メディアの情報操作 --狂った評価指標--

 日本の大新聞・テレビは、記者クラブを通して完全に権力と癒着している。いかに官僚から情報をリークして貰うかが記者の評価指標となっているため、官僚に“夜回り”をかけ、官舎の前でお帰りを待つという有り様だ。嫌われたらおしまいなので、権力をチェックするどころではない。その結果、官僚が実現したいことを中立を装いつつ巧妙にPRし、既成事実化することに一役買うのが常態化している。それは“省益”になるかもしれないが、国益にとっては有害かもしれない。しかし、情けないメディアはそんな議論はしない。やはり官僚の言いなりで、記者クラブで配付されたぺーパーの通りに忠実に記事化するのである。


 例えば、"deregulation"を訳せば、明らかに「規制撤廃」であるが、なぜか日本では「規制緩和」という言葉にすり替えられてしまっている。国際会議では「規制撤廃」を約束してきても、それは日本では「規制緩和」と訳されて報道されるのだからおかしい。国際社会が実行してきたのは規制の撤廃であり、日本が求められているのも規制の撤廃である。規制を手放したくない官僚が、記者クラブで配布する資料に「規制緩和」と書くことで、体制迎合的なマスコミは簡単に操作され、何と流行語になってしまう始末だ。

 外務省。"US=Japan Structural Impediments Initiative"は、「障壁」を意味する"Impedeiments"を無視した外務省の「日米構造協議」という訳が、日本のメディアでのデファクトスタンダードとなり、「障壁を崩す」という米国の意図が伝わりにくくなってしまった。米国の意図に忠実にすべきかどうかは別として、日米で同意して決定した名称である以上、新聞は正確に訳すべきであり、“外務省言葉”を既成事実化しても、民間レベルまで日米の認識の溝が深まるだけだ。有害無益である。

 大蔵省。日債銀や長銀は、明らかに「倒産」したのに、新聞の見出しは「国有化」だった。これでは、まるで国有企業に格上げされたかのような過った印象を読者に与えてしまう。大蔵省の「国民の不安を煽らないように」などという、「国体護持」的な戦前の発想に従ったのである。「長銀が倒産」こそが、読者のためになるわかりやすい見出しであり、そうしないと経営陣の責任問題や預金者の自己責任といったビッグバンの本当の意味は伝わらないのである。「取り付け騒ぎ」「パニック」という言葉を使うなという権力側の行政指導を優先させる姿勢は、もはやジャーナリズムとは無縁の世界だ。さらに大蔵べったりの日経に至っては、「倒産という言葉は使わないように」などと現場に指導し、自己規制までかけている始末で、現場レベルではどうにもならない状況だ。

 以上の例は、もちろん氷山の一角で、情報操作は気が付かないところで日常的に行われている。要するに、ポツダム宣言での「降伏と敗戦」を、「終戦」と言い換えて国民に報道した歴史を繰り返している訳である。現在の体制迎合的な提灯報道は、負けている戦争を勝った、勝ったと報道していた戦中から本質的に変わっていない。大新聞・テレビを見る時、我々は常に、『そのニュースは記者クラブで配付された官僚が作った言葉であり資料なのであって、事実とは微妙に異なっているのだ』ということを意識していなければならないことがわかるだろう。


問題は「評価指標」

 大新聞・テレビがどうして事実より官僚の言いなりになることを優先するのか。その原因については、井沢元彦氏が歴史的観点から「言霊」説(=縁起の悪いことを言うと実現してしまうから言わない)、大前研一氏が記者クラブの締付説(従わないと除名になる)、ウォルフレン氏が社会秩序維持説(新聞の役割は秩序の維持だと編集者が勘違いしている)を唱えている。私の分析では、直接的な原因は、新聞社の評価指標にある。少なくとも日経ではそうだ。

 評価指標というのは、構成員の行動様式に決定的な影響があり、時に人間さえ変えてしまう。本人の主観から離れ、自覚症状がないところで客観的な自分ができあがっていくから恐い。例えば官僚は、予算をいかに分捕り拡大したかによって評価され、昇進する。だから岡光でも厚生次官になれる。官僚が国益を無視してでも省の勢力と予算拡大(=省益)に注力するのは当然と言えば当然で、悪いのは評価指標だと言っても過言ではない。同様に、戦後の日本企業も、例えば営業マンなら、どれだけ売上げを伸ばしたかで評価されてきた。利益に貢献したかどうかは別の問題で、粗利管理のシステムさえ満足になかった。従って、右肩上がり経済が終わった今に至っても評価指標を変えていない企業の多くは、行き詰まっている。いくら営業マンが受注しても、値引きに次ぐ値引きで粗利率が低まり、間接部門の人件費等を考えると全社では実質赤字になっているケースが多いのである。

 日経新聞の事実上の評価指標は、社長人事・合併・提携などの“前倒し”ニュースを抜いたかどうかだ。これについては社員なら異論はあるまい。とにかく、半日後には発表されるものを先に載せられるかどうかで評価され、社内の人事に影響する。例えば日石と三菱の合併報道は、発表することが決まっていた日の朝刊で報じることで、担当記者は社長賞を得た。しかし、ジャーナリズムについて書かれた書物のどこを読んでも、いずれ確実に発表される事実を早く書くことがジャーナリズムの使命だ、などとは書かれていない。ジャーナリズムの原点は権力の監視であって、従って、記者自らが調査報道をしなければ明るみに出なかったウォーターゲート事件やリクルート事件の報道こそがジャーナリズムとして最も評価される仕事なのである。社長人事や合併など、投資家から見れば有益な情報であろうが、ジャーナリズムという点では、いずれ確実に発表されるのだからわざわざ先に書く必要はないのだ。日経の評価指標は、ワイヤサービス(通信社)の評価指標としては適切だが、ジャーナリズムの評価指標としては明らかに不適切なのである。

 リクルート事件報道をやった朝日新聞横浜支局に新聞協会賞を出さなかったように、日本では業界ぐるみで、新聞のミッションに対する根本的な認識が過っている。これらの結果どうなるかというと、権力(=官僚)とは絶対に戦わなくなる。事実、日経新聞は、権力の提灯記事は多いが、権力の決定的な腐敗や問題を暴いた実績がゼロだ。官官接待の調査報道をしたのは全国の市民オンブズマン(=弁護士)であり、田中角栄の金脈を暴いたのは立花隆(=フリージャーナリスト)である。新聞記者は権力の近くにいるので薄々知っているのだが、会社がやらせてくれないし、やっても全く評価の対象にならないばかりか、やる素振りを見せたら権力に嫌われる可能性があるので、評価を下げてしまう。実際、時間もないし、やれない仕組みになっている。日経は唯一最大の経済紙として日本経済の暗部を明るみに出す役目を負っているはず(私もそう期待して入社した)だが、全く正反対のことしかやる気がないのは悲しい限りだ。

 “前倒し”記事を書くには、情報を握っている権力(社長や官僚)にかわいがられる必要がある。権力との関係を悪くすると情報を貰えなくなり、いざという時に困るからだ。例えば、証券局長と仲が悪かったら、山一自主廃業決定の確認も取れなかっただろう。だから大蔵省の提灯記事を書くことが“隠れ社是”となり高く評価され、権力を監視するような官僚や大企業から煙たがれる記事は、評価を下げるだけだから誰も取材さえしなくなる。書いて出しても、デスクや部長が却下する。そして、社会は悪くなっていくのである。日経が、なぜ大蔵省の言いなりなのか、なぜ官僚の情報操作に加担するのか、なぜジャーナリズムとは程遠い反社会的企業なのか、良くわかって貰えただろう。

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