15日土曜日づけ大阪本社版 be on Saturday の b9 面、
「再読 こんな時こんな本」の導入部にこうあった。
《「墓守がいない」。地域や世代を問わず、
そんな悩みに直面している人は少なくないだろう
》。
おそらく間違いなく、「お墓を継ぐ人がいない」の意味である。
《立松真文
》と署名あり。
2011-01-22 (6) 00:52:15 +0900
15日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版文化面
「ガラパゴスの先へ」の6回目「識者に聞く」。
《日本文学研究者
》
《キース・ビンセントさん
》が、
《こうした違いが生じた理由の一つとしてはフィクション、
つまり架空の物語に対する日米の寛容性の度合いがあると考えます
》
と述べた少しあとで、次のように語っている。
アメリカでは、 フィクションとドキュメンタリーには厳然とした区別があって、 架空の物語を事実を装って出版すれば、 それだけで社会的な非難を浴びます。 これはキリスト教的な問題意識から来ているものなのかもしれません。
一方、日本では江戸時代から多くの戯作(げさく)が書かれており、 近代以降でも、 例えば谷崎潤一郎などは歴史とも空想ともとれるような作品を残しています。 こうした文化的基盤があったからこそ、 ライトノベルが読まれ、 オタク文化が栄えることになったのでしょう。
岩波文庫「源氏物語」の第六刷巻末の、山岸徳平氏の解説には、
《しかるに、平安末期に及ぶと、
『今鏡』などにも見えるように、
作り物語を、虚偽の狂言綺語を操るものとして、
退ける傾向を生じ、鎌倉時代には、
その傾向がいっそう強くなって、
「紫式部は、源氏物語を作ったが故に、
地獄に落ちた」という伝説も生まれた
》とある。
曲亭馬琴は「南総里見八犬伝」の本文でないところで、 フィクションであっても、 歴史上の善人は善人として、 悪人は悪人として描かねばならないと主張していたし、 また、 里見家が関東管領と戦ったのが歴史的事実でないのは明らかで、 これはフィクションだ、ということを断っていた。 まだ、歴史と小説とが未分化だったとも言えるのである。 (いま、原文をさがす時間がないのが残念。)
《聞き手・宮代栄一
》と署名あり。
2011-01-22 (6) 00:06:33 +0900
米国ではなく英国だが、 シェイクスピアの書いた「ジュリアス・シーザー」などはどうなのであろう?
2011-01-28 (5) 00:54:30 +0900
Google で「"文責をとる"」は約 11,600 件。
でも二ページめで
《最も的確な結果を表示するために、上の12件と似たページは除外されています。
検索結果をすべて表示するには、ここから再検索してください
》
となるのだった。
「"文責を果たす"」は約 815 件。やはり
《最も的確な結果を表示するために、上の26件と似たページは除外されています。
検索結果をすべて表示するには、ここから再検索してください
》
となる。
中に、破格であるとわかって敢えて使っていると思われるページもあるが。
2011-01-21 (5) 23:52:53 +0900
新三部作のどれかのおまけ DVD で、 ユアン・マクレガーが最初の映画の初めの半分しか出ていないと言っていたが。
2011-01-21 (5) 23:28:34 +0900
西洋語でも、言語によっては、Paulos の -au- にあたる部分を [o:] と発音するが。
2011-01-21 (5) 17:49:57 +0900
けさの朝日新聞大阪本社版第一面に 観光砕氷船「おーろら」が写真入りで出ているのを見て。 一瞬、「あうろら」かな、と思ったのだった。
2011-01-21 (5) 17:48:27 +0900
15日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版オピニオン面「声」の、 千葉県八街市の高校生、山本優(まさる)さんの投書、 「盗まれたから盗み返すとは」。
ところが友人は 「じゃあ他の人のチャリをパクっちゃえ」 と言いました。 「盗まれた人はほかの誰かから盗んでもいい」 と言うのです。 盗まれたら盗み返す、なぜそれがいいのか。 おかしいと思いました。
タイトルを見たときは、自分の持ち物を盗んでいった相手から、 それをこっそり取り戻すことを 「盗み返す」といっているのだと思った。 最近の言い方だろうか。
付) 《この「いろいろ」で、一般人の投書を取り上げる場合にも投書者名を書く理由》 はこのリンク先を参照されたい。
2011-01-21 (5) 01:54:15 +0900
年末の帰京のとき乗って、気づいた。 左側通行だから、自動車のことを考えれば、 このほうが普通ということになる。
2011-01-21 (5) 00:55:06 +0900
本文ナシ
2011-01-20 (4) 23:52:13 +0900
「大」は ô か oo か、という問題はあるが。
2011-01-20 (4) 23:49:57 +0900
「現れます」などが続く。 が、続けると回文にならない。
2011-01-20 (4) 23:38:01 +0900
昨年12月29日水曜日から始まり、 1月14日金曜日で終わったレッスンの最終回をテープに録音してあって、 さっき聞き終えた。すご〜く長いレッスンだったような気がする。
2011-01-20 (4) 22:59:31 +0900
日本では、「いくら以上お買い上げのかたに」というサービスが普通である。 先週のNHK「ラジオ英会話」できいた(作り物の)コマーシャルに、 「何ドルより多くお買い上げのかたに何ドルの商品券をさしあげます」 というのをやっていた。 日本語による先生の説明では「以上」になっていたが。
2011-01-20 (4) 21:48:37 +0900
「ローエングリン」と「パルジファル」の関係と、 スター・ウォーズ旧三部作と新三部作の関係が、 前者の主人公の父親の青春時代を描いたのが後者、 という点で似ている。
パルジファルは「ローエングリン」に悪役として登場してたりしないが。
2011-01-20 (4) 21:39:58 +0900
ただ考えてみただけ。
2011-01-20 (4) 20:32:55 +0900
歌詞に
「土曜の後が金曜日に変わることでもない限り
」
という部分があるので。
今学期は、学期末ではなく一月上旬に振り替え授業が行なわれ、 いまは正常に戻っている。
2011-01-20 (4) 20:27:26 +0900
坂本九の曲は絶対に流れない、と Wikipedia で読んだ。 アルバム「時代」収録の「時代」は、 冒頭に坂本九のアナウンスがはいっている。 これそのものをかけることはないと思うが、 シングル盤のはどうかな、などと。
2011-01-20 (4) 20:20:55 +0900
2011-01-18 (2) 01:53:14 +0900
14日金曜日づけ朝日新聞大阪本社版社会面
「大雪負けぬ センター試験」に
《3会場を運営する鳥取大は、
13日からセンター試験向けに除雪を始めた。
センター試験では約2300人が訪れるため、
ていねいに除雪すべきだと判断したという
》
とある。ふだんから除雪していれば、
特別なことはいらないのではあるまいか。
入試の際は、間をあけて座らせるので、 普段より訪問者は少ないと思うのだが。 Wikipedia によれば、2008 年 5 月現在で在籍者は 6354 名。
2011-01-18 (2) 01:39:27 +0900
※「獅子頭」は夕刊に掲載。朝刊掲載は2月23日から》
14日金曜日づけ大阪本社版文化面
『連載小説「獅子頭」を終えて』の欄外に
《※「獅子頭」は夕刊に掲載。
朝刊掲載は2月23日から
》とあるので何かと思ったら、
楊逸氏による本文に
《あと三週間もすれば来日して二十三年になろうとしていた、
平成22年2月22日に連載のスタートを切ったのだ
》
とあることの、夕刊のない地域へのフォローであった。
2011-01-18 (2) 01:33:54 +0900
駅名を英語で表記している中国人向けの観光パンフ」とは何か?
14日金曜日づけ大阪本社版オピニオン面「観光ニッポンへ注文」。
日中コミュニケーション社長の可越(コーユエ)さんが
《駅名を英語で表記している中国人向けの観光パンフを見かけますが、
漢字のままの方がよい
》と発言している。
東京の地下鉄には、英訳することがふさわしいと思われる駅はないと思う。
名古屋の地下鉄にあったような気がしてネットで調べたら、
市役所駅が見つかった。Wikipedia によると、
「市役所に加え、ローマ字表記のShiyakushoと、
英訳したCity Hallが書かれている
」
とある。この場合、「市役所」という表記のほうが、City Hall より望ましい、
と言っているのであろう。
しかし、このような駅はかなりまれであり、
わざわざ書くほどのこととは思えない。
都営大江戸線の国立競技場駅は、Wikipedia を見たが、
英語名はついていないようだ。
赤坂を Red Slope とか、 広尾を Wide Tail とか訳しているパンフレットがあるなら、 ぜひ見てみたい。
《聞き手・都留悦史
》と署名あり。
付) 日本では、ローマ字(書きの日本語)を英語と混同していることがある。 私も、職場で「英名」を書かされることがあるくらいだ。 しかし、ここはそうとは思えない。 中国人のようなので、ピンインは知っていると思われ、 ピンインが英語と違うことは当然理解していると思うからだ。 そのうえ、聞き手、校閲部と二重のチェックがはいっているのだから。
2011-01-18 (2) 01:17:38 +0900
13日木曜日づけ朝日新聞大阪本社版第一面の 「しつもん! ドラえもん」と、中のページの答えで知った。
2011-01-18 (2) 00:35:22 +0900
皇室にいたあいだは歌会始で詠んでいたと記憶する。 やめたら、せっかく学んだのに、もったいない。
2011-01-18 (2) 00:29:24 +0900
本文ナシ
2011-01-18 (2) 00:28:50 +0900
本文ナシ
2011-01-18 (2) 00:27:17 +0900
本文ナシ
2011-01-18 (2) 00:26:36 +0900
2011-01-17 (1) 01:40:17 +0900
前に 《ローマ字回文>「a, nuta mo komatuna」(あ、ぬたも小松菜)》 を書いた。
2011-01-17 (1) 01:38:08 +0900
もちろん、冗談である。
2011-01-17 (1) 01:32:28 +0900
前項に関連。
この場合、カンマは使わなくて済む。 手書きの場合、「億」のように字画の多い文字は手間がかかるが、 コンピュータに打ち込むなら、問題ない。
2011-01-17 (1) 00:31:30 +0900
プログラミング実習で、32 ビット int 型の配列を乱数で初期化し、 それをソートする、というプログラムを書かせている。 初めのうちは、1 から 99 までの乱数を発生させて、 それでプログラムを完成させる。 32 ビット int の非負整数全体に値をとらせると、画面上で
3247832474 716941873とあるのを見ても、どちらが大きいかすぐにはわからないからである。 (この二つの数は、 キーボード最上段に指を置いて、適当に押して出したもの。)
しかし、
三十二億四千七百八十三万二千四百七十四 七億一千六百九十四万一千八百七十三なら、どちらが大きいかすぐわかる。 すると、タイトル行に書いたような主張が出てこないかな、と考えてみた。
五千八百二十九億…と五千八百二十九兆…はどちらが大きいかわかるまでに少々かかる。 各ケタごとに違う文字を当てる、 ギリシア語やヘブライ語のような、字母を数字に転用したもののほうが、 さらにわかりやすいかも。 ただし、それらの方法では大きな数は表せないが。
カンマを使えば見やすくなるが、 カンマがいくつあるかが一目で読みとれないほど大きい数の場合は? そんな大きな数は扱わないか。普通。
2011-01-16 (0) 23:09:10 +0900
厳密には、「書かれていた」だけでなく、 歴史的かなづかいで「書かねばならなかった」、ということをである。
漱石の小説も、教科書や文庫本で読む限り新字新かなである。 案外、知らない人がいるかも。 日本国憲法の原文にあたった人は知っている可能性があるか。 日本史で教える必要があると思うのだがな。
2011-01-16 (0) 23:04:16 +0900
そうすれば、二月29日生まれの人に疎外感を味わわせることがなくなるだろう。 平年は二月29日がない、と考えるのである。
一年365日の年のほうが多いじゃないかという反論は、 「多めにしておくほうが安全」などとかわす。
2011-01-16 (0) 23:02:26 +0900
本文ナシ
2011-01-16 (0) 23:01:04 +0900
最初は「麻酔」の逆読みから考えたのだが、増井という姓にした。
2011-01-16 (0) 22:59:47 +0900
本文ナシ
2011-01-16 (0) 22:58:12 +0900
もしあったら、頭のほうからは口に入れられないわけで、 尾のほうを切り落とすことになるか。 生きたまままっ二つにして、一貫は生きている頭つき、 もう一貫は生きている尾つき、を一組にして出すのは邪道なのかな?
2011-01-16 (0) 22:47:10 +0900
あったら、かみつかれそうでこわい。 ピラニアが食用になることは、Wikipedia で見た。
2011-01-16 (0) 22:46:23 +0900
前半は「相成り」でもよいのだが。 pirania は日本語化したつづり字、と考えてほしい。
2011-01-16 (0) 22:45:27 +0900
前項に書いた中継で聞いた。 最初、どの文字のことを言っているのかしばらく考えてしまった。 カタカナの「ツ」かも知れないわけだから。 「Uの字を描くように」とほぼ同じこと。
2011-01-16 (0) 22:43:41 +0900
今日の午後、NHKラジオ第一放送で、 全国都道府県対抗女子駅伝の中継を聞いた。 折り返し地点の直前あたりから聞いたのだが、 アナウンサーも解説者も、 「たすきをつなぐ」と言わず、 「たすきをわたす」と言うようになっていた。 名詞形の「たすきわたし」も使われていた。 「たすきをつなぐ」は全く使われないわけではなく、 二三回は聞いた。 また、たすきと関係なく、「次の選手につなぐ」という言い方はしていた。
19時のニュースでは「たすきをつなぐ」と言っていた。
《NHK 金沢のアナウンサがニュースで「たすきをつなぐ」と言っていた》、 《駅伝>「たすきを渡す」際に「たすきをつなぐ」こともありえるなと気づく》、 《駅伝>「たすきを渡す」より「たすきをつなぐ」が好まれるのはなぜ?》 参照。
2011-01-16 (0) 22:34:54 +0900
貴族政治の時代に、貴族の間で、 題を出されて時間制限つきで和歌を詠む遊びがあったと読んだ記憶がある。 仕事のうちにははいらないかも知れないが、 参加しないと“つきあいの悪い奴”とか言われ、 昇進に差しさわりがあったのではあるまいか。 その意味では和歌が詠めることは必須に近かったと思う。
今はそういうことはないから、 好きな人だけが詠んで、雑誌や新聞に投稿する。
2011-01-16 (0) 22:22:13 +0900
普通に読んでいって、最後の h を読んだら逆順に読む。 そして最初の h を読んだら普通の向きに読む。 こうやってくり返してゆくと hirotta Hattori を永遠にくり返す。
前に 《ローマ字回文>「o, hirotta, Hattori, ho」(お、拾った、服部、ほ)》 を書いていた。
2011-01-16 (0) 22:13:03 +0900
13日木曜日づけオピニオン面「異議あり」は 「宗教学者 人生80年時代に思う 山折哲雄(やまおりてつお)さん (79)」、 「土葬を復活して新たな死生観築け」 「火葬で薄れた他界や霊魂の概念。人間が自然に返るという認識を」 の見出しがついている。一面の半分強の分量である。
《火葬場で重油を燃料にして遺体を焼く方式は明治になって以降、
せいぜいこの100年くらいのものでしょう
》
とあるが、100年前の1911年の翌年1912年は大正元年である。
《土葬には、先祖の知恵や死生観が凝縮されているんです
》
とあるが、具体的には何がどのように?
《それがあっという間に人生80年時代になり、
生と死の間に老いと病の問題が割り込んできた
》とあるが、
昔は老いるのが早かったし、
若くして不治の病にかかることもあったのでは?
こうやって見ているときりがないので、一番重要と思われる段落を引用する。
「ついには、葬儀をせず、自宅や病院から遺体を直接火葬場に送って火葬する 『直葬』が増えてきた。 東京では今や葬儀の3割が直葬だそうです。 これは限りなく『死体処理』に近い。 もはや、 霊魂や他界の観念は消失し、遺体を生ゴミのように処理する。 生き残った者の都合だけがあるように感じます。 土葬の本格的な復活が、 こうした死生観の変化を考え直す契機になれば、 と思います」
葬儀をしないで自宅から遺体を火葬場へ運んだら死体処理に近い、 というのは理解できない。 家族だけで、儀式も何もなしに自宅でお別れの時間をとり、火葬した、 という友人の例を知っている。 それを『死体処理』『生ゴミ』とは失礼ではないか。
このあともいろいろ書いてあるのだが、 この人が「土葬」という言葉でイメージしているものがわからない。 墓については、次のように答えている。
「土まんじゅうにしたり、 卒塔婆(そとば)や石を置くだけなど様々あっていいと思います。 お墓がほしいという人には、そのための区画を造る。 埋葬する場所と参る場所を分けてもいい」
土葬にすると、前のほうで批判的に書かれていた
《核家族化が進むと、
寺や僧侶を相手にしない家族葬や友人葬、
散骨など個別化した多様な葬法が広まりました
》
というような現象は消えてなくなる、と決め込んでいないだろうか。
土葬といっても、墓地の入り口まで遺体を運んで、
「あとはよろしくお願いします」
というと墓掘り人が適当なところに埋めておしまい、
というやり方もある。
モーツァルトの遺体の埋葬はそうだったので、
墓の位置がわからない、と読んだように記憶している。
また、《参る場所
》という表現は、
死者の霊はまつるものと決めつけているように思う。
多くの信者を集めている宗教は、各国に信者がいるから、
必然的にさまざまな葬りかたを認めることになる。
《霊魂や他界の概念
》が、
土葬なら消失しないが火葬では消失する、と考える根拠は何なのか。
考えていないのではあるまいか。
途中では、
《何も土葬が唯一の方法というわけではありません。
野焼きによる火葬も、その様子を遺族たちがじっと見つめることで、
人間とは何か、人生の意味とは何かを考えるよすがになるでしょう
》
と意見が揺らぐ。
――ご自身も土葬を希望されているのですか。
「もし土葬が認められなければ、 どうすれば人目を忍んで実行できるか、 その方法を考えねばならない。 信頼できる友人に頼むか、 夜陰に紛れて土葬してもらうか。 考えていると楽しくなってくるんですよ」
そんなことを考えているより、 日本国内で土葬が許されている地域をさがし、 そこに土葬してくれと遺言する、 という確実な方法をとるべきだ。 これでは、実は何も真剣に考えていない、 ととられてもしかたがあるまい。
《聞き手・池田洋一郎
》と署名あり。
2011-01-15 (6) 00:21:36 +0900
いまの火葬は「遺体を生ゴミのように処理する
」とあるが、
生ゴミは埋めて土に返すほうがよい。
だから、遺体に対し生ゴミに近い扱いをしているのは土葬のほう、
とも言えるのではあるまいか。
欄外には、記者が調べたと思われる、 最近の土葬のデータがある。 2009年度には日本国内で788人が土葬されたそうだ。 どの地域で土葬が行なわれているのかを調べ、 その地域の人と仲よくなっておくことを、 同氏には強くおすすめしたい。
「多くの信者を集めている宗教は、各国に信者がいるから、 必然的にさまざまな葬儀を認めることになる」 と書いていた部分の「葬儀」を「葬りかた」に変更した。 「葬儀」とは、それぞれの宗教に固有の儀式であり、 キリスト教の場合、原則として世界じゅうで統一する。 「葬りかた」とは、 葬儀とは別の概念であり、土葬、火葬、水葬、鳥葬などを指す。 キリスト教は以前には最後の審判のときのからだの復活のため、 土葬しか認めないことがあったが、最近は火葬をも認める。 からだの復活を信じることをやめるわけはないから、 火葬しても最後の審判の際にはからだは復活する、 と考えかたが変わったのであろう。
社会面には「ことば 15面から」として、
《土葬は、
自然の一部としての人間、
自然との循環の中にある人間という認識をもたらす大切な機会になると思います。
(土葬の本格復活を唱える宗教学者の山折哲雄さん)
》
とある。
火葬した遺骨を納める墓でも、
床が土になっていて、お骨は骨壷などから出してそこへまく、
という方式のものもあると確か Wikipedia で読んだ。
その場合、下からだんだんと自然に帰ってゆくことになる。
真に自然に帰るには、遺体は森の中などに放置し、 獣に食べさせるのが最良、という気もする。 鳥葬はそれに近い。
2011-01-18 (2) 00:40:26 +0900
前項の、いわば逆。
2011-01-14 (5) 23:29:23 +0900
外来語だから鼻濁音化は起こらないはずだが、 もはや外来語としての意識がほとんどなく使われているのだろう。
レン+ト+ゲンという漢語で、そのカナ書きだと思う人もいるかも。
2011-01-14 (5) 23:24:23 +0900
2009年12月5日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版社会面
「ニッポン人脈記」は漢字の森深くの第8回、「〓か〓かパソコン次第」。
「〓」で示したのは、初めのが二点のしんにゅう、あとのが一点のしんにゅう。
「遡」「遜」「謎」の三文字を新・常用漢字に入れるにあたって、
すでに常用漢字にはいっているしんにゅうの漢字と同様に、
一点のしんにゅうに字体を改めるか、二点のままにするか、の話題。
次の引用で「阿辻」とあるのは《京都大教授の阿辻哲次
》氏のことである。
2点派の阿辻は言う。 「統一しても、実生活では1点と2点がまざっています。 携帯で邁進(まいしん)と打ってみて下さい」。 なるほど邁は2点で、進は1点だ。 なのに遡などを1点に変えたりしたら、 混乱のもとだという。
「電子機器を無視して字体は決められない時代なんです」
まず、なぜ「混乱のもと」なのかの説明がない。 「これらの漢字は、20XX 年に常用漢字にはいったときに字体が変わりました」 と説明すればよいだけのことではないか。 この三文字の字体を変えても変えなくても、 常用漢字外の漢字も使う限り、 一点と二点のしんにゅうが混在することに変わりはない。
新しい字体に変えれば、 パソコンなどのフォントはすべて取り換えるのが本来だろう。 スペルチェッカーを搭載した欧文ワードプロセッサーの場合、 正字法を変えたらチェッカーも取りかえるのが当然で、 「正字法を変えるとこのスペルチェッカーを通らなくなるから正書法は変えられない」 と言ったら理屈に合わないのと同様に、理屈に合わない議論だと思う。 フォントには、「日本語(常用漢字20XX)」などと名前をつけ、 複数個を切り替えて使うことになるのではなかろうか。 それができないなら、あくまでも常用漢字外のままで、 二点しんにゅうのまま、ふりがなつきなどで使えばよいと思う。 それなら、読む人に、 この漢字は字体を覚えなくてもいいんだ、 との安心感を与えられる。
従来、漢字を守りたい人たちは “「コンピュータで『使える』『使えない』」で表記を決められるのはおかしい” というような意見の人が多かった。 それが、 “コンピュータがこの字体だから” という時代に変わったのか、それとも阿辻氏またはこの記者の考えが浅いのか。 (根拠なく「混乱のもと」と信じ込んでいる、 あるいはよく考えずに「なるほど」と信じ込んだ、という意味で。)
なお、
《自分の名字の「辻」では点の数にこだわらない。
どちらも「つじ」としか読めないから
》という話がまた出ているが、
それができるのは、一点も二点も正しい、と知っているからだ。
教育の現場では、「一点だけが正しい」「二点だけが正しい」
「一点と二点のどちらも正しい」のどれかを覚えさせなければならない。
《白石明彦
》と署名あり。
付) 《朝日新聞>障害 vs 障碍について長々と書いている割にははっきりしない点が》 で取り上げた新聞の翌日の新聞だ。 ことしの元日からは、 その日の新聞は翌日未明に眠りにつく前には読み終えるようにしている。 そのため、前の新聞はしばらく手つかずだったが、また読み始めた。
2011-01-12 (3) 01:05:37 +0900
「電子機器を無視して字体は決められない時代なんです
」
とあるのが正しいか正しくないかはここではおいておくとして、
電子機器で漢字が扱えるようになる前に、
今回のように常用漢字を増やそうとしたら、
同じ問題が発生するのだった。
「まいしん」を漢字でどう書くのかわからないとする。
辞書をひく。そこには「邁進」と、
二点しんにゅうと一点しんにゅうの漢字が並んでいる。
「邁」を常用漢字に入れるとして、その際に字体を一点しんにゅうに改めれば、
新しい辞書と、古い辞書とでは字体が異なり、同様の問題が発生する。
(いま、何も問題は発生しないというなら、
むかしでも何も問題は発生しないが。)
すると、ここで“電子機器の時代”を持ちだすのは、 一種のレトリック、あるいはデマゴーグに属すると言うべきだろう。 しろうとの私が気づいたのに、記者はそれに気づかなかったのだろうか?
2011-01-24 (1) 01:20:40 +0900
記事中に、次のような段落がある。
パソコンだ。 阿辻は文化審議会で常用漢字表の改定にあたる委員の一人。 そこでパソコン時代ならではの論争を経験する。
上の追記を書こうと思い立ったのは、
この記事を読みなおして、
ここの《パソコン時代ならでは
》の句に気づいたときだった。
が、新聞に印をつけたことを忘れ、
追記を書こうと思ったことだけを思い出したため、
引用せずに上の追記を書いたのだった。
その前後を読みなおしたところ、
これを書いた記者は、
《パソコン時代ならでは
》
が正しくないことを見抜けるだけの材料を引用していながら、
見抜いていない、
あるいは見抜いていながら気づかないふりをしていることがわかった。
冒頭から、全体の四分の一ぐらいを引用する。
(最初のほうは、読者の目をひくためだけのものでつまらないが、
いきなり《パソコンだ
》では意味が通じないので、引用する。)
歴史が長い巻きずしなら、 漢字はかんぴょうだ。 教育や経済といった具とあちこちで絡みつつ、 端から端まで伸びている。
京都大教授の阿辻哲次(あつじてつじ)(58)は、 中国文字文化論の授業でそんな例え話をする。
「そのかんぴょうが、 30年ほど前から真新しい具と切っても切れない関係にあります」
パソコンだ。 阿辻は文化審議会で常用漢字表の改定にあたる委員の一人。 そこでパソコン時代ならではの論争を経験する。
部首の「しんにゅう」(「しんにょう」ともいう)の点は一つか二つか。
敗戦直後までの活字は点二つだった。 49年に当用漢字の字体を決めた際、 簡略化で点一つに統一される。 当用漢字を見直した81年の常用漢字でも、 「道」のようにどれも点一つだけだ。
ところが常用漢字でないものは点二つのまま使われた。 最新のパソコンでも点は二つある。 その中の遡(そ)・遜(そん)・謎(なぞ)の3字が来年、 常用漢字になる予定だ。 点を一つ減らすのか、 それとも変えずに混在させるか。
これに、本項で最初に引用した二つの段落が続く。
これを書いた記者は、 1981 年に当用漢字が常用漢字に変わった際にしんにゅうをもつ漢字が加わったのかどうかを調べるのが当然であろう。 手元の岩波国語辞典第三版巻末の「漢字の読み方の手引」でしんにゅうの部を見て、 常用漢字の印のついているものについて、 当用漢字の時代の角川漢和中辞典の本文で当用漢字・教育漢字の印があるかどうかを確かめた。 その結果、「逝」「遮」の二文字は 1981 年の常用漢字で追加された漢字である、 とわかった。 (広辞苑第二版の巻末の通用漢字一覧でも、 この二文字が当用漢字にはいっていないことを確かめた。 なお、もしも岩波国語辞典の「漢字の読み方の手引」 でしんにゅうの部にいれられてはいないがしんにゅうを持つ常用漢字があれば、 まだほかにもあるかもしれないが、その可能性は低いであろう。)
この二文字は、追加前の辞書や書物には二点のしんにゅうの字体で、
追加後、活字を新しくしたものには一点のしんにゅうで載っている。
その際には混乱はあったのか、なかったのか。
どちらにせよ、
《「道」のようにどれも点一つだけだ
》という書き方にはならないはずだ。
(念のため書いておけば、 1981 年はまだ(いわゆる)日本語が使えるパソコンが普及する前の時代である。)
混乱があったのなら、「その混乱がまた起こる」と言えばよい。 なかったのなら、そのときと現在との違いを論じ、 今度は混乱が起こることを説明しなければならない。
付) 電子機器そのものは、紙の書物よりも早くだめになる。 電子化されたデータは次の機器に移せるが。 字体は電子機器が持っているのが普通だから、 電子機器では書物よりも早く新しい字体に変わると思う。
付) 巻きずしは、端から端まで、同じ具がはいっているのが普通ではあるまいか。 だから、うまくない例えだと思う。 うまくない例えをあげ、 相手が戸惑っているうちに結論を押しつけて煙にまくのも、 デマゴーグの一種である。
付) いま気づいたが、この記事の見出しの「〓か〓かパソコン次第」は、 阿辻氏の説をうけて、 パソコンに配慮しつつ決めなければならない時代なのだ、 と言いたいのだろう。しかし、 パソコンを変えれば同じデータでも違う字体に見えることがある、 という意味にも解釈できるのだった。 ちょっと皮肉である。
2011-01-27 (4) 23:12:37 +0900
特に難しいことを記者に求めているのではない。 「1981 年に当用漢字から常用漢字に変わったときに、 しんにゅうのつく漢字がいくつか加わりましたね。そのときは、 どのように扱いましたか、それで混乱はありましたか」、 と尋ねてほしかった、というだけのことである。
この回には、ほかに二人の委員・元委員が登場する。
《前京都橘(たちばな)大教授の甲斐睦朗(かいむつろう)(70)
》
と
《大阪大名誉教授の前田富祺(まえだとみよし)(72)
》
のお二人である。
この二人のしんにゅう問題についての考えも軽くふれられているが、
1981 年のことを参考にしよう、という発想はないようである。
(あるいは記者が書かなかっただけか。)
私自身は、1981 年にはすでに日本語の表記の問題に関心をもっており、 当用漢字から常用漢字への変更は覚えているが、 「逝」「遮」についての記憶はない。
「遡」「遜」「謎」は、確か、もうすでに、 二点しんにゅうのままで常用漢字にはいったと記憶しているが、 教育漢字ではないので、教える際に、 これらの漢字だけ二点である理由も教えて納得させることができると思う。 一点に変更されていた場合も、同様に、 これらの漢字はこういう理由で二種類の字体があるのだ、 と教えればよいだけのことだったように思う。
2011-01-28 (5) 23:09:09 +0900
携帯電話は、パソコンと比べて画面が小さいため、 複雑な漢字は字画の一部を省略していることがある。 たとえば、私の携帯電話では、 小さいフォントにすると「雰」の「雨」かんむりの点が左右一つずつになる。 そういうことを知っているユーザは、 携帯電話の字体は参考にすぎない、と考えるだろう。 だから、そこでしんにゅうが一点か二点かはあまり問題にならないと思う。 ただし、しんにゅうの点の付近はあまり字画が込み入らないので、 一点と二点の違いははっきりわかることが多いようである。
私の携帯電話は docomo の N904i であり、2007 年の夏から使っている。 それでこの「いろいろ」を見て、 i-mode のブラウザでもフルブラウザでも、 「遡」「遜」「謎」のしんにゅうが一点になっているのに驚いた。 もしかして、一点に変えて常用漢字にはいり、 この携帯電話は自動的にフォントをダウンロードして新しくした? いや、 そうは思えない。フォントは ROM に焼き込んであるように思えるから。
そこから思いついたのは、 常用漢字にはいるなどの理由で字体が変わる漢字ができたら、 パソコンでは、 Windows の Update で新しいフォントをダウンロードさせることも可能、 ということだ。
部首はしんにゅうではないがしんにゅうのつく漢字の例としては、 「ご指導ご鞭撻」の「撻」があった。常用漢字にははいっていないが。
2011-01-29 (6) 22:48:29 +0900
10日月曜日づけ朝日新聞大阪本社版「歌壇」の、郷隼人氏の歌で知った。 漢字表記にふりがなつきで。 「霊」の意味を含まないことに注意しよう。
memorial service だから、直訳すれば「記念礼拝」となろうか。 日本語の「記念」は喜ばしいことについてのみいうことが多い。 memory の形容詞形だから、「記憶」と訳すことも考えられるが、 それでは新語になってしまうか。
ジーニアス英和は memorial に「追悼の」という訳語も載せている。 英語を知っていて日本語を学ぶ人は、memorial にあたる日本語には 「記念の」「追悼の」の二つがあることを知らなければ、ということになろう。
2011-01-11 (2) 02:28:27 +0900
身を乗り出しながらさかんに拍手」で相撲観戦と報道
10日月曜日づけ大阪本社版スポーツ面の、相撲の記事の下の、
「両陛下が観戦」という小さな記事。
《時折身を乗り出しながらさかんに拍手を送っていた
》
とあるが、これは《天皇、皇后両陛下
》だけに許される観戦のしかたなのか、
それとも。
“相撲は神事”と言われると、「パルジファル」第一幕が思い出され、 拍手をするのもいけないかと思ってしまう。
タイトル行に書いたこととは関係なくなるが、
《陛下は観戦後に「いい相撲がたくさんありましたね」と感想を述べたという
》
とあるのは、どちらの陛下?
2011-01-11 (2) 02:14:30 +0900
9日日曜日づけ朝日新聞大阪本社版オピニオン面「声」への、 大阪府河内長野市の主婦、大熊邦子さんの投書、 『「ろう石」懐かし 文具だった』。
このかたが子どものころは石墨(せきぼく)と呼ばれており、
《終戦直後、
私は愛知県の小学校にこの石墨と「石板」を持って通学していました。
石板は今のA4ノートほどの大きさで
》
とあるのをみて、「今も昔もA4サイズは変わらないだろうに」
と思ってから、でもこの「今の」がないと、
当時A4ノートがあったように読めるのだな、と気がついた。
タイトル行に書いたことは以上で終わり。
実際にA4サイズだったかどうかは、疑問が残る。
《当時の布製ランドセルにどのように入れて通学したのか
》
とあるが、
現在のランドセルがA4サイズを入れられるようになったのは最近のことだし、
子どものときの記憶は、あとから実物を見ると
「こんなに小さかったの!」と思うことが多いからである。
《「あいうえお」を覚えました
》とあるから、
小学校一年生だったのかもしれない。
石の板を持って通うのは大変だったと思う。
《書いては消して
》とあるが、
どうやって消したのだろう? 私は小さいころ、
ろう石で舗装道路に絵を書いた記憶があるが、消した記憶はない。
石板は表面がなめらかで、何かでぬぐえば消えたのだろうか?
付) 《この「いろいろ」で、一般人の投書を取り上げる場合にも投書者名を書く理由》 はこのリンク先を参照されたい。
2011-01-11 (2) 00:59:22 +0900
前項の“酒場”から気づいたのかというとそうではなく、 ネットで「ばかばかしい」という書き込みを見て、 まさかこれは逆からは読めないだろうな、と思って読んでみたら。
2011-01-11 (2) 00:46:59 +0900
抜きながら相手の銃か腕を切り、 そのあと水平に振っているのは、相手の首を切ったようにも見えるが、 叫び声が聞こえるから、切ったのは腕だけなのだろう。
そのあと、しばらく剣を抜いたまま構えていたのはなぜ? すばやくしまえば、 ジェダイの生き残りと見抜かれずに済んだかもしれないのに。 (あまりの早技に、剣は見えない。)
2011-01-10 (1) 23:32:00 +0900
オビ=ワンの家で受け取ったときは青かったが、 ファルコン号の中でフォースの訓練を受けるときは緑になっている。 それが、だんだん薄い色に変わってゆく。
III の最後でアナキンの剣は青だったし、 V のルークの剣も青だ。
ハイパースペース内で青いライトセーバーを使うと緑に見える、 という仮説はどうかな?
2011-01-10 (1) 23:28:41 +0900
いま、劇場初公開版(1977 年)を見ていてこの項目を思い出し、 「あれ? あんまり緑でないな、ウソを書いたかな?」と思ったが、 はっきり緑になるのは特別版だった。 特別版を作る際に緑色にしてしまった、ということか。 なんか変だな。
2011-04-03 (0) 00:52:07 +0900
帰京のときのメモ。実家でエゼキエル書を読了した、との覚え書だった。
2011-01-10 (1) 21:08:38 +0900
秋月氏のホームページの掲示板に、同氏が次のように書いていた。
夢の見直しとは、例えば次のようなものでありましょう。
いつも、いつも電車に乗り遅れる夢を見ているとします。
でも、いつからか電車に乗り遅れない夢になった、とか。
(これで全文。途中・前後の空行もそのまま引用した。)
タイトルだけ予告されたとき、私が想像したのはこれとは違った。 最近、目覚めたあと、もう一度眠って、 同じ夢、あるいはその続きが見られることが多くなっているのだ。 (目覚めたというのが実は夢の中、という可能性もあるが、 携帯電話をいじったりして、間違いなく目覚めている。)
2011-01-10 (1) 20:44:20 +0900
未明にアップロードしようとして、 一度はホスト側から切られたものの、再度試して成功したと思っていたのだが、 床の中から携帯電話で見たところ、“見つかりません”になっていた。
2011-01-10 (1) 20:40:44 +0900
2011-01-10 (1) 01:07:04 +0900
久しぶりに、通して見た。二度に分けてだが。 R2-D2 と二人だけになった C-3PO が、 帝国軍兵士をだまして逃げ出すところは賢いな。 あれだけ賢いドロイドがいたら、こわいかもしれない。
2011-01-10 (1) 00:44:05 +0900
人間は本来、現状を維持しようとする --- 心の慣性の法則」
8日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b9 面、 「勝間和代の人生を変える『法則』」。 今回の法則はタイトル行に引用しておいた。
ニュートン力学で、 私たちは「慣性の法則」を習いました。
すなわち、何らかの形で力が働かない限り、 静止しているものはそのまま静止しているし、 ある速度で動いているものはそのままの速度で動き続ける、 という法則です。
実は、私たちの行動や意思決定においても、 慣性の法則が働いています。
そして、ここから本論にはいるのだが、
《現状のままであろうと
》し、
《変化を拒む
》人は失敗に終わる、
ということがいいたいらしい。たとえば次に引用する段落。
その根っこには現状を維持したいという心があり、 裏側には「過去の自分の肯定」と 「将来の損失回避」が組み合わされた複雑な心理が隠れています。
それはわかるのだが、 最初のたとえで現状維持がどういう状態にあたるのかがわからない。 静止にたとえるなら、速度ゼロであり、最初のたとえの加速度ゼロとは異なる。 止まっていては何も実現できません、というごく当たり前のことになる。 最初のたとえに従うなら、 目標をもち、そこへ向かって一直線に努力している人間は、 等速直線運動をしているのだから、現状維持であり、 慣性の法則に従って動いているだけの、ダメな人間となってしまうのではあるまいか。 このあたりで、速度と加速度を混同しているのではなかろうか、 との疑問が生じるのだ。
人生を、 宇宙空間をただよう物体にたとえることに無理があるのではあるまいか。 私には、人生は摩擦のある、 山あり谷ありの地面の上を動いている物体のように思える。 等速で動き続けさせるだけでも、力が必要なのだ。
また、常に加速度があればよいというわけでもない。 小さな半径で等速円運動をしていれば、加速度は大きいが、 いつまでもその円周上を回っているだけである。
私も、慣性でこのコラムを読むのをやめたほうが、 自分の人生には有益なような気がしてきている。
付) 目標に向かって一直線に動いているように見える人は、 実は常に細かく軌道を制御しているのだ、と言いはることは可能か。
2011-01-09 (0) 22:57:30 +0900
ロボットに嫌悪感を持つ人が多いという話も聞くが、 C-3PO と R2-D2 は人気キャラクタだろう。 新三部作になってドロイドが敵兵として現れるようになったが。
2011-01-09 (0) 22:38:48 +0900
ジャバの宮殿に潜入した際。 口ひげをそってもいない。 簡単な仮面のみで、顔は大部分出ている。 そうでないと、観客がランドだと理解できないんだけどね。
2011-01-09 (0) 22:20:31 +0900
秋月さんのページで、同さんの
「全世界一律、基本的に1日の労働時間は4時間としたら、おもしろくはなかろうか
」
という書き込みを見た。
そうなったら、才能のある人は午前・午後と別の会社に4時間ずつ勤めるだろう。
そこで気づいたのだが、現行の一日8時間という基準は、 二社以上に勤めることを禁止しているのだろうか? 16時間働くのは無理だけど。 副業を禁止、あるいは届け出制にしている職場はある。
付)「同さん」は、「〜氏」なら「同氏」となるのをまねたもの。
2011-01-09 (0) 17:43:30 +0900
新聞報道では「アングロ」に「暗愚魯」と当て字をさせた、 と読んだ記憶がある。
2011-01-09 (0) 17:22:09 +0900
本文ナシ
2011-01-09 (0) 17:20:34 +0900
本文ナシ
2011-01-09 (0) 17:16:10 +0900
一見したところ、コンピュータは(いわゆる)日本語の文字数の多さ、 特に漢字を征服したように見える。 しかし、カナ漢字変換でやっている限り、 画面を見ないで打てる言語と同じにはゆかない。 新聞などを見て打ち込む場合、新聞と画面の両方を見なければならない。 文章を考えながら打つ場合は、無関係な語に変換されて思考が乱される。
2011-01-09 (0) 17:06:11 +0900
ローマ字書き日本語では母音字 aeiou が頻出し、 これらの字形が似ているため、ぱっと見て区別がつかないことがある。 そこで、余っている flqvx を代わりに使ったらどうか、という冗談。 仮にこの順で aeiou の代用をさせるとしたら、 「kono aida wa sumimasen desita.」は 「kvnv fqdf wf sxmqmfsln dlsqtf.」となる。 「komeru」と「komaru」は「kvmlrx」と「kvmfrx」で、区別しやすい。
付)母音字すべてを置き換える必要はない。 一部または全部を置き換えた結果、区別がつきやすくなればよい。
付)日本式、訓令式なら 19 文字で済むので、ほかに c と j が余る。 c を入れなかったのは、新日本式で使うためと、 字形が母音字とあまり変わらないため。 j は、y より細いし、/j/ や [j] では j のほうが使われるので、 y の代わりに j を使おう、という意見がある。 それなら y が余ることになる。 また、z の代わりに j を使えば目立ちやすくなる、という意見もある。
2011-01-09 (0) 16:50:18 +0900
2011-01-09 (0) 03:32:09 +0900
8日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版文化面
「ガラパゴスの先へ 文化変調 第6部」の第3回目、
「機械と異界」。「魂宿す人型ロボット」
「アイドル・演劇…アニミズムと技術の融合」の見出しが見える。
(以下で、松原教授とあるのは
《公立はこだて未来大の松原仁教授(人工知能)
》のことである。
なぜ日本人はロボットと「共生」したがるのか。 松原教授は 「神に創造された人間が特権的に自然を支配する西洋的な世界観ではなく、 万物に魂が宿る価値観が背景にある」と分析する。
いわゆる「八百万(やおよろず)の神」「アニミズム(精霊信仰)」 と呼べる思想は、今も日本で息づく。
「ひこにゃん」「せんとくん」……。 動物や名産品を癒し系マスコットにした「ゆるキャラ」は、 観光振興など自治体に欠かせないものになった。
どちらも、動物や人がモチーフであって、 アニミズムの対象に含まれる、無生物ではない。 (せんとくんはゆるキャラではないようだが、それはどうでもいい。)
真宗大谷派(東本願寺)は、 今年の宗祖親鸞の750回忌に合わせ、 親鸞を模した獅子の「鸞恩(らんおん)くん」、 勤行集の本に顔を描いた「あかほんくん」などを作った。 着ぐるみが出向けば「かわいい」と子供が群がる。
やっと、無生物が出てきた。
原始的な信仰とされるアニミズム的な存在を、 理性宗教である仏教界もすんなり受け入れる、それが日本だ。 さかのぼれば、平安時代の高僧、鳥羽僧正作で日本最古の漫画とされる 「鳥獣人物戯画」にカエルの仏像、猿の僧正がすでにいた。
動物キャラクタなら、日本だけでなく西洋にもあるだろう。 アイソーポス(イソップ)の寓話集など。 野球の応援に、タイガースならトラのぬいぐるみが出てくるのは日本だけ?
2011-01-09 (0) 03:07:40 +0900
オリンピックの大会マスコットは、開催地で決定されるのであろう。 あれとの比較はされているのかな?
2011-01-09 (0) 21:54:52 +0900
8日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版社会面の、
《根本長兵衛さん(ねもと・ちょうべい
》さんの死亡記事。
2011-01-09 (0) 02:54:56 +0900
本文ナシ
2011-01-09 (0) 02:01:22 +0900
元々はどこが一つの漢字だったかを表せると、 仮に混ぜ書きした場合でも、読み間違いが減ると思うのだ。 「真しな態度」「真[し]な態度」のように。
ここでは下線と大かっこを用いたが、これらの記号は別の意味で使われている。 だから、新しい記号を導入する必要がある。
2011-01-09 (0) 01:57:15 +0900
本文ナシ
2011-01-09 (0) 01:46:10 +0900
7日づけ大阪本社版スポーツ面、「自由自在」は
「座布団 舞ってこそ金星」。《抜井規泰
》と署名がある。
先場所、白鵬の連勝が止まった一番で座布団が舞わなかったのは、
座布団ではなくマットのようなものがぬいつけてあったため、とある。
《江戸の昔、
番狂わせを起こした下位力士をたたえ、
観客が羽織を脱いで土俵に投げ入れた。
のちに羽織は力士から持ち主に返されるが、
その際、持ち主から力士にご褒美として金品が贈られた。
座布団投げは、その名残だ
》とあるが、
座布団投げそのものが始まったのはいつごろなのか書いてない。
また、現在の座布団投げは力士にとって何の収入にもならないが、
それで江戸時代からの伝統を引き継いでいると言えるのか。
《脚本家で元横綱審議委員の内館牧子さんは
「当たってもけがをしないウレタンとかにすれば解決するのではないでしょうか。
座布団が舞わずして、何が金星ですか」と話す
》とも。
相撲が神事であることを考えると、 勝ち負けによって座布団を投げるのは正しくないように思うのだが。
それと、
《座布団が降ってくるのは升席ではなく、土俵周りの砂かぶり席だ
》
とし、そこに座る人はそれなりの覚悟ができているはず、という論調だが、
座布団は升席から投げると読めるように書かれている。
升席から投げて、砂かぶり席まで飛ばず、升席に落ちたらどうするのか。
また、飛びすぎて、向かい側の升席まで行ってしまうことはないのか。
力士へのごほうびの意味を残すなら、 升席に自動販売機のお札を入れるところみたいなものをつけ、 そこにお札を入れると、金額に応じた枚数が、 砂かぶり席の上から落ちてくる、という趣向はどうか。
2011-01-09 (0) 01:10:23 +0900
2019-07-02 (2) 21:00:40 +0900
7日金曜日づけ朝日新聞大阪本社版オピニオン面の、耕論 「日本外交を強くする」のうち、横江公美(よこえくみ)さんの文には 「日本を恋してもらう戦略を」との見出しがついている。 私は「〜に恋する」だと思っていたが、 岩波古語辞典によるとそれは古い用法で、 平安時代からは「〜を恋する」となるのだそうだ。 (実際にひいた項目は「恋ひ」であるが。)
2011-01-09 (0) 01:10:22 +0900
本文ナシ
2011-01-09 (0) 01:07:22 +0900
…と私は思う。
2011-01-09 (0) 01:06:31 +0900
7日金曜日づけ大阪本社版オピニオン面の「声」への、 大阪市都島区の主婦、小山啓子さんの投書「宛名の表記 正確さ目指そう」。
《アルバイト先で宛名書きをした時のこと
》を元に、
《漢数字の「一」と「二」が並んでいると、
それが「三」なのか「十二」なのか判断しにくく
》と書いておられるが、
「三」なのか「一二」なのかではないのだろうか。
意味としては「十二」となるが、文字としては「一二」だ。
以下は余談。 《私個人としては、相手に確実に届けたいのならば、 アラビア数字を使用するのが一番ではないかと思っている》 とあるが、本当に言いたかったことは 「アラビア数字」ではなく「算用数字」であろう。
2011-01-09 (0) 00:59:42 +0900
付) 《この「いろいろ」で、一般人の投書を取り上げる場合にも投書者名を書く理由》 はこのリンク先を参照されたい。
2011-01-09 (0) 17:14:44 +0900
7日金曜日づけ大阪本社版経済面の「訂正」。
6日付の中山恵嗣さんの死亡記事で 「中山恵嗣さん(なかむら・しげじ)」とあるのは、 「中山恵嗣さん(なかやま・しげじ)」の誤りでした。 訂正します。
どうして読み間違えたんだろう?
2011-01-09 (0) 00:53:57 +0900
7日金曜日づけ朝日新聞大阪本社版国際面、「特派員メモ」はルッカ(イタリア)
からで、「誇り高き専業主夫」。《南島信也
》と署名がある。
《役所のコンピュータには「主婦」を表す女性名詞
「カサリンガ」しか選択肢がなかった
》のを、
《「主夫」にあたる男性名詞「カサリンゴ」と記すよう譲らず、
すったもんだの末に認めさせた
》とある。
イタリア語の場合、語尾を規則的に変えれば女性形から男性形が作れるから、 同音意義語の「主夫」となってしまう日本語より便利か。
2011-01-09 (0) 00:47:52 +0900
7日金曜日づけ大阪本社版。
《マスコミ側が申し入れた記者会見を拒む一方で、
動画投稿サイトのユーチューブに「不出馬会見」とする動画を投稿した
》。
一都市の市長のことを、なんで社説で取り上げるの、 と言ってしまえばそれまでだが、 広島市は人類史上初の被爆都市だから、かな。
2011-01-09 (0) 00:41:41 +0900
「Phinloda の裏の裏」 で見た問題は、これの n が 3 のとき。 普通に火をつけたのでは、23 = 8 分の自然数倍しか測れないから、 両側から火をつけるのだろう、と考えたら、わかった。
数学的帰納法で示す。 n が 1 のとき、2 分燃える線香で 1 分を測るのだから、 線香の両側から同時に火をつければよい。 n-1 まで言えたとする。 n 本の線香に、同時に、一本だけは両側から、残りの n-1 本は片側のみ、 火をつける。 一本めが燃えつきたとき、2n-1 分が経過しており、 残りの n-1 本は 2n-1 分だけ燃える量が残っている。 帰納法の仮定により、それらで 2n-1-1 分を測ることができ、 2n-1 と合わせて 2n-1 分を測ることができる。
2011-01-09 (0) 00:23:50 +0900
フランス語風発音なのかな?
2011-01-09 (0) 00:09:00 +0900
秋月氏のページで、同氏の書き込みに
《医療保険改革法の詳しいところは見ていないのですが、
アメリカ議会の一部はこの法案の廃止を目指しているそうで
》
とあり、「法案の廃止」が気になった。
法案は「廃案」になるか、「否決」されるのではないか。
「法案の廃止」は、Google で約 1,040,000 件ヒットするが、見てゆくと
《最も的確な結果を表示するために、上の176件と似たページは除外されています。
検索結果をすべて表示するには、ここから再検索してください
》で終わる。
「法案の廃案」は約 137,000 件だが、実際に 300 件以上ある。 (すべての引用箇所を読んではいないが。)
「法案の否決」は約 161,000 件で、これも実際に 300 件以上ある。
2011-01-08 (6) 23:43:02 +0900
7日金曜日づけ大阪本社版第一面掲載分。
《思えば息とは重宝なもので、
かじかむ指を温められるし、
熱い雑炊を冷ますこともできる
》
というのだが、実際にできるのは“体温に近づけること”だけである。
息をかけてビールを冷やすことはできないし、
冷めた雑炊を熱くすることもできない。
2011-01-08 (6) 23:22:49 +0900
7日金曜日づけ大阪本社版第一面「教育 あしたへ」の第6回目。
千葉市立稲毛高校3年の内海菜々花(うちうみななか)さん(18)は16歳だった 一昨年(おととし)7月、千葉市のこどものまちの市長になった。
段落末に一文字の空白があるので、「一昨年」を「おととし」と書いても、 行数は増えない。 ひらがなが続くと読みにくいと思ったのかな、と考えたが、 先のほうには次のような段落がある。
会場には本物の市長さんもいた。 「大人は携帯は危ないと言うけど、子どもが使う施設に公衆電話がない」。 要望を伝えると、市長さんはなるほどなあとうなずいていた。
この最後の部分は、ひらがなが続いてあまり読みやすくない。 ただし、ここは、字数の関係で、「なるほどなあ」をかぎかっこで囲むと、 行数が増えてしまう。 『「なるほど」と』とすると、ニュアンスが違ってきてしまうだろう。
2011-01-08 (6) 23:15:26 +0900
2011-01-07 (5) 01:40:08 +0900
6日木曜日づけ朝日新聞大阪本社版国際面の 「ニュースの単語帳」で知った。
なんで「口蹄疫」なんてむずかしく訳すのだろう? 「皇帝液」かと思うじゃないか。
2011-01-07 (5) 00:58:35 +0900
センター試験のサイトを見ていたら、 受験会場が最寄りの大学等でないのですが、というFAQが出ていた。 受験生全体の移動距離を考えて受験会場を決めるので、 最寄りの大学にならないケースがあるのだ。
前項に関連。
2011-01-07 (5) 00:44:31 +0900
6日木曜日づけ大阪本社版第一面「教育 あしたへ」の第5回目。
山谷小は「人が来ない学校だった」と元校長の大竹久江さん(65)は言う。 住民や親が訪れて来ない。 ランドセルを背負った子が校門を通りすぎ、 別の学校に向かう。 学校選択の際、学区の家庭から選ばれないからだ。 (以下略)
実際、この小学校の周辺の子が従来通うことになっていた小学校はここなのだろう。 しかし、そうでない場合も考えられる。 《朝日新聞>「学校のある位置はその学校の校区に含まれる」と仮定している》 参照。
あと、
「校門を通りすぎ
」は正しいだろうか? 「校門の前を通りすぎ」
なら意味ははっきりするが。
もしも、あるエリアを囲むフェンスの一カ所にもうけられた「門」があったとすると、
その「門を通りすぎる」は外へ出てゆく、あるいは外からはいってくる、
の意味になる可能性が高い。
2011-01-07 (5) 00:35:28 +0900
6日木曜日づけ大阪本社版第一面。
《数字を聞くだけで畏敬をおぼえる木々がある
》と始まるが、
「数字」は文字の一種である。それをどうやって聞くのだ?
何のことかと思うと、
《たとえば米国カリフォルニア州の森にある杉の一種ギガント・セコイアは高さが84メートルある
》。
数でも数値でもなく、
高さ・重さ・樹齢などの物理量の大きさを言っているらしい。
2011-01-07 (5) 00:29:33 +0900
例えば、60歳近くの人が赤い服を買ったが派手で着られない、 というようなとき、まわりの人がいう言葉。 《回文>「還暦 切れんか」(かんれききれんか)》 よりは、具体的に光景が浮かぶだけ、ましかも。 「着れん」は「着る」の可能動詞 --- まだ正式なものとはみとめにくい --- に否定の「ん」がついたもの。
2011-01-06 (4) 20:16:06 +0900
この前の項からこのファイルの終わりまでの記事は、 いちど間違って「その245」に入れてアップロードしてしまったが、 いま、こちらへ移動した。 自分で決めているファイルサイズの制限を越えていたことに気づいたため。
2011-01-06 (4) 20:07:42 +0900
2011-01-06 (4) 01:50:24 +0900
1873〜99年まで」は「〜」の使い方が変だと思う
4日火曜日づけ大阪本社版科学面に、
《1873〜99年まで日本の化学を指導した
》とある。
これでは「〜」の使い方がおかしいと思う。
「1873年から99年まで……」とするか、
「1873〜99年に日本の化学を指導した」だろう。
「1873〜99年の間、日本の化学を指導した」も許せるか。
《東山正宜
》と署名あり。
2011-01-06 (4) 01:13:35 +0900
4日火曜日づけ朝日新聞大阪本社版「教育 あしたへ」の第一面からの続き。
川端達夫・前文部科学相は昨年8月、 数学五輪メダリストたちと交わした会話が忘れられない。 「君たち、進路は?」と聞くと、 多くが「東大に行きたい」。 でも、ほとんどが医学部志望だという。 「数学者の道は?」と聞くと、1人が言った。 「そういう道を選びたいとは思っているが、 親が反対している。 それでは食っていけないぞ、と言われている」
いろいろ考えた。 一つ。私のいまの生活水準は実は「食っていけてない」レベルである。 一つ。数学者としては食っていけてない。 本当に数学者として給料をもらっている人はごく少ないからな。
2011-01-06 (4) 01:05:19 +0900
定期船の時間も変え」は「時刻」のつもりらしい
4日火曜日づけ大阪本社版の、
一面の題字下の、記事のサマリー、「島に5人家族がやってきた」。
《一家の子の通学にあわせ、船に時間も変えた
》。
所要時間を変えたように読めるが、本文を読むとそうではなく、
出る時刻を変えた、の意味。
社会面の記事には
「登下校 定期船の時間も変え」と大きな見出しがついていた。
本文にも
《1日にほぼ1往復しかない船の時間を登下校に間に合うよう変えてもらった
》
とある。
《中田絢子
》と署名あり。
2011-01-06 (4) 00:48:49 +0900