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8/11に行われたK−1WorldGrandPrix in Las Vegasでは「ヨーロッパ最強の伊達男」と呼ばれるステファン・レコ選手が1回戦から決勝まで全てKO(準決勝は相手ドクターストップによるTKO)で優勝しました。特に,決勝では「20世紀最強の暴君」と言われるピーター・アーツ選手から合わせて3回のダウンを奪う快勝でした。これで,レコは12月のGP決勝進出を決め,アーツは10月の敗者復活戦に回ることとなります。
さて,この大会には極真空手最強の男フランシスコ・フィリォ選手も参戦していましたが,1回戦でセルゲイ・イバノビッチ選手に延長判定負けしてしまいました。これに納得できない人は多くいることが予想できたようで,石井和義正道会館館長(K−1の一番偉いさん)は「K−1関係者のジャッジ参加が制限されていて,アメリカのやり方で判定を取るからこのような結果になった」と言う意味のことを言ってました。
アメリカ人が判定に加わると日本人に理解しにくい結果が出るということは,ボクシングの世界戦で星野敬太郎や畑山隆則が大差の判定負けを喫したことからも良く分かります。では,K−1はこれに対してどの様な態度を取るでしょうか?
方法は2つあると思います。
1.K−1事務局がレフェリーからジャッジまで全て管轄できるような環境の下でしかK−1の試合を行わない。
2.「立ち技世界最強の男を決める」と言う理念の下でやるのだから,世界最強の男はどの様なジャッジの下でも勝てなければならない。よって,開催場所によってジャッジの方法が変わろうとも何ら問題ないとする。
私は,K−1の理念を純粋に考えれば,2.の方法がふさわしいと思います。ジャッジシステムがどうあろうとも,KOしてしまえば関係ないのですから。さて,私の手元には,1999年1月15日付の朝日新聞の切り抜きがあります。ここでは「K−1って,スポーツですか?」「ルールのある真剣勝負。完全なスポーツです」という見出しで,石井和義館長がK−1について語っています。
館長は「K−1はルールがあって,公平で,真剣勝負であり,完全なスポーツである」と言い,K−1がどの様なものであるかと言うことについて語っています。
K−1は「空手、キックボクシング、拳法、テコンドー、ムエタイなどの立ち技格闘技はルールがそれぞれ違う。統一ルールの下で,誰が一番強いのか決めよう」と言うような理念で設立されたものです。そうである以上,K−1は日本発祥のものであっても日本のものではありません。石井和義がプロデュースしていても,もはや石井和義個人のものではありません。
この記事には「日本人がなかなか勝てないのは物足りなさを感じさせる」等と書いていますが,それが現実です。日本人はピーター・アーツ、アーネスト・ホースト、マイク・ベルナルド、アンディ・フグと言った実力者には,ほとんど(全くだったかな)勝てていません。
さらに,「ファンはカリスマ性のある選手を求める一方で,新しい選手の台頭も求める」とあります。この点では現在K−1はかなり成功していると言えるでしょう。K−1は96年から16人のトーナメントとなり,2000年からはWorld Grand Prixとして各地で予選を行い,勝ち上がった者がGP決勝に進出して対戦する方式となりました(決勝進出者は8名)。World Grand Prix化によって,GP予選を含めれば出場選手の数は3ケタに迫る勢いで,新しい選手の台頭の可能性は大きくあります。
その一方で,カリスマ性のあったアンディ・フグが2000年に病死し,新しいカリスマファイターの登場が待たれるのかも知れません。ピーター・アーツやアーネスト・ホーストと言ったファイターにはそれなりのカリスマ性があります。アーツやホーストに勝つことはトップファイターの証とされ,多くのファイターが彼らを倒すことを目標にしています。そのようにして,立ち技世界最強戦であるK−1ですが,最近は雲行きが怪しくなっています。
来る8/19に「K−1vs猪木軍」と題してK−1で名を挙げたファイターとアントニオ猪木の支配下にあるバーリトゥードを主に行うファイターとがK−1の舞台を借りてぶつかり合います。
それだけなら問題はないのですが,その試合のうち2試合はバーリトゥード系のルールで行われるというのです(格闘技雑誌の立ち読みによると)。これは問題ありでしょう。いくら猪木からケンカを売られたとは言え,K−1の舞台でバーリトゥード系ルールを使うのは,土俵の上でプロレスやるようなものではないでしょうか(少し誇張)?
館長は「K−1の舞台でバーリトゥードを続けるつもりはない,やがてはK−1からPRIDE(バーリトゥード系の大会)へ選手を送り込む」と言ってますが,現在は館長がK−1の権威を守るために少し無理しているような気がします。何を言われようと,K−1は立ち技世界最強戦であって,K−1ファイターがプロレスやバーリトゥードのファイターと比べてどうかというのは,もはやK−1の範疇の問題ではないと思います。K−1ファイターがバーリトゥード系のファイターと対戦するのは当人の勝手ですが,K−1としてそれを行うのはK−1の理念からは外れているような気がします。
K−1が大きくなりすぎたために迷走しているのでしょうか?K−1の原点をもう1度問い直してみる必要があるのかも知れません。最後に,K−1にはミルコ・クロコップ(旧ミルコ・タイガー,ミルコ・“クロコップ”・フィリポビッチ)と言うファイターがいます。知っている人も多いと思いますが,彼は現職の警察官です。
試合がある度に,警察の仕事は休んでいるのでしょう。クロアチアでは英雄的存在だそうです。
さて,日本にはミルコのようなファイターが存在する余地はあるでしょうか?警察官が格闘家で,試合の度に業務を休んでいるという状況が認められるでしょうか?柔道の選手権なんかに警察官が登場してくることはよくありますが,K−1やプロレスと言ったプロの格闘技に警察官が参戦するのは公務員の職務専念義務に違反するのでしょうか?それともショー的要素の強い大会に参戦するのは「軽い」ということなのでしょうか?私は,ミルコのような日本人ファイターを見てみたい!
8/15の朝日新聞夕刊を見ていると,「『国のために命を投げ出す』という考え方をどう思う?」というアンケート結果の表が載っていました。
「国が自分を守るのなら分かるが,命を捨てて国を守るなんて本末転倒。戦争になったら国籍を変えて逃げる」と答えた人がいます。国が国民を守るのは当然,でも国民は国を守らなくて良いと言うことでしょうか?恩恵を受けるだけ受けておいて,いざというときには国を捨てる。そして新しい国でも同じことをする…。私はやりたくないですね。
私が共感を持てたのは「国ではなく家族を守るために戦うのなら分かる。でも,日本が他国を侵略する戦いならだめ」という意見。
この記事には10人の意見が載せられていますが,まさに十人十色。色々な考え方があるなあと思います。ただ,質問の取り方の違いでしょうか,理解しにくい意見もあります。「若者が戦場に行って死ぬなんて問題。これから幸せな人生が待っているのだから考えられない」と答えた人がいます。「国のために命を投げ出すなんて」考えられないと言うことなんでしょうが,この人の言う「幸せな人生」をぶち壊すような事態が起こったときにこの人はどうするんでしょうね?そもそも,「『国のために命を投げ出す』という考え方をどう思う?」という質問の仕方が悪いやね。「自分を犠牲にして国に尽くす」と言う意味にしかとれないじゃないですか。自分を国の一部と見なすかどうかと言う視点が欠けているような気がします。私は,自分が国の一部ならば,国のためと言うよりも国というものを通して自分のため,という視点ができてくるのではないかと思うので,自分対国(個vs公になるのかな?)と言う視点でものを見ているこの質問自体に疑問を感じます。
え?あ,私の答え?「自分に対して貢献してくれている国のためにすることは,回り回って自分のためにもなる。だから,自分が一生暮らしても良いと思う国を守るときに限っては,その国のために命を投げ出しても良いんじゃないかなあ」と思います。さて,鼓腹撃壌とは,「腹鼓を打ち大地を叩いて歌うこと。太平を楽しむさま」(広辞苑)、「人々の生活が満ち足りて,世の中も平和であるさま。理想的な政治が行われていることを表す」(全訳漢辞海)とあります。逐語訳は広辞苑の前半部分,その含意するところは漢辞海の解釈です。より詳しく説明すれば,「理想的な政治が行われて世の中は平和に治まっている。しかし,民衆は為政者の手によって治まっていることを意識していない。→理想的な政治は空気のように民衆に受け入れられるので,民衆には為政者の像が見えない」と言うことになりましょうか。つまり,民衆が満ち足りているとき,これが為政者の政治の賜物と思ってくれる人は少ないと言うことになります。
となれば,「国は何もしてくれない」と言う意見には2種類あることになります。即ち,1.本当に国が何も政策を行わない,2.国の政策が空気のように当たり前のものとなっているので政策を肌で感じられていない。さて,いまの日本はどちらの状態でしょうか? 多分2.でしょうね。色々と不足はあると思いますが,人間の欲求は底がないものです。ある程度のことがなされているいまの日本は少なくとも1.ではないですね。ほんの5年くらい前でしょうか?さかんに「平和ボケ」という言葉を聞きました。この言葉を使っていた識者は,日本国民が鼓腹撃壌していると思ったのでしょうか?それとも…?
今になって考えてみれば,平和がタダで手に入ると思ってはいないでしょうか?現在の平和は,先人の犠牲の上に成り立っているものです。平和の理念は結構ですが,机上で平和が成り立つのなら苦労はないですね。平和を守るためにはどの様なことが必要なのでしょう?
全ての国が軍備を捨てればよいのですが,現在軍を持っていない国というのは少ないです。ある本によると,軍隊のない国として「サンマリノ」が挙げられていましたが,サンマリノはイタリアの庇護を受けていて,サンマリノに侵略するにはイタリアを通過しないと行けない(サンマリノはイタリアの国土に囲まれている)のですよ。あれは例外中の例外ですね。
現在の平和は各国の軍事的牽制によって成り立っています。そこで日本が在日米軍を追い出して自衛隊も解体して,無軍備の国となったら,一体どうなるでしょうか?これは私にとっては小6の時からの課題です。日本国憲法の戦争放棄の精神が全世界に染みついていて,それが実践状態にあって軍縮が進んでいるのならば,無軍化は現実的でしょう。しかし,実際に全世界の各国が軍備を持ち,さらにはその増強を図っている国がある状況で,日本だけが無軍の国となったら日本の運命は各国の良心にかかってくることになります。かといって自衛隊に金をつぎ込んで軍備を増強していくのも問題があると思います。平和主義に結果的には逆行するのですから。
だからこの問題は10年以上考えても結論が出ないのです。私が生きている間にこのことについて結論が出るでしょうか?まず無理でしょうね,世界中に紛争の火種があり,それが全て解決に向かっているわけではないと言うこの現状を考えれば。最後に,その記事に意見を出していた富田英典佛教大教授が言っていた言葉に違和感があります。「(歴史教科書等に対する中国、韓国からの批判に)昔の若者なら,(中国、韓国)両国からの批判は『当然』が圧倒的だったと思う。(大人たちが)本音の部分で『内政干渉』と考える人が増えたことを意味するのではないかと心配だ」
何が言いたいのか分かりません。外国が批判して,それを受け入れるのは当然と言いたいのでしょうか?外国からの批判をどう受け止めるかと言うことについて,日本人に自我が生まれてきたと捉えることはできませんか?これを偏狭なナショナリズムと捉えるのでしょうか?だったら,中国、韓国に日本からもどしどし意見するべきでしょうな!そして,それを内政干渉と言わせないことですな!
delicacy:(感覚・感情・趣味などの)繊細さ、敏感さ
つい先日,話をしていて「何ともデリカシーのないことを言われたな」と思いました。
もちろん,話をしていた人に悪気はなかったのでしょう(悪気があったのならしばき倒してやる!)。それだけに不快感は増すのであります。こっちがどう感じているかも知らないで色々ものを言える人ってのは結構幸せではありますな。
かくいう私もよく「デリカシーがない」と言われます。が,私の場合,その半分は意図して言ってます,つまり「皮肉」「攻撃」と言った類ですね。それはデリカシーがないと言えるのでしょうか。相手がどう感じるか予想してものを言っている場合,デリカシーがないと言えるのでしょうか?
思うに,デリカシーのない人ってのは他人のことに気を払えない人なんでしょうね。意図がなくて人に不快な思いをさせているって事なんですな。意図があって不快な思いをさせている人は,デリカシーがないとは言えないでしょう。デリカシーがあるがゆえに人に不快感を抱かせる術を知っているのかも知れませんし。
さて,「デリカシーがない」ってのは自分で気付かないうちにそうなっているのですから,デリカシーがないって言われないように気を付けなければなりません。もしかしたら,人の正確が各人違う以上,デリカシーのある人ってのはいないのかも知れませんがね。
こう言うと,「もしかして私はそうかも知れない」と思う人,「いるいる,そう言う人。私もよく嫌な思いさせられてるからなあ」と思う人,色々いると思います。まあ,人に,「今の言葉,傷ついた」と言われたときに,それが意図したものかどうかというのが1つの指針になるかも知れませんね。
日本国憲法第20条
第1項:信教の自由は,何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も,国から特権を受け,又は政治上の権力を行使してはならない。
第2項:何人も,宗教上の行為,祝典,儀式又は行事に参加することを強制されない。
第3項:国およびその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。つい先日,宗教の勧誘らしきものを受けました。勧誘に来たのは中学時代の友人。日蓮正宗の在家信者となったらしく,日蓮正宗の教義、信仰について30分近くとうとうと説いていました。
まあ,内容たるや人を納得させるには至らないものでしたが,宗教勧誘者の怖い部分を垣間見たような気がしました。
デリカシーのかけらもないのです。全て自分の信じるところの教えに従って行動しているのですから,当人にとっては正しいことをしていて,かつ,相手に対しても善意で勧誘しているつもりなのでしょう。しかし,罰の概念を持ってきて恐怖心を植えつけようとするとは何たることでしょう!
「正しい教えを信仰しないと罰が当たる」とか「正しい教えを学ぶ人は,死んでも身体は腐ったりせず,きれいなままである。これは医者も言っている」とか「空海(真言宗創始者)はらい病にかかって皮膚がボロボロになって死んだ。これは間違った教えを広めたからだ」とか,色々なことを言いますが,ぜ〜んぶ薄っぺらいものでしかない!何とも世俗的な現世利益に基づいた考え方であることか!死んだときに肉体が崩れるかどうかは,その時の栄養状態とか病気の具合とかによって決まるもので,信仰とは関係ないと考えるのが妥当でしょう。
どれもこれも,現世に生きている「その人」を狙って話をしているとしか思えないわけで,前世・現世・来世のつながりは概念上のものとしてしか捉えられないのです。
それに,友人面して勧誘に来るのは最悪の行為だと言うことを分かって欲しいですね。勧誘の手段として友達関係を使っていると疑われても仕方ないわけですし。勧誘に来るのなら,友人関係とは別次元の話としてもらいたいです,私としては。さて,そもそも,宗教の存在意義とは何なのでしょう?
私としては,「恐怖心,現世利益,来世利益などを用いて(エサとして)民衆を統制し,それによって現実世界での生活をより良いものとする」事が究極目的ではないかと思うわけです。手段は色々あるでしょう,それを信仰する人達がどう思うかも様々でしょう。しかし,宗教というのはせいぜい現世しか統括し得ないと考えられるのです。過去未来に言及したとて,それは想像やこじつけに過ぎず,それを信じるものにしか影響力を及ぼさないのです。
「イワシの頭も信心から」という言葉があり,大体の宗教者はそれを否定するのですが,否定している側だってイワシの頭に過ぎないことを,どれだけの人が分かっているのでしょうか?
それに,宗教の本質的な存在意義を考えることなしに教義を語るのは,その宗教がいかにも世俗的で表層的であると認めていることになりませんか? 人間の本質を無視して宗教を語るのは,その宗教を精神世界とは切り離していると言うことになりませんか?
こんな質問があります。神(I)は存在するか? 私はこれについてYes・Noどちらでも同じ思想を示すことにしています。
答え:Yes;神は確かに存在する。しかし,その偉大さは到底人間に理解できうる類のものではない。「神に選ばれた」等として預言めいたことを言う人は,全て自分がそう思いこみ,周りがそれを認めているだけのことであり,神の意志を正確に反映しているわけではない。よって,神が存在するからと言って,現在ある宗教を信じる根拠とはならない。
答え:No;神そのものが人間の想像によって作り出されたものである。よって,この世の神様は全て人間の想像の産物であり,信仰対象とする必要はない。よって宗教を信仰するべき根拠はない。
ちなみに,さらに言えば,道徳心と信仰は切り離して考えることができ,無信仰の人間が道徳心に欠けるとは必ずしも言えません。最後に,宗教者には信教の自由を前面に押し出して布教活動をする人がいますが,それが回り回って他人の信教の自由を侵していることがままあります。信教の自由は何人に対しても保障されているのですよ!宗教者の専売特許じゃありません,それはお忘れなきよう。
私としては,他人の権利を侵害しない限りどういう思想を持とうと,どういう宗教を信仰しようと自由だとは思ってますから,勧誘そのものを悪とはしませんが,人の恐怖心をあおるような言動は慎むべきではないですか? 知らぬが仏なんだから。(I)英語で言うGod、god、goddess,イタリア語で言うDio、il dio、la divinita、gli dei、dea全てを含みます。即ち,信仰の対象としての「神様」のことです。
狂牛病がついに日本上陸!千葉県で1頭狂牛病と判定されました。
さて,その前後で農水省が何かゴタゴタしていたようですが,焼却処分するものと思いこんでいたなんてことある訳ないでしょう!どうせ農水省内部でそう言う風に発表させたんでしょうに。この発表した人がノンキャリアだったら絶対そうですね。
まあ,イギリスからヨーロッパ全土に狂牛病が蔓延していたときから,日本にも上陸の可能性があることくらい分かってる人はいたでしょう。農水省が「日本では心配ない」と当時言っていたのも覚えてますけど,まさか予防策を取っていなかったとはね!指導の徹底を怠ったのは何故?族に配慮したから?農業を守るため?結局対応の遅れが牛肉離れを引き起こしたんでしょうが!ヨーロッパで流行ってるときにきちんとした対応を取っていれば,被害が前倒しになった分まだましだったでしょうに。大体の人にはこうなることはお見通しでしたよ!
国会議員にもアホがいますよね。「大いに牛肉を食べる会」とか言って牛肉を食べるパフォーマンスを見せてますけど,お前らが牛肉食ったところで牛肉の安全性は保障されんのじゃ,バカが!ってところですね。
国会での農水大臣の答弁もアホらしい,「風評被害がひどい。説明すればする程分かってもらえない」って何じゃい?初手の対応が悪かったから信用されないんでしょうが!それも責任を他人に押しつけて!面だけ良いのはいい加減にしなさい!体質は外務省と何ら変わらんって事をはっきりさせんかい!
ともかく,EUからの警告を無視してこの事態を引き起こしたヤツには,きっちりと責任を取ってもらいたいと思います。この後始末何としてでもつけろよ!倒産する(のが予想される)肉関係業者への対応や牛肉の安全性の確保,農水省のアホ改善など,やることはいっぱいありまっせ!
…16年たっても役所の人間はアホなのか?
東京都は色々と新しい税案を出してくれます。中には遠く大阪に住むこの私にも影響を与えるものがあるのです。
今回は,いわゆる「ホテル税」と言うものです。宿に泊まるとき,1泊1万円以上なら100円,1万5千円以上なら200円の税を課すと言うものだそうです。目的税ではあるそうですが,鳥取県の片山知事が言った「他人のふんどしで…」,分からないでもありません。
東京と言えば,全国の機能が集中するところ。当然,人も集まる必要性がある訳で,「東京なんぞ行きたくもないのに行かなければならない」人もたくさんいる訳です。
その中には,事情があって安ホテルに泊まれない人もいるのではないかと思います。今回の税はこういう人達を,逆にターゲットにしているのではないかと思うのですがね。
ま,私なんぞは,1泊1万円もするホテルなんか泊まる気もしないですから,今のところは関係ないと言えば関係ないですね。しかし,今後1万円というラインが下がってくる可能性は十分にあると思います。
何せ,あの「人の話を聞かない」知事が考え出してくるのですから。いくら何でも片山知事に「恥かくのはてめえの方だ」と吐き捨てることはないでしょうに。でも…あのじじいに「説得」と言うことをさせようとするのが土台無理な話かな。
2001年のK−1WorldGPは12月8日に東京ドームで決勝ラウンドが行われ,マーク・ハント選手が優勝しました。
実はこのハント選手,もともとはメルボルン大会の準決勝でアーネスト・ホースト選手に敗れ,福岡での敗者復活戦参加の権利すらありませんでした。それが,ミルコ・クロコップ選手の敗者復活大会参加断念により参加できるようになり,さらに,その1回戦でレイ・セフォー選手に敗れ,セフォーが負傷により2回戦以降棄権となったために敗者復活で2回戦に進出し,そのまま本戦の切符を手にしたという幸運の持ち主。
さらに,本戦初戦の相手が優勝候補No.1のジェロム・レ・バンナ選手。ほとんどの人がバンナの勝ちを予想していました。
その予想を覆してバンナにKO勝ちし,優勝と予想した人の割合が低いであろうハントが優勝してしまった訳ですが,この人は,従来のK−1で考えられていた“強いファイター”の規格には全く当てはまらない人のようです。
筋肉質の人が多いK−1の中で珍しくズングリムックリの身体をし,相手の攻撃を食らってはいけないとされているヘビー級でノーガードで打たれまくってもケロリとし,トーナメントで戦っていても前の試合のダメージをほとんど残さない。そんなファイター今までどこかにいた?とまあ,タフさが売りのハントなんですが,ポイントを取りに行く技術はやっぱり下手。ホーストのような業師には歯が立ちません(と言っても倒される訳ではないんですが)。ハントに勝つとすれば,着実にポイントを取ってハントに攻めさせないと言うことでしょうが,今K−1ファイターの目標は,“ハントをKOする”事でしょう。セフォー戦、バンナ戦で見せたタフさを打ち破るファイターが現れるか? と言えば,必ず現れると言えます。それがK−1の世界ですから。
今年K−1規格外のマーク・ハント,来年はK−1規格内の存在となります。ハントがこのままであれば,来年ハントを倒すファイターは確実に現れます。ただ,去年(メルボルンでバンナと戦った時)のハントを知っている人が見れば分かるでしょうが,ハントも確実に進化しています。来年のハントがどの様であるか,楽しみです。
アメリカンフットボール(NFL)の話をここに書くのは初めてです。NFLも17週のうち14週を終え(日曜夕方、マンデーナイトを除き),ディビジョン優勝チーム、プレーオフ進出チームも決まり始めました。
まず1番乗りでディビジョン優勝を決めたのは第14週土曜日に試合のあったオークランド・レイダーズ。残り全敗し,ライバルが残り全勝すると相星になりますが,星の内容で上位に立つためにディビジョン優勝決定となりました。
逆に,この試合でレイダーズに敗れたサンディエゴ・チャージャーズは5勝9敗と7連敗を喫し,シーズン序盤を沸かせたチームも落日の時を迎えました(それでも昨年よりはましな成績なのですが)。
今シーズン,昨シーズンの不調から一転して好成績を上げているチームと,昨シーズンの好調から一転して苦戦の続くチームがそれぞれ幾つかあります。
まずは不調→好調組,
シカゴ・ベアーズ:昨シーズン5勝11敗→今シーズン10勝3敗
サンフランシスコ49ers:昨シーズン6勝10敗→今シーズン10勝3敗
ニューイングランド・ペイトリオッツ:昨シーズン5勝11敗→今シーズン9勝5敗一方,好調→不調組
テネシー・タイタンズ:昨シーズン13勝3敗→今シーズン6勝7敗
ミネソタ・バイキングス:昨シーズン11勝5敗→今シーズン5勝8敗
インディアナポリス・コルツ:昨シーズン10勝6敗→今シーズン5勝8敗さて,このようになった原因として,チーム力の変化や監督(HC,コーディネーター陣)の変更などが挙げられますが,一番大きな原因はmomentum(モメンタム)でしょう。モメンタムとは“もののはずみ”と言うことですが,この“もののはずみ”が何回も起こることによって,シーズンの流れを制覇してしまうと言うことになるのは怖いところです。
例えば,ベアーズは初戦敗れましたが,その後6連勝。その中には,2試合連続試合終盤に追いつき,オーバータイムに入ってからインターセプトリターンTDでサヨナラ勝ちというのがあります。こういう勝ち方をして勢いに乗り,そのままプレーオフ射程圏内に入った訳です。
49ersもオーバータイム3勝1敗という粘り強さで勢いを得たものと思われます。
ペイトリオッツにしても,序盤1勝3敗から徐々に星を戻し,3連勝で一気に8勝目を挙げているわけですが,第12週のジェッツ戦などは前半0−13からインターセプト1つで流れを変えて逆転してしまいました。
では不調のチームはどうかというと,タイタンズは開幕3連敗の後遺症を引きずってしまったと考えられます。つまりは,今シーズン好調のチームも不調のチームも,「運不運」に左右されているものなのでしょう。
それを考えると,プレーオフ常連チームというのはものすごく強いんでしょうね。“もののはずみ”で負けることがあったって,不運がつきまとったってプレーオフには出てくる訳ですから。