ここの背景画像は「QUEEN」さんらお借りしました。

 人生の終わり方 は行 




フーキエ・タンヴィル Antoine Quentin Fouquier-Tinville 1746.6.12-1795.5 (H13.6.16.UP)
処刑。 悪名高き革命裁判所の検事。
悪そうなフーキエ

ロベスピエール処刑の4日後、ひとりの議員が国民公会において、フーキエに「自分の流した血の償いを地獄でする」ことを要求した。裁判所の食堂にいたフーキエは逮捕礼状が発せられたとの知らせを受けると、落ち着き払って、

「大丈夫だ。私に罪はないからね」と言った。自分が有罪になるとは、これっぽっちも考えていなかったのである。

その後、コンシェルジュリに収監されると、他の囚人達は壁を叩き、恨み重なるこの元検事に悪口雑言を浴びせ始めた。

裁判の場で、人々は悪の権化が屈辱と恐怖に崩れる姿を見ようと期待していたが、無罪を確信しているフーキエは巧みに自己弁護をした。自分の行ったことは、

「あくまでも絶対的な権力を持っていたロベスピエールの命令に従っただけであり、ロベスピエール命令に反することはできなかった。自らが進んで有罪にしたのではない。」と主張する彼に、検事は、

「あなたに判決の責任を負わせようとは思わない。しかし、極普通の過ちを、反革命の違法行為に変えてしまった点については、告発せざるを得ない。」

と、有罪が確定された。

1795年5月、フーキエは、かつて忠実な役人として無数の人を送った処刑台に向かった。彼の心残りは、妻と子供達がこれから先、生活が苦しくなり、その上、村八分に脅かされることだった。最後の手紙で、

「子供達に伝えてくれ。父さんは不幸な死に方をしたが、無実だったと」

と述べているのは、彼が処刑台に送った多くの囚人と同じような内容だった。

「人物スケッチ」を見る / 人生の終わり方に戻る / このページのトップに戻る


ブリエンヌ(ロメニー・ド・ブリエンヌ) Etienne Charles de Lomenie de Brienne 1727-1794.2.
服薬自殺。 旧体制最後の宰相。

カロンヌに続き、瀕死の国庫を建て直そうと努力したが、貴族の反乱に遭いぼろぼろになって失脚した。

1788年の失脚後、ブリエンヌの藁人形が民衆の手によって連夜のように燃やされた。政治家として殺されたようなものだったが、カロンヌのように汚名まみれになることはなかった。

革命勃発後、パリの南西サンス司教区に赴任し、革命の嵐を乗り越えようとした。彼は、1791年、「僧侶基本法」を宣誓した数少ない高位聖職者となった。さらに愛国者であることを誇示するため枢機卿の帽子をローマに返還さえしたが、恐怖政治の中、1794年2月、自宅で逮捕された。在宅監視下に置かれ、一人の時間を見付けると、皮膚病で使っていたアヘンとチョウセンアサガオの致死量を服用し自殺した。

「人物スケッチ」を見る / 人生の終わり方に戻る / このページのトップに戻る


ボーアルネ(アレクザンドル・ド・ボーアルネ) Alexandre de Beauharnais  ?-1793.7.23. 
処刑。 ナポレオンの皇后ジョゼフィーヌの元夫。 (H11.4.30.UP)

マルティニック島選出の三部会議員であったが、キュスティーヌ将軍との共犯の罪で起訴され、反逆罪で処刑された。というより、ジョゼフィーヌ・ボナパルトの元夫と言ったほうがわかりが早い。

彼は自分の運命を知ると、最後の手紙をやはり投獄されている妻に書いた。内容は愛情に満ちているが、この夫婦、本当に仲が良かったのだろうか。ジョゼフィーヌはすごい浮気性だし、当時の貴族は結婚しても自分の配偶者に愛情を注いだりせず、ひたすら婚外恋愛に耽るのが常だったのだから…。

とりあえず、内容の抜粋を紹介いたします。

(前略)私はもう君に会える望みも、愛しい子供達(二人います)をこの手に抱ける望みもない。君に無念は語るまい。子供たちへの私の優しい愛情、私を君と結び付けている兄妹のような愛情から、君にはこのまま人生を去る私の気持ちがとてもよくわかってくれると思う。また、祖国と別れるのも残念だ。祖国のために、私は千度でも命を捧げたいと思ったのだから。

(中略)さようなら。君は私の好きな人達(誰?)を知っています。彼らの慰めとなってください。そして、その人達の心の中に私が生き続けるように(怪しい…)心配りしてください。

さようなら、君と愛しい子供たちを、人生のこれが最後と抱きしめます。

このページのトップに戻る 人生の終わり方に戻る


ボワギュイヨン(ガブリエル・ニコラ・フランソワ・ド・ボワギュイヨン) ?-1794 
処刑。 参謀副官。 (H11.4.27.UP)

全くの無名。シャトーダンに生まれ、ベイセの下で参謀副官を務めた。コンシェルジュリーで彼が処刑の「予行練習」に励んだことは知られている。また、彼は最後までユーモアを忘れなかったようである。(詳しくは「あ・ら・かると/予行練習」で→

彼がシャトーダンのある薬剤師に宛てた最後の手紙は、母に対する深い愛情を映し出しているので紹介します。

昨日午後四時、私は死刑を宣告されました。二時間後にはもうこの世にいないでしょう。このことを母に伝えてください。母がこの知らせで衝撃を受けることが少しでも軽くなるように、誰かを母のそばにやって、その人の口から優しく知らせてください。この知らせを受けるのは手紙ではだめです。母の目に、私の最期の時を思い起こさせる(一語判読不能)が全く残らないようにしてください。(中略)

ラ・アロワイエーズの小作地からの収益については、いとこのアルダンクールに預けた一万リーブルしか残ってません。彼から私に対する借りとして1794年分の利子500リーブル、及び1793年分の利子500リーブルがあり、これに対し、私の彼への借りは、彼が軍にいた私に送ってくれた装備の供給代430リーブルです。その他の財産の残りは没収されてしまいました。

こうしたことも母に伝えてください。母がこのようなことで困らないようにしてください。

さようなら。繁栄と友愛の久しからんことを。

このページのトップに戻る 人生の終わり方に戻る


ひとつ前の「人生の終わり方」に戻ります ホームに戻ります 次の「人生の終わり方」に進みます