フランス革命人物 ら行−2


フランス語のアクセント記号は、文字化けするので省略してます。正しくは書籍などを参考にしてください。


< (ルイ16世から) >

ルイ16世 1754-1793 (在位 1774-1792) (2)
Louis XVI (H13.8.27.UP)

ルイ15世の孫。フランス革命当時の国王。革命政府により処刑される。

1770年、16歳でオーストリア大皇女マリー・アントワネットと政略結婚。 1774年、祖父ルイ15世の逝去に伴い、帝王学を学ばないまま、20歳で国王に即位する。

知識は豊富で特に理系に優れていたが、その頭脳を生かせる才能に欠け、 愚鈍と言われ続けた。 性格は心優しく真面目で、ヴェルサイユの軽佻浮薄な風習に染まることはなかった。 勇敢なところもなく、優柔不断で決断力に乏しく、 国王にふさわしい性格とは言えない

錠前と狩猟が趣味(それ以外の趣味は?)。 当時のフランス宮廷では当然のことだったにもかかわらず、愛妾を持つこともなく、 マリー・アントワネット以外の女性には目もくれなかった。 (もし彼が女好きだったら?)

はじめの内、体に不具があり王妃と子供を作れなかったが、手術を受けてからは子供にも恵まれ、家族を大事にした。 国王でなければ結構平凡で幸せな一生を送れたかもしれない。

即位当時はテュルゴなどの改革派を登用して旧制度の行き詰まりを 打開しようとしていたが、税金を納めたくない貴族の反抗に屈して 三部会の召集を承認。 結局、これが続く大革命の引き金となる。

革命勃発後、対処の仕方がわからず王妃マリー・アントワネットの言うがままに動くがどれもこれも失策。 1791年に妻と妻の愛人フェルゼンに導かれて、一家そろって国外逃亡を企てる (ヴァレンヌ逃亡事件)が、 オーストリアまであと50kmと言うところで逮捕される。 そのせいで国民は国王がいなくても太陽はちゃんと昇ることを知り、 国王への信頼を無くしてしまう。

翌年の8月10日の蜂起で王権を停止され、 1793年1月の裁判の後、処刑

革命当日の日記に「何もなし」と書いたことはあまりに有名。 これは当日の狩の結果が「何もなし」と言うことだが、どっちにしろ国王の器とは言いがたい。

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ルイ17世 1785-1795?(在位 1793-95) (H12.5.9.UP) (2)
Louis XVII
1789年当時の
ルイ・シャルル

ルイ16世の子。10歳の短い生涯だった。

ルイ16世マリー・アントワネットの第三子、第二王子。1789年、三部会の真っ最中、兄ルイ・ジョゼフが死亡し、王太子となる。

1792年8月10日の革命後、パリコミューンに捕らえられ、国王夫妻、姉とともにタンプル塔に監禁された。1793年1月21日、父王処刑後、亡命中の叔父(のちのルイ18世)から国王に指名された。その直後、母や姉らからも隔離され、靴屋のシモンが家庭教師となる。

1793年10月18日にマリー・アントワネットが死亡。1794年1月にはタンプル塔にたった一人で幽閉され、悲惨な日々を送る。

1795年、病死と発表されたが、それ以前に本物の王子は町の浮浪者とすりかえられていたと見る伝説があり、何人もの人間がルイ17世を名乗った。長い間、タンプル塔で死亡したのは本物のルイ17世なのではなく、身代わりで、本物はどこかで生存していたという説もあったが、2000年4月19日、病死した少年の心臓とマリー・アントワネットの遺髪のDNAを鑑定した結果、その少年がルイ17世に間違いないとの結論を出した。これで200年にわたる謎は一応、解決したことになっている。

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ルイ18世 1755-1824(在位 1814-1815,1815-1824)
Louis XVIII

ルイ16世の弟。ナポレオン退位後ブルボン王朝が復活した時の王。

初めプロヴァンス伯(Comte de Provence)と言われた。1791年、ブリュッセルに亡命。ついでコブレンツで亡命貴族の指導者になった。

ルイ16世の処刑後は摂政を称し、17世の死後はルイ18世となった。ナポレレオン時代は諸国を放浪し、王統派の陰謀を企てたが、1814年五月ナポレオンがエルバ島に流されるや王位についた。(王政復古)

しかしその反動政治は国民の不満を呼び、翌年ナポレオンが一時帰国、百日天下となったが、六月ワーテルローの戦いで敗れ、再び王位についた。

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ルヴァスール (ルヴァスール・ド・ラ・サルト) 1747.5.27.-1834
Levasseur de la Sarthe (H13.5.17.UP)

ロベスピエール派の派遣議員。北部戦線で活躍。

外科医、国民公会議員、ロベスピエール派。派遣議員として北部戦線でオシュカルノーらと共にイギリス軍に立ち向かい、勝利を収める。

テミルドール反動後、1795年4月、ジェルミナールの蜂起に連座し追及されたが恩赦を受ける。

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ル・ヴォー (ルイ・ル・ヴォー)  1612-1670  (1)
Louis le Vau (H19.6.16.UP)

ルイ14世に委任されてヴェルサイユ宮殿の建築に携わった。

ヴェルサイユ宮殿の建築を通じ、マンサールと共にフランス的な古典様式の建築を確立した。

パリに生まれ、セーヌ川のサン・ルイ島に住んだ。

1654年、王室建築家となり、ルイ14世の命令によってルーヴル宮殿とチュイルリー宮殿の完成に参画した。

晩年にはヴェルサイユ宮殿の拡張に加わり、宮殿の中核部を設計した後、マンサールに引き継いだ。

この他の主な仕事としては、画家ル・ブラン、造園家ル・ノートルと共に携わったルイ14世の財務長官フーケが建てた「ヴォー・ル・ヴィコント館」(1656-1661)」等の名建築が挙げられる。

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ルジェ・ド・リール (クロード=ジョゼフ・ルジェ・ドリール)
1760.5.10-1836.6.26 (H11.10.13UP)
Claude=Joseph Rouget de Lisle
ラ・マルセイエーズの楽譜
ラ・マルセイエーズの楽譜

フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の作者。

東部フランスのジュラ地方に高等法院付き弁護士の息子として生まれる。バイイや貴族を親戚に持つような家柄で、教育も行き届き、準貴族風の生活をしていたらしい。のちに父親が貴族の資格を得、そのため、ルジェは当時貴族の子供しか入ることのできない軍学校に入学。

しかし、軍隊に入っても本職そっちのけで音楽にばかり励んでいた。その音楽好きは有名で、そのためストラスブールの工兵隊長をやっていた1792年、市長のディートリッシュ男爵から、ライン軍独自の行進曲を作るように依頼され、これが後の「ラ・マルセイエーズ」になる。

1792年8月10日の革命で王制は崩壊したが、ルジェ・ド・リール自身は、家柄的にも過激な革命派ではなく、年立憲王制を理想としていたため、王制の崩壊を認めることができず、議会から停職処分を受けてしまう。

1793年から恐怖政治が始まり、間もなく、ルジェは投獄された。しかし、テルミドールの反動後、8月18日に釈放され、翌1795年大尉として復籍する。オッシュ将軍と共に、ヴァンデの反乱の鎮圧軍に従い、功績を立てたる。

1795年7月14日、「ラ・マルセイエーズ」はフランス共和国軍を勇気付けたとして、1795年の革命祭で正式に国歌として採用され、ルジェには二挺のヴァイオリンと弓、ケースが与えられた。しかしながら、国歌に制定されたものの、実際にはその演奏を禁じられ、ルジェの死後である1879年2月14日にようやく国歌として再確認された。

1796年、少佐に昇進するはずだったが、カルノー達と争いを起こし、1797年、37歳にして軍隊から永久に除籍されてしまう。その後、外交官や音楽家として働き、一時はあのジョゼフィーヌの恋人となり、ナポレオンの恋敵となった。

そのためかナポレオンによく思われず、次第に貧困生活に入る。余生は恵まれず、生活の糧のために作曲していたらしいが、誇り高く生きていた。1836年6月26日、76歳で他界したとき、「国歌」の作者と言うのに国からは誰も弔問に来なかった。

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ル・シャプリエ(イザク・ルネ・ギ・ル・シャプリエ) 1754.6.12.-1795 (H13.8.28.UP)
Isaac Rene Guy Le Chapelier
ル・シャプリエ
ル・シャプリエ

「ル・シャプリエ法」を提唱したフイヤン派の指導者。

レンヌの高等法院づき弁護士。父も同じく高等法院づきの弁護士で、1779年に貴族になる。

1789年、三部会で貴族身分の代表になろうとしたが、貴族とは認められず仕方なく第三身分から選出され、ブルトン・クラブ(後のジャコバン・クラブ)の創立に参加。「封建的特権の廃止」を決定した1789年8月4日の時の議長も務めた。

1791年6月14日、結社の自由を制限する「ル・シャプリエ法」を提案し、旧制度の破壊に務めた。その時の演説で、

破壊の時は過ぎ去った。誰もが憲法に誓いを立て、誰もが秩序と治安を求め、誰もが大革命の終わることを願っている。これこそ、紛れもない愛国心の証左ではないか。」この措置に反対できるものがいるとすれば、政治結社を自らの目的のために操り、正直な市民を反乱へと教唆しようとする「邪心あるいは野望を持つ者だけであろう」

と言い、まだ憲法を作っていないのだから革命は終わっていないと主張するロベスピエールと激論した。ヴァレンヌ逃亡事件以後温和派となり、故郷レンヌに帰った。

1792年イギリスに渡ったが、これは通敵行為とみなされ、帰国後逮捕、王制維持の陰謀の容疑で処刑された。

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ルソー(ジャン・ジャック・ルソー) 1712-1778 (H11.11.10.UP)
Jean-Jacques Rousseau
ルソー

啓蒙思想家。ロベスピエールらが革命の指針とした「社会契約論」を著した。

スイスのジュネーブで時計職人の子に生まれ、すぐ母は死に、父からも離れ、孤独で貧しい人生の中、勉学に励む。

徒弟奉公の後、逃げ出し16歳から放浪生活を送る。1731年、ヴァランス夫人のもとに落ち着き、1738年まで共に暮らす。

その後、パリに出てディドロらと親交を結ぶ。1750年にはアカデミーの懸賞論文で「学問芸術論」を書き、一躍有名になった。その後、専制と不平等を告発した「人間不平等起源論(1755年)」、ベストセラーの恋愛小説「新エロイーズ(1761年)」、直接民主制と一般意志の政治理論「社会契約論(1762年)」を著し、人民主権を主張してフランス革命やアメリカの独立に大きな影響を与えた。

また、1762年には「エミール」を書いて、新しい教育論を論じたが、発売後直ちに発禁処分を受け、官憲に追われた。以後迫害と戦いつつ、スイス、イギリスなどヨーロッパ各地を転々と放浪。

晩年は自己弁護のため告白的著書「告白(1770年)」「孤独な散歩者の夢想(1778年)」などを書きつづけながら、孤独のうちに死んだ。

ルソーは、「自由なものとして生まれた」人間を、「いたるところの鉄鎖」から解放することを希求した。死後、ロベスピエールマラーロラン夫人サン・ジュストらは、ルソーの精神に深く感化され、彼の著作とその理想主義的理論は、革命の指導者から民衆まで大きく影響し、革命を準備し、<革命の理想的父>と呼ばれた。

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ル・ノートル (アンドレ・ル・ノートル)  1613-1700  (1)
Andre le Notre (H19.6.15.UP)

ルイ14世に委任されてヴェルサイユ宮殿の庭園を造った造園家。

パリ生まれ。祖父の代からの造園家の彼は画家ヴーエの下で絵画を学び、そこで調和やバランス感覚、調和を学んだ。その後、チュイルリー宮殿の筆頭造園家として活動を開始し、画家ル・ブラン、建築家ル・ヴォーと共に携わったルイ14世の財務長官フーケが建てた「ヴォー・ル・ヴィコント館」(1656-1661)」の幾何学的プランが名声を博した。

1662年、ルイ14世に委任されてヴェルサイユ宮殿の庭園全体の図面を新しく引きなおした。

全体は緻密な計算によって計算されているが、各部分は「迷路」や「舞踏の間」等、非常に大胆で大きな変化に富んでいる。

以後、1662年にイギリス、1679年にイタリアから招聘され、その華麗で荘厳な庭園は17世紀ヨーロッパの典型となった。

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ルバ 1765-1794
Lebas

ロベスピエールと共に活躍した政治家。

パ・ド・カレ県出身。パリで教育を受け、高等法院弁護士となった。政治に関心を持ち、1791年に県知事になる。

翌1792年、国民公会の議員に選ばれ、山岳派に所属。ジロンド派追放エベール派とダントン派の追放を経て恐怖政治のもと、ロベスピエールやサン・ジュストらの急進左派のメンバーになり、忠実な腹心として行動を共にした。保安委員の一員となり、サン・ジュストと共にライン軍に派遣され、各地方の鎮圧や体外戦争などに貢献した。

1794年、ジャコバン・クラブ会長、士官学校校長となった。

しかし、公安委員会内の反勢力によってロベスピエール派が逮捕されると、自ら進んで逮捕される名誉を望み、そのまま逮捕された。その晩、市役所でロベスピエールらが襲われると、ピストル自殺をした。

なお、ルバの妹アンリエッタはサン・ジュストの婚約者である(結婚せずに終わってしまったが…)。

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ルフェーブル 1874-1959 (H12.11.13.UP)
Georges Lefebre
フランスの歴史家。パリ大学教授

ジョレースの影響を受けてフランス革命期の土地問題を深く研究し、当時の経済構造と階級関係を明らかにし、革命の政治過程をそうした経済・社会構造との関連において捕らえようとする方法を確立し、もって革命史の研究水準を一挙に高めた。今日の革命史研究の主流はフランスの内外を問わず、彼の深い影響のもとにある。

主著は「フランス革命期におけるノール県の農民(1924)」「恐怖政治の土地問題(1931)」「89年(1939)」「フランス革命(1930)」等がある。

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ル・ブラン (シャルル・ル・プラン)  1619-1690  (1)
Charles le Brun (H19.6.17.UP)

ルイ14世に委任されてヴェルサイユ宮殿の絵画を受け持った画家。

パリ生まれ。ブーエに学びプッサンに引率されて訪問したイタリアでイタリア・バロック作品に影響される。帰国後ブーエに代わる存在となり、美術アカデミーの創設にも活躍して、コルベールやルイ14世の厚い庇護の元に独裁者的な地位を築いた。

また、造園家ル・ノートル、建築家ル・ヴォーと共に携わったルイ14世の財務長官フーケが建てた「ヴォー・ル・ヴィコント館」(1656-1661)」では絵画を担当した。 ラファエロの絵を元にしたタペストリー等を製作した。

1662年、ルイ14世ヴェルサイユ宮殿をさらに壮大なものにするための絵画を依頼された。

代表作として「鏡の間」の左右にある「戦争の間」「平和の間」の壁画、「大使の階段」のだまし絵などがある。

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ロベスピエール(マクシミリアン・フランソワ・マリ・イジドール・ド・ロベスピエール
Maximilien Francois Marie Isidor de Robespierre

「清廉の人」革命に人生の全てをかけた人。

北フランスのアラスに生まれ、弁護士をしていたが、1789年三部会の議員に選出されてから革命に身を投じる。

ジャコバン派のリーダーで、対外戦争よりも革命を徹底させるべきとの理由で、君主制の支配するヨーロッパに対する戦争に反対(1792年4月)し、その後、ルイ16世の処刑判決を招いた。

1793年、ジロンド派が失墜すると、ジャコバン派を率い、革命政府の指導者となった。 7月、公安委員会に入り、まもなくその原動力となり、民衆の要求に応えて反対派を次々と処刑するなどいわゆる恐怖政治(テルール)を行った。

また、フランス共和制に敵対する諸君主国に対する戦いを推進した。同士のダントンなどとは違い、賄賂を一切受け付けず、その潔癖なまでの厳格さに、「清廉の人」と言われた。
1794年には反対者のエベール派やダントン派をも粛清した。また、社会組織を深く変革することになる諸法律(ヴァントーズ法)や、恐怖政治を強化する法律(プレリアル法)を議決させた。宗教的には、最高存在の礼拝を創始した。

彼の清廉潔白さと独裁的な気配に不安を感じ、「次は自分だ」と思い込んだ(やましさが身に覚えのある)タリアンやバラスらが中心となって、テルミドールの反動を起こし、ロベスピエール派はあっけなく逮捕、処刑された。

当初、ロベスピエールは狂信者のように言われていたが、時代が進むにつれてその評価が高まってきている。もっとも、本人には今さら、どうでもいいことかもしれない。

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