本件の経緯

96/4 入社して程なく、あまりの旧態依然ぶりと腐敗ぶりに驚愕し、知人向けのメーリングリスト(ML)やホームページ(HP)を利用して、報道現場で感じた疑問点やマスコミ全体の問題を論じ始める。主な内容は記者クラブの実態や取材先との癒着問題など。HPは、他に「旅行記」や「書評」など、学生時代から掲載を続けていた会社と無関係なコンテンツも、約半分を占めていた。                                   

97/5 大学時代の恩師、草野厚氏がMLに入っていた関係で私の活動を知っていたため、「週刊朝日」記者に私を紹介、 記事になる。記事中では気を遣って社名(日経新聞)を伏せておいたが会社は名前ですぐに反応、部長から即日、全面閉鎖の命令を受ける。「会社に個人のページを閉鎖させる権利などある訳がない」と反論するも、「HPは許可制になった」「HPについての社内規定はないので、これから作る」「私の言うことを聞かないならば、2年後の君の人事異動で支援できない」などと言われ、仕方なく全文削除。その代わりに「会社の圧力により閉鎖中」という事実を記した一文だけを残すと「それもダメだ、全くつながらないようにしろ」と言われる。表現の自由に関する極めて重要な問題であるだけに不服だったが、報復人事を恐れ「何なら良いのか、明確な基準を会社として作って欲しい」と要請、「わかった」と言うので、従う。

98/5 全面閉鎖して一年が経過。通常業務は人並み以上にこなし、97、98年度の部長自身による業務査定は「会社の期待通り」を示す「A」。この間、問題意識は途切れず、部長やデスクには常に疑問をぶつけ、研修でも編集局長に意見する。HPについては、部長に「いつになったら再開できるか」「何なら良いのか」と折に触れ尋ねるも、議論の経過すら教えられず。今後の見通しさえ示されず、これ以上待っても進展はないと判断。個人の表現の自由を踏みにじる姿勢に憤りを感じ、さりとてカドを立てれば報復人事に遭うため、独断で再開。

99/1 何者かを通して会社がHPの再開を認知。部長は「なぜ命令に従わない」「明日はHPを閉じるまで会社に来るな」「HP上だけじゃなくパソコンにあるコンテンツまで全部消すんだ」と激怒。

99/2 17日午後、所属部長に加え、編集局総務と法務室次長が来て、3人から「懲戒免職か依願退職の2者択一だ」と脅され辞表を書くよう強制される。考える時間や外部と相談する時間すら与えられず3対1で脅迫を受ける。「上申書を書かないと確実に懲戒免職にする」と脅され「そんな訳はないだろう」との私の主張と真っ向から対立、議論は平行線をたどる。議論は8時間を超え、疲労感から思考力が低下。結局、強引に内容を数度にわたり添削され、「会社の経営方針、編集方針を害した」ことと「取材上の秘密を守らなかった」ことを謝罪し「相応の処分を受ける」とする内容の社長宛の「上申書」と、事件の経過を記した「顛末書」を強制的に提出させられる。解放されたのは深夜2時半。所要時間12時間超。早く終わらせたい、解放されたい、という一心であった。

99/3 突然、2週間の出勤停止処分となり(→証拠)、「報復人事」で取材現場を出され、3月に東京・資料部へ異動。一連の処分を、御用労組は容認、静観の姿勢。

99/8 いわゆる「飼い殺し」が続く。事務の女性と同じ資料のコピーをやらされたり、一日中、仕事もないのに座っているよう命じられるなど、悪質なイジメがエスカレート。秋の人事異動もなく、会社の悪意を確認。 組合や新聞労連に訴えるも、無力。

99/9 会社の汚い手口に憤りを感じ、報復を決意、退職届を提出する。会社側は9月1日付で「業務外のホームページ等に関する規定」を就業規則の付属規定として策定、施行。私を処分した今春以降、検討を始めていた。これにより「職務上知り得た事実」は、どんなに悪質で社会に知らせるべきものであっても、権力(=会社)にとって都合が悪ければ全て闇の中に葬られることが正式に決まった。良心の自由や表現の自由を禁じられたのと同義である。御用組合は規定の策定に全く関与していない。併せて、質問状を提出し、具体的に会社が問題としている部分について具体的な回答を求めるも、回答拒否され、このまま曖昧にしておく訳にもいかず、やむを得ず司法の場での決着を決意する。

2001/3 2年という時効を直前に控え、提訴に踏み切る。