前回紹介したねずきちさんブログ『硫黄島の戦い』の中にリンクのあったパラオ・ペリリュー島の戦いをそのまま掲載しています。
このペリリュー島の戦いの中には下記に掲げたパラオの国旗の由来が記されています。実は昨年の北京オリンピックの入場式の時、この旗(色違いの日の丸)が私の目に焼き付いたのです。しかし、アナウンスを聞き逃し・・・何処の国のなのか知りたいと思いながらそのままになっていて、たまたま開いたねずきちさんのブログで知る事が出来た、それも、そう想わせた気持ちに違うことないパラオ国旗制定由来の話と共に。
まずは下記をご覧ください。
日食のダイヤモンドリング
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”青い海に月の円日の丸まねて 友好あかし パラオの国旗”
”重なりて とこしえの ダイヤモンドリング パラオの国旗と 日章旗”よし子/ 【追加1】(今年はアジア地域、日本で日食が見られましたが、午前11時頃、太陽の上に月が重なるその間際、眩ゆいダイヤモンドリングの煌き!そして約6分間の昼間の闇・・やがて太陽コロナが)
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8/12付産経新聞「歴史人物講座」<神風特攻隊が遺したもの>に【敗れはしたものの世界の覇権を握る米英に敢然と立ち上がり、神風特攻まで行い、死戦死闘した日本民族の勇気と気概に、世界の人々は今も心の奥底で畏怖と尊敬の念を抱き続けている。これを組織し指揮したのは大西瀧次郎海軍中将で「この神風特攻隊が出て、しかも負けたとしても日本は亡国にならない。これが出ないで負ければ真の亡国になる」「ここで青年が起たなければ日本は滅びます。しかし青年達が国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びない」と述べている。特攻は玉砕戦とともに米軍を震撼させ、その結果アメリカは講和条件を緩和、日本は辛うじて亡国から免れた。大西の言葉ー日本はいざとなれば神風となって祖国を守り戦い抜く民族ー世界の人々をかく思わせてきたことが日本の存立にとり計り知れぬ力となっている。】日本政策研究センター岡田幹彦氏筆。以上産経新聞より。
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『宣言:愛国心、日の丸好きな日本人は<主翼>』
【追加3】”「左翼 反日」 「右翼 在日」 ならば
「主翼」で 私は 飛翔”
”天然の 縄文からの 日本人 私は「主翼」で
大空 飛び翔つ ”
”日本の 『日の丸』「君が代」 看板に
在日「右翼」は 何を意図する”
”在日「右翼」は 日食なり
正反対を 陰に陽に” よし子
「日の丸」ついでに、今日のTV『そこまで言って委員会』で「右翼・左翼」が取り上げられていて、
「愛国心、日の丸」掲げる『右翼』には外国人の北朝鮮や韓国人が多いとゲストが言っていた。
えっえーーなんで?日本人でない人が日本に愛国心をもてるの?それは似非愛国心でしょう?
大体愛国心持ち、日の丸を日本人の美意識所以と自負する私達天然の(縄文からの)日本人と、「右翼」とやらいわれる方々と同列にしてほしくないですよ。そんな方々(やくざ?)が日の丸、愛国心を『看板』に掲げるから、日の丸、愛国心が日本人から疎まれ、仲々根着かない(勿論日教組の教育もそれに加担してはいますが)のだと思いました。
だから私達本当の日本人で愛国心、日の丸好きな層は今日より、右翼、左翼でもなくその中心の『主翼』と宣言致します。
これでどちらに偏ることもなく無事日本号は大空へ飛翔(はばたく)ことができるようになるでしょう。
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(ねずきちさんのブログには動画もありました、是非。445)
パラオ・・・日本からだと、成田を出て、グアム経由で、だいたい8時間くらいかかる南洋の島です。最近の遺跡などの調査で、この島には約4000年前から人が住んでいた。
そしてパラオは、1885年にスペインの植民地となりました。スペイン人によってもたらされた天然痘や、略奪、殺戮の結果、パラオの人口は当時90%も減少したといわれています。1899年、スペインは、グアムを除くスペイン領 ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却します。この中に、パラオも含まれた。
1914年に第一次世界大戦が開始されると、ドイツに対して宣戦を布告した日本が海軍を派遣し、ドイツ守備隊を降伏させてこれを占領した。
1919年、第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の“委任統治領”になります。
当時のパラオの人口(パラオ先住民の人口)は、約6000人でした。
スペインによって植民地にされる前の人口は、約6万人だったともいいますから、いかに
西欧の植民地政策がすさまじいものだったかが、推してわかろうというものです。
(ちなみに2005年のパラオの人口は20,323人)
日本は、この島に南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)を置き、稲作、なす、きゅうり、さとうきび、パイナップルなど野菜や果実の栽培を持ちこんだ。
また、缶詰やビールなどの工場を建設。道路を造り、舗装し、橋を架け、電話をひき、学校、病院をつくるなど、各種インフラの整備を行なった。
さらに日本は、パラオの住民すべてにたいして、数種類の疾病に対する予防接種をうけさせています。パラオの尋常小学校では、文字をもたないパラオの人々のために、日本語教科書を用いて、日本語教育を行った。
中島敦という作家をご存知でしょうか?「李陵」「弟子」「名人伝」など、格調高い文芸作品を残した方ですが、彼は、このパラオ南洋庁の、国語教科書編集書記だった。
彼の作った教科書で学んだパラオの老人たちは、いまでも日本語を話すことができる。
中島敦は、パラオ赴任中に有名な「山月記」を著わしています。
パラオの人々は優秀で、小学校1年生ですら掛け算九九を暗証できたといいます。
そして第二次世界大戦がはじまる。
日本は、1941年にはパラオ南部のペリリュー島に、1200M滑走路2本の、飛行場を完成させている。パラオは、日本軍にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また日本の絶対的防衛圏上の、重要な拠点だったのです。
ところが、フィリピン奪還に総力をあげる米軍にとって、フィリピン戦の背後をとるパラオ・ペリリュー島の日本軍基地は、まさに目の上のたんこぶになった。
そこで、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画する。1943年の時点で、ペリリュー島には、899名のパラオの村人がいた。刻一刻と迫る米軍。村人たちは、白人統治の時代を知っています。
そして日本統治の時代も、身をもって経験している。
日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた村人は、仲間たちと話し合った。
そして村人たちは、大人も子供も、一緒になって日本軍とともに戦おう。
そう決めた彼らは、代表数人とともに、日本の守備隊長である中川州男大佐のもとを訪れます。平素、温厚な中川隊長なら、自分たちの頼み・・・一緒に戦う・・・を聞いてくれるに違いない。そして中川隊長に、「自分たちも一緒に戦わせてほしい」と申し出た。それを聞いた中川隊長は、瞬間、驚くような大声をあげた。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
・・・・・・
驚いた。日本人は仲間だと信じていたのに、・・・みせかけだったのか。。。。
村人たちは、日本人に裏切られた思いで、みんな悔し涙を流した。
そして、日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきた。
港には、日本兵はひとりも、見送りに来ない。村人たちは悄然として船に乗り込んだそうです。そして、汽笛が鳴る。船が岸辺を離れた。。。。
次の瞬間、
ペリリュー島に残る日本兵全員が、浜に走り出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送った。そのとき、船上にあった村人たちは、わかった。日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。涙が出た。
岸辺に見える日本兵に向かって、村人たちは、号泣しながら、手を振った。
誰もが泣いた。ちぎれるほどに手を振った。
1944年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたは切られた。
島に立てこもる日本軍10,500名。対する米軍総員48,740名。
そして航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃を行う米軍は、すでに補給を断たれた日本軍の数百倍の火力を投下した。最初に米軍は、艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを完全に焼き払った。
そして9月15日、「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とする第一陣、約28,000名が島に上陸した。
対する日本軍は地中深くに穴を掘り、米軍の上陸を待ち構えていた。
米軍上陸直後の水際での戦闘は凄惨を極めた。米軍の第一次上陸部隊は大損害を蒙り、煙幕を焚いて一時退却するという場面もあったという。
この戦闘によって米軍の血で海岸が赤く染まり、現在でもこの海岸には「オレンジビーチ」の名が残っている。10月30日には米軍第1海兵師団が全滅。海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病した。この時点で3日で終わるとされた戦いは1ヶ月半も継続されていた。
しかし、日本軍には決死の逆上陸による兵力増援はあったものの補給が一切なかった。日本軍の抵抗は次第に衰えを見せ、米軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落。さらに食料や水もなくなった。
11月24日、日本軍は司令部陣地の兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定。中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が割腹自決。
その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵力による「万歳突撃」が行われた。
こうして11月27日、ついに米軍はペリリュー島の占領を果たすこととなる。
上陸開始から2ヵ月半が経過してのことだった。
中川隊長の異例の奮闘に対して昭和天皇より嘉賞11度、感状3度が与えられています。また中川隊長は死後に2階級特進し陸軍中将となった。
なお、戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延びており、終戦後の1947年に米軍へ投降しています。
【ペリリュー島の戦い】
日本軍 戦死者 10,695名
捕虜 202名
米 軍 戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
村 人 死者 0名
負傷者 0名
1981年、パラオ共和国が誕生したとき、パラオの人々は、独立を記念して、
ペリリュー島守備隊を讃える歌をつくりました。
【ペリリュー島守備隊を讃える歌】
一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
つわものたちはみな散って
ペ島はすべて墓(はか)となる
二 小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾射ち尽くし食糧もない
三 ヘいしは桜を叫ぴつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの”桜"に意味深し
四 日本の”桜"は春いちど
見事に咲いて明日は散る
ペ島の”桜"は散り散りに
玉砕れども勲功はとこしえに
五 今もののふの姿なく
残りし洞窟の夢の跡
古いペ島の習慣で
我等勇士の霊魂守る
六 平和と自由の尊さを
身をこなにしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る
七 どうぞ再びペリリューヘ
時なしさくらの花びらは
椰子の木陰で待ちわびし
あつい涙がこみあげる
【その後、この歌詞に私が曲を作り現在、YOUTUBEから流しています。パラオ国旗 ペリリュー島の歌】
1994年、パラオはアメリカから独立をはたしました。
独立にあたり国旗を制定することになり、国民の間からデザインを一般公募した結果、日の丸をもじった今のデザインが採用となりました。
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日本国・日章旗 |
パラオ共和国・国旗 |
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この部分445です。
”青い海に月の円 日の丸まねて
友好あかし パラオの国旗”
”重なりて とこしえの ダイヤモンドリング
パラオの国旗と 日章旗”よし子
【追加2】太陽という、いのちの限りを祖国への愛に捧げ戦い抜いた
日本勇士と、
その日本勇士を讃え、国旗の月の中心をずらした
パラオの人の謙譲の心
両旗を重ねれば、そのずらしたことりよる「美しさの結合」として
ダイヤモンドリングの輝きが永久のものとなりました・・・・
ありがとうございました。 以上445.
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周囲の青は太平洋。まんなかの黄色い円は月をあらわします。
月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうです。
そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレています。日本に失礼だからと,
わざと中心をはずしたのだそうです。
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。
お亡くなりになられた、英霊の方々に深い哀悼の意を表するとともに、深く深く感謝いたします。 以上『ねずきちさんブログ』より。(一部太字は445)