていく。松山に「一六タルト」という銘菓があるが、一を六つ記入する仕方は一通りしかないはずである。「11年11月11日」でもちろん昭和である。何人もの職員の方の前でこの数字を書いたが一様に驚かれる。珍しいですねという反応である。初めて見た人もあるだろう。昭和の次では平成でも同様のことがあるはずである。大正11年生まれの人だと今年100歳だが、これはごく少数だろう。
・・・転換点・・・
それ以上の反応や言及した人はないが、私としてはこの昭和11年が気になる。日本史では必ず出る年で11の後に「226」と続く。「二・二六事件」の年である。当然ながらその日に生まれた人もあるはずで母と同年生まれである。陸軍将校による反乱事件が起き東京に戒厳令が敷かれた。海軍将校が犬養毅首相を暗殺した昭和7年の「五・一五事件」と並ぶ昭和史の転換点である。自分の誕生日を「11226」と書く人はどのような思いになるのだろう。「生まれて、すみません」と言った作家がいたが、本人に責任は全くないのに何か複雑な思いだろう。ここまで書けば「78」の意味が伝わるだろう。今年7月8日に安倍晋三元首相が公衆の面前で元自衛官に射殺された。これは歴史の転換点なのか。「七・八事件」として歴史に刻まれるのか。
私にとって本当の転換点は如来廻向の回心である。人類にもその転換の力は必ず及んでいる。我々はしばしば願いが聞き届けられることを願う。しかし逆である。願いは届けられている。それに応えるのは我々である。「一々」の光明に応える「一人一人」である。必ず照らされ必ず輝く。それが人類である。「111111」と刻みながら「一々」頷く。私の、いや人類史の「一・一事件」である。
能入抄77回 「77」 2022年11月号
・・・喜寿と同じ?・・・
この連載も77回になった。年齢で77歳は喜寿なので77はおめでたい数字なのだろう。私の両親は幸いその歳を越えて生きた。父はすでに亡くなったが、墓碑に刻まれた父の年齢を見ると何となく自分もその歳までは生きられそうな気がしてきてありがたい。
この77という数字は今年の広島にとっては複雑な思いを抱かせる数字になった。2022年は1945年の被爆から77年目になる。これを「ヒロシマ」の喜寿としていいのか。70年か75年は草木も生えないと言われたことからすれば復興は喜ぶべきことだろう。70年か75年は当時の平均寿命では人の一生か、それ以上の数字だったのだろう。一世代三十年とすれば二世代以上になる。
・・・目に見えない恐怖・・・
旧ソ連崩壊の一因とされる1986年のウクライナのチェルノブイリ原発事故からは2022年で36年経った。今年ロシア軍のウクライナ侵攻で注目されたが、チェルノブイリ原発の問題は解決にはほど遠い状態である。2011年の東日本大震災での福島原発事故の問題もかなり時間がかかりそうである。
爆発は一瞬だが放射能という目に見えない恐怖とは長い戦いになる。ただし放射能は減衰するので無常が解決してくれるのかもしれない。しかし同じ無常でも物理現象としての残留放射能とは別の無常がある。それは人間の無常である。減衰としても速度が違う。
・・・無常と減衰・・・
70年、あるいは75年草木も生えないと言われた、その70年、あるいは75年は当時としてはほぼ人の一生だっただろうと述べたが、1945年当時の被爆者の年齢に被爆後の77年という数字を足して見ると、現存する被爆者の年齢がわかる。被爆体験をもつ人自体が少なくなる上にそれを語れるかどうか。急速な減衰という厳しい現実がある。
今年私もそれを実感することになった。私の母は八十代半ばで、私が小学生の頃、夏休みの宿題に毎年のように被爆体験を聞く課題があり、当然そのころは母の記憶はしっかりしていて自分のみならず一瞬にして一族に起きた突然の出来事を語ってくれていた。もちろん喜んで語るようなものではなく、聞く方もそうではない。我が家には家庭菜園がありキュウリもあったが、母が言うには被爆した兄弟の治療のために薬がないので家のキュウリを輪切りにして火傷に貼ったのだという。子どものころにこの話を聞くとキュウリにこの話が重なってしまう。幼い心に刻まれたトラウマというべきか。全国的には8月でキュウリと言えばお盆で精霊の乗る馬として使われるものだろうが、8月のキュウリに私のような記憶、あるいは母のような記憶が重なる人はどれくらいいるのだろう。おそらく被爆後にその記憶があった人もどんどん数が減っていったはずである。何の問題もなく幸せにキュウリを食べられる人が多いのは喜ぶべきことだろう。これも無常のおかげなのだろう。
・・・二度目の・・・
今年も8月6日の朝を迎えた。今年はロシアの核兵器による威嚇があっただけにいつもとは違う空気があった。そして夕方、思いがけない電話があった。母は要介護になり夏前から施設に入っていたのだが、そこからの電話で母がコロナに感染したというのだ。ワクチン接種をしていてしかも前日に電話で様子を確認したばかりである。まさに無常で急変だった。まるで二度目の被爆のようだった。
放射能とウイルス、目に見えない恐怖との戦いはいつまで続くのか。これも無常が解決してくれるのか。爆発は一瞬で解決は長時間。無常による急変なのに無常による解決には時間がかかる。矛盾ではないか。これが無常が支配するかに見える現象世界の有様である。それに対し、念仏の「念」は「今」の「心」である。念仏は今の心に仏の心が宿ることである。仏心成就の仏行である。まことの安心に時間はいらない。かからない。これは無常による急変ではない。現象を越えた世界から来るものだからである。これを「不退転」という。「ヒロシマ」の心も「不退転」である。
能入抄76回 世界が泣いた日 2022年10月号
・・・クラシック音楽入門・・・
チャイコフスキーの音楽の愛好者はロシアのみならず世界中にいるだろう。特にバレエ音楽は組曲としてその一部を聴きやすいので小中学校の音楽の時間にその内の一曲を聴くという形で、チャイコフスキーに限らずクラシック音楽への入門として聴くことが多いのではないかと思う。そこから入って次第に長い曲に移っていく人が多いだろう。私も記憶は定かではないが、おそらくはそんな形でチャイコフスキーを聴いていったように思う。
リヒテルが演奏したチャイコフスキーのピアノ協奏曲一番は特によく聴いた盤で、当時はまだレコードだったために聴きすぎてある時期から針が飛んでしまうようになってしまった。CD以後の世代の人にはわからない話だろう。それに懲りてレコードを買うとカセットテープにコピーをとるようになった。おかげでカセットテープの保存量もかなりのものになった。カセットの器械もまだあるが、ステレオセットの一部だったカセットの器械は壊れてしまった。単独で買い足したものを時々使っているが、テープ自体が巻き付いてしまってだめになることも何度かあった。
・・・世につれ・・・
次の時代はCDとMDの時代だったが、なぜかMDはあまり長続きしなかった。MDがなくなるかもしれないと聞いたときにそれに備えて器械を買い足したのだが、ある時にMDを聴こうと思ったら、その買い足した器械も壊れていた。修理できないか問い合わせたが、電気店の返事はすでに対応期間が過ぎて受け付けてもらえないとのことだった。
CDの方はまだ大丈夫のようだが、これも形のあるCDよりもデータとしてミュージックプレーヤーで聴く人が増えて今後どうなるかわからない状態である。学生のころはレコード店があってよく学校帰りに店に立ち寄ってジャケットを見ながらどれにしようかと迷った。CDになってからも同様のことはあったが、CDを売る店、レコード店は非常に少なくなった。20世紀後半の変化である。
・・・追悼の曲・・・
前々回に「黄色の椅子」のことを書いたが、その椅子を買った店も当時はCDを売っていた。近所なのでそこで買ったCDが何十枚かあり、今も聴いている。その中にはチャイコフスキーの曲も何枚かある。カラヤンが指揮したものもあり、当時はカラヤンが指揮すれば世界中どの作曲家のものでも名盤とされた。
その店で買った「黄色の椅子」に座り、名盤と言われる演奏を聴くのは私にとって至福の時間になるはずなのだが、前に述べたように「黄色の椅子」に座って聴くと、その椅子の因縁からいつのまにか追悼の時間になってしまう。クラシック音楽には実際に追悼のために書かれたと思われる曲がかなりある。「レクイエム」のように曲全体がその意味をもつこともあるし、複数ある楽章の中で一つの楽章が「葬送行進曲」になっていることがある。
・・・第五番「追悼」・・・
チャイコフスキーの音楽で追悼と言えば題名からすれば交響曲第六番の「悲愴」が最も近いように思える。そう思っていたのだが、ある時にそれが変わった。1997年のことである。イギリスの元王妃のダイアナ妃が自動車事故で急逝してまもなくのことだった。NHK交響楽団の演奏でチャイコフスキーの交響曲第五番が演奏されたのだが、ロシア出身の指揮者が客席に向かってその曲を亡くなったダイアナ妃に捧げることを述べたのだった。客席が静まりかえった。そのことを予想していた聴衆が日本にどれだけいただろう。
そう思って聴いたせいか確かに第五番「追悼」と言いたくなる演奏で、世界が慟哭していた。特に第二楽章冒頭のホルンのソロは、親鸞が亡くなり、唯円が『歎異抄』を書くに当たって述べた「耳の底に留まる」ものそのもので、今も蘇る。後で他の演奏でそこを聴いたが全く音色が違っていた。ロシアの指揮者がチャイコフスキーの曲を、日本のオーケストラで、イギリス元王妃の追悼に演奏し、世界が泣いた日があったのだ。20世紀の終わりに。今、別の意味で世界が泣いている。
能入抄75回 「主の呼び声」 2022年9月号
・・・週末?終末?・・・
ある週末の近づいた日、CDを取りだした。その週にクラシック番組でマーラーの交響曲五番を聴いた。私の好きな曲で特にその第四楽章は単独で聴くことがよくある。私の担当する宗教学の授業でもマーラーの交響曲二番「復活」と交響曲五番の四楽章を「宗教と芸術」の回で取り上げた。「終末」における「復活」を描くマーラーの交響曲二番はバーンスタインが指揮した演奏で聴いた。
この演奏は名演奏だが、おそらく若いときに聴いたのと歳をとって聴いたのでは聞こえ方に差があるように思う。個人的には2011年の東日本大震災で多くの人が亡くなった後の演奏、それも仙台での東北のオーケストラの合同演奏には言葉にできないような何かがあった。宗教の壁を越え、「終末」をも越えた「復活」だった。それ以来この曲の聞こえ方が変わったのかもしれない。バーンスタイン指揮の演奏を聴いても東北のオーケストラの合同演奏と重なって聞こえているようだ。
・・・殉死?病死?・・・
それにつれて五番も聞こえ方が変わったもかもしれない。この曲は映画『ヴェニスに死す』に使われた曲である。映画ではマーラーとおぼしき音楽家を主人公に、題名通りに主人公がヴェニスで客死する様子を描いている。主人公が死に向かうプロセスが描かれているのだが、その死の暗示のように聞こえるのが交響曲五番の第四楽章である。愛と死を描く音楽なのだろうということが予想がつく。
映画ではマーラーの音楽観も表されその死が音楽への殉死に見える。保養に来た観光地で当局の隠す疫病にかかって病死する様子は現代のコロナ禍とも重なる。同じ週に全曲を聴いていたのでもう一度その第四楽章を聴きたくなりCDを取りだした。そのCDは名曲のダイジェスト版でリラックスしたいときによく聴くもので6枚組の内の一枚である。
・・・マーラーの次は?・・・
そのCDには11曲入っており、マーラーの交響曲五番の第四楽章だけ聴いてもいいのだが、それだけでは逆に短いので頭から順に聴いた。マーラーは5曲目で、そこまでで終わりにしてもよかったのだが、余韻に浸っている内に次の曲に移り、それがチャイコフスキーの曲だった。次がモーツァルトの曲で、その次がまたチャイコフスキーの曲だった。
全曲を聴き終えると75分で、CDの収録時間からすればフルに入っていることになる。聴き終えてタイトルを見ると11曲の内、マーラーは1曲で、バッハ、モーツァルト、チャイコフスキーがそれぞれ2曲入っている。チャイコフスキーの曲は「くるみ割り人形」からの「花のワルツ」と、もう1曲が「弦楽のためのセレナーデ」である。6枚組全体ではチャイコフスキーは4曲あり、後の2曲は「くるみ割り人形」からの「金平糖の踊り」と交響曲六番「悲愴」の第二楽章だった。
・・・マーラーとチャイコフスキー・・・
これまで何度も聴いてきたCDだったが、マーラーが入っているのはこの日に聴いたCD1枚だけである。6枚組全体でマーラー1曲に対しチャイコフスキー4曲が比率としてどうなのかよくわからない。マーラーの聞こえ方が東日本大震災以来自分の中で変わったのではないかと書いたが、おそらくロシアのウクライナ侵攻以来、またそれが上書きされて聞こえているのではないかという気がする。二番の「復活」にしても、五番の第四楽章にしても鎮魂の曲として聞こえているのだろう。
ではチャイコフスキーはどうだろうか。その音楽をロシアの民族音楽の枠に閉じ込めるのは無理だろう。今回の事態でナショナリズムの音楽として聞こえるようになったのだろうか。むしろ逆だろう。これまで以上に人類の音楽として聞こえるようになったかもしれない。トルストイやドストエフスキーの文学が国境を越えた人類の文学であるのと同様だろう。CDでは「弦楽のためのセレナーデ」の次がバッハの「目覚めよと呼ぶ声あり」だった。それがチャイコフスキーの思いを代弁しているように聞こえた。「主の呼び声」に国境はない。いつでもどこでも必ず届いている。
能入抄74回 「黄色」の椅子 2022年8月号
・・・青、黄、黒・・・
ウクライナの国旗の色である青と黄色、そしてウクライナが面している黒海の黒について述べたが、そのことを書きながら気付いたことがある。自分の周囲にもある青と黄色について、私の好きな「カエル」のマークと阿弥陀仏の本尊の色の組み合わせと同じだったことを書いたが、黒もそれに接して身近にあることに気付いた。パソコン画面の黒とテレビ画面の黒である。カエルのマークや本尊の面積に比べ、比べものにならないくらい広い。
ただしこれらの黒はいつもではなく、画面が表示されているときは様々な色である。黒いのは電源を切った状態のときである。その画面を見ているときにはそこに何か映っているので黒ではない。ただそう思ってあらためて見ると自宅ではテレビの横に録画機があり、これは本体自体が黒いのでいつも黒である。職場ではテレビの横に再生専用のブルーレイディスクのプレーヤーがあり、これも録画機の小型版のようなものでやはり黒一色である。
・・・黒の占める部屋で・・・
職場で言えばノートパソコンとデスクトップパソコンがあり、デスクトップパソコンでは付属のキーボードもマウスも黒で、これは使用していてもしていなくても黒である。また職場では机を離れて見ると自分が座っている椅子も黒で、これもいつも黒である。電源を切った状態で言えば黒の占める面積がこんなにあったのかとあらためて思うほどである。
自宅の自室でもテレビやパソコンの電源を切った状態では黒の面積が広く、職場での色の組み合わせとほぼ同じだが、今回気付いたのは自室では机と椅子が二セットあり、パソコンを置いた机の椅子は青で、パソコンを使う以前からのもう一つの机の椅子は黄色である。青い椅子はわりとよく見かけると思うが、黄色の椅子はそれほど多くはないだろう。
・・・出会いの椅子・・・
今回自室の椅子の色が青と黄色であることにあらためて気付いたが、この椅子には不思議な因縁がある。この黄色の椅子は自分の好みで初めて自分で買った椅子である。それまで使っていた椅子は背もたれが可動式で、少年時代から長年使っていたせいだろうか金属音をたてるようになり、使いにくくなった。
ちょうど近所に新しいホームセンターができたのでそこに行ったときのことだ。たまたまその黄色の椅子が目に入り、しかも大きい背もたれが可動式ではない。背中全体を大きな黄色の掌にあずけられる感じになる。それまでは可動式で少年時代には問題なかったのだろうが、成長したせいで受け止めることができなくなっていたのだろう。それで後ろに体重をかけるとひっくり返りそうで安心して体を預けることができなくなっていた。求めていたのはこれだと思った。ただし大きいだけに自分が思っていたのより値段が高かった。
・・・見えない椅子
するとちょうどそこに友人が通りかかった。しばらく会っていなかったが、私はまだ学生で彼はすでに社会人になっていた。言うまでもなくそれは互いの服装でわかり、彼はネクタイを締めて仕事中だった。聞くと彼はこの店と取引している業者の者だと言い、互いの近況を話した後、私がその店にいる理由を話した。私がその近所に住んでいることを彼はとうに承知していて店長は知り合いだからまかせとけと言って交渉に行ってくれた。しばらくして帰ってきて大丈夫だよと言ってくれた。私も笑顔だっただろうが、彼のうれしそうな顔が忘れられない。そういう椅子である。
ところがこれが暗転する。その椅子を使い始めてしばらくして彼が亡くなったのだ。自動車同士の衝突事故だった。しかも事故の相手は彼の同級生だった。私の同級生でもある。こんなことがあるのか信じ難かった。仏教を学び無常をわかっているはずでも受け入れ難い話である。以来黄色の椅子は彼の笑顔と重なって見えた。私の部屋に黄色のスマイリーが来たのはその後のことだが、あの黄色の椅子に初めて座ったときの安心感は如来の御手に身を任せるのと同様のものだったのだろう。友人も見えない椅子に座っているはずだ。
能入抄73回 「黒言」から 2022年7月号
・・・青、黄、黒・・・
ロシアによるウクライナ侵攻が始まってからウクライナの国旗の色である青と黄色が気になり、気付いてみると私の好きな「カエル」のマークと阿弥陀仏の本尊の色の組み合わせと同じだったことを書いた。両方とも自分が好きな色だったことになる。私に限らずこれらの色は人の心を明るくする、あるいは晴れ晴れとさせる色になるのだろう。
ウクライナ侵攻が始まってからもう一つよく耳にする、あるいは目にする色がある。何かというと「黒」である。もちろんそれは戦場の色、あるいは戦場と化した破壊された市街地の色、瓦礫の色、炎上する黒煙の色としてニュース映像で見ることが多いのだが、もう一つある。それは「黒海」の黒である。英語で「ブラック・シー」というそうだから本当に黒く見えるのだろう。確かに海が黒く見えることはあるように思える。日本近海を流れる黒潮も同様なのだろうし、紅海、黄海のように海を表すのに色を使うことがある。
・・・「代赭色」の海・・・
芥川龍之介の小説に「少年―海」という作品がある。「保吉」を主人公とする「保吉物」と言われる作品の一つで、海の色が「青」だと思っていた少年が、現実の東京湾の色がバケツが錆びたような色である「代赭色」だと知り、それを絵に描いて母に見せるという話である。母は海の色は「青」だと言い、保吉が「ちょうどこんな色をしていた」と言っても聞こうとはしない。彼の母はとうとう癇癪を起こして彼の絵を引き裂いてしまう。
それを受けて作者は「誰も代赭色の海には、―人生に横たわる代赭色の海にも目をつぶりやすいということである。」と作品に書いている。いわゆる「リアリズム」の問題だが、ただし「所詮は我々のリアリズムも甚だ当てにならぬというほかはない。」とも書かれている。芥川龍之介の人生観がよく表れていると言えるだろうし、「蜘蛛の糸」が切れてしまった人の見方が反映しているとも言えるだろう。ギリシャ以来の「イデア」を根本とする芸術と現実を直視する「リアリズム」という二つの相反する芸術観を表すとも言えるだろう。
・・・「代赭湾」?・・・
この話からすれば「黒海」とはよく名付けたもののように思える。東京湾を「代赭湾」と名付けるようなものにも思える。現実の色を反映させた命名になるのだろうか。ギリシャの国旗は「青」と「白」だが、「青」は海と空の色を表すそうだ。ギリシャでは海は確かに「青」いのだろう。地中海やエーゲ海の海の色はそのイメージだろう。それに比べれば黒海は本当に「黒」いのだろう。あるいは「黒」く見えるのだろう。私が子供のころ、広島湾ではよく赤潮が発生していたので芥川の言う「代赭色」の海のことは私にもわかる。
その「黒海」もまた戦場になり、ロシア側は立場上は事故との扱いのようだがロシアの艦船、それも黒海艦隊の旗艦が撃沈された。海上封鎖が行われ、問題なのは戦争の勃発とともにウクライナの小麦の輸出が阻まれていることで、食糧問題への波及が心配されている。大国の横暴によって「黒海」が仏教で言う「黒業」の海になってしまっている。
・・・閉じられた海から・・・
今回の戦争が始まってから毎日のようにウクライナ周辺の地図を見ることになったが、「黒海」は特殊な海だという気がする。「地政学」という言葉も今回の戦争でよく聞くようになったが、大学時代に「地政学」のことを「悪の政治学」だと聞いた覚えがある。「黒海」周辺は確かにそういう地域だろう。面積はかなりのものだが、閉じられたと言っていいほどの内海である。海とは開かれたものだというのが一つの常識だろうが、閉じられた海もあるのだ、それによって争いが起こるのだということがよくわかる海である。
そうすると芥川の「誰も代赭色の海には、―人生に横たわる代赭色の海にも目をつぶりやすいということである」という言葉が生きてくる。「黒言」と言っていいかもしれない。しかしその海もまた開かれた海に転じる。「本願力」によって開かれる「本願海」である。
能入抄72回 金言 2022年6月号
・・・「カエル」道で・・・
2022年2月24日にロシアによるウクライナ侵攻が始まってから憂鬱な日々が続いていたある日、久しぶりに気持ちが晴れる出来事があった。この連載の69回に書いた「カエル」のマークのついたトラックとの出会いである。その日も夕方のことで家への帰り道での出会いだった。似たような時間帯だが、おそらく季節の関係でそれまでよりは少し明るい時間帯だった。またそれまで出会った時とは別のルートでの出会いだった。
私の家の近くに高速道路のインターチェンジがあり、インターチェンジと一般道路の合流点がある。この合流点は注意が必要で、私自身も高速道路から降りてこの合流点で一般道路からの車と合流することがあるのでよくわかるが、高速道路での走行と速度が違うのだが、まだまだ高速の感覚が残っていてタイミングが難しい。さらにその合流点の少し先にもう一つ別の一般道路との合流点がある。合流が二回連続する構造になっている。
・・・「出会いと別れ」・・・
私は一般道を走っていたのだが、目の前にいつのまにか「カエル」のマークのついたトラックが現れた。おそらく高速道路から降りたばかりでたまたま合流のポイントが私の車の前ということだったのだろう。そのポイントが一台先かあるいは一台後なら目の前に来ることはなかった。久々の再会でうれしくなり、トラックの背面に描かれた大きな青いカエルのマークをじっくりと見つめていた。
ところがその先にあるもう一つの合流点で私とは行き先が違っていたらしく車線が変わったのかいつのまにかトラックを見失ってしまった。自分自身ももう一つの道路から進行して来る車との合流に注意していたので見失ったのはやむをえない。出会えたのもつかの間、短時間での出会いと別れだった。人生を象徴しているようにも思えた。そのせいかより強く印象に残ったのかもしれない。その時になって気付いたのだが、カエルのマークは青色だが、それはウクライナの国旗にもある青色と同じ色なのだということである。
・・・青と黄色・・・
以前このカエルのマークを見てから気に入り、なかなか会える機会がないので、パソコンに画像を保存していたことを書いた。そのアイコンがパソコンで阿弥陀仏と並んでいることも書いた。この本尊は阿弥陀仏を中心にして扉が両方に開く小型の仏壇のタイプでその扉に金箔が貼られており、もちろん阿弥陀仏も金色である。扉の黒漆の色もあるが、全体としては金色の比重が大きい画像である。
つまり青色のカエルのマークと、金色の本尊が並んでいたわけである。この画像を保存した時にその色の取り合わせについては特に考えることもなかったが、ロシアによるウクライナ侵攻が始まってからウクライナの国旗の色である青色と黄色の取り合わせを見ることが多くなった。そしてウクライナの国旗の色が、青と黄色、あるいは青と金色とされていることも戦争が始まってから初めて知った。
・・・平和の色・・・
青は青空、黄色あるいは金色は小麦畑を表すそうだ。小麦の実った色は黄色にも金色にも見える。特に日の光を浴びていると見事に輝いて見えるので金色としてもおかしくはない。あるいはヒマワリの色を表すそうだ。豊かな大地の実りを表していることには変わりはない。その平和そのものの大地が戦場になったのだろうか。ウクライナでは旧ソ連時代に原発事故があり、かなりウクライナの映像を見たはずだが、当時も青と黄色の組み合わせでウクライナを表していたのだろうか。
青色のカエルのマークと金色の本尊が並んでいるのは職場のパソコンも自宅のパソコンも同じだが、自宅ではもう一つ同様の組み合わせがある。自宅のパソコンの前に以前から「スマイリー」という黄色の顔のマスコットが置いてあり、カエルのマークに出会ってからはその上の壁にマークのプリントを貼っていた。色としては同様の組み合わせである。二つ並べるとやはりこれも平和の象徴に見える。「和を以て貴しと為す」。金言である。
能入抄71回 「正法」 2022年5月号
・・・生活パターン・・・
2022年2月24日にロシアによるウクライナ侵攻が始まってから生活のパターンが少し変わった、というよりそれは以前にも何度か繰り返したことのある形だった。夕方7時のニュースで概略を知り、さらに夜9時台の終わりから始まる別の局のニュースを見るというものである。このパターンはもともとそれに近い形を日常的にとっていたが、後者のニュースは冒頭だけ見ることもあり、何か大きなことがあるとそれを見逃さないように録画設定して後で見るということをしていた。
近年ではコロナ禍が始まってからがこのパターンで特に感染者数が増えるとそうなる。録画をして見るとどうしても見終わる時間は遅くなる。自然災害があった時もこのパターンになる。そして災害の時にはどうしても悲惨な映像を長く見ることになるので精神衛生の面からはよくない。しかし状況を詳しく知ろうとすればどうしてもそうなってしまう。
・・・非常時・・・
今回のウクライナ侵攻のニュースはこれまで見てきた災害時のニュースや映像と同等かそれ以上の非常時のものだろう。日本では2011年3月11日の東日本大震災の報道が最大級のものだろう。それ以前では1997年の阪神大震災、以後では2014年の広島土砂災害、2016年の熊本地震、2018年の西日本豪雨などがある。また2019年末から始まったコロナ禍は波を繰り返しながら半ば常態化した非常時と言えるだろう。
一つの局を信用しないわけではないが、局が変わると内容が変わったり、解説する専門家の顔ぶれが変わるので複数の内容や見解に接したくなる。今回のウクライナ侵攻では9時台の終わりに始まるニュースに加え、11時台にある別の局のニュースも見ることがよくあった。11時台には同じ時間帯にニュースが二つあり、7時からのニュースと合わせて四局のニュースを次々と見ることになる。
・・・「慈心不殺」・・・
2016年の熊本地震の後に夢で「慈心不殺」という文字を見たことをこの連載に書いた。あの時には毎日地震のニュースを夜遅くまで見ていた。また風邪をひき、実はそれは肺炎だったと後でわかるのだが、精神的にも肉体的にも苦しい時だったのだろう。「慈心不殺」は強く印象に残っている。「慈心不殺」の内容からすれば、当時の地震よりも今回のウクライナ侵攻の方が関係が深いだろう。
すでに書いているように「慈心不殺」は『観無量寿経』にある言葉で、『無量寿経』にある「兵戈無用」とともに、仏教で平和を語る際によく使われる言葉である。仏教は平和思想なので「慈心不殺」や「兵戈無用」が説かれるのは当然とも言えるが、仏教を学ぶと否応なく当時のインドの様子を知ることになり、そのインド内の情勢はとても平和とは言えなかったことがわかる。当時のインドは統一国家ではなく各国が覇を競っていた時代である。中国でも孔子が出た時代は周王朝が衰えて各国が覇を競った時代であり、孔子が「覇道」を批判していたことと似ている。
・・・仏教の原点・・・
インドにおける強国としてはマガダ国とコーサラ国があり、「浄土三部経」では『無量寿経』と『観無量寿経』がマガダ国の首都の王舎城で、『阿弥陀経』がコーサラ国の首都の舎衛城で説かれる。当時のインドでの対立する国際政治のただ中で仏教は説かれたのである。「正法」の重みがそこにある。釈尊を生んだ釈迦族はコーサラ国の属国で、釈尊在世中にコーサラ国に滅ぼされてしまった。釈尊が出家せず王家を継いでいれば国は滅びなかったのではないかと思う人もいただろう。しかしそれでは「正法」は説かれなかった。
そうすると精神衛生によくない戦争のニュースに叫びだしたくなる日々は仏教の原点かもしれない。そしてあらためて思う。この狂ってしまった世の中で念仏しようと。狂気の中で正気を、「末法」の中で「正法」を生きようと。本願の大道という正道がそこにある。それが「無礙の一道」である。真正面から受け止め、真正面から語るときこの道は開ける。
能入抄70回 ハッチ 2022年4月号
・・・「残る」・・・
2022年2月号の記事に潜水艦映画を見たことを書いた。コロナ禍が続き先の見えない状況の中で潜水艦映画を見てわざわざ極限状況に自分を置くということをしたわけである。その映画を見終えてある程度時間が経ったところで、何度も思い出す場面があった。この映画に限らずそういう場面があるだろう。見終えてしばらくは全体が印象に残り、時間が経つにつれて全体の印象は次第に薄れあるいは忘れていき、ある場面だけが残る。映画だけでなく様々な作品でそれが言えるだろう。
今回の場合、作品自体の力によるものと、その後の時代状況によるものと、自分自身の状況と、おそらくそれらが複合的に作用したのだろう。どういう場面かというと、潜水艦に閉じ込められて絶体絶命のピンチに陥り、息を殺す緊張状態が続く中で、そもそもが潜水艦内に閉じ込めれているという極限状況というべき状況の中でそのさらに極限、極限の極限というべき状況に陥る。するとある乗組員が極度のストレスからだろうが、ほとんど錯乱状態になって潜水艦から外に出ようとしてハッチに向かおうとするという場面である。
・・・「叫び」・・・
もちろん海中でハッチが開くわけはなく力ずくで阻止されるのだが、その時の乗組員の鬼気迫る表情が忘れられない。ムンクの「叫び」のあの顔を思い起こさせる表情だった。この乗組員がその潜水艦の中で新参者かというとそうではない。むしろ逆で艦内で「長」の着く立場にある古参兵の乗組員である。
本来歴戦の強者と言っていい立場の乗組員がそのような状態になるということで、いかにその時の潜水艦が置かれた立場が危機的なものかを示す流れと言えるだろう。演出としてそうなのかもしれないし、ひょっとして実話が基になっているのかもしれない。この場面を演じるためにその役者が選ばれたのかもしれない。いつのまにかムンクの「叫び」の人物とイメージが重なってしまった。
ムンクの「叫び」が共感を呼ぶのは現代人が置かれた状態が、まさに「叫び」だしたくなるような追い詰められた状態にあるということだろう。「閉じられた」世界にある者の姿である。
・・・「コロナ禍」の「戦禍」・・・
この映画を見たころにはまだそうでもなく年が明けて2022年になり、新たな変異株によるコロナ禍と、その一方で北京で開かれる冬季オリンピックの話題がニュースになっていたころ、しだいにロシアとウクライナとの間の緊張状態が高まり、ロシアがウクライナとの国境周辺に大規模な兵力を結集していることが取り上げられるようになっていった。
2014年のソチ冬季オリンピック直後にロシアはウクライナに侵攻しクリミア半島とウクライナ東部を占領したので今回もその可能性があるとのことだった。コロナ禍での戦禍があるのだろうか。2月22日が聖徳太子の命日、翌日2月23日が日本では天皇誕生日で2014年と同じような日程で考えるとその頃が侵攻のタイミングということになる。
・・・「震え」・・・
ある時のこと、このロシアの兵力結集のことを番組で見ていて、突然全身に悪寒のような何とも気持ちの悪い震えが走った。震撼というのだろうか。ちょうど三回目のワクチン接種をどうしようか迷っていた時期でもあった。昨年の夏にワクチン接種をした後、真夏なのに夜中に悪寒がきて気持ち悪い思いをした。発熱はなかったができればもう打ちたくはなかった。あの時の震えが肉体的なものだけだったかどうかはわからない。今回の震えは真冬とは言え、精神的なものだろう。
そしてまさかとは思ったが、実際に2月24日にロシアのウクライナ侵攻が始まった。ロシア側から核兵器による威嚇発言もあった。原発攻撃もあった。あの潜水艦の乗組員、ムンクの「叫び」の心情だった。何よりも心を痛めたのはウクライナの戦禍の映像だった。破壊と恐怖の連続。20世紀に見終えたはずの映像だった。「叫び」はいつしか「念仏」へと変わった。ハッチは開かれる。向こう側から。「開かれた」世界があるからである。
能入抄69回 「カエル」世界 2022年3月号
・・・短くなり・・・
何度目かの新型コロナウイルスの変異株の出現により先の見えづらい状況の中で、潜水艦映画を見てわざわざ極限状況に自分を置くという逆療法というかショック療法的なことをしながら何とか過ごそうとしているころに、時々なのだが気持ちが明るくなるようなことが何度かあった。秋以降冬にかけてどんどん日が短くなり、おそらく若いころはさほど気にならなかったのだろうと思うが、暗くなると車の運転にかなり神経を使うようになる。
職場を変わった関係で、以前の職場に向かうには冬になると行きも帰りも暗いという状況だった。行きは出勤途中に日が昇る形になっていた。しだいに明るくなるのはいいことだが、職場への経路の関係で昇る朝日に向かって車が走るという状況になることがある時期があった。まぶしくて危ない。また帰りはどんどん暗くなっていく。これは自宅と職場の位置関係からどうしようもないことだった。
・・・身近に・・・
職場が変わってこれまでより身近に感じるようになった。朝は冬至のころでも暗いということはなく、また自宅との位置関係から朝日に向かって走ることもなくなった。ただし帰りはやはり暗くなる。授業の終了時間が前の職場よりも遅い日があり、時間の拘束は緩くても暗くなってから帰途につくことが避けられない日がどうしてもある。これまでより距離は三分の一以下になったが、これまでは通っていなかった道で途中に道幅が狭い箇所がある。歩行者用の歩道もない。渋滞するので注意が必要で、特に秋から冬場の暗い時間帯は要注意である。文教地区というほどではないのだが、保育園から小中高大と学校が揃っている地区で歩行者や自転車に注意する。
そういう神経を使う道で、渋滞中に目の前にいるトラックを見ながら進むことがある。トラックが前に来ると視界が効かず信号も見えなくなるので普通は好ましくないのだが、そのトラックだけは前に来ると何となくうれしくなる。気持ちが暗くなっている時でも明るくなるようで、気持ちが変わるような気がする。またその印象がしばらく残っている。
・・・「カエル」マーク・・・
何のトラックかというと実は私もよくわからなかった。どうして気持ちが変わるのかというとそのトラックに描かれているイラストのおかげである。太い青い線で描かれたカエルのマークで、大きなつぶらな瞳でどこか夢を見ているようで何とも愛嬌がある。気持ちを「カエル」マークだと思い、時々それが前に来るとうれしくなり、いつのまにか見えなくなると次はいつ会えるのかと思っていた。
いまだにその出会いのタイミングはわからない。職場を出るタイミングやトラックが走るタイミング、しかも目の前にそれが来るというのは確率的にかなり低いのは当然だろう。以前一度、高速道路で目の前にそのトラックが走っていることがあったが、関西でのことだったので広島で会えるとは思っていなかった。「カエル」道で気持ちを「カエル」マークだと思っていた。会えたときに写真を撮ろうかと思うこともあったが危ないのでやめた。
・・・本尊と並んで・・・
本当にたまにしか会わないので、そのマークに会いたくなり、ネットで「カエル」と「トラック」を入れて画像検索してみた。するとある運送会社のトラックのマークとわかった。早速その画像を保存した。そのフォルダには阿弥陀仏の本尊の画像もあり、アイコンでカエルと阿弥陀仏が並んでいる。カエルが阿弥陀仏を見つめているようでもあり本当に気持ちを「カエル」力があるように思った。
誰のデザインかと思いその会社のサイトを見たが作者はわからなかった。マークの由来は小野道風が柳に飛びつく蛙を見た故事からのようだった。それとともにサイトには「カエル」五原則が載せられ、「視点をカエル」「意識をカエル」「時間をカエル」などとある。それが私には浄土教の起こす意識変革や世界観の変革と同じことに思え、なるほど私の気持ちを「カエル」のももっともだと思った。「カエル」の声も全称の念仏である。
能入抄68回 「開かれた」世界へ 2022年2月号
・・・新変異株・・・
2021年の11月の末から海外で新型コロナウイルスの新しい変異株が発見され、またたく間にヨーロッパはじめ各国に流行し始めた。特にイギリスでの流行は新型コロナウイルスのワクチン接種が進んでいたはずの国、いわゆるワクチン先進国のはずなのに急速に感染が拡大し不気味さを感じさせた。ワクチン接種が早く進んでいただけにその予防効果が落ちるのは早いだろうということは確かにわかるが、それでもワクチンを二回接種すればかなり防げると思っていた人は多いだろう。
イギリス特にロンドンの様子のニュースを見るたびに、新型コロナウイルスが流行し始めてここ二年ほどこれほどイギリスやロンドンのニュースを見るのはこれまでにはなかったことだと思った。イギリスやロンドンの困難さを伝えるニュースを見てきたせいだろうか、あるいは何か私の精神状態のせいだろうか、ナチスドイツと戦っていたころのイギリスの状況と重なったせいだろうか、年末に映画『U・ボート』を見ようという気になった。
・・・潜水艦・・・
私が戦争映画が好きだということではない。2014年の広島土砂災害の起きた時に、たまたま寝る前まである戦争映画を見ていてその映画での艦砲射撃と豪雨となった雷雨の猛烈な響きが重なり、一夜明けて見ると周囲の悲惨な状況に驚くということがあった。わざわざ悲劇とわかっていて戦争映画を見るのはどういうことだろう。怖い物見たさということもあるのだろうか。何か強烈な刺激を求めていたのだろうか。それもあるかもしれない。
以前ある日本の戦争映画で潜水艦のことを描いたものを見たことがある。確かたまたま滞在していたホテルのテレビで見たような気がする。夏休みだったので時節柄放映されていたのだろう。その時に見た潜水艦の内部でその狭い空間に閉じ込められたまま耐え抜く乗組員の姿に、この世界に閉じ込められている我々、というか自分自身の姿が重なった。
・・・再確認・・・
『観無量寿経』で王族でありながら幽閉され救いを求めるビンビサーラ王や、さらにそれを救おうとして自らも幽閉される韋提希夫人の姿も同様である。さらには釈尊にとっても、出家前の王宮は我々から見ればこの世での最高の場所に見えるようでも自分を閉じ込めるものでしかなかったのだろう。仏教が「開く」宗教になった原点はここにあると言えるかもしれない。浄土教の原点とも言える。
そのように思えば潜水艦映画を見るのはこの世での自分の立場の再確認とも言えるだろうし、それを越えた解放、あるいは開放された世界を求める気持ちの再確認と言えるかもしれないし、ただの自虐的な気持ちかもしれない。悲劇とわかっていてもそれを耐え抜く時間が相当あるわけで、出撃してすぐに撃沈されては映画にならないので、その耐え抜く姿だけでも見る価値はあるように思えた。そのような極限状況に置かれた人の姿を追体験するのはそれなりに意味があるように思えた。
・・・「閉じられた」世界から・・・
この映画には本来の乗組員以外の乗員がいるのだが、映画の中でなぜわざわざこの潜水艦の中に乗ったのかを語る部分があり、極限状況に自分を置いてみたかったのだと語る。この映画は実話が基になったものなのでこの会話は実際に交わされたものかもしれないが、映画を見ている側からすればまさに自分の気持ちを語ってくれているように思える。そうやって擬似的だが極限状況に自分を置いておいてみて映画を見終わった後に、今の自分はそれよりはましだと思いたいのかもしれないし、終わった後の解放感を味わいたいのかもしれない。ともかく見応えのある作品だった。
昨年の秋に聖徳太子の授業をする教室が622教室で自分の研究室が222号室だったので、622年の2月22日に亡くなった聖徳太子のことをこれを期に覚えてほしいと語った。そのころは年内にコロナ禍が終わるかもという期待がどこかにあったのだろう。現実はそうはいかなかった。「閉じられた」世界から「開かれた」世界へとあらためて思う。
能入抄67回 「開く」年 2022年1月号
・・・2021年・・・
2021年は昨年同様に新型コロナウイルスの問題で終始し、閉塞感の内に閉じた。すでに述べてきたように2021年は聖徳太子の1400回大遠忌の年であり、また最澄の1200回大遠忌の年でもあった。すでに何年も前からわかっていたことであり、私は2011年の親鸞750回大遠忌、法然800回大遠忌が終わってから、次の目標ともいうべきものとして思いを新たにしていた。
ただし2011年に東日本大震災が起こり、親鸞750回大遠忌、法然800回大遠忌の年と重なり大きな影響を受けたことから、今回はやや身構えるところがあった。2011年の東日本大震災以降の東北の人々の苦労は筆舌に尽くしがたいものがあると思う。今年度の授業の中で何度か岩手出身の宮沢賢治についてとりあげた。宮沢賢治へのアプローチには宗教、芸術、科学と幾つもの糸口がある。
・・・「アイデンティティ」・・・
東日本大震災以前からでも宮沢賢治は東北の人々にとって心の拠り所だったと思う。東日本大震災以降はさらにその傾向は強まっただろうと思う。幾つもの糸口があり、幾つもの入り口があるということは人々にとっては接しやすいことになるし、また童話もあることから老少を問わず接することができる存在と言えるだろう。一般的には芸術的な面から入る場合が多いだろうが、私自身は宗教的な面に関心が深いのでそちらからになる。
授業では前期の宗教学の授業で「宗教とアイデンティティ」のテーマで一つの例として宮沢賢治を取り上げた。宗教はアイデンティティの問題に深く関わりその核心というべきものであると言ってもいいだろう。そのあり方が宗教の特徴をよく表すと言ってもいい。しかし実は仏教はこの問題に甚だ答えにくいという面があり、またそれ故にこそそこに仏教の特徴があるとも言える。どういうことかというと仏教が「無我」を説くことである。
・・・「開く」宗教・・・
自我のあり方を「アイデンティティ」として捉えるのに「無我」では答えにならないとも言える。ただ私にはそれが究極的な「アイデンティティ」のあり方と思える。それにより異なるアイデンティティのあり方から生じる可能性がある宗教間、あるいは宗教集団間の確執から離れた本来のあり方を示しているとも言えるだろう。仏教は「開く」宗教であり「固まる」宗教ではないことを語ったつもりである。浄土教の「信心開発」も仏教が「開く」宗教であることをよく表している。
ただ「アイデンティティ」の問題をそれが重要だとしてテーマにしておいてそれが「無い」では答えにならないというのももっともだろう。そこで大乗仏教におけるアイデンティティのあり方として「菩薩」の自覚を答えにあげた。もちろん大乗仏教の根本精神というべき「空」の立場では「無我」と同じ答えだが、『般若心経』において「空」を実践するのが「観自在菩薩」即ち「観音菩薩」であることを思えば、大乗仏教とは菩薩の自覚をもたらすものだという答えはありえるだろう。
・・・2022年・・・
その例として沢賢治を取り上げた。賢治は家の宗教は浄土真宗だったが、家や父との確執もあってか『法華経』を読み、その感動が菩薩の自覚を生んだと思われる。「地涌の菩薩」は農民とともに生きた彼の姿そのものに思える。彼の没後にトランクから見つかった手帳に記された遺言と言うべき『雨ニモマケズ』は詩と言うより「偈文」と言うべきだろうが彼の菩薩の自覚をよく表している。
後期の授業では「宗教と科学」のテーマで宮沢賢治を取り上げた。1921年は聖徳太子と最澄の大遠忌の年だがアインシュタインのノーベル物理学賞受賞の年でもある。賢治の作品には早くも「四次元」が登場する。そして今年2022年は聖徳太子遷化1400年、最澄遷化1200年の年で、日蓮生誕800年でもある。日蓮の菩薩の自覚は聖徳太子や最澄の後継者の自覚でもあるだろう。賢治が生きていたらその自覚を新たにした年でもあるはずだ。今年は「開く」年でありたい。
能入抄66回 「有限」から「無限」へ 2021年12月号
・・・不調の始まり・・・
インターネット回線の不調の直接のきっかけは自宅からオンライン授業用の教材をアップしようとしてうまくいかなかったことにあるが、それ以前から不調を経験していた。前号に書いたように、コロナ禍の中で自宅で過ごす時間が増え、インターネットの使用頻度や使用する容量は以前よりかなり増えた。
スマホもこれに関係していて、スマホの料金がスマホのネット回線を利用した容量によって増えるタイプであるために、できるだけスマホでのネットは家庭内や職場の無線LAN経由にしている。家ではモデムとルーターを経由していてスマホだけを使っているわけではない。テレビも同様で、インターネット回線で映画やドラマを見ることが増えた。テレビ局からの放送では時間が決まっているし、また録画するにしても特定の局から放送されたものしか録画できない。インターネット回線経由の映画やドラマは期間限定ではあるものの都合のいい時間に見ることができる。
・・・「番組表のはしの方」・・・
おそらく時間帯にもよるのだろうが、昼間よりも夜間のある時間帯はかなり混むようで、回線の容量の関係だろうが、時々止まることがあった。以前からそういうことは経験済みだったが、その頻度が増えていたように思う。今にして思えば、モデムの不調が始まっていたのだろう。動画を見るということはかなりの容量のデータを処理していることになる。実際にモデムは機器の中で熱を発していて手で触ると熱くなっているのがよくわかった。夏の暑いさかりでもさらに発熱しているのだからそれが長期間続けば機器の中で何らかの変化が起きてもおかしくはないだろう。
高校野球をテーマにしたある映画を見ていた時のことだが、途中で何度も止まってしまった。この映画は高校野球をテーマにしているものの、実は画面には野球のシーンは出てこない。音声で球場の雰囲気を伝え、ヒットとかアウトとかを表している。たまたま番組表のはしの方にあるのを見つけ、その映画をインターネット経由で見ることにした。
・・・「スタンドのはしの方」・・・
ある日の夜にそれを見ていたのだが、見始めてしばらくして、これは演劇を基にして作られた映画ではないかという気がした。主な登場人物が四人の高校生で、台詞が大きな役割を果たしている。その台詞が途中で止まってしまう。インターネット回線経由なのでダウンロードと再生の間が詰まってしまうとそういうことが起きてしまうようでもどかしい。
間があくので次の台詞は何だろうと想像しながら見ていて予想通りの台詞だったり、それがはずれたりを繰り返しながら、何とか最後まで見ることができた。スタンドのはしの方で起きたことを映画にしているのだが、制約を逆手にとってこちらの想像力に訴えかけながら見せる作品であり、名作だと思った。とはいえ、あまりに途切れ途切れだったので時間帯を変えてもう一度はじめから終わりまで見直した。この時は途切れることはなかった。しかし一度目の途切れ途切れの再生を思うとモデムの不調は始まっていたのだろう。
・・・「インターネットのはしの方」・・・
作品は『アルプススタンドのはしの方』という映画で、その後ネットで調べると高校生演劇の全国大会で一位になった作品が原作で、それが一般の演劇になり、さらに映画化されたというものだった。映画の冒頭からいきなり「しょうがない」という台詞が出てきてこれが何度も繰り返される。今にして思うと途切れ途切れの再生に我慢ができたのは作品の魅力もさることながらキーワードの「しょうがない」がそのときの私の気分に合っていたのかもしれない。ただ作品を見続けていくとわかるがこの「しょうがない」が次第に変化してくる。この変化の妙が作品の核になる。
「インターネットのはしの方」で「しょうがない」と思っていた私、さらに言えばコロナ禍で「しょうがない」と思っていた私の気分を変えてくれるものがあったように思う。「有限」を逆手にとって「無限」の世界に入る念仏と重なるものがあったのだろう。
能入抄65回 「有限」と「無限」 2021年11月号
・・・アクセスできない・・・
後期のオンライン授業が始まってすぐの土日に一部の学生からオンライン授業にアクセスできないという連絡があった。オンライン授業は学内カレンダーの関係で金曜日に始まることになっていた。私は金曜日は出勤し様子を見て、次の土日は休日の予定だった。しかし学生からすればオンライン授業になれば授業日に受けなければならないという制約はなくなる。授業日から一週間以内にオンライン授業用の音声入りスライドを視聴することで出席扱いになるのが原則になっていた。
おそらく土日に見るという学生が多かったのだろう。こちらとしては土日は休日なので週明けの月曜日の対応でいいと思ったが、とりあえずの対応として学生がアクセスできるサイトに同内容のオンライン授業用のファイルをアップすることにした。しかし専用のサイトとは違い、アップしようとしたファイルのデータが重すぎたようでうまくアップできないことがわかり、月曜日以降に大学の学内LANであらためてアップすることにした。
・・・関所・・・
しかしその時にもどうも自宅内のLANも調子が悪いのではないかと思えた。私はケーブルテレビに入っていてケーブルテレビの提供するインターネット回線を長年利用している。その前は電話回線を利用していた。その電話回線経由のインターネットから、次に電話会社が提供していたISDNというインターネット回線に代えた時には速さを実感した。その後にケーブルテレビのインターネット回線に代えた。インターネット回線に使うモデムも電話回線の時代から何台か使ってきた。ケーブルテレビでも3台は使っている。
はじめは自分用に1回線あればよかったが家族も使うようになってから複数で同時に使う必要があり、それでモデムとパソコンの間にルーターが必要になった。このルーターが必要になってから話が複雑になった。インターネットがつながらない時にどこが問題なのかわからなくなるのである。パソコン自体の問題もありうるし、ルーターの問題もありうるし、モデムの問題もありうるしということで結果的に関所の数が増えたのである。
・・・気難し屋・・・
家族も含めた複数のパソコンをインターネットにつなぐようになったのはケーブルテレビのインターネットを使うようになってからで、これまでルーターの交換とモデムの交換を何台か行ってきた。モデムはケーブルテレビ側からの提供でモデムだけで3台交換し、それに合わせてルーターも交換したこともある。ルーターもはじめは有線LANだけのものが現在は無線LANも使えるものになった。
今回の不調の原因はすぐにはわからずとりあえずはモデムの電源を切ることとルーターの電源を切ることで両方ともリセットすることで何とかなるのではないかと思い、それで乗り切れるだろうと思った。これまでの経験からはそれで回復することが多かった。電源を切ってすぐにまた電源を入れるとリセットにならないことがあり、このあたりが普通の電気製品とは違うようで難しい。気難し屋のような製品でご機嫌を伺いながらになる。
・・・コロナ禍で・・・
ところがその時はなぜか回復せず、一晩置いてみたがそれでも回復せずという状況で、オンライン授業期間なのに非常に困る事態になった。月曜日に出勤してから学内LANは問題なかったので教材のアップをしてからケーブルテレビ会社に連絡した。しばらくして会社から私が自宅でしたはずのリセットがうまくいっていないので会社からモデムのリセットをしたという連絡があった。会社からモデムがリセットできるそうである。
その日に帰宅するとインターネットにつながった。ところが数日でまたつながらなくなった。再び会社に連絡すると今度はモデムを交換してくれた。今は正常である。今年何度もパソコン関係の不調を経験したが原因はコロナ禍で使用頻度や容量が増えたことにあるようだ。要するに有限なのである。無限を根源とする念仏との決定的な違いがここにある。
能入抄64回 「常時接続」 2021年10月号
・・・再び?・・・
新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が続く間の授業は再びオンライン授業になるだろうということはほぼ予想されたことで、後期の始まる9月下旬にはまだ緊急事態宣言が出されたままだろうということも予想がついた。ということで後期の授業も再びオンライン授業を想定しなければならないことになった。9月の会議でそのことが教員に伝達され、私もそのつもりで教材の準備をしていた。
本来は紙で配布する資料をPDF資料にし、授業で使うパワーポイントのスライドも用意したが、問題はそこからである。対面授業なら紙の資料を配付し、それに基づいたパワーポイントのスライドを見ながら解説していくことになる。そのパワーポイントのスライドの中にはインターネットに接続するアドレスを挿入していて、時々はそのインターネットの画面も見ながら解説することになる。その際にネット上の動画を見ることもある。前期の対面授業の時にはこの形が多かった。
・・・理由は?・・・
前期のことだが、ある授業ではじめにその日の授業に関係ある短い動画をネットで見て、その後に紙の資料とパワーポイントのスライドを見ながら解説をし、最後にもう一度、今度は別の動画をネットで見る予定にしていた。ところが授業のはじめにはネット上の動画を見ることができたのに、最後に見る予定の動画にはなぜかなかなか接続できなかった。
インターネットでは理由はよくわからないがなかなか接続できないことはあるので、それほど特別なことではないと思い、学内で使われている無線LANの接続から、教卓の上にある有線のLANに切り替えればよいと思い、久々に有線のLANケーブルを取り出した。これは無線LANの接続がうまくいかない時のためにパソコンとともにパソコン用のバックに入れて持ち歩くようにしているものである。備えあれば憂いなしというつもりで、私のように、無線LANがなく有線LANしかなかった時代を経験している人ではそのようにしている人もいるのではないかと思う。最近はしなくなったが、以前は旅行に行く時にはパソコンとともに有線LANケーブルを持ち歩き、ホテルの部屋にある有線LANの端子にLANケーブルをつないでインターネットを見るということをよくしていた。
・・・集中?・・・
この授業の時もその程度に思い、無線LANから有線LANに切り替えればつながるだろうと思っていた。学内の無線LANはかなりの容量があるはずなのだが、それでもアクセスが集中するとつながらなくなるそうで、オンライン授業になってからはそういうことは多くの学校で起こっているそうだった。
その授業の時はオンライン授業の期間が過ぎて対面授業の期間に移行した後のことだったが、しだいに試験の時期が近づいてきて、オンライン授業を復習として見ることができるという期間だった。データの資料を紙にプリントすることもできるようになっていて、自宅でもそれは可能だが、多くの学生は学内で無料で利用できるプリンターを利用していた。プリンターを発売しているメーカーの純正インクを使うとインク代が高くてかなわないので、自宅でのプリントを避けるのはやむを得ないだろう。そういう集中かと思った。
・・・保証は?・・・
ところが無線LANから有線LANに切り替えてもつながらないのですこし慌てた。授業中だが学生にスマホを出してもらって学内LANにつながるかどうか試してもらったがやはりつながらないということだった。自分の不手際ではないものの、何とも形の悪いことになり、動画での補足説明をあきらめてその授業を振り返ってまとめる形にした。
おそらくオンライン授業が始まる前にはどこの学校でも補助的に使われていたものがメインになってからこういうことが起きるのだろう。後期のオンライン授業時にはどうかわからないが完全な保証はない。異次元とつながる念仏はネットの元祖というべき存在だが、常時接続で一度も切れたことはない。
能入抄63回 「接種」と「摂取」 2021年9月号
・・・「変な気持ち」・・・
新型コロナウイルス対策のワクチンの接種が進み、私も何とか二回打つことができた。しかしその予約から接種までの経緯を考えると何とも変な気持ちのまま進行していった。まずワクチンについてだが、これは前の職場で毎年インフルエンザのワクチン接種への補助があり、同居する扶養家族にもそれが適用されたので、毎年のように打っていた。これまでの人生で最も回数を打ったワクチンがインフルエンザ対策用のワクチンになる。
毎年打つ必要があり、それから効果の続く有効期間があり、数ヶ月ということだった。それで定期試験や入試の時期を考えて毎年冬になる前に打つのが恒例だった。費用の問題はないが、年によりインフルエンザの流行が早く起こり、予約しようとしてもすぐには予約が取れないこともあった。それ以上に大きな問題はそうやって毎年のように打っていたにもかかわらず、家族の内の誰かがインフルエンザにかかるということが起きたことだ。
・・・「当たり外れ」・・・
私自身もそうで、予防接種していたにもかかわらずかかったことがあった。もうそのころにはインフルエンザ用の薬が開発されていたので、それを用いた治療になったが、かなり苦しかったのを覚えている。それから当然職場を数日休むことになるので、復帰してからも授業の進度を取り戻すのが大変だった。費用の問題はないものの、接種したのにかかると割り切れない気持ちになる。外れくじを引いたようなものだ。インフルエンザのワクチンでも副反応はある程度あり、私の場合は接種した腕が数日間痛むというものだった。
今回の新型コロナウイルス対策のワクチンの問題で、ワクチンとは何かということからこれまでのワクチンについての説明もあらためて聞くことができた。その中で知ったのはインフルエンザのワクチンの有効性は私が思っていたよりもかなり低かったということだ。その程度の有効性でワクチンとして承認されていたとは知らなかった。職場でもワクチン接種の補助があるにも関わらず接種しない人がある程度いたが、それもわかるように思えた。私のように四人家族の場合、その程度の有効性なら四人の内の誰かがかかってもおかしくないはずだったというのを今回知った。
・・・「副反応」・・・
それで今回の新型コロナウイルスへのワクチン接種だが、すでに先行接種した人の例がマスコミで紹介されると、かなりの程度で副反応が起こることがわかってきた。それからインフルエンザのワクチンと同様に有効性が保てる期間に限界があるらしく、二回目の接種から半年以上過ぎた段階で、三回目の接種が必要になるだろうと言われ、すでに三回目の接種に踏み切った国も出てきた。
三回目の接種についてはある程度予想していたことだが、問題は副反応の方で、ワクチン接種が進み、周囲に接種した人が増えるにつれて様々な情報が入るようになった。腕の腫れや痛みはインフルエンザのワクチンで経験しているが、発熱はインフルエンザのワクチンでは経験がない。それもかなりの熱が出るそうで自分が発症したインフルエンザでの発熱と同じレベルの発熱のようだった。
・・・「生老病死」全てに・・・
接種の予約を取るまでは取れるかどうか心配し、取れたら接種後の心配をし、またそれまでに新型コロナにかかるかどうかで心配するという状態で、これが何とも変な気持ちのまま進行したということである。私の場合は一回目の接種後は夜中に寒気がしたが、エアコンをかけていたのでワクチンの関係かどうかわからない。二回目は食欲が落ちたが、これも因果関係はよくわからない。腕の痛みは数日でとれた。家族の場合は二回目に発熱したが、解熱剤で何とかなるレベルだった。
今回のワクチン接種であらためて思った。誰しもが逃れられない「生老病死」の「四苦」全てに効く薬もワクチンもこの世にはないが、浄土からもたらされる「念仏」には外れもなく副反応の心配もなく一生働き続けるのだと。「接種」と「摂取」の違いである。
能入抄62回 「光る糸」 2021年8月号
・・・「切り離されて」・・・
この連載の60回、2021年6月号の記事に新しく使い始めたUSBメモリーが突然壊れたことを書いた。USBメモリーは今はずいぶんと値段が下がり、新しいものを買うにしてもさほど負担は大きくない。その時には家にあった別のメモリーを使うことにした。そのメモリーの容量はそれまでのものと同じ数十ギガあり、かなりもちそうに思えた。
ただし問題があり、そのメモリーにはキャップはあるのだが、単純な蓋のようなもので、本体とは切り離された形のものである。USBメモリーが出始めたころにはこのタイプが普通だった。しかし使ったことのある人はわかるはずだが、いつのまにかキャップがなくなってしまうという問題点がある。それを経験するとそのタイプではなく、キャップが本体と離れないタイプや本体の中に接続の端子の部分が収納されるタイプを選ぶことになる。各社がいろいろ工夫を凝らしている。
・・・「手も足も出ない」・・・
私はキャップが回転式になって本体につながっているものをしばらく使っていて、これがいいと思っていたのだが、なぜか発売されなくなってしまった。そのUSBメモリーの容量が足りなくなってしまい、新しいものを買った。そのときもキャップが本体から離れるのはよくないと思い、今度は本体の中に接続の端子がスライドして収納されるタイプを選んだ。ただこれは使っている内にスライドがうまくいかなくなるのではないかという気がしていて、実際にそうなってしまった。
これは経験のある人はわかると思うが、本体の中に引っ込んでしまって出なくなった端子を引っ張り出すのは大変である。「浦島太郎」の話で子ども達が亀をいじめる話があるが、亀は手足も首も甲羅の中に引っ込めてしまう。その状態である。当然そうなるともう使えなくなる。スライド式にも幾つかのタイプがあり、次に私が使ったのは別のタイプのスライド式で、この方がスライドは壊れにくいだろうと思っていたが、今度は本体自体が壊れてしまった。もちろんこの方が大きな問題である。それで今回は元に戻った。
・・・「輪廻」のように・・・
まるで「輪廻」のような話で、「輪廻」とはこのようにして起きるのだろうと思う。自分ではいいと思って選択を重ねたつもりでもどれも同じ次元のことなのだろう。本体がキャップから離れるタイプがキャップをなくす可能性があると知っていてなぜ手元にあったかというと、確か何かパソコン関係の商品を買ったときのおまけのようなものだった。
ポータブルのハードディスクを買った時だと思うが、ポータブルのハードディスクは2テラ(2000ギガ)あるので、それに比べれば数十ギガのUSBメモリーは本当におまけのようなものである。そのUSBメモリーがキャップ式のものということはやはりキャップ式のものが安いからだろうか。あるいは私のようにいろいろ経験した人からの需要がいまだにあるのかもしれないからかとも思う。
・・・「糸おしむ」・・・
それでそのまま使ってもいいのだが、何とかキャップがなくならない方法をということでキャップと本体をつなぐことを考えた。単純な方法で糸でつなぐのである。本体にはストラップを付けるための穴のようになった部分があり、一方をこちらに付ける。キャップにもそれがあればいいのだが、ないので原始的な方法でキャップに穴を開けて糸を通して両方を結んだ。これで大丈夫なはずである。
それで大丈夫なはずだが、ある商品を買った時に値札についていた釣り糸、テグスのような糸をこれも付けた方がいいかと思い付けた。やりすぎかなとも思った。ところがある日、初めに付けた糸が全く突然切れてしまった。気付かないうちにすり減っていたようだ。切れた糸と白く光るテグスのような糸を見ていてあらためて思った。初めの糸はこの世の縁かもしれない。いつか必ず切れる。思いもしない時に。そして人には切れない糸も必要なのだと。仏縁がそうなのだろう。永遠に「いとおしむ」という「糸」なのだろう。
能入抄61回 「白土」 2021年7月号
・・・「ワクチン接種」・・・
広島市でもようやく高齢者から新型コロナウイルスへのワクチン接種が始まった。この一年半ほど新型コロナウイルスに日本も世界も振り回されてきた。とにかくワクチン接種しか方法がないのが今の情勢のようで、ワクチンがあるだけましなのだろうか。
私の母は高齢なので、とにかく母には早くワクチンを接種してほしかった。また今年の6月は昨年6月に父が亡くなって一周忌に当たり、コロナ禍の中で昨年の6月から始まった一連の出来事の一つの区切りになる。その前に母にワクチン接種を済ませてほしかった。ただし一周忌の法要はあらかじめ予約しなければ土曜や日曜の日程がとれない。また墓は建てたものの墓誌への名入れ等の記入が済んでいないのでそれもしなければならなかった。
・・・「コロナ禍での予約」・・・
こういうことをコロナ禍の中でやろうとすると、感染状況を見ながらになるのだが、とにかく予測がつかない。昨年父が亡くなった時はすでに日本はコロナ禍の中にあったが、一年経ってまだ先が見えない状況が続いているのをどう考えたらいいのだろう。順番としては墓誌への記入が先になる。納骨も一周忌に合わせてすることにした。本来納骨は四十九日にするものかもしれない。ただそのころは私自身が、父の没後の整理で慌ただしくてその気持ちにならなかった。また母の住んでいる実家の祭壇にお骨を置いていた関係で、それを持ち出すには早すぎるような気もした。
大げさに言うと死別という別れがあり、それから遺体を火葬にするという別れがあり、ここまでは今の日本ではほぼ自動的に期日が決まっていく感じであり、延ばすことは不可能である。おそらく多くの人にとって火葬場での変化はあまりに短時間でそれが起こるために気持ちの整理がつかないまま進行することになる。本当によく火葬が日本で広まったものだと思う。土葬と火葬との間には心理的に相当の差があり、変化が大きすぎる。
・・・「インド由来」・・・
今回のコロナ禍の中でいつしかインド由来の新型コロナウイルスの変異株がまた生まれ世界に広まりつつある。イギリス型の変異株が日本にも入り、現在の流行の主流はこのイギリス型の変異株になっているようだが、すでにインド由来の変異株(デルタ株)も日本に入り、これがまた次の主流になるだろうと言われている。当たってほしくない予測であるが、イギリス型と同様になるのだろう。
そのインドでの流行のニュースでしばしば目にしたのが、大規模な火葬である。日本では火葬は目には見えない形で行われる。台車が釜の中に入るときが人間としての形をもった最後の時で、待機時間を経て出てきたときにはすでに白骨である。この変化があまりに激しいので衝撃を受けるわけである。しかしインドでの火葬はニュースで見たものは遺体を焼く火の列が連なっており、大規模な災害か戦争の最中のような感じである。それが普段からそのような形で行われるのか、今回死者があまりに多いのでそうなったのかはよく分からない。火葬も「インド由来」で日本には仏教とともに入ったが、それまで土葬だった日本がよく火葬を受け入れたものだと思う。
・・・「光る石」・・・
それで死別から火葬までは決められたスケジュールに従わざるをえず、とにかく短時間でお骨を渡されるのだが、その後のことは比較的こちらの自由になるようだ。四十九日の法要のタイミングを逃してしまうと、私がそうであるように一周忌のころになるのだろうか。四十九日のころは我が家の場合は初盆になったのでそこまで終えるのが精一杯だった。
それで今回の納骨になったのだが、それでもまだ何か手放すのに抵抗を感じた。緊急事態宣言下でしかも梅雨の最中の納骨だった。母は接種が済まず参加せず、ごく身内だけの納骨になった。幸いにその日は晴れていた。墓の中には白い石が敷かれていてそこに骨壺を置いた。その白く光る石が印象的で、「白土」に還る気がした。もちろんそれは浄土のことである。「白色白光」の世界である。
能入抄60回 「2021年のメモリー」 2021年6月号
・・・「うつりません」・・・
新しい職場で新しいUSBメモリーを使い始めた。これまでのものにはまだ容量に余裕があったが、新しい方がウイルスの問題もないだろうと思って新しいものに変えた。コロナウイルスのことが全く関係無いかと言われると理屈の上ではわかっているが、全く無関係とも言えない。目に見えずどこで感染するか素人にはわからないのは同じである。
まだパソコンを使い始めたころだったろうか。職場でコンピュータウイルスの問題が起きた。私自身もまだ使い始めたころで、フロッピーディスクを使っていたころのことだ。コンピュータウイルスの存在は知っていたが、その対処方法をコンピュータに詳しい方が説明をしてくれて、最後に付け加えた言葉がいまだに忘れられない。「このウイルスは人にはうつりませんから安心してください。」さすがにそれくらいの知識はあったので冗談だとはすぐにわかったが、それでもその後も笑ってはいられないことが何度かあった。
・・・「笑えません」・・・
コンピュータウイルスのせいかどうかはわからないが、パソコンの不調は何度も経験したし、USBメモリーがおかしくなることも何度かあった。それがコンピュータウイルスのせいかどうかはわからない。専門家にはわかるのかもしれないが、そこまで手間をかけるわけにはいかないし、何よりも初期のころに比べて値段がかなり下がり、バックアップ用に複数のメモリーをもてるようになった。
とはいうものの、実際に不調が起こってみると慌てる。ある時はせっかく撮った写真を保存していたメモリーが不調になり、目の前で次々と写真のデータが壊れていくのがわかった。どう壊れていくのか詳しいことはわからないが、さっきまで表示されていた画面が部分的におかしくなる。血の気が引くような思いがした。何かに侵食されるように見えた。
・・・「わかりません」・・・
今回のコロナ禍は誰しもが普段は自分は関係ないように思っているはずである。コロナウイルスが目に見えて自分の周りにあるとわかれば避けるのは当然だろう。それがわからないから知らずに接して感染してしまう。コンピュータウイルスも同じようなものだろう。社会に与える影響も大きいし、個人的にはその影響かどうかはわからないが、コンピュータ、特にUSBメモリーの突然の不調は随分経験した。そういう経験から慎重を期そうと思い、新しいメモリーを使い始めた。
ところがある日突然、まだ使い初めて二ヶ月経たない内に突然不調になった。何が原因かよくわからない。これまでの経験からバックアップはとるようにしていたので以前経験したような血の気が引くような思いまではいかなかったが気持ち悪い。東京もそうだったが、広島もコロナ禍で授業がオンラインに切り替わることになり、対応に追われていた。
・・・「忘れません」・・・
オンライン授業は二種類あり、一つはテレビ会議システムを使うもので、ゼミはこちらになる。使うソフトは違っていたが、テレビ会議システムの授業自体は前の学校でも経験済みだった。もう一つは専用のサイトに音声入りの教材をアップして学生がそれをダウンロードして使うものである。教材のアップとダウンロードはこれも前の学校で経験済みだったが、音声入りの教材は初めてである。
作り始めてわかったが、音声入りは明らかにデータ量が多い。それをメモリーにコピーすることをこれまでにない頻度で繰り返したからだろうか。突然不調になった。それでデータを全て消去しようとしたがなぜか途中で止まる。あるデータだけが消えないのだ。ファイル名を見るとアルファベットだが「プリンス・ショウトク」とある。まさかと思って別にバックアップしてあった同じ名のファイルを開いた。もうおわかりのように聖徳太子の画像だった。記憶から消さない、いや消してはいけないものがあるのだと教えられたような気がした。まだ容量は相当あるがそのメモリーは2021年の聖徳太子1400回忌記念としてそのままにしておくことにした。
能入抄59回 「2021年」 2021年5月号
・・・1400回忌、1200回忌・・・
2021年は推古天皇30年(622年)2月22日に亡くなった聖徳太子の1400回忌の年に当たる。また弘仁13年(822年)6月4日に亡くなった最澄の1200回忌の年でもある。法隆寺など聖徳太子ゆかりの寺や最澄が開いた天台宗では記念すべき年で様々な行事が予定されているはずである。
ただ予想されたことではあるが、日本はコロナ禍の第四波の中にあり、幾つもの大都市圏の都府県で緊急事態宣言が出されている。昨年の今頃も同じような状態で、その時には一年後には何とかなっているかとも思ったが、残念ながらそうはいかなかった。ワクチン接種は進んでいるのだろうが、我々が接種するのはいつになるのだろうか。先日見た番組によれば日本のワクチン接種率はOECD(経済協力開発機構)加盟の37カ国の中ではるかに下位の状況にある。先進国だと思ったいたらいつのまにかこういう状態になっている。ほとんどの日本人はこれほど日本の接種が遅れるとは思わなかっただろう。
・・・忌日と降誕・・・
私の頭の中ではかなり前からこの2021年への思いがあった。旧暦の622年2月22日を新暦換算すると4月8日になるそうで、4月8日は釈尊の降誕会である灌仏会でもある。灌仏会は本来は旧暦の4月8日なのだろうが、今では新暦の4月8日で行われることが多いだろう。別名「花祭り」は日本では桜の咲く時期にふさわしい言葉である。
明治以降では新暦の4月8日が聖徳太子の忌日でもあり、釈尊の降誕会でもあるということになった。忌日は偲ぶ日で祝いの日ではないが、日本に仏教が定着するのは聖徳太子の「十七条憲法」の第二条「篤く三宝(仏・法・僧)を敬へ」が大きな影響を与えたおかげと考えていいだろう。インドに開祖の釈尊、日本には親鸞の言う「和国の教主」である聖徳太子という形で、アジアの東の果ての日本に仏教が根付いたと言える。浄土教で普通「二尊」と言えば釈迦仏と阿弥陀仏だが、日本への仏教伝来の「二尊」として言えば釈尊と聖徳太子としてもおかしくはない。また最澄の天台宗から日本の浄土教が始まり広まったことを思えば、最澄の存在も極めて大きい。
・・・十年前・・
それで2021年の聖徳太子1400回忌、また最澄の1200回忌は私にとっては大切で、特に聖徳太子の新暦換算の忌日と釈尊の降誕会が重なる2021年4月8日には思い入れがあった。4月8日は数字の4と8が並ぶので阿弥陀仏の本願の数字である「48願」の日と考えてもおかしくはない。
しかし前年からの流れでコロナ禍がどうなるかわからなかったので、私の心の中で密かにそう思えばいいと思っていた。またそれ以上にというかそれ以前から2011年のことが頭に残っていた。2011年は法然800回忌、親鸞750回忌の年で、私はそのかなり前から文筆や講演などでそのことを取り上げて自分の人生の中で重要な出来事と捉えていた。その次の大遠忌に自分が生きていることは考えられず、その前はまだ幼児で何も分からなかったので、これが一生に一度だと思っていた。当時この大遠忌に遭うことを「勝縁」と表すことが多かったと思う。ところがそこに3月11日の東日本大震災が起き、私の中で混乱が起こった。今回もこの十年前のことがあるのでどこか警戒感があった。
・・・「縁」・・・
そういう中で昨年からコロナ禍の中にあり、できればそれが終息して聖徳太子1400回忌、最澄1200回忌の年を自分なりに記念すべき年にしたいという思いはあったが、それどころではない状態になった。
ただ個人的なことだがこの4月にある大学に移った。初めて訪れた時に校門に「以和為貴」とあるのに驚いた。「十七条憲法」の第一条が建学の精神で学園の創始は4月8日だった。さらに驚いたのは渡された研究室の鍵に「222」とあったことだ。2月22日と同じ数字の並ぶ部屋である。太子に招かれたようだった。これを「縁」と言うのだろうか。
能入抄58回 「乃至十年」 2021年4月号
・・・困難の入れ子・・・
2021年3月は2011年3月に起きた東日本大震災から10年になる。そしてある程度は予想できたことだが、2020年の年明けから日本でも始まった新型コロナウイルス感染症の流行から1年以上が過ぎ、二年連続でコロナ禍の中で3月11日の東日本大震災の日を迎えることになった。首都圏では2021年の1月から出されていた緊急事態宣言が継続したままで3月11日を迎えることになった。新しい現在の困難の中で、10年前の困難を振り返るという困難の入れ子状態になってしまった。日本中が困難を共有していると言ってもいい状態なのかもしれない。
このコロナ禍で、どなたの言葉だったか、人間は一生の内で戦争か災害かどちらかを経験すると言われているという言葉があった。これは私自身も感じていて、この連載の31回2019年1月号に「明治時代以降に生まれた日本人は平均寿命のようなある程度の年数を生きた人なら、戦争か災害の直接、間接の経験者になったのである。」と書いている。
・・・「平成」から「令和」へ・・・
そしてそれに続いて「平成になって、明治以降ではじめて戦争や災害を経験しない時代の可能性があるかとも思われた。しかしそうはいかなかった。」として、平成の時代の1995年の阪神大震災、2011年の東日本大震災、2014年の広島土砂災害、2016年の熊本地震、2017年の九州北部豪雨、2018年の西日本豪雨と続けている。
そして令和の時代になり、今度はコロナ禍に襲われている状態になっている。幸いにして2021年2月の中旬から新型コロナウイルス用のワクチン接種が医療従事者から始まったのでそろそろ出口が見えてきたかという気もする。しかしすでに書いたように新型コロナウイルスの変異株の流行が始まり、これまで流行した株から変異株への移行が進んでいるようで、日本でもある地域ではすでに半数以上が変異株の感染者と報告されている。
・・・世代が違うと・・・
このような状態の中で2011年3月11日の東日本大震災をどのように振り返っていいのか、自分の中でもよくわからないままだった。前回の記事に書いたように2月13日に福島県沖で大きな地震があり、東日本大震災の記憶がまざまざと蘇ったばかりだった。この2月13日の地震の後で、授業に出ているクラスで東日本大震災のことを聞いてみた。予想はしたものの私にとっての十年前と十代の青少年にとっての十年前は全く違うようだった。世代の違いというものだろう。
私にとってはつい昨日の出来事に思え、2021年2月13日と2011年3月11日は瞬時にしてぴったり重なるくらいの感覚なのに、青少年にとってはほとんど昔話のレベルのようだった。確かにその通りで幼稚園か小学生くらいの年齢では東日本大震災がどういうものなのかわからないのは無理もないかもしれない。被災地の東北では違うかもしれないが、広島では東日本大震災はニュースとしては連日連夜大々的に取り上げられるものの直接的な被害があったわけではなかった。
・・・「心の被災者」・・・
彼らにとっては現在のコロナ禍の方がはるかに影響は大きく、昨年の3月に突然全国一斉に学校が臨時休校に入り、その後も長い休校が続いた方がよほど大きな出来事であるのは仕方ない。私にとってはというと確かに今回のコロナ禍の方が教育現場にいる者としての影響は大きかったし、その中で父の死という大きな出来事もあったので、生涯の中で特筆すべき一年であったことは間違いない。
しかしそれでも東日本大震災と福島第一原発の事故で受けた衝撃は何か特別だった。自分は直接の被災者ではないが、「心の被災者」としてどうやってそれを克服するか模索してきた十年だった。広島に生まれ直接の被爆者ではないが、「心の被爆者」としてどうやって原爆を乗り越えられるか模索してきたのと同様である。原発事故により両者は核被害の点でも共通する。本願の「十八願」にある「乃至十念」が私には「乃至十年」に見える。
能入抄57回 「焼き氷」の「氷点」 2021年3月号
・・・「甘い話」・・・
バレンタインデーには全く縁のない年齢だが、一月末が誕生日なのでそのころ箱入りのチョコレートを誕生日祝いとバレンタインデーのプレゼントを兼ねてもらう。一日一粒食べると2月14日のバレンタインデーの頃に食べ終える。箱の中は芸術作品のようで基本は同じチョコレートでも配合を変えたり形や色を変えたりと工夫されている。このバリエーションは様々な「愛」のありようを表す芸術とも言えるだろう。「四十八願」が全て「本願」で本質は同じでありながらも各願にそれぞれの特色があるのに似ていると思う。
今年も妻が買ってきてくれた箱入りのチョコレートを毎日一粒ずつ食べていたが、バレンタインデーが近づく頃、民放のテレビ局でバレンタインデー・イブに当たる2月13日の夜にある恋愛映画を放送することを予告編で知って楽しみにしていた。そのストーリーはどちらかというと私の世代にはあまり関係がなさそうで、おそらくついていけないかもしれないが、主演女優の演技は楽しみだった。
・・・「焼き氷」・・・
その人のことを初めて知ったのはNHKの朝の連続テレビ小説、通称「朝ドラ」での演技を通してだった。演技というよりもはっきり言えば歌である。それが「焼き氷」を宣伝する歌で、矛盾を含んだ名前に思える「焼き氷」がどんなものなのか興味があるし、それを店先で歌うという展開がおもしろくて、たまたま見ただけなのに非常に印象に残った。
自分が以前「氷点」のことを書いたことがあり、そのことも関係あったのかもしれない。その記事を書いたのは当時連載していた「発掘歎異抄」の101回目の記事で、後に『歓喜光 発掘歎異抄二』として単行本にした。それ以前に『発掘歎異抄』という名で1回目から100回目までの記事を単行本にしていた。その続編に当たる『歓喜光 発掘歎異抄二』では「氷点」の記事はその単行本では冒頭の1回目に当たる。2008年3月号の記事で、東日本大震災の三年前になる。それからこの2021年3月号で13年になる。
・・・ロマンチックな夜のはずが・・・
記事では「氷点」が同時に「融点」であることを「こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし」と歌う親鸞の和讃を通して述べた。凍り付いた心が融ける和讃である。「焼き氷」の歌は何となくそれを思わせるものがある。かき氷の上に洋酒をかけて客の前で火をつけて見せる演出で、男女がそれを見つめ合うとたとえ仲違いしていても恋の炎が燃えそうで、何ともロマンチックである。
2月13日土曜日の夜にテレビで映画を見ようかと思っていたのだが、無粋にも眠くなり録画して翌日の日曜日に見ることにして床についた。翌日の朝、寝起きにテレビをつけると東北での地震のニュースを流していた。はじめは2011年3月の東日本大震災のことで、まもなくそれから10年になることからそれを振り返る番組かと思った。しばらくしてこれはおかしい、今のことだとわかった。2月13日土曜日の午後11時過ぎに福島県沖で大きな地震があり、朝になり明るくなって被害状況がわかってきたところだった。
・・・あの歌声で・・・
頭の中の整理がつかなくてどう考えていいのかわからなかった。テレビで常磐自動車道での大規模な土砂崩れ現場からの中継があった。私も通ったことがある道である。「常陸」といい「磐城」といいその名前からは「磐石」のイメージがある地域である。午前に見ようと思っていた映画の録画は後回しになった。
各局の報道を見た後、録画した映画を午後に見た。女優の演技は期待通りで、とりわけミュージカルシーンの歌は見事だった。そして盛り上がる終盤、全く突然、画面が地震速報に切り替わった。東北であの映画を見ていた人はどうだっただろう。激しい揺れと恐怖、十年前の記憶で心が凍り付かなかっただろうか。これがこの世の現実なのだろう。しかし一方でまた凍り付いた心を融かすものも確かにある。できれば「焼き氷」とあの映画の澄んだ歌声で「氷点」の和讃を聞いてみたい。
能入抄56回 「無い」世界 2021年2月号
・・・「終わり」?・・・
日本ではまだ始まっていないが、イギリスやアメリカなどで新型コロナウイルスのワクチン接種が始まり、これで感染流行の終わりが見えてきたようにも思えるが、ワクチン接種の完了には時間がかかりそうである。流行は下火にはなるだろうが、果たして終わりはいつになるのだろうか。インフルエンザは毎年のように流行するし、風邪も一種のコロナウイルスによるものだそうで、終わりという言い方は適切ではないのかもしれない。
新型コロナウイルスの感染の流行が始まってからある用語の使い方で気になっていたことがある。それは「シュウソク」である。感染の流行は「終息」するのか「収束」するのかということである。辞書を引くと、今この文章を入力しているワープロソフトの辞書でもそうだが、「終息」は「戦乱や疫病などが、絶えてなくなること」であり、「悪疫の終息」が用例として出てくる。「息」は「やむ」という意味である。「疫病」の「シュウソク」には「終息」がふさわしいように思える。
・・・「疫病」には・・・
一方で「収束」は「混乱していた事態や事件がおさまりを見せること」で「事態が収束に向かう」という用例がある。「終わる」のか「収まる」のかということになりそうだ。「シュウソク」の一文字目の「終」か「収」に重点があり、そのイメージをよりはっきりとさせるために二文字目があり、「終わり」には「やむ」という意味の「息」を、「収まる」には「たば」や「たばねる」意味の「束」を置いているということになるのだろう。
私の印象では新型コロナウイルスの感染流行が始まったころはニュースでは「終息」と「収束」の両方が使われていて、私は新型コロナウイルス感染症という「疫病」には「終息」がふさわしいだろうと思っていた。ただしこれまでの感染症と比べると社会に与える影響があまりに大きく、社会全体の混乱した状態を見ると全体的な事態としては「収束」の方がふさわしいのだろうかとも思うようになった。最近では「収束」の方をよく見るようになってきたような気がする。
・・・「終わらない」?・・・
この一年近く様々な情報を得る中で、このウイルスには「終わり」が見えないことも「終息」ではなく「収束」を使う理由があるのかもしれない。イギリスで始まり、各国に飛び火している「変異種」を見ると形を変えながら生き続けるこのウイルスには今の時点では終わりは見えにくい。できれば「終息」してほしいのだが、それが無理なら「収束」でもかまわないということなのだろうか。
自分が宗教との関わりが深かったせいだろうか、「終息」の方が「疫病」には合っているような思いがある。似たような使い方で「無病息災」という使い方がある。この「息災」の「息」も「やむ」ことだろう。何度か書いた『無量寿経』の「災厲不起」は災害と疫病が起こらないということであり、「無病息災」と同様のことだろう。ただし「無病息災」はどちらかというと個人や家庭として、「災厲不起」は社会全体としてということだろう。
・・・「災厲不起」、「無病息災」・・・
このような言葉が宗教的な場面で多く使われるのは、人間、あるいは人類がそれだけ疫病や災害に悩まされてきたということだろう。疫病を引き起こすものが何かわからなかった時代には、それを悪霊のせいにする考え方もあった。昨年、京都の八坂神社が国宝に指定されたが、八坂神社は祇園社として「祇園御霊会」を催してきた。現在の「祇園祭」の起源である。「御霊」の祟りを鎮め「疫病」を退散させようとする祭りである。今回の指定はコロナ禍と関係があったのだろうか。
疫病の正体がわからないので宗教の力で何とかしようとして「災厲不起」や「無病息災」が唱えられるという面はあっただろう。それとともに神仏の世界ではもともとそういうものが無く、終わるのが当然という発想もあったように思う。この世では現象的には続くのかもしれないが、はじめから無い世界もある。私にはそれが本当の安心の基に思える。
能入抄55回 「成道会」と「浄土会」 2021年1月号
・・・「Vデー」・・・
2019年12月8日に新型コロナウイルスによる感染症が公式に確認されてから一年になる2020年の12月8日にイギリスで新型コロナウイルスのワクチン接種が始まった。イギリスではこの日を「Vデー」と名付けたそうである。「ウイルス」の頭文字のVと勝利(ヴィクトリー)のVを採ったものだそうだ。ヴィクトリア朝のVも重なっているのかもしれない。アメリカとドイツの企業が共同開発したワクチンだそうだが、どういうわけかイギリスから接種が始まった。
私の頭の中では「Vデー」と聞いてあらためて1941年12月8日の真珠湾攻撃のイメージと重なった。多くの日本人が異様なまでの高揚感に包まれていたことが想像できる。12月8日の「Vデー」はそれまで新型コロナウイルスに対して防戦一方だった人類が反転攻勢に転じた日として記憶される日になるのだろうか。北伝仏教で12月8日を釈尊の「成道会」とするのも釈尊が煩悩に打ち勝って悟りを開いた日と考えれば勝利の日だろう。あるいは死魔に勝って不死を得た日と考えてもやはり勝利の日と言えるだろう。
・・・「変異株」・・・
しかしそれからわずか数日で同じイギリスで新型コロナウイルスの変異株が急速に感染を広げたというイギリス政府の発表があった。いったいあの「Vデー」の宣言は何だったのだろう。イギリスの研究者の間ではすでに新型コロナウイルスの変異株の感染拡大は知られていたはずである。イギリス政府がアメリカよりも先にワクチン接種を急いだのもそれを知っていたからではないかと思える。
新型コロナウイルスの変異株に対してワクチンが効くかどうかだが、これは有効だとされている。そこまで確認した上でのワクチン接種の開始だったのか、また「Vデー」の宣言だったのか。日本では慌ててイギリスからの入国を制限したがすでに新型コロナウイルスの変異株の感染者が確認されている。本当に勝利の始まりだったのだろうか。
・・・「変わるので」・・・
「Vデー」の「V」がウイルスの頭文字と聞いて、そういえば私が子どものころは「ビールス(ヴィールス)」と呼んでいたのを思い出した。綴りは同じで日本人としては「V」で始まるので「ビールス(ヴィールス)」の方がわかりやすい発音に思える。当時は細菌とウイルスの違いがよくわからず、そのころに聞いたのは、ウイルスは細菌よりもさらに小さいものだということと、もう一つは当時はウイルスには効く薬がないということだった。その理由としてウイルスは簡単に形が変わるので対処が難しいと聞いた覚えがある。
その後インフルエンザ・ウイルスの特効薬が開発され、ついにウイルスに効く薬ができたと思い、人類はウイルスの脅威に勝ったのかと思った。インフルエンザ・ウイルスの特効薬の開発はこれも「Vデー」と呼んでもよかったような気がする。しかしそれはウイルスに勝ったということではなかったようだ。
・・・「戦いの終わり」・・・
この果てしない戦いはいつまで続くのだろうか。12月8日の「成道会」は釈尊が煩悩に打ち勝った日と述べたが、煩悩とウイルスは似ているように思える。煩悩は言うまでもなく人間の中で起こるものだが、そのありようは実に様々である。煩悩と戦おうとするとそこに費やされるエネルギーは膨大なものになる。仮に一つの煩悩が消えたとしても次の煩悩が起こる。人間の生存の欲求と結び付いているからである。この自己保存の欲望が六道輪廻とか生死流転と呼ばれるものを引き起こす。その姿とウイルスが変異しながら存続する姿が私には重なって見えるのである。
この自己保存の欲望と「本願」が全く次元が違うと気付いた人には六道輪廻を越えた世界が見えてくる。それが「浄土」である。「成道会」は「浄土会」でもある。ウイルスの入り込めない世界である。もちろん人間の体も入り込めないが、信心は入れる世界である。ワクチン接種はいつになるかわからないが、念仏はいつでもどこでも誰でもできる。
能入抄54回 コロナ禍の中で 2020年12月号
・・・2020年・・・
2020年が間もなく終わろうとしている。私にとっては生涯忘れられない年になった。2019年12月8日に「空ずれば心安閑(のどか)なり」という言葉を夢に見た。その時の記事に父の入院のことを書いているが、秋からの父の入院でつらい時期だったのでその心構えを与えられたのかと思った。またその日に母の姉である伯母が亡くなりそれを暗示する言葉かとも思った。実際にはそれまで通りに念仏し読経する生活を続けた。
やがて年が明け中国の武漢から始まった新型コロナウイルスの感染が世界的規模で拡大し日本もその渦に巻き込まれた。約百年前に世界的に大流行したスペイン風邪を引き合いにし、同様のことが起こるのではないかと言われた。当時とは医療の水準が違うし、スペイン風邪の世界的流行は第一次大戦のせいだとも言われていたので現代では同じようにはならないだろう。それでもスペイン風邪以来の世界的な大流行であることと人類社会への影響が非常に大きいのは間違いないだろう。
・・・「心安閑(のどか)なり」・・・
このコロナウイルス禍で苦しんでいる人々に「空ずれば心安閑(のどか)なり」という言葉を伝えたとしてどう思われるだろうか。それでどうしたという程度かもしれない。仏教は「空」を説くのだからわかりきったことだとも言われるだろう。どちらかと言えば同じ仏教でも禅的な言葉に聞こえるので浄土教の門信徒の方には通じにくいかもしれない。
では私が父の死に際して感じたことはどうだろう。病室で父の死の直後に『阿弥陀経』を読んだ時に感じたあの何とも言えない幸せな気持ち、何と言っていいのかよくわからないのでとりあえずそう表したのだが、あの幸せな気持ちは「心安閑なり」に通じるようにも思える。その後、翌日の葬儀の式場での「正信念仏偈」、火葬場での「重誓偈」と三回経験するともう気の迷いとは言い切れないように思う。ただそれは理解されにくいだろう。
・・・「聖尊の重愛」・・・
矢内原忠雄の伝記で彼が若い時に母を亡くし、その悲しみの中に子羊を抱いたイエス・キリストが現れ「泣くな我なり」と告げ、矢内原忠雄が慰められたという話を読んで感動したことがある。勝手な想像だがこの話を読むと自分にもそれが見えるような気がする。すでに述べたように私が『阿弥陀経』でよく感動するのは「今現在説法」の場面で、今出会う感じがし、私としては「今現在説法」は「泣くな我なり」に近いように思える。「今、ここ、私」のための説法に感じる。つらい時などに『阿弥陀経』を読むと「今現在説法」の場面で感動し、後はいらない気持ちになる。この言葉にはこれだけで充分という力がある。「泣くな我なり」もそうである。この一言が矢内原忠雄の一生を決めたのだろう。
ところが『阿弥陀経』の「証誠段(六方段)」では次々に現れる三十八仏をはじめとする諸仏に取り囲まれて、光の輪の中でどんどん幸せな気持ちになっていくように感じる。これが『教行信証』にいう「聖尊の重愛」だろうか。これは幸福感でも「有頂天」とは違う。それを仮に説明すれば「有」の幸せに対して「空」の幸せとでも言ったらいいのだろうか。
・・・不孝?倒錯?信仰?・・・
しかしそれでも肉親の死に際してこのように感じることをどう思われるのか難しい。親不孝だと思う人もいるだろう。悲しいはずの場面で逆転するのは受難を喜ぶような倒錯した心理だと思う人もいるだろう。異常心理の一種だという人もいるだろう。それもよく理解できる。後で考えてみても、もしこれが年老いた親の死ではなく、若い時だったらどうだろうかとか、同じ肉親でも親以外の場合はどうだろうかと考えてみると想像しただけで恐ろしくなり、もう考えたくなくなる。
ただそれでも言えるのはこれまで仏教、浄土教を信じてきて本当によかったと思うということである。そうでなければお経を読むことも念仏することもなかっただろう。「空ずれば心安閑(のどか)なり」をあらためて掲げてこの一年の締めくくりにしたい。
能入抄53回 永遠の姿 2020年11月号
・・・三段階・・・
葬儀会館に着いてからは再び俗事の嵐だった。そこの会館には式場が三つあり式場を選ぶ。次に祭壇を選び、次に棺を選ぶという形で同様のことが続く。なぜか三段階から選ぶことが多い。私が思ったのはこれが四段階では真ん中がなくなり、選びにくいのではないかということだ。真ん中にしておけば平均的ということで人からあれこれ思われることはないだろう。ただ当然のことながら少しでも上の段階がいいという人もいるはずである。
『無量寿経』では衆生を「上輩・中輩・下輩」の三段階に分け、『観無量寿経』では「上品・中品・下品」の三段階にさらに各品に「上生・中生・下生」の三段階があるので九段階ある。いわゆる「九品往生」になる。ただこの分け方では中央の「中品中生」がいいという人はおらず、少しでも上をと思うだろう。それが宗教的心情なのか、葬儀会館で式のあり方を選ぶ時のような世間的な心情なのか判断は難しい。私自身は「三輩」や「九品」は人間的分別心の表れに思える。平等の浄土に世間的なものが混入するのは肌に合わない。
・・・診断書・・・
式のあり方を決めるという世間的なことをとにかくこなさなければならなかった。それがお昼近くまでかかる。どの時点だったかは忘れたが会館の方から死亡診断書のコピーを渡された。火葬をするのに必要だということは聞いていた。役所への届けは代行してもらったようである。これを自分でする遺族もあるのだろうか。その時には分からなかったがこの死亡診断書のコピーはその後も何度も必要になり、事後整理に不可欠だった。
そこに医師の手書きで死亡時刻が書かれている。すでに述べたように「6月24日6時38分」と書かれている。6月が「六字名号」、24日が「西(にし)」で西方浄土、6時38分が当初は6時だけを「六字名号」と思ったが、後から『阿弥陀経』の「六方・三十八仏」の数字と同じであることに気付いた。
・・・「急性」と「無常」・・・
午前中は俗事の嵐だったが、それでも『阿弥陀経』を読んだ時の幸せな気持ちの余韻は残っていた。いったん家に帰り昼食をとったが、その時に朝食をとっていなかったことに気付いた。時間がなかったのだ。少し横になったが頭はさえたままで通夜の準備のために早めに会館に戻り、化粧された父の遺体と対面した。気になったのは診断書に書かれていた病名のことで、それは本来入院した病名とは別のものだった。そのことで死後に遺体や特に顔が変化することがあるのであらかじめ承知しておいてほしいと言われていた。
幸いに特に変化はなかった。実は前日に病院から電話があった。以前から散髪を頼んでいたのだが、調子がよければする、悪ければしないということだった。前日の電話は調子がよさそうなので散髪するということだった。それで父はしばらくは大丈夫だろうと思っていたのだが、そうはいかなかった。先に述べた診断書の病名の頭には「急性」という言葉があった。病院でも急変したと言われた。これが「無常」なのだろう。ただ私には『阿弥陀経』の余韻が残っていて救いだった。
・・・再び、新たに・・・
翌日の葬儀の時のこと、ご住職の「正信念仏偈」に合わせて自分も読んでいたが、どの部分からだったかはっきりしないが、昨日の『阿弥陀経』を読んだ時の幸せな気持ちが再びというよりまた新たにわき起こってきて何とも言えない幸せな気持ちになった。妻にはあらかじめ昨日のことを話していたのでわかったかもしれない。安らかな幸せだった。
火葬場は本当は行きたくない場所で、これまでもつらい思い出がある。その日は火葬直前の最後の別れの場面で私が「重誓偈」をあげた。そこでまたあの幸せを味わった。火葬後の骨拾いの時に驚いた。骨が光って見えたのだ。これが仏舎利なのかと思った。仏舎利が尊ばれるのが初めて分かったように思えた。釈尊の弟子達もこの輝きを見たのだろうか。「白骨の御文章」の白骨は無常の象徴だろうが、仏舎利は永遠の象徴だろう。永遠はこんな形でもこの世に姿を表すのだと思う。
能入抄52回 「いのち」の時間 2020年10月号
・・・真っ暗な画面・・・
モニターの画面から数字が消え、真っ暗になった画面をしばらく見ていた。おそらく人によってはこの真っ暗な画面が死のイメージかもしれない。しかし私の目には「48」と「18」の数字が焼き付いていて「死」ではなく「往生」だという思いが強くあった。そのせいか悲しみを特には感じなかった。看護師が様子を見に来たので私は臨終のようですと告げた。同じ画面を別室で見ていたらしい。私の様子も気になっていたようなので、自分が浄土真宗の門徒だと告げた。気持ちの用意ができていたということを告げたつもりである。その言葉で意味がわかったようだった。
やがて医師の検死があった。私はそこで知ったのだが、死の時刻というのは検死で死が確認された時間だった。私にとってはモニターの画面が消えた時間であったし、当然のことながら別室に繋がっているモニターの記録でもその時刻は確認できるはずだった。その時に医師が6時38分と言ったのだが、そう言われて初めて自分が今経験したことはみな6時台に起きたことなのだと気付いた。全てが「六字」の名号の中で起きたことに思えた。
・・・俗事の嵐・・・
これから用意をするので私は別室で待機するように言われ、そこで様々な方面への連絡を行った。これはほとんど世俗的な用事と言ってよく、遺族はまずこの嵐の渦に巻き込まれる。おそらくかなりの人はこの通常ではありえないような短時間での事務処理に巻き込まれ、異常な緊張の中で、通夜、葬儀、火葬と続く二日間を過ごすことになるのだろう。
私は連絡が一通り済んだ後に少し時間が空いたのでそこで持参していたお経を読み始めた。まずは「正信念仏偈」、続いて『無量寿経』の一部である「讃仏偈」、「重誓偈」と読み進める内に、看護師から用意ができたと連絡があった。亡くなった病室とは別室に父の遺体が移してあった。その部屋は個室ではないのだが、他のベットは空いていて父と私の二人だけになり、私にはそれがよかった。
・・・固有名詞・・・
そこで『阿弥陀経』を少し声を出して読み始めた。『阿弥陀経』はそれまで読んだものより長い。『阿弥陀経』で私が好きなのは比較的はじめの方にある「今現在説法」の部分で、ここで感動すると後はどうでもよくなる。出会えた気持ちになってもうこれで充分という気になる。ただその時はその後も一字一句心を込めて読んだからなのだろうか、これまでとは少し違う気分になっているような気がした。それが六方の諸仏による「証誠段(六方段)」になってもっとはっきりしてきて何とも言えない幸せな気持ちになってきた。
これまでそこに登場する諸仏の名前を固有名詞としては読んでなかったのだろうと思う。群像のように捉えていたのだろう。しかしその時は経文に書かれている通りに一仏一仏が本当に念仏者を護っているような気がして取り囲まれているようで、「今現在説法」のところで感じるありがたさや感動よりも「幸せ」というのがふさわしいような気持ちになった。『阿弥陀経』の「証誠段(六方段)」でこんな気持ちになったのは初めてである。
・・・「六方・三十八仏」・・・
『阿弥陀経』をほぼ読み終えたころに部屋のドアが開き、手配していた葬儀社の方が来られて部屋を出ることになった。玄関とは別の出口があり、そこから出たのだが、いつのまにか連絡があったようで集まられていた看護師の方々に見送っていただいた。ついさきほどまで読んでいた六方の諸仏の姿と重なって何ともありがたい見送りだった。
ただおそらく遺族は悲しんでいると想像されていた方がほとんどだろう。まさか当の私が「幸せ」な気持ちに浸っていたと思っていた方はおられないだろう。私自身も父が亡くなった直後にこんな気持ちになるとは思いもよらなかった。少し落ち着いてから「証誠段(六方段)」を読み返して気付いた。固有名詞のある諸仏は三十八仏だった。そこで医師に「6時38分」と言われたのを思い出した。まさに「六方・三十八仏」の時間だった。
能入抄51回 父の「いのち」 2020年9月号
・・・武漢の封鎖解除・・・
2019年12月8日に中国の武漢で新型コロナウイルスによる新型肺炎が公式に報告され、それ以来2020年の夏になっても世界に広まった感染拡大は終息していない。しかし武漢では感染拡大を封じ込めたとして2020年1月23日から続いていた都市封鎖が2020年4月8日に解除された。12月8日が北伝仏教における釈尊の成道会だったこととこの日に見た夢のことを書いたが、封鎖が解除された4月8日は釈尊の降誕会である灌仏会、花祭りの日だった。これが偶然なのか何らかの意図があったのかわからない。
その後日本でも緊急事態宣言が出され、いったん終息に向かうかと思われたが、解除後に再び感染が拡大し、まだ終わりが見えない状況である。風邪やインフルエンザと同様に夏になれば収まるのではないかという希望的観測もあったが、どうもそうはならないようだ。目に見えないウイルスを完全に封じ込めることは極めて難しいようだ。ワクチンや特効薬の開発はこの冬に間に合うのだろうか。
・・・転々と・・・
この先の見えない状況の中で、私の父が亡くなった。昨年の秋から入院中で、すでに入院後から回復するのは極めて難しいことが医師から伝えられていたのでいつかこの日が訪れることは予想できた。この入院で初めて経験したことが幾つかある。一つは延命措置をどうするかということだった。家族で相談してほしいと言われ、相談はしたものの結論は出なかった。誰しもが延命措置をしないことを望むとは言い出したくなかった。
もう一つは転院のことである。初めの病院で三ヶ月はいられないと言われ、回復する見込みがないのになぜ転院を迫られるのかわからなかった。しかし経験した人達に聞いてみるとどこの病院もそうだと言われ、転院先を探すように言われた。結局手術のための短期入院を含めて三つの病院にお世話になった。転院先を探すことを含めて、転院の際の実務的なことなど、多くの時間と労力がかかった。
・・・病室封鎖・・・
最後の病院ではちょうど新型コロナウイルスの流行中で面会が制限され、ほとんど父と会うことができなかった。どこの病院でも同じだっただろう。神経質なほど注意しているのがよくわかった。4月以降ではもう危ないでしょうと言われたために、最後かもしれないということで特別に許可が出て極めて短時間の面会をした。しかし周囲の目があるのでほんの数分だった。その特別許可の面会が二回あった。そして三回目の面会に当たるのが亡くなった6月24日の早朝だった。
夜明け方に病院から電話があった。すでに危ないというのが二回あった後で、しかも電話がかかってきた時に私はその病院に行っている夢を見ていた。父の病室に着く前に12月8日に亡くなった伯母に出会ったところだった。亡くなったはずだがと思っていたところに電話が鳴り、目が覚めた瞬間これは父のことだと思った。その通りで聞き覚えのある看護師の声ですぐに来るように言われた。
・・・「48」と「18」・・・
病室に着くと医師と看護師数人が父を取り囲み私が間に合ったことにほっとした様子だった。私はできれば一人で父を見送りたい気持ちがあり、その気持ちが伝わったようだ。気付くといつのまにか二人になっていた。私は父の手を握りながら父の耳元で、全て阿弥陀様におまかせしようねとささやいた。そして静かに念仏していた。何度もそのままおまかせしようねとささやきながら念仏した。その声が父に届いたかどうかはわからない。
ふと枕元のモニターを見ると数字が消えた。ああこれで終わりかと思った。すると48という数字が現れた。四十八願の数字である。それがまた消え次に18という数字が現れた。十八願の数字である。「まかせよ」と言われたようでありがたくてたまらなかった。それがまた消えいよいよ終わりと思うと、短時間にいろいろな数字が現れては消え、やがてそのままになった。臨終だった。「48」と「18」が今も私の目の前に見えている。
能入抄50回 「いのち」 2020年8月号
・・・「千の風」の人・・・
2020年令和二年の年が明けて出勤してから初めに取りかかったのは教材の予習である。年間の授業計画で取り上げる教材はあらかじめ決まっている。年明けに取り扱う作品は教科書の後ろの方の作品になるのが普通である。場合によっては年内になることもある。その中で特に感慨深く思ったものがある。『ストロベリー‐フィールズの風に吹かれながら』という作品で、著者は新井満である。
新井満は「千の風になって」の訳者で、その曲の作曲もした人である。おそらく浄土教の関係者にもこの歌は共感をもって迎えられたのではないかと思う。この曲は宗教心を感じさせる曲でありながら、宗教心を特にもたない人にも受け入れられたのではないかと思う。非常に幅広い活動をしている人である。私は「千の風になって」を聴いた時に「千」が「千手観音」のイメージに重なって聞こえた。また「風」のイメージもいい。「千手観音」は樹木が多くの枝を伸ばしているイメージだが、その樹に「風」が吹き渡っているようなイメージである。文学、音楽、映像に渡る新井満の多彩な活動は「千手観音」を目指しての活動かもしれないという気がする。
・・・ジョン・レノン・・・
『ストロベリー‐フィールズの風に吹かれながら』という題名にも「風」が入っていて、「千の風になって」と重なるものがあるのだろうと思う。この作品はこれまでも扱ったことがあり、内容はわかっているのだが、今年は特別な思いがあった。題名だけでビートルズが好きな人には想像がつくかもしれない。
中心になっているのはビートルズのメンバーだったジョン・レノンのことである。ジョン・レノンの死と、残された日本人妻であるオノ・ヨーコ(小野洋子)との対談が扱われている。私のようにビートルズを聴いて育った世代にとっては特に興味深い作品である。
・・・12月8日・・・
すでにお気付きかもしれないが、ジョン・レノンがニューヨークで、妻のオノ・ヨーコの目の前で突然の死を迎えたのは1980年12月8日のことである。12月8日はもともと北伝仏教での釈尊の成道会で、そこに20世紀になって1941年12月8日の日本軍によるハワイの真珠湾攻撃が重なった。私は戦後生まれなので、この真珠湾攻撃のことを映像や音声としては何度も聞いていて耳にも目にも残っているが、直接には知らない。
その私にとってジョン・レノンの突然の死はあまりに衝撃的だった。ファンによる射殺ということだが、何とも奇妙な事件である。その男はハワイからやって来た男である。しかも妻のオノ・ヨーコは日本人である。12月8日といい、ハワイから来た男による射殺といい、日本人妻の目の前での事件といい、「リメンバー・パールハーバー」の延長上に考えてしまいたくなるような事件である。
・・・・キーワードは・・・
ただし『ストロベリー‐フィールズの風に吹かれながら』には1981年12月8日の死ということは書かれているが、それ以上のことは書かれていない。私は昨年末の12月8日の夢で見た「空ずれば心安閑なり」という言葉と、その同じ日の伯母の死とが重なっていた。さらにこの教材の予習をし始めた時にはまだそうでもなかったのだが、授業をする1月下旬には中国の武漢で始まった新型コロナウイルス感染症の肺炎が日本にも影響し始め、大きく取り上げられる時期だった。その新型肺炎の公式な報告は12月8日ということだった。昨年末の12月8日に夢を見た時点から幾つものことが重なってきていた。
授業をする前は混沌とした状態だったが、作品にこのもつれた糸を解くキーワードがあった。それは新井満が使っている言葉、「いのち」である。「なぜ、戦争をしてはいけないのか?」「いのちの敵だから。」「なぜ、平和でなければいけないのか?」「いのちの味方だから。」「どうか平和でありますように」。読んでいて胸が熱くなった。「慈心不殺」「兵戈無用」「災厲不起」に通底する精神に思える。改めて思う、「いのちとうとし」と。
能入抄49回 携帯の「往生伝」 2020年7月号
・・・「零和」?・・・
伯母の死で締め括る形になり、2019年が終わったが、「空ずれば心安閑なり」という言葉の余韻は年が明けても続いていた。比較的天気のいい正月だった。ところが全く個人的なことだが意外なことが起こった。個人的ではあるが、同じ状況の人が多いことを知った。何かというと年が明けてから携帯電話のカレンダー表示が狂ってしまったのである。狂ったというのは私の錯覚でプログラムに従っただけのようだが、壊れたとか狂ったと思うのも仕方ないような状況だった。
何かというとカレンダー表示が「0年0月0日00時00分」になったのである。今表示できないので確認できないが正確にはもっと多く0が並んでいた。これでは「令和」ではなく「零和」ではないか。電話として使えないわけではないが、通話の履歴の日時表示がみな同じ0の羅列になってしまう。
・・・「0」円携帯・・・
元日には携帯電話の店が開いておらず、店が開いてからその携帯電話を持っていった。ネットで調べると一部の携帯電話で同様の症状が出ているようで私だけではなかったようだ。店の人は初めて見たと言っていた。初めは私と同様に故障かと思ったようであれこれ対処しようとしていた。やがてこれはプログラムによるものだとわかった。私はプログラムを修正すればいいのではないかと思ったのだが、そう簡単にはいかないようだった。
結局もう古いので買い換えた方がいいという話になった。そうなるともっと時間がかかり、まだ正月で人手が足りないので後日予約してからにしてほしいという話になった。それでいったん家に帰って妻と相談した。妻の携帯ではそういう状態にはなっていなかった。思い返して見ると、その携帯を買った当時は「0」円携帯というものがあり、自分はそのレベルで充分だと思いそれを買った。妻も同時期に買ったのだが、デザインの関係で別のメーカーの携帯電話を選んだ。ただ妻の携帯はカレンダー表示は正常だったが、液晶に不具合が生じていて、結局二人とももうこれは買い換え時だろうという結論になった。
・・・「0」の念仏・・・
年末に伯母の死ということがあったばかりで、携帯電話までも終わりなのかとも思ったが、ふと思ったのがあの見たことがない「0」の羅列の表示である。ただの偶然なのかもしれないが、私が夢に「空ずれば心安閑なり」という言葉を見たのと、伯母が亡くなったのはほぼ同時刻のようだった。それに続いて「0」の羅列の時間表示を見るとあらためて何かを教えられているような気がした。
「0」を「空」と置き換えれば「0」の羅列は「0」に「0」を掛けているように見える。「空」に「空」を掛けているようであり、まさに「空ずる」ということである。念仏の考え方も同様で、念仏が「空」を行ずることであれば、これはいくらしても貯まるようなものではない。永遠に行ずるだけであり、どこまでいっても「空」である。これに対して念仏を貯めるという考え方もあり、これを「多念」と言う。貯めるものではないという考え方はこれに対して「一念」と言われている。
・・・永遠の「0」・・・
携帯電話の「0」の羅列を見て私の念仏はこちらの念仏だと思った。「0」掛ける「0」あるいは「0」足す「0」。これが「無量寿」「無量光」という無限の世界を生きることになるのである。いつまで経っても変わらない「0年0月0日00時00分」は「永遠の0」即ち「無量寿」を表しているようにも思える。無限定の時間である。あるいは時間の根源にある永遠を表しているとも言えるだろう。
「正信念仏偈」で親鸞は空の第一人者の龍樹について「悉能摧破有無見」(悉く能く有無の見を摧破せむ)と語る。「有無の見」を離れたのが空観である。浄土も有無を論じるのは間違いである。「有」に対して「無」があり、さらに両者を超えた次元が「空」である。それに目覚めた人が往生する。私の携帯も壊れたのではなく永遠の世界に往生したのだと思おう。携帯の「往生伝」である。
能入抄48回 「往生伝」の中 2020年6月号
・・・「心安閑なり」のはずが・・・
12月8日の成道会の日に夢を見て、そこでの言葉「空ずれば心安閑なり」をじっくりと味わっていた。すでに述べたように日曜日だったこともあり、感動の余韻にひたっていた。そのまま「心安閑なり」という一日になるのではないかと思っていた。そもそもが年末で学校の仕事も忙しく次の週からは年末の定期試験が始まる予定になっていた。次の週の土日は試験をはさむ日程になっていて、土曜日も試験のために出勤日になっていた。12月8日はその前の貴重な休日だった。
「心安閑なり」で過ごす予定だったのが、まもなくかかってきた一本の電話ですっかり様相が変わってしまった。従兄弟からの電話で、従兄弟の母、すなわち私の母の姉が今朝方亡くなったという連絡だった。伯母が入院しているということは知っていた。しかしそれは何年も前からのことで、私は母を連れて何度か見舞いに訪れたことがある。入院はしているものの、病状に特に変化はなく比較的安定していると思っていた。後で聞くと急変したそうで、入院の原因になっていた病気ではなく、心不全による急死で、そのため誰も死に際に立ち会っていなかったそうだ。
・・・どうする?・・・
従兄弟からの連絡で、その日12月8日は何もせず、次の12月9日は本来なら通夜に当たるところだが今回は身内だけで済ませ、12月10日に葬儀にするということだった。この電話で先ほどまでの「心安閑なり」はすっかり吹き飛んでしまい、どうしようか段取りを考えた。先に述べたように試験前で休むのは気が引ける。従兄弟が私に連絡してきたのは私の母が高齢で、参列できないか、参列するにしても私が付き添わなければ難しいことがわかっているからである。
カレンダーを眺めながらあれこれ思案しながら考えはまとまらない。実は父も秋から入院していて母は今は一人暮らしである。隣に私が住んでいるのだが、勤めがあるので、そうそう顔は出せない。私の妻が顔を出しながら気持ちの上で母を支えているという状態だった。母にとって伯母は七人兄弟の最後の身内だった。その伯母が亡くなったことを知ればさぞショックを受けるに違いない。
・・・「とうとう一人に」・・・
妻に伯母の死を知らせるべきかどうか相談した。知らせないわけにはいかないだろうということになった。その上で葬儀に参列するかどうか聞くことになった。私の予想では参列しないと言うのではないかと思った。元気な時なら当然参列するだろうが、今は心身ともに弱っている時である。また寒い時期なので、無理して参列して風邪でも引いてはいけない。おそらく私が母の代理として一人で参列することになるのではないかと思った。
母のもとに赴き、おそるおそる伯母が亡くなったことを伝えた。母の反応は予想通りだった。いや予想以上だったかもしれない。俯いたまま泣き始めた。そして、とうとう一人になったと言った。全くその通りなのだが、一人になったと言われて、子である私は何なのだろうとも思った。母は実の姉を失ったショックをそのまま語っただけなのだろう。
・・・「安らかに」・・・
結局私が一人で参列することになったのだが、通夜はないと言われたものの自分がお経をあげればいいと思い、あるいはあげたいという気持ちもあって翌日の夜に葬儀場に出かけた。控え室に当たるところに伯母の遺体が安置されていた。そこには式場の係の人もおらず私と伯母の遺体だけになった。
その伯母の遺体を見た時になぜか安心した。苦しまずに逝ったのではないかと思われた。実に安らかな姿だった。まだ生きていて安らかに眠っているようにも思えた。その前でお経をあげた。『無量寿経』の一節である。何度も読んできたお経だがこういう時は何か違う。私も安らかな気持ちになった。昨日以来の混乱した状況が消えたように思えた。私が「空ずれば心安閑なり」という言葉を夢に見たのと伯母が逝ったのはほぼ同じ時刻だったようだ。「往生伝」の中にいるようだった。
能入抄47回 蓮のうてなに 2020年5月号
・・・「空心」と「安閑」・・・
年が明けて2020年になってから日本でも中国で発生した新型コロナウイルスによる肺炎が知られるようになり、そのことに話が飛んだが、2019年12月8日に夢で「空ずれば心安閑なり」という言葉を見た時には、その日に中国の武漢市で新型肺炎の報告があったことを私が知る由もない。それで以前2016年5月に同様の夢として見た「慈心不殺」のことを思い出していたのだが、「慈心不殺」は『観無量寿経』という「浄土三部経」の中の言葉である。出典ははっきりしている。
では「空ずれば心安閑なり」はどうだろう。漢訳仏典なら漢字だけだろうから「慈心不殺」に倣って四字熟語のようにして「空心安閑」としてみたが、どうも見覚えはない。仮にもとが「空心安閑」だったとしても、それを訓読して「空ずれば心安閑なり」とはまず読めないだろう。では「空心」と「安閑」に分けたらどうだろう。ネット上にある大蔵経のデータベースで検索してみると「空心安閑」ではヒットするものがないが、「空心」では七百以上、「安閑」は三十以上ある。「安閑」の用例は禅関係の典籍に多いようだった。
・・・「安閑」と「空ず」・・・
「空ずれば心安閑なり」の浄土教での意味を考えるとどうなるのだろう。「安閑なり」を私は「のどかなり」と読んだ。「安閑」は用例では禅関係でよく使われる言葉のようだが、それに近い言葉として浄土教では「安心」や「安穏」がある。「安」の入る言葉としてこれはそう意味が変わらないように思える。
一方「空ずれば」はさらに禅のイメージが強い。そもそも「空ずれば心安閑なり」という文字を見て、その日が釈尊の成道会の日であることに気付いたときに思い浮かべたのは禅定する釈尊の姿だった。以前に中村元の訳で釈尊の成道の場面を読んだ時に、その黄金の光に包まれた姿がありありと見えたのを思い出した。「空ず」という読み方は動詞としての読み方だが、そういう動詞としての読み方に合うのは禅定のような「行」だろう。
・・・「安心起行」・・・
浄土教で「行」と言えば念仏になるので、「空ずれば心安閑なり」を「行ずれば心安閑なり」とし、さらに「念ずれば心安閑なり」あるいは「念仏すれば心安閑なり」とすれば念仏者の安らかな姿によく合う。浄土教で使う言葉に「安心起行」があるが、これを入れ替えて「起行安心」とすれば「空ずれば心安閑なり」により合う形になるかもしれない。
「安心起行」は浄土教の言葉と述べたが、どちらかというと浄土宗の方でよく聞く言葉である。法然が亡くなる直前に遺言として書いたと言われる「一枚起請文」に「浄土宗の安心起行この一紙に至極せり」とある。また法然の名は正式には法然房源空であり、「源空」はまさに「源」が「空」で、そこからこの世に姿を現したようなイメージがある。法然は阿弥陀仏の脇士である勢至菩薩の生まれ変わりと言われたが、勢至菩薩は智慧の菩薩であり、「空」を悟った菩薩である。
・・・名号本尊・・・
親鸞の『正信念仏偈』では法然について語る部分は「本師源空明仏教」で始まる。釈迦仏教を明かしたのが源空であるということだが、「源空明仏教」という言葉と「空ずれば心安閑なり」とが重なって見える。念仏の心をこういう形でも表せるのかとも思える。
この言葉を夢の中で見た時に白い生地の掛け軸のようなものに上から順に字が現れてそれを読んでいったのだが、それ自体が一種の本尊のように思えた。親鸞の書いた本尊は仏像ではなく、名号である。蓮台の上に名号が書かれたものである。「空ずれば心安閑なり」を漢字だけの「空心安閑」にすると読み方に無理があるなと思ったが、名号本尊のようにそのままにしておいてもいいのだと思った。そう思って「空ずれば心安閑なり」を読み直し、何字になるのか数えてみるとちょうど九文字である。親鸞の名号本尊に「南無不可思議光如来」という九字名号があるのを思い出した。「空ずれば心安閑なり」がそのまま蓮のうてなに載っているように思えた。
能入抄46回 「災厲不起」 2020年4月号
・・・風邪の夢・・・
2016年の5月に夢の中で「慈心不殺」という言葉を見たのは、その時の記事に書いているように5月の連休後に風邪をひき、それが一月も長引いた時のことである。またちょうど熊本地震が起きた直後のことで、余震も続いていたし、地震のニュースを夜遅くまで見て寝付きの悪い日々が続いた中でのことだった。その夢の中で経典の文字を見たことと、親鸞が風邪を引いて経典の文字が見えた時のことを関連させて記事を書いた。1231年のことだが、新暦換算すると季節的には私が風邪を引いたのと同時期だったようだ。
この時の記事では「慈心不殺」が『観無量寿経』の言葉であり、『無量寿経』の「兵戈無用」(ひょうがむよう)と「災厲不起」(さいれいふき)と関連させて述べている。不殺生を説き、命の尊さを述べている言葉である。あらためて「いのちとうとし」と思う。その時の記事を見ると、おそらくは熊本地震の直後のことだったせいだと思うが、「災厲不起」を災害が起こらないことという意味で述べている。「災厲」の「災」は災害だが、もう一つ「厲」の方は疫病の意味である。災害の方に目がいき、疫病の方は書いていない。そこに意識が向かなかったようだ。
・・・風邪?・・・
ところが実はこの後の記事には書いていなかったのだが、この時に一月も長引き風邪だと思っていたのはただの風邪ではなかったことを後に知らされることになる。数ヶ月後に受けた人間ドックの検査で肺に異常が見つかり再検査になったのである。私はたばこを吸わないので、これまで肺の検査で異常があったことは一度もない。その他の臓器では何かしら検査に引っかかってきたが肺に関しては優等生だった。教員をしているせいか肺活量も人並みはずれてあり、褒められていた。
後日受けた再検査の後の医師との面談で思いがけない言葉を聞いた。医師によれば肺に影が見つかったので再検査になったのだが、これは肺炎の痕だということだった。毎年同じ病院で人間ドックを受診しているので、一年間で思い当たることとしては5月の連休後に引いた風邪のことしかない。しかし体調は悪かったが発熱や咳はなかった。ただ体力が落ちていたせいか目に炎症が起き、眼科を受診した。抗生物質の入った目薬を処方された。
・・・「厲」・・・
肺の検査をした医師によれば発熱や咳の出ない肺炎もあるそうだ。ただしもう治っているので特に心配する必要はないとのことだった。「災厲不起」の「災」が災害で2016年の当時としては熊本地震だった。「厲」の疫病の方は直接自分に関係はないと思ったが、実はそうではなかったのだと知らされた。
咳がなかったせいで人への感染はなかったかと思ったが本当のところは数ヶ月経っていたのでどうかわからない。「兵戈無用」と「災厲不起」では今の日本では「災厲不起」の方が現実味を帯びていて、特に災害の方に重点があると思っていたが、そうとは限らない。
・・・お釈迦様は?・・・
12月8日に見た夢の言葉から、2016年に見た夢の中での言葉を思い出し、そのときのことを回想したのだが、この時点では年明けの2020年・令和二年になってから日本で関心の的になる新型肺炎のことは頭にはなかった。ただし自分の勤めている学校で生徒の間にインフルエンザがはやっていて自分もうつらないように気を付けようと思った。と言っても予防接種を受けることくらいしか対策はない。そしてその予防接種はすでに受けていた。後は手洗いとうがいくらいだが、これもすでに授業後には毎時間実行していた。
そして年明けから中国で新型コロナウイルスによる肺炎流行の情報が出回り、徐々に日本に忍び寄るという状況になってきた。中国では12月にすでに報告があったという。流行の中心になった武漢市の保健機関が原因不明の肺炎患者の報告をしたのは12月8日だという。また初めに警告をしたのは武漢市の眼科医だという。この眼科医はその後亡くなってしまう。12月8日には私は何も知らなかった。お釈迦様は御存知だったのだろうか。
能入抄45回 「12月8日」 2020年3月号
・・・夜明け方の夢・・・
昨年の12月のこと、ある夢を見た。前後の経緯をよく覚えていないが、白い生地の掛け軸のようなものに、上から順に字が現れた。「空ずれば心安閑なり」とある。「安閑」をその時の私は「のどか」と読んだ。音だけで書けば「くうずればこころのどかなり」となる。どうしてそう読んだのかはわからないが、そう読んだのである。そしてそう読んだときに感動し、夢の中ではあるが涙を流しながらその文字を見つめていた。その感動が残っているまま朝になり目が覚めた。前夜床についたのは日付が変わる前だったが、夢の中でその文字を見たのは夜明け前に違いなかった。
その感動が残っている内に、何かに書き留めておこうと思い、机についてメモを取ろうとしてメモ用紙に書き始め、日付をその日の夜明け前のこととして、12月8日の日曜日と書いていてはっと気が付いた。12月8日という日付である。釈尊が悟りを開いたとされる成道会の日である。北伝の大乗仏教の系統では旧暦の12月8日が成道会とされている。釈尊の誕生日とされる4月8日の灌仏会、12月8日の成道会、そして入滅された2月15日の涅槃会が三仏会とされている。
・・・三仏会・・・
おそらく太平洋戦争が始まるまでの日本人にとっては12月8日は仏教における三大法会の一つである成道会の日であったはずだ。三仏会の内、涅槃会は釈尊の入滅の日なので悲しみの日である。各地の寺院に釈尊の入滅を描いた釈迦涅槃図があり、釈尊の横たわる姿を取り囲んで人々が悲しみに泣き崩れている様子が描かれる。人間だけではなくあらゆる生き物が泣き悲しんでいる姿が描かれている。人間以外の生き物の悲しむ姿まで描かれるのが一切衆生という生きとし生けるものの幸いを説いた仏教の特色と言われている。
それに対し灌仏会は釈迦誕生仏を取り囲んで甘茶をかける。別名が花祭りと言われるお祝いである。また成道会もこれによって仏教が始まったのだから祝いの日である。季節的には寒い時期なので北伝仏教でこの時期にするのは不自然な気もする。祝うなら花祭りのようにもう少しいい時期がありそうな気がする。南伝仏教ではウェーサク祭として、灌仏会、成道会、涅槃会が一つになった祭りが5月の満月の日に祝われるそうである。三仏会が同じ日というのはできすぎのような気もするが、季節的にはいい季節のように思える。
・・・成道会の日に・・・
ところが12月8日は、ある年からイメージが変わってしまった。1941年12月8日からである。日本軍によるハワイの真珠湾攻撃の日である。現地では日曜日だった。太平洋戦争中「リメンバー・パールハーバー」として語られる日になってしまった。戦後も日本での「ノーモア・ヒロシマ」の声はアメリカでは「リメンバー・パールハーバー」の声にかき消されてきたと言っていいだろう。
いったいどうして日本軍は12月8日を真珠湾攻撃の日に選んだのだろう。成道会の日という認識はなかったのだろうか。あるいは仏教国である日本が成道会の日に攻撃してくるはずはないという予断がアメリカ側にあると思い、それを利用しようとしたのだろうか。
・・・「慈心不殺」・・・
こうして戦後長らく12月8日というと、新聞やテレビでは真珠湾攻撃の特集が組まれたものだった。そのたびに私はこの疑問を抱き、いろいろ調べたがこれという答えは得られなかった。偶然の一致だったのだろうか。それにしても「不殺生」を掲げる仏教にとってこの一致は何とも残念なことである。
目が覚めて12月8日(日曜)と書きながら成道会の日にして真珠湾攻撃の日ということをあらためて思い出していた。それとともに以前も夢の中で同じように仏教語を見たのを思い出した。「慈心不殺」という文字を見た時のことである。この連載の第一回にそのことを書いた。2016年5月のことである。今にして思えば南伝仏教のウェーサク祭のころのことである。南方で三仏会が一つになっているのが何となくわかるような気がした。
能入抄44回 夫婦蓮 2020年2月号
・・・「韋提希夫人」・・・
『法然上人行状絵図』で遊女が一瞬にして起こした回心について書いた。浄土教と女性との縁は深く、浄土三部経の一つ『観無量寿経』の主人公は「韋提希(イダイケ)夫人」である。彼女は「王舎城の悲劇」の主人公で、我が子に夫の王を殺され、夫をかばった自身も我が子に幽閉された。時間と空間の中に閉じ込められている我々の姿そのままである。
その彼女ために釈尊によって説かれたのが「南無阿弥陀仏」という称名念仏である。彼女は釈尊の説法を聞いてその場で即座に信心を得ている。それのみならず「心に歓喜を生じて」、「廓然として大悟して無生忍を得たり。」とまで書かれている。「廓然」とはからりと迷いが晴れることで、浄土教的には疑いが全くなくなることだろう。法然の「遊女説法」の場面と重なって見えてくる。
・・・善光寺と当麻寺・・・
釈尊の前で嘆きの涙を流していた韋提希が説法を聞いて瞬時に迷いが晴れている。この一瞬に信を起こす転換には女性特有の何かがあるのかもしれない。また浄土教は元来女性との縁が深い教えとも言えるだろう。信濃の善光寺の本坊に浄土宗の大本願と天台宗の大勧進があるが、浄土宗の大本願の住職は代々尼上人である。これは『観無量寿経』の主人公が女性であることと関係あるのだろうか。
善光寺が浄土宗と天台宗の共同管理であるのは日本の寺では珍しいことだろうが、他に古い寺でよく似た形をとっているところに大和の当麻寺がある。ここは浄土宗と真言宗の共同管理になっていて、奥院が浄土宗で、中之坊が真言宗である。浄土宗の奥院は知恩院の奥の院という位置づけで、浄土宗にとってここが重要な地であることを示している。
・・・中将姫・・・
当麻寺は二上山の麓にあり、春分と秋分には二上山のふたこぶの山の頂の間に夕日が沈み、西方浄土を偲ぶ地として信仰を集めてきた。天台浄土教を大成した源信もこの地の出身とされている。この寺の本尊は「当麻曼荼羅」である。「当麻曼荼羅」は『観無量寿経』の内容に基づいて作られた「浄土変相図」の一種で、法然の弟子である証空がこの解説を書き、それによる絵解きが行われてきた。
この「当麻曼荼羅」はその内容とともに、中将姫が蓮糸を使って一夜にして織り上げたという伝説があり、ここにも女性が登場する。インドの女性が主人公の経典の図を、日本の女性が織ったという形で信仰を集めてきた。面白いことにこの「当麻曼荼羅」の研究をしたのが「大賀ハス」の発見者である大賀一郎博士である。『ハスと共に六十年』によれば、本当に蓮から糸ができるそうで、明治時代に大隈重信のお母さんがキリシタンのマリア観音を織ったものがあるそうである。 では「当麻曼荼羅」はどうかというと、博士の研究によればこれは蓮糸ではなく絹糸によって織られたものだそうだ。蓮糸は伝説だったようだ。
・・・キリスト教徒と蓮・・・
これらを読むと博士は熱心な仏教徒のように思えるが意外にもキリスト教徒である。しかも内村鑑三の直弟子である。内村鑑三には有島武郎のように有名な文学者が多かったが多くはキリスト教を離れている。その理由を博士は彼らには「罪というものに対するしっかりとした認識がありませんからね」と断ずる。罪の認識とは原罪の自覚のことで仏教の無明の自覚や浄土教の「機の深心」に当たる。
これを読むと博士がなぜ蓮の研究に一生を捧げたのかわかるように思える。汚泥から咲く花と原罪の自覚から生まれる信仰とが重なっていたのだろう。「わたしのものはすっかり神さまのものです」と語る姿はほとんど妙好人である。妙好人とは白蓮華である芬陀利華に喩えられる篤信者である。大賀博士の妻「うた」さんとは内村鑑三の勧めによる結婚だそうだが、博士が亡き妻を詠んだ歌「神のため 人のためにと 身を捧げ ささげつくして 我が妻はゆきぬ」を読むと「うた」さんと大賀ハスが重なって見えてくる。夫婦蓮である。親鸞と恵信尼も、本田善光夫妻もそうだったのだろう。善光寺の蓮が目に浮かぶ。
能入抄43回 瞬時に咲く花 2020年1月号
・・・『往生要集』から・・・
『法然上人行状絵図』を書いた舜昌は天台僧でありながら法然の伝記を書いたことを天台から批判された。その時に書いた『述懐鈔』に「極重悪人無他方便、唯称弥陀得生極楽」(極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得)とあることを書いた。この言葉は天台浄土教を大成した源信の『往生要集』からの引用と思われる。
『往生要集』には「極重の悪人は他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得。」とある。すなわち天台からの批判に天台の源信の言葉によって応えたのである。舜昌の中ではおそらく聖覚もそうであったように天台僧でありながら法然に帰依することに何の矛盾もなかったのだろうと思う。親鸞も「正信念仏偈」の源信を讃える部分に「極重悪人唯称仏」と書いていてこれも『往生要集』の言葉を受けたものと思われる。二人とも天台との関係のあり方は違うものの、比叡山で天台浄土教の修行をし、その結果同じ結論に至ったと言ってもかまわないだろう。
・・・修行者だけ?・・・
『法然上人行状絵図』のような大部の著作を書くには法然の比叡山での修行を知った上で書くのが都合がいいことはもちろんだが、では同じような修行をした人にしか法然の説がわからないのかというとそんなことはない。法然や親鸞、あるいは舜昌は天台での修行を通して「機の深心(信)」という自身の抱える闇の自覚、あるいは実感に至ったわけだが、その自覚、実感はそのような修行をした人にだけ起こるものとは言えない。もしそうだったら、浄土教は僧侶や限られたごく一部の人のものになってしまうだろう。舜昌はそのこともよくわかっていたと思われる。
『法然上人行状絵図』には法然に帰依した有名無名の多くの人々が描かれているが、中でも法然が遊女に説法した話は特に心惹かれる。法然の晩年に法難が起こり、法然は四国に流罪となった。法然が海路で四国に向かう途中、今の兵庫県の室津でのことである。
・・・「遊女説法」・・・
法然の乗った船に一艘の小船が近づいてきた。遊女の乗った船である。「いかなるつみありてか、かゝる身となり侍らむ。この罪業おもき身、いかにしてかのちの世たすかり候べき」と尋ねる遊女に、法然は「弥陀如来はさやうなる罪人のためにこそ、弘誓をもたてたまへる事にて侍れ。たゞふかく本願をたのみて、あへて卑下する事なかれ。本願をたのみて念仏せば、往生うたがひあるまじき」と答える。これに対して「遊女随喜の涙をながしけり。」とある。瞬時に花は咲いている。
救いを求める遊女とそれに答える法然と、その真剣なやりとりが目に見えるようだ。「生死の苦海」に浮き沈みする我らも遊女と何ら変わるところはない。一切衆生の救いがここにある。「生死の苦海」が「本願海」に転じる瞬間である。一瞬にして信心を起こした遊女の回心は見事である。ここを読むといつも念仏が止まらなくなる。『法然上人行状絵図』の中で私が最も感動する場面である。
・・・救いの時・・・
『法然上人行状絵図』では、前に述べた法然が比叡山で専修念仏に開眼した「「順彼仏願故」の文ふかく魂にそみ、心にとゞめたるなり。」という部分と、この遊女説法の部分とが私が深く感動する場面である。とりわけ遊女説法の部分は法然の言葉がそのまま自分に向けて語られているように感じる。
同様のことは法然に出会った多くの人が感じたはずだが、人によってその言葉を受け取って回心するまでの時間は違うようだ。親鸞も同様のことを経験したはずで、親鸞は比叡山の修行に行き詰まり京都の六角堂に籠もり、聖徳太子のお告げを受けて法然に帰依した。しかしこの遊女のように即座ではない。百日間毎日法然のもとに通い続けた結果である。舜昌も『述懐鈔』によれば晩年の帰依のようである。遊女に比べれば遙かに時間がかかっている。このように「機の深心(信)」は修行の結果として時間をかけて起こるとは限らない。もちろん本願の救いも同様である。
能入抄42回 闇から咲く花 2019年12月号
・・・大本願と大勧進・・・
善光寺の本坊に当たるものとして浄土宗の大本願と天台宗の大勧進があり、大勧進の池に咲く「大賀ハス」を見たことを書いたが、この二宗が善光寺を共同で管理している形は二つの宗派のこれまでの経緯から考えると興味深い形に思える。法然は元来が天台僧で、すでに書いた専修念仏への開眼も比叡山での出来事だった。天台宗には法然より先に源信によって大成された天台浄土教があり、源信の『往生要集』はその天台浄土教をよく表し、今でも『往生要集』はよく読まれている。
親鸞も「正信念仏偈」で真宗七高僧の一人として源信をあげている。親鸞は日本の浄土教の祖師では源信と法然をあげているので源信の『往生要集』と法然の『選択本願念仏集』を読むのは真宗でも当然のように行われいるし、そうすることで日本浄土教の流れがよくわかる。ただしそうは言っても天台浄土教でしているような修行をそのままするということはありえない。その点では法然や親鸞の歩みをそのままたどっているわけではない。
・・・山と街・・・
仮に天台浄土教でしているような修行をしたとして、源信のようにそれがそのまま完成するなら何の問題もないだろうが、そうはいかない場合はどうなるのだろう。法然や親鸞がその例だった。それで二人とも比叡山を出ているのだが、必ずしも比叡山を出なければならないということはなかったようだ。当時は山を出ていても天台僧としての身分を保ち続けることは特に難しいことではなかったようである。街中に里坊をもちそこに住んでいれば行動は比較的自由だったようだ。
有名な例としては親鸞が法然門下で兄弟子として敬愛した聖覚の例がある。聖覚は学問に優れていただけでなく、唱導という説教の名手としても有名だった。比叡山に籠もっていてはそのような活動は無理だろう。自ずと街中に出て人々に教えを説くことになるはずである。籍は天台にありながらも身や心は法然のもとにあるという形だったのだろう。ただし比叡山を出て吉水に住んだ法然は比叡山から圧迫を受けたので、そのような時にはどちら側に立つかは難しくなる。親鸞も籍を天台に置いたままという形もありえたのだろうが、それができない性格だったのだろう。
・・・『法然上人行状絵図』の作者・・・
聖覚のようなあり方を不徹底と見ることも可能だろうが、天台を知っていればこそ法然を理解できたという面は多分にあったと思われる。先に『法然上人行状絵図』にある法然の専修念仏への開眼の記事のことを書いたが、これなど天台での修行を知っている方が理解しやすかったことは容易に想像できる。
そして事実『法然上人行状絵図』を書いた舜昌は天台僧だった。『法然上人行状絵図』を書いたことで後に知恩院の別当になっている。『法然上人行状絵図』は膨大なもので、よく天台僧にしてこれが書けたものだと思うが、天台僧だったからこそ法然の歩みがわかったという面は多分にあるように思われる。
・・・感動の「述懐」・・・
『法然上人行状絵図』にある法然の専修念仏への開眼の記事の部分は『法然上人行状絵図』の要というべき部分である。その感動には天台僧として法然と同じような修行をし、そして挫折し、専修念仏に開眼するという舜昌自身の歩みが重なっているように思われる。法然の説の受け売りではない自分の体験の反映のように思える。舜昌はその体験によって法然から後継者として自分に託されたものがあるように感じたのではあるまいか。
そしてこれだけのものを書けば、法然と同じく舜昌も比叡山から圧迫を受けた。その時に書かれたと言われるのが『述懐鈔』である。そこにある「極重悪人無他方便、唯称弥陀得生極楽」(極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得)を見たとき書かれている通りに念仏が止まらなくなった。彼の苦しみも喜びも全てがわかったように思えた。親鸞が「正信念仏偈」に「極重悪人唯称仏」と書いたのと同じである。ここにも闇の中から蓮の花を咲かせた人がいた。
能入抄41回 二千年の闇から 2019年11月号
・・・「大賀ハス」・・・
善光寺の大勧進で見た蓮は「大賀ハス」である。「大賀ハス」は約2000年前の古代蓮で、1951年に大賀一郎博士によって千葉県の遺跡で種が発見された。これが博士に育てられ見事に開花し、古代蓮の開花として有名になった。インド原産の蓮の種が東の端の島国である日本に伝来するだけでも不思議である。米の伝来と関係があるのだろうが、仏教伝来を予言するような出来事である。
そして2000年の時を経て見事に開花した。その生命力に驚かされるが、由来を知らなくても花自体の魅力は言うまでもない。蝉の鳴き声を聞きながら大輪の淡いピンクの花に見入っていると蝉の声が念仏に聞こえてきて、世界全体が御名を唱えているようだ。
・・・闇の長さ・・・
その蝉にしても地中で六年間過ごして地上に出てからはわずか数日間で命を終えるというが、蓮の実にしても蝉にしても地中の闇の中にある間にその命はどうなっているのだろう。心があるとすればどう感じているのだろう。その生は苦しみなのか、楽しみなのか。蝉は数年後地上に出るのを本能的に知っているのかもしれない。しかし同時にそれは死に近づくことでもある。蓮の場合、特に大賀ハスは2000年前に埋もれたときにやがて地上で開花することを予想しただろうか。
この数年間、あるいは何千年間という年月は仏教で言う修行や六道輪廻の期間と重なっているように思える。命の永続を信じ修行の永続を信じていてもこの世での数十年、長くて百年の間、今、自分自身が闇の中にあるという自覚をした時にその年数はとてつもなく長く感じるのではないだろうか。眠れない夜を経験したことのある人ならたとえ一晩であってもとてつもなく長く感じるはずである。
・・・易行道がなければ・・・
法然が専修念仏に開眼するまでの求道の三十年はとてつもなく長かっただろう。釈尊が二十九歳で出家、三十五歳で成道と言われ、修行期間は六年である。蝉が地中にある時間と同様になるが、この六年間を釈尊にとってやがて成道することを楽しみに待つ期間だったとか、準備期間だったとはとても言えないだろう。仏教の四諦である「苦集滅道」が苦から始まるのはもっともで、苦から逃れようとしてさらに苦しむのが人間の姿だろう。
この六年間に比べても法然の三十年間は確かに長い。「智慧第一の法然坊」と言われた人にしてこれだから、機根のはるかに劣る我々においては、もし法然によって易行道である称名念仏の道が開かれなかったら仏道はそれこそ何千年かかっても縁のないものであっただろう。そしてそれはおそらく仏教において易行道というものがなかった時代に多くの修行者をとらえた思いであったはずである。
・・・千年の闇室も・・・
蓮の実が何千年を経ても開くように自分の仏性を信じ何度も生まれ変わりながら修行を続ける覚悟をする人もいるだろう。聖道門の「三世の因果」は修行の階梯を一段ずつ登ろうとする者にとっては希望を与える。これはこれで一つの道である。しかし一方でその長さは絶望感にも通じる。この絶望感を浄土門では救われがたい自分を知る「機の深心(信)」と言う。これは教義というより自覚であり実感である。生命の永続と「三世の因果」を信じることが前提なので「信」ではあるが、そのまま救いをもたらすものではない。
しかし二千年の闇にあった蓮の種もひとたび光と熱にあえば開花する。二千年かけて徐々に開いたのではない。大賀ハスは1951年3月30日に発見されたが、早くも翌年7月18日に大輪の花を咲かせたという。千年の闇室も光が入れば一瞬にして闇は消えるという浄土教の譬喩を思わせる。阿弥陀仏の無量光の譬喩である。18日に咲いたというのも阿弥陀仏の十八願を思わせる。大賀博士は法然と同じく岡山の出身である。今や日本中で大賀ハスは無数の花を咲かせている。法然が闇の中で発見し日本中にまいた念仏という法の種もまた然り。何よりもこの世だけでなく浄土にその花を咲かせているはずである。
能入抄40回 「戒をめぐり」 2019年10月号
・・・「お戒壇めぐり」・・・
善光寺の「お戒壇めぐり」を親鸞がしたとしたらという仮定を前回書いた。もちろんただの想像だが、親鸞の比叡山での修行、あるいは法然の比叡山での修行時代の心境を考えれば、善光寺の「お戒壇めぐり」にきわめて近かったのではないかと思われる。親鸞の場合は法然に出会うまでの二十年、法然の場合は専修念仏に開眼するまでの三十年、その時代の心境は闇の中を手探りで進むようなものだったと言ってもおかしくはないだろう。
「お戒壇めぐり」は本尊に最も近いところにいながらその闇はかえって本尊との遠さを感じさせる。法然や親鸞もそうだったのだろう。親鸞や法然が比叡山に登ったのはそこが仏法を学ぶ最高の場所であり、言わば仏に最も近い場所だったからであるはずだ。普通に考えれば仏法や仏から最も遠いのが世俗の生活である。釈尊が出家したのは、我々から見れば世俗生活を送るに最高の場所であるはずの王宮が真実を求めるには最も遠い場所であると気付いたからだろう。だから出家すれば真実に近づくはずなのにかえって遠くなるのはなぜだろう。そこに戒をめぐる問題がある。
・・・「戒壇」・・・
出家者の戒は世俗生活と修行生活を区別するもので、受戒して出家者になるのが原始仏教以来の伝統である。生活を整え禅定を修めて智慧を開くことを目指す。これを「戒定慧」の「三学」と言うが、原始仏教から大乗仏教になっても基本的には変わらなかった。
最澄の晩年の活動を見ると、比叡山に戒壇を築きたいという願いを何とか叶えようとそれこそ命懸けの嘆願がなされている。しかし近畿地方ではこれは東大寺の戒壇の独占だったので、南都仏教の側としては容易にこれを認めるわけにはいかなかった。朝廷としても勝手に僧を名乗る私度僧が増え税金や種々の公役を逃れる人間が増えていたので僧管理の体制を変えたくなかったはずだ。天台宗はすでに年分度者という得度者を出すことを認められていたが比叡山での受戒ではなかった。戒壇の設立は僧を管理する律令体制の根幹に関わる問題だった。最澄の命懸けの嘆願はまさに命懸けで没後七日目にして認められた。
・・・「一戒をもたもたず」・・・
そのようにして設立された比叡山の戒壇だからここで受戒して僧になることは最澄の万人が成仏するという「一乗思想」という尊い思想を受け継ぐ厳粛なものだった。しかし同時にそのような意気に燃えた青年僧をやがて悩ませたのも「戒」だっただろう。法然のように道心堅固と言われる人であっても「戒定慧」の「三学」の「器」に非ずという「三学非器」の自覚に至ったと言われている。
このことは『法然上人行状絵図』に書かれていて、「しかるにわがこの身は、戒行にをいて一戒をもたもたず、禅定にをいて一もこれをえず。」と法然自身が語ったという。比叡山の存立意義と戒の関係の重要性を知っていればこそ戒を守ろうとし、その意識が強くなればなるほど守れない自分を意識するという道心堅固の人にして起きた問題だろう。これはおそらく親鸞も同様だったはずである。
・・・「魂にそみ」・・・
その「三学非器」の自覚を浄土教では救われがたい自分を知る「機の深心(信)」と呼ぶ。そうして法然が嘆き嘆き経蔵に入り、悲しみ悲しみ聖教に向かって手自ら開いて見たのが善導の『観経疏』の「一心専念弥陀名号」で始まり「順彼仏願故」に終わる一節だった。
「「順彼仏願故」の文ふかく魂にそみ、心にとゞめたるなり。」と法然は語っている。これが専修念仏への開眼だった。ようやく出会ったのである。この開眼はまさに闇の中を手探りで進んで探り当てたものだろう。「手自らひらきみしに」と述べている通りである。
『法然上人行状絵図』を読んで善光寺を訪れると、善光寺が天台宗と浄土宗の共同管理になっているのも頷けるし、「お戒壇めぐり」が法然の体験をもとに考えられた追体験の場のように思える。「お戒壇めぐり」の後に天台宗の大勧進を訪れると池に見事な蓮が咲いていた。それは法然の念仏のように見えた。
能入抄39回 闇の中を 2019年9月号
・・・2011年に・・・
2011年の夏に越後、信州、常陸、京都各地の親鸞旧蹟巡りを兼ねて、合わせて日本浄土教の普及を知る上できわめて重要な東北の平泉の中尊寺まで足を延ばすという大きな旅行をしたことがある。親鸞750回忌の年だったので、もともと回りたいという気持ちがあったが、その年の3月に東日本大震災があり、どうするか迷ったものの結局出かけた。
ただ現地の震災の爪痕は大きく、見なければよかったと思うようなこともあったし、足がすくむようなこともあった。そのときの光景は今でも目に焼き付いている。そのような災害の爪痕を見てつらい思いをするという経験はあるものの旅行中の天候はわりあいによかった。その後の夏に何度か経験することになるような長雨や豪雨には遭わなかった。
・・・信州再訪・・・
この時に私は信州も訪れているが、この夏に久しぶりにその信州を再び訪れた。信州で親鸞ゆかりの旧蹟と言えば何と言っても善光寺だろう。親鸞に「善光寺如来和讃」があるので、親鸞が善光寺を訪れたことはほぼ確かで、善光寺の境内には親鸞像が建っている。善光寺の参道を普通に進むと、先に浄土宗の大本願という本坊があり、さらにその先に天台宗の大勧進という本坊がある。善光寺の歴史はきわめて古く七世紀ごろに遡るので、日本の仏教各宗派の成立以前になる。仏教というだけで宗派がないのが善光寺のいいところでその後に日本仏教が各宗派に分かれることになっても全国から宗派を問わず参詣者を集めることになった。それは今も続いている。
とは言え、本尊が阿弥陀仏なのでやはり浄土教に縁が深いことになる。天台宗にはもともと源信が有名なように天台浄土教があり、さらにそこから分かれる形で浄土宗、浄土真宗が成立した。天台宗の大勧進と浄土宗の大本願の両方があり、共同で管理し、さらに境内に親鸞像があるというのは日本の浄土教の信者にとってはお参りしやすい形である。
・・・御三卿・・・
天台宗、浄土宗、浄土真宗の各祖師で実際に善光寺に参ったはずなのは親鸞なので親鸞が最も強い善光寺信仰の持ち主だったと言ってもいいだろう。親鸞が善光寺に参ったとすると流罪先の越後から赦免後に関東に向かったときの道中ということになる。現在でも越後から関東を結ぶ主要な交通は長野市を通っているので、地形に沿って越後から関東を目指すと善光寺平と呼ばれる現在の長野市は当然通り道で、むしろここを通りながら参らない方が不自然だろう。これには阿弥陀仏信仰だけではなく別の要因もあったと思われる。
本堂には御本尊とともに御開山が並び、善光寺を開いた本田善光とその妻と子が御三卿として祀られている。本田善光は妻子を伴った親鸞と同様の立場であり、親鸞はこの点にも縁を感じたのではないかと思われる。本田善光は僧侶ではなく、立場としては俗人と同じだが、それを越えるような扱いであり、「非僧非俗」を標榜した親鸞にとっては心強い存在だったと思われる。妻の恵信尼も一緒にお参りしたはずで、本田善光夫妻と自分たちが重なって見えたとしてもおかしくない。
・・・「お戒壇めぐり」・・・
現在の本堂は江戸時代のもので、御本尊と御開山の両方が祀られるという形がいつからのものかわからないが、親鸞の時代の祀り方が継続しているように思われる。現在では一般の参詣者は内陣まで入ることができるが、その先の御本尊と御開山の祀られる内々陣には入ることができない。その代わりに御本尊と御開山に最接近する別の方法がある。
それが「お戒壇めぐり」で、内々陣の下の暗闇を手探りで進んで「極楽の錠前」を探り当て結縁するというものである。一種のアトラクションである。実は前回私は中に入ったもののこれに触ることができなかった。今回は何とか触ることができた。親鸞の時代にはなかったはずだが、仮に親鸞がしたとすれば、闇の中で本願と出会った自らの体験と重なったのではないかと思う。そう思えば念仏が湧いてくる。そのときにもう闇は消えている。
能入抄38回 矛盾の雨音 2019年8月号
・・・一周年法話・・・
2018年7月の「西日本豪雨」から一年過ぎたある日、その時の豪雨で被災されたある御住職の講演を聞いた。広島市から南東に当たる坂町の小屋浦という場所にある真宗寺院の御住職である。坂町小屋浦という場所は広島市から呉市に向かう途中にある。私は妻の実家が呉市にあるので、このあたりは通過点ではあるが、よく通る場所である。
呉市は現在は広域合併によって島の部分もあるが、以前は陸地だけだった。ここは一種の半島のようになっていて広島市から行くと、呉市の市街地に入るまでは海岸沿いに国道とJRの呉線が並行して走る。広島で呉を陸の孤島と言うことがあるが、海岸沿いを走ってみるとそのことがよくわかる。天気のいい日には瀬戸内らしいのどかさがある。
・・・地形と豪雨・・・
海岸沿いを国道と鉄道が並んで走るというのは山が海に迫り、平地が少ない日本の地形ではよくあることだろうが、昨年の豪雨のようなことがあると本当に交通が遮断されてしまう。以前から豪雨ほどではないにしても大雨により鉄道が不通になることがあった。
昨年の豪雨は広域で、西日本豪雨と呼ばれたが、愛媛県、広島県、岡山県が主な被災地だった。地図を見るとわかるように豊後水道から瀬戸内海に次々と流れ込んできた雨雲が陸地の山に当たって豪雨を降らせたものと思われる。坂町のあたりはこの海を渡ってきた雨雲がぶつかる場所になっている。防波堤に波が当たると波が大きく砕け散るが、その防波堤に当たるのが、半島のように海に突き出しているこのあたりの山ということになる。
・・・実況豪雨・・・
豪雨の起きた日の夜は御住職は広島市内におられたそうで、車で坂町に帰ろうとされたそうだが、海沿いの国道は渋滞して動かなかったそうだ。実は海沿いの国道はもともとよく渋滞するので、クレアラインという高速道路のような有料道路が海岸より山側の高いところを走るように造られている。その渋滞の時間帯にはすでにクレアラインでも土砂崩れが起き、さらに海側の鉄道と国道でも土砂崩れが起きていたと思われる。その日の夜の渋滞の解消は見込めない状態だったようだ。
小屋浦の寺とは連絡をとり、小屋浦が大変なことになっているということはわかりながら、結局その夜は寺に戻ることができなかったそうだ。翌日に自転車で広島方面から小屋浦を目指して海岸沿いの国道を進んだものの、土砂崩れで走れない区間があり、自転車をかついで土砂崩れ現場を乗り越えて何とか寺にたどり着いたそうだ。幸いにして御家族は無事だったが、寺は一階が土砂で埋まり、本堂の部分は二階にあるために何とかご本尊や寺の中心部分は無事だったそうだ。
・・・「不安を抱えたまま」・・・
このような話を聞きながら被災当初の二日間の話だけでかなりの時間がかかった。この講演は広島市内の真宗寺院で行われたもので復興支援を兼ねた法話会だった。それで本来は前半で被災の実情を話した後で、後半ではそれをもとに真宗としての法話に進むという予定だったそうだが、時間がなくなってしまい法話の部分は短い形になってしまった。
それでも印象的だったのは被災一周年特集のテレビ番組に出演された話だった。リハーサルで御住職の話された話の意味がアナウンサーにうまく伝わらず、本番で内容を変えられたという。当初は「不安を抱えたまま生きていきたい」という内容だったそうだ。それを聞いて私はその意味とまたそれが伝わらなかった理由もわかったように思った。無常のこの世では不安を抱えたまま生きているが、同時に常なる大悲に包まれた安心をいただいて生きているのがこの世での念仏者だろう。「正信偈」の「不断煩悩得涅槃」(煩悩を断たずして涅槃を得るなり)に倣えば「不断不安得安心」(不安を断たずして安心を得るなり)である。常識的にはそれは矛盾に聞こえるだろう。今年も雨音を聞きながら念仏しておられる方がおられるかもしれない。本当は如来の呼び声だけが響いているはずである。
能入抄37回 「和合」と「和順」 2019年7月号
・・・ 「西日本豪雨」から・・・
2018年7月の「西日本豪雨」からこの7月で一年になる。広島県、岡山県、愛媛県が主な被災地だった。これから秋のはじめにかけて大雨や台風の被害が心配される季節になるが、「令和」の時代になればそういうことが無くなってほしいと思う人は多いだろう。「人心一新」という言葉があるが言葉の力でそうならないだろうかと思わずにはいられない。改元にはそういう期待もあるだろう。
『万葉集』が「令和」の出典ということで『万葉集』が注目されることが多くなった。中国地方では島根県の益田が柿本人麻呂に縁の深い地域で柿本人麻呂を祀る神社がある。また鳥取県の因幡地方は大伴家持が赴任していた地で『万葉集』の最後の歌は大伴家持が因幡で詠んだ歌である。これらの縁から鳥取市に因幡万葉歴史館がある。私も訪れたことがあり、これらのことを授業で紹介してきた。
・・・歌と宗教・・・
『万葉集』には農民のような庶民から貴族や皇族まであらゆる階層の人々の歌が収められ、その後に編纂される勅撰歌集とは一線を画し、国民文学と言える。「万人集」とも言える作品であり、一切衆生を対象とした仏典や仏教の精神とも通じるものがあると思う。
「令和」の出典が『万葉集』ということだが、「令和」が仏典にも多いのは両者に通じるものがあるからだとも思える。あるいは『万葉集』が編纂され、その歌が愛されるような国民性があるからこそ、外来宗教の仏教が日本で受け入れられ浸透していったのだとも言える。特に情操の面では浄土教のように情緒的なものに訴えかける宗教はその面が強いと思う。種をまけば生えてくるような土壌があってこそだろう。まかぬ種は生えぬというが、コンクリートでは種をまいても生えないだろう。歌と宗教は同じ土壌に育つはずである。
・・・「和合・同心・相愛」・・・
仏典の中の「令和」を見ているとそのような思いが湧いてくる。「令和合」の用例が多いと書いたが、他にも「令和順」「令和解」「令和同」「令和会」「令和睦」「令和衆」「令和安」「令和悦」「令和喜」など、並べていくとあるイメージが湧いてくるはずである。
最も多い「令和合」の用例では、長く採ると「令和合同心相愛」という用例がある。「令」を使役の意味とすると「和合・同心・相愛」させるという意味になるだろう。真宗系の大学に相愛大学があり、音楽学部があるが、この用例を見ると、オーケストラに合わせて合唱をしているようなイメージが浮かんでくる。ベートーベンの第九交響曲の「歓喜の歌」のイメージである。『万葉集』で言えば人々が集って歌い合う「歌垣」のイメージである。年末の恒例行事として「第九」が歌われたり、紅白歌合戦があるのも現代の「歌垣」なのかもしれない。国民性なのだろう。
・・・「令和順」・・・
「令和順」も数では「令和合」に及ばないが幾つか用例がある。「和順」と聞くと法然の大師号の「和順大師」を思い起こす人もいるだろう。昭和36年(1961年)の法然750回忌に合わせて皇室から贈られたものである。法然の大師号は初めの「圓光大師」が有名だろうが、これまで八の大師号があり、大遠忌に合わせて贈られているので今後も増える可能性がある。これらが考案される際には皇室でも仏典が参照されてきたのだろう。
「和順」としては「令和順」以上に浄土教に関係が深いのは『無量寿経』にある「天下和順」だろう。「天下和順し日月清明なり。風雨時をもつてし、災厲起らず、国豊かに民安くして、兵戈用ゐることなし」と続く一節にある。天下がうまく治まり、気候も穏やかで平和な様子が目に浮かぶ。「令和順」に「天下和順」を重ねてもかまわないだろう。「平成」もすでに書いたように「地平かに天成る」という天地が平穏で災害のないイメージだったはずである。残念ながら平成の時代は阪神大震災、東日本大震災、また各地の豪雨災害など災害の多い時代だった。「令和」の時代はどうなるのだろうか。今年の年末には心から「令和合同心相愛」の歌を歌いたいものだ。
能入抄36回 「鳳凰」 2019年6月号
・・・新紙幣・・・
「令和」の時代が始まるのに合わせるかのように新しい紙幣のデザインが発表された。新しい一万円札は表が渋沢栄一、裏が東京駅の丸の内駅舎だそうだ。東京駅の丸の内駅舎についてはこの連載で辰野金吾の代表的な建築物として書いたばかりだ。新しくなることに異存は無いが、これによって現在の一万円札から鳳凰が消えてしまうのは残念だ。
私が生まれた昭和33年(1958年)に発行が始まった初代一万円札は表が聖徳太子で裏は向かい合う二羽の鳳凰だった。昭和59年(1984年)には表が福沢諭吉で裏は二羽の雉になった。これが平成16年(2004年)に表は福沢諭吉のままで裏が鳳凰になった。この時の鳳凰は平等院鳳凰堂の鳳凰で、描かれているのは一羽だが、鳳凰堂を知る人ならすぐにわかるように一対なので向かい合うもう一羽の鳳凰を容易に想像できる。
・・・平等院鳳凰堂・・・
平等院鳳凰堂は10円玉のデザインにも使われ、こちらの方はまだ当分大丈夫だろう。平等院鳳凰堂の説明をするのに、まず10円玉のデザインとして説明し、続いて一万円札の裏のデザインとして鳳凰のことを話していたのだが、いずれこの説明が使えない、あるいは通じない時代が来るようだ。一万円札のデザインが聖徳太子だった時代を知らない人も平成生まれを中心にかなりいるだろう。
私の印象だが、これで一万円札から聖なるものが消えてしまうように思える。確かにお金は世俗的、実用的なものだが、紙幣の「幣」が元来は神に捧げる「ぬさ」だったことを思えば、ただの紙に神聖さや尊さ、ありがたさを感じさせる仕組みがあったと思う。「紙」を「神」に変える要素である。鳳凰が消えるとともにそれが消えるのではないだろうか。
・・・東京駅舎と迎賓館赤坂離宮・・・
辰野金吾のファンの人にとっては東京駅舎がデザインに使われるのはうれしいことだろう。辰野金吾の建築は国の重要文化財に指定されているが、国宝指定はまだない。今回の新紙幣のデザインになったことからすれば国宝に昇格するとすれば、東京駅舎が第一候補になるだろう。辰野金吾と並び称される明治の建築家である片山東熊の建築物ではすでに迎賓館赤坂離宮が国宝に指定されている。
東京駅舎は今も使われているので人々は日常的に見ることができる。迎賓館赤坂離宮は四谷駅のすぐ前にあり、フェンスはあるものの、全体を見るのは容易である。国賓の来日時には報道されることが多いので映像としても見ることは多い。片山東熊の代表作であるとともに日本の宮廷建築の代表作でもあろう。辰野金吾の建築が堅固でそのことから名前との連想で「辰野堅固」と呼ばれるそうだが、片山東熊の迎賓館赤坂離宮も関東大震災に耐えたので堅固さでは劣らない。実用的な建物だが、私には宗教建築と重なって見える。
・・・永遠の鳳凰・・・
平等院鳳凰堂は左右対称で、さらに両翼に見立てた翼廊という部分があるが、迎賓館赤坂離宮も左右対称で、両翼の翼廊に当たる部分がある。正面の道路は寺社で言えば参道に当たるが、迎賓館赤坂離宮ではそこに松が植えられている。洋風の宮廷建築に松並木の組み合わせはまさに和洋折衷でそこに違和感を感じる人もいるだろうが、日本の宗教建築だと思えばむしろ松並木がふさわしいだろう。
現在は内部も公開されている。私が入った時に非常に印象に残ったのは正面玄関の真上にある「彩鸞の間」である。親鸞の「鸞」がモチーフの部屋で「鸞」も鳳凰の一種である。白壁の地に向かい合う二つの大鏡があり、鏡のアーチの上に「鸞」のレリーフがある。二羽の「鸞」は向かい合っているために反射しあい、それが無限に続いている。私には親鸞と親鸞が尊敬した曇鸞の二人の「鸞」が向かい合って「無量寿」という永遠を語りあっているように見えた。二羽の鸞が永遠に飛び交っているようでもある。これは一種の鳳凰堂ではないのか。すでに明治、大正、昭和、平成と飛び続けているが、「令和」の時代にもさらにその先にも飛び続けてほしいものだ。
能入抄35回 和合の光 2019年5月号
・・・四階楼のステンドグラス・・・
山口県の上関の四階楼について浄土教的イメージにつながるものがあることを書いた。特にその四階は天井に鳳凰が浮き彫りにされ、平等院鳳凰堂を連想させる。ステンドグラスの光の中で見れば、鳳凰は浄土に飛翔するように見えるかもしれない。その光は『阿弥陀経』で浄土に咲く蓮華の色とされる「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」を連想させる。ステンドグラスにはこの四色があり、さらに壁が白壁なので『阿弥陀経』の四色が揃っている。そうすると四階は各色の調和する浄土を表しているのだろうか。
このステンドグラスはフランスから輸入されたものだそうだ。教会に用いられるものと同様のものだろう。ただの装飾ではないような気がする。そのフランスでパリのノートルダム聖堂が大規模な火災に遭うという事件がこの4月に起こった。失火のようだが、焼け落ちる尖塔の映像を見て、2001年のニューヨークの同時多発テロで崩れ落ちた世界貿易センタービルの映像と重なった人も多いのではあるまいか。日本では2016年4月の熊本地震から3年後の時期だったので、熊本城の被災した姿と重なった人も多いだろう。
・・・「予感」?・・・
日本はこの4月で平成の世が終わり、5月から「令和」の時代が始まることになった。十連休になることもあって世の中は祝賀ムードに覆われるだろうが、ヨーロッパや特にパリではどうだろう。私はパリに行ったことがなく、ある番組でパリの成り立ちとノートルダム聖堂を取り上げていたので、いつか見たいという思いが強まったばかりだった。
それで思い出したのだが、以前その番組で熊本を取り上げたことがあり、その後に熊本地震が起きた。番組の映像は被災前のものである。私は録画していたので、そのまま消すことなくディスクに移して保存している。今回もまだ録画機に残っているので、保存する予定である。気になって調べたらネット上でそのことが話題になっていることを知った。制作者の側に何か予感が働いたのだろうか。
・・・「予兆」?・・・
予感ということで言えばノートルダム聖堂の火災という事件がヨーロッパや世界、あるいはキリスト教での出来事への予兆になっているのではないかということである。信者ならそう感じる人もいるのではなかろうか。ノートルダムは聖母マリアを指す言葉だそうだが、聖母は自らを犠牲にして何らかのメッセージを発したのではないかということだ。
たしかにこのところのヨーロッパの動きはおかしい。ヨーロッパに限らないが世界的にナショナリズムの台頭が著しい。二十世紀の前半に起きたことが再び起きようとしているかのような印象を受ける。これまではそのような動きがあれば過去の反省から抑えようとしてきたはずなのだが、その重しがとれたような感じである。二十世紀の戦争の体験者が高齢化によって減少し、発言力が弱まっていることも影響しているのだろう。聖母の危機感を感じた人は多いのではないだろうか。
・・・「和合」の願い・・・
「令和」の出典は『万葉集』ということで、漢籍ではなく、初の「国書」からの出典といいうことが話題となった。ただし「令」と「和」の文字は連続しておらず、少し離れている。また聖徳太子の『十七条憲法』の第一条「以和爲貴」(和を以て貴しと為す)との関連を感じた人もいるだろう。『十七条憲法』の第二条は「篤敬三宝」(篤く三宝を敬へ)で、「三宝」とは「仏法僧」なので、「和合僧」のイメージにつながる人もいるだろう。この「和合僧」を破るのが「破和合僧」で「五逆罪」という仏教における重罪の一つである。
このようなイメージがあるので「令和」は仏典にもあるのではないかと思い、検索すると百五十余りも用例があった。多いのは「令和合」である。「令」は使役で「和合させる」ということだろう。「和合」は如来の願いでもあり、聖母の願いでもあるはずだ。四階楼のフランス製のステンドグラスも国境を越えて和合の光を放っているように見える。
能入抄34回 志士の楼閣 2019年4月号
・・・明治の洋風建築・・・
山口県の上関にある四階楼のことを前回書いたが、明治時代の洋風建築が中国地方各地に残っている。私が個人的に好きなのは鳥取の仁風閣である。国の重要文化財に指定されている白壁の美しい二階建ての建物で、山口県出身の片山東熊の設計である。鳥取のホワイトハウスと呼ばれることもあるそうだ。
あるときここを訪れたところ、邸内で純白のウエディングドレスを着た美しい女性と遭遇し驚いたことがある。結婚式場のパンフレットの撮影だったそうで、そこで撮りたくなるのがよくわかった。夢見るような気分がある。片山東熊の設計では、東京の迎賓館赤坂離宮が国宝に指定され、最も有名だろう。同時代の建築家に辰野金吾がいるが、二人は明治の建築家として双璧と言えるだろう。
・・・建築家の色・・・
私のイメージでは、辰野金吾の建築は赤煉瓦を用いた重厚なものが多い。国の重要文化財に指定されている東京駅の丸の内駅舎が典型だろう。明治の洋館のイメージとして赤煉瓦があると思う。現代では赤煉瓦の建物は少ないが、赤煉瓦風のタイルを貼った建物は多い。外見としてはよく似ていて、民間の住宅でも赤煉瓦風のタイルを使った家は多い。煉瓦やタイルは焼き物なので耐久性に優れている。辰野金吾は佐賀県の唐津の出身で、今でも佐賀県は焼き物が有名だが、焼き物が好きだったのだろうかと勝手に思っている。
片山東熊も辰野金吾も明治政府の藩閥である「薩長土肥」に関係しているので、彼らの活躍にはそのこともあったと思われる。片山東熊は奇兵隊に所属していた志士でもある。四階楼を建てた小方謙九郎も奇兵隊に所属した志士なので何らかの接点はあったかもしれない。片山東熊が四階楼を見た可能性もあるだろう。四階楼は外壁が白の漆喰である。
・・・白壁に・・・
四階のステンドグラスは外からはその美しさはわからないが、内側から見ると漆喰の白壁にステンドグラスの鮮やかな色が映えて見事である。四階の外壁の白の漆喰の隅には昇龍の浮き彫りもある。結局印象に残るのは、四階建て、白とステンドグラス、天井の鳳凰、外壁の龍である。まさに和洋折衷だが、それらが調和しているかと言われると難しい。それで前に述べたように面白い建物と言いたくなるのだが、一見の価値はある。私の中では山口県の白い建物として、四階楼は山口県出身の片山東熊の建物のイメージにつながる。
私に限らないと思うが、浄土教を色で言うなら白が基調になる。「浄」という言葉のイメージからそうなるだろうし、「二河白道」の「白道」のイメージもある。片山東熊も白が好きだったのかもしれないと思う。ひょっとして浄土教に関係があるのかもしれない。
・・・「関」と変わり目・・・
この四階楼を訪れて建物の写真を撮っていたときに気付いたのだが、背後の高台に寺がある。四階楼の建物の中からもこの寺は見える。海峡からも高台にあるので船から見えるはずである。下から見ていてもわかるのだが、境内に大きな銀杏がある。坂を登っていくとこの銀杏がとてつもなく大きいのがわかる。寺は常満寺という浄土真宗の寺である。
西本願寺は境内に大銀杏があり、本願寺出版社もこのマークを用いているので銀杏と縁が深いが、常満寺の銀杏は樹齢が千年を越えるそうだ。2011年が親鸞750回忌の年だったので、真宗の歴史より古いことになる。先に銀杏があって後から寺が建てられたということになる。勝手な想像だが、下関と並ぶ海峡だった上関に目印になるような銀杏が植えられ、さらに寺ができ、さらに四階楼が建てられた。上関は海上交通の要衝だった。下関は時代の変わり目に重要な役目を果たしたが、上関にもその役目があるのだろう。志士の建てた楼閣である四階楼はエネルギー源の四段階目を暗示しているのかもしれない。寺に参ってから改めて四階楼を見ると「教・行・信・証」の四段階を表しているようにも見える。四階から大空に昇ろうとする鳳凰や龍はそのエネルギー源を感じさせてくれる。
能入抄33回 「再生可能」 2019年3月号
・・・「発掘歎異抄」後・・・
2016年7月から「能入抄」という名で新しい連載を始めて今回33回目の記事になった。また2011年3月の東日本大震災から8年目になる。この連載の前身は「発掘歎異抄」という名で連載していたもので200回書いた。その後、題名を変えて「能入抄」という名にした。この題名は親鸞の『正信念仏偈』の一節「速入寂静無為楽 必以信心為能入」に由来する。「能入」の「能」は文脈からは「可能」の能だろう。「入」はその前にある浄土への「速入」である。「信心」によってすみやかに浄土に「再生可能」となる。
自分がすでに浄土に再生可能の状態になっているかと言われればこころもとないが、昭和33年生まれの私が縁のある33回まで何とか書けたのはありがたい。2019年だが、年度としては2018年度末である。年度末でもあり、何よりも平成がまもなく終わろうとしていて一つの時代の終わりを感じさせる。私は昭和と平成をほぼ30年ずつ生きた。
・・・人類最後?・・・
思い返して見ると、先に述べたこの連載の前身の「発掘歎異抄」は1999年の7月が第1回だった。もう覚えておられる方も少なくなったと思うが、当時「ノストラダムスの大予言」というのがあった。この予言には1999年の7月が人類最後の月のように読み取れる一節があり、20世紀の終わりが近づいていたこともあり、何となく「終末」のような気分があった。仏教で言えば「末法」のような雰囲気である。日本ではすでに1995年(平成7年)に阪神大震災が起こっていたので、よりその雰囲気があったように思う。
「発掘歎異抄」の連載は広島で発行されていた月刊誌からの依頼で始まった。その編集者に1999年の7月に始まる連載という意識があったのかどうかわからない。今にして思うと、年の初めでもなく年度の初めでもなく、7月という年や年度の途中からの開始だったので、編集者の意識の中には、多少なりともそのことがあったのかもしれない。幸いにして人類はまだ地球上に生きている。
・・・東日本大震災後・・・
日本はその後、2011年3月の東日本大震災とそれに伴う福島第一原発事故を経験したが、国としては存続している。この2019年3月で8年が経過するが、震災からの復興も、また原発事故のその後の処理も道半ばというところである。一般の原発でも廃炉には長期の年数を要するのだから、原発事故の事後処理には相当の年数を要しそうである。
日本社会に与えた影響という面では原発事故の影響は大きい。広島では地元の電力会社が瀬戸内海沿いの山口県の上関に原発を計画していて、計画中止にはなっていないが、進展しそうにはない。私は島根原発の近くに行ったことがあるが、松江市街との距離に驚いた。もし冬に事故があれば北西の季節風に乗って放射性物質が市街地に飛散するだろう。
・・・四段階後・・・
上関には国の重要文化財に指定されている「四階楼」という洋風の建物があり、その見学を兼ねて上関を訪れたことがある。四階楼の四階にはステンドグラスがはめられ、天井には鳳凰と思われる見事な浮き彫りがある。和洋折衷の面白い建物である。四段階を経て最後は大空に飛翔したいという願いが込められているのだろうか。平等院の鳳凰堂がそうであるように鳳凰は浄土教に縁が深い。人類の電力は水力、火力、原子力と進んできたが、次の四段階目は何だろう。「再生可能エネルギー」だろうか。さらにその次は何だろう。
私にとって根源的なエネルギーは本願力である。これは人を浄土に再生可能にさせるだけでなく、また浄土からこの世に人を再生可能にさせる力でもある。さらに仮にこの世の最後が来るとしてもまた新たな世界を再生可能にする力でもある。究極の再生可能エネルギーである。人類がそれに目覚めるのはいつなのだろう。「33」の変化身を持つという観音の観音力も本願力の一部だろう。まもなく平成が終わるが、新しい世になっても一回一回をその変化身のように書き続けたい。
能入抄32回 幻の年 2019年2月号
・・・平成33年・・・
平成の代がまもなく終わることになって少し残念なことがある。自分が昭和33年生まれなので、平成33年も経験したかったのである。新しい元号の一桁の数字の年数とは感慨が違うのではないかという気がする。昭和33年は1958年だが、2058年に自分が生きていることを想像するのはかなり困難である。しかし昭和33年生まれが平成33年に生きていることを想像するのはそれほど困難ではない。歳は六十代だが、印象としてはずいぶん生きたような気がするはずだ。
それとこの連載でも書いたが昭和33年の「33」が観音の変化身の数と同じで、観音菩薩に縁が深いので、平成でも33年があってほしかったのである。これが新しい元号での33年となると、私は九十代の後半で、生きているかどうかわからない。またその新しい元号も今回の平成のように33年まで続くかどうかわからない。平成33年は私にとって可能性の充分ある二回目の33年だった。西暦の2033年は経験できるかもしれないが、できれば平成33年の年を迎えたかった。
・・・聖徳太子1400回忌・・・
そしてもう一つ平成33年になるはずだった2021年は聖徳太子1400回忌の年で、また最澄の1200回忌の年でもあり、日本仏教にとって重要な年である。聖徳太子について言えば、聖徳太子信仰は聖徳太子が観音菩薩の化身と見なされたために観音信仰と重なっている。その観音に縁が深い「33」の数字の入った平成33年は聖徳太子を偲ぶのにふさわしい年に思えた。各地の三十三観音霊場の関係者や、聖徳太子と縁の深い寺、また聖徳太子とも縁が深く聖徳太子を慕っていた最澄が開いた天台宗の関係者にも同様の思いの方がおられたかもしれないと思う。
私が前回の聖徳太子1300回忌のことを重視したのは各地の寺を訪れているうちに、寺の境内にそのことを記念する碑が建っているのを見たことも大きい。以前は一万円札の図案が聖徳太子で、その姿はよく見られていたが、その時代でも寺にある聖徳太子1300回忌の記念碑には存在感があった。
・・・天草でも・・・
最近経験したことでは、2016年の熊本地震の後に天草を訪れ、その時のことをこの連載にも書いたが、天草のある寺でも聖徳太子の記念碑を見た。大正時代に聖徳太子信仰の盛り上がりがあったことがよくわかる碑だった。熊本地震の後だったのでよけいに思ったのかもしれないが、困難なことをしのぐのに観音菩薩やその化身と見なされた聖徳太子を慕うことが自然にされた時代があったのだ。大阪の四天王寺も同様の信仰の寺だろう。
昨年自分の講座で法隆寺を取り上げたときに、もうこの時点で平成33年がないことがわかっていたので、平成33年に当たるはずだった2021年が聖徳太子1400回忌の年で、おそらく世の中は今後は2020年の東京オリンピック・パラリンピックの話題が中心になっていくだろうが、ぜひ聖徳太子1400回忌のことも忘れないでほしい、おそらく法隆寺でもその年には特別な拝観や展覧が企画されるはずだと話した。
・・・夢殿・・・
そしてその流れでスライドを使って法隆寺の紹介をした。法隆寺は奈良仏教と関係が深く長らく法相宗だったが、戦後になって聖徳宗として独立し、聖徳太子信仰をより強めることになった。寺の構成としては回廊で囲まれた金堂、五重塔、講堂のある西院が中心で面積としてもここが広く、拝観者が絶えない。
しかしここで終わる人はまずいない。大宝蔵院で百済観音を拝むはずである。このすらりとした姿は非常に印象に残る。続いて東院の夢殿も訪れるだろう。八角形をした円堂で聖徳太子を祀る霊廟だった。本尊の救世観音は秘仏で通常は非公開だが、聖徳太子を偲ばせてくれる。夢殿という名は通称が定着したものだろうが人々が聖徳太子に寄せた思いが伝わる。私にはここに聖徳太子の本願が宿っているように見える。親鸞を通して伝えられたその願いは今も続いているように思える。
能入抄31回 「平成」 2019年1月号
・・・「平成最後の正月」・・・
平成最後の正月になった。平成がまもなく終わる。昨年から五月以降の様々な行事が「平成最後」の行事となった。三十年続いた平成の時代を振り返る人は多かっただろう。昔から三十年を一世代とする考え方は強かったと思う。ただ年が明けてもしばらくはまだ平成で、平成三十一年が数ヶ月あり、新しい元号に切り替わる。元号の切り替えと時代の変遷が一致するわけではないが、これからはたしてどんな時代が始まるのだろうか。
今の四十代以降の人なら「平成」という元号が発表された時のことを覚えている人が多いだろう。出典として「内平かに外成る」、や「地平かに天成る」があげられた。内外の平和や災害がないことを祈る気持ちが込められていたと思う。「地平かに天成る」の出典となった「大禹謨」の字を刻んだ碑が広島にあり、私は漢文の授業で「禹」の話をするときに、このことを何度も話したことがある。「禹」は古代中国の伝説の王で治水に尽力したことで知られ、「大禹謨」とはその「禹」の大いなるはかりごとという意味である。
・・・「昭和」の中の「平成」・・・
広島に平成に関係がある「大禹謨」の碑があると聞けば、平成になってから建立されたものだと思われるだろうが、実は平成になるかなり前の昭和47年(1972年)に建立された。まるで昭和の中に平成があるようだ。碑は安佐南区八木の太田川の西岸にあり、高瀬堰という大きなダムのような水門がある。洪水対策のためだろうという推測がつく。
この治水事業は昭和7年から四十年の年月を要し、地元としては昭和の大事業だった。広島にある「大禹謨」の碑は昭和の治水事業の記念碑だった。2014年の広島土砂災害ではこの碑から見える山の中腹から麓にかけての地区が被災したが、幸いにして太田川そのものの氾濫はなかった。昭和の治水事業はその点では力を発揮したと言えるだろう。今この碑から山側を見ると巨大な砂防ダムが幾つも見える。この治山もまた大事業である。
・・・戦争か災害か・・・
広島の例でもわかるように、昭和の時代から災害に悩まされたわけだから、「地平かに天成る」という言葉から、平成になれば災害がなくなるようにという気持ちがあったことは確かだろう。ただ時代の区分としては昭和の時代は何と言っても太平洋戦争という戦争の時代であったことは間違いない。広島は原爆の被災地としてその点でも「内平かに外成る」という平和への思いも強かったと思う。
明治時代以降を考えると、明治時代には日清戦争と日露戦争、大正時代には第一次世界大戦と関東大震災、昭和では太平洋戦争があり、戦争も大災害もない時代はなかった。明治時代以降に生まれた日本人は平均寿命のようなある程度の年数を生きた人なら、戦争か災害の直接、間接の経験者になったのである。
・・・「業雨」・・・
平成になって、明治以降ではじめて戦争や災害を経験しない時代の可能性があるかとも思われた。しかしそうはいかなかった。平成7年(1995年)の阪神大震災は、イメージ的には関東大震災と同様のものに思われた。ただこの時点では平成の時代の大震災はもうこれで終わりではないかという思いがあった。しかし2011年に東日本大震災が起こり、これもこれで災害は終わりではなく、それ以降、2014年の広島土砂災害、2016年の熊本地震、2017年の九州北部豪雨、2018年の西日本豪雨と続いている。平成の元号に託された思いは破られている。
新しい元号にもそれなりの希望が託されて人心を新たにするようなものが求められるだろうが、はたしてどうなるのだろうか。前の連載の最後の二百回目に「自然と業」と題して、現代を「無明と無常が複合し、無明が無常を増幅する時代」と書いた。その意味で言えば近年多発する「豪雨」は「業雨」と言えるだろう。煩悩のことを「暴流」とも言うが、人間の欲望が地球の循環系に影響を与えて狂わせているのだろう。この「無明と無常」を越えるものこそが「無量光・無量寿」である。
能入抄30回 「瓦・泥・砂」 2018年12月号
・・・「多念仏」・・・
親鸞の『唯信鈔文意』にある「いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり」について『法華経』の「常不軽菩薩」の記事との関係を前回考えた。「いし・かはら・つぶて」の原文は法照の『五会法事讃』の「但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」で、法然の『選択本願念仏集』に引用される。「ただ心を回らせて多く念仏すれば、瓦礫を変えて金と成させることができる」という意味だろう。回心して念仏すれば成仏することの譬喩である。
ここで問題になるのは「多念仏」の部分である。「回心」が「信心開発」を表し、それによって念仏成仏するのに、多念を要するのかということである。前回『法華経』の「方便品第二」に「一称南無仏 皆已成仏道(一たび南無仏と称えば 皆、已に仏道を成ぜり)」とあると述べたが、『法華経』でも「一称南無仏」としているのだから、多くの回数の念仏を要するのかという疑問が起こる。
・・・「すぐれた念仏」・・・
親鸞も同様に思ったようで、『唯信鈔文意』で「多」は、「大のこころなり、勝のこころなり、増上のこころなり。」と述べている。「多」とはすぐれたものということである。多く念仏すればそれに従って次第に瓦礫が金に変わっていくわけではなく、根本的な質的変化が一念に起こるということだろう。しかし原文に即せばおそらく「多念仏」は多くの回数の念仏という意味だったのだろう。
これに関連して、高崎直道が『仏教の思想11 古仏のまねび<道元>』に興味深い挿話を載せている。禅宗の馬祖道一とその師である南岳懐譲の問答である。馬祖が一生懸命坐禅しているところに南岳がやってきて尋ねる。「坐禅してどうするつもりか」「仏になろうと思います」すると南岳は「塼(せん)」という瓦の一つを手に取って庵の前の石の上で磨き始めた。それを見た馬祖が「先生何をするのですか」と尋ねる。「塼」を磨いて「鏡」にするのだよ、と。「塼」を磨いてどうして「鏡」になるでしょうか。ではどうして坐禅して成仏することができるのだ、と南岳。
・・・「書き替え」と「読み替え」・・・
この時「馬祖はたちどころに悟った」と高崎直道は書いている。私はこれを読んで感動し思わず念仏してしまった。瓦礫が金に変わる瞬間を見事に描いている。「塼」という字が「専念」や「専修」の「専」に通じ、一瞬にして金に変わったように見える。馬祖の心の変化だが、実際馬祖には「塼」が輝いて見えたはずである。仏性の世界の開顕である。
高崎直道の筆の力もあるのだと思う。この問答は『景徳伝燈録』にある話で、原文を見ると実は二人の問答はこれで終わっておらず、続いている。「馬祖はたちどころに悟った」とは思えないような続き方である。しかし私が読むと、高崎直道の書き替えは親鸞が「多念仏」の「多」の意味を読み替えたのと同様に思える。瞬間的な質的変化を表すのには「馬祖はたちどころに悟った」の方が明らかにいい。禅とは何かをよく示している。
・・・泥も砂も・・・
「塼」は瓦だと言ったが、これは禅宗寺院に行くとよく見るが、屋根の瓦ではなく、床に敷く敷き瓦で、大判のタイルのようなものだろう。禅宗寺院の仏殿では須弥壇の前に敷き詰めてあることが多い。その「塼」を見ると、馬祖と南岳の問答を思い出すのだが、それは私だけのことではあるまい。そしてこの話の影響かどうかわからないが、禅宗寺院の仏殿に敷き詰めてある「塼」は鏡と言ってもいいほどに光っている。掃除して磨きあげればそうなるのだろう。見事なものである。
同じく「塼」を使ったものには「塼仏」がある。古代寺院によくあり、博物館などで見ることがある。粘土に型押しして作られる仏像である。多量に作るのに適している簡易型の仏像である。『法華経』の「方便品第二」には「甎瓦(せんが)・泥土」等で仏廟を建てたり、童子の戯れに「沙(すな)」を集めて仏塔を作っても「皆、已に仏道を成ぜり」とある。泥の舟で「難度海」を渡るような話だが、みな黄金の光に包まれているのだろう。
能入抄29回 「いし・かはら・つぶてのごとく」 2018年11月号
・・・『法華経』・・・
『法華経』は漢訳で二十八品あり、全体を通読するのは大変なので、『観音経』のようにその一部を読むことが行われるようになったのだろう。私も部分的に読み返したくなる部分が幾つかある。『観音経』以外の部分では、「提婆達多品第十二」、「従地涌出品第十五」、「如来寿量品第十六」、「常不軽菩薩品第二十」などで、また「法華七喩」と言われる譬喩(比喩)を述べた部分などである。
「提婆達多品」は悪人成仏と女人成仏を説き、この精神は親鸞浄土教にも受け継がれている。「従地涌出品」は地面の中から湧き出す「地涌の菩薩」を説き、東国で農民とともに生きた親鸞にとって同朋同行の農民達は「地涌の菩薩」に見えたのではないかと思う。また東北で土に生きる農民に命を捧げた宮沢賢治の姿にも重なる。「如来寿量品」は釈迦如来が久遠仏として寿命が無量であることを説き、これは浄土教で阿弥陀仏が無量寿であることからすれば阿弥陀仏と並ぶ二尊である釈迦仏が無量寿であるのは当然である。また「方便品第二」で説かれる「法華一乗」が親鸞では「本願一乗」、「一称南無仏 皆已成仏道(一たび南無仏と称えば 皆、已に仏道を成ぜり)」が「一念往生」に対応していると言えるだろう。親鸞が二十年比叡山で学んだことを思えば影響があるのが当然だろう。
・・・「常不軽菩薩」・・・
思想的な影響関係があるかないかを別にして非常に印象に残るのは「常不軽菩薩品第二十」である。ここに説かれる「常不軽菩薩」の「礼拝」と「讃歎」は浄土教では天親菩薩の『浄土論』や曇鸞の『浄土論註』で説かれる「五念門」の第一と第二に当たる。ただし「常不軽菩薩」が礼拝し讃歎したのは仏に対してではなく、一般の人々に対してである。
「汝当作仏(汝は当に仏と作るべし)」と「常にこの言を作せり」。人々が成仏するはずだからと人々を拝んでこの言葉を捧げて回るが、人々からは喜ばれるどころか逆に軽蔑され迫害される。それでも人々の「仏性」を拝んで回る。「常不軽」と否定形で述べるより「常敬」と肯定形で述べた方がいいだろう。この無常の世界で「常」に仏性を拝むことができるならまさに「仏行」と言うべきだろう。
・・・「常不軽菩薩」の「教行信証」・・・
そしてついに「常不軽菩薩」は成仏する。読者はその後の言葉に驚かされる。「常不軽菩薩」とは「則我身是(則ち我が身是なり)」、何と釈尊自身だというのである。釈尊の前世譚の一つということになるのだが、この意外な展開には驚かされる。実に見事である。
大乗仏典は宗教文学だとよく言われるが、「常不軽菩薩」の話はその行動の意外性といい展開の意外性といい、短編小説を読むような面白さがある。内容としては「悉有仏性」という「教」と、「礼拝讃歎」という「行」と、釈迦仏の成仏という「証」がある。人々から軽蔑され迫害されても礼拝し讃歎し続けるには当然「信」もあるだろう。この話一つに「教行信証」が備わっているのである。
・・・「瓦石」・・・
もう一つ、人々が「常不軽菩薩」を迫害する場面で使われるのが「杖木・瓦石」である。この「瓦石」を読むと、以前引用した親鸞の『唯信鈔文意』にある「いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり」が、我々がただ価値的に低いことを表すだけではなく、さらには迫害者かもしれず、「誹謗正法」の者かもしれないというマイナスの価値も表しているように思えてくる。「つぶて」には投石のイメージがある。そしてその方が「かはら・つぶてをこがねにかへなさしめん」、即ち瓦や石を黄金に変えるという本願力の働きをより劇的に表すことになる。そしてさらにその働きを伝える伝道の「悪人正機」も表せる。
『聖書』の「使徒行伝」にも石による迫害が描かれている。ステファノという使徒が聖霊の働きを証ししために人々の反感を買い、石で打たれる。この迫害を支持する側にいたのがサウロである。サウロは後に突然キリストの幻を見て回心し伝道者パウロとなる。「瓦礫を変じて金と成す」力は世界に満ちている。
能入抄28回 「現世安穏・後生善処」 2018年10月号
・・・二つの「33」・・・
昭和33年生まれの私に縁のある「33」について、観音霊場としての西国三十三所や、阿弥陀仏の本願である四十八願にある三十三願の「触光柔軟の願」について書いた。経典としてはそれぞれ『法華経』と『無量寿経』に書かれている。『法華経』の「観世音菩薩普門品」に観音の三十三の変化身が説かれ、ここから西国三十三所という発想が生まれた。『観音経』は『法華経』の「観世音菩薩普門品」で、偈文がよく読まれ、現世利益の経典として知られている。また阿弥陀仏の四十八願の本願を説くのは『無量寿経』である。
日本では日本仏教の宗派として『法華経』を所依の経典とする法華仏教の系統と、『無量寿経』をはじめとする浄土経典を所依の経典とする浄土仏教の系統は歴史の中で分かれてしまったが、観音を中心にして考えると両者は結びつく。観音菩薩が勢至菩薩とともに阿弥陀仏の脇士であるからだ。阿弥陀三尊像を拝むことのある人ならすぐわかるだろう。
・・・『法華経』の「阿弥陀仏」・・・
以前の連載で「中村元と浄土教」という題で書いたことだが、『法華経』の「観世音菩薩普門品」のサンスクリット原典には観音菩薩が阿弥陀仏(アミターバ)の脇士であり、阿弥陀仏の極楽浄土(スカーヴァティー)が説かれている。しかしサンスクリット原典にある阿弥陀仏の記述の部分はなぜか鳩摩羅什が翻訳した漢訳の『法華経』では省かれている。岩波文庫の『法華経』には鳩摩羅什の漢訳とサンスクリット原典からの日本語訳が並べられているので、両者を対照して見ればわかることである。ここが省かれずに漢訳されていれば、法華仏教の系統と浄土仏教の系統の関係はずいぶんと変わっただろう。
鳩摩羅什は浄土三部経の一つである『阿弥陀経』を漢訳しているので阿弥陀仏と極楽浄土のことは百も承知である。また鳩摩羅什訳の『法華経』ではわずかだが「化城喩品」と「薬王菩薩本事品」にも阿弥陀仏の名があり、後者には女人往生も説かれている。鳩摩羅什は『阿弥陀経』を訳しているので、『法華経』では重複を避けて阿弥陀仏の記述を簡略にしたのだろうか。あるいは鳩摩羅什の見た原典が現存するものと違っていたのだろうか。
・・・「信心と称名」・・・
2017年9月の多山報恩会での「ヒロシマからの念仏」という講演では「人類和合の宗教」という視点から世界宗教における「信心と称名」について述べた。『旧約聖書』と、『新約聖書』の「ローマ書」や「使徒行伝」に説かれる「すべて主の名を呼び求むる者は救わるべし」、『コーラン』の「常に神の御名を唱えよ」について述べ、合わせて法華仏教と浄土仏教の関係についても述べた。
前述のように『法華経』に阿弥陀仏の名があり、「観世音菩薩普門品」のサンスクリット原典では阿弥陀仏と極楽浄土が説かれていること、また日本では法華仏教も浄土仏教も比叡山で併修されたこと、これらだけでも充分だと思うが、分かれた後の現代ではどうかということについて例をあげ私見を述べた。
・・・「現当二益」・・・
その例とは、京都の本圀寺の貫首で立正大学名誉教授の伊藤瑞叡師が『法華仏教転生論』に説かれているものである。そこに「筆者の信条」として「私どもは、日常にあって懺悔滅罪のために但信口唱して臨終正念をこころざし、知恩報恩のために但信口唱して後生善処をねがい、自行化他のために但信口唱して現世安穏をたしかめ、もって信行によりて安心をさだむべし、と。」と述べておられる。
「知恩報恩のために但信口唱」は「報恩の念仏」、「自行化他」は「自信教人信」、「後生善処」は「浄土往生」、「現世安穏」は「世のなか安穏なれ」とよく対応している。これらは実質的に浄土教で説くところと同様だろう。「現世安穏・後生善処」は『法華経』の「薬草喩品」にある言葉で「現世安穏にして後に善処に生じ」とある。これは現世と来世の二つの利益を合わせて説く浄土教の「現当二益」に相当するだろう。観音の道は此岸にも彼岸にも通じる人類和合の道である。
能入抄27回 旗 2018年9月号
・・・四年・・・
2018年8月で2014年8月20日未明に起きた広島土砂災害から四年が経った。四年と言えば48ヶ月である。今年の元旦にその時の災害後に改修された我が家の東隣の駐車場に11から22までの数字が並んでいたことに初めて気付いたことを述べた。本願によって災害を乗り越えよという意味だったのかとあらためて思った次第である。
今頃になって気付くのは遅すぎると思うが、今年になってあらためて気付かされたのは、災害から四年経ってもまだそのメッセージが活きているからのように思える。一つは広島土砂災害のその後の復興が進行中であること、また2016年の熊本地震や2017年九州北部豪雨などその後も各地で災害が続いているからである。そして何と言っても2018年7月にまた広島で豪雨災害があったからである。今回の被害者の数は2014年のそれを上回った。広島だけではなく、岡山、愛媛も被害がひどく西日本豪雨と呼ばれた。
・・・煩悩と業のように・・・
今回我が家は無事だったが、2014年の災害時に迫られたのは、我が家の敷地に流入した土砂と、床下浸水の泥水を取り除くことだった。木造なので放っておけない。床下から水を汲みだした後は、床下に潜り込んで泥を除く手作業だった。まるで自分の煩悩と格闘しているようだった。ボランティアの方から手伝いの申し出を受けたが、ひどい状況の家がいくらでもあるので丁重に辞退した。
隣家の駐車場が災害後に全面改修されたことを書いたが、その時に隣接する我が家の駐車場も同時に改修した。私が水害の時に初めて知ったのは土の上では車はその重みで地面にめり込むということだった。車の中には泥水が入った。JAFに来てもらい牽引してもらって何とかめり込んでいたところから車を引き出した。業の重い我々を本願力で引き上げてもらうようなものだった。だから駐車場を改修せざるをえず、アスファルトで舗装した。書けば他にもまだあるが、きりがない。
・・・傷跡・・・
その後一段落してからも土砂災害を引き起こした山の斜面にある数本の切り裂いたような深くえぐれた跡はそのままである。夏を越えるごとに傷が癒えるように緑が回復するのではないかと思ったが、四年経ってもその部分はほとんど変わっていない。もちろん麓の住宅に近い部分では大規模な砂防ダムができている。その点では復興は進んでいるのだが、山の深い傷を見るたびに人の心の傷も癒えるのにまだまだ時間がかかるだろうと思う。
我が家の周辺では同様の被害を受けた家が多く、被災の中心となった地域からの距離が私の家よりさらに遠い地域の人でも修復するのに数百万かかったという話を聞いた。我が家が檀家になっている寺は私の家より山側にあり、より被災の中心地から近い。その寺の前には大きな駐車場と保育園があり、保育園は床上浸水だった。いったん土砂を取り除いたもののしばらくしてカビが発生し、床を全面改修することになり、新聞記事にもなった。
・・・門前で・・・
駐車場の方はアスファルトだったので土砂の除去で済んだようだった。今年の元旦に我が家で初日の出を見て駐車場の数字に初めて気付きありがたくて念仏したが、その余韻の残る内にお寺に参った。駐車場に車を止め、ここには数字はなく、そのまま山門に向かった。晴天だったので門前で空を見上げると旗が青空にはためいている。仏旗だった。それを見たとたんありがたさに思わず念仏がこみ上げてきた。本願の旗に見えた。ずっとそれが掲げられてきたように思えたのである。
そしてふと昔法座で聞いた話を思い出した。ベトナム戦争のとき戦闘で孤立した村から人々が避難する際にある僧侶が仏旗を掲げて先頭に立ったという。村人が後に続く。するとぴたりと戦闘がやみ、村人は無事避難できたという。古い話でうろ覚えだが、それを聞いた時の感動は今も私の胸に残っている。仏旗には本願が宿っている。そして変わらず我々を導いてくれる。戦場でも被災地でも。
能入抄26回 反射と感謝 2018年8月号
・・・災害と本願・・・
2018年の元旦に初めて我が家の前の駐車場に11から22の数字が並んでいることに気付いた。2014年8月の広島土砂災害の後に駐車場が全面改修され、その時にそれまで入っていなかった数字が入った。それ以前に数字が入っていたらどうだったのかと思い出すと、その場合の数字は今と違っていたはずだ。改修時に私の家に面していない部分で2台分のスペースが追加され、新たに数字を割り当てて、我が家に面した部分に11から22の数字が入った。災害を本願によって乗り越えよということだったのだろうか。
蔵は私が生まれた60年前から変わっていない。三ツ蔵を特に意識したのは『この世界の片隅に』に登場してからである。このアニメ版映画を見てから、あらためて呉にある澤原家住宅の三ツ蔵を見に行った。その時にもまだ我が家の隣にも三つの蔵があることに気付かなかった。澤原家住宅の三ツ蔵のように三棟が連続していないせいもあるだろう。
・・・正月の三ツ蔵・・・
今年の正月になって駐車場の数字と蔵の存在に気付き、そのありがたい気持ちのままに次の日の1月2日に妻の実家のある呉に行き、妻の実家に行く前に澤原家住宅の三ツ蔵に立ち寄った。天気は晴れだった。前回ここに来た時には明らかに『この世界の片隅に』を見てこの蔵を見に来たらしい人達がいて写真を撮っていた。広島では2018年の正月にもまだ映画館で『この世界の片隅に』を上映していたが、さすがにその日は正月だったからだろう、蔵の前に他に人はいなかった。
あらためて写真を撮ろうと思ったのだが、どうも様子が違う。晴れているのにやけに暗い。どうやら太陽との位置関係が違うのだと気付いた。これまで午後に訪れた時には蔵に太陽が当たっていたのが、その日は午前で逆光になっていた。三棟を並べて写そうとすると、どうしてもそういう位置関係になるのである。太陽の位置が変わるまで待つわけにはいかなかったのでその日はそのまま撮った。
・・・1月7日・・・
しばらくして1月7日、この日は日曜日で、起きたのは1月1日の元旦のときとほぼ同じ時間で、その時と同じようにカーテンが明るいのでまた日の出が見られると思った。日の出の位置もほぼ同じである。前と同様に二重に見える。これは二重ガラスのせいだろうということがわかったので二つの太陽を拝ませてもらった。その後で駐車場に視線を落とし、12と13の数字の上に朝日が昇るのをあらためて確認した。これまで気付かなかったのが本当に不思議に思え、しげしげと眺めた。
次に蔵を見ようとして視線を上げた時にふと蔵の土台になっている石垣が光っていることに気付いた。蔵の向こうから日が昇るのではじめから逆光になることはわかっている。呉の三ツ蔵で逆光で暗い蔵を見てきたばかりである。なぜ石垣が光るのか不思議だった。前回太陽が二重に見えたのは二重ガラスの屈折のせいだろうと書いたが、同時に反射もしているようで、我が家の窓に当たった光が反射して隣家の蔵の石垣に当たり、さらに反射しているらしい。二重の反射である。1月1日にも石垣は光っていたのだろうか。たぶんそうだったのに気付かなかったのだろう。
・・・「いし・かはら・つぶて」・・・
その時に「瓦礫を変じて金と成す」という言葉が思わず浮かび、ありがたくて念仏がこみ上げてきた。親鸞の『唯信鈔文意』の言葉の取意で、正しくは「かはら・つぶてをこがねにかへなさしめん」、また「いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり」ともある。
我々が本願の光を浴びて輝く姿を言ったものである。我々が念仏するのはただ本願の光を反射しているだけだが、それがそのまま感謝なのだろう。何か特別なことをしているわけではない。十七願の称名行が報恩感謝行になるのは光の法則として当然なのだろう。殊更にお返ししようと思わなくても自ずと反射しているのである。そこからさらに何度反射してもいい。法則は続く。その日が1月7日だったのは17を示していたのだろうか。
能入抄25回 隣の本願 2018年7月号
・・・初日の出・・・
2018年1月1日、今年の元旦は初日の出を見ることができた。とは言っても地平線や水平線に出る日の出ではなく、私の部屋から見える私にとっての初日の出である。私の家の東隣は大きな母屋や蔵をもつ旧家で、私の今住んでいる家の土地もかつてはその家の所有だったそうである。その旧家とさらにその先にあるビルの上に日の出が見える。それが私にとっての初日の出である。自分の部屋から見るので心ゆくまで眺められる。
その朝、目覚めてからカーテンが明るいのでこれは初日の出が見えそうだと思い、カーテンを開けると、今まさにビルの向こうに日が昇るところだった。急いで洗面と着替えをして太陽がはっきりと顔を出すのを待つ。しっかりとその形を見ることのできる日の出だった。ありがたくて拝みながら念仏する。前回2018年を彼岸と此岸の二重の十八願成就の年にしたいものだと書いたが、念仏していると本当にそういう気持ちになってくる。
・・・二重の太陽・・・
ふと気付いてみるとその太陽がなぜか二重に見える。二重ということを思ってきたので、錯覚だろうと思った。あるいは目が覚めて間もないので、焦点がまだうまく合っていないのだろうと思った。ただ左右の目で焦点が合わないときは、二重とは言っても左右に並んでいるはずである。その時は太陽が上下に並んで見えたのである。もともと目がいい方ではなく、何年も眼科に通い続けているので、また何か症状が出たのかと思った。
日の出を拝むと言っても窓ガラス越しに見ているので、ガラスのせいかもしれないと思って窓を開けてみた。寒かったが、その途端に二重に見えていたのが消えた。ガラスが二重ガラスになっているので、どうもそのことが関係しているのだろうと思った。普段は気付かないことである。太陽が二重に見えて太陽が彼岸と此岸で二重にあってもいいのではないかと思った。以前二重の虹を見たことがあり、それは気象現象で目の錯覚ではなかったと思うが、今回はガラスの屈折による物理現象だろう。それでもありがたかった。
・・・駐車場・・・
年明けに眼科に行かなくてもいいようだと思ってふと下を見た。先に述べたように東隣が旧家だが、その旧家の敷地に駐車場がある。その駐車場のそれぞれの区画に数字がふってある。L字形になった駐車場でちょうど我が家の前に数字の11から13が並んでいる。
以前に呉にある三ツ蔵のことを書いて十一願から十三願の真実願三願と重なって見えたということを書いた。今回東の空に見える朝日からちょうど視線を落とすと私の部屋の前で12と13が並んでいる。十二願が「光明無量の願」で、十三願が「寿命無量の願」である。阿弥陀仏の「アミターバ」即ち「無量光」と、「アミターユス」即ち「無量寿」とに対応した願で、無限の光と命という阿弥陀仏のあり方を表している願である。今まさにその数字の上に初日が昇るところだった。新年の幕開けにふさわしい光景だった。
・・・願と蔵・・・
それでは2018年の18はどうかと思うと、その先に17と並んである。十七願と十八願も真実願である。十一願から十三願までの三願と合わせて真実五願と言われる願である。さらにこれに二十二願の「還相廻向の願」を加えると真実六願になる。その22はどこにあるかというと一番端に見える。11から22の数字が並んでいる。私の家の前にこんなに大きくはっきりとこの数字が並んでいることに今年の元旦の朝に初めて気が付いた。
蔵はどうかというと駐車場に面して二つの蔵があり、その先に私の家からは見えないがもう一つ蔵がある。三つの蔵は私が子どものころから我が家の隣にもあったのである。駐車場の数字は以前は無く、2014年の広島土砂災害の被災後に駐車場が改修された時に数字が入った覚えがある。それでも気付くのに随分と時間がかかった。真実は目の前にある。そしてじっと気付くのを待ってくれているのである。縁の不思議を感じた元旦だった。
能入抄24回 二重唱 2018年6月号
・・・数字と人生・・・
「33」や「34」という数字に関する縁をいろいろと書いた。観音の変化身や本願の願数にちなむ数字についてである。ただの数字遊びだと思われるかもしれない。しかし人によってはある数字の意味が自分の人生を変えるほどの力をもつこともあるのではないか。昨年それを感じるようなことがあった。
広島の多山報恩会から2017年9月に開く講演会の依頼を受けた。それ以前から多山報恩会については知っていたが、講演の依頼を受けた後で会の経緯を書いた冊子を送ってもらい、あらためて詳しく知ることになった。私が教員になって初めに勤めた学校が多山報恩会を設立した多山恒次郎が初代理事長をつとめた学校で、校訓が「報恩感謝 実践」だった。やがて私はその学校から母校に移ったが、不思議なことに初めに勤めた学校がその後、母校と合併して同じ学園となり、私は今年の三月まで33年間同じ学園に勤めた。
・・・二重の17・・・
その冊子を読んで思ったことがある。多山報恩会を設立する申請を多山恒次郎は昭和17年1942年に行っている。多山恒次郎は明治17年1884年の生まれである。明治17年生まれの多山恒次郎が昭和17年になって財団を設立する申請をしたのはなぜだろう。昭和17年と言えば戦争のさなかである。戦争によって全てを失うかもしれないはずである。全てというのは財産だけではない。自分の命もということである。こういう時期にどうして財団の設立を申請したのだろう。
昨年は2017年で二重の17年だと思っていたが、多山恒次郎にとっても生まれ年の明治17年と、当時の昭和17年が二重に重なったのではないだろうか。熱心な安芸門徒の念仏者だった多山恒次郎にとって、17という数字は親鸞の浄土教で称名念仏を表す「諸仏称名の願」の十七願の数字である。
・・・真仏弟子の報恩行・・・
法然は十八願を重視し十八願の「十念」が念仏を表すとしたが、親鸞は十七願で諸仏がする「称名」を我々にとっても称名念仏を表すとした。これは大胆な解釈で、諸仏の行が我々の行にもなることは、我々が「仏行」をしていることになる。人間の側からの発想ではこうはいかない。「如来廻向」という如来から与えられる行だからそれが可能になる。またその称名念仏は仏恩への報恩行になる。十七の重なりを十七願の仏行と報恩行として多山恒次郎は意識したのではなかろうか。
また申請が認められて財団が発足したのは昭和18年の3月31日である。18という数字は十八願の数字である。こういう設立は新年度の初めの4月1日が普通だろうが、なぜか年度末の3月31日である。33日という日はないので、ひょっとすると18の後に33という数字が並ぶように日を選んだのではあるまいか。三十三願が「触光柔軟の願」で親鸞が「真仏弟子釈」に引用したことを述べたが、多山恒次郎は真の仏弟子として仏行と報恩行をするためにこの時期と月日を選んだのではないかという気がしたのである。
・・・「ヒロシマからの念仏」・・・
その後のことは口にするのも恐ろしいが、昭和20年8月6日の広島への原爆投下によって多山報恩会は全てを失った。幸いなことに多山恒次郎は無事だった。しかしこれは多山恒次郎にとっては大変な苦難の始まりである。ところが早くも昭和21年2月に多山報恩会は活動を再開し、原爆孤児育成のために寄付をしている。私は講演の題を「ヒロシマからの念仏」とし、多山恒次郎の念仏はまさに「ヒロシマからの念仏」だと語った。多山恒次郎との念仏の二重唱になっただろうか。
講演後に理事長から謝辞を受けた。これまでどなたも17のことは語られなかったそうである。私も2017年だから気付いたのだろうと語った。それが多山恒次郎の本当の気持ちだったかどうかはわからない。ただ無意識の内に向こうの世界から後にそう受け取られるような行動をしむけられるということはあるかもしれない。2018年も彼岸と此岸での二重の十八願成就の年にしたいものだ。
能入抄23回 「33」と「34」 2018年5月号
・・・観音霊場・・・
西国三十三所観音霊場の幾つかの寺を回っていると熱心な巡礼の人の姿を見かける。その真剣さには心打たれるものがある。西国三十三所が有名になり鎌倉幕府を開いた源頼朝は関東にもと願い、三代将軍源実朝の時に坂東三十三箇所が定められたと言われている。さらに続いて秩父三十四箇所も定められた。西国三十三所と合わせて百所霊場になる。
坂東三十三箇所の中で最も有名なのは東京の浅草寺だろう。東京には坂東三十三箇所の寺は浅草寺しかない。江戸時代以前の東京に当たる地域がどういう地域だったのかわかる話である。江戸時代になってからは大寺院ができるが、中でも徳川家の宗旨だった浄土宗の増上寺は境内の規模も伽藍の規模も最大級である。芝公園全体が増上寺の境内だった。築地本願寺の築地が門徒の力で埋めたてられた土地で、それで築地と言うそうだが、増上寺と本願寺では幕府の対応は随分と違う。
・・・芝の塔・・・
現在でも東京で定評のある大寺院というと増上寺と浅草寺だろう。観光でも東京タワーと増上寺が一つのセットになっていた。東京タワーのある芝公園は増上寺の境内だったので当然だろう。増上寺から見ると東京タワーは境内の一部であることがよくわかる。増上寺には塔がないので大殿の奥にそびえる東京タワーを増上寺の塔として見立ててもいいだろう。浅草寺には仏塔があるがさらに東京スカイツリーも境内から見える。青岸渡寺と那智の滝の組み合わせにもどこか似ている。
増上寺のある地名の芝は語呂合わせとして「48」に通じる。電機メーカーの東芝のパソコンを買った時に「1048」という語呂が使ってあってなるほどと感心したことがある。またアイドルグループの「AKB48」が登場した時に「48」がどこに由来するのかと思ったが、どうも所属事務所の社長の名の「芝」に由来するらしいと知った。それで四十八願を説く浄土宗の本山の一つである芝の増上寺と関係づけて、このグループで四十八願を宣伝してもらっているのだと勝手に思うことにした。このグループには「センター」という役目があり、それに倣えば四十八願のセンターは十八願ということになるだろう。
・・・本願の塔・・・
東京タワーは言うまでもなく電波塔だが、放送のあり方は本願と念仏のあり方とよく似ていると思う。本願という光の願いが発信し続けられ我々がそれを受信することで念仏という音が口から発せられる。発信と受信によって成り立つ光通信である。芝にある東京タワーは四十八願を発信し続けていると思えばいい。そうなればやはりこれは仏塔である。
私が東京タワーに親しみを感じるのはこの塔が私が生まれた昭和33年にできたことも関係する。今年2018年にはともに60歳の還暦である。東京スカイツリーができてからは、東京スカイツリーと浅草寺の組み合わせに東京タワーと増上寺は押されているとは思うが、まだまだ頑張ってもらいたい。
・・・本願放送・・・
那智の滝は高さ133メートルだが、東京タワーは333メートルである。昭和33年と関係ありそうだが、偶然の一致だそうである。東京スカイツリーは634メートルでこれは「武蔵(むさし)の国」との語呂合わせだそうだ。「33」、「34」と続いている。
四十八願との関係では三十三願が「触光柔軟の願」、三十四願が「聞名得忍」の願で親鸞が『教行信証』の「真仏弟子釈」に取り上げた。阿弥陀仏の光明を浴び心身が柔軟になり六道輪廻の「人・天」を越える願と、その名号を聞き菩薩の無生法忍を得る願である。無生法忍とは不生不滅の世界の認識である。合わせて光明と名号で如来の光と音の利益を説く。スカイツリーの「634」が南無阿弥陀仏の六字名号を説く三十四願を表すと思えばこれも仏塔である。東京タワーは三十三願担当でもいい。東京タワーも東京スカイツリーも放送範囲は関東で、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所に届いている。それを受けてまた観音菩薩が本願を伝えているはずである。
能入抄22回 「33」 2018年4月号
・・・「自然のパワーを感じる地」・・・
日本自動車連盟(JAF)が発行している月刊誌の2018年1月号の表紙の写真について書いたが、「ジャフメイト」というこの雑誌の特集記事で必ず初めにあるのが、日本全国のドライブ記事である。私は若いころから全国の寺社を巡ってきているので、行った土地について書かれていることが多い。それでも行ったことがない場所や、行っていても知らなかったことなど、勉強になることが多く必ず目を通し、また雑誌も保存している。
2018年1月号の特集ドライブ記事は「自然のパワーを感じる地」というタイトルである。このタイトルからこれがどこの土地を巡る特集かわかるだろうか。都会ではないだろうという想像はつくはずだ。見開き2ページを使った大きな写真があり、空の部分にさきほどの「自然のパワーを感じる地」というタイトルが書かれている。写真を見ながら全くこのタイトルの通りだと思って感心した。どこかという和歌山県の那智である。
・・・那智・・・
後ろに那智の滝が写り、手前には青岸渡寺の鮮やかな朱色の三重塔が写っている。那智の滝だけでも「自然のパワーを感じる」のだが、青岸渡寺の三重塔との組み合わせは写真の構図としては抜群の魅力がある。朱色の背後は山の緑である。朱と緑と滝の白、この色の取り合わせもいい。私も何度か行ったことがあり、同じ場所から写真を撮っているのでこれを特集の見開き2ページの写真に使いたくなるのは編集者として当然だろうと思う。
次のページから記事の文面になるのだが、そこに那智の滝が落差133メートルといきなり数字が出てくる。那智の滝のことは知っていてもこの数字がすぐに出てくる人はそれほど多くはないだろう。私も知らなかったというか忘れていた。富士山の高さや東京タワー、あるいは東京スカイツリーの高さなら言える人はかなり多いだろう。ただ2018年が戌年で、自分が昭和33年の戌年生まれで60歳の還暦の歳なので、自分が好きで何度も行ったことのある那智の滝に「33」という数字が入っているのはうれしかった。
・・・「三十三所」・・・
近畿地方でこれまで自分が何度も意識してきた「33」という数字は京都の三十三間堂や、観音霊場として有名な西国三十三所である。西国三十三所は全部行っているわけではないが、近畿地方の有名な寺社が数多く入っている。中でも親鸞との縁で言えば京都の六角堂頂法寺が、親鸞がそこに籠もり、聖徳太子のお告げを受けた寺として有名である。
この三十三という数字と観音霊場の関係は『法華経』の「観世音菩薩普門品」に由来する。いわゆる『観音経』で、偈がよく読まれる。そこに観音の三十三の変化身が説かれる。観音は菩薩だが、菩薩である観音が仏身や天身など多くの変化身をもつのである。もとをたどればむしろ仏身から種々多様の変化身をもつと言った方がいいようなあり方である。自分としては自分の生まれた昭和33年と同じ数字なので近畿の有名寺院のあちこちでこの数字を見るとありがたい気持ちになる。
・・・「阿弥陀仏と観音菩薩」・・・
そして実は那智の青岸渡寺が西国三十三所の一番札所なのである。「一番」目の「三十三所」と並べれば「133」という数字になるのでこれを覚えておけば那智の滝の高さはすぐに言える便利な数字である。ちなみに親鸞が籠もった六角堂頂法寺は十八番札所である。浄土教で阿弥陀仏の四十八願の中で重視する十八願と同じ数字である。また那智の滝は「那智四十八滝」の第一番に位置づけられ、青岸渡寺や那智の滝は北緯33度内にある。
これらの数字を見ると阿弥陀仏信仰と観音信仰が重なっているのを感じる。観音菩薩は阿弥陀仏の脇士なので当然と言えば当然だろう。ただ西国三十三所が始まった中世に那智の滝が133メートルとか北緯33度とかわかるはずはない。時間がひっくり返ったような錯覚に陥る。「自然のパワー」には時間を越えてしまう力もあるのだろうか。写真を見ていると滝が動いて見え、念仏したくなった。
能入抄21回 2018年3月号 「一切の有情」
・・・表紙の写真・・・
2017年の年末のこと、新年2018年の1月号の月刊誌が届いた。日本自動車連盟(JAF)が発行しているもので、会員なので定期的に送られてくる。毎月その表紙を見るのを楽しみにしている。2016年の途中からその表紙の写真が岩合光昭氏による動物写真になった。月刊誌の終わりに近いページには岩合光昭氏自身による文章も載っていて、表紙の写真の詳しい撮影経緯もわかる。
私に限らないと思うが、あるころから動物も植物もみな「同朋同行」だと思うようになった。『歎異抄』に言う「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。」というのは本当にその通りだと思う。みな同じ尊い命である。江戸時代に、一向一揆の記憶が支配者側に残っていて、その結束力の強さへの恐怖がある一方で、真宗門徒は生き物をかわいがると言われていたのを思い出す。その面では支配者側にも評価されていたのである。
・・・戌年の写真・・・
実はその結束力の強さは「一切の有情」を思う本願へのかたじけなさの表れであり、結束力の強さと生き物をかわいがるのは一体のものである。岩合光昭氏が念仏者かどうかは知らないが、写真を見ていると生き物への愛だけでなく敬意や感謝までも感じられる。2018年1月号の写真は真っ白な雪原の上に二匹の子犬が並んで写っているものである。
表紙の題字の1月号の「1」の数字の下には「新しい始まり」とある。そうだった。年が明ければ戌年なのだ。自分は昭和33年1958年の戌年生まれなので、年男である。ますますこの犬がいとおしく思われる。岩合氏の文章を読んでみると、雪原の上で子犬はうれしがって遠くまで行ってしまったのだという。どうしようかと思っていると、飼い主が親犬を出してくれて、そのとたんに子犬は飛ぶように戻ってきたのだという。まさに「有情」そのものの姿に思える話である。
・・・酉年の写真・・・
それで1年前の2017年1月号の写真はどうだったのだろうと思い、保存してあるのを引き出してみた。やはり予想通り鳥である。これも雪原の上にいる。1月号だからこういう設定になるのだろう。雪原に鳥と聞くと丹頂鶴を思ってしまうが、実はそうではない。前に写真を見たときに何の写真か一瞬わからなかったことを思い出した。鳥に見えなかったのである。何かというとペンギンのアップである。背景が雪原なので二色しかない。パンダのように白と黒の二色だけである。
2017年が酉年だったので鳥を選ぶことになったのだろう。自分も随分「辛酉」という酉年のことを書いたので縁が深い。それで表紙を見るだけでなく、記事の方も読み直してみた。そうすると野生動物を撮ってきた人だけあって、そのペンギンは南極で三週間キャンプをして撮ったものだそうである。記事のページにはペンギンの親鳥と二羽の幼鳥の写真も写っている。南極という過酷な生育環境だが、ペンギンの姿は何ともかわいい。
・・・『南極物語』・・・
この南極のペンギンの記事を読んで並べていた子犬の写真を見ると、子犬のいる雪原も南極に見えてくる。そして二匹の子犬が『南極物語』の主人公である「タロ」と「ジロ」の姿に重なった。古い話なのでどのくらいの人がこの話がわかるだろうか。私が生まれた昭和33年即ち六十年前の戌年から翌年にかけての話である。もちろん私は後で知った。
昭和33年に日本の南極越冬隊が引きあげる際に悪天候のため犬ぞりをひく樺太犬十数頭を置き去りにせざるをえなかった。日本では非難の嵐である。何とか生き延びてほしいという願いをいだき、翌年越冬隊が基地を訪れると、何と「タロ」と「ジロ」の兄弟が生きていて飼育係の隊員めざして駆け寄ってきたのである。映画『南極物語』になり、その姿に日本中が涙した。私には「二河白道」の譬喩で、み親のもとに向かう念仏者の姿に重なった。禅には「犬に仏性があるか」という公案があるが、もちろんある。犬だけではない。鳥にも馬にも。みな「同朋同行」である。
能入抄20回 見る光、感じる光 2018年2月号
・・・芭蕉の「夏炉冬扇」・・・
「イルミネート」という名のコンタクトレンズの広告が書かれた団扇はまさに「夏炉冬扇」で、同じ団扇を持っている人でもこの時期に使う人はいないだろう。「夏炉冬扇」は芭蕉の言葉で有名になった。「予が風雅は、夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて用(もちゐ)る所なし。」と芭蕉は弟子に語っている。
ただしこれをまともに受け取る人はいないだろう。一年中「風雅」のことを考え、「風雅」の宗教と言ってもいい俳諧の道を究めたのが芭蕉の人生である。芭蕉の句を知らない人はいない。しかし確かに一方で俳諧が実用的なものではないことは誰にでもわかる。句を一句得たからといってそれで口腹が満たされるわけではない。風雅の道に限らずおよそ精神的なものの道は同様の傾向がある。
・・・「enlightenment」・・・
「illumination」と「enlightenment」とが名詞として同様の意味を持つことを書いたが、私がこれまで目にしてきたところでは、「enlightenment」は「啓蒙」にとどまらず、「悟り」の意味でも使われてきたように思う。精神に光をもたらすものとして「悟り」の意味はよくわかる。悟ったからといってそれで口腹が満たされるわけではないのはやはり同じで、悟った釈尊にしても行乞するしかない。
ただし少なくとも東洋では精神的なものが実用的に役立つものではないことをわかりつつも、敬意の対象になったことは確かである。また精神的なものと光の関係を様々な形で表す文化が続いてきたと思う。「イルミネート」というコンタクトレンズの名前を見てもその伝統が活きているような気がした。会社の方ではおそらくその意識はないだろうが、浄土教の関係者だと阿弥陀仏と光の関係以外にも思い当たることがある。関係以外とは言っても、連想としてつながっていたのだろうと思うが、法然上人についての逸話である。
・・・目が光る・・・
最も権威のある法然伝である『法然上人絵伝(法然上人行状絵図)』に書かれているもので、法然上人の目から光が出ていたという話である。「眼鏡の奥で目が光る」というような慣用的な表現としての目の光は今でもよく用いるが、本当に目から光が放たれていたという話である。「上人三昧発得のゝちは、暗夜に灯燭なしといへども、眼より光をはなちて、聖教をひらき、室の内外を見給。」(『法然上人行状絵図 第八』)というもので、ちょっと想像するとすさまじい話である。
同様のことはこれより前の巻七の終わりにもあり、そこに法然の「三昧発得」のことが六十六歳の時のこととして書かれている。口で念仏を称える「口称三昧」として肉眼では見えるはずのない様々な浄土の情景が見えるようになったという奇瑞でありその奇瑞の様子が詳しく書かれている。その中にも「或時は左の眼より光をいだす。」と書かれている。
・・・法然の光、親鸞の光・・
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まさに目がイルミネートしていたわけであり、目がイルミネーションになっていたと言ってもいいだろう。そしてこれがもともとは念仏による精神的な現象として起きたのであり、法然の目の光が阿弥陀仏の光と一体の関係として見られていたはずである。法然は勢至菩薩の化身と言われていたが、この逸話では法然と阿弥陀仏と勢至菩薩が同じく光の存在として受け取られていたことが伺われる。コンタクトレンズの名に「イルミネート」という言葉を使われると、この逸話を思い起こしてしまう。浄土宗関係の人なら連想しそうな話である。光学機器メーカーの名である「キャノン」は「観音」に由来するそうなので、全くありえない話ではないかもしれない。
妻の恵信尼によって観音菩薩の化身と見なされていた親鸞はこの法然の逸話をどのように受け取っていただろう。『正信念仏偈』で親鸞は「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」(煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きこと無くして常に我を照らしたまふといへり)と言っている。法然と同じ形ではないにしても同じ光を感じていたのは確かだろう。その温もりと安らぎによって。
能入抄19回 光と精神 2018年1月号
・・・イルミネート・・・
ナショナリズムを越えるために「illumination」から「illuminationalism」や「illuminationalist」があってもいいと思うと書いたが、「illumination」は動詞の「illuminate」の名詞形である。動詞のイルミネートよりも名詞のイルミネーションの方がおそらく我々にはなじみが深いだろう。動詞の「illuminate」の意味は照らす、照明するという意味である。仮に商品名にするなら動詞を使うよりも名詞の方が落ち着きがいいように思う。ところが動詞のイルミネートの方を使った商品があって、私は毎日のように目にしていた。
それがどういう商品だったかなかなか思い出せなかった。名前からして光に関係するはずである。自分の部屋にあったはずなのだが、見当たらない。その内に見つかるだろうと思っていたが、ふと思い当たることがあって妻に聞いてみた。するとそれなら別の部屋の棚の中にしまったと言われた。その棚を開けてみると確かにあった。何かというと団扇である。夏は自分の部屋にあって毎日のように使っている。それ以外の季節はしまってある。
・・・「夏炉冬扇」・・・
まさに「夏炉冬扇」で、冬のイルミネーションと全く季節が逆になる。団扇に広告を出した会社がそこまで考えていたのかどうかわからないが、冬は自分の方から頼まなくても全国でイルミネーションという形で宣伝してもらっているようなものだ。夏には団扇で宣伝しようということだったのだろうか。
今回しげしげとその団扇を見てそれが何の広告だったかを思い出した。思い出したというのはその団扇を使い始めたときには当然見ているはずだが、自分に関係ない商品だと思って以後は意識がいかなかったのだろう。若い女性のモデルの写真を使った宣伝で、「イルミネート」というカタカナとその何倍もの大きさで「ILLUMINATE」と書かれている。ところがあるはずの肝心の商品の写真がない。ないのではなく写っているのだが、何が写っているのかわからなかったのだ。
・・・光の商品・・・
何かというとコンタクトレンズの写真である。これは写真にしたところでわからないだろう。写っている女性の写真を見ても目が大きい美しい人だということはわかるが、コンタクトレンズをしているかどうかまでわからない。自分がコンタクトレンズを使わないので初めて見たときに自分と関係ないと思ってそれ以後は意識がいかなかったのだろうとわかった。写真に写っている女性の顔はよく覚えているので棚の中に何枚かある団扇からその団扇を探すのに間違えることはなかった。
こんな形で「illuminate」と付き合っていたのだとおもしろくもあり、感心もした。ずいぶん長く使っているような気がして団扇を見ると2012年7月と印刷されている。もらってから六年以上使っていることになる。それにしてもコンタクトレンズの広告とは意外だった。確かに目は光の入り口であり、人間の体の中では最も光に関係するところである。そこで使うものに光にちなんだ言葉を使うのはわかる気がする。自分がコンタクトレンズを使わないのでこの商品名が消費者にとってどれほど印象的なのかはわからない。
・・・ライトとともに・・・
それで長年手元にあってお世話になりながら放っておいた罪滅ぼしにとも思って、あらためてイルミネートとイルミネーションについて辞典で調べてみた。動詞の「illuminate」の意味は照らす、照明するという意味なのはもちろんだが、「啓蒙する、啓発する、解明する」という精神的な意味がある。同様に名詞形にもその名詞形としての意味がある。
それを見て動詞の「enlighten」と名詞の「enlightenment」と同様の関係ではないかと思い、そちらも調べるとはたしてその通りだった。「enlighten」には「light」(ライト)が入っているので光との関係はすぐわかる。阿弥陀仏の智慧を光として表しているのも同様のことだろう。イルミネーションとルターの関係を書いたが、光と精神は切り離せないのだ。ここに浄土教の源流を見る思いがする。
能入抄3回 「change」 2016年9月号
・・・オバマ大統領広島来訪・・・
2016年5月27日夕刻、オバマ大統領が現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪れた。1945年の広島の被爆から71年目のことだった。4月に広島で外相会談があり、すでにケリー国務長官が広島を訪れており、アメリカ国内での反応を見ながら最終判断をするのだろうと言われていた。それにしても大きな決断だったことが予想できる。広島の側からすれば謝罪を求めないことが繰り返し言われ、とにかくまず広島の地を踏んでほしい、原爆慰霊碑の前に立ってほしいというのが大方の声だったろう。それによって新しい時代に踏み出すことができるのではないかという期待感があったと思う。
私にとっては1981年のローマ法王ヨハネ・パウロ二世の広島訪問以来のことのように思えた。ヨハネ・パウロ二世が慰霊碑前で発した「ヒロシマ平和アピール」は短いものではあったが、大きな反響を呼び、その文が石碑に刻まれて平和資料館の中に置かれている。その碑文は宗教の枠を超えて、世界中の人へ、あるいは世界から広島を訪れる人へ、メッセージを発し続けている。
・・・「所感」・・・
オバマ大統領は広島で「所感」を述べると言われていた。私はローマ法王ヨハネ・パウロ二世の「ヒロシマ平和アピール」のことが念頭にあったので、そのくらいの長さではないかと予想した。政治家の言葉はどこでどう揚げ足をとられるかわからない。慎重になるのは当然であり、今回のような賛否が渦巻くことが予想されるような場合はより慎重になるだろう。とすれば短い方が無難なはずだ。とにかく短くてもいいから何か心に残るものを語ってほしいと思っていた。
原爆資料館の見学の後に、原爆慰霊碑への献花、そして所感を述べるという順だったが、原爆資料館での見学時間が私の予想よりかなり短く、本当に広島で起こったことを見たのだろうかという疑念を抱かざるをえなかった。形だけの見学ではないかと思った人は多いのではなかろうか。
・・・「演説」・・・
その後の所感だったので、やはりこれは形だけのものになるのではないかと思った。しかしオバマ大統領が話し始めてしばらくして、その言葉の調子に引き込まれ、これは本気で語っているという思いにとらわれた。それなら長さはもはや問題ではないと思われた。彼は自分の言葉として語っているのだという思いがしたのである。
ところが所感のはずが、予想に反していつまでも続いた。所感どころか演説である。これだけの長さを考えるのも大変だろう。演説はオバマ大統領の肉声と同時通訳で伝えられたが、同時通訳の人は大変だったろう。所感ということで引き受けたのだろうと思う。英語に耳を傾けたり、同時通訳に耳を傾けたり、自分の語学力のなさを嘆きながら、もはや演説になった言葉を聞き続けた。
・・・「廻向」と「同朋」・・・
本気で語っているという思いから引き込まれたのだが、とりわけ心に響いたのは「change」を語った部分だった。言うまでもなくこの言葉はオバマ大統領が初めて大統領選挙に立候補した時のキャッチ・フレーズであり、キャッチ・フレーズとしてはそれほど魅力的なものではないと思う。ありふれた言葉である。しかし彼が語る時、何か違うものがあった。言葉の響きなのだろうか。
今回肉声で「change」を聞いた時、しだいに高まっていた思いが頂点に達した。私にはこの「change」が「廻向」を語っているように思えたのである。「廻向」は「如来廻向」であり、それによって我々の中に起こる方向転換を伴う大きな変化である。私は勝手にそう思い込んだのだが、翌日新聞に載った英文と日本語訳を見た。原文は「it
allows us to change.」である。私にはそれが使役的、他力的なニュアンスで語られたように思えた。そしてここに友がいると思えたのである。「四海同胞」、「同朋同行」である。「慈心不殺」を見たせいだろうか。
能入抄2回 「慈心不殺」 2016年8月号
・・・「慈心不殺」と「兵戈無用」・・・
「慈心不殺」は「慈心にして殺さず」と読み、『観無量寿経』の一節である。 浄土教の関係者が平和を訴える際に「兵戈(ひょうが)無用」と並んでよく用いられる言葉だろう。「兵戈無用」は「兵戈用ゐること無し」、あるいは「兵戈無用なり」で『無量寿経』の言葉である。軍備の廃止や核兵器の廃絶を訴えるような場合には、「兵戈無用」がよく合うだろう。現行の日本国憲法の平和主義を表す「戦争放棄」とも重なる言葉と言えるだろう。
能入抄1回 「まはさてあらん」2016年7月号
・・・五月の風邪・・・