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  1. 掲示板って…? 01.11.1999
  2. 卒業論文って…? 01.11.1999
  3. 今の日本の教育と昔の中国の教育 01.11.1999
  4. 東洋史と中文 01.11.1999
  5. Forza Ferrari! 07.11.1999
  6. Mooreの死亡事故 07.11.1999
  7. Ganassiもかわいそうに 13.11.1999
  8. コロネルと本山 28.11.1999
  9. ちょっと…くどいかなあ 28.11.1999
  10. 第3ミレニアムの始まりと21世紀の始まり 30.11.1999 附記24.12.1999
  11. 大阪府は変わるのか? 26.12.1999
  12. 「これ間違いちゃう?」列伝 13.01.2000

掲示板って…?

 掲示板(BBSって言うんだっけ?)って何のためにあるんでしょう?友達同士のコミュニケーションのため?新しいビジターがメッセージを残しやすくするため?
 Ericは人のHPにある掲示板によく書き込みをしますが,友達同士のコミュニケーションとして掲示板を使うのには,使い方にも依るけど,疑問があるんです。友達同士のちょっとしたおしゃべり,もちろんネット上の友達とお話しするのは大切なこと。 でも,掲示板の存在が逆にコミュニケーションの幅を狭めてはないかと。掲示板の内容は基本的に公開,すると,コミュニケーションが自然と浅いものになってしまうんじゃないかって。
 掲示板を付けることがステータスのようになってますけど,掲示板を付けた最初の頃ってよく知ってる人からのメッセージが大半を占める。HPが軌道に乗れば,知らない人との出会いの場ともなるのでしょうが, よく知ってる人とのおしゃべりの部分は続いて行くわけで…。それを楽しめるかどうか,全てはそこにかかってくるのかも知れないけれど。HP上のEric Prostは,Eric Prostであり, それでいて本名の某甲(名前を隠すときに用いる語句)の分身でもあるわけで,Eric ProstがNet上で一人歩きしてしまうのはどうかな…とも思いますし。
 EricはこのHPで何を表現したいのか?それは,まだ見ぬNet上の友にメッセージを伝えるため,そして,自分を表現できる「場」を作るためです。
 逆に,皆さんはこのHPに何を求めているんでしょう?掲示板があったとして何を書くんでしょう?掲示板がないHPをどう思うんでしょう?
 Ericは掲示板を付けたいと思っているのか?実は,この答えは「No」なのです。 だから,このHPでは自分の気持ちに正直に,「掲示板は付けない」方針で行くことにしました。
 掲示板を付けない代わりにと言っては何ですが,このHPの作成者Ericに対してのメッセージはメールで常時受け付けております。皆さんどんどんメールをお送り下さい。 できる限りの範囲で返事もしたいと思います。
 雑論の締めとしては変な形ですが,みなさん,今後ともよろしくお願いします。

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卒業論文って…?

 何か「〜って…?」というのが続いていますが,雑論なので良しとして下さい。
 Ericは今,卒業論文なるものと格闘しています。Eric等文学部生にとっては卒業論文は書かなければならない儀式のようなものです (経済学部生や法学部生に必修のゼミがあるように)。それに,卒業論文は, 自分が今まで学んできたことの集大成として作成されるものでありますから, 思わず真剣になってしまいます(そんなことを言ってるのは大学院志望のEric位?)。
 で,真剣になるならないに関わらず提出される卒業論文。 1年にどれくらい新しい卒業論文が発表されるのでしょう? そして,その卒業論文の学会における位置付けは?
 Ericの通う学部だけでも1年に約130本の論文が提出されます。 これが全国レベルになると…文学部だけでも1万以上?
 で,これらの論文は学会においては…ほとんど意味無し。 せいぜい指導教官の研究の下地に味を付ける程度(まあ,当然ですね)。
 じゃあ,我々卒論を書く人間はどういう論文を書くよう努力すればいいのでしょうか。
 ここからはあくまでもEricの私論ですから,正しいかどうかは別の話です。 でも,1つの視点として認識して下されば幸いです。
 卒業論文は自分の大学生活, 引いては自分が教育を受けてきた過程全ての集大成であると言えるわけです。 ですから,自分が興味を持ったこと, 自分がよく知りたいと思うことを題材にすればいいのだと思います(当たり前ですけどね)。 当然,所属している学部や専攻にある程度の制限を受けることはあると思いますが, 何か見つかる…筈でしょ?
 指導教官の性格によっては,自分のやりたいことができない人もいるかも知れません。 そんな人にはEricがある先生から聞いた言葉を「駄目って言わせなきゃいいんだよ」
 誰が何と言おうと,卒業論文を書くのは自分自身です。 自分自身が信じるように書くのが(もちろん,荒唐無稽なことを書くのは御法度ですけど) 満足できる卒論を書く第一歩ではないでしょうか。
 結局,大学の図書館の奥に眠ることになり, 自分の記念として記憶に残る程度のものなのですから, 対面なんて気にせずに書くのが良いんでしょうね。
 でもね…,大学院志望の人にとっては卒論で何か印象付けるものがなければ 試験が厳しいって言われてますしね。なかなか思うようには行かないものです。
 …なるようになるかなあ。

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今の日本の教育と昔の中国の教育

 ある本(教育関係ではありませんが)にこのように書いてあるのを目にしました。 三国志小説(を騙るもの)で諸葛亮が劉備に仕えるまで何をしていたのかという疑問について語っているのですが, 「(諸葛亮は司馬徽という学者のもとで学問に励んでいたという記述があるが,辻褄合わせは否めない) 百歩譲って学んでいたとしよう,20歳からとしても7年。現在の六・三・三・四制で十六年, 六歳で入学して二十二歳で卒業するパターンを”常識”と考えてはならない。 学ぶべきことの多さはここ数十年で桁違いに多くなっている。むしろ義務教育の九年を基本と考えるべきだ。 それでも学校制度の始まった明治初期よりは多い。千七百年も昔に学ぶことは”たかが知れて”いる。」(原文はですます調ですが,便宜上変えてます)
 さて,皆さんどう思われましたか?「そうだそうだ」と思う方もあるでしょうし,「へ,そうなの?」と思う方もあるでしょう。でも, 少し中国について知っている方なら「何で?」と思われるのではないでしょうか。
 ここで,Ericが疑問に思ったのは,1つ目「昔の中国の教育を現在の日本の教育から推測することはできるのだろうか?」 2つ目「30年前に比べて学ぶべき事の質は変わっているかも知れないけれど,量はむしろ減っているのではないか」と言う点です。
 1つ目については,昔の中国ではどのようなことが勉強と見なされていたのか,と言う点が重要視されるべきだと思います。
 こんな話を聞いたことがあります。女性が身籠もると,子供がお腹の中にいる間はお腹に向かって経書を読んで聞かせ, 生まれ出て3歳くらいになったら,もう経書の暗記を始める,と言うものです。
 今で言えば,お腹の中の子供にクラシック音楽を聴かせるというようなものでしょうか? この話は,科挙制度が導入された後の話だと思いますが,とにかく中国の勉強というのは経書の暗記 に尽きると言っていいのではないでしょうか。
 で,この経書の暗記ですが,経書の内容を一字一句理解して古代の聖人に至ることを目標とするものです。 現代日本の暗記教育よりも地獄であったとも思われます。この「経書の暗記」は実社会で生きていく上においては何の役にも立たないでしょう。 正に「官僚になるための手段」なのです。まるで現代の受験教育のようではありませんか (現代の受験教育も使いようで役に立たせることができるという点では同じみたいですしね)。
 で,現代日本の教育,学ぶべき量が増えてると思いますか?ここ二,三十年で滅茶苦茶減ってますよ。Ericは親が学校で習ったことの半分も分からない。確かに,覚えるべき量は増えてるかも知れません。でも,「役に立つ知識が減っている」 のは確かなようです。親の世代の知識量は半端じゃない,そう思いました。
 以上のようなことから,Ericは現代日本の教育の視点から古代中国の教育なんて見ることはできないし, 1700年前の学ぶべき量が今より少ないなんて事はないと思います。むしろ,学ぶべき事の質が変わっただけのように感じるんですけどね。
 こんな話もあります。「縄文時代に生まれれば良かった,そうすれば勉強しなくて良いのに」 っていうぼやきに「縄文時代ならば確かに今のような勉強はしなくて良い。でも, 縄文時代には縄文時代で生きるための勉強というものがあり,決してさぼっていられると言うわけではない」 と答えるものです。つまり,その時代その時代に適した勉強というものがあり, それは今の視点から見れば取るに足りないものかも知れない(学ぶべき事が少ないと感じられるかも知れない)けれど, 決してさぼっていられるわけではないと言うことなのです。

 コールドジョイントが多い雑論で申し訳ありませんでした。

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東洋史と中文

 Ericは現在大学の中文専攻(学部再編成によって今では中国学・朝鮮学コースとなったらしい,しかし,Ericは朝鮮語が全くできない)に所属しています。大学に入るまでは「東洋史をやるんだ」と思っていたのに,今ではどっぷりと中文にはまっています(でも,東洋史の面影を残しているらしく,専門が中国思想)。
 さて,東洋史と中文では何が違うのでしょう?必修単位や学科編成から見ていくと,東洋史では全体的に歴史を学び,それで東洋史を見ていくようになっているのに対して,中文では中国語学・文学・思想を概括し,その上で自分が選ぶいずれかの分野を深めるようになっているようです。  つまり,東洋史では必然的に西洋史や日本史の単位も取らなければならないのに対して,中文では語学・文学・思想全ての単位を取らなければならないけれども,それは全て中国関係の単位であり,中国と直接関係しない西洋や日本関連の単位を取る必要がないと言うことではないかと思います。
 Ericが中文を選んだのも「中国をやりたい」という思いからだったわけで,「視野が狭くなる」のも覚悟の上だったのです(視野が中国に偏りがちになりますから)。  それで,中文にいると,中国語関連の単位も必修となります。中国語をしゃべるための授業は非常に面白く意欲もわくのですが,中国語学を知る授業となりますと,これがまた難しく(担当のI先生がこれまた厳しい先生で)…,なかなか世の中思い通りには行かないものです。でも,それでもEricが耐えられるのはこれが「中国語」だから。西洋史や日本史の単位を取ることに比べればまだましなものです。
 さてさて,中国を勉強するに当たっての2つの方法,「東洋史」と「中文」,それぞれに特徴があり,また,必修単位も異なります。歴史をどうしてもやりたければ東洋史に行き,どうしても語学や文学をやりたければ中文に行くほか無いのですが,「中国」をやりたいEricなんかはどっちの方がよい選択なのかは行ってみないと分かりません。
 ちなみに,Ericは非常に選択がよい方向に進みました。専門分野的に先生にも恵まれ(実は東洋史にも先生がいたのでどっちでも恵まれたことに変わりないと言えばそうなのですが),良い大学生活を送ることができています。

 この大学で中文が東洋史より優れている点を1つ挙げるとすれば,それは「研究室の1人当たりの広さ」でしょう。同じ面積の部屋で中文は学部生15人程,それに対して東洋史は史学(日本史+東洋史+西洋史)として学部生30人は優に超えてますからね。これは東洋史の人間にもうらやましがられてます
 実際東洋史と中文のどちらが優れているかなんてのは言えませんからね。長所短所兼ね備えていますよ。

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Forza Ferrari!

 我が敬愛するScuderia-FerrariTeamは,今年最終戦の日本Grand Prixで,PointRanking2位のミカ=ハッキネンにPointTopのエディー=アーバインが逆転される形により,20年連続でChampionを佚することとなりました。
 今年はFerrariの応援しがいがあったのです。実はミハエル=シューマッハが嫌いなので,いくらFerrariのためとは言え,ミハエル=シューマッハを応援することは私にとって苦痛だったのです。ちなみに,91年はアラン=プロスト,92年はイヴァン=カペリとニコラ=ラリーニ,95年まではゲルハルト=ベルガー,96年からはエディー=アーバインを特に応援してました。
 その嫌いなミハエル=シューマッハがイギリスGrand Prixで骨折の重傷を負い,戦線を離脱することになりました。これで,エディー=アーバインがFirstDriver扱いとなったため,私としては以前にも増してFerrariを応援できるようになったのです。しかも,ミハエル=シューマッハの代役があのミカ=サロであれば,応援のしがいは更に増そうというものでしょう。
 しかし,来年のFerrariのLineupは私にとって飛んでもないものとなってしまいました。あのエディー=アーバインが移籍(新生Jaguar=旧Stewartへ)し,代わりにルーベンス=バリチェロ(Stewartから)が入ってくる,しかも,ミハエル=シューマッハは残留と来たもんです。
 ルーベンス=バリチェロそのものは嫌いではないですが,私はあまり好きません。彼の信頼性が如何ほどのものかよく分からないので(Retireが多いが,その理由はMachineによるのかDriverによるのか),果たしてミハエル=シューマッハのbQとしてどれほどのものになるのか未知数というのも原因ですが,何と言っても「エディー=アーバインを追い出すほどの価値があるのか?」というのが一番の原因です。
 とまれ,ルーベンス=バリチェロについては来年の結果が全てを表してくれるでしょう。そして,Ferrariの決断がどうであったかも。
 さて,Ferrariに来てから4年連続でChampionを佚したミハエル=シューマッハも5年連続が許されないのは分かっていることでしょう。ならば,来年こそは絶対にChampionを取るでしょう,いや,取らねばならぬのです。そうでなければ我々FerrariFan(Tifosi)に合わせる顔がないでしょう?Tifosiに感動はもう要らない,今度こそは結果,すなわちChampion!

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Mooreの死亡事故

 1999年10月31日,日本では鈴鹿でF1世界選手権第16戦(最終戦)が行われ,McLarenのミカ=ハッキネンがFerrariのエディー=アーバインを逆転して2年連続のChampionを決めました。
 同日,アメリカではCART(IndycarChampionship)第20戦(最終戦)FONTANA500が行われ,今年F3000からデビューしたファン=モントーヤがPointTopのダリオ=フランキッティと同点に追いつき,優勝回数の差でChampionとなりました。
 だが,ファン=モントーヤの顔に笑顔はありませんでした。何故なら,このFONTANA500で痛ましい事故が起こったからです。カナダ人ドライバーのグレッグ=ムーアの車が大クラッシュを起こしてムーアが死亡したと言うのです。
 11月7日の「サンデーモーニング」で放送された映像を見る限りでは,ムーアの車は芝生を横切りながら横転し,イン側のコンクリート壁に車の上側からぶつかったようです。つまり,彼は頭をコンクリートに打ち付けた,時速は300あるいは350q/hと言うところですか。
 クラッシュした車からエンジンがちぎれ飛び,跳ね返された車が何回転かする程のもので,ムーアは病院に運ばれたものの死亡しました。まだ24才。これからという時の死亡事故。「サンデーモーニング」によると,彼は前日に手の指を骨折していたらしいですが,それはこの事故に関係するのでしょうか?
 思い返せば,今年は若手の死亡事故が2件。1つは3月に起こった舘信吾選手の死亡事故。クラッシュした時にステアリングに胸部を強く打ち付け,内臓破裂で亡くなったと記憶しています。そして,今回のムーアの事故。
 CARTで考えても,今年2件目の死亡事故。第17戦のラグナセカでG.ロドリゲス選手がコーク・スクリューでコースアウトして車が裏返しになって亡くなった事故がありました。CARTで死亡事故があったのは3年ぶりのことだと言います。
 
 死亡事故を見て思うのは,「100パーセントの安全は無理な話なのかなあ」と言うことと「事故で死ぬか生きるかは本当に運・不運の支配することなのだなあ」ということ。
 レースを見ていると,クラッシュは多数発生しています。しかし,大部分のレーサーは壞れた車からほぼ無傷で脱出して来ます。ごく一部のレーサーが死亡してしまうのですが,事故の様子を見ていると,紙一重で死線を越えてしまったのだなと思います。
 今年のF1ベルギーGPのBARのクラッシュは正に「幸運にして助かった」部類と言っても良いでしょう。ヴィルヌーヴと言いゾンタと言い,ほぼ無傷で本戦に出場したのが不思議なくらいです。1995年のIndy500でクラッシュしたスタン=フォックス選手などは,クラッシュした車から足の部分がむき出しになっていた(モノコックが割れていた)程だったにも関わらず,最終的に一命は取り留めたようです(それが原因で死亡したとは聞いていません)。
 逆に1994年のアイルトン=セナの事故は「何て不運な」と思えるものです。クラッシュそのものは今年のBARのクラッシュよりも軽いくらいなのに,折れたサスペンションが頭に刺さるなんて不運が左右しました〔これについては色々意見がありますが(論文1つ書けるネタになるかも知れない位に),ここでは私の意見〕。1996年のCART,ジェフ=クロスノフの事故も,「あそこに街灯柱がなければ」と言う事故でしたし,今回のムーアの事故も「もし,あと半回転していたら(下側からぶつかっていたら)」と思えてしようがありません。
 もちろん,「もしかしたら」が現実だったら彼らは必ず助かっていた筈だと言うことはできませんが,死亡事故を(素人目ながら)解析してみると,人間の運命なんて紙一重なのかなと思えてしまいます。
 車の安全性を高めても高めても,思いもしない事故がその安全性をうち破ってしまうものなのかとも。
 しかし,私はレースを見るのを止める気はないし,「レースをやるのは危険だから止めろ」と言う気もありません。死亡事故を原因にレースの中止を求めたところで,死亡したドライバーが浮かばれるものなのか疑問だからです。彼らにとっての一番の供養は,「彼らがいなくなった後のレース界」を見せることなのではないかと思えるからでもあります。
 19「99」年の最後の戦で「99」番が逝ってしまいました。何はともあれ,死亡したグレッグ=ムーアの冥福を祈ります。

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Ganassiもかわいそうに

 今年CARTでChampionを獲得したファン=モントーヤがF1に来るかも知れない。これは以前からずっと言われていたことですが,行くとすればそのチームはどうやらWilliamsのようで,ザナルディとトレードしての移籍か?とも言われています。
 こうなると,今年ファン=モントーヤが在籍したTARGET CHIP GANASSI Teamにしてみればまたもやドライバーを引き抜かれるという結果になってしまうんですね。去年はChampionのザナルディを引き抜かれ,Williamsのテストドライバーだったモントーヤを貰い受けました。今年はその引き抜かれたザナルディを取り戻すことになるのでしょうか?
 それにしても,CARTで4年連続Championを取っているチームからドライバーをポンポン引き抜けるWilliamsはうらやましいものです。
 でも,2年連続でChampion Driverを引き抜かれるChip Ganassiにしてみれば,何ともかわいそうな事じゃないかと思います。チームとしてのChip Ganassiも,チームオーナーのChip Ganassiも。
 CARTは,アメリカでのフォーミュラカーレースの最高峰と言っていいでしょう。そこでChampionになると言うことは,そのDriverには実力があると言うことを示しています。そんなDriverを発掘して来るチームの苦労たるやどんなものでしょう?なのに…,簡単にF1に引き抜かれてしまってはどうしようもないじゃないですか。いくら契約はDriverの自由とは言っても,F1より下位と位置づけられているカテゴリーのチームオーナーには頭痛の種じゃないでしょうか。

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コロネルと本山

 1999年のFormulaNipponのチャンピオン争いは,最終戦を前にしてトップのT.コロネルを昨年のチャンピオン本山哲が4ポイント差で追う形となりました。
 最終戦の予選結果はコロネルが2位,本山が3位。最終戦は面白い展開となるかに見えました。
 が,です。ご覧になった方も多いかと思いますが,チャンピオン争いは1周目の第1コーナーで終わってしまいました。スタートに失敗したコロネルの車がスタートを上手く決めてコロネルの前に出た本山の車に突っ込んだのです。2台は絡み合って砂地獄に直行。そのまま2台ともリタイアしました。このクラッシュはかなり激しいものだったと思われます。両者に怪我がなくて幸いでした。
 しかし,このクラッシュは納得いかない点が非常に多いのです。なぜコロネルがあんな所で本山に突っ込んだのか,私に考えられるのはただ一つ,「コロネルがぶつけにいった」ことです。
 チャンピオン争いの中で,トップが2位の車にぶつけにいく行為はよく見られます。F1で見ますと,1989年と1990年の鈴鹿(日本GP)でのA.セナとA.プロストの接触は,明らかにぶつけに行っています。1989年はプロストが,1990年はセナが。
 ミハエル=シューマッハにも前科があります。1994年と1997年。いずれも2位とわずか1ポイント差の状態での出来事でした。1994年はD.ヒルを撃墜しましたが,1997年はJ.ヴィルヌーヴと接触した後,自分だけが砂地獄でリタイア,ヴィルヌーヴはそのまま3位完走して逆転されてしまいました。さらに,1997年はシーズンの全ポイント抹消というペナルティももらっています。
 バイクGPでも1998年の250tでL.カピロッシが原田哲也を最終ラップの最終ヘアピンで弾き出して逆転チャンピオンを決めました。
 こうやって見ていきますと,チャンピオン争いはシーズン終盤にもつれ込めばもつれ込むほどドロドロしたものになっていくようです。
 「1シーズンずっと築き上げてきたものが最後の1戦で無に帰してしまってはその選手がかわいそうだ」と言う意見があります。これはプロ野球のタイトル争いの批評で出てきた意見(その後で「だからフォアボールをわざと出しても許される」と言う意味のことを言っていました)ですが,中立の視点から言わせてもらえば,これは詭弁です。最後の1戦でひっくり返されるようなものなら,所詮はそんなものでしかなかったということではないですか。最後の1,2戦でひっくり返すことができないような差を付ければ,タイトル争いはそのようなことにならないのですから。
 タイトル争いを接触などによって終わらせることには,もっと厳しいペナルティがあって然るべきです。ただ,レース等ではわざとかわざとでないかが分からない場面が数多く存在するためにそのペナルティを掛けることができないのが現状でしょうか。
 いずれにしても,「こんな結末は見たくなかった」です。

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ちょっと…くどいかなあ

 TWO−MIXのNewAlbumが出ました。タイトルは「RhythmFormula」。私はTWO−MIXファンですから当然すぐに買いました。
 で,絶対の期待込みで聞いてみたんです。その感想がタイトルです,ちょっと…くどいです。
 何がくどいのかと言いますと,それは「前奏」です。音楽だけ(つまり,歌詞無し)ならば別に良いんですが,歌のある曲で前奏が2分もあっては,ちょっと歌が聞きにくいかなと思うんですね。前奏で聞かせるという手段もありますが,前奏の長いのが多いとその効果もちょっと薄れるような気がしますし。
 まあ,前奏が長いのはTWO−MIXの特徴ですから,それはそれでいいですし,このCDのが気に入らなければ別のバージョン(シングルとか)を聞けばいいので大きな問題ではないですがね。
 …何だかんだ文句言ったって聞かずにはいられないんですが,私は。これって,「惚れた…にはどうやっても勝てない」と同じですね。

 そういえば,Disc1の09.MISSON"CINDERELLA"を歌詞カード見ないで(つまりは歌を聴いただけで)全部書ける人なんているのでしょうか?あのふりがなはすさまじいですよ。

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第3ミレニアムの始まりと21世紀の始まり

 最近「ミレニアム」という言葉が巷を埋め尽くしてます。「1000年」という意味らしく,2000年というのはミレニアムが切り替わる年らしいです。
 が,ふと疑問に思ったことがあります。「第3ミレニアムの始まりと21世紀の始まりは一緒ちゃうの?」
 ここで思い出すのが,大学の授業にゲストとして来ていたヨーロッパ人(この人はドイツ人だった)の言葉。1998年の終わり頃に「あと1年ちょっとで21世紀になる」と言うのです。
 細かいことをも気にする私は,当然「21世紀の始まりは2001年じゃないの」と聞きました。
 するとそのドイツ人は「細かく言えばそうだけど,百の位が切り替わるときが世紀の変わり目みたいな感じだから」と言いました。
 そこで私は「そうか,ヨーロッパ人にとって2000年はもう21世紀の始まりなのか?」と思いました。
 そのため,私にはさっきの疑問が出てきたのです。
 細かく言えば,「1000/100=10」なのですから,「第3ミレニアムと21世紀の始まりは同じ」筈です。なのに,「何で日本人は1年ずらすの?
 それとも,今2000年限定とかが全世界的に(多くのブランドで)出てますが,来年末には同じく21世紀限定とかが出るのですか?
 ミレニアムブームが日本から始まったとも思えないので,日本人は何でもかんでも踊るのか?と思うわけです。
 更にへりくつを言えば,「皇紀2000年の時ってそんなに大騒ぎしたんですか?西暦2000年も所詮はキリスト教の基準じゃないですか。あ,そう言えばイスラム暦の2000年って何時ですっけ?」ってとこですか?
 いくらなんでも欧米の騒ぎに乗りすぎじゃないですか?さっきの話からすると,欧米人にとって2000年は重要でも2001年は重要でないかも知れないんですよ。もし欧米人が静かだったら,来年末はだんまり決め込むんですか?「21世紀まであと何日」なんてスケジュール帳にはあらかじめ打ちこんであるのに?
 「2000年で騒ぐんなら21世紀で騒ぐのは止めましょうよ,皆様」。

附記
 その後,ヘラ2001様からご意見を頂きました。
 これに対して更に言いますれば,「経済活性化の素になれば,良きことこの上ないのですが…」
 ミレニアムで騒いでいる人間と経済活性化とが関係しているかが疑問なんですよね。地域振興券を食料品のために使ってしまうような人たちに,経済活性化の鍵が握られているとすれば,心配でなりません。

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大阪府は変わるのか?

 大阪府の横山ノック知事が辞意を表明しました。12月27日の臨時議会で辞任が承認されて,2000年の2月6日にも知事選挙が行われる模様です。
 さて,一女子大生の告発から始まったこの事件も,知事の辞任をもって「大阪府の事件」としては終わりを迎えたと言って良いでしょう。
 それにしても,知事候補の新しさに乏しいことと言ったら…。共産党は前回ノックに負けた人。民主党は岩國哲人とか言ってますね,いくら大阪出身と言ったって,大阪ってイメージじゃないですよねえ。他にも上岡龍太郎,西川きよしと言った芸能系の人間も出てきています。
 今回は共産党候補にも勝つ可能性が多分にありますので,もしかしたら共産党知事の登場となるかも知れません。
 ただ…,共産党知事が登場したところで,大阪府は変わるんでしょうか?私は非常に疑問です。

 …大阪府はどうなってしまうんでしょう?

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「これ間違いちゃう?」列伝

 国民総背番号制:なぜ背中に番号を背負うのですか?「国民総番号制」でいいんじゃないですか?
 大阪市立大学の名前入りの卒論用紙:B4より大きくてA3より小さい。製本の時に切るとは言え,印刷の時に面倒です。しかも,100枚で¥720。ちょっと高い。

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