P9
『黒の色彩』
(「夢現」より)
その中に佇んでいる。
例えば、空────限りない水色の空に、浸っている。
或いは、ブルーの海。 若しくは、風に翻めく若葉。
音楽で云えば、魂を震わせる、透明なバイオリンの音色──
それが基調(ベース)────
が、「その中」に、未だ、奥があったのだ。
それは、「肉感的な魂の響き」とでも、表現したらいいだろうか?
「肉体」をもつ魂など、在り得いと思っていたが、
そうとしか言い様のない音楽が在る。
そのベースの、もっと深層には、「暗黒(くろ)」がある。
そして、赤は、直ぐに紫色に封じ込まれ、他の色彩も絡まり
乍ら、「その人の色彩」を奏で、人を、圧倒する。
「暗黒」が「色彩」を知ってしまった、嘆き───
「暗黒」に還らねばならない…………。
今は、夏だけれど、冬空の下で、あの冬木立と共に聴けば、
「哀切感」極まって、涙が溢れるかも知れない…………。
★
(以上 平成九年七月記)
“魂の 悲哀 号泣 気高き 響き 充弦なり 刻のみつど” ★
P10
『虚 脱 感』
(「夢現」より)
その音色を、聴いた後の、此の虚脱感は何だろう?
まるで、深海の魚が、もっと深く、もっと碧い域に潜り込み、
そこから出た後は、いつもの青さも虚ろで、ああ、もう一度あの深さへと、希う様な……。
若い頃なら、理想の人に寄せる、片時も、頭から離れない
思慕の想いに、似ているだろうか………逢って、別れた後の、その想いにも…………。
その人は、「音色」でしか知らない。けれど、その音楽を奏でる人の、
音楽への限りない慈しみが、
一ミクロンの細やかな息遣いとなって、人の心の細部に、その情感を烙印し、魂にくい込んで、身動きさせない。
その人の、生きて来た人生の深さ────
その人だけの人生の味────勿論、その練磨の日々────結局、それが「音楽」の結晶となって、
聴くものを魅了してしまうのだろう。
しかし、もっと早く、出会いたかった、とも、知らなければ良かった、と思うことさえある。 (平成九年七月二十五日 記)
★
P10
『郷愁』 朗読へ)(前橋汀子の音楽に寄せて) 戻る
充分な 青い空 でも もっと もっと 碧い空が
見たことは ないけれど………
充分な 青い海 でも もっと もっと
透明な 深海が
見たことは ないけれど………
し っ て い る ……
戻る
☆
あのバイオリンの音色が 私の体内を突き抜けた時ーー
ーーー地球の草創期の
碧い空と 紺青の海に在る私ーーーー
磁力が 一つの方向に 吸い着くように
芸術家の「精魂」には 数知れぬ 「無体」の魂が吸い寄せられ
それが「有体」の魂に 木魂となって 共鳴し
人間を 「魂の郷愁の頃」に 誘ってゆく
★
P10
『芸術とは?』
“伝書鳩 磁力に 呼ばれる ノスタルジー”
今年も、朝顔の「伏し目の憂い美」が、夏の片隅を彩っています。
「去年と同じ花」を、「去年と同じ私」が見つめています。
辿れば、そう、ずっと「同じ花」であり「同じ私」なのです。
細胞という、遺伝子の連なりの「もの」の、「私」は或る意味で到達点。
一本の永い数珠のような「命」を、逆流すれば還る「うみ」へ、「水」、 「細胞」の 一粒へ。
「水」から生まれ、偶然、という必然から、「人間」という形になった。進化という過程で得た、
「
二本足」で立つ機能。
それは、心と肉体のバランスを、保つ為。
一つの片寄った見方、聞き方をしない為の、二つの「目」と「耳」。
一つの、「方向」と、高い「志」を持つための「鼻」。
一つの、真実を語る為の「口」。
───
形には 全て 意味がある───
生命の連続性を保つ為、動物全てが本能として持っている「食欲」と「肉欲」。
そして、人間は、進化の過程で人間性に覚醒め、「魂」の存在を識る。
それは、「人間」に成った時に、根座したものなのか?。
精神性の果てに見える、その存在。限り無く求めているもの───
「人間」に生まれた事の「幸福」とは?
この精神性を極め、その「喜び」を、体感出来る事。
全細胞が、満場一致で双手を挙げて、一ヶ所に集ってくる様な───それは、今迄の遺伝子達
(死んで逝った者達)が、集って、憩って居る様な──「感動する心」
どうして、美しいものに 感動するの?
それは、生まれた頃の記憶に還って行くから?
そして、自然界との共生感に、人間は辿り着く。
私の「存在」が、「無意味で無かった」という 共生感にも。
芸術、
芸術家が伝導している本質そのものが、「魂」であり、自然界の聲であり、
自然界のメッセージで、あろう。
前橋汀子さんという、一人のバイオリニストの音色から得た、魂の陶酔感の起因性と、
帰着性の道筋。 真さに、芸術家なり。
“伝書鳩 せつないほどの 帰巣本能 つうづる道は 芸術魂”
★
p11 『木 魂』 作詞曲 日高よし子
前橋汀子<スラブ舞曲〈ドボルザーク>に寄せて |
1.いつか見たやら あの水色 ハーモニー奏でる 海と空
何を見たやら あの海の果て 一隻の舟が ただ過ぎて行く
生まれる前の 母なる 海の 寄せ引く 波は
岸へ抛り上げられる 舟のように 人は 生まれ出でたか |
|
2.いつか見たやら あの空の色 暮れ切る 間際の 藍色の空
何を 見たやら あの空の果て 流れる雲が 呑み込ま行く
生まれる前の 碧い 青い その空の 青さが 恋しくて
太古(むかし)へ 連なる 水の記憶
あの音色が いま 此の部屋に
塵に 土に 混みれようと 仰ぐ空の 青さに 溶けて行く
|
|
3.いつか見たやら あの樹の海 陽と風が 紡ぐ 若草の色
何を見たやら 樹々の歴史 年輪刻む 深い孤独
生まれる前の 沙羅めく葉音 今も 変わらぬ 生命の礎
死のある生を 四季に織り あの音色が 今 此の部屋に
数え切れぬ程に 産まれ 落ちた命 木魂となって 響く
(夢現より) |
☆
『木魂』のこと
”人生の 生涯の幸は 出会いなり 絶品(たえ)なる
大自然(しぜん) 本(しょ) 音楽と”
一度見て 忘れられない 瞳のフイルムに灼きつく 自然がある。
大きな感動の高浪が 揺り起こす 潜底の 「真珠の小箱」
太陽が 一番 青春の真っ只中である 夏に一杯 翼を拡げて 情熱を 撒き散らす時。
海と空は その情熱を媒介として 中和し 境目のない
涼やかな 水色のハーモニーに 溶け合っている。
晩秋の 夕間暮れの ほんの一瞬の 藍色の空。
思い出した様な 青春の日の 紅潮した 頬の色の様な 夕陽と
秋の青空に しのびよる 冬の沈黙の 黒が混ざり合った そんな 哀愁の色。
太陽が その翼を 半閉し始める 冬になると 生き物たちも 生存の為
知らぬ間に 土の何処かに 潜り込んで静死期の 通過を待つ。
そして 寒空に 全てを葬り去られた 人間の様に 一本一本 違う形をした 冬木立は
その神経模様の枝を 凍風に 晒しながら 暗いトンネルの闇を くぐって くぐって
いつか 「五月」に辿り着くべく・・・
”凛然と 魂の姿 冬木立 見下ろす 俗世 春には 再び ”
太陽が その翼を 開き始めると 土が匂い立ち 風が その春の賑わいの 声を
風車に乗せて 運んで来る
やがて 太陽と 風の 暖かい 眼差しの中 新しいの生命の芽生え、
古木が あんなに 初々しい 若草色の葉を 産むことの
生命の 不思議に 充ち溢れる 五月ーーー
”若葉には 五月は 眩しき 「新世界」”
”交差点 風と 光と 揚羽蝶”
瞑想すれば 見える 光景
瞑想すれば 聴こえる 音楽
感動の 頂上から 見たものは
自分自身の 断層ーーーー
◎■
地球と言う 奇跡の様な「生命体」の星は 数え切れぬ程の 生き物を
その四季に 産み落としている
それは
地球の「無意識の愛」─────
四季に見出だす 「人間の一生」
その 折々の「生」を 茂らせ────完結してゆく────
☆★
平成九年八月二十八日に行った
「ファーブル昆虫博」での、蝶の標本の
あの多彩な色彩を見れば、蝶が、素は花だったのではと、思わずにはいられない。
そして「秋が産んだ虫」の
鈴虫の音色──── 樹から産まれた虫が、
到来する冬に、哭く事も出来ぬ木立の吐息を、地下水で練り上げた様な、
濁音の無い「鈴虫」の透明な「哀」だけの音色────その音色が、何故か
前橋汀子さんのバイオリンの音色に重なった様な気がした。
☆☆☆
『再 会』
9月28日(日)の 甥子2人の 運動会で 再会した あの「変わらぬ大樹」
子供達を 包み込む 抱くように そして オーケストラの 指揮者のように
校庭の中心で タクトを自在に なびかせている
躍動を 見ているのは 木々の葉
躍動を 感じているのは 大地の根
毎年 生まれ 落ち果てていく 目の前の葉
毎年 生命を 育む 覆(かく)れた 地中の根
人間の姿ーー見えるもの
人間の「魂」(心)ーー見えないもの
倒れる 木 と 倒れない 樹
昨夜、NHK教育テレビの『芸術劇場』での
オイストラフのバイオリンの
音色を聴いて、その音波(おとは)の、波のリレーが、確かに
現在の或るバイオリニストに いき 繋(つ)がれていることにーーー
そこに 「永遠」を 見た。
(平成9年10月6日 記 『夢弦』より)
戻る
☆★☆★☆★☆★
『「木魂」の原風景』
昨年(平成12年)の8月3日から4日にかけて日本海の浅茂海岸(京都府)へ甥子2人を連れて行った。(このホームページの「雑記帳」の3人で写している写真はその時のものです)、海水浴をさせた
その日の翌朝、
”朝一番 開く窓には 日本海”
そう、「あの時」もこんな風に、目覚めの朝、視界一面にあの水色の海と 空が拡がっていた。 あれは今から39年前、16才になる年の夏休み、同じ高校のクラスメイト達(総勢約10人程)と海水浴の為、日本海の竹野浜へ行った。暑い暑い、夏だった。冷房もない満員電車に永い時間揺られて着いた様な気がする。
去年が厳暑と言われたが、あの頃の暑さに比べたら、比ではない様な気がする。 それ共、「若さ」が熱かったのだろうか?
2泊か3泊だったか今は定かではないが、海の真前に位置するその宿は、クラスメイトの親戚の家で、夜就寝時には蚊帳を張ったその中で寝た。そういう経験が無かったので
、それが鬱陶しいというより、物珍しさという好奇の方が勝っていた様に想う。
疲れが快眠の郷へ誘ってくれた。
朝、真正面に(ハーモニー奏でる 海と空) 鮮烈な美しさ! というものの、初めての印象。水色と言う、色の存在の原素を初めて認識させた、海と空。
それは、遥か遠い記憶の一コマの目覚め、と言えるものかも知れない。
ずーっと遡った原始の頃の、海と空と人間───「あの時」深い眠りに就いていた
「原始人」が目を覚ました。────
「美しさ」の記憶は死ぬ事が無い。
現に、今もこうして歴然と「存在」する。
しかし、旅行から帰り夏休みも終って、日々の日常の中で又、埋眠してしまった。
若し、ずっとあの侭あそこに居て、あの水色の海と空に囲まれて生きていたら………
人間迄変わっていた様な気がする。
だが、約40年と言う永い年月を経た現在、やっとその中で生きている様な気がしている。
私の歌「木魂」の、魂の原風景。
日々 美しい音楽を 聴いていると、日々 浄化される………。
「美しさ」は死ぬ事が無い。
「私だけ」にとどまってはいないから………。 戻る |
☆★☆★☆
P74
『 風 』 (前橋汀子のベートーベン「スプリング」に)
〔T〕
今は 昔───振り子の あの時計
此の世で 一番 真面目な もの
一 二、一 二 コツ コツ コツ コツ
行って 帰って 行ったら 帰るんですよ
風も 行ったり 来たり
ティンパニーを 叩く様に
海を 渡って 来たかと 思うと
蝶の 舟になり 鳥を 後押しし
山を 滑り 森に 憩って うとうとした後の
一番 御機嫌な 時
風の弓が ゆっくり 優しく
木々の 葉脈を いったり きたり
ほら あの 音色が 聴こえて来ました………よ。
〔U〕
彼方から────永遠の淵から 産まれるものの 微かな声が
風に乗って だんだん 此方へ
─────飛びっ切り 「一級品の風」になって────
此の風が 来る頃は 予め太陽も 空も 海も 皆 賢まって
居ずまいを整え 目瞼を閉じ 息を呑んで
「蜜の味」の 蝶の様な風の到来に 酔いしれます
勿論 森の 樹木も すっかり 正装して
風の到来を お待ち兼ね────
あの風が行った後の────太陽と空と海の 煌き!─────
風が 大木の 幹から 小葉の隅々に迄
その羽根の タクトを 上げると ──── 森の演奏会
その風が その「演奏会」を 此の部屋にも 届けてくれました
─────────── * ───────────
p11『あなたは愛』→歌 へのリンク(作詞曲歌演奏 日高よし子)
前橋汀子のベートーベン「バイオリンソナタ」に寄せて
1.ああなんて 懐かしいんだろう
風の様に透明で 自由で 伸びやかで 優美で
木の様に 真直ぐで 気高くて なんて 切なくて
哀しくて 厳しくて激しくて でも
どうしてこんなに 幸せなんだろう
そんな音色を紡ぐあなたは 何者ですか?
身体の一部に バイオリンを具備していて
身体が唱っている様な すすり泣いている様な
慟哭している様な あなたは何者ですか?
2. 何んて 全てを 溶かすんだろう
心と身体 朝と夜 未来と過去 天と地の ように
嵐の様に 全て 奪い去って
それでも 何んて 幸福なんだろう
此処は 地上か 無上か
懐かしいあなた 「あなたは 愛」 だったのですね
あなたは愛だったのですね
(夢現・創詞曲より) 戻る
★
P12 『木の精神性』
道を極めた人────土にズッシリ根を張り巡らせる樹の様に、そして、そこから、変わらぬ、又、変えられぬ自己決定の意志を、幹から、か細い枝の先々迄、(あんなに、繊細なのに、引力の重圧にも、風圧にも屈せず)凛然と聳え立つ。
それは、まるで「或る人が」心の根の芯を重心にして、歩み、歩んだ一筋の道の道標を、天に見たなら、一本の木に成るが如くに。…………
天の啓示の様な、冬の、落葉樹の清々しさに、私の体内の、地殻変動後の 清々しさが、重なる。
地球の歴史に 及ぶべくも無い、人類になる為の人間への過程。─────私達、遥か彼方には、その人間になろうとした長年に至る、人類先祖の苦節の歴史がある。その、生物の圧力に屈しない要素こそ、樹木の精神性を、その遺伝子に宿す、要因となったと言える。
「或る人」が、一筋の道を極める。そして、その音楽に、人は惹かれて行く。又、人が、真直ぐなものに、憧れる。それは、木の、精神性──人類になろうとした発端の、人間の神秘の遺伝子を、現在の私達が、見出だしているのかも知れない。
一方、他の「木」は、地球をも、超えた。
この現代の、高度な文明────限りなくロボット化して行くであろう人間の涯てには、もう一度、人類のその前の段階迄、降りて行ってしまう様な、気がしてならない。何故なら、その「木」は折れる迄、伸びるしか無いだろうから …………。 ただ、その中で、人間が、人間たる所以の、精神性に目覚めたなら、人間は何処に向かって生きているのか、何を求めて生きて来たか、と言う、人間たる所以の、答えに辿り着くであろう。
或る芸術家に根付いた、その「木」の根元に、現在いまの私は、在る。
p14 『木のバランス性』
(平成11年7月26日)
(地球の上)
私は 地面に 立っている
「私」は 左側に 倒れそうだ
遂に 右足 最初の一歩を 踏み出した。
「木」の 出来損いの 「人間」だ
「私」は 地面に 寝そべる
左手が 地中に 引っ張られる─────木の「根」に
右手が 宇宙に 引っ張られる─────木の「幹」に
立っていても 寝そべっていても
木の バランス性を 感じる
[重力と 浮力] [引力と 膨張] [作用と 反作用]
「木」には 「宇宙」の メッセージがある。
────────── * ─────────
戻る
p14 『ザブーン』(朗読へ)
(平成十一年七月二六日)
「ザブーン、ザブーン」
遠い、遠い昔、現在と変わらぬ波音が、波音に重なる。
けれど、その海と空の色は、現在では、想像もつかない、絵の具や、
クレヨンにその名残りを見付ける、紺碧────
春一番の風が、海から陸へ、水平に、滑るように流れて来ました。
「今年こそ!」。離れた処から、毎年、真っ新らの塩気を含んだ、松風の香りの「松」に憧れた、
「もう一方の松」は、遂に、肝はらをくくりました。
「あそこへ、行くんだ!」
すると、不思議な事に、本当に、不思議な事に、その「松」が、木の足を、一歩「右」から 踏み出しました。
一歩、二歩、右足、左足を、前へ、前へと進んで行きます。
遂に、その「松」の前へ、辿り着きました。
「何て存在感だろう、どっしりと、そして、一直線に空に伸びて」
挨拶の積りで、無意識に「右手」を差し出しました。が「何しに来たの?」見落ろされた侭、
そう云われた様な気がしました。
そして、気付きました。あの、大好きな塩の香を含んだ、松風の匂いを感じないことに…………
もう一度、元の、あの場所へ帰って見ました。が、風は、もう、通り過ぎてしまっていました。
「その松」は、もう植物でなくなった、その松は、陸を、もっと陸を、進んで行きました。
「又、一年後に、元の、あの場所へ還って来よう」「甘やかな、あの香りに又、出会う為に」────
進まずに、元の場所に、留まるべきだった。「その為」なら…………距離を保って、寡黙な侭「高さ」をこそ、
目指すべきだった。
そして、「似非(えせ)の香り」に惑わされ、益々、遠ざかって行く…………「現在」から、其処へ還ろうと思えば、
風がよこしてくれる、魔法の宇宙船にでも乗らない限り、とてもじゃないけど「生きている間」には、無理な事。
「ザブーン」「ザブーン」
「美しさ」への感動────木の側に、佇めば、樹を見つめれば、その聲を聴く事が出来れば、見出だす、
思い出す………
根元の「美」。
──「愛」から「人間は、生まれた」──。
──────── * ─────
P14 『 宝 船 』
“彼女かの人と 「時代」の海に 同乗わ 宝船なり 航幸路実感”
見渡せば、涯しなく広がる海の様な、「時」の波の中で、彼女と言う芸術
家と同じ「時代の船」に乗り合えた事は、世紀末と言われる、此の時代の渦
の泡に呑み込まれ、溺れそうになる人間の「魂」の、先導的な防波堤と成っただけでなく、此の空気さえも、其の年、ヘールポップ彗星に巡り会った様 に、稀有な空気と感じられ、此の時代に生まれ、生きている事さえ、喜ばしく思えるのである。それは、平面的に言えば、地球と言う生命体にも、極北の氷だけの地帯、又極暑の砂漠の「死」だけが、埋くまっている地帯がある中で、四季折々の、花鳥風水に恵まれた風土に、「俳句」と言う文化を根付かせ、其の脈々とした底流の中に息遣いている、地球上稀な「日本」に生まれた日本人である事の喜びに、通ずる想いである。
【俳句詠む 紙の 砂漠に うみ 川が】
そして、地球上の其の位置の、現在の「日本」に生きる私達が、此の丸い巻紙を解いて、長い、その年譜を辿る歴史上の位置付けをする時に、此の今の、日本の文明の繁栄が辿った、其の足跡渦中の何処かの部分と合致する国を、TV等で観た時に、貧しい国ながら、堪らない郷愁を、覚える。
地球上恵まれた風土を持つ「日本」には、「日本人」の誇り高い特質があった筈。「意気」、その貫く意志を以て「気」と言う風の流れを造ってきた
。地球上の砂漠、或いは、極寒の地から見た「日本」の位置。
歴史上から見る、日本の現在。そういう視点を持って見れば、自分の内部に持っていれば、此の現在の「刻」とも融和し、此の空気の中に、喜びを見出だす事が出来るのである。
★感動感 それは人類が 勝ち取った 最 高 の 栄 光である! ★
☆☆★☆★☆★☆★ 戻る
p15 『音の第一歩 』
「知」の先祖の言葉の「音」────人が、一番最初に耳に触れるのは、誕生の時の自身の泣き聲。どの子も、産まれ出づると言う事は、哀しいだけと言わんばかりに、今、尚、哭き続けている。
喜怒哀楽───端的な、表現作用として、発せられたであろう、聲、声、そして、「音」────それは、真っ暗闇から、頭を覗かせた一筋の、面映い光への驚嘆の、一撃!
或いは、光を吸い取って行く、太陽への、慟哭の連打!
そして、再光への「祈り」としての、───「音」───それは、「言葉」としての、第一聲かも、知れなかった。…………
何時だったか、昇る太陽の荘厳さに、ちっぽけな自分を思い知らされた様な…………。 ☆
想像を絶する程に、空は、碧く 青く、雲は、白く、しろく、樹木は、広々とした空間に、ゆったりと 澄んだ空気の中、其の葉の緑を、深く、息遣かせて…………。
「感動」と言う言葉を識らなくとも、きっと、身体に食い込む様な「美」感を得た。その「域」へ──
──人間の第一歩─────
(動物と、動物たる人間の、分岐点)
★
p15 『まれびと』
日の出の、生まれるものの喜びと、日の入りの、去って逝くものの哀しみとしての、人間の表現であった、「音の起源」(それは又、心の起源)が、主観だけだった、表現から、客観を伴った音楽としての形式─────誰かの言葉では無いが、文明の最高の花─────クラッシック音楽(精神性の極致の音楽)────それが、前橋汀子さんの音楽。何枚かに亘る楽譜があろうと、それは、いつも、最初の第一ページから──音楽も又、知性の積み重ねの如く、何枚も綴られているが、その第一ページを飛ばしていない音楽、第一ページが感じられる、技術の粋(技術に加味された「音の起源」が時空を超えて、地が天に訴える様な、唸りの音楽)の、音楽にこそ、人は感動を覚えるのであろう。
そして、積む修練は、勿論として、そこに、演奏者の教養────その、作曲者の意図を辿る為の作業───それを感じさせる音楽─それら全てを兼ね備えた、
「まれびと」の音楽に巡り会えた、私も又、稀人であった。
♪
p16 ♪『まれびと(稀人)』♪ (「夢弦」創詞曲)
まれびと なる 言葉ありて
ひととせ(一年)に一度 幸もち来る人と
我に その人は 来し
羽根鳥 海泳の如 地虫 空泳の如
地の噴動と 天の清澄と
天地溶心の 響きなり
我に その人は きぬ
一生に一度の 幸もちて
♪真さに まれびと なりて
まれびと なりて ♪
★
p16 『生命の躍動(リズム)』
“「春」なりて 感動の 山々 波々 と”
土中の温みに、今、目覚めた様な虫達の、ゴソゴソと 落ち着かない気配。
生まれたばかりの、子魚の、海面を飛び跳ねる音。 梢から 初めて 飛び立つ、小鳥の 羽根の音。
──それ等は、皆んな、ずっーと 歩いて来て、遠くの何処かの道に、置き忘れたものかも知れない。歩かなくなった道───
其の、遠い記憶を、呼び戻してくれる、音楽。
てんてん 手毬の ゴム毬そのものような、少女の頃──
あのリズム、リズム感 ─── 打てば響く鐘の様に 暮れる事のない空の下 ゴム毬の押せば返す 大地の浪──大地の息吹き──その手毬は、 大地の浪の侭 転がる。
毎年、春になれば、桜の開花前線に乗って、聴く雀達の、張びやかな、誤魔化しの無い、喜びに充ちた唄声。(哀しい時も、同じ様に唄うのだろうか?) その音楽には、その連続性 ────停止していない、今の生命の、轟き(生命の躍動感)───例えば、南方の雀から発せられた、春を告げる歌声が、順に連鎖して、連続線上(春伝線と言う、一本の途切れる事の無い 線上)に、波打っている様な。
その年の(平成十年)の、雀達の唄声は、スタッカートの様な、生命の刻みの力強さが、感じられた。(そう言えば、その前年の秋の、鈴虫や、コオロギの鳴き聲が、今迄、耳にした同じ虫の音と思えない程に、何と胸に沁み入る、澄んだ音色であろうと、気付いた事を思い出す。)
あの音楽の、音色の根源の一部を、「あの道」に、見付けました。
■ ■ ■
『或る地球』 (~9年10月8日 記)
すでに大気も完成され 豊穣な生命の息遣いが生きものを産み 空の青さ
曇天の日の 倦怠 掴め切れない風だけれど 絶えず 一巡して
花々を もう枯らさないように 「息」を殺していなければ 或るいは 瞳を閉じて
再び 見ないようにするか そんな 気持ちで 毎日 太陽の 昇り降りを
見ている間に その想いが積もり 積もって いつか山の様に。
そんな時 「焔の塊」の 彗星が ぶつかる 地球の 地殻の 大変動
それは、前橋汀子さんのバイオリンの音色との 出会い、
それ迄の 全ての曲は 光彩を失い 見た事もない オーロラの様な 光が
地中から 私の体内を 通過して 天空の 果てまで 突き抜けて行った様な
衝撃の波の後は 第2の地球の 始まり 不要なものは 全て 焼き尽くし
内部を 曝した 地球の 何という 清々しさ!
(詩歌集第2集「夢弦」より) 戻る
(P16)『胎 動 感』
私は、子供を宿す縁(えにし)を持たなかったので胎動なるものは解せぬが、
その人との音楽を聴いて受ける「地球の胎動感」
確かな地球の、今の激しい鼓動を共有する事が出来る。
それは、冬の終わりの月が沈み、春の曙が、空を真っ新な暁の色に、染め上げる頃
舞台の奈落の底から 出番を待つ 花の緊張感 地中の虫達の 騒めき感
初めて光を見た若葉の 瞳の輝き! 蛹から 頭を覗かせた 揚羽蝶
蜜の雨とランデブーする 紫陽花の花 雨と ハミングする 大地の歌
それが どんな「愛」であれ それを 知れば 地球が理解出来ます
その時 人の心は 何を感じますか?
その心を例える時に 此の自然界と 「一体」となって
誰もが 詩人に なる事でしょう!
「愛」は何を 教えているのでしょう?
■ ■ ■
p17 『スプリング』
(前橋汀子のベートーベン バイオリンソナタに寄せて)
何処からか せせらぎ 跳ねる 水の音
あれは 峰の 何処かの 雪解け水の 音
一本の水 縫う 水車の音
凍えた体に 駆け出す 血液の様に
静止画の絵に 太陽が 昇る様に
何処からか ひんやり 温かい 風の音
地底の熱の 膨張を 釣り上げる 浮力が
ガードで 固めた 天の 冷気の 堰を 放く 引力と なり
地球の 初めての 春のような
冴え冴え と 潔々しい 高嶺な 頂きの
「春」の 味わい…………… 「夢弦」より
|
☆★☆★☆★☆★
『四月に!』
それにしても 四月の この 陽気さよ!
桜は 着実に 開き切った 傍ら
こそばゆ気に 若草色の 乳葉を
リボンの様に 枝先に 結んだ 木
生まれたての 新芽が 落っこちないように
母に しがみ付いている 木
颯爽と 車を 走らせれば
あの 扇形 帚型の 落葉樹も
うっすら 淡草色に 彩づいて
紛れもない 春 旬(たけなわ)の 生命が
揺らめいているのでした
此の 四月の 町を 歩けば
夏の予感の様な 日差しの中
風は スキップ しながら 草笛を 奏で
真っ新な 生命の 息吹きの鼓動を 刻み 始めている
口元が ほころぶように 木々の新芽が
羞かし気に ほころんでいる
生命が ほころぶ ようだ!
冬の幕が 降りた 後の 「生命の 目覚め」の
春の 歓びを 体感する
そして 気付く これら 全てが
「あの音楽」を 聴いて 感ずるのと
同一で ある事に。…………
“「亜麻色の 髪の乙女(音目)」は 春 雨(あめ)の
日は 汲み上げる ひと芽(目) ふた(二)芽と”
「夢弦」より |
♪♪♪♪
戻る
前橋汀子のCD『亜麻色の髪の乙女・全13曲』に寄せて
” 麗しい日は 開けぬ
『亜麻色の髪の乙女』の 残り香の
風と 頬ずりする 朝(あした)
『タウンテラ』には 目覚めた春に 旅立つ
聞き分けのない 子雲雀の唄
夕暮れ迫ると 『メロディ』に 乗って
西の空へ帰る 一団の 鳥の群れ
光と雨の 絵の具で 輝く 若葉の傍ら
生命 踏み出せぬ 木の『無窮道』
今日一日を 一回転 して見やる 遠景に
抱かれて 『カンタービレ』
暮れた窓辺に 映える 『アレトゥーザの泉』は
聖なる血汐が 涌き出でし
その泉の音は 限り無き 人間の 郷愁の
『スラブ舞曲』に 踊る
『ロマンス』の 絶望に 号泣する
嘆きの人の涙を 拭き取る
『アヴェ・マリア』の 姿
あれは 教会の 絵 だろうか?
『愛の喜び』には 『愛の悲しみ』が
赤い太陽と 青い空
『ラ・ジターナ』(ジプシーの女)なれば
尚、その色彩 濃く
憧れの花を摘みて
『美しきロスマリン』に 思いを馳せれば
美わしく 日は くゆる ”
以上 「夢弦」より。 (平成10年4月26日 記) |
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P17☆『美しい心』ドビッシー「美しき夕暮れ」
美しい心を持っていますか?
と 問われて
それを 自分で どう 答えられるでしょう
ただ 私は
美しいものが好き!
美しい自然が好き!
美しい朝の 序曲の 「美しい夕暮れ」が好き!
舞扇の様な 冬の 落葉樹が好き!
厳冬下の 夜明け
その樹木と 一級品の風が 奏でる
美しい音楽が 好き!
と、ただ 答えられるだけです。
美しいもの、余りに、美しい音楽を 聴いていると
果たして、与えられている この美しさに、
自分は、値するだろうか? 戻る
♪♪♪
p16前橋汀子の『ドビッシーのバイオリンソナタ』に寄せて
☆『揺らめく灯』
揺らめく灯 甘美な想い出
渦巻く疾風
押し寄せる カラスの大群
押し返す 凍火の 白矢(夜)
揺らめく灯 仄かな命
墜ちてくる 空
逃げて行く 水 悲惨という 赤い河
僅かな 空間から 壁を 押し退けて
立ち上がる 人
揺らめく灯 ……… 一筋の 希望 ─────
────次世代────
★☆★☆★
p17
『ノクターン』 (ショパン)
“「雨だれ」の 五線譜の 跡 「ノクターン」”
そのバイオリンの、弦から沁み落ちた、一滴の露は、此の部屋を、
此の町を 越えて、砂浜を、そして、海まで、一面、哀色に染めて行きます。
─────悲哀と、真正面に対峙している音色。─────
何か、見てはいけないものを、見た様な…………
その音楽を聴く時は、或る種の勇気が、必要です。
“此の現(弦)の 哀色 全部 「ノクターン」”
★
p17
『フニャーニの スタイル』(クライスラー)
“ 境界に 幻(弦)なる 螢 「雪国」火か ”
何処をどう降りて行けば、どう昇り詰めれば、あの「音色」の正体を掴む事 が出来るだろうか?
哀し過ぎる、美し過ぎる、バイオリンの音色。
雪を溶かせる 火の様な 火を黙らせる 雪の様な
雪の中の 火と 火の中の 雪の葛藤────
底知れぬ 音色の
哭響
それを 想えば 何と 甘っちょろい 人生────
雪も 知らず……… 火も 知らず………
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p18
『タウンテラ』
“哭きじゃくる 弾きじゃくる 弦 「タウンテラ」”
昇る太陽の その 丸い侭 映える 初草の 円の中
何処で 見た事のある 赤ん坊が 座っています
「ガラガラ」の 音 「ペチャクチャ」 おしゃぶりの 音
積み木とも 分からずに 放り投げる
「ゴッツーン」 嬉しい音? 悲しい音?
太鼓の 未だ ドーン ドーン には ならない
「トン トン」
突然 あの 太陽が欲しい!と 言い出して
泣きじゃくる 音
「オギャア オギャア」
オギャアの音が 遠ざかる程
太鼓の音は 濁音を増して─────
「ドン ドン ドドーン ドーン」
「夢弦」より
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75 『美しい余韻』
(前橋汀子のドビッシー「美しき夕暮れ」・
クライスラー「フニャーニのスタイル」に)
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P18『バッハ無伴奏バイオリンソナタ』
『魂』
“無伴奏バイオリンソナタは
かのバッハ 前橋汀子においていきし ”
『シャコンヌ』
一斉に鳥が 飛び立つ 一斉に星が流れる
それは 光の 合図だろうか? それが 呼び水となって
海から 空へ 雨が 噴き上がる
回っている 地球 故に 掴み処のない 「天」
若し、一つの「天」と「地」が あるとしたら
この私の 「魂」と言う 小さな 宇宙の中
「シャコンヌ」の 光の中 歓喜の杯(露)を 飲み干そう!
【充ち澄みて 冬の螢火 「無伴奏」
2乗の魂 たからみ むげん】
“涙露つゆを みる 魂の純潔さ 高潔さ”
此処の空間には それがある 決して侵されない 聖域
全てを 超越した世界 透明な 硝子の様な 氷に覆われ
光 輝いている 哀しい迄の 何という 美しさ!
透明な それ自体 「魂」かも知れない
「涙の露」が 其処へ 吸い寄せられ
舞い上がって行く そして
天上で 溶け合う──無伴奏──
「魂の 解放の 瞬間」
“「無伴奏」 難々解々 原典を
綴ひも解く 人と 弾き徳 人と”
バッハの曲と言うだけで、誰もがその「境界」内で弾いてしまいそうな中、彼女のこの「無伴奏」は、深い洞察力で、自身の人生を転嫁させた様に、 全体章を構成している。
ソナタ第一番の第一楽章の「アダージョ」、人間の生まれた宿命を弾き落ろす、第一弦!。人間の「業」を、その透徹した精神を持ってしても、難行苦行の山を、一弦一弦、弾き解く様に越えて行く、彼女の嘆きと、祈りが、私達をも引き摺って行く。
そして、ソナタ第二番及び、パルチータ三番の、天上の域へ、誘って行く。
聖典の、音符一音一音を翻訳し、弦で見事に表現し得た彼女こそ、詩神と言える。まるで、バッハが前橋汀子さんの為に作曲した様な、又、彼女はバッハを演奏する為に在った様な───技巧的な難解さを感じさせない、滑らかな流麗さ───身体の重力が失せて、浮力だけになり、鳥の様にフワーッと天上
に招き上げられた様な………。
“「無伴奏」 今日から 無色の 静寂なり
天上の流麗 鳳凰の星 ”
其処には、無色でただ煌めく星座の群れが──呼び寄せるのは、五百年間不死の星座「鳳凰座」───【砂漠の、不死鳥伝説の鳥、此の世に一羽しか存在しない、金色と朱紫色の羽根に飾られた、例え様のない美しさ!
死が訪れる時は、自ら香木を積み、火を点けた後中に飛び込んで終命し、次の瞬間、その灰の中から甦り、再び空高く舞い上る。】ナツメ社「星座」より──空想が生んだ、伝説の星座──
でも、人間の頭で描ける事も、それも地球と言うか、「可能性の形」。
其処に何を見るかは──それこそ、個人差。
「鳳凰座」の中の、バッハの前で、直律不動で弾いている、前橋汀子さんを見る様な、
聴く度に素晴らしい「無伴奏」。
“ 魂に 酸素 巡りて 「無伴奏」 ”
魂をはっきり識(み)るだろう! 魂の息遣い! 震き! 歓喜! その実在を!
私のこの感嘆符を全て書いて行けば、何処迄連なる事だろう!
この、バッハと、前橋汀子さんの「ハーモニー」に依ってこそ、成し得た「天上界」の具現!
バッハと、前橋汀子さんの素晴らしさに、星の瞬きに負けない位の喝采を!
“「無伴奏」 無色 空色 殉教者”
“重力と 浮力の 狭間 「無伴奏」”
“聖道に 仏音 伽藍 冬木立
「無伴奏」とも 我わ 一体感”
“「無伴奏」 入口 出口 水平線
此の世の 光 集いて 眩し” 戻る
『魂のハーモニー』
人生を生きる、生きて来たと言う事、それは各自の過ぎた風景に他ならず、それしか見付け得ないもの。昨日があって、今日、明日と続く永遠の中で、生と死の、その境目だけで全て終わるだろうか?地球から生まれた私達─── その昔、仏法の輪廻転生の思想はどの様にして生まれたか?現代に生きる私達には、地球が回っている事は、科学が立証しているが…………人間の表現出来る、している事は、それ自体全て可能な事だから──在りえる事───でも知らない世界の事だから、そうではないかも知れない。だが又、そうであるかも知れないのだ。
仏法も、キリスト教も学んだ分ではないが、それを記し描き得た事にこそ「意味」を憶する。人間の興味をそそられるもの「好きなもの」、この中にこそ「真実」を見る。それこそ地球の「愛」だから………そして、その涯に何を見るかはその「結果」。
私の涯にあったこの前橋汀子さんの「シャコンヌ」。
この風景を識った事は生きている時だからこそ、意味がある。
ずーっと先に、彼方から振り返った時にも、きっと見る事の出来るものだから…………。
何百年前から、現在を見た場合──今の此の世界を想像し得たであろうか?
その時代、時代が産んだ天才と言う光が、光を生んで、スポットライトとなって、指し示す一筋の道、文明然り…………
同じように、私達は、何百年後を想像し得るだろうか?
例えば、「魂」=死後の世界の領域に迄、人智は及ぶのだろうか?
それ共、「魂」と言う言葉は死語になっているか。
人間社会を営む上で、必要な「決まり」という、時代によって変わる、常識社会で生きていく中で、何が信じられて「真実」かと言えば、自分の心の動静だけ──その時代と言う枠の中で、それでも、魚は生きている。
私は、求道者でも、ましてや宗教家でもないので、特別に神を崇めるとか、(宗派は浄土真宗)そういう事はないけれど、それこそ、自分の心に逆らわず生きた中で、その仏典の、聖典のほんの一部分に触れたと思える時がある。
★
1989年発売であるこの「無伴奏」に、その頃でなく1997 年に巡り会ったと言う事に、何か両極の対比────当時は仕事上ではバブルの全盛期、自分自身にとってもその頂きに(あくまで自分自身にとっての)近い位置を感じた事のある時期であった。 それで得た物は、此の世で生きていく上で必要な、将来の為の物質的満足感────老後と言う将来の不安に対する安定感(そして、早すぎるけれど「現在」がある────。私は何時も、幸福でも、不幸でもなかったけれど、けれども、今想う、あの頃はなんと不幸だったのだろう、と。
孤独癖があるけれど、もっと孤独で、仕事という鎧を被って自分自身を偽り、虚構の中に身を置いていただけ────それが、物質的豊かさと言うものだった。
心の中には何も無かった(比例して失ったもの………)。
「全てに時あり」───若しバブルのその頃に前橋汀子さんの音楽を聴く機会があったとしても、通り過ぎてしまっていたであろう。
道に未ず、クラッシック音楽という芸術の入り口にさえいなかったのだから………。
「生命体の地球」としての要素として、先ず太陽が必然だった。
地球それ自体からは「生命」の「愛」も、存在し得なかった。
地球と太陽の「ハーモニー」、生きものの生命の継続行為も、ハーモニーで成り立っている。文明のエネルギーの命も、電極のハーモニーから。
ハーモニーとして交えるには、太陽の光が多過ぎても、少な過ぎても、近すぎても、遠すぎても、生命は生じず……
魂の「ハーモニー」は?
この、バッハと前橋汀子さんの「ハーモニー」に依って成し得た───魂の歓喜───天上界の具現!。
時代が生み出す天才、事物を開化させるものもあれば、魂を開花させるものも………。そして「その時代」の「その時」に噛み合う歯車の様に、呼び合う電極の様に、「その時」に呼応し合うものとの共鳴感に、自分を離れて飛び立つ「魂」。
私であって、最早「私」でない様な………。
そして、改めて認識し得た事、一人で「愛」は生まれない、と。
それに合致出来る「自分自身であった事」が、「その時」の産物であると…………。
───「生きる」に「時」あり 「聴く」に 「時」あり。──── (了)
(「夢弦」より) 戻る |
★
p21
「楽 園」
きっと 其処は やはり 野原だっただろう
歩いているというより 風に運ばれる様に
それでも 確かに 一歩ずつ 進んでいたのだろう
目的地が あった分でもない ただ 気が付くと
処々 花が 咲き初め 道案内人の様な 蝶の後に従い
其の道を 歩いていた よく見ると その 空間の中は
何時も 柔らかな 日差しと 花々と 蝶に溢れ
楽園だった…………
そうだ 私は 死に掛けていた
──それは肉体が───
そして 到達して 本当に 死んでしまった
──目を閉じ 息をせずに───
「魂」だけが 活きている
──其処は確かに天上界だった
───生き還る瞬間───
──
前橋汀子さんの「無伴奏・シャコンヌ」を
聴いている「刻」────
〔以上 (「夢弦」より〕
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『パルチータ・第三番「アダージョ」』
それは 雲の 揺り篭の中?
風に あやされ 引かれて 心地よく 漂っている