森 雅裕 27


トスカのキス


2006/01/05

 最後の小説作品が発表されてから五年以上が経過した。現在では著作の入手は困難を極める。それでも、作家森雅裕の名はファンの間で語り継がれてきた。その熱意は昨年末に二つの実を結んだ。一つは、『モーツァルトは子守唄を歌わない』『ベートーヴェンな憂鬱症』の復刊として。もう一つは、未発表作品『トスカのキス』の刊行として。

 東京台場に建設されたガラスの城、オペラタワー。流浪のオペラ歌手草凪環は、そのこけら落とし公演『トスカ』に出演するため日本に降り立った。時を同じくして、環の高校の先輩である作曲家の鍋島倫子が餓死したというニュースが飛び込んでくる。

 欧米のコンクールを荒らし回るという環の設定と、実に「らしい」登場シーンにいきなり嬉しくなるじゃない。しかし、序盤は倫子の死にページが割かれるので重苦しい。面白おかしく扱うマスコミ。死者に鞭打つ業界関係者。業界から抹殺された悲劇の天才倫子は、作家森雅裕の分身か。嫌な人間は徹底して嫌な人間として描くのが森雅裕流。ああ腹立つ。

 迎えた公演初日。ところが、開場直前のオペラタワーがテロリストに占拠される。一瞬呆気にとられると、沸々と気持ちが昂ぶってきた。芸術とアクションのかつてないコラボレーションだ。森雅裕ファンなら興奮せずにいられようか。彼らの要求はウイルス学者の釈放と現金50億円。しかも、『トスカ』の物語通りに人質の出演者を殺すという。

 死の舞台が進行し、トスカ役の環に絶体絶命の危機が迫る! しかし、何を隠そう環は自衛隊出身なのだ。空挺団の精鋭望月三佐に一歩も引けを取らず、共同戦線を張るというのだから、最高だよあんた。一方、管轄争いしている警察と自衛隊のお偉方たちは、怒りを通り越して滑稽でさえある。環は躊躇なく引き金を引き、オペラタワーに血の雨が降る。これは戦争だ。しかし、『感傷戦士』『漂泊戦士』のような悲痛さは不思議と感じない。

 オペラタワーの決戦が終結してから、事件の全貌が見えてくる。どうも臭いと思っていた男がやっぱり臭かった。主に個人の矜持を描く森雅裕作品に、ここまで壮大な野望を抱く人間が登場したことはない。しかし、この手の人間は徹底して底を浅く描くのが森雅裕流。誇り高き流浪のプリマにして戦士の環がお前なんかと組むもんか。ああすっとした。

 いやあ満腹満腹。読み終えると、自衛隊に関する年表が付記として掲載されている。本作は平成12年に書かれ、平成14年を舞台に書き改められているが、自衛隊の近代史と密接に関わっている。常に議論の的となる自衛隊だが、隊員の誇りは本物と信じたい。

 有志により自費出版された本作の発行部数は150冊。縁あって僕は入手することができた。いつの日か、本作が、他の作品が、多くの読者に手に取ってもらえることを願って。



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