/Index/About this/information/三国志論/雑論/書評/Links/About ME/
「ら」抜き言葉と言えば,「見れる」、「食べれる」、「当てれる」等,助動詞「られる」を可能の意味で使うときに見られる現象ですよね。ちなみに,「られる」は上一段活用、下一段活用、カ行変格活用の動詞の未然形に接続することはご存じでしょうね。
さて,「ら」抜き言葉がなぜ生まれるかと言えば,これはもう「ら」付き言葉が発音しにくいからでしょう。「見られる」、「食べられる」、「当てられる」…確かに「ら」抜きの方が発音しやすいように思いますねえ。
それに,冒頭でも書いたように「ら」抜き言葉は可能表現の時にしか現れません。別に「られる」が消えてしまう訳でもありません。「日本語の崩壊」の中で「ら」抜き言葉がヤリ玉に挙げられることがありますが,これは日本語の崩壊とはちょっと違うのではないかと考えます。
と言うのも,日本語に発音のしやすさによる言語変化がこれまで無かったわけでもありませんし,言語は発音されてナンボのものでもありましょう。となれば,「ら」抜き言葉は言語の趨勢(?)に乗ったごく自然の成り行きと言えるのではないかと思う訳です。
今,日本語には「音便」というものがあります。動詞の変化の時によく出てきますが,動詞の本来の活用形とは違う形を認めている訳ですね。極端な話をすれば,これだって日本語の崩壊になるのです。なぜなら,これも発音の利便性から出てきたものに過ぎず(既に定着してしまった後の世代からしてみれば当たり前の話と思うかも知れませんが),文法破壊の1つだからです。
しかし,これを日本語の崩壊の現れとして,音便を使わない「日本語崩壊」論者はいるでしょうか? 私の見る限りいないですよ。あえて古語的な言い回しを使う人はいますけどね。
ですから私は,「ら」抜き言葉はスラング多用など他の「日本語崩壊」とは分けて良いんじゃないかと思っているのです。さて,今まで「ら」抜き言葉を使わないように努力していた私が,なぜ賛成論に転じたかと言いますと,これはもう,「イタリア語を習い始めたから」ですね。
イタリア語は主語によって動詞が活用するわけですが,不規則活用の動詞が結構多いのです。不規則活用というと,非常に覚えるのが面倒だと思われがちですが,イタリア語の動詞の不規則活用は,発音的に理にかなっている(と私は思っている)ものがあるのです。
「不規則活用が覚えにくいのは,活用を機械的に覚えて,発音を考慮しないからである」という意見が通るならば,イタリア語の不規則活用は克服しやすいと言えるでしょう。また,この不規則活用というある種の「文法破壊」が言葉をより理解しやすくしているとも言えるでしょう。…っちゅう事で,私にとって「ら」抜き言葉はOK!
ソルトレークシティオリンピックは後何日残ってるんでしたっけ? 今回のオリンピックではジャッジの信頼性に関わる大きな疑惑が持ち上がり,大変なことになっているみたいですね。ルグーニュに至っては「不正をしたと言ったのは嘘です」みたいなことを言っていますが,あの人の発言に信頼性はもう無いですな。調査するならちゃんと調査してもらいたいものです。
さて,日本人にとってはそれと同時に持ち上がってきたのが「寺尾悟失格問題」でしょう。
言うまでもなく,寺尾悟はスピードスケートショートトラックの選手で,表彰台も狙える実力の持ち主です。その彼が,1000mの準決勝において1位でゴールしながら「前を走っていた選手の進路妨害をして転倒させた」として失格になったものですが,「リプレイで見る限り,寺尾選手が前の選手を転倒させたようには見えない」らしく,メディアでの批判が大きいようです。日本選手団が抗議文を提出して却下されたということもありますが,ジャッジの信頼性が揺らぐ中での事態だけに,この判定に対しても疑問の声が大きいみたいですね。
しかし,私はリプレイを1通り(2〜3回反復して見せてくれるので十分)見て「失格取られてもしゃあないやろ」と思いました。
リプレイをVTにでも撮っている人は,もう1度よく見てください。前を走っている選手が転倒した流れの中で,寺尾選手は明らかに前の選手に手を触れているでしょう? さらに,その手は前に動いているでしょう?そして,寺尾選手を軽く押していた人がいましたよね? 寺尾選手はその人を押し返した格好になっていませんか?
これらの要素を全て合わせると,「寺尾選手は他の選手に押された仕返しに押し返して転倒させた」という解釈が成り立つわけですな。
「仕返しのどこが悪い!仕掛けたのは相手側じゃないか!」と言う意見があるでしょうが,スポーツにおいて,仕返した側だけペナルティを取られる例は多くあります。アメフトなんぞは,その典型的な例で,仕返しやってペナルティを取られ泣いた人間がどれだけいる事か…。
今回の件は,不運なことに寺尾選手が仕返ししたように見えたと言うことでしょう。ジャッジそのものに問題があったとは思いません。むしろ問題があるとすれば,今回の反則を取ったことよりも,それ以外の反則の多くに目をつぶっていることでしょう。
今回の件については,「納得できない」と言う声も大きいですが,不正ではないでしょう。ですから,フィギュアスケートでの不正疑惑とこの判定の問題とを同列に語るのは筋が違うと思います。
ちょっと掲示板を見てみましたが,判定に理解を示す人はほとんどいないですね。ただ,悔しさにまかせて他を悪く言うのは止めましょう!
最後に,私の一言。「最終コーナーでイン突いてるようじゃ無理ですわ!」
“事務員は機械のようなもの”と思われることは最近無くなってきたでしょうか。もちろん,事務員は人間ですから,機械のように扱うことは許されません。
しかし,事務の仕事は非常に機械的なものが多いのではないでしょうか? データの打ち込み、書類の転記、計算等々…。「機械的な作業をすることが多いから事務員は機械のようなもの」と考えるのは大きな誤りです。しかし,事務員は機械のような仕事を求められるという事実はあります。
そもそも機械的な仕事とは,執務者の主観によって結果が左右されないことを前提としています。執務者ができるのは,「明確に誤っているもの」を正すことだけです(実は重要な役割なんですが)。そして,執務者には原則としてミスが許されません。なぜなら,「ミスをしたら機械以下になってしまう」からです。
機械的な作業で,機械でもできそうなことを人間がやるのには意味があります。人間の目によるチェックを入れることができるのです。現在の所,人間はこの点で機械を上回っています。機械には,(人間界における)誤った情報を自動的に修正する機能がありません(例えば,ある人の名前や生年月日が誤って入力されていたとしても,機械はそれを自動的に修正することができません)。
人間なら,こういった単純ミスを見つけて修正することができます。こういう機械以上の仕事ができる点で,人間の事務員は存在価値があるのです。以前,機械に人間が仕事を奪われるという現象がありましたが,これは,人間が機械以下の仕事しかできないと判断されたことに一因があります。
ところが,人間の事務員の中には,この機械的な作業の中でミスをしてしまう人がいるのです。左に書かれていることをそのまま右に書き写すだけの作業の中で,誤字、脱字、桁間違いなどをしてしまうと言うのがその例でしょうか。
事務員にとって機械的作業における単純ミスは,その事務員の存在価値に関わる大事件なのです。なぜなら,機械以下になってしまうからです。機械以上の能力を求められて事務をしている人が,機械もしないようなミスをしては,存在価値がないと言われても仕方ないでしょう?
機械なら絶対にやらないこのミス,私は事務員の恥だと思うのです。極力なくす必要がありますし,もししてしまったら,恥じ入って反省すべき事ではないでしょうか。毎週木曜,ある番組で「モーレツ!怒りの相談室」というコーナーがありますが,ほぼ毎週,事務的ミスによる怒り相談が寄せられています。そのほとんどが機械的作業における単純ミスなのですが,「ミスした側の態度があまりにもよろしくない」という意見が多数あるのには驚きます。
ミスして威張ってられるとは,事務員としての自覚があまりにも足りないんでしょうね。機械にも劣ると言うことを自覚しなければならないのではないでしょうか。
特に,公務員によるミスが多数あるのですが,事務職の公務員が事務で存在価値を無くしたら,いったい何のために公務員をしているのでしょうか? 単純ミスだから大したこと無いと思ったら大間違いですよ! 単純ミスだからこそ大きな問題なのです。最後に,単純ミスの典型,誤記を防ぐには,写本が最も効果的です。文章や表を本からノートか何かに書き写す練習をするのです。練習すれば,ミスの原因も分かるでしょうし,何よりもコツをつかむことができ,仕事が速くなるのではないかと思います。
それでもミスする人は…,もう知らん(--;)! 注意力を何とかして高めて下さい。と言うことで結論。
事務員は機械以上の仕事をしているからこそ事務員としての価値がある。
ゆとり教育を目指した教育構造改革の一環として,公立学校週5日制と教育内容の大幅削減が行われました。教育内容を減らすことにより,詰め込み教育の弊害をなくすことが目的となるようですが,まさかこれによって受験戦争が無くなると思っている人はいないでしょう。それどころか,公立学校では受験に対応できないという心配のため,受験戦争の低年齢化に拍車をかけることも予想されます。
そもそも,公立学校にしか影響を及ぼさない(私立学校にもある程度影響を及ぼすのですが,抵抗できるので無意味)制度改革で,本当にゆとり教育の実戦は可能なのかという問題があるんですな。
「総合的学習の時間」にしたって,定義そのものが曖昧。何やって良いんだか分かっていない教師なんかも多くいて,これじゃ何ができるのか…。週5日制もまだ実行の素地ができていないんじゃないかと思います。多くの親は学校に子供の世話をまかせっぱなし(学校が子供を育ててくれると思いこんでいる)、土曜日親が仕事の時に子供を世話してくれる所が少ない、土曜日に子供が集まって何かをするような企画に乏しい等々。問題点山積みの中で強行したような気がします。
もちろん,数年前には決まっていたことですから,問題点を解決できていないことに問題があると言えばそうなのですが,その問題点の解決に誰が動いたでしょうか? ハードの規格を変えたのに,ソフトは何ら対応できていない責任は誰にある?
週5日制そのものは決して悪くない制度です。上手く活用できれば学力を落とさずにゆとりを生むことは可能で,非常に理想的だと思います。ただ,ソフトが全くと言っていいほど対応していないんですな。親は新たに与えられる1日をどう使えばいいか知らない。公的機関は親に世話をまかせれば全て解決すると思いこんでいる。学校は1日減ったところで仕事が楽になるわけではない。大学入試は教育内容が減った所で難度が変わらない(…みたいですね)。教授の面々は高校までの教育に対して関心を払っていない(アホが来たら困ると思っているくらいですか?)。
原因の1つは「人任せ」にあります。「誰かがやってくれる」事を期待して自分は何もしない。これでは変革は難しいでしょう。もう1つは「横並び」。教育内容の削減に対応する(新しいハードに対応したソフトを出す)と自分たちは遅れてしまうと思っているですな。確かに,現在の概念の中では学力面で後れを取るでしょう。しかし,学力以外の面を充実させれば,決してアホができあがるわけではないのです。と言うよりは,学力として認知されない面を伸ばすことで,質の高い人間を生み出すことは十分可能なのです。
もちろん,「変化を拒む国民性」も大きな原因でしょう。「変わらないことは楽」ですからね。これまでと違ったことをやるのには新しい価値観とか,とかく変化が必要ですから,抵抗ありますよね。以上のことから私は,教える内容を増やしてもゆとりを生むことは可能だと思っています。文科省の思惑は「教える内容を減らすことによって,満点が取れる子を増やす」ことのようですが,私は逆に「満点が取れる子を減らす」改革もありだと思っています。満点が取れるような教育では,子供は常に満点を取ることを要求されるので,逆効果になるケースも多数出てくるだろうと思っています。逆に満点が取れなくても良いというゆとりを与えることで,本当に興味を持って学習を進めることができるケースもあるのではないかと思うわけです。
教育内容を減らした所で,満点が取れる子が増えるとも思えません。減らしたなりにしか成長しないですからね。
NHKの語学番組は4月に一斉改変されます。TVは1年サイクル,RADIOは3箇月or6箇月サイクルなので,4月は全ての番組が一新されることになります。
まあ,ここではTVについて取り上げるわけですが,この4月からのTVの語学講座7つ(英語以外)で生徒役が男性なのはいくつでしょう? 答えは1つ!(ドイツ語の桂小米朝,Kobiですな)
しかも,グラビア系の生徒役の人(いわゆる綺麗どころ)が結構多く出てきてるんですな。イタリア語の吉岡美穂、フランス語の仲根かすみ、中国語の北川えりetc. フランス語は昨年の井川遥に続いてこういう系統の人ですね。
別に,綺麗どころの人が生徒やってるからって困ることはないんですよ。番組の質が悪いとか言うわけでもないし,生徒役の人はかなり頑張っているみたいですし。
ただね,NHKは何を狙ってこの人達を起用しているかと言うことなんですよ。語学を本気でやる人にとって,極端な話,生徒役は誰だって良いわけです。番組にとってお荷物になりさえしなければ。だから,こういう綺麗どころを起用するのには何か裏があると思うんですな。
ある雑誌にも書かれていましたが,やっぱり視聴率が欲しいんでしょうか?
まあ,生徒役の人にとっては自分がアホでないことを証明できる場ではありますからね。結構使える場かも知れません。是非は色々ありますけどね。そうそう,この4月からのRADIOスペイン語講座入門編にキムタクが出ています。どういう事かと言いますと,講師の名前が木村琢也。ただそれだけ,言ってみたかったの!
私は最近とある旅行会社でアルバイトをしました。アルバイトと言っても,1年間続けようものなら法律上「短時間労働者」とは言えない位の時間働く事になってしまうような仕事ですから,この会社で「アルバイト」というのは職場での雇用形態を表すものに過ぎないのかも知れません。
さて,自分がどの様な状況で働く事になるのか,自分から全ての条件を突き詰めるのはかなり無理があります(1から10まで分かっている状況で就業できる事なんてまずない)。
そこで,大体の職場では,「労働基準法」なるものが幅をきかせ,使用者はこれを基にして「就業規則」なるものを作り,労働者を雇用しているのです。しかし,私がアルバイトするこの会社では何を考えたのか,「書類を法律に合わせる」行為を平然と行っているのです。
仕事に応じて労働時間が変幻自在するという会社なので,アルバイトの募集広告の労働時間の所には「9:30〜17:30 ※残業有」と書いてあるのですが,これを以て4時間でも5時間でも残業させて良いと考えているようなのです。
この点を衝くと,「法律(労働基準法)があるから広告にはこのようにしか書けない」等とのたまいました。
「おい,法律を外形だけ守るというのは脱法行為(違法かな)だぞ!」
でも,会社にこう言われれば唯々諾々と従ってしまう人もいるのでしょう(でなければこの会社人がいなくなるでしょうから。とは言え,文句言いながらも会社に残る人もいる。世の中どうも分からないものです)。
日本においては,多少の無理を精神論で押し切るという悪い癖があります。「気の持ちようでしんどい事も乗り切れる」だとか「状況が厳しいと文句を言うのは気持ちが弱いからだ」とか。
でも,それにも限界というものがありましょう。1日8時間という労働基準法の規定を遵守しない輩には言われたくないですな。
それにしても,こういう企業の人達は,自分が法律違反をしているという意識が低すぎますな。法律違反行為というのは,「秩序を乱す」という点では殺人・強盗と大きな違いはないというのに!
それに,労働基準法に明らかに違反している労働体系で,多いときには1日14時間とか15時間とか労働者を働かせて,労働者を死に追いやったって,雇用者には責任を感じない人が結構多いのです。
もちろん,景気の低迷とか業績の伸び悩みとか,企業にも言い分は色々あるでしょう。しかし,だからといって法律違反をして良いという事には決してならないのです!さて,このような御時世ですから,自分の身は自分で守るようにしなければならないでしょう。他人に守ってもらおうというような気持ちでは,いざというときに自分で自分を守る事ができません。私も今回の事態で「労働基準法」を思い切り読み込みました。そして,「知識は自分で付けなければならない」と思ったのです。もちろん,専門的な事は専門家に頼らなければならないでしょうが,基本事項くらいは自分の責任で知識を付けておかなければならないでしょう。
で,必要に応じて相手方と戦う事も必要なのです。日本人特有の「なあなあ」で済ませるのは自分の主張が通じないどころか,相手の理不尽を受け入れると思われかねない事を肝に銘じましょう。特に外国人を相手にするときには。
私の家で取ってるのは朝日新聞。そこに私の意志が働いている訳ではなく,ただ流れでそうなっているだけの話ですが。
7or8年ほど前に,何故朝日新聞を取るのか聞いた事がありますが,その時の答えは,確か「一番しっかりしている新聞だから」という事だったと思います。
さて,その朝日新聞,最近私が最も嫌いなコーナー(?)は「天声人語」。文章に普遍性を欠くのはもちろんの事ながら(まあ,それは朝日新聞の方向性なので良いとしても),はっきり言って文章が面白くないのです。ここ数年でこれを書く人のレベルがかなり下がったのではないかと私は思ってますけど。
論理飛躍が激しく,ちょっとした事でも針小棒大に書く(「サッカーに熱狂的」→「愛国心」→「移民排斥(排外主義)」)かと思えば,ひどいときには「昨日の〜さん」みたいな事しか書いてない。
「こいつどういう経緯でネタを仕入れているんだろうか?」と思わざるを得ません。まさかデスクにどっかりと座って,気が向いたときに適当に文章書いてるんじゃないでしょうね?
それもさることながら,私が信じられないのは,大学の入試試験に「天声人語」が使われている事です! 単刀直入に言うと,「誰にでも書けるようなつまらん文章をよく試験問題として使えるなあ」という驚きなのですが。
もうちょっと,人を感心させるような文章を書いて欲しいものです。このままじゃ,ただの「新聞社サラリーマンの日記」じゃないですか!
「男女同権」が言い出されて久しくなります。「男女は平等になったか?」と言う問いには未だに「否」と言う答えがふさわしいのですが,本当の男女平等のためには人間の意識改革も必要となるので,難しい点が山積みです。
さて,男女同権に関して「フェミニズム」と言う言葉があります。単語の成り立ちからすれば,「女性主義」という意味ですが,辞書では「男女同権主義」、「女権拡張主義」という意味になっています。
で,ここから派生したのが「フェミニスト」。辞書上は「男女同権(女権拡張)主義者」です。
ちなみに私は,人は男女の性別やその他の条件によって差別されるべきではないとは思います。また,男女に関しては,「男は外に出て働き,女は家を守る」という考え方に反対するものです。私はそのようなことから,これまでフェミニズムを支持していて,「フェミニスト」と呼ばれることに対して違和感を持っていませんでした(果たして私をそう呼んだ人がいたかどうか…)。
しかし,最近は世の「フェミニスト」なる人の発言や行動に疑問を持つようになっています。世のフェミニストは「女権拡張主義者」なのか「男女平等論者」なのか分からなくなってきているのです。
9月10日の朝日新聞夕刊に上野千鶴子氏の文章が載っていました。フェミニストとして有名な人ですが,私はこの文章を読んで「この人がフェミニストならば,私は絶対にフェミニストとは呼ばれたくないし,フェミニストを男女同権主義者とは訳してもらいたくない」と感じました。
「非力の思想」と題して,9・11について述べているのですが,9・11に対するアメリカの報復を暴力による抑え込みと定義し,非力なものは理不尽さを感じながらも反撃することができないとする所までは(異論があっても,それは1つの見解として何ら)問題ないにしても,その後で暴力による抑え込みをDVと関連づけ,暴力は男の象徴で非力は女の象徴のように書いているのは納得がいきません。
極めつけは,「ところで女は平和主義者だろうか?」と言う一文。これが「否」という答えを出すことは検討するまでもなく明らかなのですけど…(対偶を取ってみればよく分かります。平和主義者でない→女ではない=男である,これが間違いなのは分かるでしょう?)。さて,上野氏はこの続きに「歴史はその問いにノーと答える」、「女だからと言って自動的に平和主義者だと言うことにはならない」と書いています。…歴史に問わなければならないことなんでしょうか?
そもそも,「力がある」とは何なのでしょう? 上野氏はこの文章の中で,「(反撃するための)力とは,軍事力,つまり相手を有無を言わさずたたきのめし,したがわせるあからさまな暴力のことだ」と書いています。そして(文章上から読みとると),暴力を所持するのは常に男で,女は死と引き換えになら男並みに力を持つことができるとしています。
上野氏は「非力なものも死と引き換えになら自分自身を武器に変えることができる」と書いています。これは間違いではありません。しかし,その直後に「女だって男なみに戦力になれる―そう考える人もいる」とも書いています。問題はその部分の正当性ではなく,その文章を持ってくる必要性です。非力なのは女だけでしょうか?
そして,「非日常のヒロイズムに陶酔したのは男達だった。だが今日のように明日も生きようとする女の日常にとってはヒロイズムは敵だ。…(中略)…男なみになれない自分と,男なみになることの愚かさとを,女はとことん学んだのではなかったか?」と言う所まで来ると,人間というものの本質をどこまで捉えているのか疑問が湧いてきます。
私は「女性は一個の人間として尊重されるべきだ」と思いますし,「女性が社会で重要な地位を占めるためには,女性が(現在の)男性と同じ働きをするべきだ」と言う意見には全く賛成しません。ですから,確かに「女が(上野氏が文章で定義する所の)男なみになる」事が愚かしい,というのは正しいでしょう。しかし,上野氏が定義しているのは本当に「男」でしょうか? ヒロイズムに陶酔するのは男なのでしょうか? ヒロイズムを敵とするのは女なのでしょうか?
統計を取ってみれば,ヒロイズムに陶酔するのは男が多いかも知れません。ヒロイズムを敵とするのは女が多いかも知れません。しかし,それが男女の本質ではありません。上野氏は多数を全数に置き換えていませんか? 一般論だからそれでも良いのですか? どう読んでも「暴力に走るのは男であり,女は(男の暴力の遂行に協力したり参加したりするけれど,本質的には)暴力には走らない」と書いているように見えますが?ところで,上野氏の文章にある「男」を「男性的な人」に,「女」を「女性的な人」に全て換えてみると,男女について断定的でなくなって意味が通りやすくなるようです。しかし,こういった決めつけはフェミニズムの最も嫌う所ではなかったのでしょうか? フェミニズムとは元々,女性を社会的に不当に貶めるレッテルを剥がすことが目的ではなかったのでしょうか? レッテルを剥がす人達が,逆にレッテルを貼ってどうするのでしょう? 物理的暴力でないとは言え,レッテルを貼り情緒に訴えて一方向へ導くことは,一方向へ導くという点で物理的暴力を用いる抑圧者の思想と変わらないのです。それは文章による暴力ではないのですか?
私は,フェミニズムの主張が抱える問題の1つはここにあると思っています。「男=暴力,女=虐げられるもの」という構図は現状としては,一面において全く以て正しいのですが,それは男女の本質を言い当てたものではなく,現状がそうなっていることを言っているに過ぎないことをどこまで自覚しているのでしょうか? 女権拡張,男女平等とは,本来「男=支配,女=服従」という現状の構図を変化させるためのものではなかったのでしょうか? それが,男女平等が進まないいらだちからなのか「女性の権利を確保するためには,男というものをどうにかしなければならない(極端に言えば排除しなければならない)」と言う方向へと変わってきているような気がします。
最近のフェミニストの一部には,あからさまに「男性という存在」に対して攻撃をしてくる人がいます。しかし,それは正に字面上の「フェミニズム」であって,女尊男卑へと繋がりかねないものでしかありません。「男は…,女は〜」と言う表現を簡単に持ちだしてくる人の意見を聞いていると,固定観念から女性の利益になるように意見を言っているだけで,男女平等の理念はどこかに行ってしまったのではないかと思えてきます。
フェミニストが,社会の欠点は全て男性によるもので,女性はそれに対抗・反発する存在という位置付けをするに及んで,私にはある1つの考えが浮かんできています。フェミニズムは実利主義であって哲学ではない。つまり,最終的には男女が本当に平等になるかどうかが問題ではなく,女性が有利に扱われるようになるかどうかであり,女性が優遇されるようになればそれでよい,と考えているのではないかと言うことです。私がフェミニズムに対して持っている考えが間違っていた可能性もありますが,上野氏とかがフェミニストとして有名で,この人たちの意見がフェミニズムの象徴として指示されるのならば,私はフェミニストなどと呼ばれたくありません。また,フェミニズム=男女平等論者という定義も明らかにおかしいと思います。現代社会は明らかに女権拡張の方向性が間違っているし,男女が平等に扱われるのは当たり前と言うよりも論議されるまでもないこととは思いますが,フェミニストの主張が全て正当だとは全く思えないですし,フェミニズムが最終的に男女平等を目指しているようには見えないのです。
Lei è una feminista,arrogante,caparbia,egoistica…