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21グラム /
21 g /
21 Grams / 21 Gramm

Alejandro González Iñárritu

2003 USA 125 Min. 劇映画

出演者

Sean Penn
(Paul Rivers - カレッジの教授)

Charlotte Gainsbourg
(Mary Rivers - ポールの妻)

Naomi Watts
(Cristina Peck - 建築家の夫人)

Danny Huston
(Michael - クリスティーナの夫)

Clea DuVall
(Claudia - クリスティーナの妹)

Jerry Chipman
(クリスティーナの父親)

Benicio Del Toro
(Jack Jordan - 前科者)

Melissa Leo
(Marianne Jordan - ジャックの妻)

Eddie Marsan
(John - 牧師)

Paul Calderon
(Brown - ゴルフ場の上司)

見た時期:2004年1月

要注意: ネタばれあり!

問題作。何が問題か・・・。

以前は「問題のペン」だったのが、最近は宗旨変えで「泣かせのペン」。ショーン・ペンの起こした事件などとんと聞きませんし、どうやら映画に自分の道をきちんとみつけたようです。いいかげんでない賞にノミネートされる常連となり受賞も多数。オスカーゴールデン・グローブだけまだかと思っていたら、ゴールデン・グローブは今年受賞。ついでと言ってはなんですが、オスカーも取ってしまいました。今や超大スターです。特に今年はペンの年。

プエルト・リコの良家のぼんぼんのはずが、映画界では長期下積み、ユージュアル・サスペクツでブレークしてからは順調で、現在に至っているベニシオ・デル・トロ。すでにオスカーをものにしています。ブラッド・ピットと似ているなあと思う時もあるのに、目の下の隈が見えるためか、二枚目では売り出さず、性格俳優の道を選択。渋くなってきています。21 g でも渋い役。

有名人に属する人を父親に持ち、下積みの長さではデル・トロよりさらに上を行き、ブレークも遅かったのがナオミ・ワッツ。ニコール・キッドマンとは仲がいいとかで、売れない時は励まされたのだそうです。そのせいか、顔の作りは結構違うのですが、表情がキッドマンのコピーのように似てしまいます。演技はと言うと、マルホランド・ドライブでブレークしてからどっと仕事の話が押し寄せたらしく、片っ端から引き受け、大忙し。演技の練習をしている暇もないのでは・・・ルーシー・リウと同じ状況か・・・などとかんぐってしまいます。しかし売り方はルーシー・リウとはやや趣きを異にし、はっきりセックスを売り物にしています。ブレークしたマルホランド・ドライブにはあまり意味のないシーンが入っていたなと思ったのですが、21 g ではもう1歩踏み出したようです。ジャネット・ジャクソンの事件があったため、21 g がお茶の間の午後10時以前のテレビに流れることは当分ないでしょう。ま、21 g がお子様向きの映画でないことは最初から分かっているので、改めて問題になることもないでしょう。

21 g という変なタイトルは映画の中で説明があります。人は死ぬと、その直前と直後で21グラム体重が違うのだそうです。減ってしまうのです。それは肉体から去っていく魂の重さなのだそうです。本当かなあ。

では問題の話に入りましょう。世界中猥褻なフィルムは映画館で禁止や制限を受けるのが普通ですが、国によって制限の仕方が多少違うようです。日本で は毛が重要視され、見えたとなると政府のまじめなお役人が飛んで来て、ぼかしてしまうか鋏でばっさり。大島渚監督がそれに対抗して長期裁判をやっていまし た。私はあの映画、軽くベルリンでクリア。ポルノ館とか成人映画専門店でなく、インテリが行く普通の映画館で見てしまったのです。お世辞にも品の良いシー ンではありませんが、別にあったって無くたっていいじゃないのという感じでした。ポルノと違ってそのシーンがストーリーの中に溶け込んでいました。

ドイツではいつの頃から法律がそうなったのかは知りませんが、毛なぞが見えても官憲は騒ぎません。問題になるのはもっと別な事。男性の場合問題の部分が積極的に活動中かどうかが判断基準になり、活動中の場合は厳しく年齢制限が決められます。まず18才以下の人は見られません。またストーリーに必然性の無い、言わばああいうシーンを出すためにお粗末なストーリーを後から考え出して作られた映画はポルノと呼ばれ、特定の店の特定のコーナーでしか売らない、特定の館でしか上映しないシステムになっています。ご存知、ソフト・ポルノとハードコアという分類があります。

ドイツで1番有名なポルノ映画会社はベアーテ・ウーゼと言い、1919年生まれの女社長ベアーテ・ウーゼが商才を発揮し、長い間業界トップを行っていました。社長は2001年亡くなりましたが、会社はまだあり、セックス博物館なるものもベルリンの目抜き通りにあります。こういう映画、こういう場所は18才を過ぎていてお金を払えばOKです。これが「特定の」場所です。

女性の場合は普通の映画に出て来る裸シーンですと、普段はあまり問題になりません。きっと「あれは絵だ」とみなされているんですね。男性と組んで積極的に活動中ですとやはり男性共々特定のお店行き、年齢制限の憂き目に遭います。(男性の場合は同じシーンに共演者がいようがいまいが、本人の特定部分が活動中ですと普通の映画ではNGが出ます。)女性で完全にだめなのは普段見えない部分をわざと見えるようにしたようなシーン。これですと即お縄・・・でなく、特定館行きになります。女性は一般公開される映画の場合、「このシーンが出たから成人映画扱い」というはっきりした規則は無いものの、胸の先の方がやけに元気そうに見えると眉をひそめる人が続出します。ジャネット・ジャクソンがきわどいところでアクセサリーをつけていたのは賢明でした。でないとスキャンダルはもっとひどいことになっていたでしょう。単にそこが見えては行けないというだけの話ですが、社会の規則というのはそういうもの。世の中のすべての人が共通に持っている体の一部でも、一般大衆に公開しては行けないというのが現在の規則です。そう言えば今から100年ほど前には町で女性の脚が見えると大騒ぎでした。70年ほど前ですと、舞台ではいいことになり(ドイツ)、40年ほど前では膝より上が見えても通りを歩けるようになりました。男は随分前から上半身裸でその辺をうろついていても構わないですが、女性はまだ上全部無しというわけには行きません。規則というのはそんなものです。

映画界はいつの間にか18才とか、セックス・シーンなどで分野が分けられ、ハードコアに登場する人は一般映画館で上映される作品とは一線を画していました。時たまそれを破る俳優がおり、一般映画にも登場します。例えばロン・ジェレミーはその道の巨匠。15ほど芸名を使い分けて800を越える作品に登場した元教師。監督作品も100を越えています。しかし一般映画に登場する時は着衣のロンで、まじめな顔で出て来ます。ロンの業界ライバル、ロッコ・シフレディーの方は8ぐらいの芸名を使い分け、200をやや越える数の作品に出演しています。監督の方は50ちょっと。彼は一般に公開される作品でも本職と同じ事をやることがあります。フランスのロマンス X に登場し、セックス付きでちゃんとした演技をしているのを見たことがあります。これは珍しいボーダーラインの例ですが、普通はポルノとそれ以外の映画は分けられていると言えるでしょう。

そういう事情を考えてみると、ナオミ・ウワッツはドイツの世間のリミットをちょっと踏み外したかというシーンがあります。センセーションにはなりませんでしたが、インタビューではバッチリ聞かれていました。共演はショーン・ペンで、彼も全裸で出て来ますが、後ろ向け。この程度ですとドイツでは問題にもしても貰えない普通のシーンです。見ていて惚れ惚れするような体でもなく、病み上がりの中年大学教授、肉体的には普通のおっさんの役ですから、これでいいのです。ま、ワッツとのシーンは大人向けの濡れ場で、別にあっても無くてもいいシーンですが、ストーリーに溶け込んでいます。ペンがワッツに惚れ込んでいるのかと聞かれるとちょっと答に詰まりますが。

じゃ、大人向きの映画かというと、筋はまあ一般向き。撮影方法などはややドグマ映画風で、大人の映画ファン向き。共演のペンとデル・トロは大人向き の演技。そこへ登場するワッツだけがどういうわけかティーンエージャー風。彼女は現在35才。ティーンではありませんが、あまり大人の女性という感じでもありません。演じているのは2人の子持ちの中産階級の主婦。役の割に大人っぽく見えないというのは共演のシャーロッテ・ゲンスブールにも言えます。「映画界では女優は若く見えないとだめだ」というのはメリル・ストリープですら嘆いていることですが、35才が35才に見えて何が悪いんでしょう。共演のメリッサ・レオの方が普通です。彼女はデル・トロのくたびれ切った奥さんの役。苦悩中の女性が元気溌剌、フレッシュな視線でカメラを睨んだら変です。ワッツはこの作品ではオスカーにノミネートされてしまい、私は首を傾げてしまったのです。胸を出したらオスカーというのではオスカーは品を落としてしまいます。体当たり演技で審査員がなびいてしまうほど世間知らずの投票者はいないはずですが。

作品の出来は一応「問題作」。これでも一応誉めたつもりなのですが、私には問題作に見えるように上手に計算されていて、ペンやデル・トロはワッツを引きたてるために一見演技派のように振舞っているだけに見えてしまいました。この2人は気合を入れて演技すれば凄い作品がそれぞれ1人でも作れます。手を抜いているように見えては行けないので、ちゃんとやるべき仕事はやっていますが、どうも今一つ勢いが乗らない感じです。カメラはわざと粗めに撮っていてドキュメンタリー風の地味な撮影です。これは作品の雰囲気を出すのに寄与しています。編集は壊滅的で、メメントパルプ・フィクションを見過ぎた人が担当したのでしょう。ストレートに撮ってもちゃんとサマになるストーリーをつぎはぎして、観客は物語の冒頭に主人公がぼろぼろになっていたのか、あるいは最後にぼろぼろになっているのか、途中で血を見るシーンはどこに繋がっているのかを考えるのに忙しくて、「3人の運命やいかに・・・」という肝心の点に集中できません。この編集者にはラジー賞をあげたい。

このつぎはぎのおかげなのか、私はペンが教授の役をやっていたということに気付かず、一緒にいたもう1人はペンとゲンスブールが夫婦だったという事に気付かないありさま。ですから私はペンがどうやって心臓移植などという値段の張る手術ができ、その後家でぶらぶらしていられるのか訝っていたのです。家に戻って来てからゆっくり考え直してようやく分かったストーリーというのがこれです。

見る予定の人は退散して下さい。目次へ。映画のリストへ。

ペン演じる数学の教授(に見えない!芸術史か文学にしておけば良かった)ポールは心臓移植が必要な病人。助かる見込みは非常に少ないので夫人のマリーは余命幾ばくもないペンの精子を保存して子供を産みたがります。彼女は妊娠が難しいたちなのですが、現在医者にかかって治療中。

ある日偶然デル・トロ演じる更正した前科者ジャックが轢き逃げ事故を起こし、ワッツ演じるクリスティーナの家族全員を殺してしまいます。過失致死ですが、現場から逃亡したので今では重罪。誰も彼が犯人だと気付いていないので、妻のマリアンネは黙りたがりますが、狂信的なキリスト教徒のジャックは「神がこの試練を望まれたのだ」と言って自首します。ジャックはアルコールとも麻薬とも手を切れたのは宗教のおかげだと思っているので、モラルだけはしっかりしています。妻の方はこれまでも夫の色々な前科で苦労して来ている上、子供が2人もいるので、稼ぎ手が刑務所に入ってしまっては困る。演じるメリッサ・レオには説得力があります。結局ジャックは自首し、服役します。

手術が行われ、ポールは体は弱っているものの自由に歩き回れるようになります。それまでは呼吸を助ける機械を背負いこんで、家に釘付け。当然と言えは当然の好奇心が起き、「自分に心臓をくれたのはどんな人だろう」と調べ始めます。そこで分かったのがクリスティーナの家族が一瞬にして死んでしまったこ と。ストーカーのように張り込みをしてクリスティーナの様子を探っていますが、ある日彼女と知り合うチャンスができます。家族の死後引きこもってしまったクリスティーナに対しやや強引ですが、常識を逸するような行動ではありません。未亡人だと知っているので彼女を守ってやろうという気が起きて来ます。家では妻マリーとの間に隙間風が吹き始めています。

ポールの心臓は拒否反応が起きたのか、あまり調子が良くありません。医者からもう1つ心臓が必要だと言われます。それで決心。

  1. また以前のよ うにケーブルだらけにされて病院に閉じ込められるのは嫌だ
  2. クリスティーナの希望をかなえてやろう
  3. 死ぬべきなのだったらやる事をやってはっ きり自分でけりをつけよう
というわけです。

クリスティーナは過去とまだ上手に縁が切れず、新しい生活に踏み出せずにいます。コカインを取ったり(やたら説得力のあるシーン)、変な錠剤を取ったり、アルコールに走ったり。ジャックを殺せばクリスティーナも吹っ切れると考えたポールはピストルを手に入れ、ジャックを殺しに行きます。大学の教授がこんなに短絡でいいのか、と考えたのは見終わって、ペンが教授だと知ってからですが、職業が何であれ短絡は短絡。余命幾ばくもないということを根拠にしているんでしょうけれど。

親切な人に出会ったと思っていたクリスティーナはポールが正直に知り合った事情を打ち明けたので半狂乱。しかし後で自分の孤独に気付きやや心を許します。愛情でなく、同情で付き合ってくれていたのかと感じる時女性は大いに失望するでしょう。しかし楽しかった家庭生活が一瞬にして吹き飛びその後独りというのはさびしい。誰かが親身になってくれるというのはありがたい。と、ここまでは時たまありそうな話です。しかしそこに自分の家族から取った心臓を胸にはめて生きている男がいる、となるとこれはホラー映画に近くなり、クリスティーナの半狂乱も理解できます。ここの所脚本はまあ上手くできています。ただワッツの半狂乱ぶりがお粗末。ま、その辺は目をつぶる寛容なペン俳優。妻とはもうだめだと悟ったポールは彼女と恋人に。ジャックを殺しに行くことをポールから事前に知らされていたクリスティーナですが、ポールは人並みのモラルを持っているので、怒りは示せてもジャックを殺せませんでした。

ジャックは教会に行くようになってから自分のやっている事が理解でき、3人を殺したという事の重みを感じています。ですからポールやクリスティーナに殺されるのもありと考え、ポールに殺されそこなった直後2人の所へ話をつけに乗り込んで行きます。そこでもみ合いになり、銃が発砲されますが、それはいよいよ拒否反応で死期が迫ったことに気付いたポールが自分を撃ってけりをつけようとしたためで、ジャックを殺そうとしての事ではありません。この辺の混乱を撮影したフィルムを、ずたずたに切って、トランプのように混ぜ合わせ、つなぎ直したため、筋を理解する上で困難を極めます。まだフィルムをつなぐ時に上下逆さにしなかっただけありがたいですが、それでも大きな問題。・・・やはり問題作だ。

ポールは大怪我をして病院に担ぎ込まれます。ジャックはこのゴタゴタの頃妻が大金を弁護士に積んで釈放されていました。過失致死か何かで話がまとまった様子。ゴタゴタの直後ジャックは「自分がポールを撃った」と証言して捕まりますが、ポールとクリスティーナが本当の話をしたので釈放。ジャックは自分の責任を罰してもらいたくて服役したのですが、奥方に引っ張り出され、内心代替の刑を捜し求めていたかのようです。しかし司法はジャックに釈放に値する理由があれば釈放。ジャックの理屈「俺は3人も殺して、クリスティーナの生活をめちゃめちゃにしたんだ、だから何でもいい、バツが必要だ」というのは裁判所では通りません。警察も嘘をついて服役したがるお客さんにはお帰り願うしかありません。

その後ポールは再び病院で色々な器具に縛り付けられる生活。クリスティーナはようやく恋人ができたのに、次の心臓が来なければまた独り。しかしポールの子供を妊娠しています。マリーはポールとの子供を欲しがっていたのにポールからは別れ話を持ち出され、結局別離。彼の精子で妊娠する決心ですが欧州に帰ってしまいます。下手をするとポールは死に、彼の子供が2人生まれます。これを希望と見るべきなのかはその人の解釈によるでしょう。

この作品の特徴は嘘吐きやいいかげんな人間でなく、モラルを持ったり、正直な人間ばかりが出て来て、そこへ監督がこれでもか、これでもかと問題を提示するところ。いいかげんな行き方をしている人は1人として出て来ません。しかし皆が暗く、笑顔はうっすらと曇り空にぼやけた日が差す程度にしか登場しません。それも長く続かない。

ジャックは感心なことに酒もドラッグも止め、クリーン。大した金にならない肉体労働でも家族のために頑張る気でいます。しかし贅沢に慣れたゴルフ客が「刺青をしたキャディーは嫌だ」と苦情を持ち込んだため首。上司も彼を雇っておきたいのですが、無理をすると自分も首。しかしジャックはそれにめげず、悪事には手を出しません。子供のしつけも彼なりにきちんとやろうとします。しかしここでも問題だなあと思ってしまったのが彼の狂信ぶり。神一直線なのです。これまでアルコールが入っていた所、麻薬が入っていた所に神がドーっと入り込んでしまったのです。戒律の厳しいカソリックの人でも、「人生は全部神」とは思っておらず、時々チラッとインチキをしては、後で懺悔に通うのが常。しかしジャックは妥協なし、ガチガチで、「人生はすべて神が決める事」と自分で決めてしまったのです。デル・トロの狂信演技は上手い。

私にはよく分からない問題がさらに1つ。仲のいいカップルでたまたま子供がすんなり作れない場合は人工授精とか、代理妻とか色々な技術も恵みと言えるでしょう。しかしこの作品では何のために子供を作るのか分からなくなるシーンが出て来ます。だめになりかけているカップルを「子供さえいれば」という意味で持ち直させるために妊娠したがったのかと最初は思いました。マリーは死にそうなポールをけしかけて精子を保存させます。ところがポールは手術前も、後も自分たちの夫婦には中身が無いと悟り、別れる決心をします。遂に数日家を空けたポールにマリーの方もこれまでと悟り、欧州へ帰る決心。荷造りを始めます。ところが子供はそれでも産む気なのです。私の時代は親が熱烈な恋愛結婚でという時代ではありませんから、お義理で結婚した人、習慣に従って結婚した人などが多いです。しかし一応長持ちし、子供も一人っ子でなく複数。兄弟喧嘩もしますが、それなりに安定した中で楽しく成長して来ました。現代では離婚率も当時では信じられないぐらい高く、子供は一人っ子がどんどん増え、それに加えてシングル・マザーも急増。家庭というのは永遠に保たれる組織ではなくなっています。経済的には何とかやっていける人もいますが、ドイツでは80年代、90年代と子供にかかる費用を国がたくさん出していたから成立した生活で、子供を預ける託児所が閉鎖されたり、子供用の補助金がカットされたりすればイチコロ。その土台の脆さに気付いていない人が大半でした。男性からがっぽり養育費を取るという方法もあったのですが、その男性が失業してしまったらやはり土台は崩れます。マリーが1人で欧州に去り、子供を作ると言った時、私は将来のトラブルを見たような気がしました。

というわけで暗い、暗い映画で、あまり大きな夢も希望も無く終わります。ポールが助かるためにはまた1人誰か死ななくてはならないのです。クリス ティーナが無事子供を産み、明るさを取り戻すためには、ポールが助からなければならないのです。ジャックがまともになるためにはポールとクリスティーナとの知人関係を築いた方がいいように思えますが、ポールが死んでしまったら、クリスティーナは1人で子供を抱えてしまい、ならず者風のジャックと口を利くのは不安でしょう。私にはふとポールが助かり、クリスティーナと結婚し、子供ができ、ジャックを庭師か車の世話などの仕事で雇えば皆がどことなく支え合えるように思えたのですが、監督はそういう甘い夢は見させてくれません。

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