「文学横浜の会」

 エッセー


3月「2000年Y2K」

4月「警察の不祥事とオーム問題」に思う

5月「ゴールデン・ウィーク」

6月「仕事について」

7月「頻発する少年犯罪に思う」

2000年7月


 「自然災害」

 もう昔のことになるが、実家の裏山が崩れて家屋が被害にあった事がある。 何十年に一度の長雨と豪雨だったと言う。近所もだいぶ被害にあった。 町を歩いていても、キズ跡が到る所に散見されて、自然災害の凄まじさをまざまざと見せ付けられた思いがした。

 その後、危険な傾斜地の土木事業が盛んに行われ、コンクリートに被われた町並みになった。 そのおかげかどうか、その後私の住む町ではそれ程の被害が起こるような自然災害には遭っていない。

 とは言うものの、これから先自然災害に遭遇しないとは言い切れない。 いくら土木工事を積み重ねて万全を期しても、自然の力はそんなことで抑えられやしない。 すっかり忘れた頃に、より大きな力で、我々が自然の中で生かせて貰っているのだと教えてくれる。

 こんな事を書くのは有珠山の噴火や、伊豆諸島の噴火災害の報道に接し、 テレビ画面に映し出される復旧工事の場面を目にするからだ。 被害に遭った方々には一日も早く以前の生活に戻りたいとの願望もあるだろう。 当然と言えば当然だ。噴火が収まらないのなら猶の事、一日も早く通常の生活に戻りたい気持も強いだろう。

 阪神大震災の折には、さすがに被災地を見たいと言う気持を抑えて出掛けなかったが、 雲仙岳の罹災地跡を見た時には、噴火から何年も経っているにも係らず、その凄まじさをまざまざと実感した。 一望の茫漠とした瓦礫の中に、泥流に埋め尽くされて屋根だけが見え、 ニュースで見た火山噴火の凄まじさを目の当たりにした。 このような状況では、復旧し、旧に戻すなどと言う考えも起こらなかっただろう。 人間のする土木事業など、自然の猛威の中では、所詮、赤子のようなものだ。

 東海地震を予告する論調は聞いているが、阪神大震災を予告する声は聞かなかった。 神戸では一度も地震を経験した事がなく、この地には地震はないと思っていた住民も多かったと聞く。 となると日本中が同様の大震災に襲われる可能性もある訳だ。これは日本だけの事ではない。 地球上に棲む、生きる者、生命を持つもの全てに共通して言える事だ。

 自然に逆らっては生きられないし、巨大な自然力の前では、土木事業など何程の事があろう。 自然の中で生かせて貰っている、と言う事を忘れてはいけないと思う。

(KK)


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