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樋口一葉の人生から学ぶもの

                             杉山武子


 「書く」ことへのこだわりと悩み

平成十六年十一月一日、紙幣のデザインが二十年ぶりに一新され、新五千円札に明治の女性作家樋口一葉 の肖像が登場した。心待ちにしていたその新札を初めて手にしたとき、一葉の表情は少しさみしげに見えた。 それにしても何と皮肉なことだろうと、私は思わずにはいられなかった。なぜならたった二十四年の生涯しかな かった一葉の後半生は、お金に縁の薄い貧困続きの毎日だったからである。

近代女性として初めてお札に登場するという幸運を得て、樋口一葉は一躍時の人となった。戦後生まれの世代 である私は、まがりなりにも樋口一葉の名前を学校で習った。しかし聞くところでは、最近の教科書には一葉は 登場しないという。そればかりか夏目漱石や森鴎外の名前も消えようとしているらしい。日本の近代を知る手掛 かりとして彼らの文学作品に親しんだ身としては、さみしさは否めない。そんな中、あらためて一葉が注目された ことは、一葉像を探求し続けてきた私にとって、この上なく嬉しいできごとだった。

私が大人になったらものを書く人になろうと心に決めたのは、十歳のとき『アンネの日記』を読んでからだった。 人は必ず死ぬ。けれど良い作品を書けば、作品は読まれて生き続け、人々を感動させることができる。『アンネ の日記』はそのことを私に教えてくれた。

それ以来「書く」ということは、私の一番の関心事となった。詩や日記を書きはじめ、十代の終わり頃から小説の 習作を試みた。有名な文学賞を取ることが作家になる一番の近道と知ったが、そう簡単ではないこともわかった。 しかし作家をめざすことと私の考える「書く」ことは、なぜか一致しなかった。

学業を終えた私は就職し、仕事を続けながら結婚し、子どもを産んだ。家事育児の終わった深夜の一時間を 自分のために確保し、日課のように何か書き、作品の着想を得て原稿用紙に向かう日もあった。書くことの 純粋さとは、誰の命令でもなく、自分の書きたいものを、自由に書くことではないのか。それが「書く」ことの一番 理想の姿だと信じた私は、それをよしとしてきた。

しかし書いたものは人目にさらし、批判を受けなければ上達しない。いくら良い作品でも発表しなければ読まれ ようもないし、自己満足で終わる。印刷して発表し、商品となり、読者の手に渡ってこそ評価もされる。それが わかっていながら、なお私には依然としてこだわりがあった。良い本だから売れるのか。宣伝するから売れるのか。 売れれば良いのか。私は書店に並ぶ本の前に佇み、「書く」ことと「売る」ことの深遠な関係を思うのだった。

 人はなぜ書くのか?
 何を書くのか?
 それは本当に書かないといけないことなのか?

そんな堂々めぐりに明け暮れていた二十代半ば、私は二人の女性作家の作品と出会った。樋口一葉と吉野せい である。吉野せいは五十年を東北の開拓農民として生き、七十歳を過ぎて『をたらした神』を書いた人。それを 読んだ私は、のような文体に一撃され、打ちのめされた。なぜこのような文章が書けるのだろうかと。同じころ、 こんな文章にも出くわした。

 「文学はの為になすべき物ならず。おもひの馳するまゝ、こゝろの趣くままにこそ筆は取らめ。いでや、是より 糊口的文学の道をかへて、うきよをの玉の汗に商ひといふ事はじめばや」

それは樋口一葉の日記の一節だった。糊口とは生計を意味する言葉だとそのとき知った。これを書いた当時の 一葉は二十一歳。その数行に「書く」ことについての共通する悩みを感じた私は、一葉に強く惹きつけられた。

 「日記」と対話し、一葉の真実の姿を求める

樋口一葉の貧困生活はよく知られている。吉野せいの作品も、東北の開拓農民の地を這うような厳しい生活が 描かれている。時代も生きた環境も全く異なる二人の共通点は、家計を担い貧困と闘い続けたことだった。では 貧乏ならよい作品が書けるかといえば、必ずしもそうではない。二人に共通するのは、貧困の中で人や社会を 見る目、聞く耳、考える力を鍛え、体験を肥やしとして、それを作品に結実させていることだ。

文学精神とはそういうものだろうか。もしそうなら、あの短い生涯に、一葉はどんなふうにそれを獲得していったの だろうか。そんな疑問と興味から、私は一葉の生涯の内実と創作の関係を知りたいと思った。一葉の写真をじっと 眺めながらそんなことを考えていると、やってみたら?と一葉が私にほほ笑み返すように思えた。

さっそくいろいろな本を読んでみると、樋口一葉には「天才」「奇跡」という言葉がいとも簡単にくくりつけられていた。 そんな評価では納得できない私は、数多くの作品論や作家論を読んだが、学術的な論文にさえしばしば「天才」 「奇跡」の文字を発見して、失望した。いったい創作に向かうときの作者の息遣い、その文学精神の秘密を解き 明かす場所はどこにあるのだろうか。いっそのこと、自分の疑問は自分で解いてみよう。そう決めた。

そこから一葉の日記を読み始めて、かれこれ三十年。一葉の生涯を考えることに、私は多くの時間を費やしてきた。 それは誰から頼まれたわけでもなく、誰のためでもなく、自分のためだった。一葉の日記を読み解くことは、私の 「書く」ことへのこだわりやもろもろの疑問を探求することでもあり、一葉と一緒に考えていく楽しさに満ちていた。

一葉は十六歳のとき長兄を肺結核で亡くし、翌年父親も事業の失敗の末病没した。樋口家の長女は嫁ぎ、次兄 は分籍していたので、次女一葉が相続戸主となり、母妹の扶養をする立場に立たされた。一葉十七歳、いまなら 高校二年生である。母妹と三人力を合わせ、洗い張りや仕立物などの内職で生計を立てたが収入はしれている。 没落したとはいえ、士族の暮らしのなごりは急には捨てられない。一葉一家は着物の質入れや知人からの借金で、 何とか日々をしのいだ。

十九歳になった一葉は、生活打開のため小説を書いてお金を得ようと考えた。一葉が通う歌塾「の」の姉弟子 田辺龍子が、小説「の」を書いて原稿料三十三円二十銭を得たことがヒントになったのである。小説を書けば お金になる。このことに強い希望を抱いた一葉は、大胆にも前例のない女性職業作家をめざし、新聞小説 記者半井桃水に師事して小説を書き始めた。

以来、一葉は小説の修業に励む一方で、桃水との出会いをきっかけに本格的な日記を書き始めた。四十数冊 の日記には半井桃水の記述が多いことから、一葉の日記を「恋愛日記」と呼ぶ人もいる。しかし私はそのこと より日記の別な面―― 一葉が「書く」とは何か、何を書くべきかを生涯考え続け、努力する記述の多さに眼を 見張らされたのである。

 「こゝろのほかに文をうることのなげかはしさ」

一葉はお金を得るために小説を書き始め、最初から売れるものをめざして努力した。しかし王朝文学の素養を 身につけていた一葉の文章は格調高いものであったらしく、桃水から「大衆向けにもっと俗調に」と何度も書き 直しさせられている。桃水の指導は筋立てや趣向に重きをおいた通俗小説の手法だった。生活のかかっている 一葉は毎日原稿を書くことを自分に課し、必死で努力したが、現実はそう甘くなかった。

桃水に小説の売り込みを頼ったものの、一葉の書いたものは一向にお金にならなかった。そのうえ桃水との 交際が歌塾で醜聞となり、一葉は一年余りで桃水と師弟関係を絶った。このことが通俗小説の指導から離れる ことにもなり、一葉は『文学界』の青年たちと出会い、新しい文学の潮流や外国文学へと視野が広がることに つながった。

姉弟子田辺龍子のあと押しもあって、一葉のもとに原稿執筆依頼がくるようになると、母妹は無邪気に喜んだ が一葉は内心冷や汗をかいた。一葉はそのころ雑誌『早稲田文学』掲載の評論「文学と糊口と」を読んでいる。 その要旨は「近年文を売って口を糊することが容易な世になったが、見識が高すぎても金にはならず、かといって 生活の為俗受けするような物を書いても真の文学とは言えない」というものだった。

かつて桃水は日本の読者の幼稚さを批判しつつも、自分は生活の為に大衆に迎合して通俗小説を書いている、 と一葉にジレンマを語った。その指導に限界を感じて離れた一葉だったが、自分もやっぱりお金のために書い ている。その現実に、「文学と糊口」の一文は大きな衝撃を与えたのであった。一葉は小説を書き始めたころ

「今日喜こばるるもの明日は捨らるのよといへども、真情に訴へ、真情をうつさば、一葉の戯著といふともなど かは値のあらざるべき」(「森のした草」)

と、書くことへの真摯なまでの決意を記している。一年後、「文学と糊口と」を読んだのちの日記には、「書く」こと について相当頭を悩ませる一葉の姿が読み取れる。

 「我は営利の為に筆をとるか。さらば何が故にかくまでおもひをこらす。
 得る所は文字の数四百をもて三十銭にあたひせんのみ。家は貧苦
 せまりにせまりて、口に魚肉をくらはず、身に新衣をつけず。老いたる
 母あり、妹あり。一日一夜安らかなる暇なけれど、こゝろのほかに文を
 うることのなげかはしさ」(明治26.2.6「よもぎふ日記」)

文を書いて売る。それは戸主としての責任を果たすための営みであり、他の職業となんら変わらない。だが今 までの自分の努力は目的においては正しくても、方向において間違っていたのではないかと一葉は気づく。

「心をあらひ、めをぬぐひて、誠の天地を見出んことこそ筆とるものゝ本意なれ」(日記)そんな高い見識が芽生え ていた一葉は、単にお金のために出版社の注文どおりに書くことができなくなって、いよいよ食い詰めていく。 着物の質入れと知人からの借金も限界がきて、ついに一葉は吉原に隣接する龍泉寺町で荒物屋を始める ところまで追い込まれた。この決意を記した日記の部分は、冒頭のほうですでに紹介した。

零細な商いだったが、一時的にしろ一葉はお金のために書くことから解放され、図書館へ通い、読書や創作に 励むおだやかな日々を送っている。しかし商いは八ヶ月余で行き詰まり、店を閉じて一家は新開地の丸山福山町 へ転居。ここが一葉の終の棲家となった。

 珠玉の作品が百年後の今に問いかけていること

小説を書く一方で歌塾に通い続けていた一葉は、師の中島歌子から実力を認められ、独立して歌門を起こす よう勧められた。しかしのれん分けには応分の資金が必要で、お披露目の費用もいる。実力はあっても財力の ない一葉は、一時執着した歌人の道も断念した。もう一葉には小説を書く道しか残っていなかった。

明治五年下級官吏の娘として生まれた一葉は、女に学問は不要との母の意見で進学希望を絶たれ、女戸主 のため結婚もあきらめ、本郷界隈の狭い生活範囲で二十四年の生涯を終えた。しかし十四歳から通った 歌塾で上流社会を知り、帝大一高の学生や文壇の大家たちと出会い、遊郭に寄生する貧民街の暮らしを 体験し、丸山福山町では娼婦たちと接して明治の風俗の一端を垣間見ている。社会へ向ける一葉の目は 研ぎ澄まされ、下層社会の女性を救済する事業を考えたこともあった。

しかし明治の世に女としてうまれたばかりに、思うことの実行はもちろん、その考えさえ理解されず、一葉は 時として日記に女であることの悔しさをにじませている。

「道徳すたれて人情かみの如くうすく、朝野の人士、私利をこれ事として国是の道を講ずるものなく、世は いかさまにならんとすらむ。かひなき女子の何事を思ひたりとも及ぶまじきをしれど」(「塵中につ記」明治27.3)

上流階級から下層社会まで幅広い階層の中で生きた一葉が「書く」意味を求めて到達したのは、いま自分の 生きている明治の世をあからさまに表現し、後世に伝える書き手になるのだという使命感だった。売るために 書くことを捨てたとき、一葉の筆は自ずと定まった。晩年、一葉は底辺社会に生きる女性を主人公に据え 「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」など名作を立て続けに書き、世を去った。

女であることが意思の実現を阻んだ一葉の時代から百年以上たった現在、女であること、また男であること のくびきから、私たちはどれくらい自由にかつ解放されたと言い得るだろうか。一葉の作品は、いまなおそれ を私たちに問いかけている。
(註:引用は小学館『全集樋口一葉』より)
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(『月刊 自由民主』第622号・平成17年1月号所収)