2009年12月16日水曜日づけ朝日新聞石川面、
「日没後の交通事故 高齢者ご用心」「車のライト点灯 早めに」
「県警 反射シールなど配布」。
《……次席は
「高齢者には黒っぽい服装の人が多く、
車から発見されにくい。
また、ドライバーが帰宅途中などで注意力が落ちていることもある」
と指摘する
》
とあるが、自動車は、
いまから走って行く先に人がおらず、物がないことを確認できた場合にのみ、
進むことになっているのではなかったか? もしも、
「発見されにくい」ではなく、「いないように見える」なら、
道路や自動車のヘッドライトに欠陥があると言わざるを得ないだろう。
また、注意力が落ちているドライバーが多いなら、
制限速度を低く設定するなど、ほかにやることがあるはずだ。
歩行者の側に反射シールをはらせるのは本末転倒だと思う。
2010-01-29 (5) 03:08:29 +0900
17日日曜日づけ大阪本社版「昭和史再訪」は東京タワー開業。
1958年12月23日の同紙紙面を縮小したものが載っているが、
そこには《高さ三百卅三メートルの東京タワーが
》とある。
付) いま手書き入力したこの漢字、 ほんとうに「三十」の意味なのだろうか? 「にじゅう」 を変換すると「廿」も出るから、「丗」が三十のような気もするが、 紙面に出ている文字は縦棒三本を横棒一本が貫いている文字である。
2010-01-29 (5) 02:59:15 +0900
最近はサル語は使わないのかと思ったら、
17日日曜日づけ大阪本社版生活面「くらし達人モンジロー」では
《ウキッ!
》、《ウキャッ!
》という言葉を発している。
後者は、《その声で振り向いたのはエッセイスト
……》
と話が続くことになっている。
また、文末に《今度、妹のキー子にも教えよう
》とある。
2010-01-29 (5) 02:53:22 +0900
ちょっと前の調べだが。
この関数は、ふたつの時刻の差を秒を単位として返すもの。 うるう秒にきちんと対応しようと思ったら、 どこかのファイルにうるう秒がはいった日付を書き込んでゆき、 difftime() などはそのファイルを参照する、というようにすればよかろう。 こうしておけば、あとはそのファイルを正しく管理するだけで済む。
ただし、未来の時刻について difftime() を実行した結果は、 未来のいつにうるう秒がはいるかわからないから、 厳密には信頼できないことになる。
2010-01-29 (5) 02:41:25 +0900
前項の続き。同記事のグラフによると、 1972 年から 1980 年まではほぼ1年に1秒のうるう秒がはいっていた。 1980 年から 2009 年までは、約30年で15秒だから、2年に1秒。 このうるう秒は、もしも入れないと、時計が早く進みすぎる、正のうるう秒である。
仮に1年1秒だとすると、60年で1分、3600年で1時間の誤差になる。 つまり、3600年後には、経度 0 の地点での南中が13時になってしまい、 事実上、UTC と比べて−1時間のタイムゾーンを採用したのと同じになる。 (その現象は世界中どこでも同じである。日本は現在は+9時間だが、 それが+8時間になる。)
そのとき、全世界で一斉に1時間だけ、時計を遅らせるのだろうか。 3600年というと、グレゴリウス暦の誤差も約1日になるころ。 まとめて処理するのかな? ユリウス暦からの改暦の際、 日にちを飛ばした国で「われわれに*日間を返せ!」という抗議があったと聞くが。
2010-01-29 (5) 02:30:26 +0900
11日月曜日づけ朝日新聞 GLOBE の G-1 面。
うるう秒は、プログラミングにミスを引き起こしやすく、
そうなると、GPS などに影響が出る。
そこから、うるう秒の廃止が提案されているのだそうだ。
《ただ一国、一貫して反対しているのが英国だ
》とある。
英国のローカルタイムでは、 うるう秒がはいるとしたら12月31日23時59分59秒の次になる。 広場などに人が集まって、 時計を見ながら新年へ向けてのカウントダウンをするとき、 その時計はうるう秒に対応していないことが多いだろう。 していたとしても、50秒に「10!」と唱えて、 カウントダウンが始まってしまうと思う。 よって、1秒の“フライング”が起こりえる。
その英国だけが廃止反対とは、ちょっと皮肉な感じ。
付) 一年に二度のうるう秒を入れる際は、 6月30日23時59分59秒の次にも入れる。
2010-01-29 (5) 02:23:24 +0900
漢字の「口」とカタカナの「ロ」だけの違い。
2010-01-29 (5) 02:18:26 +0900
20日水曜日づけ朝日新聞大阪本社版社会面下の、国立国際美術館の広告。 「絵画の庭」が展覧会のタイトルなのだろうか。 その下に「ゼロ年代日本の地平から」とある。 写真が載っている絵の中には 1999 年のものもあるが、 あとの二枚は 2001 年、2004 年とあるので、「ゼロ年代」とは、 「2000 年から 2009 年まで」の十年間を指していることばなのではあるまいか。
私は「00年代」「〇〇年代」はどうかと思っていた。 読みようがないのが欠点だな。
2010-01-29 (5) 02:12:17 +0900
20日水曜日づけ大阪本社版「TV 訪ねてみれば」は「ハケンの品格」。
《職場では私語を一切話さず無表情
》と始まるのだが、
「私語」は「話す」ものじゃなくて「する」ものでは? その場合、
「私語を一切せず」ではなく「一切私語をせず」という語順になると思う。
《寺下真理加
》と署名あり。
2010-01-29 (5) 02:04:28 +0900
第一幕第2場冒頭のト書きで、馬で帰ってきたことがわかる。 第二幕でジークムントとジークリンデを追って登場するとき、 馬に乗ってきた様子はない。 ジークリンデが、馬にも薬を飲ませたのか?
それと、もしもジークリンデ奪還に成功した場合、 どうやって連れ帰るつもりだったのだろう?
2010-01-28 (4) 20:33:16 +0900
第一幕第2場の「Du labtest ihn?」だが、これは Des から G へ、増四度の上昇である。
「ジークフリート」の大蛇ファフナーが増四度の下降なのと反対。
2010-01-28 (4) 20:30:09 +0900
あそこで死んでしまうことを知っているから、 いままで気づいていなかったが、 常識で考えれば、自分の妻をさらって逃げた男を倒したのである。 次にすることは、ジークリンデをつかまえて、連れて帰ることだろう。 しかし、ト書きにはフンディングのことは書かれていないので、 ぼんやりしているうちにブリュンヒルデにジークリンデを連れてゆかれてしまう。
2010-01-28 (4) 20:25:57 +0900
ジェダイであるアナキンがパドメの元へかよっていることは、 外から丸見えだと思うのだが。
2010-01-27 (3) 21:24:32 +0900
II で登場した戦闘機で、ヨーダが軍港へ送られてくる。 迎えるのはウーキー族のターフルである。 ヨーダはタラップを降りるが、 そのとき、ウィンドゥとオビ=ワンの姿が、まったく見えない。 立って、タラップまで送りに出てくるのが普通だと思うが、 席に座ったままでもよい。それにしても、姿が描かれていないのだ。
2010-01-27 (3) 21:13:22 +0900
本文ナシ
2010-01-27 (3) 20:50:21 +0900
漢字で書くと、「取り合えず」ではなく「取り敢えず」だそうだ。 岩波国語辞典第三版には、これ全体の終止形も、「敢えず」の終止形も載っていない。
2010-01-27 (3) 20:49:00 +0900
《NHKラジオ「実践ビジネス英語」に、会社でなく、歓迎食事会の会話が登場》 にも書いたが、 あの番組のビニエット --- ほかの番組ではスキットなどとも言われるもの --- は、会社の休み時間における社員の雑談なので、効果音や音楽が、一切、含まれない。 上のリンク先で取り上げた課は、 歓迎食事会の席でとの設定だったから、 レストランのBGMとか、 ナイフとフォークがふれあう音とかがはいってもおかしくはなかったが、 なし。
上級者向けだからということで、むだを省いているのだろう。 一方で、効果音や音楽が楽しい番組もある。それはそれで大歓迎である。 (「ラジオ英会話」には、ときどき、 ゲストお二人か先生が担当していると思われる擬音効果がはいることがある。)
2010-01-27 (3) 20:39:55 +0900
ふつうに考えればその通りなのだが、 本人がまだ夢だと認めていないところで終わるので、 視聴者は由利子の夢だったと思って納得することもできるが、 本当にみんなが小さくなったのだと思うことも、不可能ではないのだ。
2010-01-27 (3) 20:23:20 +0900
2010-01-27 (3) 02:54:26 +0900
金沢市にある不動産屋の名前にもなっている。 URL が http://www.noka.co.jp であることからは /no:ka/ と長音で読むと推測されるが、 北鉄バスの録音テープの広告では /nouka/ と読まれている。
2010-01-27 (3) 02:44:26 +0900
ふだん乗るバスでは、 「『**大学』『生協指定の』〜」のアクセントで読まれているのが気になっていたが、 きのう、異なる方面からくるバスに乗ったら 「『**大学生協』指定の〜」と正しいアクセントで読まれていた。 バス停ごとに録音し、 それを路線ごとに集めてテープを作っているのかと思っていたが、 そうではない場合もある、ということだ。
2010-01-27 (3) 02:37:19 +0900
「運の魚籠」と呼ばれる、運を呼ぶ魚籠があり、それを希望しているのである。 「きぼんぬ」は「希望」がなまった、2ちゃんねる用語らしい。
2010-01-27 (3) 02:36:02 +0900
これなら標準語。 ただし、「桜田」と書いて「サクラタ」と濁らない姓があるかどうかは不明。
2010-01-27 (3) 02:34:13 +0900
「当たる」でなく「当だる」なのは、方言だからである。
2010-01-27 (3) 02:33:28 +0900
前項に関連。 「もう引き返せない時点」とは、ニコチン依存症になった時点だろう。
2010-01-27 (3) 02:31:43 +0900
気が変わったり、苦しんだりする時間が短いほうがすぐれていると思う。
(決して自殺を奨励するわけではない。 手段を比較しているだけである。)
2010-01-27 (3) 02:30:13 +0900
本文ナシ
2010-01-27 (3) 02:28:48 +0900
…「無銘」とは、作者名の書かれていないことをいう。 この間違いは、おそらく、 高木卓「ヴァーグナー」(1966 年、音楽之友社)が 「無銘」と書いたことから始まったのではあるまいか。 本当にここで高木氏が言いたかったことは、 「歌劇」「楽劇」「舞台神聖祭典劇」のようなことが何も書かれていない、 ということである。
2010-01-27 (3) 02:21:03 +0900
イザイは人名。
2010-01-27 (3) 02:12:03 +0900
よく、「*階の踊り場に**さんの靴が脱ぎそろえてあったため、 そこから投身自殺をはかったものと思われます」などと報道される。
飛び降りる前に、 複数の階に靴を脱いでおくと、どこから飛び降りたのか知られないで済む。 これは子どものころ「アリ・ババと40人の盗賊」で読んだことの応用。
あるいは、 靴をどけると下から「はずれ」「あたり」の文字が現れるようにしたら、 少しは現場検証の人を“楽しませる”ことができるかもしれない。
付) でも、飛び降りた先に人がいると迷惑をかけますから、 投身自殺はやめましょう。
2010-01-27 (3) 02:05:43 +0900
ギリシア語・ラテン語を経て現代語にはいったので、 「シュ」の音がある言語でも「イス」になっている。
2010-01-27 (3) 02:03:26 +0900
キリスト教徒にとってはそうかもしれない。
2010-01-27 (3) 02:02:01 +0900
その昔、署名の前には 「ハイフン」「ハイフン」「スペース」のみからなる行を置く、 という習慣があった。その名残りで、いまでもそうしているが、 使っているメールソフトで署名を入れると、 なぜか行末のスペースが消えてしまう。 ほとんど意味はないが、必ず補ってから送信するようにしている。 50通以上について同じことをやっていたら、 「--」がスペル星人の細い目に見えてきた。
23日、土曜日のこと。
2010-01-27 (3) 01:42:36 +0900
再現性のため、「乱数の種は ... です」を出力に含めさせている。 そんなレポートを50通以上も採点していたら、 なんだか「柿の種」が食べたくなってきた。
23日、土曜日のこと。
2010-01-27 (3) 01:40:29 +0900
五段動詞「嘆く」の連用形+「て」だから、 「書く」が「書いて」となったときと同様に、 「い」は単独で「イ」と発音しなければならない。 直前の「げ」と合わさった「げい」で長音を表すのではない。 すなわち、/nage:te/ と発音するのは誤りである。
中島みゆきの「御機嫌如何」に
「嘆いていないわ
」という箇所があるが、正しく歌われている。
《吉田拓郎「我が良き友よ」の歌詞は「時を憂えて」か「憂いて」か》 参照。 意味が近いこともあり、とまどいそうな私。
2010-01-27 (3) 01:29:39 +0900
ストリーミングで聞く際には、そばに冒頭からの経過時間が表示される。 14日(木曜日)分は、完全に無音になってからまだあと残りが4秒ほどあった。
2010-01-27 (3) 01:26:01 +0900
三文字+「.c」というファイル名を持つファイルについての一覧を出力させるため、 「dir ???.c」を実行しようとした。 「?」はシフトして打ち、「.」を打つ前でシフトキーから指を離す。 しかし、それが遅れたので、 キー「.」をシフトして入力する「>」がはいってしまった。 気づかず Enter キーを打ったので、dir ??? の結果でファイル c を上書き。 c という名前のファイルはなかったからよかったものの。
dir でもファイルを失うことがあるんだな、と思ったら、 人生、失わないものなど何もない、と妙に悟ったような気分になった。
ここまで、25日のできごと。
2010-01-27 (3) 01:19:57 +0900
タンホイザーの中心となる「歌合戦」がどういうものか、わからない人もいるだろう。 その場で題が出され、即興で作って歌う歌の優劣を競うもので、 ルールによっては負けたものは命を失わねばならない。
NHK紅白歌合戦とは違うのだ。
2010-01-27 (3) 01:17:05 +0900
宇宙が向きづけ不可能な多様体なら、 ある道に沿って出発点に戻ってくると、 向きが逆になっている。 われわれの住む三次元の世界の場合、 左右が逆になるわけで、 化合物で、左右逆だと違う性質を持っているものなどの作用は変わってくる。 食べ物の味が変わったりするのかな?
2010-01-27 (3) 01:12:30 +0900
怪獣本体に、コントロールするための電子頭脳が内蔵されていれば、 あんな簡単には倒されなかったはず。 二本とも、怪獣にはいっさい手が出せず、 電子頭脳の電波を止めることが話の中心だった。
2010-01-27 (3) 01:05:22 +0900
物を作る職業が多く、 ベックメッサーの“市役所の書記”すら、あの中では異色である。
2010-01-27 (3) 01:03:20 +0900
「ジークフリート」で、ジークフリートがファフナーを倒したあとに言うことば。
2010-01-27 (3) 01:01:40 +0900
本文ナシ
2010-01-27 (3) 01:00:50 +0900
Wikipedia「自殺」を読んで気づいたのだが、 感電自殺の場合、発見者、救助者に感電の恐れがあるわけだ。 まだ電気が流れているから。
では、乾電池で自殺したらどうだろうか。 自分ひとりが死ぬだけの電気が流れ、それで電池は尽きる。
付) ほんとにいい音でアンプを鳴らすには、コンセントから電源をとるのではなく、 単一乾電池を使うとよい、と聞いたことがある。 かなりの数の単一乾電池を使っても、短い時間しか鳴らせない。 だから、それはぜいたくな楽しみ方なのだ。 (あんまり関係なかったか。)
2010-01-27 (3) 00:56:03 +0900
緊急自動車に対し、歩行者は譲る義務がなさそうだ、ということは前に 《緊急自動車がきたら歩行者は横断をやめねばならないのか?》 で調べたので知っている。
道は直線で、まだ緊急自動車は遠い、とわかる。 ここまでやってくるまでに、 ボタンを押し、信号が変わって渡り切れると思ったので実行。 実際そうなったが、その押しボタン式信号機と対になっている信号機 --- それは自動車専用で歩行者は従わなくてもよいと思っている人が多いが、 正しくは従わなければならないもの --- が赤だったので立ち止まっていたら、 その緊急自動車がやってきて、運転者と目があった。 その緊急自動車は、信号が赤でも通れるはずだが、 横断歩行者がいるかどうか確かめるため、スピードを落としたのだ。
私は、押しボタン信号に従って横断中にその緊急自動車がやってきたら、 自分の権利を放棄して、先を譲ろうと考えていた。 だが、横断者がいなくてもスピードを緩めることは予想していなかった。
ところで、 その緊急自動車がやってくる方向から走ってきた自動車で、 その横断歩道の手前で止まっているものがあった。 反対車線には自動車がいないので、緊急自動車は、 そちらを通って追い越して行くことが可能なことが明らかだった。 が、その自動車は、緊急自動車を通すためには必要と思ったのか、 赤信号を無視して横断歩道に侵入し、歩道に乗り上げてきた。
25日のこと。
2010-01-27 (3) 00:41:22 +0900
どちらも中島みゆきの歌。 施錠時に「世情」を思いついたのは、同音だから。 25日、月曜日のこと。
2010-01-27 (3) 00:33:01 +0900
その前の書き込みは16日未明なので、9日間、ためていたことになる。 少しずつ書いてはいたのだが、アップロードする時間がうまく見つけられなかった。 この「いろいろ」は、現在は、 60000 バイトに近くなったら次のファイルへ、としているので、 63000 バイト近くということは、ファイル一つ分以上の分量があったということだ。
2010-01-27 (3) 00:26:46 +0900
DVD の解説音声による。 ドロイド軍の動きが停止されるから、 彼らはキャッシークを失わずに済むが、 皇帝と銀河帝国による支配が待っていた、ということになるのでは?
それがいやで去るというのか、 ヨーダが去ったあと、ドロイド軍に勝てず、 星を捨てて宇宙へ逃亡する、ということなのか。
2010-01-27 (3) 00:05:46 +0900
ヨーダを、ウィンドゥとオビ=ワンが送ってゆくところ。 後ろにクローン兵が立っているのに、 アナキンは信用できないとか、予言ではとか、 おそらくはジェダイの間だけの秘密にしておくべきことを、話している。
2010-01-26 (2) 23:48:25 +0900
ウィンドゥとオビ=ワンが送ってゆくところ。彼らが乗っているのは、 II で、ヨーダに率いられ、 アリーナに現れたクローン兵たちが乗っていた戦闘機である。 コルサントの町の中を飛ぶのだから、普通の乗り物のほうがいいような気がするが、 戦争中であるという感覚が、コルサント全体を覆っているのかも。
2010-01-26 (2) 23:46:42 +0900
パドメのところに泊っているが。
2010-01-26 (2) 23:19:39 +0900
アナキンが自分のみた夢について説明する、「You die in childbirth.」で。 双子でも childbirth というのだろうから、これだけから、 双子であることを知らなかったとは言えないだろう。
少し前から、child という語の登場を調べているのだった。
2010-01-26 (2) 23:16:51 +0900
オビ=ワンがウータパウに出発したあと、 アナキンがパドメの部屋を訪れたときには、 パドメの口から childbirth という語が出る。
2010-02-01 (1) 23:02:50 +0900
剣で切らず、フォースでつまみだすほうが正しかったような。 それなら、部屋に駆け込む前にも可能だったかもしれない。
普通に考えたら、毒を持つ虫なんだから、切れば体内の毒が飛散するよな。
2010-01-26 (2) 20:20:11 +0900
腰につけたりするためのひもではないよな。
2010-01-26 (2) 20:11:30 +0900
あるブログで見かけた。その人の母親の言い方を写しているつもりらしい。 「起きる」は「起きれ」、「食べる」は「食べれ」のように、 なんでも「れ」で終わらせれば命令形になると思っているようだ。 「走れ」などからの類推か。
実際は、辞書の付録などに載っている、標準的な動詞の活用表で、 命令形が「れ」で終わるのはラ行五段活用動詞だけだ。 すごいな、それを全てに適用してしまうとは。
2010-01-26 (2) 20:09:43 +0900
昨年十一月第一・二週分の第 16 課。 この番組のビニエットは、いままでずっと会社での会話だった。 ちょっと珍しい。
普段は、前に 《杉田敏先生の「ビジネス英会話」の題材はビジネス上の会話ではなく……》 に書いたように、休み時間の雑談がほとんどである。
(「ビジネス英会話」は昔の番組名である。 この番組が、 いまでは「実践ビジネス英語」という名前に変わって放送され続けている、 と言ってよいだろう。)
(いま、「実践ビジネス英語」で検索したものだから、 上のリンク先を探すのに手間取ってしまった。 先生のお名前で検索すればよかったんだ。)
2010-01-25 (1) 20:30:09 +0900
……と思ったのだが、形式は、 会社での会話とまったく変わらなかった。 食事会の席であるという設定は特に何も生かされず。
でも、それでほっとした。
2010-01-26 (2) 23:10:01 +0900
A は最初に書いたプログラムであり、 A' はそれをすこしもじったもの、B は A の“反対”にあたるもの。 ここまでできているのに、 「A:A' = B:B'」をみたすプログラム B' が書けないのだ。 三つのファイルを元にして、第四のファイルを書くだけなのだが。
2010-01-25 (1) 20:09:40 +0900
前者は、年を越したいという意味でもいいし、引っ越したいという意味でもいい。
2010-01-25 (1) 20:08:20 +0900
そうとは限らない。第一項と第二項を取り換えただけ、などの場合。
2010-01-25 (1) 19:55:25 +0900
Wikipedia の「筒井康隆」の項目に「口ひげを伸ばしている
」
とあるが、口ひげは上くちびるより下まで伸ばすと飲食の際の邪魔になる。
実際には、上くちびるを隠さないぐらいのほうが都合がよい。
だから、口ひげは「はやす」と言うほうが適切だと思う。
男性であれば、
ひげの薄い人を除いて、1・2カ月でそれなりの形に整うはずである。
2010-01-25 (1) 19:54:53 +0900
十日ばかり前に書いた雪の話の続き。 あのときの雪が、浅野川べりの歩行者・自転車専用道のあるところに、 3メートルぐらいの高さの山になって積み上げられている。 川よりのところはかろうじて歩いて通れる。 おそらく、隣接している駐車場の雪を、そこへ積み上げたのだと想像される。
2010-01-25 (1) 19:53:16 +0900
2010-01-25 (1) 02:58:24 +0900
2009年10月31日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b9 面、 「勝間和代の人生を変えるコトバ」。 今回の「コトバ」はタイトル行に引用した。
この「コトバ」について、
《私のこのコラムの内容が
「読みにくくてくだらない」と批判されたとします。
いままでなら、その言葉を聞いた私は「ドーーーン」と落ち込んでいたのですが、
その人はなぜ、そういうことを言ったのかというと、
その裏に
「自分だったら、もっといい内容を話せるし、書ける」
という考えが背景にあるかもしれないという意味なのです
》
と説明している。
「かもしれない」とあるから、 「ああ、そうかもしれませんね」としか答えられないのかもしれないが、 そうでない理由で読みにくいことはあり得る。 現に何回かこの「いろいろ」に書いたが、 数学に関連する話の場合、 高校生・大学一年生でも何かおかしいと感じるような点が含まれていることがある。 最近、 数学に関連する話かどうか確かめるため必ず目を通すようにしたら、 数学以外でも気になる点が目につく。 しかし、だからといって、私は代わりにコラムを書きたいとは思わない。 ただ、あまりに基本的なところでおかしいと、おかしいと書きたくなるだけである。
それから、上の引用では「あるかもしれない」となっているところが、
そのあとの部分では
《それが相手(私)に対する批判という形で表れるのです
》
のように、断定になっている。
タイトル行に引用した「コトバ」も断定である。
字数制限があるのかもしれないが、
「批判は認められたい欲求の裏返しかも」とすれば、
字数はかえって減って、断定が避けられる。
2010-01-25 (1) 02:19:32 +0900
18日月曜日づけ朝日新聞大阪本社版トップの、
阪神大震災15年の記事。
《17日午前5時46分で15年を迎えた
》とある。
こう考えるのが普通だが、これは、現行の暦を使っているからそうなるだけだ。 一年の長さの平均は 365.2422 日だっけ? それをもって一年と数えれば、 まったく違う時間帯の一時刻となるだろう。
2010-01-25 (1) 02:13:19 +0900
23日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b9 面掲載の、 「勝間和代の人生を変えるコトバ」。 今回の「コトバ」は「空気を読んで、それに逆らえ」だが、 それとは特に関係のないことで二点、気になった。
その1.《日本では、「空気」を読むことがとても大事です。
これは、英語に比べて論理構成が弱く、
情緒的なつながりが多い日本語の特徴のためでもあるのですが
》
とあるのだが、日本語で論理的な文章を書くこともできるし、
英語で情緒的なつながりしかない文章を書くこともできる、
というのは、すでに多くの人が指摘していることだと思う。
その2.
「アッシュの実験」という有名な実験があります。 多数のサクラの試験者たちに、明らかに間違った答えをわざと言わせると、 正しい答えをわかっている人も、ついつい、 そのサクラに釣られて誤答してしまうという現象がわかっています。
ネットで「アッシュの実験」について調べてみると、この「試験者」とは、 試験される人のことのようである。 それはふつう「被験者」と呼ばれるのではあるまいか。
よく読むと、「わざと」という句が挿入されている意味がわからない。 サクラなんだから、「わざと」に決まっているのでは? あと、 「現象がわかっています」という言い方もひっかかる。 現象は「知られています」と言うのではなかろうか?
私なら、こう言うだろう。 「被験者の中に、わざと間違って答える多くのサクラを混ぜておくと」。 いや、その前に、非常に簡単なテストなんだ、という説明がいる……。
2010-01-25 (1) 01:47:50 +0900
少し前の項目を書いていて思ったこと。 漢字で書けば「話す」「離す」で区別がつくが、 耳で聞いて区別がつくのだろうか。 (あるいは、かなやローマ字で書いた場合。)
岩波国語辞典第三版によると、「話す」は「放す」(はなす)と同語源だという。 だから、いいのかな、混同しても。
2010-01-25 (1) 01:42:27 +0900
前項の最後に書いたことを独立した項目とした。
たとえば、「静かなので」のかなの部分は、これで現に意味がとれているのだから、 ここをどう切るのかはそれほど重要な問題ではない。 たとえば、「sizuka na no de」と書いてもよいし、 「sizuka nanode」としてもよい。 「sizuka na node」もありえるし、 「静かな」を一語だと考えるなら「sizukana node」かも知れない。 どれか一つに決める必要があるときは決めなければならないが、 どう切ったら読めない、ということはないはずだ。
付) ちょっと議論にギャップがあるかもしれないのは、 漢字かなまじりの表記「静かなので」では「静か」の「静」だけが漢字で、 明らかにほかから浮き上がって見える。 全体をローマ字で書いた場合はその効果は消える。 その分を補う必要があるのではないか、という議論はあるだろう。
2010-01-25 (1) 01:32:26 +0900
前々項の続き。 ローマ字で書くときのわかちがきについても考えよう。
「連用形+『やしない』」になるものは、 「ya sinai」を動詞から切り分けて書くのがよいだろう。
「書きゃしない」は、 「書きやしない」すなわち「kaki ya sinai」からきているのだろう。 よって、「kak' ya sinai」と書きたくなる人もいよう。 アポストロフィーで文字が省略されたことを表すこともある、 とする人の場合である。 ただ、これだと「死ぬ」は「sin 'ya sinai」となり、 「sin'ya sinai」とスペースを取り除いても 「シンヤシナイ」と読むことになってしまうので、 --- これは n と次の母音字または y とを切り分けるときはアポストロフィーを使う、 と決めた場合である ---、 うまくないかも。 「kakya sinai」「sinya sinai」と、一語に書くほうが適切だろう。
そもそも、漢字かなまじり文で書くときにかなが続く部分である。 つまり、現に続けて書いていて、それで理解できている部分である。 そこを切るか切らないかは、大した問題ではない。
2010-01-25 (1) 01:22:52 +0900
URL は http://mikan105.blog20.fc2.com/ である。 前にも読んだけど、きのうの晩(厳密にはけさ未明)、 床の中で、携帯電話で一気に読んだ。
2010-01-24 (0) 22:21:13 +0900
ワ行以外の五段活用動詞は「書きゃ」と同じパターンだと思う。 連用形+小書きの「ゃ」。 (しかし、このカナ漢字変換は「書きゃ」は出るが、「継ぎゃ」は出なかった。)
ワ行五段活用動詞「言う」は「言いやしない」かな?
上一段。 「尽きる」は、 私は「尽きゃしない」と言いそうだが、「尽きやしない」とも言うだろう。 「恥じる」は「恥じやしない」であって、「恥じゃしない」とは言わない。 (「尽きゃしない」は五段動詞「尽く」の場合か? いや、それは文語文の動詞?)
下一段は連用形+「や」。
カ変は「来やしない」(きやしないか)だろうが、 「来やしない」(こやしないか)とも言ってしまいそう。
サ変は「しやしない」「決しやしない」「信じやしない」。
2010-01-24 (0) 22:19:28 +0900
三大交響曲とハフナーは中学生のときにLPで買ってもらってくり返し聞いたが、 リンツとプラハは就職してからバーンスタインが振ったのをCDで買って、 何度か聞いたのだが、どうしてもどっちがどっちか覚えられない。 情けない。
2010-01-24 (0) 22:16:49 +0900
フライアのリンゴを毎日食べているわけでもないのに。
「ラインの黄金」では少女だった彼女たちが、 「神々のたそがれ」では年老いているという演出もあるが、 一方で、彼女たちだけがいつまでも変わらない、という描き方もあるだろう。
2010-01-24 (0) 22:09:59 +0900
いま、台本を確認していて気づいた。 「An dem furchtlosen Helden」とジークフリートのことを言っており、 それを渡辺護氏は「恐怖を知らぬこの勇士には」と訳している。 しかし、ジークフリートはブリュンヒルデに会って恐怖を知ったのでは?
付) 上の箇所の続きは「わしの呪いでさえ力を失う」。 そうか、だからミーメが代わりに死んだのか。 一度、きちんと独和辞典をひきながら台本を読まないといけないな。 (真のワグネリアーナーなら全部歌えないといけないそうだが。)
2010-01-24 (0) 21:59:02 +0900
「神々のたそがれ」第二幕第2場。
第一幕第2場の終わりの「見張りの歌」で指環のことを歌っていたし、 第二幕第1場ではアルベリヒから指環を奪還せよと念を押されている。 また、その指環をブリュンヒルデが持っていることは、 第一幕第2場でジークフリートから聞き出している。
それなのに、なぜ、ジークフリートの手に指環があることに、 気づかないのだろう? 彼はブリュンヒルデから指環を奪ってきたのだが、 それはグンターに渡さないと、かくれかぶとの計略がばれてしまうではないか?
気がついたが、“槍の誓い”に持ち込むため、 わざと気づかないふりをしたのだろうか?
2010-01-24 (0) 21:48:31 +0900
「神々のたそがれ」第二幕第4場。 忘却の魔酒を飲まされてはいるわけだが、 それでも英雄ジークフリートはうそをついてはいけないような気がする。
2010-01-24 (0) 21:45:13 +0900
一週間ほど前のこと。 ポケモンの文具 --- 確か消しゴムだった --- を持っている高校生を見て、 私は全然詳しくないのだが、ピカチュウは知っており、 そこから「ヒカチュー」を思い出したもの。 私がかかっていた小児科・内科の先生は、 皮下注射をするとき、「ヒカチュー」と看護婦(当時の呼び方)に告げ、 準備をさせるのであった。
このとしまで生きていられたのは、あの先生のおかげだな。 子どものころは病弱だったから。
2010-01-24 (0) 21:36:35 +0900
イングリッシュホルンもだが、オーケストラ内では、 それぞれ、フルート、ファゴット、オーボエ奏者が持ち替えて演奏する。 もしも「ピッコロ協奏曲」があったとしたら、 フルーティストがピッコロを演奏すると思うのだが、どうなんだろう?
付) Wikipedia の「ヴィオラ」を、たぶん初めて、読んだ。 少し前までは、プロのビオラのソロ奏者はあり得ない、 バイオリニストになってしまうから、 と考えられていた、というようなことが書いてあったと思うが、 普通、ビオラはバイオリンの持ち替えではない。 (できなくはない。たとえば、 バッハのブランデンブルク協奏曲第5番に第二バイオリンがないのは、 普段ビオラを弾いていたバッハ自身がチェンバロを弾き、 第二バイオリン奏者にビオラパートを弾かせたから、と聞く。)
そのあたりから考えついたもの。
付) チェロとコントラバスは、ベートーベン以前の曲ではユニゾンで動くことが多いが、 調弦からして違うので、簡単に持ち替えるわけにはゆかない。
2010-01-24 (0) 21:24:04 +0900
磯を歩く際は、岩に足をつけるとき、足の裏が水平になるとは限らないから、 足首がいろいろな方向を向き、疲れる。 金沢で雪が積もったところを歩く際は、そんな感じがする。
2010-01-24 (0) 21:21:39 +0900
都井睦雄は、親じゃなくて祖母だけど、最初に殺害していたよな。
都井睦雄は、「津山事件」(津山三十人殺し)の犯人とされる人物の氏名。 「…していたよな」と見たように書いているのは、 この事件をモデルにした映画「丑三つの村」でそうしているのを見たから。
2010-01-24 (0) 19:00:10 +0900
16日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b9 面、 「勝間和代の人生を変えるコトバ」は「自己評価に始まり、自己評価に終わる」。 今回は、全体の構成を話題にするので、引用が長くなる。 なお、各段落冒頭の【第2段落】などは私が付け足したもの。
【第2段落】 人生がうまくいく人と、 なかなかうまくいかない人の差を観察していると、 「自己評価がどのくらいしっかりできているか」 に尽きるのではないかと気づいたのです。
最初に置かれた結論である。 「人生がうまくゆく人は自己評価がしっかりできており、 人生がうまくゆかない人は自己評価がしっかりできていない」 と理解するのが普通だろう。 (「人生がうまくゆく人は自己評価がしっかりできておらず、 人生がうまくゆかない人は自己評価がしっかりできている」 の可能性もあるが、常識で考えて。)
【第3段落】 私たちは常に自己愛を満足させるため、 自分の実力を過大評価し、自信過剰に陥る傾向があります。 また、自分を大切にするあまり、 都合のいいことばかり選択的に耳に入れ、 都合の悪いことはなるべく排除しようとします。
ここは、すべての人の傾向について言われていることなので、 人生がうまくいっているかどうか、 自己評価がしっかりできているかどうかは、まだ、関係ない。
【第4段落】 しかし、意識して客観的に自己評価する癖をつけていないと、 いつのまにか歪(ゆが)んだ自信が身についてしまいます。 なおかつ、その自信は根拠がないものなので、 少しでもその部分を攻撃されたり、 脅かされたりすると、 自らの存続の危機と言わんばかりの態度で、 その自信を脅かす対象を攻撃してしまうのです。
ここは、自己評価がきちんとできていない人について述べたもの。 はっきりとは書かれていないが、だから人生がうまくゆかない、 すなわち、 「自己評価がきちんとできていない人は、人生がなかなかうまくゆかない」 と言いたいのだろう。 ここに述べられているのは、なぜそうなるかの説明である。
【第5段落】 一方、人生がうまくいっている人たちは驚くほど腰が低い人が多いのです。 むやみに威張らないし、 常に周りへの感謝の気持ちを忘れません。
【第6段落】 それはなぜかというと、自己評価が非常にしっかりしていて、 人と比べて自分ができること、 自信があることと、 そうでないこととの区別がはっきりとついており、 自信がないことについては無理に自分の判断を通さずに、 感謝しながら人に頼る、任せる、という習慣が身についているからでしょう。
この二つの段落は、 「人生がうまくいっている人は自己評価がきちんとできている」 と述べている。 しかし、そのことは、上の第4段落ですでに書いたことの対偶にすぎない。 対偶という、論理学・数学の用語を持ち出さずに説明するなら、 ここに、一人の、人生がうまくいっている人がいたとしよう。 その人は、自己評価がきちんとできているかできていないかのどちらかである。 もしもできていないのなら、第4段落にあるように、 人生はうまくゆかない。これは矛盾である。 よって、彼または彼女は、自己評価がきちんとできている。 すなわち、 「人生がうまくいっている人は自己評価がきちんとできている」 という主張は、わざわざくり返さなくても、 第4段落で述べたことからの論理的な帰結なのだ。
最後に「……という習慣が身についているからでしょう」があるため、 自己評価をきちんとすればこうなる、と読めそうだが、 その結論は「腰が低くなる」ことなどであって、 「人生がうまくゆく」ことではない。 この二つの段落では、第5段落の初めにあるように 「人生がうまくいっている人たち」だけについて述べているのであるから、 「人生がうまくゆく」は、仮定である。 「人生がうまくいっている人は自己評価がきちんとできており、 よって、腰が低くなる」と主張しているのである。
【第7段落】 誰しも、自分の評価を知ることはとても不安で、 なるべく避けたいと思うことが多いでしょう。 特に、他人からの評価はとても気になります。 とはいえ、一度、 客観的に俯瞰(ふかん)してみた自分のイメージを作り、 そのイメージをもとに自分を評価する習慣を身につけると、 効率がとてもよくなるのに気づくでしょう。
ここでは話が他人からの評価に移っている。 最後で 「そのイメージをもとに自分を評価する習慣を身につけると、 効率がとてもよくなるのに気づくでしょう」 とあるが、何の効率がよくなるのか、わからない。 普通に読めば、仕事の効率ではなく、自己評価の効率であろう。
【第9段落】 鏡で自分のいまの外見をチェックするように、 周りの目やテストの結果に反映された自分を把握することで、 どのように人生を過ごせば自分の能力を最大限に発揮できるか、 わかるようになります。
これが最終段落だが、 引用を省略した第8段落に書かれているような方法で自己評価がきちんとできるようになると人生はうまくいく、 とは主張していない。 「自分の能力を最大限に発揮できるか、わかるようにな」ると書かれているだけである。 それは、「自己評価ができるようになる」ことの言い換えにすぎないだろう。
だから、この文章全体は、第2段落で主張されたことすべてを説明していない。 説明されているのは、 自己評価がきちんとできていない人は人生がなかなかうまくゆかないこと、 および、 自己評価がきちんとできるようになれば自己評価がきちんとできるようになる、 ということだけである。 (くり返しになるが、第5、第6段落で述べられている 「人生がうまくいっている人は自己評価がきちんとできている」 は 「自己評価がきちんとできていない人は人生がなかなかうまくゆかない」 から論理的に導き出せることであった。)
私たちを最も安心させてくれるのは、 「自己評価がきちんとできるようになれば人生はうまくゆく」 という命題の証明だ。 私はこの命題は偽だと思うけど。
付) 細かく考えると、正しく自己評価ができることと、 その結果に基づいて適切に行動できることとの間には、ギャップがある。 しかし、それはここでは問題にしていないのだから、考えない。
付) これが掲載されたのは、大学入試センター試験の一日めの朝だった。 そのためか、小論文による試験のことが思い浮かんだ。 センター試験が採用しているのはマークシート式だが、 ある人たちの考えでは、その反対の究極にあたるのが小論文だからである。 私は、模擬試験でも小論文の採点をしたことはないが、 この文章が答案として提出されたら、とふと思った。 きっと、どのように採点するか迷うだろう。 ある命題とその対偶だけを示して、 逆、あるいは裏が証明されたと思いこんでいる、 と考えれば、零点に近い点数をつけなければならないかもしれない。 数学の模擬試験で、この条件とこの条件とが同値であることを示しなさい、 という問題が出たなら、一方のみを示した答案は満点ではあり得ない。
2010-01-24 (0) 01:45:34 +0900
2009年12月12日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b9 面、
「勝間和代の人生を変えるコトバ」は「上司は思いつきでものを言う」。
普通に解釈すれば、「上司は常に思いつきでものを言う」の意味になるが、
本文をよく読むと、
《その場合、「とりあえず」と言って、
適当な指示を出してしまうことがしばしばあります
》と、
「しばしば」の話になっている。
2010-01-24 (0) 01:40:48 +0900
「キティー」と言っている人のほうが多いと思う。
2010-01-24 (0) 01:38:25 +0900
「ミィ」の部分を、である。 私が信じているところの原則に従うなら、 「ミ」の子音に母音「イ」をつけたものだが、 それは「ミ」にほかならない。
2009年12月12日土曜日づけ朝日新聞大阪本社版 be on Saturday の b4 面、 be report で知った。
2010-01-24 (0) 01:36:35 +0900
2009年12月12日土曜日の be on Saturday の e4 面、
「作家の口福」は川上未映子氏の「昼食 あっという間のスパゲティ」。
そこに《ぺぺロンチーノのネギ和(あ)え
》とある。
「ぺぺ」だけがひらがなで、あとの「ロンチーノ」はカタカナである。
2010-01-24 (0) 01:32:08 +0900
14日づけ大阪本社版社会面の、《羽曳野発砲
》事件の記事。
銃で撃たれて死んだ三人について、経歴や、若い人については将来の夢が、
書かれている。一ページの、およそ八分の一ぐらいの分量だろうか。
それに比べると、交通事故死した人については、書かれても氏名と年齢ぐらいだ。 少し前の石川面では、 歩道を歩いていて、バックして出てきた自動車にはねられて死んだという、 まったく何の落ち度もない人の記事が、 ほんの数行だった。
殺されても、交通事故で死んでも、本人や周囲の人のくやしさは同じだと思うのだが。 それとも、交通事故については「自動車で便利な思いをしているんだから、 がまんしなさい」というのが社会の風潮になっているのだろうか?
付) タイトル行の「事故死」は、交通事故以外の事故による死を意味する。 遊園地でジェットコースターの事故で亡くなる、などのケースである。
2010-01-24 (0) 01:24:40 +0900
かなで書けば前項と同じだが、これは標準語による回文。
2010-01-24 (0) 01:22:03 +0900
これも方言による回文。「来ない」は標準語では「こない」だが、 東京の一部の方言では「きない」になる。 「来られる」が「きられる」になることも。 漱石の小説のどれかに用例があったと思う。
稲木は姓。
2010-01-24 (0) 01:18:17 +0900
「ば」はどこかの方言。 「留守にする」(るすにする)ではあまりに短いのでこうしてみた。
2010-01-24 (0) 01:17:05 +0900
同棲していて、親とも同居、ってのが間違っているというわけではないが。
2010-01-24 (0) 01:15:32 +0900
伊田は姓。
2010-01-24 (0) 01:14:17 +0900
一月6日に気づけばよかったな。
あるいは、「あすか」を女性名と解釈する。
2010-01-24 (0) 01:06:38 +0900
どこが間違いかというと、 促音「っ」が語末にきたときは次の子音字を重ねるという規則は適用されないのに、 適用してしまっているから。
じゃあどう書くかというと、それは小学校では習わないが、 アポストロフィー「'」をあとにつける、 というのが田丸卓郎以来の伝統だと思う。 それにならえば「e', korokke?」となる。
私はそれにはあまり賛成でなく、促音のみを表す文字、 たとえば q を用意し、促音は語中も語末もすべてその文字で表す、 というのがよいと思う。 カナと同じだからという理由でなじみやすいだけでなく、音韻論的にも正しいらしい。 これに従うなら、「eq, koroqke?」となり、回文にならない。
付) 上の文章、「という」が五回使われている。 (この段落の「という」は含まずに数えて。)
2010-01-24 (0) 00:58:31 +0900
例年、万年筆で年賀状を書くと、手にインクがついてしまったのだが、 それは、万年筆を中途半端に洗っていたからだろう。 昨年末は 《クリスマスカードを書く / 一年ぶりに使った万年筆を年賀状に備えて洗う》 に書いたように、万年筆を完全に洗った。 そこに書いたあとも、何度も水を変えて洗った。 こうすれば、手が汚れないのだ。 万年筆は、正しく手入れをして使えば手がインクで汚れることはない、ということだ。
2010-01-24 (0) 00:53:41 +0900
どうして年賀状として出せなかったかは、 くわしくは書かないが、半分喪中だった、というような事情。
松飾りなどがとれる7日には出すべきか、とも思ったが、 15日の小正月がすぎないうちは、などと考えているうち、 きょうになってしまった。
2010-01-24 (0) 00:52:56 +0900
これは文語文。
2010-01-23 (6) 23:56:18 +0900
本文ナシ
2010-01-23 (6) 23:55:01 +0900
本文ナシ
2010-01-23 (6) 23:53:21 +0900
野球がはいってくる前から「遊撃」という言葉はあり、 それを全体として訳語にあてたのだろう。
実際、へたなショートだと、 攻撃側の味方をしているように見えることもあるかもね。
2010-01-23 (6) 23:15:10 +0900
意味なし。
2010-01-23 (6) 23:13:41 +0900
本文ナシ
2010-01-23 (6) 23:12:29 +0900
タイトル行は字数制限の関係で、 日本ワーグナー協会の冊子で使われている、頭文字だけを書く方法をとった。
かくれかぶとでグンターに変身したジークフリートがブリュンヒルデに結婚を迫り、 二人はもみ合う。 その過程で、ジークフリートのかくれかぶとが落ちたら、どうなるであろうか?
2010-01-23 (6) 23:07:43 +0900
いままで考えたことがなかった。 “正しく”は、森の小鳥のパートは管楽器が演奏し続け、 ジークフリートが理解した言葉を字幕で出すか、 あるいはジークフリートが復唱するか。
ジークフリートが、観客に向かって 「みなさんも血をなめませんか?」と身ぶりで示す、ってのは?
2010-01-23 (6) 23:03:29 +0900
アルベリヒの呪いは指環を持つ者に死をもたらすはずなので、 あの場面では、ファフナーを殺して指環を手に入れたジークフリートが死ぬはず。 ジークフリートは剣でミーメを殺そうとするが、 ワーグナーの台本とは異なり、 ミーメがすばやく毒をジークフリートに、目つぶしのように吹きかけたため、 ジークフリートが死んで、ミーメが生き残る。 実は、ミーメも、 ジークフリートがファフナーに刺した剣を抜いたときに噴き出た血をなめており、 森の小鳥の言うことがわかる。 そして、そこからあとは、 ミーメ役を演じていた歌手がジークフリートのパートを終幕まで歌う、 って演出は、許されないんだろうな。 同じテノールが歌い継ぐと言っても。
去年のバイロイトでミーメを歌った人は、以前はジークフリートを歌っていた、 と聞いたのが、ふと思い出された。
2010-01-23 (6) 22:57:20 +0900
トリスタンを拡大自殺と考えれば別だが。
自己犠牲を行なう女性は、ゼンタ、エリーザベト、ブリュンヒルデの三人。 (エルザとイゾルデは単に死ぬだけ。)
2010-01-23 (6) 22:53:19 +0900
…ないんだろうな。
それじゃ、どうやって天に昇ってゆくのか、想像すらできないな。
実はゼンタは途中の木の枝か何かにひっかかって海には飛び込んでいなかったが、 あとを追ったエリックは海に落ちて死亡。 そのあと、オランダ人とエリックとが抱き合って昇天してゆくところで幕。---
2010-01-23 (6) 22:51:31 +0900
本文ナシ
2010-01-23 (6) 22:49:42 +0900
ハ長調、ハ短調は「ハ調の長旋法」「ハ調の短旋法」というのが正式であり、 ハ長調の曲をニ長調に書きなおすのは移調だが、 ハ長調の曲をハ短調に書きなおすのは調は変えずに旋法だけを変えるので 「移旋」というのが正しい、と聞いたことがある。 (昔はリディア旋法などもあったので、調と旋法が別々だったが、 長調と短調だけになってきて、 長調と短調の区別も「調」に含めて言うようになった、 ということなのだろう。)
井真成は、ちょっと前に中国で出てきた石碑に、 留学生として唐にわたっている間に病気で亡くなったと書いてあった、日本人。 “身体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷へ帰るに違いない” と書かれていたと報道されたのが、ちらっと思い浮かんだので、 私がいまここで死んだら同じように書かれるのかな、 いや、いまなら金沢で死んでも東京に埋葬されて何の不思議もないよな、 などと思いつつ、Wikipedia をながめていて、思いついた回文。
意味はない。
2010-01-23 (6) 22:36:17 +0900
一件は、ある大学のシラバスにある。 (知人がどんな授業をしているのかなとながめていて気づいた。)
付)「任意個」は「任意の個数」というほうがよいと思うが、 タイトル行では字数の関係で用いた。
2010-01-23 (6) 22:28:14 +0900