竹溪閑話
(平成十七年度(2005年度)はこちらです。) 明治十年の国粋と国際 『詩經』秦風の『無衣』には「豈曰無衣,與子同袍。王于興師,修我戈矛,與子同仇。 豈曰無衣,與子同澤。王于興師,修我矛戟,與子偕作。 豈曰無衣,與子同裳。王于興師,修我甲兵,與子偕行。」というのがある。そこの「偕行」〔かいかう;xie2xing2○○〕とは、「偕(とも)に戦いに行く」義で、「…與子偕行」とは「(苦労をともにして)あなたと偕(とも)に戦いに行こう」という意味になる。 戦前、我が国に偕行社という名称の陸軍将校の親睦団体ともいうべきものがあったが、その由来・語源はここになる。和風(やまとぶり)で謂えば「今日(けふ)よりは かへりみなくて 大君(おほきみ)の 醜(しこ)の御楯(みたて)と 出(い)で立つ我(われ)は」で、「楯の会」ともなろうか。しかし、国粋は用いず、汎東アジアの漢風(唐風・からぶり)である。なお、海軍士官の親睦団体は、水交社という。これは『莊子・山木』の「君子之交淡若水,小人之交甘若醴。君子淡以親,小人甘以絶。」に由来し、「海軍士官は君子である」と「海軍(水軍?)関係者の交際」とを洒落を以て名づけたものである。国軍の精神は、斯くばかりに漢籍に基づいていたが、これが明治前期人の教養であり精神である。 (2006.1.29) 又 我が国の脊梁ともいうべき昭和、平成の元号も、「百姓昭明,協和萬邦」、また「内平外成」「地平天成」と、『書經・堯典』また『史記・五帝本紀・帝舜』『書經・大禹謨』と、これも漢籍に基づいている。国粋であり、且つ、国際である。正に「内(うち) 平かに 外(そと) 成る」時代である。我々は「和を昭(あきら)けく」と宣せられた御代に生きてきたのである。 (2006.1.30) *************** 日本漢詩壇の雄 仮に、わたしの好みに則って、日本の漢詩壇を評価した場合、その雄は頼山陽と夏目漱石になる。ともに、実に流麗で見事である。 ただ、二人の作詩に対する姿勢は異なる。前者・頼山陽は広汎な識者(読書人)を意識して語りかけ、喩えれば、鵬が大きく翼を拡げてその勢威を誇示しているかのようでもある。 それに対し、後者・夏目漱石は、作者個人の心情吐露が主であって、作者の心情や立場を理解する日記や年表の類を活用しないと理解しがたいところがある。とはいっても、その用語・用字は華麗であり、絢爛たる句の構成である。実を言うと、わたしは、夏目漱石の各節奏、一句の意は理解し得ても、一篇の作品として綜合的に眺めていった時に、展開が分からず行き詰まることがある。 詩に「公」「私」のレッテルを貼ってよければ、文豪・漱石のは、荘厳ということばに相応しい「私」そのものである。 (2006.2.3) 又 漱石と似かよった感じの作品に良寛のものがある。ともに重い題材を選んで詠っている。異なるところは、漱石は華麗な言辞であるのに対して、良寛は虚飾を取り去っている。更に、良寛は平仄も意に介さず、漢語、和語ともに融通無碍である。然るに、その作品の重苦しさたるや、優に漱石のものを抜いている。過ごしてきた人生の差異から来るものなのだろうか。なお、良寛の漢詩では、その和歌には見られない、人間的な苦悩を滲ませているのも印象的である。 (2006.2.4) ***************** 良寛詩の缺落部分について このことは、読まれた方が後味の悪さを感じられることと思い、どうしようかと迷っていた。しかし、書きたい気持ちの方が勝って、結局書くことにした。御寛恕を乞う。 良寛詩に缺落部分がある。東郷豊治編著『良寛詩集』(創元社)に載っている「窗前木葉■」の部分である。その註記に、「鈴木豹軒博士は『「黄」ならんか。』と言われる。」とある。 しかし、わたしは、絶対に「黄」ではないと断言できる。 良寛詩は確かに平仄には顧慮していない。自由奔放である。しかし、通用の幅は慥かに広いものの、押印には配慮を見せている。この作品の場合は、次の通りである。 □□□□晨,□□□□方。(陽韻) □□□□干,□□□□裳。(陽韻) □□□□鳥,□□□□陽。(陽韻) □□□□杖,□□□□堂。(陽韻) 窗前木葉■,□□□□章。(陽韻) □□□□歸,□□□□央。(陽韻) □□□□上,□□□□郎。(陽韻) みごとな陽韻である。これがこの説の通りに「黄」とすれば、「黄」字も同じ陽韻なので □□□□□,□□□□方。(陽韻) □□□□□,□□□□裳。(陽韻) □□□□□,□□□□陽。(陽韻) □□□□□,□□□□堂。(陽韻) 窗前木葉黄(陽韻),□□□□章。(陽韻) □□□□□,□□□□央。(陽韻) □□□□□,□□□□郎。(陽韻) となる。ここで「窗外木葉■」の句だけが「窗外木葉黄(韻)」と、例外的に韻を踏むというのは、奇態である。このような不規則性は彼の作品群から見ても適切ではない。ここは本来的には仄字である。「信」「落」「散」「舞」、或いは「堆」などが妥当なものになろうか。 (2006.2.9) ********************* 蔡文姫の拉致 後漢末の天下喪乱の時代、漢民族の拉致被害が多発した。甘肅省、陝西省は、南匈奴の勢力圏であり、民族の勢力の頡頏するところであった。蔡の娘・蔡文姫(蔡:文姫は字)は、胡族に攫われた(興平二年:195年)。やがて、南匈奴の左賢王の后となり、胡にいること十二年、二人の子供を産んだ。上が女子で、次が男子という。曹操は、嘗て昵懇だった蔡の家が絶えようとしたため、金璧でもって彼女を買い戻し(建安十二年:207年)、陳留の屯田都尉の董祀に嫁がせた。彼女の作品は三首残されている。そのうち二つが、五言の『悲憤詩』(漢季失權柄,董卓亂天常。)と七言『悲憤詩』(嗟薄兮遭世患,宗族殄兮門戸單。)で、ともに後出 『後漢書・列女列傳』に載っている。『胡笳十八拍』は、騒体による彼女の数奇な運命に翻弄された人生を詠っており、千古の絶唱といわれている。『胡笳十八拍』「我生之初尚無爲,我生之後漢祚衰。天不仁兮降亂離,地不仁兮使我逢此時。干戈日尋兮道路危,民卒流亡兮共哀悲。煙塵蔽野兮胡虜盛,志意乖兮節義虧。對殊俗兮非我宜,遭忍辱兮當告誰。笳一會兮琴一拍,心憤怨兮無人知。戎羯逼我兮爲室家,將我行兮向天涯。雲山萬重兮歸路遐,疾風千里兮揚塵沙。」 と、切々と郷土、漢の地を懐かしがってうたう。 後漢末、五斗米道、黄巾の乱・「蒼天已死,黄天當立,歳在甲子,天下大吉。」と天下が緩み、その間、北・南匈奴、鮮卑、羌、と異民族が中原を窺っている時代である。漢民族と南匈奴の領域が接しているところで起こった悲劇である。現代風に言えば、一般市民(『悲憤詩』では「平土人」とする)が拉致されたのである。五言詩『悲憤詩』には、拉致の実際がリアルに記録されている。これは、敗者としての靖康之変や文天祥の場合とは異なる。見かけの繁栄とは別に、実際の国力は衰えていたのか…。(このことで作ったわたしの詩は、こちら) いったいどのようにして、拉致された者を救出するのか。曹操は金璧を以てしたが…。 なお、『胡笳十八拍』は正史やこの時代の作品を収めた六朝の『文選』や『玉臺新詠』、また、『古文眞寶』『古詩源』には見られない。(手許にある本で確かめただけになるが…)。これは、北宋・神宗の代の郭茂倩『樂府詩集』にある。彼女については『後漢書・列女列傳』の董祀の妻(蔡)の条に「陳留(前出出身地方名) 董祀(蔡文姫の再婚後の夫の名)妻者(は),同郡蔡之女(むすめ)也,名,字文姫。博學有才辯,又妙於音律。適河東 衞仲道。夫亡無子,歸寧于家。興平中,天下喪亂,文姫爲胡騎所獲,沒於南匈奴左賢王,在胡中十二年,生二子。曹操素與(蔡)善,痛其無嗣,乃遣使者以金璧贖之,而重嫁於(董)祀。」に記録が残っており、この続きに「後感傷亂離,追懷悲憤,作詩二章」として『悲憤詩』が録されている。 異民族に、拉致されていく途上の悲惨な光景は五言の『悲憤詩』「平土人脆弱,來兵皆胡羌。獵野圍城邑,所向悉破亡。斬截無孑遺,尸骸相拒。馬邊縣男頭,馬後載婦女。長驅西入關,迥路險且阻。還顧冥冥,肝脾爲爛腐。所略有萬計,不得令屯聚。或有骨肉倶,欲言不敢語。失意機微閨C輒言斃降虜。要當以亭刃,我曹不活汝。豈復惜性命,不堪其詈罵。或便加杖,毒痛參并下。旦則號泣行,夜則悲吟坐。欲死不能得,欲生無一可。彼蒼者何辜,乃遭此禍! 」に具(つぶ)さに録されている。以下のページを請う参照。 ◎『胡笳十八拍』(我生之初尚無爲)第一拍〜第六 漢魏・蔡文姫 ◎『胡笳十八拍』(日暮風悲兮邊聲四起)第七拍〜第十二 蔡文姫 ◎『胡笳十八拍』(不謂殘生兮卻得旋歸)第十三拍〜第十八拍 蔡文姫(以上拉致された蔡文姫の悲しさをうたう) ◎『悲憤詩』五言古詩一(漢季失權柄) 『史記』漢魏 蔡文姫 ◎『悲憤詩』五言古詩二(邊荒與華異) 『史記』漢魏 蔡文姫 ◎『悲憤詩』五言古詩三(去去割情戀) 『史記』漢魏 蔡文姫(以上、拉致の実態をつぶさにうたう) ◎『悲憤詩』七言騒体(嗟薄兮遭世患)『史記』漢魏 蔡文姫 (2006.4.28) ******************** 誰見當年秦始皇 「千里修書只爲牆,讓他三尺有何妨,長城萬里今猶在,不見當年秦始皇。」---清代、都で仕えていた張英の郷里へ宛てた返信である。わずか「三尺の地」での境界問題で諍うことを諫めた詩である。もっとも、三寸でもなかなか譲れないものだ。黄遵憲も『贈梁任父同年』では「寸寸山河寸寸金,離分裂力誰任。杜鵑再拜憂天涙,精衞無窮填海心。」 ともいうし…。難しいところである。礼譲として、服聖人之訓,有君子之風とするのがいいのか、主権と見るべきか………。穏やかに誰もが納得いく方法はないものか…。誰見當年秦始皇?! (2006.5.7) 又 蘇州の拙政園にある宜兩亭は、その名からも、両家の境界問題でトラブっていたのがよく分かるが、それを克服できたということもよく分かる。 (2007.1.17) *************** 「殘夢猶迷鴨麹]」 江藤新平に『逸題』「欲掃胡塵盛本邦,一朝蹉跌臥幽窗。可憐半夜蕭蕭雨,殘夢猶迷鴨麹]。」がある。その構成について見ていくと、韻脚は平水韻上平三江の「邦窗江」となっている。江韻での押韻は、極めて難しいものであり、独用(下平七陽との通韻は不可。但し、現代語の自由詩では通用させてはいるが…)の上、韻字がごくごく限られて、「江」「窗」「邦」「雙」「厖」位しか使えないためだ。そのため、詩作では江韻は滅多に使われない。その処理に極めて高度な技倆を要するからだ。 それでもなお、作者は敢えて江韻を用いて韻脚としたのは、「本邦」「幽窗」「鴨緑江」のどれを言いたかったためなのだろうか。 それは、彼の来歴から考えて、「鴨緑江」になろう。この詩作、或いは先ず「殘夢猶迷鴨麹]」の句が出来たのではなかろうか。次いで、押韻の関係上、「一朝蹉跌臥幽窗」の句ができたのではなかろうか。 いうまでもなく、詩は、(全体構想は別として)本来は起句から順に作っていくべきもので、(テクニックのために)転句や結句から作り始めるものでは、当然ない。わたしなどのようなものがそのようなことをすれば、詩意に飛躍や乖離が生じ、下手をすれば支離滅裂なものとなる。しかしながら、江戸時代末期の漢学の深い素養を持つ江藤新平は、美事な起承転結を見せている。 ここでは、作者が江韻という特殊な韻部を使ったので、ついつい憶測を逞しくさせられてしまった。 この作品は『逸題』とされてはいるが、本当は詩題を何としたかったのか。それは、韻脚を敢えて「鴨緑江」としたい作者の意志から推し量って、「殘夢猶迷鴨麹]」句中の語彙のどれかから詩題をもって来て然るべきものだろう。作者の思念がそこに渦巻いている。 この作、高度な技倆を示した千古の絶唱である。 (2006.7.21) *********************** 歸去來兮辭の訓みについて 『帰去来の辞』は、『晉書・列傳第六十四・隱逸・陶潛』の項に出てくる。また、『昭明文選』第四十五卷「辭」に『歸去來并序』と題してでてくる。本サイトのこのページの作品は、日本の木版本『文章軌範』からのものである。僅かに文字の異同がある。同書では『歸去來辭』とする。日本では、『文章軌範』通りの、兮字の無い『歸去來辭』の方が一般的。この辞は三段構成であり、「歸去來兮,田園將蕪胡不歸。…」「歸去來兮,請息交以絶遊。…」「已矣乎…」からなっている。或いは、押韻とその内容から、五段構成ともとれる。換韻と内容の変転とが対応した見事な作品である。 「辭」とは、文体の一で、楚に起こった『楚辭』の流れを汲み、押韻する詩形式である散文。「辞」は、多くは偶句からなり、主として四言、六言で構成されている。特徴としては、句中か句の末尾に語気助詞の「兮」等を附けて、語勢を整えていることである。 語彙や表現については、語彙としては、華麗なものとなっており、阮籍の影響がある。表現の特徴は、抒情的な表現内容に、思いを託してうたいあげていることである。陶潛(陶淵明、陶元亮、陶靖節五柳先生)は潯陽柴桑の人。この作品には序があり、それが附いて『歸去來兮辭并序』となってもいる。彼がこの辞を作ったとき、陶潛は四十一歳で、晉では政変が続き、安帝が廃され、数年後に復位したその時期のものである。若い頃は、劉裕の幕僚(鎮軍將軍府の參軍)になったこともあった陶潛は、四十一歳の時貧窮に迫られて糧を得るために小役人に任官した。しかし、「吾不能爲五斗米折腰,拳拳事ク里小人邪!」(『晉書・列傳第六十四・隱逸・陶潛』)として、官に在ること八十余日で、辞して田園に帰っていった。このことは、この辭の序に「尋程氏妹喪於武昌,情在駿奔,自免去職。仲秋至冬,在官八十餘日。因事順心,命篇曰歸去來兮。乙巳歳十一月也」と詳しく述べられている。この前後を『晉書・列傳第六十四・隱逸・陶潛』では、簡潔に「以親老家貧,起爲州祭酒,不堪吏職,少日自解歸。…………素簡貴,不私事上官。郡遣督郵至縣,吏白應束帶見之,潛歎曰:『吾不能爲五斗米折腰,拳拳事ク里小人邪!』義熙二年,解印去縣,乃賦歸去來。其辭曰:」と記述し、この『歸去來兮辭』に続けている。その間の心情は、『歸園田居』でもうたっている。 「歸去來兮」:帰ろう、さあ。ここは、基本義が「歸去」であり、「來」は、「去」の後に語調をとるために引っ張られて現れてきたものである。或いは、「歸」を語幹と見て、「去來」で「さあ」と取る。本来、「來」が「さあ」であったが、「去」を引き寄せてきたと見る。何如。 ・「兮」〔けい;xi1〕は、兮字脚で、語調を整え、リズムをとる。句末や言葉を伸ばして言うときに使われる。 蛇足になるが、現代人が兮字を使う場合は、“字足らず”(?)を補う面があるやも…?。 ここは、伝統的に「かへり(*)なん いざ」「かへんなんいさ」と訓む。すこし引っかかるところがある。それは、この『歸去來兮辭』は「歸去來兮」を繰り返していう。これと似たものに、『楚辭』の「招魂」がある。そこでは「魂兮歸來!」と繰り返して、魂に呼びかけている。関係はないか。更に古くは『詩經伯夷傳』にある殷末周初の伯夷『采薇歌』「登彼西山兮,采其薇矣。以暴易暴兮,不知其非矣。神農虞夏,忽焉沒兮,吾安適歸矣!吁嗟徂兮,命之衰矣!』の精神を受け継いでいよう。また、語彙では、流転の人生を詠った曹植の『吁嗟篇』「吁嗟此轉蓬」にも似ている。 又 なお、「歸去來」と「いざ」の読みを日本語の問題として考えた場合、『日本書紀』では、応神天皇の皇子の名「去來眞稚皇子」(いざのまわかのみこ)を『古事記』では「伊奢之眞若命」(いざのまわかのみこと)また、履中天皇も大兄去來穗別尊(おほえのいざほわけのみこと)と 『日本書紀』(『古事記』では「大江之伊邪本和氣命」(おほえのいざほわけのみこと))と表記しており、奈良時代初期には「去來」を「いざ」と読んでいたことが判る。 (この項は『歸去來兮辭』より) (2006.3.21) ************** 「」は誤字?! 11月17日のテレビ番組『アンカー』の『金曜疑問』で、漢字力の低下を提起していた。その実例が、去年度の『一年を漢字一文字で表すと』への応募葉書の一つだった。一枚の葉書を取り上げ、「こんな誤字もあります。上の部分が『西』になっていませんねえ。」と「」と大きく書かれた葉書を見せていた。 「」は誤字なのか??『康熙字典』にはがあるが…。「霸」や「覇」でもいいとは思うが…。テレビでは、わざわざ食い違いの部分を朱で補い、「」としたフリップを見せていた。『こんな誤字もあります』と、誤字の代表格とされてしまったが…。 字典にあたってみたのだろうか…? だいたい、現在「正字」とされている「覇」字の方が、出所が怪しいのではないのか。 (2006.11.17) 又 07’.1.9のニュースステーションで、防衛庁が防衛省と格上げされることになった報道で「廰」と大きく書かれたフリップを見せながら、「『防衛庁』は『庁』で、曾ては『廰』と書かれ、民衆の声を『聴く』ところだった。(と、フリップの漢字の説明をした。)しかし、今日から『防衛省』となって…」と言っていた。これは「廳」が正しいのではないか。 わたしの独り言を聞いていた家族が、ぽつりと一言。「でも、パソコンで、その字が出るということは、その字が通用して、正しいとも謂えるのでは ?」と。 “約定俗成”ということなのだろうか? やはり、疑問だが、家族には逆らわないことにした。 (2007.1.9) ************ 千載憂 「千載憂」とは何か。それは、「死」である。死没することへの恐怖、(人の)永遠の憂いである死没するという事実、人類の永遠に解決できない深い悩み−死、有限の生、と謂ってもいいだろう。陶淵明は『遊斜川』「開歳倏五日,吾生行歸休。念之動中懷,及辰爲茲游。氣和天惟澄,班坐依遠流。弱湍馳文魴,闥J矯鳴鴎。迥澤散游目,緬然睇曾丘。雖微九重秀,顧瞻無匹儔。提壺接賓侶,引滿更獻酬。未知從今去,當復如此不。中觴縱遙情,忘彼千載憂。且極今朝樂,明日非所求。」 という。死は如何ともしがたい。彼は『形贈影』「適見在世中,奄去靡歸期。」 『影答形』「此同既難常,黯爾倶時滅。身沒名亦盡,念之五情熱。立善有遺愛,胡爲不自竭。」、前出『游斜川』「吾生行歸休。念之動中懷」、「從古皆有沒,念之中心焦。」でも、やがて必ず訪れる死、人間社会との永遠の別離、肉体と意識の滅亡を見つめ、戦(おのの)いている。 彼は、詩で次のように詠う:(陶淵明の詩作群の要点を抜粋して繋いだ) 「金石のような不朽の肉体を持ちたいものだが、それは不可能なことである。仙人となって生死を超越したいが、それも不可能なことである。人はこの天地の間に、百年に満たない一生を送る。それが全てだ。やがて終焉がやってくる。それで、全て終わりだ。この「死」というものからは誰であっても逃れることは出来ない。この必ず来る「死」からは逃れようは無いという事実に思い到るとき、体が悶えて胸が張り裂ける。この如何ともしがたい事実。せめてもの救いが酒である。今しばし、酔いで紛らわそう。しかし、人間世界との永遠の別離、最期の時はやがて必ず来る。肉体は、あの山の隈に埋められ、やがて一切が消えていく。」と……。 (この項『陶淵明』より) (2006.11.20) 又 「千載憂」に関してはわたしたちは如何ともしがたい。医学薬学などの科学の進歩で、より長命になり、より快適な生活を送れるようになったとはいうものの、「千載憂」に関することは陶淵明の時代から千年の後の今日も、解けない。更に千載の後も、解けまい。これを念えば五臓が熱せられてくる。 或いは、わたしたちの文化のある面は、永遠に変わることがないのではないか。 このページの 平成十九年度(2007年度)はこちらです。 平成十七年度(2005年度)はこちらです。 |
2006.1.29起 |
メール |
トップ |