ここの背景画像は「QUEEN」さんからお借りしたものを若干加工しました。

出来事・用語 か行

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革命裁判所 (H11.3.12.UP)
Tribunal revolutionnaire

国家の安全に害を及ぼした者を裁く裁判所

恐怖政治の元、1793年3月10日に創設された。裁判所の検察官は、官憲や市民の告発に基づいて、あらゆる容疑者を逮捕、捜索、裁判にかける権限を与えられいた。判決は最終的なもので異議申立てはできず、24時間以内に執行する効力をも持っていた。

創設当初は、不起訴処分、無罪、懲役など寛大な判決が多かったが、1794年6月10日の法令の後、処分は厳しく迅速になり、監獄内のスパイの偽証を根拠に判決することさえ頻繁に行われた。

革命裁判所の法廷は、大抵の場合、 コンシェルジュリー牢獄につづく「自由(リベルテ)」か「平等(エガリテ)」と呼ばれる部屋で行われた。開廷は通常早朝だったにもかかわらず、大勢の観衆が詰め掛け、まるで裏通りのようだった。主な観客は失業中の人、娼婦、浮浪者などで、とにかく騒々しかったらしい。

検察官は準備した論告を行い、裁判長が事件の要点の説示を行う。証人が続く。陪審員達が審議室に退き、被告人は隣室に連れて行かれる。やがて鈴の音と共に陪審員達が戻ってくる。裁判長は彼ら一人一人に、被告人が有罪か無罪かを問い掛ける。やがて、被告人が再び法廷に現れ、裁判長が陪審員の評決を伝える。そして、控訴のできない判決が申し渡される。

下に見られるように、1793年3月から1794年1月の間、パリの革命裁判所が下した判決は、一般的に想像されるよりも死刑は少なくずいぶん寛大なものである。

召喚されて出頭した人数…1046名

内訳 死刑判決…381名 流刑…34名 鉄鎖の刑…15名
長期禁固…66名 公判前に釈放…209名 公判後釈放…336名

それに反し、1794年6月8日から7月31日の間の死刑判決は1370名である。まさに恐怖政治のなせる業といか言いようがないが、その中にはテルミドールのクーデターで失脚したロベスピエールの一派も含まれている

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革命広場(2) (H19.7.22.UP)

多くの人々を処刑したパリ中央に位置する広場

パリ市がルイ15世を称えて作製した騎馬像を置くため、最初はルイ15世広場と呼ばれていたが、革命勃発と共に「革命広場」と改称さた。

1792年には騎馬像も溶かされ、代わりに広場の東よりで今のチュイルリー公園の柵に近いところに断頭台が設置され、1,000人以上の人がこの広場で処刑された。

多くの処刑の後、1795年から和解の願いを込めて「コンコルド(和という意味)広場」と呼ばれ、1812年には「ルイ15世広場」、1826年には「ルイ17世広場」、1830年にもう一度「コンコルド広場」に戻り現在に至っている。

1836年から40年にかけて改装され、1836年にはルクソールのオベリスクが広場の中央に聳え立ち、泉水を設置し、八つの角に元々あった東屋の上にフランスの都市を表す彫像が置かれた。

ルイ16世ももちろんここで処刑された。彼がこの広場を「革命広場」などと呼んでいたとは思えないが、自分の祖父の名が付いた場所で処刑されたとき、どんな思いがしただろうか。

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革命暦

1793年10月5日にロムが提案し、ファーブル・デグランティーヌが月の名前を付け導入されたが、暦の始まりは共和国誕生の日、1792年9月22日である。
共和暦は12カ月からなり、1カ月はそれぞれ30日。1週間を10日とし、各月は3週間で構成される。また、1週間の最後の日(10目)をデカディと呼び、日曜日に変わる休日とする。(休みがすごく少なくなったが、労働者階級には休日そのものがあまり馴染みのあるものではなかったらしい)
これでいくと、30日(1カ月)×12カ月=360日となる。革命家達がどんなにがんばっても一年は365日なので、最後の5日間を「サン・キュロットの日(サン・キュロチッド)」とし、祝日になった。(閏年は最後の祝日が6日間になる)

この暦は1806年1月1日まで使われ、ナポレオンによってグレゴリー暦に戻らされた。

「隷属の記念碑」であった過去の暦を捨て去り、「新生フランス」にふさわしい、理性に基づいた自然の摂理をイメージさせる月の名前は季節にちなんで名づけられ、なかなか文学的である。月名は詩人であり山岳派議員でもあるファーブル・ド・エグランティヌによって創案され、暦を作る委員会には画家ダヴィドなども参加した。

フランス革命の出来事には、この革命暦が使われているものが多数ありますので参考にしてください。また、訳者によって同じ月名でも違う訳しかたがあります。ここではフランス語表記と合わせていくつかご紹介します。

ヴァンデミエールVendemiaire葡萄月 9月22日〜10月21日
ブリュメールBrumaire霧月 10月22日〜11月20日
フリメールFrimaire霜月(霙月) 11月21日〜12月20日
ニヴォースNivose雪月 12月21日〜1月19日
ブリュヴィオーズPluviose雨月 1月20日〜2月18日
ヴァントーズVentose風月 2月19日〜3月20日
ジェルミナールGerminal芽月 3月21日〜4月19日
フロレアールFloreal花月 4月20日〜5月19日
ブレリアールPrairial牧草月(牧月、草月) 5月20日〜6月18日
メシドールMessidor収穫月 6月19日〜7月18日
テルミドールThermidor熱月 7月19日〜8月17日
フリュクチドールFructidor実月(果実月) 8月18日〜9月16日
サン・キュロットの月 9月17日〜9月21日

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過激派 (アンラジュ) (H12.1.22.UP)
Enrages

1793年頃特に活躍した最も過激な左派

1792年からの物価騰貴、食糧難に苦しんだサン・キュロットの支持を得て、ジャック・ルー、ヴァルレらを中心とする彼らは、最高価格法、穀物徴発、貧民救済、富者への課税を要求して国民公会に迫った。ジロンド派追放にも一役買い、ジャコバン派をも脅かしたが、明確な綱領を欠き、組織力も弱かったためロベスピエール一派に抑圧され、ジャック・ルーヴァルレ公安委員会の命令で逮捕された。

彼らの主張はエベール派に引き継がれ、統制経済、最高価格法などは国民公会が部分的に採用した。

リヨンでは革命婦人クラブを指揮した女優クレール・ラコンプやシャルリエ、ルクレールが同様の運動を行った。

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学校制度 (H13.3.23.UP)
1795年に公布された公教育の制度

総裁政府は、1795年10月25日の法律で公教育を次のように組織した。

 初等教育
革命勃発当時、大多数の国民は訛か方言しか話せなかったので、言葉を統一させるため、授業は全てフランス語で行われた。また、共和主義的道徳を基礎とする教育を行った。
 中等教育
旧来の中等学校を廃止し、各県にひとつ中央学校(Ecole Centrale)を設け、18世紀の知的・科学的な教育を行った。生徒は年齢に応じて次の三課程を学んだ。
・12歳〜14歳:国語、博物学、図画
・14歳〜16歳:科学
・16歳〜18歳:文学、歴史、法律

中央学校:18世紀の啓蒙思想やコンドルセの思想を受け継いぎ、各県に1校設置。1796年から1802年にかけて大成功を収めたが、1802年、ナポレオンによって廃止された。
理工学校出身の技師
 高等教育
科学と技術の進歩について行けなくなっていた旧大学(アカデミー)を廃止した。その代わり試験に合格したものを入学させる高等教育の諸学校を設けた。

理工科学校:当初は中央公共事業学校として開始した。理工科学校では、従来の講義による教育以上に、実習を通じて軍事技術等の知識を確実に習得することが重視された。
医学校:パリ、モンペリエ、ストラスブールにある三校。新しい時代状況に応じた医学教育の実施。
・鉱山学校:
・東洋語学校:
師範学校:大勢必要になった教員を養成するための学校。

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恐怖政治 Grande Terreur
市民達が議会を開いて行う政治。

共和国防衛をまっとうするため、公安委員会を核として非常手段を採用した1793年9月から1794年7月のテルミドールの反動までの独裁政治。 機構の確立、政敵の排除、経済統制が組み合わさっている。1793年夏、国境は侵され、西部ではヴァンデの反乱、マルセイユ・リヨン・ノルマンディ地方では連邦主義反乱が勃発。パリではマラーの暗殺があり、穀価の高騰、食料品の欠乏がつのり、民衆は激昂した。9月5日、エベール派を介して示されたサン・キュロットの示威を受けとめて山岳派は、公安委員会の陣容と権限の強化を図り、潜伏亡命者など各種容疑者に対する逮捕状の執行、告発がゆだねられた。12月頃までには買占め委員会等によって民衆的恐怖政治が展開したが、12月4日の法令で、公安委員会政府、派遣議員の中央集権体制が整うと共に民衆の介入は阻止された。 この間に、10月にはジロンド派議員、11月にはバルナーヴ、マリー・アントワネット等が処刑された。 恐怖政治は軍事勝利に反映したが、それと共に恐怖政治の緩和を要求するダントン派と強化を迫るエベール派の抗争を生じた。公安委員会のロベスピエールは「徳と恐怖」の両立を主張して、両分派を切り捨て、小市民的な平等共和国の実現を目指したが、国民公会には彼の禁欲主義と個人独裁を嫌う議員が多く、議員の言動までも取り締まりの対象とした1794年6月10日の法律以後、反動の機運が高まった。物価抑制などの処置は既に弱められていたので、テルミドール反動時、サン・キュロットは無関心からか国民公会に荷担さえした。反動後、恐怖政治の施策は次々と撤廃された。

共和制 (1) Republique (H11.6.9.UP)
市民達が議会を開いて行う政治。

国王や貴族が政治をするのではなく、市民達が議会を開き、自分達の手で政治を行うこと。ロベスピエールらが中心となった。

主権が人民にあるとし、人民によって選挙で選ばれた代表が一定の任期中その地位に就き、国政をつかさどる政治体制。

世襲の君主による支配を否定し、主権は人民にあるとし、人民による統治と人民による権力のコントロール、人権の尊重などの理念に基づく。

ギロチン
Guillotine

ギロチン

博愛主義の下で生まれた処刑の方法

断頭台とも言う。
1789年、国民議会議員で医師のジョゼフ・ギヨタン(1738-1814)が、従来の死刑に比べ、方法が平等であり、迅速で苦痛が少ないことを理由に使用を主張した。このため、非常に不本意ながらも、彼の名にちなんでギロチンと呼ばれるようになった。

これまでは貴族だけの特権だった斬首刑が、ギヨタンの努力によって全ての階層に広がった。フランスでは当時、まだ新しかったが、他の国々ではもっと以前から使われていた。
「あ・ら・かると/ギロチンモード」 / 「あ・ら・かると/ギロチンメニュー」 に関連記事があります。

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