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中を飛ばして見たサイコロ

キューブ / Cube

1997 Kanada 90 Min. 劇映画

Vincenzo Natali

出演者

Nicole de Boer
(Joan Leaven - 数学の学生)

Nicky Guadagni
(Helen Holloway - 医師)

David Hewlett
(David Worth - 建築家)

Andrew Miller
(Kazan - 自閉症の男)

Julian Richings
(Alderson - 最初に死ぬ男)

Wayne Robson
(Rennes - 逃亡者)

Maurice Dean Wint
(Quentin - 警官)

見た時期:1998年8月


Cube 2: Hypercube /
Cube²: Hypercube /
El Cubo 2 /
Il Cubo 2: Hypercube

2002 Kanada 95 Min. 劇映画

Andrzej Sekula

見ていない


Cube Zero /
El Cubo Zero /
Cubo Zero

2004 Kanada 97 Min. 劇映画

Ernie Barbarash

出演者

Zachary Bennett
(Eric Wynn - キューブの監視員)

David Huband
(Dodd - キューブの監視員)

Tony Munch
(Owen - キューブの監視員、体調を崩して欠勤中)

? (Chickliss - キューブの監視員、休暇中)

Stephanie Moore
(Cassandra Rains - キューブに閉じ込められた女性、政治運動家)

Alexia Filippeos
(Anna - カサンドラの娘)

Martin Roach
(Robert P. Haskell - キューブに閉じ込められた男性、キューブ組織の傭兵)

Mike 'Nug' Nahrgang
(Meyerhold - キューブに閉じ込められた男性)

Terri Hawkes
(Jellico - キューブに閉じ込められた女性、過去に医療活動の経験があるらしい)

Richard McMillan
(Bartok - キューブに閉じ込められた男性)

Michael Riley
(Jax - 監視員の上司)

Joshua Peace
(Finn - ジャックスの部下)

Diego Klattenhoff
(Quigley - ジャックスの部下)

Dino Bellisario
(Smith - 新しいグループの犠牲者)

Sandy Ross
(Chandler - 新しいグループの犠牲者)

Ashley James
(McCaw - 新しいグループの犠牲者)

見た時期:2007年7月

★ キューブは全部で3作、監督は3人

カナダが国益をかけて制作した・・・のかは分かりませんが、意地でも3作通しでカナダ製にしたのかも知れません。1作と3作を見る限り不要な大金はかけずに撮影されています。それでいて出すべき効果は十分出ているという物語中心の作品です。

最初は続編を作る予定ではなかったのかも知れません。1作目の名前は単に キューブ (Cube) といいます。2作目は Cube²: Hypercube というのですが、私は見ておらずストーリーは良く知りません。

Cube Zeroキューブより前の出来事を描いているため Cube Zero という名前になっています。ストーリーを書いたのは Cube Zero の監督自身で、全体を通して不条理に見えた謎にそれなりに納得の行く説明をつけています。 Cube²: Hypercube で脚本を書いたそうです。

Cube Zero の監督は天才カナダ人のナタリという人で、長編デビュー作がファンタに来たため一般公開前に見たのですが、いかにも低予算という感じ作品で、まだカナダが今ほど映画の国という定評になっていなかった時期です。見劣りがするという意味ではなく、よく限られた予算でここまで作ったと感心しました。ホラー映画として冴え切っていました。ドイツではゲバルト・ポルノ(過剰な拷問、暴力、苦痛を盛り込んだ作品。最近のドイツでは下品、あさましい作品にそういう名前がつけられるようになって来ています)と呼ばれるソウに比べ、キューブはカフカ的不条理も含めあれこれ考えさせてくれる作品だったため劇場公開は短かったですが、映画好きの人たちの間ではカルト的な存在になっています。Cube²: Hypercube は出ましたが、最初の作品ほどの評判にはならず、確かファンタには来なかったと記憶しています。

Cube²: Hypercube ですでに監督が変わっているのですが、Cube Zero も別人。ナタリ監督の方はカンパニー・マンナッシングがファンタに来ています。Cube Zero の監督はキューブに繋ごうと色々工夫しています。それで Cube²: Hypercube は見ていない私でも話について行けました。

★ キューブCube Zero はストーリーがきっちりつながる

キューブをご存知無い方と話をするのはちょっと難しいので、ざっとご紹介しましょう。不条理な世界で起きる出来事で、理にかなった説明は省かれています。ドイツ人が好むミニマリズムですが、ドイツ人自身が映画でやると失敗することが多い分野です。それをこのカナダ人監督は軽くやり遂げてしまいました。その後に作ったカンパニー・マンは失敗作というのが私の感想ですが、その後に来たナッシングはまたミニマリズムの成功作と考えています。そのナタリの記念すべき長編第1作目です。

ある日ある人が目覚め、縦横高さ数メーターの立法体の部屋に入っていることに気付きます。前後左右上下の6方向にハッチのようなドアがついています。部屋の中には他に誰もいない・・・。1人きりで6箇所にドアのある部屋に閉じ込められています。軽い服装にドタ靴。持ち物は全て失われています。泣いても叫んでも何の反応もありません。始めのうちは・・・。

90分全体を見ていると自力で隣の部屋に行く人、誰かが来るまでその部屋にいる人の2通りあるのが分かります。いずれにしろ他の人と出会い、自分たちの境遇を話し合います。閉じ込められていることだけは事実。しかしなぜ自分たちがここにいるのか、どうやったら外に出られるのか、そしてなぜ難関があるのかは分かりません。議論を戦わせても一致した結果にはたどり着けません。ここから逃げて外に出たいという点では意見が一致します。数人が合流。皆は徐々に他の人の能力を知り、協力をするようになります。

せっかく対立を止め、妥協したりして進んで行っても途中で犠牲者が出ます。難関というのは罠のことで、大丈夫だと思って次の部屋に入って行くと命を失うようなトリックがあり、死者が出ます。1人減り、2人減り、出口にたどり着いた人はごくわずか。そして話が終わっても一体なぜこんな施設が作られたのか、そしてなぜこの人たちが中にいたのか、そして出られなかった人たちはなぜ残酷な方法で殺されなければ行けなかったのかは分からないままです。

★ Cube²: Hypercube を飛ばしているので辻褄が合わないかも知れない

★ Cube Zeroキューブそっくりのオープニング

キューブCube Zero が違うのは中に閉じ込められている人だけではなく、その人たちを監視している人たちも冒頭から登場する点です。これによってキューブの不条理の1つに説明がつきます。いきなり Cube Zero を見た人のために冒頭1人の男をだしにしてこの立方体の構造と話の進み方を紹介しています。

まだクレジットが出ている段階でキューブの管理室と思える場所の監視員の様子を見せます。薄暗い場所で2人の男がチェスをしながら仕事をしています。うちの1人ウィンは天才でチェス本体を見なくても頭の中で次の手を思いつき、友達のドッドに口頭で伝えるだけ。軽く勝ってしまいます。彼のもう1つの特技は漫画を描くこと。仕事にはあまり熱心ではありません。ドッドは規則に忠実な男で、信心深く、食事の前に神に祈ったりします。もう2人監視員がいるのですが、1人は休暇中、もう1人は病欠。

上からの命令で新しい仕事に取り掛かります。そこで登場するのが若いカッサンドラという女性。彼女の記憶をいじる時に、彼女が散歩中にどこかで襲われ拉致され、娘が1人いることが分かります。襲った男たちは黒装束でキューブを運営している団体のロゴを刺青しています。監視員の会話の中で2人の置かれている状況もざっと説明されています。ドッドは周囲の状況に従順な適応型、ウィンは何事にも疑問を持ち答を探すタイプ。

キューブの中では目を覚ましたカッサンドラが状況を把握しようと試みます。次の部屋に移ってそこにいた4人と知り合います。皆カサンドラ以上に記憶を失っており、キューブのシステムに少し気付いています。一定の方向に進むと最後のキューブにつき、出口があるらしいのですが、進む時に次の部屋が安全か確かめずに行くと残酷な死が待っています。危険な薬品をかけられたり、鋭い刃物で突き刺されたり、電気を使った罠だったり、細く固いワイヤーでぶつ切りにされてしまったりと、ショッカーというジャンルに相当する恐ろしい死に方をします。怖さはそれを目の当たりにする残った人たちで表現されます。食べ物も飲み物も無いので、安全なキューブを見つけてもそこにじっとしているとゆっくり死が訪れます。

カッサンドラが加わったばかりのグループからは早速1人犠牲者が出るので、また4人になってしまいます。しかしキューブの時と同じく1人が部屋のナンバー(Cube Zero ではアルファベット)のシステムに気付き、安全な組み合わせを見つけられるようになります。

番狂わせは監視室の方から起こります。ウィンがカッサンドラの書類に目をやり、同意書が欠けていることに気付きます。どうやらここに収容されている人たちは何かに同意しているらしいのですが、カッサンドラのファイルにはそのサインがありません。彼女は政治犯で本人の同意無しに強制的に収容されているらしいことが分かります。

ウィンは彼女に恋をしてしまったのか、あるいはモラルに催促されてか、救出に向かいます。管理室からエレベーターに乗って下へ降りると自分もキューブの中へ。彼はチェスでも手を何十も先まで読めるので、キューブの中でも比較的楽に進めます。目的があるためかあまり恐れていません。ウィンは間もなく2人に減ったグループと合流。カサンドラに娘の行方を聞かれた時に見せた漫画に描かれている女医はちょっと前に死んだ女性とそっくりです。

ウィンの説明によると部屋の一辺は25部屋からなり、移動可能な部屋が2つあります。アルファベットのZになっている部屋が出口。しかしそこから正攻法で出ようとすると次の罠があり、別な方法を探さなければならないということ。

4人の従業員のうち残っているのはドッド1人。ウィンが消えた後、上の人間が問題処理のためにやって来ます。その3人はウィンたちが系統的に出口を探す段階に入ったことを知り、手がかかりになる部屋のアルファベットを消してしまいます。そうやって追い詰められて行くウィンを見て、管理室のドッドはこれまでの姿勢を止め秘密裏にウィンを応援し始めます。ハードウエアに妨害を加え、キューブ全体がリセットされるように追い込みます。するとその間10分間は罠が機能しません。10分で逃げ切れないと全員死にます。

終盤これまでのコンセプトに比べ稚拙な設定に変わり、死んだはずの男が行き返り残った2人を襲って来るシーンがあります。ここだけ取って付けたようで全体に合いませんが、最後の希望が見え、時間ぎりぎりの所でさらに妨害を受けるというスリルを出そうと試みたようです。結局最後の2人は外へ出るのですが、その後の展開がむなしい気分を起こさせます。ウィンはカッサンドラを助けるために自分を犠牲に。自分はつかまって未来世紀ブラジルの最後のサムのシーンのようになります。そのために彼女が娘を発見して助かったのかは分からないままです。ウィンは当然のことながらキューブに放り込まれます。記憶はかなり消されていて、自閉症的になっています。

★ 見た時期によって評価が変わる

私がキューブを見たのは制作の翌年のファンタ。ベルリンのファンタに参加した作品で、私の評価は高い方です。特殊撮影がどんどん使われ、映画制作の予算がどんどん上昇する中で、かなり地味なセットを使い、画面のこけ脅かしが無く、観客も一緒になって不条理の世界で考えるように作られた作品でした。パズル的なおもしろさも加わり、時たま飛び出すショッカー風の恐怖シーンも、ファンタ全体の中で珍しいタイプだったので、嫌だという気はしませんでした。冒頭の切断シーンはかなりなインパクトを持っています。

もし私が今キューブを見たら嫌悪感を持つでしょう。嫌悪と言うより、本気で怖がってしまうと思います。1998年と言えば厳しい言葉で言うと惰眠を貪っていた時期。世の中は不景気だと言いながらまだのんびりとしていて、ドイツの首相も前の前の人でした。この首相は国民に安定感を与えるのが最重要と考えた人らしく、実際にはかなり大変な時期を乗り越えようとしていたらしいのですが、外には太目の容姿が幸いしてかのんびりした印象を与えていました。対立政党からはバンバン叩かれていましたが、タフでいくら叩いてもへこたれないような印象を与え続けていました。そのためか、あるいは現実がまだそこまで危機に瀕していなかったのか分かりませんが、とにかく国民は首相に任せておけば大丈夫みたいなスタンスでした。

アメリカであの物凄い事件が起きたのは次の首相になってから。そして中東で戦争が始まったのがその2年後。ですから私自身まだ比較的のんびりしていました。当時はまだ仕事もあり、世の中の事について考える暇が無かったというのも現実の一角の事情です。ですからショッカーと呼ばれるようなインパクトの強い作品を見てもあまり自分が怖くなるということはありませんでした。

★ ゲバルト・ポルノ登場

時々ドイツでゲバルト(暴力)・ポルノと呼ばれるタイプの作品が出るようになったのはアメリカの大事件、中東の戦争の後です。初めて私の目に飛び込んだのはアルジェントのデス・サイトで、2004年の作品です。見たのは2004年の春のファンタソウは2004年制作で見たのはその年の夏のファンタ。私はホラーばかりを見ているわけではないので、この見解が正しいかどうかは分かりませんが、ソウ以降こういう作品が爆発的に広がったような印象を持っています。

改めて Cube Zero を見るとゲバルト・ポルノの影響かと誤解しそうな残酷なシーンが続きますが、実は Cube Zeroキューブの伝統をクラシックに継承しただけではないかと思います。キューブは1997年に作られており、デス・サイトソウが登場するまでにかなりの間が空いています。

ソウの監督がキューブからヒントを得るとか影響を受けるという事は考えられますが、キューブがゲバルト・ポルノを広げようとしたとは見えません。両作品の間の数年にこの種の作品が(私の知っている範囲では)ほとんど見られません。

Cube Zero は一種の心理的拷問のように思えるのですが、暗い映画館に座っている観客を怖がらせるだけが目的で作られたのではないらしく、中で描かれているシステムに協力する人たちへの再考を促すような側面があります。取って付けたような屁理屈、言い訳ではないだろうと思える重量を持っています。3作目でこういうオトシマエを付けることができるようにと計画したのではないかも知れませんが、1作目の落ちがオープンになっていたおかげで Cube Zero の監督がこういう風に持って行けるようになっています。

その点ソウやその後続々と現われた意味も無く人を怖がらせるだけのホラーに比べ一目置いてはいるのですが、私を感覚的に襲った恐怖は結局ゲバルト・ポルノと同じぐらい大きかったです。Cube Zero は悪い作品ではないです。人物の描き方にかなり気を使ってあり、ただの頭のおかしい男が若い女性をとことん拷問などという趣味ではありません。ウィンとドッドが管理室で交わす会話とドッドとジャックスの会話には監督の方針がはっきり示されています。にもかかわらず私はすっかり怯えてしまいました。俳優は観客から共感を得るにふさわしい演技を見せていて、俳優が意地悪く観客を怖がらせようとしたのでもなければ、監督がそういう演出をしたのでもありません。結局は受け取る側の観客の心理状態が1998年に比べ遥かに不安定になったということなのだと思います。上に挙げた大事件に関連してずいぶんたくさん信じられないような話がメディアを通じて流布され、一般人でも今恐ろしい時代に入ったと感じています。そこへ登場したため Cube Zero の描く怖さが身近になってしまったのだと思います。くわばらくわばら。

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