■ 変 奇 館 訪 問 記 ■

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5.

東京から戻ってしばらくは、何をする気力もおきなかった。
仕事に精をだして、夜は飲みながら食事をとる、
といった生活に戻っていった。

書誌を作ろう、と考えたとき私は密かにご家族は勿論、
他の人に訊くようなことはしまいときめていた。
余計な負担をかけたくないという思いがあったのも事実だが、
それ以上に逃げ道は残しておこうという姑息な考えの方が強かった。
他人をまきこむことによって、なにがなんでも仕上げなければならない
という状況だけは避けようと思ったのだ。

正解だったな、と思ったもののやはり少し淋しい気がした。
早く部屋に帰った夜は、単行本未収録の小説やエッセイのコピーを
読み返したりした。
なぜ、この作品が単行本に収録されなかったのだろう、
と思うものが多かった。
これをこのまま埋もれさせてしまうのは勿体ないなと思った。
やはり、このまま終わらせてはダメだという気持ちになっていた。
昔読んだ谷沢永一の文章を思いだして自分を鼓舞した。
それは、どんな稚拙なものであれ、書誌はないよりも
あった方がいいにきまっているのだ、というものである。
そうだよな、全くのゼロより一でも二でもあったら少しは便利であるに
違いない。最初から完璧な書誌を目論むこと自体が傲慢なのではないか。
そう自分に言いきかせて作業を再開することにした。
そんな風に考えたら、なにがなんでも独力でと
力みかえることもないと気が楽になった。

長篇小説「結婚します」の初出を質ねる手紙を沼田陽一氏に書いた。
そのとき、たいへん失礼ながら沼田陽一氏がどういう人なのか
全く知らなかった。
ただ、氏が集英社文庫の「谷間の花」の解説を書かれ、
そこにこの「結婚します」は地方新聞に連載された、とあったからである。
私は氏に長い手紙を書いた。
解説のなかで氏は、まとまった山口瞳論を書きたいと書いていたので、
それがすでに書かれたのであれば是非読みたい、とも書いた。
私は図書館で氏の住所を調べて投函した。
(確か、文芸年鑑には氏の名前はなかったと思う)

沼田陽一氏からはすぐ返事を戴いた。
そこには、なにぶん古い話なので、
(そうなのだ、調べている当人にはいまのことであっても、
 この小説が刊行されたのが昭和四十年三月であり、連載していたのは
 前年の三十九年と思われる話なのだ。
 実に三十年以上前のことをいきなり聞かれても戸惑って
 しまうだろう。
 この、時間の座標軸のズレはその後も何回も思い知らされた)
治子夫人に確認した、とあり、共同通信社配信で、
地方紙の何紙かに連載した作品であること、そのうちの一紙は
「河北新報」だったと思う、との返事だったと書かれてあった。
 
ヤッターと思った。長い間の胸のつかえがとれた喜びで、
すぐに沼田陽一氏と治子夫人に礼状を書いた。
その一方で、宮城県立図書館へも
「河北新報」の昭和38、39年の連載小説の確認をしてもらう
依頼状を書いた。
地方新聞のバックナンバーは大阪、北海道の図書館にはなかった。

治子夫人からは、すぐに返事を戴いた。
しかも二通一緒である。
一通目には、膝のお皿を転倒したときに割り、六十日間入院し
退院したばかりであること、スクラップブックは
書棚の高いところにあり、杖をついて歩行しているいま、
とりだして見ることができないことが書かれてあった。
そして二通目には、手元にあるスクラップブックの何枚かを
切り取って、記念にと送って下さったのである。

やはり、夫人はスクラップブックを作っていたのだな、
それを是非見せて貰いたい、と思った。
そのためにもなぜ書誌を作ろうと思ったのか、
いままでの成果はここまであることなどと一緒に、
私自身の履歴なども書き加えた。
単なる好奇心ではなく、一冊の書誌としてまとめたいという
気持ちでいることを強調し、
信用してもらいたいという下心がミエミエの手紙であった。

間髪いれずに、といったカタチで夫人は返事を下さった。
山口瞳氏が夫人の美点として、日記をつけていることと一緒に、
知人・友人あるいは山口瞳氏のファンの人たちからの
手紙をすぐ書くことを挙げていたが、
まさにその通りであることがよく分かった。
とても有り難いと感謝した。

宮城県立図書館から、「河北新報」を調べてみたが
「結婚します」の連載はなかった、念のためその前後数年も
見たがなかった、との知らせを受けた。
私はすぐに「北国新聞」に照会したが、
ここも連載の事実はなかった、との返事だった。
そこで、共同通信社へ同様の照会の手紙を書いた。
時間は少しかかったものの、丁寧な回答を頂戴した。
昭和四十年前後に山口瞳氏の小説を地方紙へ
配信した記録はないとのことだった。
ここで解明の糸が切れてしまった。
「文芸年鑑」の昭和38・39・40年版の新聞小説の
項を二度三度と見直したが、やはり記載はなく
途方に暮れてしまった。


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