アートコーナー

top445page 夢幻公開ページ

新2008年5月21日 再更新2018.5.15 著作・編集 日高よし子
ハンガリー舞曲一番」 真夏から 「夢のあとに」 秋の青空】 
(前橋汀子のCD「アンダルシアのロマンス」より)
クラシック前橋汀子好き

↑この写真は前橋汀子のCD『モスクワの思い出』のジャケットより】

yo45@gaia.eonet.ne.jp 

 夢幻                                      
      <目次1>
音楽こそ「国境なし」
詩『楽園』(BGM)
新緑のコンサート
2008/4/27更新
『前橋汀子さんに芸術院賞』
訂正
運命的音楽(2004/.3/28
スタパでライブの前橋汀子さん
『私の好きな演奏家』
『マイメードソングのこと』
プラハ放送管弦楽団のこと
1月13日演奏会のこと
リサイタル2002・6.22
『魂のバースディ』
地球の種子』
   <目次2>
下記は詩歌集
第3集「夢幻」他より
前橋汀子さん関連を集約

1.約束された人生木の緑
2.変わらぬ大樹黒の色彩個性
3・郷愁 (朗読へ)虚脱感     
4.芸術とは?木魂
5.木魂のこと木魂の原風景再会
6.木の精神性
7.木のバランス性或る地球
8・ザブーン(朗読へ)
9.『あなたは愛』♪歌あり)
10.宝 船音の第一歩まれびと
11.生命の躍動胎 動 感
12.『美しい心』ノクターン・  
13.フニャーニスプリング    
14.『四月に!』『亜麻色の髪の乙女・全13曲』に寄せてタウンテラ美しい余韻
15.揺らめく灯ノクターン
 
   <目次3>
16.バッハ無伴奏バイオリン 魂 ・ハーモニー         
17.楽園シャコンヌアダージョ
18.フーガ・海藻・噴動(♪歌あり)

19.もっと光を・初めての演奏会
20.一週間一ヵ月仰ぐ峰  
21.楽しみな期間ときめき去年 
22.ときめき夏二度目の演奏会
23.与えられた光景の内側
24.人間界の公式 

25.コンサート翌朝 ・六月
26.チャイコフスキーバイオリン協奏曲 
27.・蟻の視界【野島断層】
28.「雲の中の音色」
29.・涙
一粒の生命
30..天上絵・・科学と芸術   
31.此処においで 


第一部 「約束された人生」 了 

      

 2008年
5/18(日)   音楽こそ「国境なし
 気が向いたのでこのページ大幅にリニュアールしました。『クラシックが好き』の背景
の壁掛けは前橋汀子さんのCDに入っている
ハンガリー舞曲一番」「夢のあとに」の印象を書画にしたものです。約8年前です。現物は前橋汀子さんに贈呈しましたが、スキャナで保存し印刷しておいたので思い出して使ってみました。。
 目次の【bP】は以前とそのままですが、bQ、bRを加えました(内容は
詩歌集「夢幻」掲載の前橋汀子さん関連分を<第1集「夢現」第2部「夢弦」からも>ここに集約掲載)。
 このページのBGMも替え、
バッハの『無伴奏バイオリンソナタ』のパルチータ2番「シャコンヌ」を前橋汀子バイオリンの演奏・私の朗読で詩『楽園』を流していますが<魂の歓喜>の最高峰と言える独創的表現には何度聴いても驚嘆するばかりです。
全編とおして間違いなく前橋汀子さんの代表作といえる作品でしょう。

 4/27付に書いたその前日の前橋汀子さんのコンサート(4/26(土)の前橋汀子のコンサート『バイオリン名曲選』)の演奏後の演奏者と観客が一体となった感動の湧出感は、いま思い返しても感激します。それは素晴らしいものには同じように素晴らしいと反応する
『魂の共鳴』の実感であり、世の中は変遷しても人の『核心』は変わらず在り続ける、と思えるからです。音楽こそ、「国境なく」万人が理解し合える唯一の世界共通語でもある。【悲しい音楽には胸が切なくなり喜びの音楽には心が高揚する】、世界中の誰もが自然派生的に同じように感応できる、ということは、解り合えるということの「希望」でもある。
    2008年5月19日 3:08:58
               ☆★☆★☆★☆★
BGMの朗読詩です。
          
夢幻p21 「楽 園」            
 きっと 其処は やはり 野原だっただろう      
歩いているというより 風に運ばれる様に  
それでも 確かに 一歩ずつ 進んでいたのだろう        
 
 目的地が あった分でもない  ただ 気が付くと
処々 花が 咲き初め 道案内人の様な 蝶の後に従い
其の道を 歩いていた よく見ると その 空間の中は
何時も 柔らかな 日差しと 花々と 蝶に溢れ
 楽園だった…………         

   そうだ 私は 死に掛けていた
──それは肉体が───
  そして 到達して 本当に 死んでしまった       
──目を閉じ 息をせずに───        
  
  「魂」だけが 活きている               
──其処は確かに天上界だった
───生き還る瞬間───

──
前橋汀子さんの「無伴奏・シャコンヌ」を     
   聴いている「刻
」────
               ☆★☆★☆★☆★
感動感 それは 人類が 勝ち獲った 最高の 栄光である★

             
☆★☆★☆★☆★
4/27(日)   『新緑のコンサート』

”垂直に 新緑は かがやきぬ 生命よみがえり 「チゴイネルワイゼン」 ”
 
4/26(土)午後2時からの前橋汀子のコンサート『バイオリン名曲選』に行って来ました。
平成10年6月26日に初めて前橋汀子さんのコンサートに行って以来今回で6度目ですが、初めて開演時間に遅刻してしまい第1部はロビーのモニターを観て第2部を待ちました。(遅刻した理由?このコンサートの事を知ったのが頂度一週間前の夕刊紙上、翌日チケットの予約をした。それから直ぐに詩歌集第三集「夢幻」に収めている前橋汀子さん関連の箇処の朗読や歌の録音に取り組みそのテープをMDに編集し直すという作業に没頭した。が、家事の合間合間のこと思うように捗らず当日の前夜も睡眠時間3時間に足らず、朝7時半に起き上の甥子の朝食の準備をし送り出した後、残っている作業をしながら重い疲労感に、今日はコンサートに行けないかもと思いつつ続けた。<時折、なんでこんな事してるのか?と自問し、「そうしたいから」としか答えようはなく、敢えて言えばこれ迄夢現第一集、夢弦第二集、この第三集夢幻と真っ先に前橋汀子さんに送付、或いはコンサートで手渡ししてきた。それ以降に夢幻テキストとして第五部までの各部分を私の朗読でMDに録音したのを作ったが前橋汀子さんにはお渡ししていなかったので急遽MDの再編集をしたというわけ。MD1枚80分×LP4倍長で320分、5時間余りの時間に収編する為大分カットした詩篇もある。>
 一端仕事から帰った上の甥子と一緒に昼食を摂った後くらい身体も持ち直したようで着替えをして出掛けた。と言ってもその間際までやってもまだ終わっていず、電車の中でMDのラベルに目次全55項目を書きやっと終えた。これが理由。)

 やがてベートーベンの『ロマンス』から第2部は始まった。今回の座席は2階の舞台向かって左側LG席だった所為かやけにマイクの取音の大きさが気になった。彼女の繊細な音の部分への配慮が欲しかった。
 しかし、やっと生で聴くことができたのです『スラブ舞曲』を。10年越しの想い(実際は平成9年にFM放送で初めて聴いて約11年)、コンサートに行く度にこの曲の聴ける事を希んでいたので。
 2度目のコンサートの時もやはりこのシンフォニーホールでフィンランド交響楽団との共演だったが、その楽団のアンコール曲が『スラブ舞曲』だった。あの時のおもい・・・・・、
 ”『スラブ舞曲』 流れ 思わず 涙ふく 彼女(かのひと)の弦で 聴きたかった”
と歌に詠んだ(平成11年)。
 今回やっと、

”『スラブ舞曲』 念い10年 コンサート 彼女(かのひと)の弦で 聴けました”

CDでの奏法とは違って感じた箇処があったが、それより私にとってはこの曲を今前橋汀子さんが弾いているという現実が最大事だった。私の、新たな生命の発露の母なる曲だったのだから。
 
 
”かの「時」は 私の山が 噴火せり 『スラブ舞曲』 噴灰 燻(く)ゆる”
 初めて聴いて以降、その噴灰が私自身の細胞全てを覆い、そしてそれ自体となった・・・どれほどの日々か、毎日毎日聴いていた。思えばあれから11年経っている。「死なない花」がないように、私のその細胞も全て入れ替わっただろうか(化学的には?)。私は生きているから、水は流れ、花は枯れる。
 当初そのままの感動の衝撃が変化するのも当然なこと。しかし、その感動の刻印(記憶)は私の血や骨、私の身体部となっている。今日その私の「内なるもの」の満足感、充足感を確認した。
 そしてこの後、プログラム最後がサラサーテ作曲の
『チゴイネルワイゼン』だった。
 『スラブ舞曲』を聴いた翌年の4月16日に買ったのがこのCD、頂度10年前のこと。
 ”彼女(かのひと)は 作曲者の衣装 弦に着て 熱演女優 詩神の魂”  (平成10年詠)
 このCDはオーケストラとのコンチェルトだったが、ジプシーの砂塵巻き込む情熱的な踊り、高貴な祈りが彼女のバイオリンによって見事に「演じ」られた。
 ”『チゴイネルワイゼン』 唱う 聖域を 高貴さ ジプシー 「エスメラルダ」”  (同)

 この日の演奏はピアノ伴奏のみだったが、彼女のバイオリンの技巧とエネルギーは全聴衆を魅了し大喝采だった。(終演後「小品集100選」の内唯一持っていなかったので買った
『悲しみのゴンドラ』の中にこのピアノ伴奏のチゴイネルワイゼンが入っていてコンサートの余韻を重ね聴いているが、この一曲だけでもこのCDの値打ちがある。)
 続く3曲のアンコール曲も感動の坩堝の中だった。

 前橋汀子さん、押し付けがましくお渡したかも知れないMDですが、聴いていただけましたか?
これからも、このようなピアノとデュオのコンサートせめて1年に1度は大阪で行ってくださいね。
素晴らしい演奏、ありがとうございました。
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 下記のフォトは会場だったシンフォニーホール前の一角ですが、前橋汀子さんをはじめ音楽家の精神性を見るような、一直線に空に向かって伸びる新緑に飾られた樹木の間を歩き抜けるだけで身体が浄められた気持ちになります。




2004年
4/21(水)    『前橋汀子さんに芸術院賞』                   前橋汀子さん、お目出度うございます。
 音楽雑誌「モーストリー・クラシック」の2004年6月号に前橋汀子さんが、芸術活動に顕著な業績のあったを顕彰する今年の芸術院賞に選ばれたということが掲載されていました。       
 心よりお喜び申し上げます。前橋汀子さんは20世紀最大のバイオリニスト、            
 又これからもきっと現われない芸術家だと思っています。
何故なら、傑出した芸術家と、(こんなに文明度が進んでいなかった)時代背景とは切り離せないであろうと思うからです。                                                                       
 この『クラシックが好き』コーナーのBGMでも流している(以前)朗読詩「郷愁」を書いた動機は、
勿論、前橋汀子さんの音楽を聴いたからですが、【充分な青い空】【充分な青い海】というのは
その当時『充分クラシック音楽に満足していた』という情況下にあったという事で、
加えて平成9年7月に前橋汀子さんの音楽を初めて聴き【もっともっと 青い空 深海が………
見たことはないけれど しっている】と謳わせたのです。
私は、前橋汀子さんの音楽に出会うために生まれて来たのだと、
「生まれてきてよかった!」と初めて思えました。                            

 ハイエッツ、オイストラフをその後にラジオ等で聴く機会がありましたが、前橋汀子さんのバイオリンの量感と幅広い音質表現には及ばないと思いました。
それは、いま思い返しても【聴いたことがない演奏、音楽】でした。  
 
 私の著作、音楽は前橋汀子さんの音楽を聴いた事が主幹となっています。   
私自身が培養され、花の言葉、蝶のリズム(音階)が産まれたのです。    
 蜜を貰って花粉を運ぶ、蝶や鳥達。私の「伝導心」も同じ処のものでしょう。           2004.4.21 2:27                                戻る


4/9(金)
訂正があります。「運命」の指揮者はカールベイムではなく、
カルロスクライバーでした。
 このベートーベンの交響曲第5番「運命」はハ短調です。
シューベルトの交響曲第4番「悲劇的」もハ短調なのですが、破綻(はたん)的な音楽なので、たまたまとは言え日本語の面白さと言えそうです。
図に乗って言えば、ヘタな演奏の音楽は皆、ヘ短調(へタンチョウ)だったりして(笑)。    
  2004/4/9 0:01

────────────────────────────
2004/3/28(日)

このコーナー久々の書き込みです。それにしてもクラシック音楽は素晴らしいですねぇ。

    『運命的音楽との出会い』
 
 音楽は感動感という聴いたその時の「絶対的」なものであるけれど、
「相対的」と思う時がある。その同じ曲を違う演奏者で聴いた時の演奏の
差異によって。その時に2度目の感銘を得る。
 それは曲という素材を演奏者の質感と色合いで仕上げてある故、作曲者と
演奏者の合体型として私の記憶の中に刻まれている。
だから、その明らかな差異の部分に素晴らしさを再発見する。

 いい曲(好きな曲)はどの演奏者で聴いてもいいと思うが、他を凌駕する演奏がある。

 あの有名なべートーベーンの「運命」、最近FM放送からカールベイムカルロスクライバー指揮のウィンフィルの演奏で放送されたのを運良く録音出来た、と言っても最初の印象的な部分は逃した。カルロスクライバー指揮と聞き録音の用意をしている間に過ぎてしまったので。
だが、この「運命」を聴いて初めてベートーベンの『運命』を識った。
それは「崩れていく、壊れていく『運命』」だったのだ。
今まで何度もラジオから流れ聴いてきたが、あの冒頭の「ダダダダーン」の決定的『運命』という結果しか理解していなかった。それを具体的な演奏で示してくれたのだから「目から鱗」と言える。
このカルロスクライバー指揮という指揮者で8年位前に聴いたやはりベートーベンの交響曲第7番(これも運良く録音出来た)には物凄く感動した。あれ以上の演奏に未だ出会わない。
その相対度が増す毎芸術性も輝きを増す。
 これは前橋汀子の音楽にも言える事。素晴らしい演奏家は素晴らしい指揮者の要素があると想う。
この3月に前橋汀子さんの演奏会が大阪シンフォニーホールであった様ですが、仕事の為行けませんでした。
 又、大阪に来演して下さいね。   2004年3月28日 23:45

2003年
5/5(月)   『スタパでライブの前橋汀子さん』                         
 
5/2(金)のNHKテレビ「スタパでライブ」出演の前橋汀子さん観ましたよ。  
去年の春先朝日放送の前橋汀子さん出演の「題名のない音楽会」を見逃して以降は、
やはりその年のNHKTVの「わが心のサンクトペテルブルグ」も、新聞のテレビ欄に
前橋汀子さんの名前がなかったので見ず、後で知って悔やまれることこの上なし。     
 その日は、新聞で名前を見付けたのでビデオもセットしておきちゃんと録画しておきました。子供の頃のお写真可愛いですね。「涙が湖になる位、毎日泣いていた」語られる一言一言に、その涙の結晶が珠玉の音楽の輪郭を象ったのだと、一つの「謎解き」が出来た気持ちです。旧ソ連での修業の動機とオイストラフの関連も然りです。        
 一度「スラブ舞曲」をテレビで聴いてみたいです。                
NHKのスタッフの皆さん、もう一度「スタジオパーク」の普通の日のゲストに前橋汀子さんを招いて下さい
。 
4/25(金)    『自国の曲を』                             
 ジャクリーヌデュプレはエルガーの曲を、ルビンシュタインはサンサーンスの曲と、自国の作曲家の曲を特に感銘的に演奏している(私感だが)。きっと最初はそんな風に(自国で)自国の演奏家に弾かれてきた事が現在に至っているのだろう。         それにつけて思うことだがクラシック音楽後発国の日本でも、もっと自国の作曲家の曲を取り上げたらと想う。武満徹さんの曲はたまに耳にするが、ほんとに「たま」にだ。  同じ楽器で同じ曲を同じように弾いて、余程の独創性のある演奏でない限り「印象」に等残らない。日本の演奏家はもっと自国の作曲家の曲を探索し、取り上げどんどん演奏する事も使命のひとつである。それが日本のクラシック界の向上に繋がり、海外に於いてもその演奏家の「個性的」演奏として注目を浴びるだろう。              
                            戻る


4/18(金)このページのBGM入れ替えました。
 
『私の好きな演奏家』
今日は京都市交響楽団との共演で前橋汀子のコンサートがあるのです。
『シベリウスのバイオリンコンチェルト』聴きたいと想っていましたが、行けなくて残念です。最近ジャクリーヌデュプレのチェロの演奏テープを聴き返し、42才で亡くなった決して行く事は出来ないこの演奏家のコンサートを想えば、素晴らしい演奏家、芸術家と同じ次元空間に生きている事を改めて稀有な事と感じるのです。その意味でも残念です。
 
私の好きな演奏家、チェロはジャクリーヌデュプレ、ピアニストは
ルビンシュタインアルゲリッチ、バイオリンは勿論前橋汀子
 
去年放映されたという前橋汀子出演の『我が心の旅・サンクトペテルブルグ』ビデオで撮られてる方がいらっしゃいましたら、是非コピーして頂けないでしょうか?連絡乞う。


2/7(金)
 私の著書「夢現」シリーズはまさにその「感動感」が書かせたと言えるでしょう。
そしてその「私」又「個人」とは「何か」と、想う刻がある。
他物、他者があっての自分自身という存在。新聞、テレビ、ラジオ見たもの聞いたもの、例えば「事実」の転覆があれば、自身の意識もその判断を強いられ、どちらにしても「変わる」。音楽を聴くという無意識下の感動感はもっと人間の根底を揺さぶる。
「価値観」を確信させる。それは地球の芯に触れたと思える確信感。理屈ではなく「産まれたのだ」という………、「真理」にふれたのだという。
その全部の「身体」の感覚を覚知しているのは「脳」。

 ──────────── * ──────────   
2/5(水)  プラハ放送管弦楽団
 
プラハ放送管弦楽団のメンデルスゾーンバイオリンコンチェルトはテープ録音した当時、毎日のように聴いていた。この曲は名曲なのでFM放送を聴いていると色んな楽団でよくかかる。しかし、この楽団のがダントツにいい。嵐の唸りの如その音楽の渦に巻き込まれる。現在テープが磨耗したせいか当時の様に聴くことが出来ないが、もう一度聴きたいオーケストラである。
「嵐のように」と音楽観を語る時には自然界の現象に比喩を借りるが、人間における太古の時代の自然界の記憶。自然界を減少して行く過程で、それが無意識乍ら人間の音楽行為に向かわせたと想える。瞭然な様に音楽を聴いているとそれがステレオからであっても、側にある物が吹っ飛んでしまうのではと思わせる怒涛の如き音楽、或いは春の夜のさよ風の如く夢路に誘う音楽、このページ冒頭に掲げている
「見たことはない」紺青、紺碧の海や空(『郷愁』)を彷彿させる音楽。それは
「人間」の最後の砦
 スペースシャトル「コロンビア号」が大気圏突入時に空中分解し乗組員全員死亡したが、生前最後の映像の「地球は美しい!」と言う飛行士の弁が「遺言」のように残響する。「美しい」と感じる感性を人間に育んだもの、宇宙船を造る迄になったが美しいものを切り捨ててきた両刃の剣の様な科学。最先端の科学の乗物から見た
「青い地球の美しさ!」、それ以前の日本の飛行士も皆同じ様に言っていた「この水の惑星、青い地球を大切にしなければ」、その為に「美しい」機能「感動感」を植え付けた「誰」かが。
 地の底の「マグマ」と「水」からなる地球=人類。

 
ヒトゲノム、バイオ&ナノテクノロジー、益々科学が突出しそうなこれからの時代。
 「芸術」が先に滅びるか、「人類」が先に滅びるか?
           戻る

1/24(金)

 
オーケストラの演奏に関して格段の差があるのは何故か?
安物のステレオで聴いても良いものは好いし、演奏会まで行ってもそれだけのものもある。それは演奏者の各自が「真剣勝負」をしているか、その心意気があるかないかの差だろう。「行ってよかった」そんな演奏を期待したい。

1/13(月)
    1月13日演奏会のこと
 大阪フィル演奏会(於フェスティバルホール)に出演の前橋汀子を聴く為に京阪電車に乗った。
  “ 新春に 「新世界」 めざし 急行や ”

 私の乗車位置の前に夫婦子供2人連れが座っていた。その女の人に席を譲られた。  香里園を出て寝屋川市駅で停車した時、空席を探しているように見えたのかもしれない。「どうぞ」、その時にはもうその方は立っておられて、オーム返しに「すいません」と言って着席した。
   “ 席譲られ 喜んでいいやら 悲しい ”

 好意は好意として嬉しいのだが未だ56才なのにそんなに「年寄り」に見えたのだろうか?と内心複雑な気持ちの侭、淀屋橋駅迄電車に揺られた。
席からの前方、大きな生駒山脈の稜線が流れて行った………

 淀屋橋駅の改札を出る時、自動改札機がブーと鳴った。320円区間の往復乗車券を買ったのだが行先が「淀屋橋」ではなく「淀」になっていたからだった。
往復券の場合は指定駅以外は降乗車出来ないと券売り機の案内にあったのに、購入券を確認しなかった私の落ち度ではあるが、「淀」より「淀屋橋」の方が利用客が多いと思いませんか?機械にはそんな事は分からない、か。
 結局駅員さんから320円返して貰って改札を出ましたが、合理的にと思ってした事が反対の結果という、これは些細な事ですが一例でした。

 駅からの地下道の階段を上がり、御堂筋の信号を渡り川沿いの道を歩いた。
ビジネス、官庁街である此処等一帯は祝日でほとんど人を見掛けない。
フェスティバルホール前方の朝日新聞ビルの所に、こちらからもはっきり見える程建物から直角に旗のポールが突き出て、日の丸の旗が誇らかに寒空に翻っていた。
「異国の地」で見付けた様になつかしい!子供の頃には家の軒々よく見掛けた「日本の旗」、改めてなんてシンプルで美しい国旗だろうかと想う。
世界中の国旗で円を用いている国はあるだろうか?。純白の雪の中の太陽。
それは自然崇拝と精神性を重んじていた日本人の象徴の旗、少し遠いが持参のデジカメでパチリ。
そのままの浮き立つ心でフェスティバルホールの入口への階段を上がった。
 しかし、浮き足立ったのか席を探すのに手間取ってしまった。
 フェスティバルホールへ行ったのは何年振りだろう?30年以上前?か、ザ・ピーナッツの公演の時に行ったきりだと思うから、それにしても2階席と1階席が席に着く迄分からないとは────

 大フィルの「美しく青きドナウ」に続いて、同楽団との協奏で前橋汀子バイオリンの「メンデルスゾーン作曲バイオリンコンチェルト」になった。
勿論このCDは持っている。平成11年場所はシンフォニーホールだったがフィンランド放送交響楽団公演の時聴いた前橋汀子バイオリンの「チャイコフスキーバイオリンコンチェルト」、その公演の時に買ったCDとカプリングされていたのがこの「メンデルスゾーンバイオリンコンチェルト」。                         
       ” バイオリン 魂の芯の ビブラート ”

 CDと同じ音色が、雪解けの真清水のような前橋汀子のバイオリンの音色が身体の中を巡っていく………
心地よい………。

 しかし、見遣る舞台上では「肉体労働」と思わせる様に一音一音刻印する如く弾いている芸術家の姿がある。その姿を見ていて「宿命的芸術家」であると改めて想う。

 このメンデルスゾーンバイオリンコンチェルトを一番最初に聴いたのは平成7〜8年位FM放送でかかったプラハ放送管弦楽団、バイオリンはパークラフフレチェク。その聴くきっかけになったのは、私のエレクトーン練習曲の一曲だった事。甥子の為に買った楽器を自分流でやり始め、同曲の13ページの楽譜を何とか踏破して自信らしいものが芽生えた。今、TVの10時からのニュースで「何でもやって好きな事を見付けるように」と、ノーベル物理学賞受賞者の小柴昌俊氏が成人の日のお祝いの言葉と共に述べられていたが、本当に私の場合エレクトーンをやり始めたことが「好きな事」を知り又、「知らない違う世界」(感動感の坩堝)へ導かれるきっかけとなった。 つづきは又。
                    戻る            


前橋汀子リサイタル2002・6.22 
 「おこぼれ」ではなく正真正銘の感動感に浸った前橋汀子のコンサート   
(於シンフォニーホール)に6/22(日)行って来ました。   

そして、今回のコンサートは                       
 ”「白い」鳩 羽衣にして あらわるる 
天女のごとき バイオリニスト” 


 ”赤よりも あかいかがやき 雪の「白」              
「白」い色の服は、着ている人間の内面を浮かし彫りにします。       
 いつか彼女の様に着こなす事ができれば………               

今回は
「前橋汀子CD小品集100曲完成記念リサイタル」        
初めて前橋汀子さんだけのコンサートだったので嬉々と楽しみにしていました 
が、客席も立見席迄出る超満員の、大喝采。                

”鳳凰の 羽上に乗りて 観客も 
「シャコンヌ」 聴きて 天上界”    

”超満杯 大喝采の アンコール 前橋汀子 5曲 弾きとく” 
      


 鳴り止まぬ拍手に5曲のアンコール演奏。                
素晴らしいサービス精神に改めて大喝采を送ります。
            

 ─────────────*────────────         
下記はCD『エストレリータ』より                 
”セレナーデ 萌ゆるをしらぬ あわ草や”               
私の大好きな「シューベルトのセレナーデ」、甘く切なく、とても素敵です。 

 チャイコフスキーの「憂欝なセレナーデ」は、溜息ともつかぬ繰り言を聴く 
よう…教養に裏打ちされた、並み外れた楽譜の読解力と洞察力、卓越した表現力、
彼女の作品はどれも「芸術品」です。                          
        
☆前橋汀子さんの為に創った曲 「FOR VIOLIN」 
 お渡しした私演奏のMD聴いて頂けましたか?              
あの3日後の25日、テレビN響アワー担当の池辺氏宛に同曲のMDと楽譜送 
付しました、いつか前橋汀子さんとN響との共演で「FOR VIOLIN」 
聴く事が出来ればと言う【壮大な夢とともに】                     戻る    

                       ☆★☆★☆★☆★
地球の種子                        
 先日の新聞で地球の生命の種子は彗星が運んだ、というのを見たが、つい最近NHK
TV「宇宙」でその詳細と言うべき内容が放映され、地中、海の下深くに北海道、
四国分程の彗星の衝突跡がくっきりと映っていた。   そして、ぶどうの皮の蛋白質の一種と、宇宙から採取した「塵」が同じ成分だったそうです。私がこの「夢現シリーズ」を書く動機となった衝撃的な「感動感」との遭遇、それは平成九年、ヘールポップ彗星が 
地球に最接近した年でもありました。   

【この年は 千遇一彩 出会いあり ヘールポップ 前橋汀子】                      

  『魂のバースディ』                  
 さて、2001年7月になりました。半年の「生命」をもう、消費してしまいました。 
7月は私にとっては忘れられない月です。
このペーマガにもよく掲載している前橋汀子さんの音楽に出会ったのがこの月の8日でした。
今年で丸4年、若し出会わなかったらこの「夢現」リーズを記す事もなかったのではと想う程の、
それは「決定的」な音楽でした。今回は、その私の「魂のバースディ丸4年」の
記念号(註:ペーパーマガジン)とします。                           
【素晴らしい とわ あの時も いまも 素晴らしい人】                           

 ズームアップした様な主観的な頃から、4年経った客観的な現在に於て、尚 断定出来るのは、
バイオリニストの前橋汀子さんは、これからも決して出現しない稀有な芸術家であると言える事。
それは、20世紀と言う時代が産んだ、文明の極と相対する、
人類の
魂の最高の煌きを呼び戻した人だと思えるからである。 


詩歌集夢現第3集 「夢幻」  第1部「約束された人生」(P6〜8)より    
  
エッセー『約束された人生』 
    (略) 
 振り返る人生に、人は、どれだけの「約束」した数の花束を持っているだろう。 
心の礎というべき、人と人の信頼関係という交流の束を担って、増やしていく事が 
その人の懐の深さに成っていくものと思う。
 多種多様な「幸福感」があるけれど、それは、その個人の器にしか入らないもので
ある。私はその器を持ち合わせていないと思っていたが、平成九年の夏
前橋汀子さんのバイオリンの衝撃的な音色との出会いにより、精神の陶酔感と
「満腹感」。地球の命脈と連動する、生命の躍動感を識った。
究極の「幸福感」
まるで、私という地球に彗星がぶつかって軌道修正され、
自身を「ディスカバリー」した様な………。そして、向井千秋さんが
再度(平成十年)飛び立った宇宙に思いを馳せる今、「蟻」の視点ではない
「宇宙的」な視野から、全て「約束された人生」│であったと思えるのである。(了) 

【我投稿 「約束された人生」も 入賞だけは 約束されず】 
           戻る
                 ☆★
P8  “木の「緑」  わかく背景  いま全景”
 「約束された人生」の其の道筋は、一葉の「言の葉」が、
指し示していた。
 

               ☆★
        『一葉の木の葉』
───それは、不思議な予言の様に  一葉の木の葉 ────   
  「色は、何色が好き?」                         
 若い頃、友人の問いに、見回す廻りに添う色が無く、強いて挙げたのが、    
   ────木の「緑色」という、言(こと)の葉────          

 現在から、三十年余前、車の免許を取った時、に最初に買った車が、緑色」。  
十三、四年前乗っていた軽四も、若草の「緑色」。               
 どちらも、知人から推められ、格安なので購入した中古車。          
 十年程、勤務した会社の社名にも、思えば「緑───」が、付いていた。    

 そして、緑葉育む、木の霊が棲むバイオリンの、その音色の最高峰の、夢弦に  
行き着いて、それだからこそ、初めて「生」の喜びを得られ、夢現第一集、    
第二集の言の葉の「葉実」となった。                    
 クラッシック音楽の感動という「母」から生まれた、
 「もう一つの生命の発露」。


 一粒、一粒の「真珠の言葉」。                      
 しかし、前橋汀子さんの音楽に出会わなかったら、            
 こういう形の「結晶体」には、成り得なかった。
 
             
                            
        
 現在も、人間を潤している多彩な色彩の数々も、原点は、自然の中の、    
その色を擬似しているのであって、普段忘れているけれども、見える形としての 
自然の恩恵そのものの中で、生きているのである。              

 (その擬似出来る、人智────或る面、それは素晴らしい。         
この音楽の感動は、伝達手段の現代の通信及び、受信機器技術なるものを否定して 
は、語れない。そして、人間にこの「感動」を与える為に、各、天才にその    
「任務」を負わせたのでは、と考えてしまうのである。)            
 いつの場合も、芸術家が点す感動の燈明は、原点を、指し示めしている。    

 何気なく言った、「緑色」────私の体内のものが、云わせたのか、     
それ共、そう言った事で、其の「精」が、私の細胞に潜り込んだのか       
究明できる筈もないが、その色が折りにふれ、降って来た。           
─────その最高の色が、平成十年六月二十六日のコンサートの、       
     彼女の 「グリーンのドレス」──────             

  木に惹かれ、木のバイオリンの音色に魅せられ               
  それは、不思議な予言のように                      
  「一葉の 緑色」。                           

 “木の化身 濡る緑なる 衣裳着て 
     バイオリニスト オーラに 現わる”

 
”言霊(ことだま)は グリーンのドレス 弦(現)実に” 
                     
      戻る 
 

     ─────────── * ──────────        

P9  『変わらぬ大樹』
 “太陽の 瞬き 遮断 別天地 木陰おれば 根元に いこう”   
  それは、梅雨雲を何処かに、押しやった 太陽が燦ざめく 
 平成9年7月5日(土)の、甥子の小学校の 校庭での事。
 その日、私は校庭解放の当番で 其処に居た。             

 そして 太陽を避ける為 その大樹の 木陰に抱かれた。
 太陽が描いた、大樹の木陰に 憩い 瞼を閉じていると       
 葉音だけが 沙羅めいて 其の周辺を 織り成す 
木陰の部分だけが切り取られ 何百年、何千年 昔に 
タイムスリップした様な体感を 覚えた。

  全開の 太陽と  全界の 地平線に 息遣く 大地
  碧空に 寄り添う 白い雲
  そして 風を 手招く 「大樹」

 陽と雨の 暑と寒の 傘であり続けた 神木 
 時代は移り 文明は巡ろうとも 
  変わらず 滅びないもの 

 「涼感」という 時間ときの 時空を超えた 一体感──
瞼を開けると 何千年も 昔の 私が 現在に 還ってきた様な
 ───まさしく「実在感」───── (夢現より)
   ───────── * ─────────   
その三日後だった。(平成九年七月八日)その音楽に出会ったのは、
”弦が斬る 一刀両断 分水嶺”

 ”不意打ちの 感動に 戸惑えリ 
    以前(まえ)より 深き 高き 高原(幸弦)”

“悲しみが ある日突然 襲うよに
喜びにも また 見舞うるこころ ”

“魂の 悲哀 号泣 気高き 響き 充弦なり 刻のみつど”


“一つの 方向性を 弦前に 節目 節目の               感動あり 今日(橋)”

“『月の「月」 世に天才は 満つれども 
  前橋汀子 天才の「天」”

            

  ───────── * ─────────   
その三日後だった。(平成九年七月八日)その音楽に出会ったのは、

  ”感動の 言の葉の 源(弦) 木々 在りて”

 三日前に佇んだ大樹の、精霊の極因子が、私に潜り込んで感応し 7月8日(火)の朝9時に ラジオFM放送の スイッチを入れさせ 相手因子見つけ 合致したのだろうか?最初にかかった 前橋汀子さんの『スラブ舞曲』(ドボルザーク)を聴いた時の 強烈な印象は 今まで聴いた クラッシック音楽の 感動を遥かに超える 私の体内が 地震に遭った様な・・・・・・
              ★
芸術家バイオリニスト前橋汀子

 自然は最大なる芸術、と言ったのは、かの(モナリザで有名な)レオナルド・ダビンチだったが、それに優るものはない。
 まさしく それに 向かい合った時の 無力感を 彼女の 魅力を表現する時に
「言葉」の限界を 筆力の限界を 思い知らされる。これら全ての文章は 想いの丈の
10分の1も伝えきれない「愛の讃歌」である。
 
 “きし迄は 産まれ持ちたる 「時の海」 
  
呑まれ 流され 編みて 際立ち”
 
 人が 生まれた時から 死す迄 持っている 膨大なる量の「時」
まるで それは 泉の様に湧いている
毎日 溢れて 溢れて いつか 池になり 川の流れになり
呑み込まれ 流れの方に 流されて行く。

 或る人が 池に映る 自分の姿に 自分自身を 認め 其処から
その「水」を 自分のものとして 一針一針 縫う様に 編む様に 一滴も 無駄にせず
 それこそ 流されずに 自分を確立させてゆく。

 そして、そのバイオリンの 音色で 私達の「刻」を 征服してゆく。
時間(とき)の勝利者ーー永遠なる芸術家ーー

 ”呑み込んで 限界は無し この「刻(とき)」に”
            (以上「夢現」より、平成9年7月13日 記)

                     ★
P9    『個 性』

 素材(曲)を、超えた個性。「人間」を超えた、唸りの音色。
 煌めく五月の陽の、新しき生命への、溢れる眼差しに、
 風と和ろむ、若葉!  でも、直ぐに、倦怠の夏が過ぎ…。
 命の終りの、予感の秋に、最後の血潮が滴る…………
 そして、さまざまな想いの葉が、それぞれに、散って行く……

 “ 息の根が……落葉の絨毯 秋 終焉 ”

 それは、肉体を失くした、死んだ人間の「魂」が、裸で晒されている様な、悲痛と、哀切感に打ち震え乍ら、次の生命の為、ひと呼吸、ひと呼吸に その冷気を、浴んでいる……。
 その呻きが、木魂が、冬木立から見え、聴こえて来る。
 それは、死んでしまったものが、「此方を見ている」
 「死者の奏でる音楽」。
   その音楽に、出会えました。─────
  戻る
 

P9   『黒の色彩』
                          (「夢現」より)
  その中に佇んでいる。
 例えば、空────限りない水色の空に、浸っている。
  或いは、ブルーの海。 若しくは、風に翻めく若葉。
 音楽で云えば、魂を震わせる、透明なバイオリンの音色──
 それが基調(ベース)────
が、「その中」に、未だ、奥があったのだ。  
 それは、「肉感的な魂の響き」とでも、表現したらいいだろうか?
 「肉体」をもつ魂など、在り得いと思っていたが、
 そうとしか言い様のない音楽が在る。
そのベースの、もっと深層には、「暗黒(くろ)」がある。
 そして、赤は、直ぐに紫色に封じ込まれ、他の色彩も絡まり
乍ら、「その人の色彩」を奏で、人を、圧倒する。
 「暗黒」が「色彩」を知ってしまった、嘆き───
「暗黒」に還らねばならない…………。
 今は、夏だけれど、冬空の下で、あの冬木立と共に聴けば、
「哀切感」極まって、涙が溢れるかも知れない…………。

               ★
 (以上 平成九年七月記)

“魂の 悲哀 号泣 気高き 響き 充弦なり 刻のみつど”             ★
P10     『虚 脱 感』
                      (「夢現」より)
 その音色を、聴いた後の、此の虚脱感は何だろう?
まるで、深海の魚が、もっと深く、もっと碧い域に潜り込み、
そこから出た後は、いつもの青さも虚ろで、ああ、もう一度あの深さへと、希う様な……。
 若い頃なら、理想の人に寄せる、片時も、頭から離れない
思慕の想いに、似ているだろうか………逢って、別れた後の、その想いにも…………。
 その人は、「音色」でしか知らない。けれど、その音楽を奏でる人の、音楽への限りない慈しみが、
一ミクロンの細やかな息遣い
となって、人の心の細部に、その情感を烙印し、魂にくい込んで、身動きさせない。
 その人の、生きて来た人生の深さ────
その人だけの人生の味────勿論、その練磨の日々────結局、それが「音楽」の結晶となって、
聴くものを魅了してしまうのだろう。
 しかし、もっと早く、出会いたかった、とも、知らなければ良かった、と思うことさえある。                      (平成九年七月二十五日 記)
            ★
P10  『郷愁』 朗読へ)(前橋汀子の音楽に寄せて)               戻る
 
充分な 青い空  でも もっと もっと 碧い空が              
 見たことは ないけれど………                    
充分な 青い海  でも もっと もっと                 

  
 透明な 深海が                           
  
見たことは ないけれど………
   
 し っ て い る ……
                  戻る
               ☆
 あのバイオリンの音色が 私の体内を突き抜けた時ーー
ーーー地球の草創期の碧い空と 紺青の海に在る私ーーーー
 磁力が 一つの方向に 吸い着くように 
 芸術家の「精魂」には 数知れぬ 「無体」の魂が吸い寄せられ
 それが「有体」の魂に 木魂となって 共鳴し 
 人間を 「魂の郷愁の頃」に 誘ってゆく


               ★
P10   芸術とは?

  “伝書鳩 磁力に 呼ばれる ノスタルジー”

 今年も、朝顔の「伏し目の憂い美」が、夏の片隅を彩っています。
「去年と同じ花」を、「去年と同じ私」が見つめています。
辿れば、そう、ずっと「同じ花」であり「同じ私」なのです。
 細胞という、遺伝子の連なりの「もの」の、「私」は或る意味で到達点。
 一本の永い数珠のような「命」を、逆流すれば還る「うみ」へ、「水」、 「細胞」の 一粒へ。
「水」から生まれ、偶然、という必然から、「人間」という形になった。進化という過程で得た、
二本足」で立つ機能。
 それは、心と肉体のバランスを、保つ為。
一つの片寄った見方、聞き方をしない為の、二つの「目」と「耳」。
一つの、「方向」と、高い「志」を持つための「鼻」。
一つの、真実を語る為の「口」。

───形には 全て 意味がある───  

 生命の連続性を保つ為、動物全てが本能として持っている「食欲」と「肉欲」。
そして、人間は、進化の過程で人間性に覚醒め、「魂」の存在を識る。
 それは、「人間」に成った時に、根座したものなのか?。
精神性の果てに見える、その存在。限り無く求めているもの─── 

「人間」に生まれた事の「幸福」とは?
この精神性を極め、その「喜び」を、体感出来る事。
 全細胞が、満場一致で双手を挙げて、一ヶ所に集ってくる様な───それは、今迄の遺伝子達
(死んで逝った者達)が、集って、憩って居る様な──「感動する心」
  どうして、美しいものに 感動するの?
それは、生まれた頃の記憶に還って行くから?
 そして、自然界との共生感に、人間は辿り着く。
私の「存在」が、「無意味で無かった」という 共生感にも。

 芸術、芸術家が伝導している本質そのものが、「魂」であり、自然界の聲であり、
自然界のメッセージで、あろう

 前橋汀子さんという、一人のバイオリニストの音色から得た、魂の陶酔感の起因性と、
帰着性の道筋。 真さに、芸術家なり


伝書鳩 せつないほどの 帰巣本能 つうづる道は 芸術魂

                       ★
p11 『木 魂』   作詞曲 日高よし子               
前橋汀子スラブ舞曲〈ドボルザークに寄せて
1.いつか見たやら あの水色  ハーモニー奏でる 海と空    
何を見たやら あの海の果て 一隻の舟が ただ過ぎて行く 
生まれる前の 母なる 海の 寄せ引く 波は
 岸へ抛り上げられる 舟のように 人は 生まれ出でたか
  

2.いつか見たやら あの空の色 暮れ切る 間際の 藍色の空  
何を 見たやら あの空の果て 流れる雲が 呑み込ま行く 
生まれる前の 碧い 青い その空の 青さが 恋しくて     
  太古(むかし)へ 連なる 水の記憶
 あの音色が いま 此の部屋に 
 塵に 土に 混みれようと 仰ぐ空の 青さに 溶けて行く       

3.いつか見たやら あの樹の海 陽と風が 紡ぐ 若草の色   
 何を見たやら 樹々の歴史 年輪刻む 深い孤独         
 生まれる前の 沙羅めく葉音 今も 変わらぬ 生命の礎    
死のある生を 四季に織り あの音色が 今 此の部屋に   
数え切れぬ程に 産まれ 落ちた命 木魂となって 響く 
       
                     (夢現より)   

                     ☆
       『木魂』のこと
”人生の 生涯の幸は 出会いなり 絶品(たえ)なる 
  大自然(しぜん) 本(しょ) 音楽と”


 一度見て 忘れられない 瞳のフイルムに灼きつく 自然がある。
大きな感動の高浪が 揺り起こす 潜底の 「真珠の小箱」

 太陽が 一番 青春の真っ只中である 夏に一杯 翼を拡げて 情熱を 撒き散らす時。
海と空は その情熱を媒介として 中和し 境目のない
 涼やかな 水色のハーモニーに 溶け合っている。

 晩秋の 夕間暮れの ほんの一瞬の 藍色の空。
思い出した様な 青春の日の 紅潮した 頬の色の様な 夕陽と 
 秋の青空に しのびよる 冬の沈黙の 黒が混ざり合った そんな 哀愁の色。

 太陽が その翼を 半閉し始める 冬になると 生き物たちも 生存の為 
知らぬ間に 土の何処かに 潜り込んで静死期の 通過を待つ。

そして 寒空に 全てを葬り去られた 人間の様に 一本一本 違う形をした 冬木立は
その神経模様の枝を 凍風に 晒しながら 暗いトンネルの闇を くぐって くぐって
 いつか 「五月」に辿り着くべく・・・

”凛然と 魂の姿 冬木立 見下ろす 俗世  春には 再び ”
 
 太陽が その翼を 開き始めると 土が匂い立ち 風が その春の賑わいの 声を
風車に乗せて 運んで来る
 やがて 太陽と 風の 暖かい 眼差しの中 新しいの生命の芽生え、

古木が あんなに 初々しい 若草色の葉を 産むことの 
生命の 不思議に 充ち溢れる 五月ーーー

  ”若葉には 五月は 眩しき 「新世界」”

  
”交差点 風と 光と 揚羽蝶

 瞑想すれば 見える 光景
 瞑想すれば 聴こえる 音楽

 感動の 頂上から 見たものは
 自分自身の 断層
ーーーー
              ◎■
  地球と言う 奇跡の様な「生命体」の星は 数え切れぬ程の 生き物を
 その四季に 産み落としている
  それは 地球の「無意識の愛」─────
 四季に見出だす 「人間の一生」                 
  その 折々の「生」を 茂らせ────完結してゆ
く────
               ☆★
 平成九年八月二十八日に行った「ファーブル昆虫博」での、蝶の標本の
あの多彩な色彩を見れば、蝶が、素は花だったのではと、思わずにはいられない。
 そして「秋が産んだ虫」の鈴虫の音色──── 樹から産まれた虫が、
到来する冬に、哭く事も出来ぬ木立の吐息を、地下水で練り上げた様な、 
 濁音の無い「鈴虫」の透明な「哀」だけの音色────その音色が、何故か
前橋汀子さんのバイオリンの音色に重なった様な気がした。
              ☆☆☆
            『再 会』
 9月28日(日)の 甥子2人の 運動会で 再会した あの「変わらぬ大樹」
子供達を 包み込む 抱くように そして オーケストラの 指揮者のように
校庭の中心で タクトを自在に なびかせている

 躍動を 見ているのは 木々の葉
 躍動を 感じているのは 大地の根

毎年 生まれ 落ち果てていく 目の前の葉
毎年 生命を 育む 覆(かく)れた 地中の根

 人間の姿ーー見えるもの
 人間の「魂」(心)ーー見えないもの
   倒れる 木 と 倒れない 樹


 昨夜、NHK教育テレビの『芸術劇場』でのオイストラフのバイオリン
音色を聴いて、その音波(おとは)の、波のリレーが、確かに
現在の或るバイオリニストに いき 繋(つ)がれていることにーーー
 そこに 「永遠」を 見た
。 
         (平成9年10月6日 記 『夢弦』より)        戻る
              ☆★☆★☆★☆★

      「木魂」原風景               
 昨年(平成12年)の8月3日から4日にかけて日本海の浅茂海岸(京都府)へ甥子2人を連れて行った。(このホームページの「雑記帳」の3人で写している写真はその時のものです)、海水浴をさせた その日の翌朝、                      
   ”朝一番 開く窓には 日本海”                   
 そう、「あの時」もこんな風に、目覚めの朝、視界一面にあの水色の海と 空が拡がっていた あれは今から39年前、16才になる年の夏休み、同じ高校のクラスメイト達(総勢約10人程)と海水浴の為、日本海の竹野浜へ行った。暑い暑い、夏だった。冷房もない満員電車に永い時間揺られて着いた様な気がする。
去年が厳暑と言われたが、あの頃の暑さに比べたら、比ではない様な気がする。   それ共、「若さ」が熱かったのだろうか?            
 2泊か3泊だったか今は定かではないが、海の真前に位置するその宿は、クラスメイトの親戚の家で、夜就寝時には蚊帳を張ったその中で寝た。そういう経験が無かったので
、それが鬱陶しいというより、物珍しさという好奇の方が勝っていた様に想う。
疲れが快眠の郷へ誘ってくれた。                   
 朝、真正面に(ハーモニー奏でる 海と空) 鮮烈な美しさ! というものの、初めての印象。
水色
と言う、色の存在の原素を初めて認識させた、海と空。 
 それは、遥か遠い記憶の一コマの目覚め、と言えるものかも知れない。 
ずーっと遡った原始の頃の、海と空と人間───「あの時」深い眠りに就いていた
「原始人」が目を覚ました。────               
 美しさ」の記憶は死ぬ事が無い。
現に、今もこうして歴然と「存在」する。
 

 しかし、旅行から帰り夏休みも終って、日々の日常の中で又、埋眠してしまった。
若し、ずっとあの侭あそこに居て、あの水色の海と空に囲まれて生きていたら………
人間迄変わっていた様な気がする。              
 だが、約40年と言う永い年月を経た現在、やっとその中で生きている様な気がしている。    
 私の歌「木魂」魂の原風景。                  

 日々 美しい音楽を 聴いていると、日々 浄化される………。
     
 

「美しさ」は死ぬ事が無い。            
「私だけ」にとどまってはいないから…
……                                        
                戻る

               ☆★☆★☆
 P74   
         風 』 (前橋汀子のベートーベン「スプリング」に)
              〔T
      今は 昔───振り子の あの時計
     此の世で 一番 真面目な もの
      一 二、一 二 コツ コツ コツ コツ
      行って 帰って 行ったら 帰るんですよ
     風も 行ったり 来たり
      ティンパニーを 叩く様に
      海を 渡って 来たかと 思うと
      蝶の 舟になり  鳥を 後押しし
      山を 滑り 森に 憩って うとうとした後の
      一番 御機嫌な 時
     風の弓が ゆっくり 優しく
      木々の 葉脈を いったり きたり
     ほら あの 音色が 聴こえて来ました………よ。


             〔U
   彼方から────永遠の淵から 産まれるものの 微かな声が
    風に乗って だんだん 此方へ
 ─────飛びっ切り 「一級品の風」になって────

  此の風が 来る頃は 予め太陽も 空も 海も 皆 賢まって
  居ずまいを整え 目瞼を閉じ 息を呑んで   
  「蜜の味」の 蝶の様な風の到来に 酔いしれます
    勿論 森の 樹木も すっかり 正装して
    風の到来を お待ち兼ね────
   あの風が行った後の────太陽と空と海の 煌き!─────

   風が 大木の 幹から 小葉の隅々に迄
   その羽根の タクトを 上げると ──── 森の演奏会
   その風が その「演奏会」を 此の部屋にも 届けてくれました

  ─────────── * ───────────
                
p11『あなたは愛』歌 へのリンク(作詞曲歌演奏 日高よし子)
前橋汀子のベートーベン「バイオリンソナタ」に寄せて   

1.ああなんて 懐かしいんだろう 
 風の様に透明で 自由で 伸びやかで 優美で
 木の様に 真直ぐで 気高くて なんて 切なくて
 哀しくて 厳しくて激しくて でも  
 どうしてこんなに 幸せなんだろう    
 
そんな音色を紡ぐあなたは 何者ですか?       
身体の一部に バイオリンを具備していて

 
身体が唱っている様な すすり泣いている様な
 慟哭している様な  あなたは何者ですか?
 

2. 何んて 全てを 溶かすんだろう  
 心と身体 朝と夜 未来と過去 天と地の ように
 嵐の様に 全て 奪い去って 
  それでも 何んて 幸福なんだろう 

  此処は 地上か 無上か
 懐かしいあなた 「あなたは 愛」 だったのですね
 あなたは
だったのですね

        (夢現・創詞曲より) 
       戻る   


            ★
P12  『木の精神性

 道を極めた人────土にズッシリ根を張り巡らせる樹の様に、そして、そこから、変わらぬ、又、変えられぬ自己決定の意志を、幹から、か細い枝の先々迄、(あんなに、繊細なのに、引力の重圧にも、風圧にも屈せず)凛然と聳え立つ。
 それは、まるで「或る人が」心の根の芯を重心にして、歩み、歩んだ一筋の道の道標を、天に見たなら、一本の木に成るが如くに。
…………

 天の啓示の様な、冬の、落葉樹の清々しさに、私の体内の、地殻変動後の 清々しさが、重なる。
 地球の歴史に 及ぶべくも無い、人類になる為の人間への過程。─────私達、遥か彼方には、その人間になろうとした長年に至る、人類先祖の苦節の歴史がある。その、生物の圧力に屈しない要素こそ、樹木の精神性を、その遺伝子に宿す、要因となったと言える。 
 「或る人」が、一筋の道を極める。そして、その音楽に、人は惹かれて行く。又、人が、真直ぐなものに、憧れる。それは、木の、精神性──人類になろうとした発端の、人間の神秘の遺伝子を、現在の私達が、見出だしているのかも知れない。   

  一方、他の「木」は、地球をも、超えた。
この現代の、高度な文明────限りなくロボット化して行くであろう人間の涯てには、もう一度、人類のその前の段階迄、降りて行ってしまう様な、気がしてならない。何故なら、その「木」は折れる迄、伸びるしか無いだろうから …………。   ただ、その中で、人間が、人間たる所以の、精神性に目覚めたなら、人間は何処に向かって生きているのか、何を求めて生きて来たか、と言う、人間たる所以の、答えに辿り着くであろう。
 或る芸術家に根付いた、その「木」の根元に、現在いまの私は、在る。               


p14   『木のバランス性』
               (平成11年7月26日)
    (地球の上)                                  
 私は 地面に 立っている  
   「私」は 左側に 倒れそうだ    
   遂に 右足 最初の一歩を 踏み出した。
   「木」の 出来損いの 「人間」だ

   「私」は 地面に 寝そべる
  左手が 地中に 引っ張られる─────木の「」に
  右手が 宇宙に 引っ張られる─────木の「」に

   立っていても 寝そべっていても 
   木の バランス性を 感じる

   [重力と 浮力] [引力と 膨張] [作用と 反作用]
   「木」には 「宇宙」の メッセージがある。

────────── *  ─────────
               戻る

p14    ザブーン(朗読へ)
             (平成十一年七月二六日)
 「ザブーン、ザブーン」
  遠い、遠い昔、現在と変わらぬ波音が、波音に重なる。
 けれど、その海と空の色は、現在では、想像もつかない、絵の具や、   
 クレヨンにその名残りを見付ける、紺碧────

  春一番の風が、海から陸へ、水平に、滑るように流れて来ました。
「今年こそ!」。離れた処から、毎年、真っ新らの塩気を含んだ、松風の香りの「松」に憧れた、
「もう一方の松」は、遂に、肝はらをくくりました。
 「あそこへ、行くんだ!」
 すると、不思議な事に、本当に、不思議な事に、その「松」が、木の足を、一歩「右」から 踏み出しました
一歩、二歩、右足、左足を、前へ、前へと進んで行きます。
 遂に、その「松」の前へ、辿り着きました。
「何て存在感だろう、どっしりと、そして、一直線に空に伸びて」
 挨拶の積りで、無意識に「右手」を差し出しました。が「何しに来たの?」見落ろされた侭、
そう云われた様な気がしました。
 そして、気付きました。あの、大好きな塩の香を含んだ、松風の匂いを感じないことに…………
 もう一度、元の、あの場所へ帰って見ました。が、風は、もう、通り過ぎてしまっていました。
「その松」は、もう植物でなくなった、その松は、陸を、もっと陸を、進んで行きました。
 「又、一年後に、元の、あの場所へ還って来よう」「甘やかな、あの香りに又、出会う為に」────
進まずに、元の場所に、留まるべきだった「その為」なら…………距離を保って、寡黙な侭「高さ」をこそ、
目指すべきだった。  

 そして、「似非(えせ)の香り」に惑わされ、益々、遠ざかって行く…………「現在」から、其処へ還ろうと思えば、
風がよこしてくれる、魔法の宇宙船にでも乗らない限り、とてもじゃないけど「生きている間」には、無理な事。 
 「ザブーン」「ザブーン」
 「美しさ」への感動────木の側に、佇めば、樹を見つめれば、その聲を聴く事が出来れば、見出だす、
思い出す………
  根元の「美」
 ──「愛」から「人間は、生まれた」──。

          ──────── *  ─────  
P14  『 宝 船 』            

 “彼女の人と 「時代」の海に 同乗わ 宝船なり 航路実感”    
 見渡せば、涯しなく広がる海の様な、「時」の波の中で、彼女と言う芸術 
家と同じ「時代の船」に乗り合えた事は、世紀末と言われる、此の時代の渦
の泡に呑み込まれ、溺れそうになる人間の「魂」の、先導的な防波堤と成っただけでなく、此の空気さえも、其の年、ヘールポップ彗星に巡り会った様 に、稀有な空気と感じられ、此の時代に生まれ、生きている事さえ、喜ばしく思えるのである。それは、平面的に言えば、地球と言う生命体にも、極北の氷だけの地帯、又極暑の砂漠の「死」だけが、埋くまっている地帯がある中で、四季折々の、花鳥風水に恵まれた風土に、「俳句」と言う文化を根付かせ、其の脈々とした底流の中に息遣いている、地球上稀な「日本」に生まれた日本人である事の喜びに、通ずる想いである。                                 

 
 【俳句詠む 紙の 砂漠に うみ 川が】          
 そして、地球上の其の位置の、現在の「日本」に生きる私達が、此の丸い巻紙を解いて、長い、その年譜を辿る歴史上の位置付けをする時に、此の今の、日本の文明の繁栄が辿った、其の足跡渦中の何処かの部分と合致する国を、TV等で観た時に、貧しい国ながら、堪らない郷愁を、覚える。    
 地球上恵まれた風土を持つ「日本」には、「日本人」の誇り高い特質があった筈。「意気」、その貫く意志を以て「気」と言う風の流れを造ってきた 
。地球上の砂漠、或いは、極寒の地から見た「日本」の位置。       
 歴史上から見る、日本の現在。そういう視点を持って見れば、自分の内部に持っていれば、此の現在の「刻」とも融和し、此の空気の中に、喜びを見出だす事が出来るのである
                      
                   
                           
 
★感動感 それは人類が 勝ち取った  最 高 の 栄 光である! ★  

           ☆☆★☆★☆★☆★              戻る

p15   『音の第一歩 』
 「知」の先祖の言葉の「音」────人が、一番最初に耳に触れるのは、誕生の時の自身の泣き聲。どの子も、産まれ出づると言う事は、哀しいだけと言わんばかりに、今、尚、哭き続けている。
 喜怒哀楽───端的な、表現作用として、発せられたであろう、聲、声、そして、「音」────それは、真っ暗闇から、頭を覗かせた一筋の、面映い光への驚嘆の、一撃!
 或いは、光を吸い取って行く、太陽への、慟哭の連打!
 そして、再光への「祈り」としての、───「音」───それは、「言葉」としての、第一聲かも、知れなかった。…………
 何時だったか、昇る太陽の荘厳さに、ちっぽけな自分を思い知らされた様な…………。                                   ☆
 想像を絶する程に、空は、碧く 青く、雲は、白く、しろく、樹木は、広々とした空間に、ゆったりと 澄んだ空気の中、其の葉の緑を、深く、息遣かせて…………。
 「感動」と言う言葉を識らなくとも、きっと、身体に食い込む様な「美」感を得た。その「域」へ──
──人間の第一歩─────
  (動物と、動物たる人間の、分岐点)

               ★
p15     『まれびと
 日の出の、生まれるものの喜びと、日の入りの、去って逝くものの哀しみとしての、人間の表現であった、「音の起源」(それは又、心の起源)が、主観だけだった、表現から、客観を伴った音楽としての形式─────誰かの言葉では無いが、文明の最高の花─────クラッシック音楽(精神性の極致の音楽)────それが、前橋汀子さんの音楽。何枚かに亘る楽譜があろうと、それは、いつも、最初の第一ページから──音楽も又、知性の積み重ねの如く、何枚も綴られているが、その第一ページを飛ばしていない音楽、第一ページが感じられる、技術の粋(技術に加味された「音の起源」が時空を超えて、地が天に訴える様な、唸りの音楽)の、音楽にこそ、人は感動を覚えるのであろう。
 そして、積む修練は、勿論として、そこに、演奏者の教養────その、作曲者の意図を辿る為の作業───それを感じさせる音楽─それら全てを兼ね備えた、
「まれびと」の音楽に巡り会えた、私も又、稀人であった。


             
p16  ♪まれびと(稀人)』♪  (「夢弦」創詞曲)    

 まれびと なる 言葉ありて                      
 ひととせ(一年)に一度  幸もち来る人と
  我に その人は 来し 
  羽根鳥 海泳の如  地虫 空泳の如
  地の噴動と  天の清澄と
  天地溶心の 響きなり
  我に その人は きぬ 
  一生に一度の 幸もちて                     
  ♪真さに まれびと なりて
   まれびと なりて  
 ♪

               ★
p16  『生命の躍動リズム
 
     “「春」なりて 感動の 山々 波々 と”
 土中の温みに、今、目覚めた様な虫達の、ゴソゴソと 落ち着かない気配。
 生まれたばかりの、子魚の、海面を飛び跳ねる音。       梢から 初めて 飛び立つ、小鳥の 羽根の音。
──それ等は、皆んな、ずっーと 歩いて来て、遠くの何処かの道に、置き忘れたものかも知れない歩かなくなった道───
其の、遠い記憶を、呼び戻してくれる、音楽。              
てんてん 手毬の ゴム毬そのものような、少女の頃── 
  あのリズム、リズム感 ───  打てば響く鐘の様に 暮れる事のない空の下 ゴム毬の押せば返す 大地の浪──大地の息吹き──その手毬は、 大地の浪の侭 転がる。

 毎年、春になれば、桜の開花前線に乗って、聴く雀達の、張びやかな、誤魔化しの無い、喜びに充ちた唄声。(哀しい時も、同じ様に唄うのだろうか?) その音楽には、その連続性 ────停止していない、今の生命の、轟き(生命の躍動感)───例えば、南方の雀から発せられた、春を告げる歌声が、順に連鎖して、連続線上(春伝線と言う、一本の途切れる事の無い 線上)に、波打っている様な。
 その年の(平成十年)の、雀達の唄声は、スタッカートの様な、生命の刻みの力強さが、感じられた。(そう言えば、その前年の秋の、鈴虫や、コオロギの鳴き聲が、今迄、耳にした同じ虫の音と思えない程に、何と胸に沁み入る、澄んだ音色であろうと、気付いた事を思い出す。)
 あの音楽の、音色の根源の一部を、「あの道」に、見付けました
              
  ■               ■            ■        
 『或る地球』   (~9年10月8日 記)             

 すでに大気も完成され 豊穣な生命の息遣いが生きものを産み 空の青さ      
 曇天の日の 倦怠  掴め切れない風だけれど 絶えず 一巡して         
 花々を もう枯らさないように  「息」を殺していなければ 或るいは 瞳を閉じて 
 再び 見ないようにするか そんな 気持ちで 毎日  太陽の  昇り降りを    
 見ている間に その想いが積もり 積もって いつか山の様に。  
  そんな時 「焔の塊」の 彗星が ぶつかる  地球の 地殻の 大変動       

それは、前橋汀子さんのバイオリンの音色との 出会い、           
それ迄の 全ての曲は 光彩を失い 見た事もない オーロラの様な 光が      
 地中から 私の体内を 通過して 天空の 果てまで  突き抜けて行った様な    
 衝撃の波の後は 第2の地球の 始まり 不要なものは 全て 焼き尽くし     
内部を 曝した  地球の 何という 清々しさ!                               
 (詩歌集第2集「夢弦」より)            戻る


(P16)胎 動 感 
 私は、子供を宿す縁(えにし)を持たなかったので胎動なるものは解せぬが、
その人との音楽を聴いて受ける「地球の胎動感」    
 確かな地球の、今の激しい鼓動を共有する事が出来る。              
 それは、冬の終わりの月が沈み、春の曙が、空を真っ新な暁の色に、染め上げる頃 
舞台の奈落の底から 出番を待つ 花の緊張感   地中の虫達の 騒めき感  
 初めて光を見た若葉の 瞳の輝き! 蛹から 頭を覗かせた 揚羽蝶      
蜜の雨とランデブーする 紫陽花の花 雨と ハミングする 大地の歌       
それが どんな「愛」であれ   それを 知れば 地球が理解出来ます
その時 人の心は 何を感じますか?
 その心を例える時に 此の自然界と  「一体」となって 
誰もが 詩人に なる事でしょう!              
 
 「愛」は何を 教えているのでしょう?                    

  
 ■               ■            ■                 

p17  『スプリング』 
(前橋汀子のベートーベン バイオリンソナタに寄せて) 

 
 何処からか せせらぎ 跳ねる 水の音             
  あれは 峰の 何処かの 雪解け水の 音               
  一本の水 縫う 水車の音    
                   
 
  
凍えた体に 駆け出す 血液の様に                  
  静止画の絵に 太陽が 昇る様に 
                
 
  
 何処からか ひんやり 温かい 風の音             
  地底の熱の 膨張を 釣り上げる 浮力が               
  ガードで 固めた 天の 冷気の  堰を 放く 引力と なり 
   
  

   地球の 初めての 春のような                 
  冴え冴え と 潔々しい  高嶺な 頂きの
   

  「春」の 味わい……………    
       「夢弦」より
               ☆★☆★☆★☆★
          『四月に!』  

    
それにしても 四月の この 陽気さよ!
     桜は 着実に 開き切った 傍ら
     こそばゆ気に 若草色の 乳葉を
     リボンの様に 枝先に 結んだ 木
     生まれたての 新芽が 落っこちないように
     母に しがみ付いている 木


   
 
颯爽と 車を 走らせれば
     あの 扇形 帚型の 落葉樹も
     うっすら 淡草色に 彩づいて
     紛れもない 春 旬(たけなわ)の  生命が
     揺らめいているのでした


    此の 四月の 町を 歩けば
    夏の予感の様な 日差しの中
    風は スキップ しながら  草笛を 奏で
  真っ新な 生命の 息吹きの鼓動を 刻み 始めている
    口元が ほころぶように  木々の新芽が
     
羞かし気に ほころんでいる
    生命が ほころぶ ようだ!


   冬の幕が 降りた 後の 「生命の 目覚め」の
      春の 歓びを 体感する
     そして 気付く これら 全てが
    「あの音楽」を 聴いて 感ずるのと

     同一で ある事に。…………


 
“「亜麻色の 髪の乙女(音目)」は 春 雨(あめ)             
   日は 汲み上げる  ひと芽(目) ふた(二)芽と”
     
        「夢弦」より
 

                  ♪♪♪♪                                        戻る

前橋汀子のCD『亜麻色の髪の乙女・全13曲』寄せて

 麗しい日は 開けぬ

『亜麻色の髪の乙女』の 残り香の
 風と 頬ずりする 朝(あした)

『タウンテラ』には 目覚めた春に 旅立つ
 聞き分けのない 子雲雀の唄

夕暮れ迫ると 『メロディ』に 乗って
 西の空へ帰る 一団の 鳥の群れ

光と雨の 絵の具で 輝く 若葉の傍ら
 生命 踏み出せぬ 木の『無窮道』

今日一日を 一回転 して見やる 遠景に
 抱かれて 『カンタービレ』
 
暮れた窓辺に 映える 『アレトゥーザの泉』
 聖なる血汐が 涌き出でし

その泉の音は 限り無き 人間の 郷愁の
 『スラブ舞曲』に 踊る

『ロマンス』の 絶望に 号泣する
 嘆きの人の涙を 拭き取る

『アヴェ・マリア』の 姿
 あれは 教会の 絵 だろうか?

『愛の喜び』には 『愛の悲しみ』
 赤い太陽と 青い空

『ラ・ジターナ』(ジプシーの女)なれば
 尚、その色彩 濃く

憧れの花を摘みて
『美しきロスマリン』に 思いを馳せれば

 美わしく 日は くゆる           ” 

      以上 「夢弦」より。  (平成10年4月26日 記)
       *************** 

P17『美しい心』ドビッシー「美しき夕暮れ」      

 
美しい心を持っていますか?               
   と 問われて                    
  それを 自分で どう 答えられるでしょう       

     ただ 私は                    
   美しいものが好き!  
                

  美しい自然が好き!
   美しい朝の 序曲の
 「美しい夕暮れ」が好き!     
   舞扇の様な 冬の 落葉樹が好き!          
   厳冬下の 夜明け                  
   その樹木と 一級品の風が 奏でる          
  美しい音楽が 好き!                 
   と、ただ 答えられるだけです。           

 美しいもの、余りに、美しい音楽を 聴いていると     
  果たして、与えられている この美しさに、       
  自分は、値するだろうか?
           
   戻る                     
                 ♪♪♪               

p16
前橋汀子のドビッシーのバイオリンソナタ』に寄せて
  ☆『揺らめく灯

  
 
   揺らめく 甘美な想い出 


    渦巻く疾風
    押し寄せる カラス大群
    押し返す 凍火の 白矢(夜)

   揺らめく灯 仄かな命     

    墜ちてくる 空
    逃げて行く 水  悲惨という 赤い河

    僅かな 空間から 壁を 押し退けて
    立ち上がる 人

   揺らめく灯 ………   一筋の 希望 ─────
     ────次世代────

              ★☆★☆★
              
p17   『ノクターン (ショパン)

  “「雨だれ」の  五線譜の 跡  「ノクターン」”

 そのバイオリンの、弦から沁み落ちた、一滴の露は、此の部屋を、
此の町を 越えて、砂浜を、そして、海まで、一面、哀色に染めて行きます。
 ─────悲哀と、真正面に対峙している音色。─────
 何か、見てはいけないものを、見た様な…………
 その音楽を聴く時は、或る種の勇気が、必要です。          

   “此の現(弦)の 哀色 全部 「ノクターン」”

              ★
p17 フニャーニの スタイル』(クライスラー)

  “ 境界に 幻(弦)なる 螢 「雪国」火 ”

 何処をどう降りて行けば、どう昇り詰めれば、あの「音色」の正体を掴む事 が出来るだろうか?
  哀し過ぎる、美し過ぎる、バイオリンの音色。
 雪を溶かせる 火の様な 火を黙らせる 雪の様な
 雪の中の 火と 火の中の 雪の葛藤────
  底知れぬ 音色の 哭響
 それを 想えば  何と 甘っちょろい 人生────
 雪も 知らず………  火も 知らず……… 
              ☆★☆★☆★☆★          

p18  『タウンテラ』

“哭きじゃくる 弾きじゃくる 弦 「タウンテラ」”

 昇る太陽の その 丸い侭 映える 初草の 円の中          
 何処で 見た事のある 赤ん坊が 座っています
 
 「ガラガラ」の 音  「ペチャクチャ」 おしゃぶりの 音        
 積み木とも 分からずに 放り投げる 
 
「ゴッツーン」 嬉しい音?  悲しい音?
太鼓の 未だ ドーン ドーン には ならない 
「トン トン」 
突然 あの 太陽が欲しい!と 言い出して  
泣きじゃくる 音
  
「オギャア オギャア」 
オギャアの音が 遠ざかる程 
太鼓の音は 濁音を増して─────
 「ドン ドン ドドーン ドーン」 
                     「夢弦」より
                ☆★☆★☆★☆★

75   『美しい余韻』
 
   (前橋汀子のドビッシー「美しき夕暮れ」・
     クライスラー「フニャーニのスタイル」に)


   戻る


P18バッハ無伴奏バイオリンソナタ』             
』  
“無伴奏バイオリンソナタは
  かのバッハ 前橋汀子においていきし ”

『シャコンヌ』                      
一斉に鳥が 飛び立つ   一斉に星が流れる         
 それは 光の 合図だろうか? それが 呼び水となって      
海から 空へ 雨が 噴き上がる                   
回っている 地球 故に  掴み処のない 「天」             
 若し、一つの「天」と「地」が あるとしたら              
この私の 「魂」と言う 小さな 宇宙の中               
 「シャコンヌ」の
 光の中 歓喜の杯(露)を 飲み干そう!        

充ち澄みて 冬の螢火 「無伴奏」 
    2乗の魂 たからみ むげん】  
  
  

 “涙露つゆを みる 魂の純潔さ 高潔さ”

 此処の空間には それがある  決して侵されない 聖域
 全てを 超越した世界 透明な 硝子の様な 氷に覆われ
 光 輝いている 哀しい迄の 何という 美しさ!
  透明な それ自体 「魂」かも知れない
  「涙の露」が 其処へ 吸い寄せられ
  舞い上がって行く  そして
  天上で 溶け合う──無伴奏──
  「魂の 解放の 瞬間」

 “「無伴奏」 難々解々 原典を 
    綴
ひも解く 人と 弾き徳 人と” 

 バッハの曲と言うだけで、誰もがその「境界」内で弾いてしまいそうな中、彼女のこの「無伴奏」は、深い洞察力で、自身の人生を転嫁させた様に、 全体章を構成している。

 ソナタ第一番の第一楽章の「アダージョ」、人間の生まれた宿命を弾き落ろす、第一弦!。人間の「業」を、その透徹した精神を持ってしても、難行苦行の山を、一弦一弦、弾き解く様に越えて行く、彼女の嘆きと、祈りが、私達をも引き摺って行く。
 そして、ソナタ第二番及び、パルチータ三番の、天上の域へ、誘って行く。
聖典の、音符一音一音を翻訳し、弦で見事に表現し得た彼女こそ、詩神と言える。まるで、バッハが前橋汀子さんの為に作曲した様な、又、彼女はバッハを演奏する為に在った様な───技巧的な難解さを感じさせない、滑らかな流麗さ───身体の重力が失せて、浮力だけになり、鳥の様にフワーッと天上
に招き上げられた様な………。

“「無伴奏」 今日から 無色の 静寂なり 
   天上の流麗 鳳凰の星 ”


 其処には、無色でただ煌めく星座の群れが──呼び寄せるのは、五百年間不死の星座「鳳凰座」───【砂漠の、不死鳥伝説の鳥、此の世に一羽しか存在しない、金色と朱紫色の羽根に飾られた、例え様のない美しさ!
 死が訪れる時は、自ら香木を積み、火を点けた後中に飛び込んで終命し、次の瞬間、その灰の中から甦り、再び空高く舞い上る。】ナツメ社「星座」より──空想が生んだ、伝説の星座──
 でも、人間の頭で描ける事も、それも地球と言うか、「可能性の形」。
其処に何を見るかは──それこそ、個人差。
 「鳳凰座」の中の、バッハの前で、直律不動で弾いている、前橋汀子さんを見る様な、
聴く度に素晴らしい「無伴奏」。

 “ 魂に 酸素 巡りて 「無伴奏」 ”

 魂をはっきり識(み)るだろう! 魂の息遣い! 震き! 歓喜! その実在を!
 私のこの感嘆符を全て書いて行けば、何処迄連なる事だろう!
 この、
バッハと、前橋汀子さんの「ハーモニー」に依ってこそ、成し得た「天上界」の具現!
 バッハと、前橋汀子さんの素晴らしさに、星の瞬きに負けない位の喝采を!

 “「無伴奏」 無色  空色 殉教者”

 “重力と 浮力の 狭間 「無伴奏」”

“聖道に 仏音 伽藍 冬木立 
  「無伴奏」とも 我
  一体感”

“「無伴奏」 入口 出口 水平線 
   此の世の 光 集いて 眩し”
    戻る


              『魂のハーモニー』                  
 人生を生きる、生きて来たと言う事、それは各自の過ぎた風景に他ならず、それしか見付け得ないもの。昨日があって、今日、明日と続く永遠の中で、生と死の、その境目だけで全て終わるだろうか?地球から生まれた私達─── その昔、仏法の輪廻転生の思想はどの様にして生まれたか?現代に生きる私達には、地球が回っている事は、科学が立証しているが…………人間の表現出来る、している事は、それ自体全て可能な事だから──在りえる事───でも知らない世界の事だから、そうではないかも知れない。だが又、そうであるかも知れないのだ。
 
仏法も、キリスト教も学んだ分ではないが、それを記し描き得た事にこそ「意味」を憶する。人間の興味をそそられるもの「好きなもの」、この中にこそ「真実」を見る。それこそ地球の「愛」だから………そして、その涯に何を見るかはその「結果」。

 私の涯にあったこの前橋汀子さんの「シャコンヌ」。  
 この風景を識った事は生きている時だからこそ、意味がある。
ずーっと先に、彼方から振り返った時にも、きっと見る事の出来るものだから…………。
 何百年前から、現在を見た場合──今の此の世界を想像し得たであろうか?
 その時代、時代が産んだ天才と言う光が、光を生んで、スポットライトとなって、指し示す一筋の道、文明然り…………      
 同じように、私達は、何百年後を想像し得るだろうか?         
例えば、「魂」=死後の世界の領域に迄、人智は及ぶのだろうか?  
それ共、「魂」と言う言葉は死語になっているか。             

 人間社会を営む上で、必要な「決まり」という、時代によって変わる、常識社会で生きていく中で、何が信じられて「真実」かと言えば、自分の心の動静だけ──その時代と言う枠の中で、それでも、魚は生きている。    
 私は、求道者でも、ましてや宗教家でもないので、特別に神を崇めるとか、(宗派は浄土真宗)そういう事はないけれど、それこそ、自分の心に逆らわず生きた中で、その仏典の、聖典のほんの一部分に触れたと思える時がある。 
                     ★         
 1989年発売であるこの「無伴奏」に、その頃でなく1997 年に巡り会ったと言う事に、何か両極の対比────当時は仕事上ではバブルの全盛期、自分自身にとってもその頂きに(あくまで自分自身にとっての)近い位置を感じた事のある時期であった。 それで得た物は、此の世で生きていく上で必要な、将来の為の物質的満足感────老後と言う将来の不安に対する安定感(そして、早すぎるけれど「現在」がある────。私は何時も、幸福でも、不幸でもなかったけれど、けれども、今想う、あの頃はなんと不幸だったのだろう、と。
 孤独癖があるけれど、もっと孤独で、仕事という鎧を被って自分自身を偽り、虚構の中に身を置いていただけ────それが、物質的豊かさと言うものだった。        
 心の中には何も無かった(比例して失ったもの………)。         

 「全てに時あり」───若しバブルのその頃に前橋汀子さんの音楽を聴く機会があったとしても、通り過ぎてしまっていたであろう。
 道に未ず、クラッシック音楽という芸術の入り口にさえいなかったのだから………。       
 「生命体の地球」としての要素として、先ず太陽が必然だった。
地球それ自体からは「生命」の「愛」も、存在し得なかった。
 地球と太陽の「ハーモニー」、生きものの生命の継続行為も、ハーモニーで成り立っている。文明のエネルギーの命も、電極のハーモニーから。

 
ハーモニーとして交えるには、太陽の光が多過ぎても、少な過ぎても、近すぎても、遠すぎても、生命は生じず…… 
 魂の「ハーモニー」は?
 この、バッハと前橋汀子さんの「ハーモニー」に依って成し得た───魂の歓喜───天上界の具現!。           

 時代が生み出す天才、事物を開化させるものもあれば、魂を開花させるものも………。そして「その時代」の「その時」に噛み合う歯車の様に、呼び合う電極の様に、「その時」に呼応し合うものとの共鳴感に、自分を離れて飛び立つ「魂」。
私であって、最早「私」でない様な………。
 そして、改めて認識し得た事、一人で「愛」は生まれない、と。                   
 それに合致出来る「自分自身であった事」が、「その時」の産物であると…………。
───「生きる」に「時」あり 「聴く」に 「時」あり。────   
(了)
                  (「夢弦」より)        戻る
                  ★
p21               

 きっと 其処は やはり 野原だっただろう      
歩いているというより 風に運ばれる様に  
それでも 確かに 一歩ずつ 進んでいたのだろう        
 
 目的地が あった分でもない  ただ 気が付くと
処々 花が 咲き初め 道案内人の様な 蝶の後に従い
其の道を 歩いていた よく見ると その 空間の中は
何時も 柔らかな 日差しと 花々と 蝶に溢れ
 楽園だった…………         

  そうだ 私は 死に掛けていた
──それは肉体が───
  そして 到達して 本当に 死んでしまった       
──目を閉じ 息をせずに───        
  
  「魂」だけが 活きている               

──其処は確かに天上界だった
───生き還る瞬間───

──前橋汀子さんの「無伴奏・シャコンヌ」を     
   聴いている「刻」────
                   〔以上 (「夢弦」より〕

    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

p21 『パルチータ第三番「アダージョ」』                                                   
 それは 雲の 揺り篭の中?               
風に あやされ 引かれて 心地よく 漂っている

 或いは  海の 吐息の中?                     
その海の中に 吸い寄せられ                       
深く 深く 還ってゆく                  
              ☆
p22   『パルチータ
・第三番「フーガ」』                                               
 ピンクや 黄色の 野花達の 無造作に 咲き匂う
 原っぱの中 ──じゃんけん ぽん あいこで しょ──    
  ワァ 勝った! 両手を挙げて 屈託の無い             
  少女の 満面の声   「身体全部が喜び」の             
  無邪気な頃────                   

  ─────────── * ───────────
P74    『海 藻』    (「夢弦」創詞曲より)  
  “クリオネは 一滴の  より 生まれたり ”        
  
 海面に 海の藻 揺らめいて                    
  ゆーら ゆーら ゆーら ゆーら漂って               
  生きて いるやら いないやら                    
  おかまいなしに 煌めいて                    
  ゆーら ゆーら ゆーら ゆーら  揺らめいて            

   海面うなも と 海藻 溶け合って                    
  ゆーら ゆーら ゆーら ゆーら 煌めいて             
  眠って いるやら 子守詩                       
  夢枕にして 横臥わる                       
 ゆーら ゆーら ゆーら ゆーら 溶け合って          

 海面に 海藻 揺らめいて                       
 きーら きーら きーら きーら 煌めいて             
 ゆーら ゆーら ゆーら ゆーら  漂 よ い し          

  “クリオネ(水母)は 宇宙の 螢火 星 あかり”      戻る

p22 ♪『  歌 へのリンク              

1.富士の山に 憑かれた人が いるのならば
  音楽に 魅せられた 人が 居ても良い筈
その 魂の 感動の 噴灰を 
これからも 積んでゆけば

 やがて 富士の山に なるかもしれない

2.真っしぐらに 海へ還る 川があるなら 
  溢れる泉が 川を創って いい筈
その 魂の 感動の 噴水が
これからも 噴き上げれば

 やがて 湖に なるかも 知れない

3.地球体の 遺伝子を 持っているのならば
  鉄の塊の 赤い エネルギーが ある筈
その 魂の 感動の 噴動を
これからも 繰り返せば

 元の 地球に 戻るかも 知れない  (夢弦・創詞曲より)
 ♪                             ♪
 “生きものは 一つの遺伝子 地球「体」
   感動は 地球の 喜び”
  

─────────*────────  
 p22 春の息吹き

 『世を暗い と 嘆く人よ! 
目を 転ずれば 点じて 転ずる』


 灰色の コンクリートの 地面だけを見て 歩いていた人も
 町を歩けば 春の風に その 重い頭を 持ち上げられ  
 木々の 真っ新な 光の 芽と 目が合う

 ああ なんと 喜びに 生命に 充ちている事か!
目の前に 足元に それがあるのに
そして 「あの音楽」にも
春の只中の 息吹きが 溢れています。

────────☆──────────────
 p22  もっと を!

 ゲーテの臨終の際の、有名な言葉、「もっと 光を!」。
此の世の、全ゆるものに目を向ける事で、詩が生まれ、それを読む人の心に、その「光」の芽が点り、芸術に触れる程に、光の輪は大きくなり、やがては「夜」さえも「光の朝」に──
─── 「永遠の時間とき」にも…………
 私にとって、書物にも、光を、蓄積されたが、今、こうして、それを身を以って理解するのは、例え、歩く道に、虚しさの影を見ようと、その影を後方へ追い払ってしまう、その音楽の「光の海」にあるからであり、世の人々にも、もっと、この「光」を識ってもらいたいと、思う。
 この事から、私は、ゲーテの、その言葉を、「宗教」の伝導心なるものを、理解する。
                   (以上「夢弦」より)  戻る

            ♪♪♪
☆コンサート ホップ ステップ ジャンプ 天に テン
       
☆コンサート 魔法の絨毯 チケットは 日迫る程 心 浮き浮き

  (1998年6月26日 前橋汀子の初めてのコンサートに寄せて)
 ────────*─────────
 p22  『演奏会』

  “クラッシック 演奏会は 夢とおき                              部屋の隅々 感動 いきて”

       ☆☆☆☆☆☆☆☆☆       
1998年6月26日『初めてのコンサート』          

平成10年6月26日 午後7時 於 シンフォニーホール
 「前橋汀子とイタリアの名手達」 開演        

───彼女は現れた。
此方に向かって、いや、木の舞台の定位置に向かって、
パールの如き、グリーンのドレスをたゆらせ、ゆったり、大らかに──

 ★木の化身 濡る緑なる 衣装着て                
   バイオリニスト オーラに現わる      

 ★彼女
の人は 「人間」の姿で  現われり            
                                  
 ★何度でも 心は眼に 訴えり                  
    あれが かの人 「前橋汀子」       
                                  
 夢に迄見た、そのコンサート、「夢」は眠っている時のもの──
「時」を掴めたら………と想った。   
 が、彼女のその、バイオリンの音色────CD等で耳慣れた、その音色と、現前の音色が合致して、胸は轟き、夢が、彼女が「現実」のものとなった。
 ☆弓は 地を掬い 木に 風 巻き薫ゆる

 動のバイオリニスト───そういう姿を、今迄一度も見た事が無い。
クラッシックコンサートに自主的に行ったのは、今回が初めてで、テレビで観る、どのソリストにもない、この姿にして、この音楽あり!と、納得させられる程に、感動的であった。
 木が、地中から手を伸ばして、我が身を削りながら、慈しみ、弾いている如くに、又、ある時は、いつ息を遣くのだろうかと、思わせる程に、一心不乱に、小手先でなく、身体毎、弓で地を掬い、風を巻き込み、その姿は凛然と美しく、音色は木魂の唸りの如く響き、六月の湿った、物憂気な空気も、このシンフォニーホールだけは、別世界に、逡巡してくれました。

 ☆コンサート 喚流 巡る 森の一員

 それは、「引力」「放力」───バイオリンを持つ手と、弓を持つ手が交差した
その部分は、嵐の先陣の、台風の目の如く、或いは、地球の基軸の如く───その引かれるけれど、寄せ付けない、近寄り難い、集中姿──例え、雨が降ろうが、槍が降ろうが、一旦、弾きだしたら終わる迄、止めないのではないかと思わせる──その引きを切らぬ集中姿は──地球の引力──その生誕の時の、限り無く吸い寄せられ、一気に駆けてくる星塵達──核に向かって──そして、纏めながら、大気と言うガードを造って行った地球──その「引力」と「放力」を持つ、人間の小地球(地球の海流の如き、体内を巡る、生命の血流)を見るようだ。
 人間誰しも持っている一面─── 一つの事に熱中している時の「美しさ」───それは、その精神と肉体が、混じりっ気の無い「一つのもの」と成っている時の、放美。
 その「気」を積む鍛練───「気流」を呼び込むべく、それは、人間の体内の血流と、地球の命脈とが、さながら、連動する如──の成果。
 故に、風の様にも、花の様にも、蝶の様にも、嵐の様にも、噴煙上げる火山の様にも……地球そのものの具現者たる、芸術極意は、その荘厳な姿にこそ──難問を解いた様に、コンサート鑑賞の充足感に、浸ったのでした。      
 ★神々しき  ヴィオロン弾く  その姿             
                                  
 ★そんな風に  夢は突然  溶解す               
                                  
 コンサート終了後、楽屋口で、前年の「夢現」と、第二集「夢幻」を手渡し、サインも貰った。見て貰えれば嬉しいし、そうでなくとも、それは、問題ではない。供給するものと、供給されたものの、それは「結果のもの」だから……。目の真ん前で、そして、二言、三言、話も出来たのに……
「夢を忘れて」いた……。そんな風に、忘れて行く………
 でも、直かに触れた、彼女の「素顔の印象」は──全てのものを拒まない不思議な雰囲気を持った人。──人間に宿る、芸術と言う表現に必要な本質──それは、地球上のものが、其処に集いたくなる様な、風も、小鳥も、花も……それ等のものを、味方に出来る包容力を漂わせた、やはり、「その音楽」と、合致した人だった。
  ほんの、一瞬の、私の「直感」です。

★「もののけ」に  シシ神は きぬ あの「木魂」         
                      (以上 夢弦より) 
                ★             
 その 翌朝 ────今日しかない朝
 シンフォニーホールの、昨夜の大きな波が、今朝も未だ、それでも、穏やかく、さざなっています。
 六月の、気脱るさと、そのさざ波がミックスされ、心地よい充足感となり、今朝の私をくるんで呉れます。
 確かに昨夜、風が鼓舞して、物憂気な大阪の空気を、一巡して行って呉れました。───私は、昨夜、ちゃんと、風を見送りましたよ。──


               ★
p24 あれから一週間 『金字塔』

 “杯満つり 「ローエングリーン」は 失いし        
    無限の距離の 星舞い来たりて”

  私は、山頂で 待っていた            
  あの何億光年 彼方の 天空の星を          
   ただ その輝きに 魅せられて           
  ずーっと 諦めという 無限の中で          
  それは 或る意味で 永遠だった          
   幻を 見た                   
 あの星が 直ぐ其処に 真前に 緑色の輝きを     
 躍動の 生命を 放っていた             
  遠さ その侭を 近くに見ている と 云う位     
  輝きは 一致した。                 
   幻は 消えた                  

 でも、昨日と明日が すっぽり重なる日々の中で     
 あの 幻の一夜は 別世界の             
 其処だけ 切り取った絵のように 燦然と輝く     
 私の心の 金字塔と 成った            
  私は 山頂を 降りるだろう           
 私は 登り切って しまった もう 降りるしか無い 
  今も 天空の輝きは 彼処にあるけれど        

 変わらず あるだろう───。      
       (平成十年七月三日・記)夢弦より
  ────── *  ──────
p24  二ヶ月目

 “コンサートの曲 聴想す 感動真前  正真 照明(正銘)”

 コンサート会場で買った、演奏曲「二つバイオリン」「四季」のCD。

 “夏 還る 三年ぶりの 『四季の「春」』ビバルディ ”

 平成七年の夏、N響の────
 “真夏午後 部屋中に満ち 『四季の「春」』
    風も うっとり 葉に 戻る”


 FM放送から流れた、この『四季の「春」』は、私にクラッシック音楽の感動の花を、最初に咲かせた「春」だった。
 でも、翌年、本当の春が巡った頃には、花芯も枯れてしまって………
しかし、現在(いま)、又、彼女の手の中で、ピチピチ跳ねる様に、春、夏、秋、冬の各季節が、それぞれ、自己主張するかの様に、息遣いている。 絶える事の無い、命の、地球の波の様に………

 “四季の「四季」 波 追い駆けて 又 波の
      生命はしりて 巡り 巡りて”
───────── *  ─────────   
 “五線譜の  一線上を 弦が 引(弾)く”         

 “波は引(弾)く 「美しき夕暮れ」 緞帳を”        

 “あの弦は  骨身に沁み入る  削り来か”


 “甥子は 「ポケモン」ばかり  我「汀子」ばかり”

 “直感動  弦 研ぎ練りて  全能曲”


 “彼女かのひとは 作曲者の衣裳 弦に着て
   「熱演女優」 詩神の魂”            戻る
 
  ★★★ ★★★  ★★★  ★★★★
 p24 『仰ぐ峰』 (春の生駒山)
             (平成9年7月8日 記)
 それは 山だけではないかも 知れない
登山家ではないので、登山の事でなく
  一般に、例えば 生駒山
 見上げれば 高い山  
 遠くから 見れば 形 輪郭も くっ切りと

 その山に 登ろうと 車を走らせる
だが その山の道を 走っているのに 
その山だと言う 実感が無い

 その山の中に 入った時 下には居ないから
 その山は 見えない ただの道を 走っている様なもの
 高さに在ると 思うけれど 
 「その山」の 頂上に居ると 思えない

  そして 下って行く  
 その山から 遠くへ 離れて 行くほど 
 あ、「あの山」を 見付ける

 でも「その山」へ 登ったとは
 やはり 思えない。

                     (「夢現」より)

 p25 『楽しみな 期間

 ──平成1129日付、夕刊紙上───
 ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
 ♪ コンサートガイド欄                   
 ♪♪ 「フィンランド放送交響楽団&前橋汀子バイオリン演奏会」 
     平成11年6月12日  PM6時30分         
    於:シンフォニーホール           
  ♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
 が、目に留まった。

 日、時は違うけれど、去年と同じ六月に、やはり、シンフォニーホールで催される様だ。 昨年も、この時期に、この様に新聞に載っていたのだろうか?私が去年、それを目にしたのは六月二十六日の、二週間前だった。 あの時、その文字が、嬉喜とした矢となって、私の眼に飛び込んできた。
そして、間髪を入れずに、その勢いの侭、直ぐプレイガイドに電話して、座席券の予約をし、明朝、最寄りのコンビニにて、代金と引き換えにチケットを 手中にした。天にも昇る想いで───                

 “コンサート ホップ ステップ ジャンプ 天 に てん”

 “コンサート 魔法の絨毯 チケットは
    日 迫る程 心 浮き浮き”


 その日迄、たった二週間の夢の膨らみ」、その期間は、夢に浸る間もなくただ一心に、詩歌集第一集「夢現」以降、メモっていた津々浦々迄の、その感動の記録を纏めるべくの日々だった。
 その、第二集「夢弦」は、コンサート当日午後まで掛かって、やっと、仕上がった。
 そして、コンサートへ。終了後、彼女に、それを手渡した。
(このコンサートの事、その印象は『「夢弦」追記編』に、纏め直したが)
 去年に、「今年(こ)の期間」が欲しかった。
それは、去年でなければ、得られないものだ──人生を、ある程度生き
て来ると、その期間こそが、一番心ときめく、素晴らしい時間であると云う事を、識っているから──── 
 そして、それはいつも「最初」の「前」でなければ───
叶う前の、それが「夢」だから──。

 「夢現」の「あとがき」に書いた、ザ・ピーナッツを初めて観た、高校一年の時の、あの感激。昨年は、その三十六年前を、又、生きている様に思えた。(心は、未だ初心な、ティーン・エイジャーと自賛して)
 最初が、二度目、三度目になったところで、あの感激性は一度切り
勿論、出たレコードは全部揃えた。が、昭和五十四年、それ迄、住んでいた家を引っ越す時、LPレコード二枚以外、全部捨ててしまった。
 だから、昨々年(平成九年)前橋汀子さんのCDを買う時も、結局そうなるのが分かっているから、躊躇した。が、FM放送で聴いた、感動感の方が、それを払拭してしまった。
 その成果は? 詩歌集「夢現」「夢弦」に、結実した。
そして、この第三集にも?
 
  “ときめきは 去年の夏に 使い切り”    戻る
 ────────────────────
 p25  ときめき・去年”          
                  (平成十一年二月九日)      

 去年の初夏 海底を捏ねた 怒涛のように 舞い上がる      波飛沫の 海の皿を 拡げて                     
 初めての白鳥の到来 を 待迎しました。              

 今年の夏に、その白鳥が 同じ海に 再来する事を       
 この冬の 穏やかな 波間に 聴きました。             
 見上げる星々は、あんなに煌めいて その中で           一段と明るい あの 緑色の星は                 今も 変わらず 燦然と 輝き続けています。  …
         
          


 p26 ときめき・(去年) 夏』  (巻末に曲)

1.眠って しまった 時間を 揺り起こさなくては
  あの ときめきを 取り戻す為に
  叩いて 抓って 引っ張たいて
  何が 何でも 起こさなくては
  あの 落葉に  埋もれて しまったものを

2.眠って しまった 時間は 揺り起こさないで
  あの ときめきを 壊さぬ様に
  手品の 種明かしは 見せないで
  玉手箱は 開けないで
  あの 浦島太郎には 成りたくない

3.眠って しまった 時間を 揺り起こさなくては
  あの ときめきを 思い出す為に
  本の 結末は 知りたくない
  人の 心も知りたくない
 それは 終わりの 始まり だから
 
          (平成十一年二月九日)
                ♪ 
              ★
p26 『あれから一年二度目の コンサート
───199912────

 “「急行」に 乗りて 心も 「シンフォニーホール」”

 福島駅に降り立つ。
約一年振り、去年と同じ六月、同じ道を、同じ場所へ、同じ目的の為に、歩いて行く。去年と違って、持ち傘不要の、梅雨晴れの空の下を。
 ただ、性格に測り得れば、若干、歩幅が小さくなったかも、知れない─。
 片手には、その去年と同じ人に渡す為、私が創曲した楽譜        
 「FOR VIOLIN」等を、しっかり携えて。 
 若し、夢に続きがあるとしたら、それは、去年六月二十六日と、    
 今年六月十二日が、繋がり得るという事。…………

  シンフォニーホールが、姿を現した。

フィンランド放送交響楽団     
バイオリン 前橋汀子  演奏会

「段差」を避けようとした為か着いたのは、始まる6時30分の、10分前だった。当日券(キャンセル分でもあったのか、それでも一番前列の、舞台に向かって、左から五番目の席が取れた。)を買って、その侭ホールへ、 程なく、開演。
 まず、最初は、ユッカ・ベッカ指揮によるフィンランド放送交響楽団の、ワーグナー楽劇「パルジファル」前奏曲が、幕開けの演奏曲だった。
 最前列に座ったお陰で、超特大の音量に吃驚「しまった」事をした、と思ったほど。──耳が、そのボリュームに、馴れた頃。
 同楽団と協奏で、前橋汀子さんのバイオリンが加わって、チャイコフスキー「バイオリン協奏曲」───
 “ききと来る 弾み深々 お辞儀する
    少女の如き バイオリニスト”


 今年は、淡黄色のドレスで、でも、内容は去年と変わらず、素晴らしい演奏でした。その演奏中は、心臓を鷲掴みにされている様で、又、その弓で、私の芯の糸が、巻き取られていく様でした。

“彼女かのひとを 去年 唖然と 今年いま 呆然と”

“魂身を 弓が打ちたり 芸術家”

 あの、凄まじい迄の、ひたむきな姿───それは、その音楽家の神髄の音楽性──其処に至る迄の道程が、凝縮されている。

 現在いまの世に、あそこ迄「生きている人」が、他にいるだろうか?
芸術家たる所以の、その、なりふり構わず燃焼し切る演奏姿に、限り無い羨望と、最大級の敬意を、捧げます。

 「夢現」「夢弦」に、彼女の事は、全て書き尽くし、昨年「その音楽の解答」を掴んだ、と思った後の、自分自身の「段差」──昨年と、今年の「」に囚われ、「なものに対する、憧憬と、知となったものに対する、憧憬の、この「」一枚を剥いだものの、「落差」、その「未」自体の膨らみがもたらしていたものの、そのものを、認める事の怖れ、それに縛られて、その、音楽を聴いていれば、それは、杞憂だと分かっているのに。
───もっと 知りたいけれど 知りたくない 
    もっと 近付きたいけれど 近付きたくない
    大事なものを 大事にしたいから ───

 今年のコンサートは、どうしようかと、又、私の母の病状(註:当事の平成10年12月2度目の入院)の事もあったしで、ずっと迷っていました。
 母の回復、その好転の流れに乗り、再びのシンフォニーホールへ、行き着きました。
 そして、その段「差」の呪縛は、剥ぎ取られ、二度目を重ねて、近付いて、二度迄、その姿を刻み、それは、杞憂と相悟り、「大事なもの」はその侭に、「神という人間」は、決して裏切らないと、以前より、親しく感じることが出来たのです。(夢に続きはなかったけれど、自戒するのみ─
                 ★
 その芸術である音楽の、当日の演奏会の三曲目は、フィンランド放送交響楽団(指揮ユッカ・ペッカ・サラステ)の、シベリウスの「フィランディア」、続いて四曲目が、同、「交響曲第二番」だった。

 “ 感動の 大浪  拍手で  打ち返す”

 “演奏後 熱気の拍手 渦の中
    微動だにせず 起立(規律)団員”


 前橋汀子さんを聴く為に行った演奏会だったけれど、、同楽団の此の二曲も素晴らしかった。或る時代のフィンランドと言う国の、雄叫びの渦中に放り込まれた様な、その壮大な曲と相交って、生のオーケストラの臨場感の凄絶さを、初めて味わった。そして、同楽団のアンコールで演奏されたのが、ドボルザークの「スラブ舞曲」。

 “「スラブ舞曲」 思わず流れ 涙ふく
    彼女
かのひと(前橋汀子)の弦で 聴きたかった”                 
   思いも寄らなかったその曲が流れ、万感胸に迫り、涙が噴き落ちた。想えば、こうして、その演奏会に在るのも、約三年前のFM放送での「その曲」が、始まりだった。
 どうせなら、彼女のバイオリンで、本当に、聴いてみたかった───。
 会場を出て、去年と同じ道の、その足跡の上を重ねて歩いた。
福島駅に向かって──未だ、瞳に張り付いている演奏姿に、二度目の靴音は、鮮明な音を響かせながら…………。

 “二度迄も コンサート いき 感無量
      「無伴奏」 みちかえる 憧憬”


 当日の、演奏曲では無かったけれど、帰路の、その道を歩き乍ら、バッハの無伴奏バイオリンソナタ等を、CDで聴いて、素晴らしい音色の「素晴らしい人」に、遠い、遠い憧憬の夢想の翼を一杯に拡いていた頃が思い出され………ましてや、二度も、あの稀有なる芸術家と、束の間でも、同じ空間と、時間を共有出来た事の、極上の至福に、感無量であった


                ★
p31 コンサート翌朝
 “ヴィオロンの ひとひ 引火 沸騰夜 
    アク浮き出でて 爽快なる朝”


 この 爽やかさ…………昨夜の 余韻の 調しらべ …………
彼女の、そして、オーケストラの演奏の炎が、観客に引火して、    
爆発した後の、山の爽快感の様な。……                
老廃物が浮き上がり焼き払われた様な、昨夜の「翌日」の、
いち日でした。

“素晴らしい とわ  あの時も 現在いまも 素晴らしい人 ”  戻る
p32   ───────── *  ─────────      

           ★
“夏が秋 コンサートいき コンチェルト
     CD聴きて すぐ 四ヵ月”

            ★☆★

チャイコフスキー・バイオリンコンチェルト』
     (平成11年10月22日)
 二度目のコンサート会場で買った、当日の演奏曲の、この「チャイコフスキーの「バイオリンコンチェルト」のCD。毎日の様に聴いて、早や四ヵ月が過ぎた。昼前の、此の一刻「時の船」に、身を委ねる。
 カプリングされている「メンデルスゾーンのバイオリンコンチェルト」と共に、この両曲に関しては、以前、他のアーチストのでも、カセットテープに録音してよく聴いた。
 クラッシック音楽というものが、ずーっと、「一つの楽曲」を数多くの人が競奏して来た、又、していると云う事を踏まえて、同じ曲が、再び聴くに値するのは、その演奏者の「持味」にしかない。
 その醍醐味は、その演奏の中の音符と音符の「間」に、演奏者の「隠し味」が施されてある。それは、作曲者も予期せぬものであったと、思われる。
 逆に、その「隠し味」は、又、その作曲者に依って、招かれたものでもある。他の曲にはない味わいが、演奏者の彼女を、活き遣かせている。
 それ故、相互作用、相乗作用が及ぼされる。
 それは、偏に、演奏者に掛かっている。

  “澄弦に 身投げしている 音楽おとの湖うみ

  “ただひとつの 月なればこそ 輝きぬ”


p27 与えられた光景の内側』
 
 地球上の、「美の極致」として表現される芸術の数々の内、人が、各 分野に於て受ける感銘とは、どういうことで、何処から来るのであろか? 蝶は、人が視覚出来ない赤外線を見る事によって、花の蜜を識別す ると云う。人間が、視覚できる紫外線で見えるものだけが、全てではない分で(遠い彼方の、彼処から此処へ、蝶が花粉を結ぶ様に)青外線か、白外線か分からないが、それが見えれば「風蝶」が、現在も何処かに居るかも知れない。その遥かを辿れば、その芸術家に「与えられた光景」に出会うに違いない。                      
 それが、それに感動する人間の線上に、体内の細胞の融合の様に、連なって来たもの。その芸術家に依って、受けた感動に「何が、見え」「何が感じられた」か、それが、その芸術家の深さを識る事であり「それ以前」を辿る手掛かりであろう。             (夢弦より)     
 ──────────*────────────
 結果には、原因がある。(勿論、要素も含めて)会場で購入した、当日演奏された、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲のCDジャケットの、彼女の 寄想文の中に、レマン湖畔の、恩師シゲティ師の許で、毎日、その自然美を眺め、又、背景にして、その修業時代を過ごした事が、書いてあったが、美しい自然美を身体の隅々迄、吸収した故に、彼女自身も、自然そのものに融合され、自然そのものの様に、適確な表現法を、音楽に於て確立する事が出来たのでしょう。

 その時点の、音楽家から受けた感動感を、超す事が出来るのは、一日、十時間に及ぶと云われる、練習時間は勿論なれど、結局、その類いの「滋養体」を持っていると云う事に、尽きると思われます。
 その彼女の音楽の要素の、大きな基幹となった「その場所」への誘いは、彼女が小学校低学年時に聴いた、シゲティ氏のバイオリンの音色に惹かれ、後年その弟子に成った事。その年頃に於ての、超才的な聴力と、審美感に因を発している事に、行き着く。───「選ばれし人」。

 私が、二年前に、初めて彼女の音楽を聴いて以降綴った、先述の「夢現」の「郷愁」の(もっと碧い空と深海)そして、その「与えられた光景」が、今回コンサートに行った事で、CDを買い、それに依って、具体的な「結果」の一端の嬉しい発見となり、私に与えられた、その美しい処へ、想いを馳せるのです。

 そして、芸術家が形成される上の初期の段階として、数ある演奏者の中で、彼女が指向した人の、遡れば、その延長線上に出来る、「芸術家のリレー」──血筋のリレーの如く──そのリレーの総合体プラス、アルファが、彼女の音楽であり、それはまるで、生きものが子孫を引き継ぐ様に、彼女を傾好する音楽家に、引き継がれるものと、思われる。
 その「永遠」性こそ、自然界が、芸術家に託したい、メッセージであろう

  ───────── * ──────────  
p27 『人間界の公式』

 私が、自然界に抱かれる時、素晴らしい音楽を聴いている時、「赤子」の様な幸福感に充たされる。産まれたての汚れ無き、地球の頃「美しいもの」への「感動感」人間にだけ与えられたもの。            人間界の公式──「その侭」を、映しだす鏡を与えられた人間
               *
詩歌集第二集「夢弦」百五十一頁の「或る覚悟……」 

 “遺されて 咲く 朝顔の 寂びしかり”

 その想いからの、その覚悟を心に秘めてからが、私の再生の初まりとなった。
 “五月雨の 蜜を浴みたる 若葉はふ
    我が心根も かく甦り”

 自身の「或るもの」を、放し、捨てた
まるで、何重もの膜になっていた埃や、塵が、ボロッと剥ぎ落ちて、透明になり、ものの本質その侭を感得出来る、眠っていた感性が、目を覚ましたようだった。それは、不思議な様に、五月雨、一露に滴る、若葉を発見した。
 そして、以後、この自然美に目覚めた感動感故に、「夢現」「夢弦」の、 俳句、短歌、創詞曲も生まれた。

 “うみしらず オタマジャクシは 私の子
    五線紙の川 はなしかいたり”

 惜しいものが 何もない────生命さえ。
そこから初まった、感動感の道筋 ───クラッシック音楽へも。

 その演奏者の、練磨の深さが、結果と花し、聴くものの感動感の深さに比例する様に、人間の全部を十として、引いた分だけ、入るもの。  
 足し算も、引き算も、「人間界の公式」
 当たり前の事として、太陽は、東から昇り西へ沈み、雨は、天から地へ墜ち、上流から下流へ、川は流れる。生があり、死がある。病いには、ヒトゲノムの要素を含めて、原因があり、他の要素を借りて治癒と言う結果をもたらす。 

 悪い結果の場合も、原因がある。
 1+2=3という、人間が考えた、公式。各物に記号を付し、その変容を含めて公式化した、物理学、その公式化された物は、その「物体」に成る。石ころ一個も「神の材料」……。現在の電脳社会の核心的存在のシリコンという半導体。それだけでは、ただの石ころだけれど、ケイ酸を混ぜる事によって、電流反応を及ぼし、一躍時代の寵児の如、現在のコンピーターの、主要部を位置付ける「物体」と成った。それは、時代の要望が無ければ、無用の、不用の物であった。
「シリコン」と成り得た、要素同子の結合。───新たなエネルギー源
──人間に於いても、先述の、総合体の「主体部」と成る様な。

 人間体の本質成分の、原素「水」───自分自身の「体」の、一部である「水」、それが無ければ、生きものは生きられない。食して来た野菜の植物 、動物、それ等の食習慣の過程こそが、育まれてきた生きものの「形」。即ち、欲するその「食物」そのものが、人間の、一部、一部、と成ったもの。

“生き物は 自身見ずとも 同種しる
   嗜好
(指向)の本能 生命の神秘”
 動物が、子孫継続の為に、相手を求める行為。「自分」というものが、分からないのに、どうして相手を認識し得るのか?その相手、雄、或いは雌を、認識する事こそが「自身の認識」と、言う事だろう。
 擬態にしても、自分自身が見えなくて「そうなって」行けるのだろう?
無意識の、自己認識能力──本能的同化──「生存」の為の。

 人間なら、「社会」とか「常識」とかへの、順応のようにも考えられる。その「過ぎた」反応が遠ざけたもの、「五感」。それは、人間「以前」の時の、例えば、鳥や、魚や、犬達同士のコミュニケーションに見る、極く鋭敏な感覚──言語を持たない頃の、名残りの特性──その人間に与えられた最たるものの「感動感」───「加算」と「引算」。
 指向する、その感動感に浸っていると、美しいそのものに同化され、自分自身が、海や、空や、樹であった事を、見出だす。

 不思議な指向──不思議だけれど、不思議が一杯重なった「生命」。 
その生命の神秘の母源体である、地球の疲弊──ダイオキシン、地球温暖化、オゾン層破壊 etc。
 人間が、十分の、充(十)を知らず、繁栄を貪り、積み上げた物の結果が、現在の地球の状態です。     戻る

p31(人間界の公式) 引算の時
 太陽が、西から東へ昇る事が無い様に、自然界の公式の中での
「人間界の公式」を注視すべき時ではないかと、地球になり代わり、思う次第です。
──人間の鏡は磨く程、輝き、その体は食する程、肥大化し、悪循環を及ぼす。───  
 その外側に拡がる体を、内側に引き込む、芸術──まるで、引力の
為せる業と思わせる様な、芸術魂、そして、それに、引かれる、人間の魂
 地球上に風土も含めて、「正」と「悪」がある様に、あのナチスの時代の、
有名な「アンネの日記」が、読み継がれ、又、それを取り上げるメディア等も含めて、
忘れ去られない事。それは、アンネ・フランクの天与の筆力の賜物である事。真さに、
此の世には、神と悪魔、「正」と「悪」が同居している、典型の様…………
 “調整の 如く 地球に 善 と 悪 
     
 高山 深谷  平和と戦争”
 ─────────────────────────── 
p32    
 「一枚の絵」 ── 拙な絵
 一本の道 と 空── 蟻んこが 急わしく 空に 向かう
──よく見ると 一本の 木
 蟻の眼と視界──地面も 木も 段差も 一つの平面
眼前に 楽園──足踏み入れて 初めて分かる
 ──蟻の視界───
──「人間の範囲」で見えた事………… 。
                (「夢現」より)
   ─────── *  ─────────
p32
 その、「人間の範囲」の蟻の「視界」過中では、測り知る事の出来ない
「約束された人生」
も、いつの間にか辿り着いた、此の小高い丘の上からは、
よく見渡す事が出来る。
 (平成9年7月8日)の、前橋汀子さんの衝撃的なバイオリンの音色との出会いから──
──                       
  “一つの 方向性を 現前に
  節目 節目の 感動 あり 今日(橋)”


 私の、帰着すべき岸への橋が、ゆっくり降りて来て、一年後の昨々年、その橋を渡り切った
“この前の 橋は 生命の 接ぎ目を 踏み沁め 渡る 明石海峡”  

“生命はしる 「パールブリッジ」 
     きょう(橋) 輝き” 
 


【野島断層】 (阪神大震災被災地)                  
★“この前の 橋は 生命の 接ぎ目を
 踏み沁め 渡る 明石海峡”★

「国うみの島」、淡路島に着いた。
平成七年一月十七日の阪神淡路大震災地。 
あの朝、TVで、その惨状に衝撃を受けた侭、干し物の為に上がった、
二階のベランダの西空は、冬空と思えない程に、青く青く、
その哀しみを訴えているかの様であった。けれど、
それは、「地球の素顔」を、曝し切った、安堵の表情の色にも見え、叉
、その空気の塵ひとつ無い、清々しさに、私の体内の澱み迄が、
除引されて行く様な、五感の開放の感触感を、思い出す。
そして、現在その被災保存地の「野島断層」には、地中から、
地表近く迄押し上げられた、約十万年前の、  
土が見える


“地球の 憤怒の形相 標本の 「野島断層」に 形見の雑草 ” 
 
 日本最古の、国生みの島の、根底を支えていた、その「土」。
新たに芽吹く、生命の証の「草」。その重い存在感が、目の前に、迫って来る様だ。
浅い人間の歴史なれど、私の中の、遥かなもの達……… 
「涙」にもなれなかったもの達、鬱積されたもの達の反乱………が、
「平成九年の夏」に、(
前橋汀子の音楽との出会い)やっと、
日の目を見たのでは、という想いに駆られる………。 
  
              

戻る

「雲の中の音色」 (前橋汀子のviolinに寄せて)         
  それは 昔 母が 布団に縫い付けている
 白いシーツの        
 その 一針 一針の目を 側で見ていた 少女の 私が          
 「時」の中に抱かれて 雲の中に いる様な……… 
その進む針が 最後には  元の 最初の処に 戻る様に
 進んでいると 思っているのは        
 還って 行ってるんですネ 

 その 一針 一針 縫う様な 
ヴァイオリンの弓が その 縫い目の音色で 
その方向へ 誘ってくれます。           
  
それは クライスラーが窓辺から 駿馬の様に 駆け抜けた時の中の   
ウィーンに 想いを馳せている 眼差しとも                
プルーストの 「ココアの味」と も 合致するものでしょうか。     

 『夢幻』《第2部 天の川途上 「母」より》
                   


p33 『  』──感性──            
   
                             
 蛇口を ひねれば 待ち構えていたかの様に      
 流れ出る 水の様に                 
 絞った心から 溢れる 涙……           
 それは 紛れもない 「私自身の一部」       
 
 私自身を 手に 取って 見た事が ありますか?
───透明な 純粋を─────         
 永い歴史の 過程で 色んな色彩に 染まったけれど
 取って置きの様に ずーっと 今迄          
 決して 染まらない「核」の芯が 守られて来ました

  だから 涙を 持っているのです           
 そして それが 「私」の聲です          
 嬉しいにつけ 悲しいにつけ 歓喜の時も 悲嘆の時も        
  私を 放って 下さい                
 その 粒が 重なる程 「涙の故郷」に 近付いて 
 本当の 自分自身に 戻って 行けるのです───

               (「夢弦」より) 
   ─────────────────────
             ☆
p33 『生命の 一粒 
 
{ 生命の 一粒   偶然の 一粒       
  レモンの 一滴…………生命は酸っぱいです

 太陽から 搾られ 生まれた その 一滴………

  だから 涙は 全らゆる涙は  いつも
  酸っぱいです  身体の 涙の 汗も

  海は 酸っぱさが 一面…………

  真珠の涙って 本当でしょう?
  
  潮風が 山なりに  亘って ゆきます
 雨が ポツリ 一滴 落ちて 来ました…… }
        「夢弦」より

               ☆                        戻る
 ─────────────────────
p33 一粒の生命
 その一粒の、生命の膨らみのいきを、今ひと度、大きく吐いて、
人間は何の為に生まれて来たか
と、いう問いに、
間髪を入れずに答えられる「感動」という、実在感を、大きく吸い込もうではないか。
 これが、「生」そして、「死」の、処世術かと──────

 感動としての、音楽と、祈りとしての、言葉と、その両方持ち合わせた人間の、
宿命として、結果的には、その意義を、自分自身の人生の意義の結論を、
悟らねばならない。

  “ 満潮の 生も いつか 干き潮に ”

 生まれて来たと言う事は、ただ、死に向かって、その時を、どんな風に受け止め、
超えられるか、その為にだけ、人間は、生きている様に思える。

{ 私を中心に 約百八十度 前面は 海 
   広大な 海の 大きさ
   無防備に 全ての 可能性の様に  穏やかに……
   耳を 澄ませないと 波の音も 聴こえないほど
  私の ちっぽけさが  人間の ちっぽけさが
  嬉しくなる
   海に 抱かれる事が 出来るから…………  }         

 “ 美しき 落日 待つ間 も へ る 命 ”

 甥子達を、海水浴させ、落日を待った後、暮れて往く空の下、
車は帰路の、明石海峡大橋を、渡っていた。

 “ わかちたり 生の続きの ただ死なり ”

 そして、今、この「域」に迄達した、自分自身を「将来」の「結論」と  したい。──────

 “大橋の イルミネーション 花吹雪 中央凱旋 還りゆくなり”

 そのイルミネーションの背後、前方の対岸には「その時代」の、
暗さ故に、その存在を浮かび上がらせる、
命の灯が、灯だけが、点っていた。
 それは、さながら、夜空の星々の如くに…………。
 (以上「夢弦」より) 
  ──────────*──────────  
p33
 そして、帰ってから暫く経った、七月末、やはりFM放送から流れた、
マーラーの「復活」の後半部分の、エリザベス・ヒュートラルとマリアーナ・リポフシェフの
唱声の美しさに、私の中の感性の新らたな「子」が、産ぶ声を上げた。

“感性は 大人の中で 順番に
   目覚める「子供」 「好きなものが好き」”


“聴 変感  「見知らぬ私」に ボンソワール”

“女性一(位置) 高域声(性)は  神の意志”        

 それ迄は、耳にする事はあっても、聴心に届かなかった声楽曲、ミサ曲。
一年の間に、前橋汀子さんの音楽に培養され…………       
 何故か「待たれていた」と、そう思わずにはいられない……。


p34 天上絵  うつす 地上え  我が魂”

{ 現在も 褪せることを知らぬ 「或る人」の
  バイオリンの音色を 聴いている 刻
  新たな 感動脈となった ソプラノの唱声を 聴いている 刻
  頂きの冬の如き場所で、一本、一本、程良い間隔に、毅然と聳えている裸木の、
    天然の絶妙な筆緻ふでさばきに見惚れる時の、幸福の  「天井」感───
 
  それ等は、見上げる雲の その雲のたゆやかさが、
  私に投映されて、私の中に「天上絵」となって、もたらされているの 
  でしょうか?
   それは、逝ってしまった肉親もの達の、「安らかさ」の、        
   うつし絵の様な、気がします。
}  (平成十一年一月二二日)     戻る


p36 『科学と芸術』
 四季織り成す、美しい日本の象徴の様な、富士の山。
その「宿命的美しさ」。その場所、土壌に咲く、花の様に────
 厖大な花種の中で、バラはバラであり、桜は桜、菫は菫。富士山は唯一の、富士山。
ピアニストのアルツール・ルビンシュタイン、前橋汀子、シャルロット・チャーチ、
この三人の音楽家からは、その「らしさ」、本人らしさ、花の中の、こういう風に
「咲きたい」と言う自己主張が見える。
 それは、よりナチョラルに、より自然にと言う、生きものの本来の姿の遡現の「聲」でもある。
それを見、聴いたのは、私の土壌であり、そこから言葉と言う「詞」、感動という「曲」の、花が開いた。
 「感動感」と言うものに想いを馳せれば、それは、遠い、遠い日の、産まれるもっと前の、
記憶感と握手しているのだと言う事に行き着く。何故なら、もっと近い過去の記憶を辿って、
それを見出だした時に、覚える感情を、思い起せば納得出来ると思う。

 最高の音楽家の音楽からは、その深い深い過去へ下った、当時の地球の美しさの記憶が開示される。
 “生きものは 一つの遺伝子 地球「体」
     感動は 地球の 喜び”

               ★
 「重力」の、積み重なったものが、生命体の「形」なら、その、反作用的な、
目には見えない、無重力の「浮力」。
 宇宙へ行った分でも、「煙」に成った事がある分でもないが、此れに記した音楽家の音楽からは、
一様に、その無重力になった「浮力」の心地を、感じる事が出来る。                          
 「その刻」の私は、きっと、星の様に瞬き、輝いている事と、思う。

 この世の、知性の極みを「科学」とするなら、感性の極みの「芸術」。
ハップルや、すばる望遠鏡で、未知の星を捉え、宇宙ステーション迄造る、科学者と、
未知なるものを具現出来る、芸術家(それ故、私の「夢現」シリーズも記せた)。
 「生」に「敏感な星」芸術家や、科学者を、「それへ」突き進ますもの、
 目指しているものは、きっと、共通のものでしょう。


 「生」が目指しているのが、「死」である様に────   


                 ★
p37 ” キリストの 受難極(曲)の 遺産なり
       「此処においで」 感動の 喜び ”

 
    『此処においで』               
               (平成11年5月12日) 
  
   いつか 此処においで           
           

   私は 小高い丘の上に いる           
          
 此処から 三六十度 見回せば         
          
 五月の若葉が 雲のように 私を 囲んでいる  
        
 出来たての 葉緑素に            
            
 真っ新らの 生命が 息遣く         
          

  そうだ 私は 其処の その川に懸かっている   
       
 橋を渡って 此処に 着いた           
          
 姿なき先導者に 従って…………               

 
 そうだ 私は もう少し前 其処にいた               
 「あなた方」と 同じように…………       
           
   いつか 此処においで           
   
   何も 持たずに                 
   丘の 大きな胸の中で 目を閉じていると        
   広がる 安心感に 赤子のように なれるから      
    きっと なれるから………           
    きっと 此処においで………。       
   ─────────────────── 
バッハ「マタイ受難曲・神よ憐れみ給え」=[唱]ヘルタテッパーに)

 “彼女かのひとが ともしてくれし 橋の先        
          幅 拡がりて  豊かな 丘陵”

                ★
 詩歌集「夢現」第三集「夢幻」第一部 『約束された人生』  了      戻る

───────────── * ───────────    
 以下
は詩歌集夢現第3集「夢幻」 第5部マイメードソングについて(抜粋)より
    
     
 『マイメードソングのこと
“エレクトーン 押さえるでなく 心 乗せ 弾く 音楽(おと)なりと 解感5年”
                                (平成11年当時) 
                         ◇
 
“「先生」は 名手の音楽  聴き身いる  感動 開墾  エレクトーン我”  
          (略)
 ウインフィル、ルビンシュタイン、ジャクリーヌデュプレ、前橋汀子、ヘルタテッパー等、特に感銘的だったアーチスト。現在、自分の弾く音色に、うっとりする事が出来る様に成ったのは、偏えにこのアーチストたちの音楽が養分になっている。何故なら弾いている時、無意識的に目指しているのは感動感の、「その域」なのだから………。何よりも、それが「先生」である。            
                         ◇
【夢幻界(無限界) 宇宙遊泳 星の宝石(いし)
            覚めたくは無い 夢死界(無視界)の 域(息)】
    
 4年程前、アバド指揮のウインフィルのブルックナー「交響曲一番」を聴いた時の詠首だが、曲中のある部分に本当に宇宙の中の只中、色彩りどり、煌びやかな星々に遭遇した様な印象を受けた。                               
【雨が降る……… 宇宙空間の 地球に 大地わ  皮膚  最初の 一粒】     
アルツール・ルビンシュタインのサンサーンス「ピアノコンチェルト第二番」を聴いた時の詠首。メインメロディのピアノのソロの部分に、初めての地球の雨の様な、「ゾクッ」とする感触を経験した。                          
【重力と 浮力の 狭間 「無伴奏」】                      
前橋汀子のバッハ「無伴奏バイオリンソナタ」を聴いた時の作句だが、感動感の時の舞い上がる、雲の中の様な心地………本当に雲の中に「在た」事がないのに、浮き上がって、真綿に包まれた様な無重力感。「母」の腕の中の赤子の様な、幸福感。     
  それらは、「遠い」日の、記憶の所産かしら?
          

“宙脳の 交差点で 対話する  エレクトーンの 右手  左手”

 言葉より、もっと原始的な音楽と言う文化、それは、地球上の共通語。いや、宇宙上と言えるかも知れない。現在、電波望遠鏡「すばる」が捉える宇宙。普通の望遠鏡では捉えられない画像を電波で以てキャッチして、画像処理しているらしいが、あの画像を観た時、ブルックナーの音楽を聴いた時の宇宙の印象と合致した。             
 私がクラッシック音楽を聴いて受けるイメージ、それがその侭作曲者の意図と重なるかどうか不明だが、此等は、その「音波」のイメージを「言語処理」したと言えるだろう。 
人間の丸い頭に出来上がった右脳左脳と言う「宇宙」、右手左手、指がエレクトーンを弾いているのか、脳が「弾いて」いるのか、練習した結果を記憶している「脳」と、その表現の媒体となった指先との、微妙な兼合い。(時の光の照度に依って変化する物質の如く、低い音から高い音へ、山への階段の様な音階。階音と言う様式を編み出した人間の「脳」、数理的原則とそれは対を為すだろう。
 ただひとつの相違、「
感動感」と言う喜びの体感。それは、宇宙と地球の交差路の接点に立つ、感涙という水持つ、地球上の人間である事の実感。
 音楽の不可思議さ────原「祖」の魂の発露の為の手段に誘われる様に、私の奏でる
エレクトーンの音色は、瞬時煌く。     (以上 「夢幻」より)


『偉大なる 芸術家の想い出は
夢現の 夢弦 「夢幻」に 無限
 』
                                
表紙絵は実画 
 詩歌集夢現第3集★「夢幻」★
著作日高よし子
 
上下2段全180頁>〈全第5部迄〉               
@約束された人生A母(天の川途上)・父 (瓦解)
B甥子・亡妹の事C夢幻歌俳句短歌(800句首)

D我詞独曲10曲歌詞楽譜
(マイメードソングについて他)     以上

  
 top445のページへ
 「今日という日」へ                               
戻る