汴河懷古 | |
皮日休 |
盡道隋亡爲此河,
至今千里賴通波。
若無水殿龍舟事,
共禹論功不較多。
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汴河懷古
盡く 道ふ 隋の亡ぶは 此の河の爲なりと,
今に至るも 千里 通波に頼る。
若し 水殿 龍舟の事 無ければ,
禹と功を論じて 較多からざらんや!
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◎ 私感註釈
※皮日休:晩唐の詩人、革命的社会派の学者。830年代~883年(中和三年)。襄陽(現・湖北省襄樊市)の人。字は逸少、襲美。号は閒氣布衣、鹿門子、醉吟先生。傲慢で諧謔を好む。黄巣の乱では、黄巣が帝位に即き国を建てた時、その朝廷に入って翰林学士となった。
※汴河懷古:隋・煬帝が造った大運河の汴河(べんが)を見て、昔のことを懐かしく思う。 *煬帝は、歴史上批判を受けることが多いが、作者は煬帝の功績を見抜いて称えた、その詩。 ・汴河:〔べんが;Bian4he2●○〕隋・煬帝が造った大運河の中、黄河と淮河を結ぶ運河部分。通済渠(通濟渠)。唐代では広済渠(廣濟渠)。宋代では汴河。大運河とは、隋の大業元年(605年)に開鑿された中国の南北に通す運河で、南方(江南)の長江から華中の淮河流域、さらには北方(華北)の黄河流域の都市に運ぶ南北交通の大動脈と謂えるものである。中国の河は、黄河、淮河、長江と西から東へと流れており、南北に水運のための運河を造ることは軍事上・経済上、極めて重要なことであった。『中国歴史地図集』第五冊 隋・唐・五代十国時期(中国地図出版社)5-6ページ「隋 河南諸郡」にある。中唐・李益は『汴河曲』で「汴河水東流無限春,隋家宮闕已成塵。行人莫上長堤望,風起楊花愁殺人。」と汴河を詠う。
※盡道隋亡爲此河:誰もが皆、隋(ずい)は この運河(建設)のために亡(ほろ)んだと言うが。 ・盡道:誰もが皆言う。ことごとく言う。唐・羅隱の『雪』に「盡道豐年瑞,豐年事若何。長安有貧者,爲瑞不宜多。」とある。 ・道:言う。 ・隋:〔ずゐ;sui2○〕楊堅(文帝)が南朝・陳を滅ぼして再統一した帝国。第二代の煬帝(ようだい)は大運河を開き、豪華な宮殿や大運河の建設のために国庫が疲弊し、そのために各地に反乱を引き起こし、三度に亘る高句麗征伐に失敗して群雄の蜂起を招き、煬帝(ようだい)は軍中で殺され、隋は三十余年で滅んだ。 ・此河:汴河(べんが)。汴河を含む大運河。
※至今千里賴通波:今に至(いた)っても、遥かな距離の旅は、運河の波路に頼っている。 ・至今:今でも。今に至るも。 ・千里:遙かな道程。 ・賴:たよる。 ・通波:通い合っている川の流れ。
※若無水殿龍舟事:もしも、(煬帝(ようだい)による)河のほとりの宮殿の建設や、天子の御座船の運航といった(民衆を苦しめた)ことが無かったのならば。 ・若:もし。もしも。仮定表現の辞。 ・水殿:水の畔(ほとり)の宮殿。 ・龍舟:皇帝の御座船。 ・事:出来事。
※共禹論功不較多:禹(う)(=治水に携わった古代の聖帝)と功績を論じ合ってみて、(煬帝(ようだい)の方が)やや勝っているのではなかろうか。 ・共:…と。…と共に(する)。…といっしょに(する)。 ・禹:〔う;Yu3●〕黄河の治水事業に携わった古代の伝説上の聖帝。堯、舜に仕えた夏王朝の始祖。姓は姒(じ)。治水に功を立て、舜から帝位を譲られた。夏禹。大禹。 ・論功:功績を論じ定める。 ・不較多:「不争多」「不比多」「不敎多」。ここの部分の(構文上の)意味がよく分からない。詩意は、前後の関係から推測はできるが…。「煬帝共禹論功不爭多」? ・較多:やや多い。 ・較:やや。多少。ほぼ。また、競う。争う。
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◎ 構成について
韻式は、「AAA」。韻脚は「河波多」で、平水韻下平五歌。この作品の平仄は、次の通り。
●●○○●●○,(韻)
●○○●●○○。(韻)
●○●●○○●,
●●○○●●○。(韻)
2009. 2.14 2.15 2.16 2.17 2013. 9.25 2016.10.14 |
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