すのものの「いろいろ」(その247)

きょうの補筆箇所

2011-02-09 (3) 01:50:52 +0900

「旧暦では秋分の日の日付はどうなるの?」という質問はこないのだろうか?

前項に関連して思いついたもの。 答えは 「8月1日から8月末日までの間を動く。どの日になるかはほぼ等確率」 となる。

だから、旧暦と季節の対応は1カ月の範囲を動くのだ。 現行暦では3〜4日なのに対して。

2011-02-09 (3) 01:41:55 +0900

朝日新聞>秋分の日の日付が変わる理由を正しく伝えていない。情けない。

8日火曜日づけ大阪本社版第二面、 「ニュースがわからん!」は「来年の秋分の日、なぜ9月22日なの?」。 回答のつもりでつけたと思われる見出しに 「地球の公転と暦を合わせるため。116年ぶりだ」 とあるが、これは全く反対。 「現行暦の置潤法(うるう年の置き方)の限界。 季節と暦を完全に合わせることよりも、 ある年がうるう年かどうかの判定法が簡単になるようにしているため」 と答えるべきであろう。 このままずっと日付がずれ続けるのではとの心配に対しては、 現行暦では、 二十四節気の日付は400年単位で見ると3〜4日の間を動くが、 400年後にはほぼ元に戻る と説明を追加すればよいだろう。 《グレゴリウス暦が完全だとすると、二十四節気の日付は3〜4日の範囲を動く》 参照。

来年は秋分の日が変わるんだって?》との質問に、 《116年ぶりに9月22日になるんだ》と答えているが、 “変わる”、というか“ずれる”のはカレンダーのほうであって、 秋分の日時は規則的にめぐってくる(はず)。 第一面の「朝日新聞」の題字下の記事のサマリーには 《秋分の日 なぜ動くの?》との見出しがついているが、これも同様。

 それで、秋分の日はなぜ日付が動くの。

 カレンダーは通常1年365日だけど、 地球が太陽を1周するのは365日と6時間弱かかる。 1年で約6時間ずつ遅れるわけだから、 4年に1回のうるう年で調整する。 だけど、うるう年では、 ずれを完全に修正できない。 30年以上、23日だったけど、 それ以前は24日の年もけっこうあった。

ユリウス暦と同じうるう年の入れ方をしていれば、 日付がずれてくるのは当たり前。 記事中に、2100 年をうるう年でなくすることによって、 日付は一日戻る、ということが書いてない。 また、上の引用部分中の 《うるう年では、ずれを完全に修正できない》は 「4年に1回のうるう年では」の意味であって、 「うるう年というものでは、ずれを完全に修正できない」 と解釈すると正しくない。 秋分の日が毎年同じ日付になるようにうるう年をおくことも可能である。 (記事にあるように、秋分の日の日付は 《国立天文台が計算し、前年の2月1日付で正式に発表している》 が、同様に、うるう年かどうかを、天文台が前年に発表すればよい。)

『「秋分の日」の変遷(国立天文台調べ)』と題された表も載っているが、 「1896 年」に《22日(直近)》とあるが、 次は 「1897 年〜1978年」が一まとめで 《23日と24日を行き来》となっている。 これを書いた記者、校閲した人は、 グレゴリウス暦のうるう年の置き方を知らないのではあるまいか。 1900 年が例外的にうるう年でなかったことを知っていれば、 このまとめ方にはならないと思う。

桜井林太郎》と署名あり。

付) 固有名詞はなるべく原語の音に近く書く、 という方針から「グレゴリウス暦」と私は書いているが、 普通には「グレゴリオ暦」と呼ばれるもののことである。

付) 《グレゴリウス暦が完全だとすると、二十四節気の日付は3〜4日の範囲を動く》 は、「2399」を vista のエクスプローラに検索させて、見つけた。 われながら、よく、この数字列で検索することを思いついたものだ。

付) 実は知らないのだが、記事中の 《秋分の日は、夏至と冬至の中間で、 太陽の光が地軸にちょうど垂直にあたる瞬間を含む日なんだ》 という定義は正しいのだろうか? 私は、 太陽黄経なるものが何だかをしらないまま、 秋分とは太陽黄経が 180° になる瞬間、と理解している。

付) もしも私が短く説明するとしたら、 「秋分とは、およそ 365.2422 日ごとにくる、 天文学で観測されるべき『瞬間』であり、 それを含む日を秋分の日と決めているから」だろうか。

2011-02-09 (3) 01:00:08 +0900

「校訂」と書いていたのを「校閲」に改めた。

2011-02-11 (5) 00:05:27 +0900

クローンの攻撃>一対一を越える宇宙戦がないのは全六作中、この作品だけ?

ほかの五本には、多対多、または一対多の宇宙戦がある。

2011-02-09 (3) 00:11:00 +0900

ジェダイの復讐>帝国軍はなぜエンドアを焼き払わなかった?

焼き払う以外の方法でもよいが、 基地をおく前に、 帝国軍の妨げになる生き物は皆殺しにしそうな気がする。

2011-02-09 (3) 00:00:13 +0900

ジェダイの復讐>皇帝とベイダーはなぜフォースで会話しない?

声に出すと、ほかの者に聞かれるであろう。 III ではあれだけ離れていても声を伝えられたのだから。

ベイダーとルークもそう。

2011-02-08 (2) 23:57:20 +0900

ジェダイの復讐>CGで、新デス・スターがエンドアを回る向きが逆になる

最初にうつるときは上から見て反時計回り。 しかし、次からは、時計回り。

2011-02-08 (2) 23:55:26 +0900

これは私の見間違いのようだ。 作戦会議でのCD上では、 新デス・スターはエンドアの静止衛星として描かれている。 新デス・スターがエンドアの向こう側にあるように見えるのでそう思ってしまったが、 実際には手前にあるのだ。手前にあるか向こう側にあるか、 あのCGでは区別がつきにくいことに注意。 話すのがアクバー提督に代わったあとのCGをよく見ること。

2011-03-30 (3) 20:04:15 +0900

ジェダイの復讐>新デス・スターはなぜいつも同じ面を見せている?

ほとんど同じ面しかうつらないが、 ベイダーがルークたちの乗ったシャトルを通すかどうか考えるところでは、 少し下からうつしているようにも見える。

反乱軍の間で作戦を説明するところのCGでは裏が透けて見えるし、回転する。 どこがどれだけ未完成かはわかっていたのであろう。 反乱軍は、 裏の未完成の部分から突入した方が早く中心に達することができるのでは、 と思って、全編を早送りもまじえつつ見てみたのだった。 ただし、CGでは、突入口は完成した部分にしかないように見える。

2011-02-08 (2) 23:53:14 +0900

新たなる希望>最後の宇宙戦で、死んだはずの Red Six が返事をする?

テレビ放送で初めて見たときから気になっていたこと。 Red Six (Porkins) は戦闘の初めのうちに撃墜されるが、 その後、ルークが被弾したとき、 ルークが無事かどうか、誰かが Red Six に無線で尋ね、 それに対し誰かが答えるところがある。 Red Six でないほかの誰かが答えたと考えればよいのだが。

2011-02-05 (6) 00:05:11 +0900

新たなる希望>最後の表彰式では、人の少なさをカメラのアングルでカバー

表彰式冒頭の、 ルーク、ハン・ソロ、チューバッカが式場にはいってゆくシーンでは、 両わきの人物は絵であることが、オリジナル版でははっきりとわかる。 そのあとは、通路を歩く三人を、 同じ高さから写すことで、 両側に並んでいる人たちの少なさが見えないようにしている。 両方の側に3列ずつぐらいしか並んでいないのでは、とわかるところもある。 舞台の上からうつすときはカメラを下に向け、 会場の一番後ろまではうつらないようにしている。 その代わり、両方の側に8列ずつぐらい並んでいるように見えるので、 後ろのほうには人はいなかったのでは、と考えられる。

付) 何度も見ていて気づいたが、あの並び方では、 最前列の端の人は、舞台がほとんど見えないはずだ。

付) DVD の「音声・字幕メニュー」 の背景の一つは三人が式場にはいってゆくところを後ろからうつしたものだが、 本編とは異なり、カメラが上から下へと移動する。 CGということか。

2011-02-04 (5) 20:52:09 +0900

新たなる希望>帝国軍はどうやってファルコン号の昇降口を降ろしたのか?

デススターの中で。 あれが可能なら、冒頭のオルデラーンの外交船も、 同様に外からドアを開けることができたのでは?

2011-02-04 (5) 20:45:17 +0900

新たなる希望>オビ=ワンはフォースで生命反応を消していたのか?

二体のドロイドが乗った脱出用ポッドが発射された直後、 帝国軍兵士(?)が「生命反応がないからほうっておけ」と言う。 あんな簡単に、生命反応の有無がわかるなら、 ミレニアムファルコンをとらえたデススターは、当然、生命反応を調べるだろう。 誰もいないと判定されたように見えるが、 それはオビ=ワンがフォースで生命反応を消していたのではあるまいか。 だから、機械に生命反応は感知されなかったが、 代わりにベイダーにフォースを察知された、 と考えるとつじつまが合う。

タトゥイーンの酒場でオビ=ワンたちが帝国軍兵士に見つかるが、 近づいてみるとハン・ソロとチューバッカしかいない、というシーンがある。 あれは、実はまだそこにいて、フォースで兵士の目をあざむいたのだ、 という説があるが、それと似ているか。

2011-02-04 (5) 20:29:56 +0900

球面のオイラー標数が2であることの証明と、多角形が対角線で切れること

小学生のころ、岩波の「科学の事典第二版」で読んだのは次のようなものである。 一つの面をはずして中をのぞきこむ。 三角形でない面があったら、対角線を加えて三角形と他方に分ける。 この作業で面と辺の数が1ずつ増えるので、 「面の数−辺の数+頂点の数」は変わらない。 こうやって、すべてを三角形にしてしまう。 次に、外周から三角形を減らしてゆく。 外周に一辺だけがある三角形を取り除くと、面と辺が一つずつ減る。 外周に二辺がある三角形を取り除くと、面と点が一つずつ減り、辺は二つ減る。 よって、「面の数−辺の数+頂点の数」は変わらない。 最後には三角形が一つ残り、 面の数−辺の数+頂点の数=2−3+3=2となる。

面として出てくる多角形が凸でない場合、 対角線がその内部に存在することは自明ではない、と最近知った。 が、数週間後、 この定理の証明にあたってはまっすぐな対角線でなくてもよいので、 問題ないと気づいたのだった。

2011-02-03 (4) 20:16:51 +0900

オイラーの一筆書きに関する定理の証明

同僚から、オイラーの一筆書きに関するあの有名な定理の、 ある本に載っている証明があっているかどうかを尋ねられて、 小学生であの定理を知ったときには、 いま思うと必要条件であることしか確かめていなかった、 と気がついた。 そこで、その証明を読む前に、自分で考えてみようと思いたった。

一次元グラフとは、有限個の頂点と辺からなる図形で、 辺の両端は頂点であり、頂点は辺の両端にのみ現れ、 辺と辺との共通部分は(あるとしたら)その端点である頂点であるもの、と定義する。 ある頂点が偶数頂点(resp. 奇数頂点)であるとは、 その頂点から出ている辺の数が偶数(resp. 奇数)であることをいう。 ただし、ある辺の両端がその頂点である場合、 その辺は二重に数える。

辺には両端があることから少し考えると、 奇数頂点が奇数個ということはありえないとすぐわかる。

オイラーの一筆書き定理は、 連結な一次元グラフが一筆書きできる条件は奇数頂点が高々二個であることである、 というものだ。 さらに、奇数頂点がないなら、 任意の頂点から出発してその頂点に戻るひと筆書きが存在すること、 奇数頂点が二個なら、そのどちらかから出発して他方で終わること、 も付け加えたものをここでは証明する。 (自明なことだが、二個の場合、逆にたどることにより、 どちらの奇数頂点から出発することもできる。)

この定理の内容のうち、この条件が必要条件であることはすぐわかる。 十分条件であることを、辺の数に関する帰納法で証明する。

辺が一つの場合、両端が同じ頂点であってもなくても、定理は成立する。

辺が二つ以上の場合を考える。

1. 奇数頂点がない場合、任意の辺を選び、それを取り除く。 i) その両端が違う頂点なら、 それらの端点は奇数頂点に変わるから、 取り除いた後のグラフは連結なままである。 よって、数学的帰納法の仮定により、 一方の頂点を出発して他方に到着する一筆書きが存在する。 そのあとにその辺を渡ればよい。 ii) その両端が同じ頂点なら、 取り除いたあとのグラフは奇数頂点を持たないし、 連結なままである。 数学的帰納法の仮定から、 その頂点から出発してその頂点に到着する一筆書きが存在する。 そのあとにその辺を渡ればよい。

2. 奇数頂点が二つある場合。 i) どちらの奇数頂点から出る辺ももうひとつの奇数頂点につながっている場合、 その辺を取り除くとグラフは二つに分かれるかもしれない。 分かれるなら、両者とも偶数頂点しか持たないグラフであるから、 その辺の端点から片方を回り、次にその辺を渡り、それから他方を回ればよい。 分かれないなら、偶数頂点しか持たないグラフになるので、 片方の端点から出発してその点に戻り、最後にその辺を渡ればよい。 ii) 片方の奇数頂点 P から出て偶数頂点 Q に至る辺がある場合、 その辺を取り除くと、P が偶数頂点に、Q が奇数頂点に変わる。 もうひとつの奇数頂点を R とする。 取り除いた結果、グラフが二つに分かれるかもしれない。 分かれるなら、R は Q を含む側にあるので、 Q と R を含むほうの中で R を出発して Q に到達し、 その辺を渡り、それから他方を、P を始終点として回ればよい。 分かれないなら、R を出発して Q に到着し、 それからその辺を渡ればよい。

これでいいのかな?

2011-02-03 (4) 19:54:20 +0900

「必要条件」と「十分条件」を逆に書いていたので訂正した。 恥ずかしいことに、よく間違える。少し考えればわかるのだが。 心配なときは、中学校で習ったように、 「P => Q」と書いて、方位磁石が N を指すように、 「ならば」の矢印が指しているほうが Necessary condition, として判断するようにしている。 (N 極と対になるのは S 極だが、 Necessary condition と対になるのは Sufficient condition で、こちらも頭文字が一致している。)

2011-02-09 (3) 00:13:16 +0900

大相撲>八百長で双方が有利になるような給与体系に問題があるのでは

大相撲の八百長問題は、 まだ調査中のようだが、 いろいろなニュースを見て考えたことを。

幕下までは無給だが、十両にあがると、 私から見たらかなりの、高額の給料がもらえるそうだ。 給与は地位で決まるのであって、その場所が何勝何敗で終わったかは関係ない。 すると、 「ここは一番負けても、自分も相手もいまの地位を保てるほうがよい」 と考える力士が出てきても不思議はない。 そうでないような給与体系を考えている人は、 相撲界の中でも外でもいいが、いないのだろうか。

2011-02-03 (4) 19:44:44 +0900

きょうの補筆箇所

2011-02-03 (4) 00:40:34 +0900

朝日新聞>「数学と気配り 裏方の妙を楽しむ」とあるが、数学はどこに?

1月25日火曜日づけ大阪本社版の「Do! 凄腕つとめにん」は、 イケア港北店 インストアロジスティクスマネジャーの齊藤園子さん。 タイトル行に引用したのが見出しだが、本文を読んでも「数学」は出てこない。 《付いたあだ名は「数字の人」》、 《「数字の人」の社会人としての振り出しは》、 《目下こだわる数字は》 の三カ所だけが「数」に関連するか。

2011-02-02 (3) 23:54:48 +0900

葬り方を変えることで国民の死生観を変えようという考えには賛成できない

本文ナシ

2011-02-02 (3) 01:24:00 +0900

しっかりした死生観を持っていれば、葬り方でそれが揺らぐことはないはず

朝日新聞>山折哲雄氏の「土葬復活論」は根拠が全くわからない》 で取り上げた山折哲雄氏の記事のタイトルが 「土葬を復活して新たな死生観築け」であるのを見て。

2011-02-02 (3) 01:12:32 +0900

何かの方法で遺体を細かくし、原型がわからないようにして動物に与えたら?

鳥葬は、最も自然に近い葬り方だと思うが、 遺体を切り分け、原型をとどめたまま鳥に食べさせるらしく、 ちょっと気持ちが悪い。 何らかの方法で遺体を細かくし、 原型がわからないようにしてから動物に与える、 ということはできないのであろうか? 細かく切り刻むのには抵抗感もあろうが、 火で焼き尽くすことと比べれば。

2011-02-02 (3) 00:52:21 +0900

人は死後、必ず無縁仏になるか?

前項でとりあげた投書は、こう終わっている。 《私の理想は、 この墓に墓石の代わりに木を1本植えることです。 木は成長し、故人の新たな息吹が復活するのです。 故人をしのんで花見もできますし、 緑化運動にもなります。 木が枯れるころ、いい案配に無縁仏になっているのです》。

「木が枯れるころ」をどのくらいの年月と考えるかにもよるが、 ある年月が経つと、すべての故人は無縁仏になる、とは言えないだろう。 将来のある時点で、生きている人を一人選んだとしよう。 その人をAさんとする。 その人の父親の父親の父親の父親の……の父親、 Bさんは必ず実在した人物である。 だから、うまく墓を相続している限り、 Bさんの墓をAさんか、あるいは別の子孫が維持している、 と考えられるのではあるまいか。 まずそう考えてみた。

現在の日本でよくみられる、長男が両親の持っていた墓を継ぐ、 という伝統に従うと仮定してみると、 長男の長男の長男の……が続く限り、無縁仏にはならない。 また、長男に男子が生まれなくても、次男が継ぎ、その子が継ぐこともある。 だから、 無縁になるには、ある世代から男子が一人しか生まれなくなり、 数代たって、 親戚づきあいをしている人がいなくなったところで子が途絶える必要があろう。 必ずそうなる、と言えるならこの人の言うことは正しい。

人間の遺伝子が、そのようにできていないとは言い切れないが。

現在、無縁仏になる墓が目立つことだけから、 いまにすべてが無縁仏になるとは言えない。念のため。

2011-02-02 (3) 00:38:18 +0900

木は成長し、故人の新たな息吹が復活するのです》 とあるが、育たずに枯れてしまったらどうするのだろう?

2011-02-03 (4) 00:32:38 +0900

日本が出す温室効果ガスのうち、火葬が出すのはどのくらいの割合?

1月22日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版オピニオン面「声」 への、堺市南区の医師、平林邦昭さんの投書「土葬復活を 植樹して緑化も」。

日本人の死生観にかかわる問題提起の中で、 私が最も注目したのが温室効果ガスの問題です。 重油を燃料に使う火葬によって国内で1年間に発生する温室効果ガスの排出量は約20万トンだそうです。 確かに、最近の火葬場では強力な火力が使われていることが、 焼けた骨で分かります。

しかし、この「約20万トン」という量が、 一年間に国内で発生する温室効果ガスの総量と比べて、 ごくわずかなものであるなら、 問題にならないのではあるまいか。

この比率の正確な数値はわからないが、推測してみよう。 私の死後、私の遺体が火葬される際に発生するガスを、 私が一生の間に発生させたガスの量と比較してみる。 毎日出す「燃やすごみ」の出すガスの量と比較しただけでも、 そちらのほうがケタ違いに大きいと思う。

別の推測として、 ある日に、 日本中の火葬場が出すガスの量は、 日本中で出るガスの量のどれだけを占めるか。 火葬場と工場の数を比べても、 非常に小さな部分を占めるにすぎないと思う。

新型の炉の火力は強いが、一方で、 火葬にかかる時間は短くなっていることも考慮する必要があろう。

付) 《この「いろいろ」で、一般人の投書を取り上げる場合にも投書者名を書く理由》 はこのリンク先を参照されたい。

付) この投書は 《朝日新聞>山折哲雄氏の「土葬復活論」は根拠が全くわからない》 で取り上げた、山折哲雄氏の問題提起にこたえてのものである。 そこには、こうあった。

「これも論議を呼ぶための一つの問題提起ですが、 資源や環境の面から土葬を考えてみれば、 どうでしょうか。 電力会社の知人に試算してもらったことがあります。 日本で火葬は重油を燃料に行われていますが、 1年間に火葬で発生する温室効果ガスの排出量は推計約20万トンで、 8〜10畳用のエアコンの年間排出量に換算すると約720万台分になるそうです。 その量を森林の吸収効果でまかなうには東京23区の2倍の面積が必要らしい。 化石燃料にも限りがあります。 その意味では、土葬の本格復活を国策にしてもいいでしょう」

なぜ、試算してもらった際に、 日本全体のガス排出量の何%にあたるかを聞かなかったのだろうか?  サマータイム賛成論も、 節約できるエネルギーを何世帯分の何々のようには言うが、 全体の何%とは言わないことが多かった。

2011-02-02 (3) 00:19:13 +0900

Wikipedia で「温室効果ガス」を見たところ、 2007 年度の日本は《二酸化炭素に換算して13億7400万トン》とあった。 20万トン÷13億7400万トンは 0.0145... % だ。 一年を 365.25 日とし、そのうちの一時間が占める割合が 1/(365.25*24) = 0.0114... % で、これに近い。

2011-02-03 (4) 00:25:01 +0900

「燃え尽き」と「燃え尽き症候群」とを混同していた

1月26日水曜日放送分のNHKラジオ「実践ビジネス英語」に burnout という語が登場し、テキストでも解説されている。 それを見ると、英語の burnout には日本語の「燃え尽き」がもつ、 「ある時期はりきりすぎて」というニュアンスはない。 と思ったのだが、広辞苑第六版を見たら、 それは「燃え尽き症候群」で、英語では burnout syndrome という。 私が「燃え尽き」と「燃え尽き症候群」を混同していた、というだけのことだった。

2011-02-01 (2) 23:18:29 +0900

「雪のため、駅や線路の上で列車が止まり」って何か変じゃないか?

駅に止まっているときでも、線路の上なんだから。 NHKラジオのニュースなどで聞いた言い方。

2011-02-01 (2) 22:58:38 +0900

NHKラジオ「実践ビジネス英語」>「トライ&エラー」だと思い込んでいた

前項に取り上げた回のビニエットに、 trial and error という言い方が出てきた。 「試行錯誤」という意味だが、それは try and error だと、ずっと思い込んでいた。

「トライアンドエラー」が和製英語なのかと思い、 広辞苑第六版で「トライ」を検索してみたところ、 「トライアルアンドエラー」だけが載っていた。 私はずっとカン違いして思い込んでいたのだ。

2011-01-31 (1) 20:49:50 +0900

NHKラジオ「実践ビジネス英語」>「A イコール B」は「A is B」と訳す?

26日水曜日放送分のビニエットに 「"my-work-is-my-life-and-vice-versa"」 なる、ちょっとユーモラスな形容詞が登場している。 これは、my work と my life が同じものだ、と言っているわけだが、 テキストの訳文では 「仕事イコール生活、生活イコール仕事」 となっている。

A = B は B = A をも意味するので、 「仕事イコール生活」と言えば「生活イコール仕事」は本来いらない。 だから、日本語の日常語としての「A イコール B」は 「A は B だ」と言っているだけなのだ、とわかる。

2011-01-31 (1) 20:21:43 +0900

英語に「原初のオーラ」、ur-aura なる語はあるか? 「裏裏」と同じつづり

Phinloda の裏の裏」 の URL には uraura が含まれるが、「オーラ」の原語は英語の aura なので、 「原初のオーラ」という語があれば ur-aura, すなわち uraura なのであった。

英語に ur- なる接頭辞があるかどうかはわからなかったが、 独語に Aura という単語(意味は英語とほぼ同じ)があることはわかったから、 独語に、というべきかも。 (独語には Ur- という接頭辞がある。)

2011-01-31 (1) 20:08:58 +0900

きょうの補筆箇所

2011-01-30 (0) 03:12:50 +0900

朝日新聞>迷路のパズルで、ほかに解がないことはどうやって示す?

22日土曜日づけ大阪本社版 be on Saturday の e7 面、 be パズルは迷路だ。

        ★−+−+−★−+−−+
S−−−★−+−+ | |   |  |
|   | |   | | +−+  |
|   | |  ++ | |   ++
|  ++−+−−+  +−★−+−+
|  |        |   | |
|  ★−− ☆−+  | +−★ |
|  |   | |  | |   ★
|+−+   | |  | +−+ |
||     | |  |   | |
+★−−★−−+ +−−★−+ +−+
 |  |  |      | | |
++  |  +−−−−−−+ | |
|   |  |        | |
★−−−★−−★+       | |
|       +−−★−−−−+ |
|          |      |
+−−−−−−−★−−+−−−−−−G
左上のSからスタートし、 右下のGまで水道管を通って行きましょう。 ただし、16カ所ある水漏れのところを、 全部通らなければいけません。同じところを2回以上通るのは禁止です。 矢印のところの水漏れは何番目に通ったでしょう?

(ここでは一般の水漏れは「★」印で、矢印のところの水漏れは「☆」で示した。)

ゴールからスタートすると、比較的容易に、スタートにゴールできる。

        ★−++−★−+−−+
S−−−★−+−+ | |   |  
|   | |   | | +−+  
|   | |  ++ | |   ++
|  ++−+−−+  +−★−+
|          |   | |
|  −− ☆−+  | +−★ |
|  |   | |  | |   ★+−+   | |  | +−+ ||     | |  |   | |★−−★−−+ +−−★−+ +
 |  |  |      | | |
++  |  +−−−−−−+ |  |
|   |  |        |  |
★−−−★−−★+       |  |
       +−−★−−−−+  |
|          |      |
+−−−−−−−★−−+−−−−−−G
答えは6番目である。 (22日づけ紙面の答えで確認ずみ。)

問題は、これがただ一つの解であることを示すことだ。 もしも、下の図の赤い部分を通るとしたら、 灰色の部分は通れなくなる。

        ★−+−+−★−+−−+
S−−−★−+−+ | |   |  |
   | |   | | +−+  |
   | |  ++ | |   ++
  ++−+−−+  +−★−+−+
  |        |   | |
  ★−− ☆−+  | +−★ |
  |   | |  | |   ★
+−+   | |  | +−+ |
|     | |  |   | |
+★−−★−−+ +−−★−+ +−+
 |  |  |      | | |
++  |  +−−−−−−+ | |
|   |  |        | |
★−−−★−−★+       | |
|       +−−★−−−−+ |
|          |      |
+−−−−−−−★−−+−−−−−−G
これでは解がないことが、すぐには示せないが、こうやって示してゆくのだろうか。

あるいは、交差点でどちらに曲がるかで樹形図を書き、 だめなものを消してゆく。 これは作業量が多いが、必ず答えが出るはずだ。

それとも、肝心な赤線のの部分を取り除いてみると、
        ★−+=+−★−+−−+
S−−−★−+−+ | |   |  |
|   | |   | | +−+  |
|   | |  ++ | |   ++
|  ++−+−−+  +−★−+−+
|  |        |   | |
|  ★−− ☆−+  | +−★ |
|  |   | |  | |   ★
|+−+   | |  | +−+ |
||     | |  |   | |
+★−−★−−+ +−−★−+ +−+
 |  |  |      | | |
++  |  +−−=−−−+ | |
|   |  |        | |
★−−−★−−★+       | |
|       +−=★−−−−+ |
|          |      |
+−−−−−−−★−=+−−−−−−G
残りの左右は、「=」で示した四つのみでつながっている。 「=」のうちの三つを通るのが不可能であること、 一つを通るとしたら一番下であること、を示すのだろうか。

2011-01-30 (0) 02:11:01 +0900

勝間和代>《自分の資質に目を向けて仕事を選ぼう

22日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b9 面、「勝間和代の人生を変える『法則』」。 今回の法則は 《自分の資質に目を向けて仕事を選ぼう --- ジョブマッチングの4要素》 である。 タイトル行では字数の関係で後半を省略した。

内容は、次の段落で要約される、シンプルなもの。

ジョブマッチングとは、 優れた人材と、そうではない人材の違いは、 努力するかどうかよりも、 その人の資質と仕事が求めるものが一致するかどうかで決まる、 ということです。

勝間和代>「アイデアは心に届かなければ意味がない --- SUCCES(S)の法則》 の次の週であり、その項目を書いた日の掲載であったため、 つい、その SUCCES(S) の法則で考えてみた。 それらを再引用しよう。

その六つとは (1)単純明快(Simple) (2)意外性がある(Unexpected) (3)具体的(Concrete) (4)信頼性がある(Credible) (5)感情に訴える(Emotional) (6)物語性がある(Story) ――です。

このうち、(1) の単純明快には当てはまるが、 意外性はないし、具体的ではないし、感情に訴えることも物語性も薄いように思う。

2011-01-30 (0) 01:41:50 +0900

勝間和代>《候補者や政党の数は定数+1で収束する

29日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b9 面、 「勝間和代の人生を変える『法則』」。今回の法則は 《候補者や政党の数は定数+1で収束する --- デュヴェルジェの法則》 である。タイトル行では字数の関係で後半を省略した。

「……で収束する」という言い方は、 このベキ級数は |z| < 1 で収束する、 のように使う。 タイトル行は意味がわからない。本文を読もう。

これは、 多くの政治家が経験的に感じていたことですが、 各選挙区の候補者や政党数は、 その定数に1を加えたものに収束していく、 というものです。

「……で収束する」ではなく、「……に収束する」の意味だったのか。 高校生でも間違わないぞ。 というより、高校では「……に収束する」しか習わないと思う。 さて、その理由として、次のように書いている。

これは、投票者にとっては、 当落線上にある候補者に投票するかどうかが重要だから、そうなるのです。 すなわち、 自分が投票してもしなくても勝てる候補者には投票しなくなるとともに、 当落線上とはかけ離れたところにいて、 投票をしてもまず勝てないと考えられる候補者にも投票しなくなるためです。

ここは、「すなわち」の前後のつながりがわからない。 その前は《投票者にとっては、 当落線上にある候補者に投票するかどうかが重要だから》 なので、そのような候補者に投票するか否かが重要、という意味であろう。 後半は、投票者は当落線上にある候補者に票を入れる、 と言っている。 前半が「当落線上にある候補者に投票することが重要だから」 なら意味は通る。

例えば、 定数3の選挙区の場合は、 得票数が3番目または4番目と予測される候補者がデッドヒートを繰り広げることになり、 定数1の選挙区の場合は、上位2位にしか得票が集まらなくなります。

これはなぜだかわからない。 定数3で、上位二人は当選確実として、 三位を三人の候補者が争う、というケースが考えられる。 また、この候補は当選確実と思って多くの有権者がほかの候補に投票した結果、 その候補は落選、ということもあるのではあるまいか。

また、「収束する」とあるのが、 一つの選挙の中で、選挙運動が進むにつれてそうなる、という意味か、 同じ制度で何度も選挙をしているとそうなる、という意味なのかが、 書いてないのでわからない。 Wikipedia を読んだが、どちらにもとれるように書いてあった。

そのあと、日本の小選挙区制、二大政党制について論じているが、 そこについてはここでは論じない。

2011-01-30 (0) 00:54:29 +0900

「ローマ字運動」と聞いて、からだで「ABC」を作る体操と思う人はないか

以前、「YMCA」という形をからだで作りながら歌う歌謡曲があった。 ああいうものとの混同である。

普通には、日本語のローマ字書きの普及を目指す活動のことをいう。

2011-01-30 (0) 00:39:03 +0900

「センチメートル」の「センチ」を「センティ」に変えることも考えられる

フランス語の centi- だから最後の ti- は「ティ」と発音する。 フランス語で cen- を「サン」と読むのはフランス語が“なまって”いると考え、 つづり字にしたがって従来どおりに「セン」と読めば、全体は「センティ」となる。 同音異義語がない、という利点あり。

2011-01-29 (6) 23:32:56 +0900

「センチ」と「戦地」は同音なんだ

本文ナシ

2011-01-29 (6) 23:32:13 +0900

押しボタン式信号の周囲に雪が盛りあげられ、苦労しないとボタンが押せない

少し前から、そうだ。最寄りのバス停に町中からつき、家へ帰るときに渡るほう。 (サイゼリヤから徒歩で帰るときも、ここをこの向きに渡る。)

除雪された雪が、 押しボタン式信号機がついている柱の周囲数十センチメートルに、 高さ数十センチメートルほど積み上げられているため、 上体を前に倒さないとボタンに指が届かない。 子ども、お年寄りには押せないかもしれない。 (子どもは雪の山の上にのぼるかも。)

なお、ここの横断歩道は、ぬれているだけに見えて凍っていることがある。 実際に、すべるかどうか試すと、すべる。 すべらないよう注意しつつ渡ると、 私でも青が点滅に変わる前に渡りきれない。 よって、歩道の端には雪が積み上げられているが、 青になったと同時にそこから踏み出せるよう、雪の上にあがって待つことになる。

2011-01-29 (6) 23:22:56 +0900

一月31日には、上体を前に倒しても無理で、 傘の先で押しボタンを押した。 (きょうはもう完全に雪はなくなっていた。)

2011-02-26 (6) 19:51:05 +0900

きょうの補筆箇所

2011-01-29 (6) 00:51:30 +0900

「電話では、はっきり大きな声で」と教えたのが、携帯電話には不適なのでは

サイゼリヤは店内で携帯電話を使ってよいのかどうか微妙だが、 使っているのを聞いていると、 年配の人は大きな声で話すことが多いようである。 同じテーブルにいる人に語りかけるよりもはるかに大きな声を出す。

むかし、 電話では、はっきり大きな声で話しなさい、 と習ったような気がしてきた。 それが、携帯電話の時代には不適切なのである。 (小さな声でもじゅうぶん聞こえる。)

2011-01-29 (6) 00:43:32 +0900

「He is my grandfather.」は「He is one of my grandfathers.」では?

普通は二人いて、そういうとき、英語ではよく 「one of ...」と言うから、そう思っただけ。

2011-01-29 (6) 00:41:56 +0900

自動車を検査してもらうのに、なぜ「検車」ではなく「車検」と言う?

和製漢語か?

2011-01-29 (6) 00:41:02 +0900

「死の舞踏」と「しのぶ党」はカナで書けば「しのぶとう」で同じだな

それだけ。

2011-01-29 (6) 00:40:12 +0900

MRIを「エムアールエエ」と発音している人がいた

ちょっと前、病院に通っていたときに聞いた。 看護師が事前に注意事項を伝えていた。 入れ墨がないことも確認していた。

Iを「アイ」と読むのは英語のなまりだが、 それが日本語にはいってまたなまり、「エエ」になるのがおもしろい。

2011-01-29 (6) 00:38:07 +0900

看護師は「エムアールアイ」と言っていた。 それを、声から判断すると年配と思われる男性患者が、 「エムアールエエ」と言い返していたのである。

2011-03-01 (2) 21:39:44 +0900

正確に言うと、すべては耳で聞いて推測したものである。 ベッドの間はカーテンで仕切られているので、何も見えない。

2011-03-08 (2) 20:33:11 +0900

20年以上前のサインペンを、 ビニール袋をあけて使ってみたら、書けた!

職場で、紙で出されたレポートの採点をしようと思ったが、 ちょっと前からペン入れがかばんの中で見当たらないので、 大学院生時代の、 某予備校の模擬試験の採点をしたときにもらったサインペンを、 もうインクが乾いていて使えないだろうな、と思ったが使ってみた。 1980 年代のことだから、 このサインペンはレポートを書いた学生よりも“年長”である。

使いかけのは、かすれた線が少しだけ書けておしまい。 でも、ビニールの包装を破らずにとっておいたものは、 新品同様に書けた!

袋には白で「Pentel サインペン」「水性」とあり、ほかに、 JIS マークの下に 383046 と、型番らしき数字列が印刷されている。

2011-01-28 (5) 23:11:20 +0900

科学特捜隊、ウルトラ警備隊の隊員名はカタカナ書きでないとピンとこない

放送終了後、漢字表記が決められたと読んだことがある。 当時、カタカナ書きにした理由はなんだろう? 低年齢層への配慮かな?

「ウルトラQ」と、 「帰ってきたウルトラマン」以降は漢字表記だったよな?

2011-01-28 (5) 20:36:54 +0900

回文「いため、やめたい」

たとえば、腰をいためたので野球をやめたい、とか。

2011-01-28 (5) 20:35:57 +0900

「若くて都会人の……」は破格の言い方。普通には「若い都会人の……」

秋月のホームページ」 の掲示板「経済学の勉強と仕事関係」に、 秋月さん自身による「若くて都会人の……」という書き込みがある。

日本語で形容詞を重ねるときは、 「赤くて大きい箱」のように、 前の形容詞は「て」で終わる形になる。 (英語などの“直訳”「赤いと大きい箱」は誤り。)

「若くて都会人」は、本来は「若い都会人」であろうが、 「都会人」が「都会」という形容句と名詞「人」からなっていることから、 類推で似た現象が起きたものと思われる。

2011-01-28 (5) 20:29:18 +0900

きょうの補筆箇所

2011-01-28 (5) 01:57:44 +0900

雪道を走る自動車はかなりの量の雪をはね上げている

先日、雪がとけかけた、 歩道と車道の区別のない道を歩いていたとき、 脇を通りすぎた自動車がかなりの量の雪をはね上げ、 それが私にあたった。 ジーパンのひざとすその間あたりにかかった。 すそは、雪靴の外に出しているので、靴の中にははいらなかったが、 小さい子などの場合、転倒もあり得るのではないか、と思ったほどだ。 運転者は、自分がどれだけの雪をはね上げているのか、 理解していないのであろう。

ここ金沢は、かなりこわい町である。

2011-01-28 (5) 01:51:47 +0900

朝日新聞>ベルルスコーニ伊首相の「ご乱交」は「ご乱行」の誤変換では?

19日水曜日づけ大阪本社版国際面、「ベルルスコーニ氏危機」。 《次々と明らかになる「ご乱交」の証拠を前に、 首相は絶体絶命のピンチに陥っている》とあるが、 多数の買春疑惑にすぎないので、「ご乱交」はおかしい。 「ご乱行」の誤変換ではあるまいか。

南島信也》と署名あり。

2011-01-25 (2) 00:37:08 +0900

朝日新聞>郷富佐子記者はスマトラ島でからだを張って仕事しているんだなあ

19日水曜日づけ大阪本社版国際面「特派員メモ」は 「スマトラ島(インドネシア)」からで、タイトルは 「ジャングル恐るべし」。

ジャングルの中で、バイクの運転手が道を間違え、 やっとのことで先住民の小屋にたどりつく。 《全員がほとんど裸で、目のやり場に困った。 しかも、10歳くらいの女の子が素っ裸でライフル銃を担いでいる》。 いまでもそんな地域があるのか! 男の子にガイドを頼むのだが、 母親が警戒している。 《必死に母親に頼み込んでいると、 銃を持った女の子が無表情で近づいてきた。 一瞬、「ジャングルで撃たれて死ぬかも」と思った》そうだ。

なんとか無事に目的地に着けたのだが、 《でも、なぜか私の落ち度になっていて、 「方向音痴の日本人」のうわさはこの日、 ジャングル内に広く伝わったそうである。ああ》と終わっている。

2011-01-25 (2) 00:24:08 +0900

「郷に入りては郷に従え」ということわざもある。 自分も裸になることは考えなかったのだろうか。 それで相手の警戒心がとけたかもしれない。

2011-03-06 (0) 01:30:09 +0900

「…する〜」という言い方ができないのでは、と思われる日本人学生に会った

授業でコンピュータプログラムを書かせ、コメントをつけさせる。 そのとき、何度言っても通じないので、少し考えてみて、 「入力された文字列を出力するプログラム」 のような構文が理解できないのだ、と気がついた。

ちょっと前の項の「手に持つ電気」はちょっと違うが、それで思い出した話。

2011-01-24 (1) 23:47:15 +0900

金沢駅東口のバス乗り場で、ひとに乗るべきバスを教えてあげた話2件+α

けさ11時ごろには、金沢駅東口のバス乗り場にいた。

学生さんのような若い女性二人連れが、 自分たちの乗るべきバスはどれか、 ガイドブックとバス停の掲示を見比べて苦戦していたので、 「あそこにいる人が、バスの案内係ですよ。あの人たちに尋ねてごらんなさい」 と言って指した相手は、実は駅前広場の警備員で、案内係は別にいることに、 少したってから気がついた。 自分の間違いに気づいたので、警備員と、その女性二人に謝った。 でも、警備員は、バス案内も仕事のうちと考えておられたようだった。

もうひと組は、年配の、たぶん間違いなくご夫婦。 兼六園に行くとのことなので、私が待っているバスに乗ればよい。 「兼六園下」ではなく、 一つ手前の「広坂」で降りたほうが近いですよ、 と教えてあげたのだが、 私が待っていた普通の乗り合いバスよりさきに、 レトロ風な、周遊バスがやってきた。 そちらをすすめたほうがいいのかなと考え、 バス案内係にあのバスの運賃はいくらですかと聞いたら200円とのこと。 乗り合いバスと同じである。それを聞いていたのかどうかはわからなかったが、 そのご夫婦は、私に目であいさつをして、そちらのバス乗り場へ走って行かれた。

最後は、全然助けにならなかった話。 私が乗ったバスに、五六人の、年配の女性のグループが乗ってきた。 広坂で降りず、兼六園下まで行ってしまってから、 降りる際に運転手にきいて、21世紀美術館なら一つ手前の広坂ですよ、 と言われていた。 運転手は、兼六園も見る予定なら、先に兼六園を見て、 兼六園を抜けて広坂へ行くといいですよ、と教えていた。 私は、そのとき、先に21世紀美術館を見たいと言っているのを聞いていたので、 兼六園ははいらなくてもわきを通りぬけて広坂に行けること、 もしかしたら、兼六園はいったん出ても、 その日のうちなら入場券を見せることで再入場できることを教えてあげようかな、 とも思ったのだが、運転手さんが説明しているので、 口をはさまなかった。

2011-01-24 (1) 23:39:36 +0900

NHKの英語番組で martial arts という語を聞かなくなったな

むかしずっと聞いていた「英会話」だったか「英語会話」だったかでは、 日本にきている、英語を母語とする人へのインタビューの回があった。 そこで、日本の martial arts に興味があって、などの発言をよく聞いた。

最近聞いている「ラジオ英会話」と「実践ビジネス英語」では、 martial arts の話題はあまり出ない。

2011-01-24 (1) 23:36:26 +0900

外国人向けの、やさしい災害用語「言い換え」ガイドができたそうだ

17日月曜日づけ朝日新聞大阪本社版第一面 「外国人版 やさしい災害用語」。 《消火器は火を消す道具、給水は水をもらうこと》 などの「言い換えガイド」をつくった、という記事。 一昔前なら、日本にいる外国人と言えば英語を話す人、と考えて、 英語版をつくるところだったと思うが、そこは進化している。 つくったのは弘前大学社会言語学研究室だそうだ。

大震災は「大きい地震」、懐中電灯は「手に持つ電気」》とある。 《声に出して耳で理解できるか、 外国人20人に聞き取ってもらうなどチェックもした》。 これも大切なことだ。 「余震」と「予震」は、耳では区別できない。 ほかの例としては 「傾く」が「倒れるかもしれません」、 「救急車」が「病気やケガの人を助ける車」、 「余震」が「あとから来る地震」、があがっている。

「給水」は水を配ることだと思うし、 「傾く」イコール「倒れるかもしれません」ではない。 「手に持つ電気」の「電気」も少々おかしいとも言えるが、 「電灯をつけて」の意味で「電気をつけて」ということもあるから、 許容範囲であろう。

日本語の話者にとっても、これは反省材料になる。 「大震災」は確かに「大きな地震」のことだが、 ではなぜ、「ダイシンサイ」という、 耳で聞いただけではわかりにくことばが別にあるのだろう? 「懐中電灯」 というが、いまや「懐中」に入れている人はほとんどいない。

ひるがえって、私がこれらを英語で言えるかというと、 救急車の ambulance は大学受験時には知らなかったと思う。 その後、NHKの英語番組を聴き続けて覚えたことばだ。

2011-01-24 (1) 23:23:45 +0900

朝日新聞>十年ごとに活字が大きくなってゆくようだ、と書いた記憶がある

前項に書いた、算用数字の多用は、いつだったかの、 活字の大きさが変わったときに始まったように記憶している。

しかも、それが西暦の末尾が0の年だったような気がする。 《朝日新聞の文字がまた大きくなるそうだ --- どこまで大きくなるのか?》 参照。 しかし、2010年には活字の大きさは変わらなかった。

2011-01-24 (1) 23:05:15 +0900

朝日新聞>「方針が百八十度変わって」は算用数字でなく漢数字で書いている

2009年12月6日日曜日づけ大阪本社版オピニオン面 「日米安保50周年 日本外交を問う」に 《米政権の方針が百八十度変わっても、常に従ってきた》 という文がある。 朝日新聞はあるときから原則として算用数字を使うようになったが、 ここでは漢数字で書かれているのが目についた。 「180度変わっても」でもおかしくはないと思うが。

「百八十」を漢数字と呼ぶべきかどうかはよくわからない。 「一八〇」が漢数字による書き方だ、という考え方もあろう。

2011-01-24 (1) 22:54:19 +0900

コーラのカフェインのせいか眠れず。最近は茶葉抽出物だそうで、茶断ちが…

昨晩(厳密にはけさ未明)は、なかなか眠れず。 眠れないのでケータイでネットサーフィンしていて、 コーラにはカフェインが含まれていると知った。 しかも、最近は茶葉から抽出したカフェインを使っているそうで、 茶断ちに反しないかと、少々悩む。 カフェイン断ちではないから、いいか。

2011-01-24 (1) 22:41:49 +0900

NHKラジオ「実践ビジネス英語」>冒頭の語りは切り貼りしているようだ

たとえば21日金曜日分で言うと、 「今回のテーマは Work-Life Choices, 人生の選択肢」。 「きょうはその3回目ですね」。 「前回のビニエットで……」 の三つは、声の感じがことなる。 別々に録音して切り貼りしているようだ。

2011-01-24 (1) 21:11:55 +0900

きょうの補筆箇所

2011-01-24 (1) 03:01:43 +0900

「争う」は /arasou/, 「荒らそう」は /araso:/

前者は「争い」という形があるから /arasou/, と考えるとわかりやすいか。

2011-01-24 (1) 01:40:00 +0900

回文「抗夫のふう子」(こうふのふうこ)

ふう子は女性名。女性がなぜ抗夫なのかは不明。

2011-01-24 (1) 01:35:04 +0900

回文「へこむな、婿へ」(へこむなむこへ)

本文ナシ

2011-01-24 (1) 01:34:15 +0900

サイゼリヤでドリンクバーを注文したが、暖かいものはお湯しか飲まなかった

わけあってアルコール飲料はドクターストップがかかっている。 そこで、ドリンクバーを注文し、 冷たいものはジンジャーエールとペプシコーラを交互に飲んだ。 茶断ちは続行中である。 暖かいものはすべてコーヒーか茶が含まれるので、お湯だけとってきて飲んでいた。 (コーヒーはずっと前から断っている。)

2011-01-24 (1) 01:15:08 +0900

旧かな新かな両方を知っても発音がわからない例:「こふ」「こう」

「コウノトリ」は /ko:notori/ なのか /kounotori/ なのか気になり、 携帯電話版の広辞苑第六版をみたら歴史的かなづかいは「こふのとり」。

これだけではわからず、ほかにも調べて、 「劫」は歴史的かなづかいが「こふ」、現代かなづかいが「こう」で発音は /ko:/, 「乞う」は、どちらのかなづかいでも「劫」と同じだが、発音は /kou/, と気づいた。 新旧両方のかなづかいがわかっても、発音がわかるとは限らないのだ。

「コウノトリ」は、発音の載っている、 アクセント辞典と新明解で、/ko:notori/ であることを確認した。

2011-01-24 (1) 00:59:57 +0900

「信望」は人間に対してしか使わない?

私の使う語彙にははいっていないが、ネットの掲示板で 「母は冷蔵庫を信望している」 とあるのを見て、何かひっかかるなと思い辞書をひいたら、 望は人望のこととわかり、 擬人化した場合以外は物には使えないな、と。

2011-01-24 (1) 00:57:49 +0900

「指名」とは、名指しとは限らない。指名手配は氏名だけでの手配ではない

「指名手配」が、文字通り、名を指すことで手配される、の意味なら、 同姓同名の人は警察に出頭する義務があるのだろうか、 と考えてみたが、そんなわけはない。 「『この人です』と言って」、の意味で「指名」が使われているのだ。

野球の「指名打者」もそうだ。 同姓同名で右打者と左打者がいて、 相手投手に合わせて打席にたつ、なんてことは許されない。

2011-01-24 (1) 00:52:17 +0900

大相撲にも交流戦があるのかとカン違い。「あすは光龍戦です」だったんだ

土曜日に、NHKラジオ第一放送で大相撲中継を聞いていて、 17時のニュースがはいる前の一番が終わったあと、 どちらかの力士について「あすは交流戦です」と言ったのかと思ったが、 プロ野球と違って、大相撲には交流戦はないはず。 「コーリュー」という名の力士がいるのか、 と気づいてネットで調べて、「光龍戦」だったと理解した。

2011-01-24 (1) 00:45:00 +0900

新たなる希望>オビ=ワンは年老いて昔のようには戦えないとの設定なのか。

DVD の音声解説で、ルーカス監督が “ベイダーはからだの半分が機械だし、 オビ=ワンは年老いたので昔のように戦えない” と言っているが、 では、なぜオビ=ワンは20年間、ベイダーに再戦を挑まなかったのか、 との疑問が生じる。 ベイダーの力が衰えたのがサイボーグ化のためなら、 III の直後にオビ=ワンがベイダーの前に 「Hello, there」 と現れて戦えば、容易に倒せたのではあるまいか。 より若い世代のルークにまかせるため、危険をおかそうとしなかった、 と説明はできるが、V のルークと III のオビ=ワンでも、 III のオビ=ワンのほうが強いだろうな……。

2011-01-24 (1) 00:37:40 +0900

新たなる希望>監督は、パーセクが地球に由来する単位であることを説明せず

DVD の解説音声では、 ハイパースペースを出てオルデラーンに着いたと思ったところで、 ルーカス監督による、 「なぜハン=ソロがファルコン号の速度を説明するときに距離の単位であるパーセクを使ったのか」 の説明がある。 “ここでは距離で速度を示している”というのは、 「時速100キロメートルで」を「100キロで」 というのと同じで理解できなくもないが、 地球に由来するパーセクがなぜこの銀河で使われているのか、 の説明はなかった。

2011-01-24 (1) 00:28:54 +0900

シスの復讐>アナキンは最初の設定より強くなりすぎてしまったのでは?

IV のオビ=ワン対ベイダー戦でのせりふを聞いているとそう感じる。 III をつくったあとで IV をつくったなら、 ベイダーのせりふは違うものになっていたと思う。

2011-01-24 (1) 00:26:09 +0900

近くのセレモニーホールは、自動車の出入り口以外の歩道を除雪していない

お通夜や告別式をするために貸し出すホールである。 ここ金沢では、自動車でくる人がほとんどと考えているのか、 まわりの歩道のうち、自動車の出入り口しか除雪していない。 最寄りのバス停まで歩道の雪をかこう、という気はないようだ。

2011-01-24 (1) 00:22:47 +0900

方向指示器を出す、曲がり角の30メートル手前地点にマークをつけたら?

自動車の方向指示器は、曲がり角の30メートル手前で出すと決まっているそうだ。 道路をつくる際、 曲がり角の30メートル手前に何かのマークをつけておけば、 そこを通るとき方向指示器を出すのだとわかり、便利では。

いまある道路すべてにつけるのは大変だが、 仮にそれができたとして、 あとは道路をつくり足すたびにつければ、 それほど大変でもあるまい。

2011-01-24 (1) 00:19:34 +0900

漢語の漢字かな混ぜ書きの代わりに、漢字だった部分はハングルで表したら?

ハングルは少しだけ勉強したことがあるのだが、 子音+母音+子音を、ほぼ正方形をなす一文字の中におさめられたと記憶している。 だから、漢字音はハングルで表せるのではないか、と考えてみた。 日本語での音を写すから、朝鮮語にはいった漢字の音と同じとは限らない。

2011-01-24 (1) 00:13:48 +0900

朝日新聞>《脂肪が多いというし、さすがに体に悪いかなと》の「さすがに」

15日土曜日づけ大阪本社版 be on Saturday の e5 面、 「元気のひけつ」は「意外に体にいいナッツ類」。

ナッツが大好きな私。 大きな袋で買ってきてはポリポリポリ……。 一気に半分食べてしまうことも。 でもナッツは脂肪が多いというし、 さすがに体に悪いかなと不安になり、 専門家に聞いてみた。

この「さすがに」の用法は、いままでに見たどれとも違うような気がする。 どう説明したらいいのだろう?

内山美木》と署名あり。

2011-01-22 (6) 01:56:52 +0900

送りがなが違うのに「生もの」を「いきもの」と読み違えることってあるかな

15日土曜日づけ大阪本社版 be on Saturday の b10 面、 「いわせてもらお」。実話に基づく笑い話のコーナーである。 届いた荷物にあった 「生もの」(なまもの)の表示を、 中3の長男が「いきもの」と読み間違えた、という話だが、 「いきもの」は常用漢字表に従えば「生きもの」と「き」を送るだろう。

2011-01-22 (6) 01:41:02 +0900

「イマジンって何人のこと?」って、意外と鋭い質問かもしれない

15日土曜日づけ大阪本社版 be on Saturday の b10 面、 「いわせてもらお」。実話に基づく笑い話のコーナーである。 「イマジン」を聞いた高1の長女が 《「イマジンって何人のこと?」》と聞いてきた、 というのが載っている。単に「ジン」の部分が「人」と同音だからカン違いした、 ということのようだが、 歌の中で「国がなかったら」と言っているのだから、 もしかしたら、意外と、鋭い質問なのかもしれない。

2011-01-22 (6) 01:34:55 +0900

この「いろいろ」のタイトル行の長さを基準と比べるための工夫

この「いろいろ」のタイトル行は、 末尾の改行を1カラムと数えて80カラム以下、と決めている。 これは、MS-DOS 上で Vz エディタを使っていたときに、 その画面の一行に収まるように、という理由で決めたものだった。 原稿は Windows のメモ帳で書くが、 アップロード用のファイルの編集は DOS 窓で Vz で使っていたので、 長すぎるタイトルはそのときにすぐわかった。

完全に Windows に移行してからは、 下書き用ファイルに「タブ10個に続いて『あ』の一文字」からなる行を置き、 タイトルの終わりの </h2> とその「あ」の字との位置で判断していた。 全角文字だけからなる場合はほぼ問題がないが、 半角文字と混在した場合、1カラムの差は見分けにくい。 さっき、

<h2>あああああああああああああああああああああああああああああああああああ</h2>
という行を置いて、 これの最後の </h2> とタイトルの終わりのそれとの位置を比べればよいのだ、 と気づいた。

しかし、このままでは、下書きの冒頭につねに上のような「あ」の列が出て、 うっとうしい。 HTML のコメントにしてしまえばよいと、いま気がついた。

2011-01-22 (6) 01:25:26 +0900

勝間和代>「アイデアは心に届かなければ意味がない --- SUCCES(S)の法則

15日土曜日づけ大阪本社版 be on Saturday の b9 面、 「勝間和代の人生を変える『法則』」。 今回の『法則』はタイトル行に引用しておいた。

米国・スタンフォード大のチップ・ハース教授とコンサルタントのダン・ハース氏は、 「人の心に焼きついて成功したアイデアと、 消え去ったアイデアの違い」について、 過去の事例研究から「SUCCES(S)=サクセス(成功)」 の6文字で始まる法則をまとめました。

その六つとは (1)単純明快(Simple) (2)意外性がある(Unexpected) (3)具体的(Concrete) (4)信頼性がある(Credible) (5)感情に訴える(Emotional) (6)物語性がある(Story) ――です。

(白抜き丸囲み数字は小かっこで代用した。)

今回も、全角文字で原語を引用しており、字数稼ぎの感がある。

それは別にして、 このあと、それぞれがなぜ大事かを説明しているが、 こういうのって、そう言われればその六つが大事なような気がするし、 よく考えれば別に大事なものを思いつくような気もするし、 といったレベルの話のように思える。

具体性が必要な例として、次をあげている。

例えば貧困撲滅キャンペーンでも、 抽象的理念や目標を示すよりは困っている子どもたちの様子を具体的に見せることの方がはるかに効果が高いのです。

これは、具体性の差の例ではない。 理念や目標よりも現状を見せよ、ということで、 (5) の「感情に訴える」にあてはまる例ではあるまいか。

ところで、 ハース氏たちが、 成功するアイディアの秘訣をこの六つの『法則』にまとめたことは、 その六つの『法則』を満たしているのかな?

2011-01-22 (6) 00:57:43 +0900


すのもの Sunomono