■ 変 奇 館 訪 問 記 ■

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6.



治子夫人との手紙のやりとりを何回かした後、
おそるおそるスクラップブックを拝見させて貰えないかと
お願いした。
夫人は主人の名前が活字になるのが嬉しく、
ただ切り取って貼りつけているだけだから
あまり過大な期待をしないように、と許して下さった。

こうして初めての変奇館訪問は実現した。
1997年7月4日のことである。
このときのことは「変奇館の主人bb山口瞳評伝・書誌」の
はしがきに書いたので、それをそのまま転記することにしたい。

タクシーから降りた途端、治子夫人が玄関のドアを開け迎えて下さった。
ドアの横の表札は、中川一政氏からの手紙の宛名を
凸状に起こしたものである。山口瞳氏は中川一政氏の書がお好きだった。

応接間は写真で見たままであったが私は興味津々であった。
壁のいたるところに絵や書が飾られている。
「たにし亭ありき」に書かれた、三岸節子の絵、
『小説新潮』のグラビア頁『私の宝物』で紹介された
ボッカッチの大蒜の絵、
吉行淳之介の「樹に千びきの毛蟲」の色紙が表装されている。
そしてご自身の「自画像」、『山口瞳大全』の口絵に使われた
焦茶色の瓶の絵等々。
治子夫人への挨拶も上の空で、視線をあちこちに向ける私を
夫人は、不作法な男と思われたろうと
今になって恥じ入ってしまう。
私は感無量だった。
緊張感もあり失語症のように言葉をつまらせる私に、
夫人は優しい笑顔で固まってしまっている気持ちを和らげて下さった。

クーラーの風が嫌いという山口瞳氏の応接間は暑く
自分でも戸惑うほど汗が滴りおちてくる。
持っていた二枚のハンカチはすぐにぐっしょりと重くなってしまった。
夫人は見かねてタオルを貸して下さった。

夫人は山口瞳氏のことを「ヒトミさん」とお呼びになられる。
そのことが新鮮で爽やかな印象として残った。
いろいろなことをお話してくれた。

「正介が見せるように、と置いていったのだけれど」
と夫人が渡してくれたのは、「俺は十九歳」のコピーであった。
コーセー化粧品の顧客向け冊子「カトレア」に
連載された小説である。全く存在を知らなかった作品で驚いた。
パラパラと読むと、山口瞳氏の文体とは思えない作品であった。
これはすごい、と思った。
この作品の存在を治子夫人も正介氏もご存じなく、
東北の山口瞳ファンの方からの手紙で知り、コーセーに頼み
コピーを送ってもらったものとのことであった。

スクラップは応接間の書棚の前に、
正介氏が用意しておいてくれた。膨大な量である。
「知っているものばかりだと思いますよ」
と夫人は言うが、No.1の一ページを開いたときから、
未知のものばかりである。

私は大量の汗を流しながら、ノートに書き写していった。
新聞、女性週刊誌に発表されたものは今まで、
ほとんどノーチェックだった。
ひとつひとつ読んでいくので時間がかかる。作業は捗らなかった。

夫人が何度目かの冷たいウーロン茶を持ってきて下さったときに、
「少し休憩されたら」とおっしゃり椅子に座られた。
前夜、私は夫人への質問事項を用意しており、
漸くそれをお質ねする気持ちの余裕ができた。
鎌倉アカデミア時代の同人誌『尖塔』に、
山口瞳氏が書かれた作品のことを教えていただきたいと思っていた。

夫人は隣の書斎から文庫のようなものを持ってこられた。
そのなかから『尖塔』二冊がとり出されたとき、
私はビックリしてしまった。
まさか現物があるとは全く考えていなかった。
五十年以上経っているとは思えないほど保存状態はよかった。
表紙のカラーの絵も鮮明である。
本文は孔版で字が掠れ読めないページもあるが、
昭和二十一年の学生の同人誌とは思えない立派なものであった。

他にもその文庫には、国学院大学の卒業論文
「森鴎外--『鴎外的』性格の成立--」、
「履歴」の原稿が保存されていた。
私は信じられない思いで興奮しながらそれらを見せていただいた。

「履歴」の原稿を見たとき、すぐにはピンと来ず、
「江分利満氏」の下書き原稿だろうか、と思った。
夫人も二、三枚に目を通され、
「そうね、『血族』の下書きかもしれないわね」
とおっしゃった。
この「履歴」が『現代評論』創刊号のために書かれた
幻の作品である「履歴」と気がついたのは、
その夜ホテルに戻ってからである。

貴重な資料の保存については、治子夫人の功績だろう。
山口瞳氏はご自分の作品についての扱いは
夫人もおっしゃったように冷淡だった。
『男性自身』のなかにも、作品元帳をつけてなく、
編集者からせめてそれくらいは記録するように
言われたと書かれている。

そのあとも引きつづきスクラップの点検をさせていただいた。
「食事にしましょう」と夫人の声で、驚いて時計を見ると
六時をまわっていた。
初めての訪問で食事まで、とためらったがすでに準備が整っていた。
 
半地下の食事室に招じられた。
「ヒトミさんはいつもこの席だったの。ここに座って」
と山口瞳氏の席に座らせていただいた。
正面の窓から「雑木林」の庭を見ることができる。
薄暮のなかに背の高いナラの木がまっすぐ伸びている。
山口瞳氏もこの同じ風景を見ながら食事をされたのだな。
窓に接するように水槽があり、鯉が泳いでいる。
水槽の向こうに石垣がある。苔を根付けさせるために、
ところどころに溝の切込みをつくり、そこから水が流れるように
苦労された、『男性自身』にも書かれた石垣である。
いまは水が流れていない。夫人が笑いながら
「あまり水道代がかかるのですぐやめたのよ」とおっしゃる。
それを聞いて私も笑った。
山口瞳氏の残念そうな口惜しそうな顔を想像し、
笑いはなかなかおさまらなかった。
同時に唐突に深い悲しみがきた。その山口瞳氏がいない。
この世から姿を消してしまった。涙が溢れてとまらない。
私はうろたえ、顔の汗を拭うようにタオルを顔に押しあてた。
悲しみはしばらく続いた。

オレは山口瞳が亡くなったとき、山口瞳の死、そのものではなく、
死によって作品を読むことができない自分が悲しいのだと思った。
他者の死はそうしたエゴイスティックな悲しみではないかと
傲慢にも考えた。
だが、いま感じているこの悲しみは違う。オレは心から山口瞳の死を悲しんでいる、
そう思いながら顔を拭っていた。
 
食事のあと「俺は十九歳」のコピーをとらせてもらい、
夫人に見送られ、辞去したのは八時をまわっていた。
スクラップは昭和四十二年までしか終えることができなかった。
駅前のロージナ茶房に寄り、コーヒーを飲んだ。
どっと疲れがでた。
治子夫人も同様だろうなと考え、申し訳なさと感謝の念で一杯だった。
                          −転記終り−
 





山口瞳氏の書斎も篠山紀信の写真で見た通りであった。
応接間の左隣りに位置し、ドアはないので応接間から覗き見ることができる。
夫人に頼んで書斎にも入れていただく。
壁の三方が造りつけの書棚になっていて、整然と本が並んでいる。
入って右側だけが全面ガラス戸になっていて、
氏がこよなく愛した雑木林の庭へ出ることができる。
陽あたりの良い明るい書斎である。
正面に書棚を背にして大きな黒い机、これが梅田晴夫が亡くなったあとに、
遺品として貰った机である。
机の上には、「男性自身」用の原稿用紙がおかれてあり、
モンブランの万年筆とルーペが原稿用紙の上にのせられていた。
最後の著書となった「江分利満氏の優雅なサヨナラ」一冊がその側にある。
夫人が、時々雑誌の取材で書斎の写真を撮りにくるので、
こうしてそのままにしてあるが、時期をみて整理しなければ、とおっしゃる。

ここで、この机で、山口瞳氏は数々の作品をお書きになったのだなと粛然とした
思いがした。
椅子に座ることは畏れ多くてできなかった。

この山口瞳氏の書斎も、昨年秋(99年)に訪問したときには、
ご子息の正介さん(作家・映画評論家)の書斎へと
代替りされていて一抹の淋しさを覚えた。
氏が亡くなって4年、やむを得ないことであろう。

                          (了)                        


 


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