445(よし子)のページ「今日という日」日高よし子更新2009年9月6日 23:07 【目次
お盆・終戦記念日に/ここにも日本兵の大和こころ(追加)大原麗子さん死亡 //
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8/19  ここにも日本兵の大和こころ
 8/13付にパラオ・ペリリュー島と日本兵の交誼を引用しているが、産経新聞の8/18付談話室に82歳男性のそのような戦時体験が投稿されている。抜粋すると【・・復員後にすぐ占領軍と復員省から「充員召集」を受け海外に残っている軍人軍属らの復員輸送に従事した。昭和20年12月から21年7月まで、サイパン、トラック、ラバウル、上海などを回った。復員兵らは帰国すると何年振りかで踏む祖国の地に、何度も涙を流しながら喜びあっていた。南方の各地の港では、現地の人に好意的に迎えられ「日本に侵略された」という意識はあまりないようだった。「にっぽんへいたいさん、またきてください。ありがとう」と日本語であいさつされたほどだった。
 それは従来の植民地支配と異なり、同じアジア人としての親近感もあっただろうが、日本人が『和を以って貴しとなす』という優しさや、互いを尊重し合う態度をもって、現地の人と接していたからではないか、と私は感じた。】(以上。太字は445)。/
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平成21年8月15日  ◎お盆終戦記念日に

 8/14 ”盆の入り(8/13) 一日遅れの 迎え火や”

      ”このこころ ともして あかし れいのたち

 両親弟妹の家族8人中、6人既に亡くその者達のかえる道々に火を点す・・・6人のことを
おもいながら・・・、そんな日本のお盆の風習。『おかえり・・・いっぺんに賑やかになったわ・・』、
そうおもうもおもわないも、個人のこころもちの事。
 現代の科学では、自身が「その人」を思うと自身の脳内の特定の場所(部位)に光が点る(電流反応)のだそうです。それは生きている者でも、死んでしまった者でもですが・・特定の名前の如く、ですね。

 この14日の午後、平成5年8月20日に亡くなった私の妹(甥子2人の母親)の17回忌法要を
行った。と言っても私と甥子2人、それに私の一番下の妹が夫婦でというものだが、住職の読経のうちに
終えた。平成5年に亡くなっているから死後16年経ったという事になる。当時上の甥子は8歳、下の甥子は4歳(11月で)になる年だった。約4年前に亡くなった私の母、私とともに大きくてしてきて、もうひと安心と言える年齢になった。上が24歳、下がこの11月で20歳になる。
 
   ”16年前 甥子8歳 4歳で 私は47歳だった。
  
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 <女優大原麗子さんが亡くなった。享年62才、私と同い年。>
”女優の死 「女の自立」 「核家族」 選んだ道の 果てに 孤独死” 
 酒井法子の覚醒剤事件が大きく取り上げられていた陰で余り報道されなかったが女優大原麗子さんが亡くなった。後2週間とも、3日とも言われる孤独死だったという。それをおもえば、この先のことは分らないが、(4年前)私の母は亡くなったが甥子達が在て幸せである。
 8/23にお別れ会があったようでその夜のテレビ「サキヨミ」で取り上げていた。森光子さんの弔辞『天国で幸せになってくたださい。・・私よりもっともっと長生きしてほしかった』、大原さんからみれば母親のほどの年齢の(私の母も生きていれば88歳になる)森さんだから自分より年が下の人の死を見送るのは辛いだろうとおもう。/30年来の友人という浅丘ルリ子さんの弔辞は(註:概略です)『・・夜中2時、3時でもお構いなしに何度も電話してくるあなたに、少し距離を置いた時期もあった・・・一方的な言い分で彼女はその辛さを誰も解ってくれないと訴えるばかりで・・
 昨年11月、大原さんが骨折したという事を知り見舞いに行った時、玄関口で崩れるように大原さんは抱きつき「なんでもっと早く来てくれなかったの?真っ先に来てくれると思ったのに」、二人で抱き合って泣いた。その時に彼女の病気(4〜5年前から患っていた難病ギラン症)との闘いの中の堪え難い孤独を実感した』。こんな風な内容だったと思うこの浅丘ルリ子さんの弔辞は、キレイ事や偽りでない生前の大原さんの孤独な難病との闘いの葛藤の凄惨さ、それは彼女自身が世の人に一番訴えたかったことだろう。
 この死亡を知ったインターネットの記事では『難病の所為で(足を骨折、腕も打ち身)こうなったけど、頑張ってリハビリしてよくなってるの。他にもこの病気で闘っている人達がいるから悪く書かないで・・』と語ったとあり、又記者が取材前に電話した時『身長はこれ位で、こんな感じの方でしょう?私、声だけでその人をイメージ出来るの』『やはりイメージ通りだった』、こんな内容が掲載されていて、細やかな思い遣りの持てる人なんだなと、心の余裕すら感じさせる記事の文面だった。 
 又たまたま観ていたワイドショーでは、ぶしつけにレポーターが家に行き大原さんのインターホンを鳴らしたからだろう、『元気なわけないでしょ。難病のせいでこうなったんだから』とインターホンから大原さんの声が流れていた。

 この時期の大原麗子さんのこの3つの対応に彼女のナイーブさをまず感じる。そして俳優という職業の人は自身を演じてしまう習癖が身についているがゆえに、その必要性の為には内面を押し殺して完璧に演じ切れる。ホントニやさしいひとなんだとおもう。
 浅丘ルリ子さんのお見舞い訪問がこの記者の取材訪問より先か後か分らないが(多分後の気がする)、その自分自身のギャップに喘いでいたのではないだろうか。身に詰まされる・・・。
 『女の自立』『核家族』ーーなんにでも長短所があるし、個人差もある。その言葉が出来上がると、それは流行語となり、流行り、流されて、その流れに乗ってしまう。だが人間の生きる上での核心にそれが成り得ない限り綻びが出てくる。それらに内在しているのは利己主義なのだから。

 だが人は年をとる。若い時には見えない「風景」が見えてくる。結局そういうことなのだ
大原麗子さんは私と同じ昭和21年生まれ、という事で印象に残っていた女優さんといえるのだが、そんな人の死に出会い、自分の生と死も照らされる。すべて本人の選択した人生の果ての孤独死。それが彼女の選んだ道だという事で完結した。未だ生きている者はこの先10年後は?とか、そういう問題が控えている・・・・もっと先は?
 今の私のおもいはこの先将来、甥子2人が独立しても養護ホームには入りたくないし、一人で生活する。大体いつも言っているように人間キライなのだから、知らない人間と同居など堪えられない。
 死んで(発見が)2週間経とうがそれは仕方ないと思っている。

 そういうことをひっくるめて、『女の自立』『家族』というものを各自が改めて考えるキッカケになればと思う。
 あれはいつ頃か10年もっと前になるかも知れない。テレビ「徹子の部屋」に『仲良しで・・』と二人して出演されていた。それ以外で大原さんをテレビで見かけなくなったのはいつからだろう?本当に知らぬ間に・・、亡くなられて、見かけなくなっていたことに気付いた。もっと活躍してもいい、いつも主演を張っていて、存在感のある人だったのに・・・。勿体無い限り。

 そういえば約4年前に亡くなった私の母が今から30年以上前位、当時夜の連続ドラマに主演されていた大原麗子さんを観る度『キレイな人やなぁー』と感嘆の声を上げていたことを思い出した。ホントに名前どおり和服のよく似合う美しい女優さんだった。母の思い出に絡んで大原麗子さんが生きている事を嬉しく想う。 30年前、こんな風にこの女優さんの事を思うなど夢にもおもわなかった・・・・。
    合掌。
”雲の白 いしのつよさの 孤独なり”

”ひとりしや 『すこし ながーく 愛して』と いった女優 大原麗子”

”ひとりきり 逝った人あり
 甥子に選ばれた人生で よかった”
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我やさき 盛(生)者必衰 人やさき

 浄土真宗を拡めたといわれる蓮如上人の「ご観章」の中にーーーー
それ人間の浮生なる相・・まぼろしのごとくなる一期なり、一生すぎやすし・・
いまにいたりて、たれか百年の形躰をたもつべきや、我やさき 人やさき、おくれ先立つ人はもとのすえの露よりしげしといえり、されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり・
・・>。南無阿弥陀仏。             以上

              ◎◎◎◎◎◎
 8月15日、墓参りに行った。下の甥子は他に用事があり、上の甥子とふたりで。
前々日に妹夫婦が行ったと言っていたので墓も水替えして住職の読経とお参りだけで終えた。
 
 終戦記念日である今日、帰路墓所近くの護国神社へ初めて参拝した。私の母の弟が戦没者であると聞いたことがあるが詳しい事(何処の戦地でいつ頃等)は何も覚えていない。
私の生まれる前の『人』で勿論顔も知らないから。だから身内云々という気持ちでなく、日本の為に
戦って死んでいった人達に感謝の意を表すため。最近ブログで硫黄島やパラオ・ペリリュー島での日本兵士の日本国民へのおもいを知ったことがこの行動の大因となった。もっと早い時間帯には追悼集会が行われたようであるが、私の行った時間帯4時位には人もまばらだった。本当ならこの日くらいもっと多くの日本国民が参拝すべきと思う。
 敗戦した戦争でも立派に戦い抜いた、そんな話を教えれば日本人として誇りに思える。敗戦国家だからと言ってなんで教育界は日本の軍隊を『悪かった』とばかり教えて、『良かった』事は教えないのか?
あの硫黄島ペリリュー島の戦いなどは教科書に載せてもいい話だ。

 たまたまその夜、映画『硫黄島からの手紙』がテレビ放映されていた。この作品は確か続編が作られていてアメリカ側から見た『硫黄島の戦い』と、この日の放映の日本側(兵隊)からの視点のものだがこの日本側の視点こそ敗戦したゆえの戦後日本の戦史観だと思った。
 ここには米軍が3日で陥落させるといった戦いが日本軍の死闘的戦いで2ヶ月抗戦された事、それに依って本国の日本国民が防空壕増加、疎開地移動への時間が倍加出来たーーその持久戦の意義も死闘も触れられていない、犬死の如くだった。続編の方が良かった、と劇場で見た人から聞いたことがある、次のテレビ放映を待とう。
 
 それにしても、あの硫黄島の滑走路の下にも、その他の地でもまだ帰還できない遺骨があるという。お国のために、戦った人々ですよ。国にはその方々を弔う大いなる責任がある。

 ”このこころ なくして 国家の存立 危うし”

 ”終戦後 64年経ちてなお 家族抱けぬ 数多(あまた)の遺骨”

 ”『核廃絶』 まず第一に 北朝鮮 空論 日本も 核所持すべし”

 ”雲塊も 核爆弾で 粉砕す 64年前 日本列島”


 そして、民主党のマニフェストには靖国神社代替施設建立案がある。
 ”『靖国で会おう!』 散った英霊に 国の背信 代替施設案”

 小泉元首相が首相として参拝以降、国民の靖国神社参拝者が近年増えたというのに、わざわざそんな無駄な代替施設造る必要などない。誰も参らない施設などお金の無駄。天皇陛下がお参りできないから云々と鳩山代表が言っているが、行って戴けばいいではないですか靖国に、御公務として。

 昭和天皇が靖国神社に参拝されなくなったのは、当時の三木総理が『私的参拝』とわざわざそんな言葉を使ったものだから昭和天皇はその三木発言以降、ご参拝をお取り止めになられたのです。
 天皇陛下万歳!と言って死んでいった兵士達、一番御参拝されるべきは天皇陛下だと思います。

 先述のパラオという国は1885年スペインの植民地となりスペイン人によって略奪、殺戮、疫病等で人口の90%の人が亡くなったといいます。
 日本の先の戦争、現在これからを考える時、(国防力なく)戦わずにいてもこういう状態になるのだという事、ペリリュー島で日本軍がアメリカ軍と戦う前に島民を本国パラオへ移動させたお蔭で島民死傷者ゼロだったという事、その後島民達がその日本兵を讃える歌を作った事、パラオの国旗が日章旗の色違いの絵柄を取り入れている事も、もっと国民に教えるべきではないか。

 日本軍の『徳』のお蔭で、現在の日本をも好意的歓迎してくれるという国があるのは、日本人として嬉しい限りではないか。

ペリリュー島(日本)守備隊を讃える歌】1〜7番の内、抜粋
六 平和と自由の尊さを
  身をこなにしてこの島に
  教えて散りし"桜花"
  今では平和が甦る


 どうぞ再びペリリューヘ
  時なしさくらの花びらは
  椰子の木陰で待ちわびし
  あつい涙がこみあげる