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光と闇の環†第2章




第1部 暗黒騎士 Light in Darkness



第2章 セフィアスの末裔たち 

 

 

 アンディルの王都イシュルディアは東西を二つの大河にはさまれ、北にギレン山脈、南にシェラ湾を望む軍事的かつ商業的に恵まれた都である。 ギレン山脈の麓には光の魔導師たちの自治都市──《力ある小国》エルシニアが控え、光の王国アンディルと長年の友好関係を保っていた。さらに、アンディルの南域は エルヴェ海に突き出た半島になっており、その南端はアンディル王朝の開祖たる光の女神の息子セフィリアス一世の末子ルシェイル・サイオンを祖とするラズファルム大公領である。
 アルフォンス・ハーン・セフィリアスの御世、貿易も盛んであり、芸術を愛する君主に恵まれたアンディルは、まさに《輝ける神の地》ルキヴァラムの華であった。
 ルキヴァラム暦八九四年は賢王アルフォンス崩御の年であり、ひとつの時代が終焉を迎えた年であった。

 

 父である王太子ゼフィルスが控えの間を退出したのを見届けてから、アイリアは 急いで鏡をのぞきこんだ。鏡には、ぴったりとした黒の上衣とズボンを貴公子らしく着こなした、年齢にそぐわないちょび髭の少年が映っている。こんな珍妙な顔で人前に出ていたとは──アイリアはがっくりと肩を落としてつけ髭を外し、大きなため息を吐いた。
 立太子の礼の前に、世継ぎとしての自覚を持てとの父の命とは言え、この髭だけは妙だと思う。なのに、宮廷の貴族たちはみな見て見ぬ ふりをしている。祖父の葬儀の礼の後、続いて戴冠の儀に就く父をみな恐れているのだ。午前中いっぱい、父の謁見の見習いとして背後の椅子にじっと座らされていたアイリアは、硬くなった筋肉をほぐそうと思い切り伸びをした。
 宮廷の人々は見て見ぬふりをしているけれど、謁見を願う者は宮中の人間とは限らない。今日もはじめて自分のつけ髭を見たシルディスの商人が、一瞬なんとも言えない表情をするのをアイリアは見てしまった。『ちょび髭の王女』の話題で彼らの食卓がどれほど盛り上がるのだろうかと想像すると、ため息のひとつも吐きたくなる。
 この後は、母のシリア姫と昼食の予定だ。母のことは好きなのだがやはり気が重い。 重い気分で母の待つ王太子妃宮へ向かうと、道すがらやはりあまり会いたくない人物と出くわしてしまった。
「ごきげんよう、アイリア殿下」
「ごきげんよう、レイディ・レイラ」
 アイリアは完璧な騎士の礼をして、相手の手をとり軽く口接けた。
「凛々しい王子様ぶりですわね」
 喪服に身を包んだ豪奢な金髪の貴婦人は、アイリアを眺めて目を細めた。レイディ・レイラ──アイリアは父の愛妾であるこの女性が苦手だった。アイリアの母である王太子妃シリア姫が疎んぜられているのも理由なのだろうが、この女性が傍にいるようになってから父は変わってしまった。
「僕はこれでも可憐な王女のつもりなのですがね」
 アイリアは低めの声をつくって、少年らしく肩をすくめて見せた。
「そうしていらっしゃると、ほんの少し前まで可憐な王女様でいらしたのが信じられませんもの」
 レイディ・レイラは猫のようにくすりと笑う。
「僕だって本来の可憐な王女に戻りたいのですよ、レイディ。でもね、いろいろと気にかかることが多すぎて、王女らしく刺繍ばかりして日々を送るわけにはいかないのです」
「聡い王子様なのですね」
「聡くあるよう励んでいるのです。では、ごきげんよう。レイディ・レイラ」
 不毛な会話を終わらせるべく、アイリアは大きな歩幅でレイラの前から立ち去った。
 こういう時、男装は便利だ──でもな、これ以上『王子』が板についてしまうと、お母様が哀しむだろうな。気がついて、アイリアはまた気が重くなった。

 

 

 光の王国アンディルの王太子ゼフィルス・カーン・セフィリアスは、自らの居室に着くなり、堅苦しい喪服の襟をゆるめて息を吐いた。美貌で知られる光の女神セフィアスの末裔であるアンディル王家には美男美女が多く、ゼフィルスも例外ではなかった。真夏の陽光を思わせる豊かな蜜色の髪、高き鼻梁とすっきりと上がった大きなサファイアの瞳──アンディル創始の王セフィリアス一世を思わせる美貌の持ち主である。だが、その容貌とは裏腹に、彼がセフィアスから継いだものは僅かだった。ゼフィルスには、アイリアの《声》を聴くことさえできなかったのである。
 運ばれてきた温かい昼食には手をつけず、ゼフィルスは食前酒の青いグラスを揺らして口をつけた。ゼフィルスの居室である王太子の間は、セフィリアス一世の居室であったと言われ、白と金と青とで装飾された女神の末裔に相応しいものである。その中で、ゼフィルスの喪服の黒だけが重く沈んでいた。
「遅い」
 居室に招き入れられた女の顔を見て、ゼフィルスは剣呑に言った。
「途中で、アイリア殿下とお話してまいりましたの」
 ゼフィルスは黙ったまま青いグラスに口をつける。レイラは王太子の後ろにするりとまわり、男の首に喪服の腕をからませた。黒いレースの袖から女の白い腕がのぞく。
「聡明な王女様ですわね」
 女は耳元で囁く。グラスを置いて、ゼフィルスは女の腕を引き寄せた。
「あれは聡い。たしかに聡いが──優しすぎる娘だ」
 言って、ゼフィルスは女に口接ける。
「そう、優しすぎる──わたしは、我が傍らにあって剣となる息子が欲しいのだよ」
 それを聞いてレイラは心の裡でひっそりと呟いた。
 あの娘は、そんなあなたにそっくりな口調で話すというのに、お気づきにもならない──お可哀想なゼフィルス様。
 だが、口に出してはこう言った。
「お可哀想な、シリア様」
 それを聞いて、ゼフィルスは酷薄な笑みを浮かべた。
「そなたがそれを言うのか?」
「ひとときでも貴方が心を通わせた。それだけで許せない。わたくしはそういう女なのです」
 その言葉にひとときだけ満たされて、次代の王たる美貌の青年はふたたび女を引き寄せた。


 


 アイリアが完璧な騎士の所作で挨拶したので、シリア姫はとても哀しげな貌になった。
「だって、お母様。この格好で女性のご挨拶はおかしいでしょ?」
 アイリアはなるべく可憐な少女らしく見えるように微笑った。 今日のアイリアの衣裳は、服喪の中での謁見に相応しい姿ということで、ぴったりとした黒の上衣のボタンをきっちりとはめ、裾の窄まったズボン、裾の下にのぞく脚だけが白のタイツという、このところの定番衣裳である。
「なにより問題なのは、あなたが喜んでその格好をしているようにしか見えないことだわ、アイリア」
 さすがは母だ、とアイリアは内心慌てた。実は母との食事の際はドレスに着替えるのを許されていた。ただし、午後には剣術と乗馬の稽古が控えているので、すぐにまた少年の服装に戻らなければならない。ただでさえ短い母との時間を、面倒なドレスの着付けやかつらをつけるのに割きたくなかったというのが、アイリアの本音だ。正直、つけ髭さえなければ、少年の服装は身軽で居心地がよく、王子扱いされるのもアイリアはむしろ楽しんでいた。
「そんなことありません……わ、お母様」
 つい、少年の口調になってしまいそうなアイリアである。
「無理をすることはないのよ、アイリア」
 昼食の卵料理を優雅に口に運びながら、シリア姫は言った。
「あなたは女性でも立派な王の器です。無理に男の子の真似などしなくていいのよ」
 母は華やかに笑った。アイリアの艶やかな黒髪もエメラルドの瞳も、母から受け継いだものだ。母の故郷、ラズファルム大公家にしばしば生まれる髪と瞳の色で、初代ルシェイル・サイオン・ラズファルムの血であると言われている。
 けれど、自分は母のような貴婦人にはなれないだろう、アイリアは思った。貴婦人はみな 、言葉という武器だけで世の中を戦って行かなければならない。
 わたしは弱いから──他の武器が必要なのです、お母様。

 

 

 その夜は、なかなか寝つけなかった。
 慣れない少年の生活が続いているせいか、近頃のアイリアは床に入るとすぐに眠りにつくのが常だった。今日も陽が落ちるまで剣術の稽古に励んだせいで、身体中の筋肉がみしみしと痛いし、右腕が痺れて夕食の時にはグラスを取り落としそうになったほど疲れている。
 祖父の死をきっかけに、 自分の足許がもろいものだったと気づかされた。祖父の死を哀しむ余裕さえなく、無力な自分を鍛えた。ただ、そのことを考えたくなくて、身体を動かしていただけなのかも知れないけど。
 だから、 こんな時にお祖父様がいて下さったら──とひとたび思ってしまったら、涙があふれて止まらなくなってしまった。祖父がいない、それだけでどうしてこんなに不安なんだろう。
 あの男の子に会いたい──ふと、アイリアは思った。
 祖父の他にはじめて、アイリアの心の声が聴こえた不思議な少年ヴァン。
 魔道修行をしていないアイリアの小さな《声》が聴こえるのは、魔道を修めた者か、アイリアと同じセフィアス神の血族だけだと、王室お抱えの魔導師セドゥは教えてくれた。
 神秘的でとても綺麗な──光と闇の瞳を持った少年。
 どうして、彼にだけわたしの声が聴こえたんだろう。
 会いたい、でも──。
 アイリアはすっきりとしてしまったうなじに手をあてて、鏡の前に立ってみた。
 屋外で剣術や乗馬の稽古をしているせいか、健康そうに陽に焼けた短い髪の自分は男の子にしか見えない。
 ……この格好でヴァンに会うのは恥ずかしい。
 変なの。髪を切られた時は寂しかったし、おかしなつけ髭は嫌でたまらないけど、この格好が恥ずかしいと思ったことはなかったのに。どうしてこんなささいなことが気になるんだろう。
 アイリアはしばらく思案してから、喪服用の黒いヴェールを取りだして頭からすっぽりとかぶった。そして、ヴァンの名を呼んだ──。

 



2004.6.13
written by Mai. Shizaka
background by
Silverry moon light



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