7 第三次関門
令は──立ち尽くしていた。
赤里の姿はとうに駅舎に消えている。
ざわ……。
風が、鳴った。
一瞬ののち、金色の髪の少年が、そこに立っていた。
少年はふらりと歩いて、すぐ間近にあった街路樹にもたれかかる。そよ、との風もないのに生い茂った夏の葉がざわざわと鳴る。呼びあうように近くの樹々が鳴りはじめた。
ざわざわ。
ざわざわ。
樹々のざわめきは波紋のように隣から隣へと伝わってゆく
ざわざわ。
ざわざわ。
そして、彼はもたれかかっていた樹にすうっと溶け込むかのように──消えた。
今日だけは、学校に行きたくない。
目覚まし時計を叩きつけるように止めても、哲也はベッドから離れられずにいた。夕べはほとんど眠っていない。令の歌が、表情が、頭のなかでぐるぐると回り続けている。
サイドテーブルに、ふと目がいってしまう。そこにふたりで撮った写真と、令がくれたガラスの馬車があった。もう、枯れてしまったと思ったのに、また、涙があふれた。
写真のなかで海賊の仮装をした令が悪戯っぽく笑っている。隣にいるのは──。
もう、考えたくない。
哲也は写真を伏せて置いた。
昨日の出来事が、こんなにも遠い。
学校に着いてからも、哲也は机にばったりとはりついたまま顔を上げられずにいた。目が赤く腫れてひどい顔をしている。朝、迎えに来た朱鷺がもの言いたげな表情をしていたが、結局、無言のまま隣の教室へと別れた。
──令に、逢いたくない。
よりによってなんで隣の席なんだ。
いつも遅刻ぎりぎりにやってくるお隣さんは、まだ姿を現していない。
ああ、こんなことなら、ルナの正体なんか知らないほうがよかった。ううん、いっそ、デートなんかしなけりゃよかったんだ。思い出なんかのためにデートした自分が馬鹿だった。そのせいで、令のことも傷つけて──。
「おっはよォ、哲ちゃん」
やけに明るい声が上から降ってきた。まさか、と思いながらのろのろと顔をあげると、高見沢令がへらりと笑って自分を見下ろしている。
「あんた……」
「なーんだ、おまえ、寝不足?」
哲也の顔にびっくりしたように令が言った。
「あ……ああ」
「ダメじゃん。月曜から、そんな顔してちゃ」
「……そーゆーあんたはたっぷり寝たみたいだな」
「ったりまえだろ?」
令はそう言って笑いながら、哲也の背中をばんっと叩いた。
「いててっ、おいっ!」
哲也が文句のひとつも言おうとしたとき、担任の白井が入ってきてそのままホームルームになった。
なんなんだ、あの野郎。
哲也は怒っていた。
あれじゃあ──なんにもなかったみたいじゃないか。
ばさりと制服を脱ぎ捨てる。次の授業は体育だった。
こっちは──くそっ、ずっと泣いてたっていうのに。畜生っ、あのノーテンキ野郎ッ!
哲也は勢いよく海パンをはいた。
今日の体育は水泳だった。夏休み最後のプールだから、ひどくのんびりとしたもので、人並みに泳ぎのできるものには半分遊びのようなものである。
天気はピーカン。
昨日と同じ、青い空だ。
「うっひゃーっ、冷てーっ」
身体慣らしのシャワーを浴びて叫ぶ令の声に、つい目がいってしまう。
意外に、逞しかった。もちろん、筋骨隆々というのではないが、思いのほか、引き締まった筋肉がついている。ルナになると、かなり華奢に変わることまでは哲也は知らない。
ダメだ、ダメだ。あんなの見てちゃ。オレは男なんだから。
ぴしゃぴしゃと顔を軽くはたいて、自分も頭からシャワーをかぶった。水の冷たさにぶるんと頭を振る。
隣のプールでは女子たちが、やはり騒ぎながら冷たいシャワーを浴びている。どことなく、こちらのプールを意識した騒ぎ方に聞こえる。
うるせぇ生き物──つい、そう思ってしまう。
日頃、ほとんどの時間を男性形態で過ごしているにもかかわらず、哲也は女の子に興味を持ったことがなかった。かといって、男に興味があったわけでもない。ふたつの性を行き来しているせいで、どちらの性にも異性を感じられなかったからかもしれないし、どちらの肉体にも謎の部分がなかったせいかもしれない。
そのうえ、ヒゲもニキビも厭だったし、重たそうな胸や尻についた脂肪も大嫌いだった。もちろん、自分がそうなるのも厭だった。
できればずっと、今のすっきりとした少年のままでいたかった。
それなのに。
令に海パン姿の自分を見られるのは、なんだかとても、恥ずかしかった。
「やーっぱ、ましろ姫が一番かわいいなァ」
プールの横で準備体操をしながら、青野が隣の女子プールを眺めて言う。黙って立っていれば男くさいイケメンなのに、浅見えりかと目が合うと、ひらひらと手を振ってガキ大将のようにニッと笑った。
「……で? おめぇ、昨日は黙ってどこに行ってんだ? あやちゃんなんか、結構、お冠だぜ」
ガキ大将はそう言って、頭の両サイドに人差し指をつき立ててちょこちょこ振ってみせた。当の『あやちゃん』は目が消毒用の塩素に弱いとかで見学もせず図書室でさぼっている。透にいたっては、正真正銘サボリの有名人で今日は学校にすら来ていない。
「え……えーっと」
もちろん、令は困っている。
じじじじじじじじと蝉の音が聴こえてくる。
「うーんと、さ。ちょっとまえからすっごく長くて、いい歌ができそうでさ。散歩に出たらなんだか気持ちよくなっちゃって……」
じじじじじじじじじじじ。
「んで? ケータイも持たず、途中なんの連絡もなしで、夜中の十二時過ぎまで帰ってこなかったって?」
オレがつけた護衛までまいておいて──と心のなかでつけ加えて、青野はニヤリと笑う。
「……ごめん。でも、もう大丈夫。やっぱ、終わっちゃったから」
ちょうど逆光になって令の顔が翳った。
「次っ。高見沢!」
そこで、体育教師に呼ばれた令はプールに飛び込んだ。
「終わったァ? あーあ、あれじゃ、深く潜りすぎだ、あのバカ」
そう叫んでから「女だな」と青野は低く呟いた。
彼が言ったように、同時に飛び込んだ同級生たちに比べて、令はずっと深いところを巧みに泳いでいた。
プールの底にゆらゆらと光の模様が揺れている。外界の音がくぐもって聴こえる。潜った分だけ、日常が遠い。
──ホントに終わっちゃったんだな。
照れくさそうなポニーテール。
ワインカラーの空。湿った、潮の匂い。
しょうがないか。もう、浮上しなきゃ。
令は思い切りよく、ざばりと水面に顔を出した。とたん、心配そうにプールをのぞきこんでいた哲也と目が合う。
「あれ? 哲ちゃん?」
令が見上げると、哲也は気まずそうにうつむいた。
ピーッと笛が鳴る。
「高見沢、誰が潜水をやれと言った。クロールだ、クロール! もう一度、やりなおしっ!」
教師が叫ぶ。
「あっ、はい。あれ? 哲ちゃん?」
いつのまにか、哲也はプールサイドに消えていた。
ざわざわ、とフェンスの向こうで樹々が揺れた。
「あなたにひとこと言っておきたいことがあるんですがね」
学校から帰るなり、令は綾瀬の説教をくらうはめになった。令と綾瀬は共有スペースのリビングのソファにテーブルを隔てて座っていた。
綾瀬は今朝からずっと不機嫌だ。というより、このところずっと不機嫌だったのが、今日になって静かに爆発しているといったほうが正しいのかもしれない。令は今日はじめてこの口の悪い友人から声をかけてもらったことになる。
「昨日は一日中どこに行ってたんです? 朝、なにも言わずにふらりと出かけたと思ったら、夜中の十二時過ぎても帰ってこない。途中、電話の一本も寄越さない。携帯の電源は切られていてつながらない。こういうのをなんていうか知ってますか?」
令はふるふると頭を振った。
「鉄砲玉というんです。一度、発砲してしまえば戻ってきませんからね。いいですか、別に一緒に住んでいるからといって、どこに出かけようがあなたの勝手ですが、同居人には行き先と帰宅時間くらい告げてから出かけるのが礼儀というものじゃないですか?」
綾瀬は静かに一息に言って紅茶を口にした。
なんとなく、嫁入り前の若い娘に説教をたれる親の台詞のようである。
「……ごめん」
令としては、事情を打ち明けるわけにもいかず、ただ謝るしかない。
「こんなことばかり続くようなら、ルナのマネージャーは降りますからね」
「えっ?」
令は心底驚いて、目を瞬かせた。
「高城……さん?」
令はなんともいえない頼りなげな表情をして、相手のマネージャーとしての名を呼んだ。綾瀬はぴくりと眉を片方つり上げる。
ひどく、怒っている。令はこんなに機嫌の悪い綾瀬を見るのははじめてだった。
「まあ、いい。それより、これを見るんだな」
あれ……? 口調が変わった?
綾瀬がリモコンを操作する。ワイドスクリーンのプラズマテレビがぱっとついた。
「本当は昨日、こういったことを打ち合わせたかったんだけどね」
スクリーンのなかでぴっちりとした衣装の美女が数人、近未来SF風の街で踊っている。ちょっと古い映画の『ブレードランナー』っぽい画かもしれない。鈍色の、メタルだ。ノリのいい曲がバックに流れている。彼女たちは妖しい笑みを浮かべながら、螺旋階段を降りてくる長身の男を迎えた。それは──。
「黄河?」
令は叫んだ。黄河は真っ赤な襦袢のうえに黒の絽をさらりと羽織り、メタリックな女のひとりを抱き寄せながら歌いはじめる。
「うわーっ。黄河ってば、すっげーっ。英語で歌ってる! かーっこいい!」
「あたりまえだろう? 奴はアメリカでデビューしたんだ。これは昨日、全米に大々的に流れた奴のプロモーションフィルムだ」
「へっ?」
「やられたな。あれはやることが一枚上手(うわて)だ。日本で負けてみせておいて、こんな僅かの期間でアメリカで本格デビューとはね。行方をくらまし、油断させておいて、これ以上はないって手を打ってくる」
あの男らしい……。綾瀬は低く呟いてから、スクリーンを消した。
「あなたが井の中の蛙をやってるうちに、ライバルは世界的アーティストになってしまうかもしれないねぇ。ルナちゃん」
今日の綾瀬はいちいち意地悪だ。
「まあ、それはともかく。我々、オーディンプロとしても、この夏休みはルナをフル回転でこき使ってやろうと思っていたんだが、どうやらそういうわけにもいかなくなった」
「なんで?」
令は首をかしげてからポンと手を打った。
「ああ、そっか。夏休みは宿題がたくさんあるから」
「……誰が宿題の心配をしてるんだ? この天然ボケ!」
青野ならともかく、綾瀬からこんなふうに直截的に罵られたことはなかった。彼の罵倒はいつもはもっと洒落ている。
「……あの、さ。綾瀬?」
なんだか、変だ。ひどく、苛ついている。
「たぶん、あなたはきれいさっぱり忘れているだろうが、大老の第三次関門が夏休み中に行われるらしい」
「第三次、関門……?」
たしかに、すっきり、きっぱり忘れていた。
そういえば、五月に行われた黄神一族の後継者による相続争いは、第二次関門で中断されたまま……だったような気がする。
「あれ、やっぱ、やんないとマズいわけ?」
令は不服そうに口をとがらせた。
どちらにせよ、令はアパート住まいの地方公務員の一人息子で、争う相手も財産もまったくない。強いてあげれば、令にあるのは黄神一族の〈中央本家〉という、いまだ本人には実体がよくつかめていない謎の称号だけである。
「今、〈中央本家〉はひとりじゃない」
ふいに紡がれた綾瀬の言葉に、令はハッとした。さっきのプロモーションフィルム。黄河──世界でおそらくただふたりきり、令とともに黄金色のオーラを持つ男。彼には〈中央本家〉を名乗る資格がある。
「黄河を大老の敵対勢力と判断したのは、ぼくのミスだ」
「……えっ?」
「大老自身があなたを見出し、世界に披露したことで高もくくっていたし……」
大老の愛孫、黒川も令の味方についたようだと楽観視していた。
なにより、歌手『ルナティック・ゴールド』という素材が面白くて、そちらに気が回らなかったのが一番の原因かと思うと、自分の迂闊さに腹が立ってくる。
「黄河の派手なデビューと第三次関門の噂が同時期なのは偶然じゃない。大老はあなたと黄河を正面から競わせる肚だろう。どちらが〈中央本家〉として相応しいか。第三次はあなたと黄河を競わせるための仕掛けだ。ルナティック・ゴールド、逃げられるわけがない」
その時、しんとした室内にテレポートの気配がした。帰ってきたのは海棠の御曹司である。
「あー、しんどォ」
「成果は?」
すかさず、綾瀬が訊いた。
「ダーメ。ぜんぜんダメ」
「〈海棠〉の名も地におちたな」
「おめぇの情報網だって、アテになんねーじゃんかよ」
言いながら、青野は隅に置かれた大きな冷蔵庫からコーラのペットボトルを取り出すと、ごくごくと一気に飲み干した。
「ああ、うめぇ」
「なんの話だよ」
話がまったく見えない令がぷくっとふくれた。
「第三次の話は聞いたか、ルナちゃん? あれの内容を探ってたんだ。二次までは、ほとんど情報筒抜けだったのによ。今回は完璧にシャットアウトだ。オレ自ら出向いても、皆目わからねぇ」
青野はテレポートして情報収集にあたっていたらしい。ネットワークを駆使した、いわゆるデスクワーク専門の綾瀬とは正反対のタイプである。あえて、そういう役割を選んだのかもしれないが。
青野はもう一本コーラのボトルを取り出し、ごくごくと喉を鳴らして飲みはじめた。綾瀬がさも厭そうにそれを見た。
黄河のデビューシングル『LUNATIC』は新人としては異例のスピードで全米ヒットチャートに躍り出た。
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