ここの背景画像、gifアニメは「QUEEN」さんからお借りしました。
いくら、処刑が横行していたとは言え、自分が有罪判決を受けるかもしれない、と言う思いで牢獄の日々を過ごすことは耐えられないことです。
このぞっとするような思いからどうしても解放されない囚人の何人かは、自らの死を演じる、ということを思いつきました。
つまりこうです。舞台を革命裁判所にして芝居をします。配役は、裁判官や検察官、被告人と証人、死刑執行人とその助手と言う具合にいくらでもあるので、思い思いの役を演じることができます。
すでに裁判所に出頭し、単なる禁固に処せられた人たちが、実際にこの目で見た検察官のフーキエ・タンヴィルや検察官代理の声色や身振りを面白おかしく真似しました。また、裁判長の自惚れた態度、自分の身を危なくしないように気を遣っている弁護人達を滑稽に演じる人もいました。
この芝居での裁判は必ず有罪判決で終わり、死刑が執行されます。死刑囚は縛られベッドに身体を伸ばし、首は板の下に置かれました。ここまでが第一幕の「現世編」。
第二幕は「地獄編」です。シーツをまとった人達が、身振り手振りで幽霊の真似をします。誰かが魔王の役を演じ、「断頭台にかけられた者」の足首を引っ張ったりしますが、そういう演技を観て役者も観客も大笑いしました。その魔王を演じた人が数日後、起訴状を受け取り、革命裁判所に行ったこともあるそうです(判決は不明ですが…)。
また、この予行練習に多いに興じた元参謀副官(貴族)のボワギュイヨンと言う人は、自分の最後の日が来たとき、断頭台までの護送車に乗りながら処刑人にこう言ったそうです。
「きょうは本番だぞ。私がどんなにうまく役を演じられるかわかって君は驚くだろうよ」
現世の憂さを忘れるためにお芝居をする、というわけでしょうか。牢獄では大して面白いこともありませんし、「革命裁判所」や「断頭台」がどのようなものなのか、前もって知っているのは悪いことではなかったかもしれません。実際、裁判を受け禁固刑になった人達は、不幸な仲間の気を晴らさせようとするために、裁判所の役人達の滑稽さを大袈裟に真似て笑いを誘っていたようです。趣味のいい時間潰しとは言えませんが、そうでもしなければ、牢獄ではやっていられないのでしょう。
赤ちゃんを生む日 (H11.3.29.UP)革命裁判所で有罪判決を受けたら、何がどうなっても判決が覆されることはありませんでした。老若男女一切の例外が認められないのです。
ただし、覆されるわけではありませんが、妊娠している女性に限り執行猶予が認められていました。といっても、出産が終わり次第、直ちに死刑執行となりますので、単純に命拾いした、とはとても言えないでしょうが、女性だけに許されたこの特別な処置を利用する女性は少なくありませんでした。命を長らえるために、受刑中も子作りに務めることもあったくらいです。
妊娠していないとわかっていても、「妊娠している」と自己申告すればしかるべき日が来るまで生きることができますので、嘘の申告をする者もいました。こういうことは微妙ですし、個人差がありますから、本人以外の者はなかなか「そんなはずはない」と断定することはできません。まあ妊娠が本当であれ、嘘であれ、下された判決は変わりませんから、かえって待っている間の恐怖のほうが恐ろしいのではないかと思います。
本当に子供ができていて、出産を待って処刑される場合、これはかなり辛い話です。お腹の中で赤ちゃんが動くのを感じ、普通ならばこれ以上の幸せはないのですが、この場合、出産の時期が近付くのは、母子の永遠の別れなのです。
せっかくお腹を痛めて出産したというのに、おっぱいを飲ませるどころか、子供とゆっくり対面する暇すら与えられません。今と違って、当時はミルクも栄養がなかったことでしょう。妊娠中に子供のためにおくるみのひとつやふたつ作ってあげていることでしょうが、それすらも身に付けてあげることができないのです。それに一体誰が母親代わりになってくれるのでしょう。せっかく生んだわが子の行く末を案じながらも、旅立たなければならない若い母親の心中を察しても余りあります。そのような女性の気持ちをが次のような言葉でつづられています。
「赤ちゃんを誕生日まで連れて行くことが私の務めですわ。それは私の死の前日になるでしょう。この地上では私のすることはそれしかありません。私にはそれしかない。私は赤ちゃんを包んでいる忠実な殻でしかありません。赤ちゃんが日の目を見るや砕かれる殻。私はそれより他のものではありません」
「赤ちゃんが生まれたら少しは見ていられる時間があるとお思いですか。彼らが私をすぐに殺すとしたら、とても残酷なこと。そうでしょう? ああ、赤ちゃんの泣き声を聞いていられる時間がほんの丸一日あったら、私は彼らを許すでしょう」
最後の優雅 (H11.3.11.UP)当時の牢獄の中は狭く、病人が多く、毒気がひどく一般的には人間の住める場所ではありませんでした。特に貴族の女性にとっては絶えがたいものだったでしょう。
しかし、フランス人女性はそんなことでめそめそしません。牢獄でも元気でした。マリー・アントワネットが最後に収容された「コンシェルジュリー牢獄」では次のような光景がよく見られました。
牢獄はもちろん男女別々ですが、お互いの姿が見られない、と言うわけではありません。男性は女囚用の中庭にくつろぐ女性たちを見ることができました。そして、女性も自分達が見られている、ということを承知していました。
彼女達は、毎朝、優雅なネグリジェのまま中庭に現れます。前の晩、悪臭のする粗末な藁の上で眠ったとはとうてい思えないほど上品な姿で、しばらく中庭でくつろいだ後、部屋に戻りお昼になると再び降りてきます。今度は髪も優雅に結い、凝った姿で現れるのです。男性の場所と女性の場所は鉄格子でわかれていましたが、鉄格子を間にはさんで男女が一緒に昼食を取ることは許されていました。そこでは、マラーやフーキエ・タンヴィルやロベスピエールが笑いの対象になり、洗練されいるけれど辛辣な話が交わされました。
そして、夜になると部屋着に着替えて再び中庭に現れます。つまり、一日に最低三回着替えるのです。しかも毎日。きっと彼女達は男性の目に触れていないところで、自分達の数少ない衣装を一生懸命洗い、そして乾かしていたのでしょう。
この様子を観察していた男性(同じくこの牢獄に入っていた)は、このように恐ろしい状況の中で、これほどまでに魅力的で官能的でいられるのはおそらくフランス人女性だけだろう、と言っています。
でも、きっと日本人女性もアメリカ人女性も同じような状況に置かれたら似たようなことをするでしょう。もしあなたが女性ならそうしますよね、きっと。男性は「異性を気にしているから」と自惚れるでしょうが、切羽詰った状況で洋服を清潔に保つことは自分の品性を保つ、ということにもつながります。
貴族の女性(もちろん男性も)の多くは、断頭台に連れて行かれる時も、それほど取り乱しませんでした。そのためにかえって「お高く止まっている」と民衆に嫌われましたが、それが貴族のプライドでしょう。しかも、恐怖政治の時に、まだ国内に留まっていた貴族はやはりそれなりの人物なのかもしれません。自分達の命は奪われても品性までは奪われない、ということなのでしょうか。 …でも、やっぱりそればっかりではないかもしれません。フランス人女性ってやっぱりコケティッシュですから。いずれ改めて、そのお話をいたしましょう。