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 恐怖政治  

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8.恐怖政治
  1. 山岳派独裁ジロンド派を倒した後、ロベスピエールを中心とする山岳派は一丸となって重大な危機に立ち向かいました。絶大な権力を掌握した公安委員会を中心に、恐怖政治が敷かれます。
  2. 新しい軍隊公安委員会軍隊を強化しました。イギリスやオーストリアなどの外敵も、ヴァンデの反乱などの内乱も鎮圧され、戦局上の危機は一応克服されました。
  3. 最高価格法ジロンド派を追放した国民公会は、民衆の強い要求に応えて、全ての商品価格を公定する「全最高価格法」を採用しました。これにより経済は一時的に安定しました。
  4. 革命暦と理性の祭典キリスト教を破棄するために、「革命暦」を取り入れ、「理性の祭典」が催されました。
  5. 恐怖政治の恐怖恐怖政治下ではどのような恐怖が行われていたのでしょうか。多くの人々の命が消えていきましたが、そのほとんどはパリ以外の地方で行われていたのです。

i. 山岳派独裁

一言で説明すると…ジロンド派を倒した後、ロベスピエールを中心とする山岳派は一丸となって重大な危機に立ち向かいました。絶大な権力を掌握した公安委員会を中心に、恐怖政治が敷かれます。

ブルジョワ勢力であるジロンド派に勝利した山岳派は、ジロンド派の失政による危機から共和国を救わなければなりませんでした。その危機に立ち向かうためには、通常の状態では切りぬけることができません。彼らが選択したのは、いわゆる「恐怖政治」でした。そして、その実行を民衆も認めたのでした。

内外の危機

1793年6月のジロンド派追放の前後、次々と事件が起こり、共和国は数々の打撃を受けました。

内乱
・ジロンド派が地方に散り、反ジャコバン派(連邦主義者)の反乱を煽動しました。リヨンが蜂起し続いてマルセイユ、ボルドー地方で反乱が起こりました。

ヴァンデの反徒達がカトリック・王軍となって恐るべき勢いをつけていました。
対外情勢 
・ツーロンはイギリスの手に渡りました。

・南部ではスペイン軍、サルジニア軍の侵入の脅威を受けていました。

・東部及び北部国境地方では、プロシア軍とイギリス軍に侵入されていました。

パリ
食糧暴動が起こりました。


1793年の憲法

国民公会は連邦主義に反対して「単一で不可分の共和国」を作るため、民主主義的な改革を急いでいました。

ジロンド派追放から間もなく、エロー・ド・セシェルの手で作成された1793年の憲法は国民投票で圧倒的多数の作成を得て成立しました。この憲法はジャコバン憲法とも呼ばれ、山岳派の理想が随所に見られます。

しかしながら、「フランスの臨時行政府は平和到来まで革命的である」と宣言した10月10日の法令によって棚上げされ、ついに日の目を見ることはありませんでした。民主主義の理想的な憲法でありながら、採用されなかったためにかえって有名になったのです。


マラー暗殺

マラーの死 7月13日、地方に逃げたジロンド派に影響された若い女性シャルロット・コルデーが、山岳派の英雄マラーを浴室で暗殺しました。

マラーの殉死はパリ中を驚かせました。民衆の怒りにより、山岳派はますます「恐怖政治」を強いられるようになりました。公安委員会が強化され、マリー・アントワネットの裁判をし、ヴァンデの反乱とリヨンの反乱の鎮圧し、イギリスの首相ピット「人類の敵」断言されました。


公安委員会 Comite de Salut Public

構成
新設された時(4月6日)は提案者のダントンを筆頭に9人のメンバーで構成されており、原則的には1ヶ月が任期でした。内外の情勢が緊迫したことに伴い、次第に革命に消極的になってきたダントンが排除され、7月にはロベスピエールが加わりました。結局メンバーは12名となり、彼らは何度も再任され、ロベスピエールの失脚までメンバーが変わることはありませんでした。
役割
一般通信、対外問題、戦争、海上、国内、陳情など、恐怖政治の主要機関で頭脳の役割を果たすようになりました。
構成員
右派: ロベール・ランデ、カルノー、ブリウール・ド・ラ・コート・バール
中央エロー・ド・セシェル、バレール
左派ロベスピエールサン・ジュストクートン、ブリウール・ド・ラ・マルヌ、ジャンボン・サン・タンドレ
極左ビョー・ヴァレンヌコロー・デルボワ
一枚岩のような働きをした公安委員会のメンバーですが、12人の意見が必ずしも一致していたわけではありません。革命が直面していた重大な危機のために、内部分裂を起こしませんでした。そのようなことをしたら、革命そのものが破滅してしまうからです。危機を乗り越えるために一致団結し、革命の危機を乗り越えることができました。しかし、危機を乗り越えた時、公安委員会が分裂し、崩壊し、革命そのものが終局を迎えることになったのです。


保安委員会

役割
設置されたのは公安委員会より古く(1792年10月17日)、警察及び国内の治安を管轄します。しかし、「保安委員会のメンバーは、公安委員会の提議に基づき、国民公会によって任命される」と布告された(1793年9月13日)ことから、保安委員会と公安委員会の不和が始まりました。両委員会の不和は山岳派独裁を崩壊させる一因ともなりました。


革命裁判所 Tribunal revolutionnaire

役割
4つのセクションに分かれます。恐怖政治の裁判所で、陪審員制度はなく、評決には上訴することができませんでした。 もっと詳しく


恐怖政治 Terreur

恐怖政治とは一言で言いきってしまうと、公安委員会12人の独裁政治のことです。

公安委員会の独裁は次のような経緯を経て強化されていきました。

1793年9月14日
公安委員会は、保安委員会を含む他の全ての常任委員会のメンバー・リストを国民公会に提出することを決定。

10月10日
国民総動員と連邦主義者打倒を進めるために、サン・ジュストの報告に基づき「フランス政府は、平和が到来するまで革命的である」と宣言した法令を採択。この中で、戦時非常処置を行う権限を公安委員会に委ねる。これ以後、処刑される者の数が急増。

12月4日
国家機構の中での公安委員会の優越性と法律の迅速な執行(「機敏で強力な政治」機構)を規定する法律を採択。サン・ジュストはこの法律を「政府自体が革命的に構成されなければ、革命的な法律は実施されない」と言って支持。

国民公会は厳粛に公安委員会を信任し、その独裁を認めました。

そして、忘れてならないことは、民衆も公安委員会の独裁とそれに伴う「恐怖政治」を認めたのです。
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iii.最高価格法へ
iv.革命暦と理性の祭典へ
v.恐怖政治の恐怖へ
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