人類史 第3版
初めに
人類史についての私見をはじめて長文(人類史第1版)にまとめたのは(といってもさほどの長さではないのだが、ブログの記事と比較してのことである)2002年5月1日のことであり、4年以上の歳月を経てその改訂版(人類史第2版)を公開したのは2006年10月27日のことだった。改訂版の執筆から1年ちょっと経過したが、その間にブログの古人類学関係の記事がかなり増えたので、そろそろこの1年の間に新たに得た情報を反映させようと思う。
執筆当初は、この1年間で考えが大きく変ったところが多いわけでもないので、人類史第2版(以下、第2版と省略)の補訂(1)として小規模な加筆訂正にとどめようと思ったのだが、以下のような理由で大きく加筆訂正したので、第3版として公開する。ほぼ全面的な加筆訂正になってしまったので、大きく考えが変わったわけでもないのに、着手してから改訂を終えるまで二ヶ月以上要してしまった。やはり一度に全面的な改訂をするとなると大変なので、今後は、あるていどブログの古人類学関連の記事がたまったら、小規模な改訂をしていこうと思う。第2版からの主な変更点は以下の通りでありである。
(1)全体的に文章表現を改めた。私の悪癖であるが、第2版はやたらと読点が多く、一文が長すぎた。
(2)できるかぎり参考文献を示す。正直なところ、どの書籍で得た知見か思い出せないことも少なくないのだが、後で自分が調べなおすときのためにも多少なりともまともなものにしておく必要があるだろう、との考えからである。そのさい、オンライン版があるものについては赤字でリンクを貼ることにした。なお論文については、一部をのぞいてオンライン版でしか確認しておらず、抜粋しか読んでいないものもある。また、参考文献をブログなどで紹介した場合には、本文中において参考文献の後に赤字で「関連記事」と記し、リンクを貼った。
(3)人類の定義の見直しの可能性についてやや詳しく言及したべた。これは、人類の起源についての問題にも深く関わってくる。ここが、第2版と今回とでもっとも考えの変ったところである。
(4)ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)とサピエンス(現生人類)が別種か否かという問題については、別種説に重きを置いた。
全体の構成も見直す必要があるとは思ったが、それは第4版での課題としておく。なお、文中の敬称は省略した。以下に出てくる地質学的年代区分は以下の通りである(ロジャー=ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P33)。
●中新世・・・2380万〜520万年前頃
●鮮新世・・・520万〜180万年前頃
●更新世・・・180万〜1万年前頃
●完新世・・・1万年前〜現在
人類種の区分は別表にまとめた(河合信和『ホモ・サピエンスの誕生』、諏訪元「化石からみた人類の進化」を参照したが、年代には曖昧なところが残る)。
人類種区分の問題
人類の定義については、次章「人類の誕生」で述べることにする。以下に人類史を述べるにあたって問題となるのは、人類種区分の曖昧さである。人類史についての文章を読んで、私もふくめて多くの人が戸惑うだろうことは、その種区分の複雑さである。属と種名とを組み合わせて表示される人類種の数は、研究者によっては20以上にもなるが(諏訪元「化石からみた人類の進化」)、それぞれの種の系統関係には曖昧なところも少なからずある。また、研究者によって種区分が異なるのも、複雑だとの印象を強めている。なぜこうなるかというと、種の定義が困難だからである。
私がこれまで想定してきた生物種の定義とは、自然な状態で(これも定義が難しいのだが、本題に深刻な影響を与えるわけでもないので、今回は触れない)生殖が行われ、その子孫が代々維持されていくような集団(馬とロバのように、生殖行為の結果として子が生まれても、その子に生殖能力がなければ同種とは言えない)、ということである。しかしこの定義を採用したとしても、厳密に種の定義をするのは現存生物でさえなかなか難しいだろうし、古生物では事実上不可能である。
古生物の研究者による古人類も含めての種区分のおもな基準は、昔は化石の形態だったが、近年ではDNAの塩基配列がじゅうような役割を担っている。しかし、どうしても便宜的なものになってしまうのは否めない。とくに形態面での問題は大きく、両極端な基準標本を比べれば違いは明確だが、進化は連続的なので、じっさいにはどう分類してよいか判断困難な中間的な化石が、人類にかぎらず少なからずあって区分が難しい。とはいっても、人類がどのように進化してきたかということを見ていくうえで、進化系統を復元するためにも人類種区分の問題は避けて通れず、より合理的な区分が必要とされていると言える。
ここで注意すべきなのは、人類種の区分とはいっても、生物種区分の一つにすぎないのだから、生物種区分全体の中において整合性のある区分でなければならない、ということである。それは、種より上位の区分である属や目のレベルにおいても同様である。たとえば、現存生物で人類にもっとも近いチンパンジーがヒト科なのかヒト上科なのかといった問題も、霊長目のみならず、哺乳綱、脊椎動物門、さらには動物界までさかのぼって見渡し、より合理的な区分をしなければならない。
近年の分類学は、客観的に見えるDNAの塩基配列の違いを重視する傾向にあるが、複雑な構造・生態の生物の区分には、どうしても恣意的にならざるを得ないところがある。より妥当な分類を目指すには、DNAの塩基配列だけではなく、伝統的な形態的分析はもちろんとして、身体機能や行動という容易に「測れない」因子や、分布域や個体数の変遷といった生態学的側面なども加味し、総合的に分類を考えるべきだろう(海部、2005、関連記事)。
この観点からは、ネアンデルターレンシスとサピエンスとは別種とするほうがよさそうである。ただ、断定するにはまだ証拠が不足しているように思う。もっとも、ここまで述べてきた種区分についての私見は理想論であり、専門家でもない私にそのような合理的な区分ができるわけではないから、これまでの研究成果を参照しつつ、自分なりにより合理的と思われる区分を採用していくしかない。
次に、やや具体的に人類種区分の問題をみていくことにする。極端に単純化して言えば、20世紀半ばの進化総合説の成立までは、発見者が人骨を発見するたびに新たな種や属を提唱していたようなところがあり、多数の人類種・属が乱立していた。しかし進化総合説の成立以降は、個々の人骨の差異が種間の地理的差異とみなされ、ピテカントロプス=エレクトス(いわゆるジャワ原人)とシナントロプス=ペキネンシス(いわゆる北京原人)とが同一種ホモ=エレクトスとされたように、人類の属と種の数は激減したのである(エリック=トリンカウス他『ネアンデルタール人』P344〜345)。
ところがその後、古人骨の発掘数の増加もあって、再び人類の属と種を細分化しようという動向が強まっている。種の区分を細分化しようとするのがスプリッター(分割派)で、人骨の違いを種間差異とみなして区分をなるべく減らそうとするのがランパー(統合派)である(河合『ホモ・サピエンスの誕生』P31〜32、44〜46)。本によって人類種区分がことなるのは、著者が分割志向か統合志向かという違いによるところが大きい。
アフリカの初期ホモ属をエルガスターにするのかエレクトスに含めるのか、いわゆる頑丈型猿人をアウストラロピテクス属に含めるのかパラントロプス属とするのか、ハビリスとルドルフェンシスとは区分され得るのか、ハビリスはホモ属なのかアウストラロピテクス属なのか、ルドルフェンシスはホモ属なのかケニアントロプス属なのか、ケニアントロプス=プラティオプスは独立した属なのかアウストラロピテクス属なのか、といった問題が両者の代表的な対立点である。なお、この第3版ではエルガスターという種区分は採用せず、エレクトスという種区分で統一する。
証拠がきょくたんに限定される古人類学においては、種区分というのは半永久的に解決されない問題であり、あくまで便宜的なものと割り切って、大胆な変更をつねに覚悟しつつ、現時点で最善と思われる区分を提示していくしかないのだろう。
ゆえに、現在の人類の系統樹も、今後の新発見などにより劇的に変わる可能性がある。現在では、アウストラロピテクス=アファレンシスを現代人の祖先とする見解が一般的だが、アファレンシスと同時代に存在した未発見の別種が、じつは現代人の祖先だったという可能性もある。古人類学においては、こうした問題は常についてまわると認識しておくべきである。なお、文末のリンク集の項に、現時点での自分なりの人類進化系統図を掲載しておいたので、参照していただければ幸いである。
人類の定義と誕生について
そもそも、人類とはどう定義されるべきであろうか。人類の特徴として思い浮かぶのは、直立二足歩行・巨大な脳・複雑な言語の使用・道具の複雑な使用(道具から道具を作製するなど)などである。私は、絶滅・現存問わず直立二足歩行の霊長目の生物と定義してきた。通説でも、普通は直立二足歩行が人類と他の生物とを分かつ最大の指標とされており、人類の定義は直立二足歩行する類人猿である、との指摘もある(内田亮子『人類はどのように進化したか』P157)。これは広く浸透した考えになっているようで、後ろ足二本で直立するレッサーパンダが大きな話題を呼ぶのも、直立二足歩行が特別視されていることの表れなのだろう。
もっとも、二足歩行は人類特有というわけでもなく、オランウータンが手を補助的に使用した二足歩行をしていることが報告され、樹上での二足歩行の利点が指摘されている(S.K.S.Thorpe et
al.,2007、関連記事)。また、二足歩行の起源がかなりさかのぼる可能性も指摘されていて、中新世の2100万年前頃に現在のウガンダにいたモロトピテクス=ビショッピが、現在確認できる最古の直立姿勢の哺乳綱だという見解もある(Aaron G. Filler.,2007、関連記事)。これらの見解は、すでに1990年代末において有力になっていた、人類の直立二足歩行はサバンナではなく森林で始まった、とする見解(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P105)と整合的である。
しかし、直立二足歩行の起源が1000万年以上前までさかのぼり、霊長目において直立二足歩行がありふれた行動形態だったとすると、現在のところは人類と考えられている中新世・鮮新世の化石群のうち、どれが本当に人類化石なのか怪しくなってくる。それだけではなく、そもそも人類の定義じたいがあやふやになってしまうので、大問題だと言える。こうした懸念は杞憂に終わるかもしれないが、もっと化石の発掘が進まないと、人類の定義と化石の人類認定については楽観視すべきではないかもしれない。
こうした懸念を抱くのは、人類とチンパンジーの分岐年代はおよそ410万年前頃との見解が提示されているためでもある(Asger Hobolth et
al.,2007、関連記事)。この見解が妥当だとすると、現在のところ人骨とされている400万年前以前の化石は、直立二足歩行をしていた霊長目の生物ではあるが、人類にとってチンパンジーとの最終共通祖先よりも遠い系統に属するのかもしれない。
現在のところホモ属へといたる系統は、アルディピテクス=ラミダス(450万〜430万年前頃)→アウストラロピテクス=アナメンシス(420万〜390万年前頃)→アウストラロピテクス=アファレンシス(370万〜300万年前頃)→アウストラロピテクス=ガルヒ(270〜250万年前頃)→ホモ属と考えるのがもっとも有力だろう(諏訪元「化石からみた人類の進化」)。
しかし、直立二足歩行の起源がかなりさかのぼり、人骨とされてきた400万年前以前の化石が怪しいとすると、現時点でアウストラロピテクス属とされている化石のうち、どれだけ人類と分類され得るのか疑問もある。アファレンシスの女児とされる化石の肩や腕はアフリカの類人猿と似ている、との見解があるのも気になるところである(Zeresenay Alemseged
et al.,2006、関連記事)。
では、人類をどう定義すべきであろうか。一つの解決案として考えられるのは、直立二足歩行に特化した生物と定義することである。そうすると、ほぼ確実な人類とは、異論の余地のほとんどないホモ属(ハビリスやルドルフェンシスを含まない)以降ということになろう。つまり、エレクトス以降が人類ということになる。脳の大きさに注目すれば、ハビリス以降が人類ということになる。その場合、アウストラロピテクス属ではなくホモ属にハビリスを含めることになるだろう。
言語に注目してもよいだろうが、古生物の言語能力を推測するのはほとんど無理である。もっとも、核DNAの採取できる古生物については、今後あるていどは言語能力について推測できるようになるかもしれない。複雑な道具の使用を定義に用いようとする見解もあるかもしれないが、チンパンジーもかなり複雑な道具を使用することが報告されており(Jill D. Pruetz et
al.,2007、関連記事)、やはり定義は難しい。
そもそも、道具の使用を種区分の定義とする見解は、「文化的発展」と進化とを直接的に結びつける見解とも通ずるところがあり、私は賛同できない。人類の定義はなかなか難しく、すぐには解決しそうにない問題である。とりあえず今は、直立二足歩行にかんする今後の研究の進展に期待するしかないだろう。こうした懸念があることを前提に、以下では人類の起源について述べていく。
人類の起源地については、かつてはアジアかアフリカかということで論争があったが、現在ではアフリカということで決着済みと言ってよいだろう。確かに上述したような問題点はあるが、200万年以上前の人類候補の化石となると、可能性の高いものはやはりアフリカからしか出土していない。ただ、アフリカのどこかという問題についてはまだ決着がついていないし、今後も確定するのはきわめて困難だろうと思う。あえて現時点で推測すると、アフリカ東部の可能性がもっとも高そうである。
人類誕生の時期については、諸説あってまだ決着がついていない。そもそも、上述したような問題点があるので、人類の定義により人類誕生の時期は異なることになる。しかし、直立二足歩行の発達はチンパンジーと人類の祖先の分岐以降のことであり、人類とは常習的に直立二足歩行する生物であるとの伝統的な見解にしたがうとしても、現在推定されている人類誕生の時期にはかなりの幅がある。
アフリカの類人猿と人類との分岐時期は、化石証拠から3000万年前頃ないしは1500万年前頃とかつては言われていたのだが、その時期は500万年前頃ではないかとの反論が分子生物学の分野からあったのは(血清蛋白の免疫学的比較により遺伝的距離が測られた)、1967年のことだった。その後、ミトコンドリアDNAも分析対象となり、分子生物学の側からのデータは増加していった。古人類学の側でも、一時は人類の祖先と考えられたラマピテクスがそうではないと考えられるようになったこともあって、500万年前頃という人類とチンパンジーとの分岐年代が認められるようになった(ロジャー=ルーウィン『人類の起源と進化』P66)。
しかし、2000年以降に相次いで中新世の人類(とされる)化石が公表されたため、人類の祖先とチンパンジーの祖先との分岐年代について、分子生物学の提示した500万年前頃という年代と、化石から推測される年代との間の矛盾が問題となった。しかし、分子生物学においても人類とチンパンジーとの分岐年代が見直されるようになり、670万年前頃とか、1000万〜700万年前頃との見解も提示されている(河合『ホモ・サピエンスの誕生』P26〜29、関連記事)。
2000年以降に相次いで公表された中新世の人類(とされる)化石を年代順に簡単にまとめると、次のようになる(河合『ホモ・サピエンスの誕生』、諏訪「化石からみた人類の進化」)。まずは、アフリカ中央のチャドで発見されたサヘラントロプス=チャデンシスである(脳容量は320〜380CC)。年代は700〜600万年前とされているが、理化学的な年代測定ができず、年代にはやや曖昧な面が残る。次は、アフリカ東部のケニアで発見されたオロリン=トゥゲネンシスで、年代は600〜570万年前とされている。さらにその次は、アフリカ東部エチオピアで発見されたアルディピテクス=カダバで、年代は570〜530万年前とされている。なお、中新世の人類化石発見競争をめぐる人間模様については、アン=ギボンズ『最初のヒト』が詳しい(関連記事)。
この三種が現時点での最古の人類候補だが、この三種の類似性も指摘されている(諏訪「化石からみた人類の進化」)。したがってこれら三種の違いは、地理的・時間的な違いによる同一種における多様性を反映しているだけだ、と考えることもできよう。けっきょくのところ、これら三種の位置づけについては今後の研究とさらなる発見とを待つしかないが、現時点で推測すると次のようになるだろう。
まず考えられるのは、これら三種はいずれも初期人類だということである。これら三種がじつは同一種だったとしても、初期人類はかなり広範な地域に拡散していたということになろう。ただ、これら三種のうちどれが現代人の祖先か現時点では曖昧であり、今後確定することもないだろう。あるいは、これら三種以外の未発見の初期人類が現代人の祖先という可能性もけっして低くない。
次に考えられるのは、これら三種はチンパンジーの祖先またはその近縁種だということである。ただ、これら三種は直立二足歩行をしていた可能性が高いだけではなく、雄の犬歯の縮小の可能性も指摘されているので(諏訪「化石からみた人類の進化」)、直立二足歩行が中新世の霊長目において珍しくはなかったとしても、チンパンジーの祖先ではなかった可能性が高い。その意味では、これら三種が人類とチンパンジーとの共通祖先である可能性も低いだろう。
もう一つ考えられるのは、人類とチンパンジーが分岐する前に、これら三種が人類とチンパンジーとの共通祖先から分岐していた可能性である。つまり、これら三種は人類ではなく、人類にとってはチンパンジーのほうが近縁な生物であるかもしれない、ということである。直立二足歩行が中新世の霊長目において珍しくなく、人類とチンパンジーとの分岐年代が410万年前頃だとしたら、その可能性もあるだろう。
ただ現在のところは、現代人の祖先かどうかはともかくとして、これら三種は初期人類だと考えるほうがよさそうである。おそらく800万年前頃に人類の祖先とチンパンジーの祖先が分岐し、かなりの変異幅を含みつつ初期人類が誕生したのであろう。
初期人類の登場過程についてよく言われていた説明が、大地溝帯の成立によりアフリカ東部の気候が乾燥し、森林が消失してサバンナ化したため、直立二足歩行を余儀なくされたというものである。その代表例が「イーストサイド・ストーリー」であり、1982年のローマ会議でイヴ=コパンが提唱した(イヴ=コパン『ルーシーの膝』P40〜46)。しかし、初期人類は形態面で類人猿との共通点が多く、樹上生活に適応した体型をしていたし、初期人類とされる化石の出土様相からも初期人類は森林環境に生息していたとの見解が有力になり、人類は森林で樹上生活をしつつ直立二足歩行を発展させた、と現在では考えられている(内田『人類はどのように進化したか』P159)。
また、50万年前頃というわりと近年まで、チンパンジー(パン属)が西リフト・バレーの東側で人類と共存していたことが明らかになり(Sally McBrearty et
al.,2005)、この点からも「イーストサイド・ストーリー」の破綻が確定した。現生チンパンジーが現在の生息域に追いやられたのは、サピエンスの登場もしくは拡散か、農耕開始以降のアフリカ人の大移動と関係しているのかもしれない。
樹上生活に適応した体型は、直立二足歩行を確実に行なっていたとされるアウストラロピテクス=アファレンシスにも顕著な特徴で、330万年前のアファレンシスの女児も肩や腕は類人猿と似ていて、樹上生活者としての性格を多分に残していた(Zeresenay Alemseged
et al.,2006、関連記事)。もっとも上述したように、アファレンシスは現代人の祖先ではなく、それどころか人類ではない可能性さえある。しかし現時点では、アファレンシスが現代人の祖先と考えるのがよさそうである。
ともかく、人類の祖先とチンパンジーの祖先との分岐が800万年前であれ400万年前であれ、おそらく初期人類は、直立二足歩行が可能となる体格となってからもかなりの時間を樹上で過ごし、ときどき地上に降りて直立二足歩行をしていたのだろう。直立二足歩行が可能となると、産道が狭くなり出産が危険となるが、これは現代人にいたるまで人類の宿命であり、腰痛も同様である(河合信和『ネアンデルタール人と現代人』P144)。
こうした不利な点があるにもかかわらず、直立二足歩行へと特化した人類が繁栄したからには、このような不利を補うだけの有利な点があったはずである。上述したように、樹上における直立二足歩行の利点が指摘されており(S.K.S.Thorpe et
al.,2007、関連記事)、人類は樹上で発達させた直立二足歩行を地上でさらに発展させ、直立二足歩行に特化していったのだろう。おそらくは、直立二足歩行による地上での行動範囲の拡大が、食料の獲得に有利に働くことが多かったものと思われる。
もちろん、進化に特定の目的がないというのは生物進化の大原則であり、人類も例外ではないから、こうした利点のために直立二足歩行を始めたというわけではない。直立二足歩行を可能とする体格に進化したこと自体はまったくの偶然だったのだろうが、それがたまたま後々の人類に覇権をもたらす根本的な要因になったというわけである。
サヘラントロプス=チャデンシス、オロリン=トゥゲネンシス、アルディピテクス=カダバにつづく人類候補は、450〜430万年前頃のアルディピテクス=ラミダスである。上述したように、ラミダス→アウストラロピテクス=アナメンシス(420万〜390万年前頃)→アウストラロピテクス=アファレンシス(370万〜300万年前頃)へと進化していったというのが、現在有力な見解である。
アファレンシスと同年代の人類候補化石としては、アウストラロピテクス=バーエルガザリとケニアントロプス=プラティオプスがある。アファレンシスではなくプラティオプスこそホモ属の祖先ではないかと言われることもあるが、バーエルガザリもプラティオプスも、アファレンシスの地域変異または個体変異との見解もある(諏訪「化石からみた人類の進化」)。化石証拠がかぎられているので判断の難しいところだが、現時点では後者のほうが妥当なように思われる。
アファレンシスが現代人の祖先なのか否か、そもそも人類の系統に属すのかという疑問は残る。じっさい、上述したようにアファレンシスの類人猿的な特徴が指摘されている(Yoel Rak et al.,2007、関連記事)。ただ、バーエルガザリもプラティオプスもアファレンシスの地域変異または個体変異と考えると、同時代には他に人類的な化石は出土しておらず、人類と考えてもよいのではないかと思う。おそらく、現在アファレンシスと分類されている化石のなかに、後のホモ属やいわゆる頑丈型猿人の祖先がいたものと思われる。その意味では、現在アファレンシスに分類されている化石群が、じっさいには複数種から構成されていた可能性もけっして低くはないだろうと思う。
アファレンシスの代表的化石は、1970年代にエチオピアのハダールで発見された「ルーシー」である(性別は雌)。全身骨格の約4割(この数値の意味については、アン=ギボンズ『最初のヒト』P144にて説明されている)がそろうというまれな古人類化石で、古人類学上の大発見とされた。ハダールでは「ルーシー」を含む数百点の標本が出土しており、年代は340〜300万年前頃とされている。これらのアファレンシス化石の分析から、かつてはアファレンシスの性差は大きかったとされていたが(ルーウィン『人類の起源と進化』P127)、アファレンシスの性差は現代人とほぼ同じとの見解も提示されている(Philip L. Reno et
al.,2003)。
ホモ属の登場
ホモ属の定義も難しいが、脳の巨大化・現代人とほぼ変わらないような直立二足歩行形態が指標となるだろうか。しかし、300〜250万年前頃までの化石が乏しいため、どのような系統からホモ属が登場したのか、現時点ではよく分からない。現時点での証拠から判断すると、現在アファレンシスと分類されている集団のなかにホモ属の祖先がいた可能性がもっとも高いだろう。
アファレンシス以降(300万年前〜)の人類(とされている生物集団)は、頑丈型と華奢型に区分されることが多いが、華奢型はかならずしも系統的・形態的にまとまりがないため、「非頑丈型」と分類する見解もある(諏訪「化石からみた人類の進化」)。おそらく、頑丈型は現代人の祖先ではなく後に絶滅し、華奢型のなかに現代人の祖先がいたものと思われる。
いわゆる頑丈型猿人は、文字通り頑丈な印象を与える形態をしており、とくに咀嚼器で著しい(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P125)。現在のところ、頑丈型猿人はエチオピクス(アフリカ東部、270〜230万年前頃)・ボイセイ(アフリカ東部、230〜140万年前頃)・ロブストス(アフリカ南部、180〜100万年前頃)の三種に分類されており、身長は110〜140cm、脳容量は500CC弱といったところである(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P123)。今のところ、これら三種が石器などの道具を使用していたかどうか定かではない。
これら三種については、「人類種区分の問題」の章で述べたように、アファレンシスやアフリカヌスなどと同じくアウストラロピテクス属とするのか、別に属を設けてパラントロプス属とするのかという点をめぐって、見解は一致していない。とりあえず今回は、アウストラロピテクス属説を採用する。これら三種の系統関係もはっきりせず、エチオピクスからボイセイとロブストスが派生したとの見解が有力ではあるが、いわゆる頑丈型猿人は、アフリカ南部のアフリカヌス→ロブストスの系統と、アフリカ東部のエチオピクス→ボイセイの系統の二つに分かれる、との見解もある(諏訪「化石からみた人類の進化」)。現時点では推測の難しいところで、今後の発掘と研究の進展を待つしかない、というところである。
アファレンシス以降の華奢型(非頑丈型)には、アフリカヌス(280〜230万年前頃)とガルヒ(270〜250万年前頃)がいる。ホモ属の祖先として有力なのはガルヒのほうで、今のところ250万年前頃の化石しか発見されていないが、270〜250万年前頃の華奢型化石はガルヒのものである可能性が高く、石器使用と肉食の可能性も指摘されている(諏訪「化石からみた人類の進化」)。
ホモ属の起源については、240万年前頃までさかのぼる可能性が指摘されている(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P130)。初期のホモ属としては、ハビリスとルドルフェンシスの二種が知られているが、この二種の区分をめぐっては激論が展開されてきた。ハビリスは、アウストラロピテクス属と断定するにはホモ属的であるが、ホモ属と断定するにはアウストラロピテクス的である、という化石人骨を分類するのに便利な種区分として用いられてきたところがあり、多様な形態を含むかなり雑多な区分となってしまっていた。そのため、ハビリスは2種から構成されているのではないかとの疑念が早くからあり激論が展開されてきたが、1990年代以降は、小型をハビリス、大型をルドルフェンシスと分類する区分が有力になってきた(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P131〜132)。
また上述したように、ハビリスとルドルフェンシスはホモ属としての特徴をじゅうぶんに備えているわけではないので、ホモ属と分類するのに否定的な見解もある(Bernard Wood et al.,1999)。分類の問題は難しいところであるが、ホモ属の指標を脳の巨大化・現代人とほぼ変わらないような直立二足歩行形態とすると、最初のホモ属はエレクトスということになるだろうから、ハビリスとルドルフェンシスはアウストラロピテクス属とするのが妥当だと思われる。また、ルドルフェンシスをホモ属とするじゅうような根拠は脳の大きさであったが、ルドルフェンシスの正基準標本であった‘KNM−ER1470’の推定脳容量が下方修正されたことも(関連記事)、ルドルフェンシスをアウストラロピテクス属とする根拠の一つになろう。
ハビリスとルドルフェンシスの分類問題もからみ、ホモ属の起源を探るのはなかなか難しいところがある。あえて推測すると、おそらくルドルフェンシスはホモ属とはつながっておらず、ハビリスがホモ属の祖先なのだろう。ただ、ルドルフェンシスと区別したとしても、ハビリスが雑多な集団であることは否定できず、ハビリスをさらに複数種に区分するほうがよいかもしれない、との懸念は念頭に置いておくべきだと思う。
ハビリスは250〜240万年前頃にアウストラロピテクス=ガルヒの一部から派生し、ハビリスの一部から真のホモ属たるエレクトスが200万年前頃に派生したものと思われる。人類史においてはハビリスの登場した250万年前頃が一つの転機になっているようで、この頃に石器の使用・肉食・大型化が始まっている。こうした変化の背景として考えられるのは、250万年前頃より東アフリカの乾燥化がさらに進んだ(大塚他『人類生態学』P27)という気候事情である。
石器の使用は260万年前頃には始まっているが(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P138)、これは肉食の開始と密接に関わっていると思われる。アウストラロピテクス属やホモ属が狩猟者だったのか死肉食者だったのかという議論がなされてきたが、おそらく人類史のうえではかなり近年まで、人類は狩猟よりも死肉漁りへの依存度が高かったと思われる(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P157〜162)。
人類は石器使用前から肉食をしていただろうが、肉を骨からそぎ落とし、骨を割って骨髄を食すうえで、石器は効果を発揮する。乾燥化が進展して森林(の生み出す食資源)が縮小し、人類のサバンナでの活動が増えていくなか、人類は以前よりも肉食への依存度を高めていったのだろう。初期の石器を使用していた人類種は確定していないが、ガルヒは石器を使用して肉食をしていた可能性が高い(諏訪「化石からみた人類の進化」)。肉食により高カロリーが得られるので、脳も含めて人類の大型化は遺伝子の突然変異を前提とするものの、石器使用をともなう肉食の本格化は、そうした大型化をもたらす遺伝子を固定する役割を果たしたと言えそうである。ハビリスの登場は、こうした文脈で理解すべきだろう。
ハビリスはしだいに森林からサバンナへと生活の比重を移していったのだろうが、これがエレクトス誕生の要因になったと思われる。もちろん、現代人と変わらないような直立二足歩行は遺伝子の変異を前提としているが、そのような変異が固定したのは、森林ではなくサバンナでの生活が主体になっていたからだろう。環境変化・石器の使用・肉食・直立二足歩行は相互に密接に関係していると思われる。
1990年代になって、アフリカの初期ホモ属をジャワや中国のエレクトスと区別し、エルガスターと分類する見解が有力になったが(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P146〜152)、近年になってエルガスターをエレクトスに含める見解も支持を得てきている(河合『ホモ・サピエンスの誕生』P44〜46)。エレクトスは地域差が大きく、種区分は難しいので悩むところである。東アジアのエレクトスは東南アジアのエレクトスと異なる点も多く、その一方でアフリカのエレクトスとの共通点もある(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P146〜152)。
アフリカのエレクトスには多様性があり、初期型以上に東南・東アジアのエレクトスに似た100万年前頃の人骨がエチオピアで発見されている(Berhane Asfaw et
al.,2002、関連記事)。ひじょうに解釈の難しいところだが、エルガスターと分類されている人骨群は多様なエレクトスの一部を構成している、と考えるのがよさそうに思う。欧州のホモ=アンテセソールも、エレクトスの地域的変異とみるのがよいだろう(諏訪「化石からみた人類の進化」)。
樹上生活に適応した体型を多分に残していたハビリスとは異なり、エレクトスは首から下は現代人とあまり変わらなかったが、椎孔は現代人よりも小さく、呼吸運動の調節機能が現代人よりも劣っていたとみられることから、言語能力は現代人より劣っていたと思われる(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P151)。とはいえ、首から下は現代人とあまり変わらないので、じゅうらいより長距離歩行能力が向上したと考えられる。これは、明らかなアウストラロピテクス属の化石がアフリカでしか発見されていないのにたいして、エレクトスは東・東南アジアでも発見されていることからも、おそらく間違いないだろう。
しかし首から上にはかなりの違いがあり、現代人男性の脳容量が平均1450CC(ルーウィン『人類の起源と進化』P139)なのにたいして、初期エレクトスの脳容量は800〜900CCていどだった(諏訪「化石からみた人類の進化」)。ハビリスはそれ以前のアウストラロピテクス属よりも脳容量が増加し、初期エレクトスはハビリスよりも脳容量が増加しているが(スティーヴン=オッペンハイマー『人類の足跡10万年全史』P39、関連記事)、全体的に体格が大きくなった分だけ脳容量も増加した、と言えるかもしれない。
ここで注目すべきなのは、全体的に体格が大きくなったとはいえ、現代人のような直立二足歩行を可能とする形態への進化により、産道が狭くなってしまったことである(リチャード=クライン『5万年前に人類に何が起きたか?』P107)。いっぽう脳は巨大化してしまったため、出産がたいへん困難になってしまう。直立二足歩行と脳の巨大化とは両立しがたいのだが、この矛盾を解決したのが脳の二次的晩熟性だった。他の類人猿と比較すると、ホモ属の幼児は誕生してから急激に脳容量を拡大するようになったのである(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P151)。
もちろんこれも、脳の巨大化と直立二足歩行を両立させようとして人類が意図的にやったことではなく、遺伝子の変化による偶然だった。現在でも人類の出産は危険であるが(それでも、衛生環境と医療技術の発展により、現代では前近代よりもずいぶんと危険性は減ったが)、そうした危険性があるにも関わらず、ホモ属が直立二足歩行を維持し、ホモ属の脳容量が10万年前頃まで基本的には増加傾向にあったのは、直立二足歩行と大きな脳が生存競争のうえで有利に働いたからだろう。
脳の二次的晩熟性こそは、人類にその後の覇権をもたらした大変化だった。これにより、誕生してからの環境刺激次第では、知能が高度に発達する可能性がでてきたのである。知識が増せば、教育という名の環境刺激がますます盛んになるから、いっそうの知能の発達が期待できるのである。ただ、エレクトスに二次的晩熟性があったとの見解には異論もある(諏訪「化石からみた人類の進化」)。そうすると、サピエンスやネアンデルターレンシスの直近の共通祖先がいた頃(60〜50万年前)に、はじめて脳の二次的晩熟性が獲得されたのかもしれない。
ここまでホモ属登場の過程をみてきたが、250万年前以降、華奢型(非頑丈型)と頑丈型の存在が確認できるなど、一気に人類の多様化が進展したかのような感がある。これは、上述した気候の変化(乾燥化)に大きな要因があったとも解釈できるし、たんにそれ以前の人骨の発見がまだじゅうぶんではない、というだけのことかもしれない。これまでの古人類学の発掘史を考慮すると、後者の可能性が高そうである。
おそらく人類は長期にわたってそのように多様性を維持し続けてきたのであり、進化は連続的で複雑なものであるから、現在まで残っているわずかな化石だけでは、種区分もふくめて人類進化史の復元はなかなか難しいと思う。ホモ属の祖先と思われるハビリスにしても、どこまで実態のある区分か確証はない。多様なハビリス集団は、同時代の他のアウストラロピテクス属の種と交雑し、ホモ属への進化という観点からするとモザイク状の特徴を備えつつ進化していき、その一部がエレクトスへと進化したのだろう。しかし、ハビリスとエレクトスとの区分にも曖昧なところがあり、両者の中間的な集団を中心に、一定範囲内で混血があったものと思われる。
また、ハビリス的な集団はアウストラロピテクス属の頑丈型とともにかなり後までエレクトスと共存していたようで、現在のところハビリスの存在した下限年代は144万年前頃と推測されており、ハビリスからエレクトスが進化したのではなく、ハビリスとエレクトスには共通祖先がいた可能性も指摘されている(F. Spoor et al.,2007、関連記事)。しかし、ハビリスの一部からエレクトスが派生したと考えれば、両者の長期の共存を説明できると思う。
人類の出アフリカ
以前は人類が最初にアフリカを出た時期は100万年前頃と考えられていたが(ルーウィン『人類の起源と進化』P145)、グルジアのドマニシで177万年前頃の人類化石がオルドヴァイ型石器とともに発見されたので(河合『ホモ・サピエンスの誕生』P46〜52に、このグルジア人骨群についての最近までの研究成果が簡潔にまとめられている)、遅くとも180万年前頃にはなるだろうし、200万年前頃までさかのぼる可能性もあるだろう。
グルジアの人骨群は脳容量が600〜780CCで、エレクトスと断定するには大きくなく(河合『ホモ・サピエンスの誕生』P46〜52)、原始的特徴と派生的特徴とが混在しており(David Lordkipanidze
et al.,2007、関連記事)、いわばハビリスとエレクトスの中間形態と言えそうである。グルジアの人骨群は、ケニアのクービフォラで発見された現在のところ最古の確実なエレクトス化石である ‘KNM−ER3733’とほぼ同年代であるため、アフリカではなくユーラシアでエレクトスが誕生したのではないか、との見解もある(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P147〜149)。
ここでも人類種区分の難しさが現れており解釈の難しいところだが、典型的なアウストラロピテクス属とハビリスの化石はアフリカでしか発見されておらず、アフリカのエレクトスは190万年前までに登場していたとの見解もあるから(Bernard Wood et
al.,1999)、やはりエレクトスはアフリカで進化したと考えるほうがよいと思う。おそらく、アフリカを出た人類はエレクトスだけではなく、エレクトスとハビリスの中間的形態の集団も出アフリカを果たしたのだろう。これらが同一種かどうか定かではないが、おそらく近縁の集団であり、相互に混血もあったのではないかと思われる。グルジアの177万年前頃の人骨群もそうした雑多な人類集団の一部であり、はっきりと分類するのはなかなか難しい。これらをホモ=グルジクスと分類する見解もあるが(諏訪「化石からみた人類の進化」)、多様なエレクトスの一部と考えるほうがよいと思う。
アフリカとグルジア以外で初期エレクトス化石が発見されているのは東南アジアのジャワ島で、その年代は180万年前頃までさかのぼるとの見解もあるが、発見されたときの状況から疑問も呈されている(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P146〜152)。エレクトスの登場年代が200万年前頃までさかのぼるのだとしたら、ジャワのエレクトスの180万年前頃という年代も不自然ではないだろう。
なお、ここで断っておくと、以下の東南アジアと東アジアという区分は、現在のものとはやや異なる。東アジアは、現在の東南アジアの北部をも含む地理的概念で、東南アジアは、スンダランドを中心として、現在の東南アジアの南部を想定している。東アジアでは、中国で出土したハビリスと似た人骨の年代が204万年前頃だと判明したとの報道もあったが(関連記事)、ハビリスに近い人類集団も出アフリカを果たしていただろうから、この年代が妥当な可能性もあると思う。
わりと早期に東南・東アジアへ人類が進出していたとすると、石器分布にまつわる謎は解決となる。アフリカでは260万年前頃からオルドヴァイ型石器が使用されるようになったが、170〜160万年前頃からより機能性の高くなったアシュール型石器が使用されるようになった(諏訪「化石からみた人類の進化」)。しかし、東南・東アジアでは長らくアシュール型石器が発見されず、いぜんとしてオルドヴァイ型石器が使用されていたので、人類の出アフリカが100万年前以降とされていた頃には、なぜアシュール型石器が使用されなかったのかということが大きな謎とされていた。
グルジアの人類の年代はアシュール文化以前であり、上述したように共伴した石器はオルドヴァイ型であった。人類がオルドヴァイ文化の時点でアフリカを出て、その子孫が東・東南アジアのエレクトスになったとすると、石器分布にまつわる謎はもはや謎ではなくなる。ただ、中国南部で発見された石器の中にはアシュール型石器も含まれるので(宮本一夫『中国の歴史01 神話から歴史へ』P67〜68)、東アジアにはアシュール文化が一部流入したとみるべきだろう。また、170万年前頃にはグルジアに進出していたとなると、ホモ属は初期より火を使用していた可能性もあるだろう。
エレクトスは欧州へも進出した。その年代は今のところ120〜100万年前頃までさかのぼるようだが(関連記事)、厳しい寒冷期もあっただけに、寒冷地適応体型をしていたネアンデルターレンシスの登場までは、温暖期にアフリカから西アジアを経由して欧州に進出し、寒冷期に絶滅・撤退するということを繰り返していたのではなかろうか。
アフリカのみならず欧州から東南アジアにまで拡散したエレクトスだが、広範囲に長期間存在しながら出土した化石が少ないだけに、進化や集団の移動の様相には不明な点が多い。おそらくサピエンス以前の人類の出アフリカは1回だけではなく、アフリカからユーラシアに進出した集団がアフリカに帰還するなど、人類集団の移動はかなり複雑だったのではないかと思われる。
そのような中で出土数は少ないものの、アフリカの140〜80万年前頃の化石は、アフリカ内でのエレクトスの系統の連続性を示しているとの指摘もある(諏訪「化石からみた人類の進化」)。おそらく、人類誕生から更新世末期までの期間において、もっとも多数の人口と人類集団内の多様性を抱えていたのはアフリカであり、欧州や西アジアや東アジアなどでは何度か人類の系統が途絶えたかもしれないが、アフリカにはずっと人類が存在し続けたのだろう。
もっとも東南アジアの場合は、アフリカほどではないにしても、長期にわたる人類の連続性が認められるようである。ジャワ島のエレクトス化石の比較の結果、ジャワのエレクトスは年代が下るにつれてその派生的形質を強めていき、特殊化していったことが判明した、との指摘がある(Hisao Baba et
al.,2003、馬場悠男編『別冊日経サイエンス 人間性の進化』P6〜9)。この指摘により、ジャワのエレクトスがオーストラリアの先住民に進化したとする、多地域進化説の重要な根拠が崩れることになった。おそらく東南アジアのエレクトスは孤立度の強い集団で、一度人類が進出した後は、サピエンスの進出まで東南アジアには他地域からの流入があまりなかったのだろう。
このように世界各地に進出したエレクトスの一部からサピエンスが進化したと思われるが、エレクトスとサピエンスとの中間の種の名称としてしばしば用いられるのがハイデルベルゲンシスである(諏訪「化石からみた人類の進化」)。その正基準標本はドイツで発見されたが、アフリカの60〜20万年前頃の人骨(ボドやカブウェなど)や東アジアの30〜15万年前頃の人骨(金牛山や大茘や馬壩など)との類似性も指摘され、これらをまとめてハイデルベルゲンシスとする見解もある(諏訪「化石からみた人類の進化」)。こうした人類集団にネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)も含めて、古代型サピエンスとして一括して分類する見解も以前からある(ルーウィン『人類の起源と進化』P167〜174)。
ハイデルベルゲンシスはエレクトスとの類似点のある一方で、脳容量の増加などの点でサピエンスやネアンデルターレンシスへの移行形態を示している(諏訪「化石からみた人類の進化」)。おそらくハイデルベルゲンシスは60万年前頃にアフリカで誕生し、世界各地へ進出したのだろうが、アフリカに残ったりユーラシアからアフリカに帰還したりした集団からサピエンスが進化し、欧州にとどまった集団の中からネアンデルターレンシスが進化したのだろう。ただ上述したように、東南アジアにはあまり進出しなかったものと思われる。
ここでは、アフリカとユーラシアの広範囲に拡散したこれら脳容量の増加した人類を、ハイデルベルゲンシスと区分しておく。ただ、この場合のハイデルベルゲンシスは多様性が大きく、複数種に区分するほうが妥当かもしれないという可能性はつねに念頭においておきたい(関連記事)。
ハイデルベルゲンシスの誕生した頃、石器に重要と思われる変化が訪れる。170万年前頃に始まるアシュール文化は60万年前頃を境により洗練されたものとなり、これ以前を前期アシュール文化、これ以降を後期アシュール文化と分類する見解もある(リチャード=クライン『5万年前に人類に何が起きたか?』P153〜155)。前期アシュール文化においては、仕上げが雑で左右対称ではない握斧(ハンドアックス)が普通だったのにたいして、後期アシュール文化においては仕上げが細やかで左右対称な握斧が作られるようになったが、これは人類の認識能力の向上との解釈も可能である(クライン『5万年前に人類に何が起きたか?』P153〜155)。
現在のところ確認されている考古資料はハイデルベルゲンシスの登場に遅れるが、本格的な狩猟もハイデルベルゲンシスの誕生の頃に始まった可能性がある。ドイツでは40万年前頃の槍が出土し(Hartmut Thieme.,1997、クライン『5万年前に人類に何が起きたか?』P171〜176)、同じころに英国では象を狩っていたとされており(関連記事)、ハイデルベルゲンシスの誕生地と思われるアフリカでは、もっと早くに本格的な狩猟が始まっていた可能性もあるだろう。また、人類の定住が40万年前頃に始まったとする見解もある(関連記事)。石器の変化や本格的な狩猟が始まった可能性などを、脳の拡大を伴うハイデルベルゲンシスの出現と結びつけると説得力がありそうなのだが、「文化の発展」と「生物学的進化」とを安易に結びつけることは危険であるし、一つの発見で美しい解釈が容易に崩れることがあるのが古人類学の恐ろしさなので、断定は難しい。
サピエンスの起源
サピエンス(現生人類)の起源をめぐっては1980〜1990年代に激論が展開されたが、現在ではアフリカを起源地とすることで見解(サピエンスのアフリカ単一起源説)が一致しつつある(河合『ホモ・サピエンスの誕生』第3章に、最近までの研究成果が簡潔にまとめられている)。その根拠は(1)形質人類学と(2)分子遺伝学にある。まずはこの点を簡単に述べておく。
(1)やや原始的ではあるが、最古(160000〜154000年前頃)の確実なサピエンス人骨がエチオピアで発見されており(Tim D. White et
al.,2003、関連記事)、年代と復元に問題はあるが(イアン=タッタソール『別冊日経サイエンス 最後のネアンデルタール』P157)、同じくエチオピアにおいてサピエンスの出現が195000年前までさかのぼる可能性も指摘されている(Ian McDougall et
al.,2005、関連記事)。アフリカにおいては、エレクトスからハイデルベルゲンシスを経由してサピエンスへと続く人骨の系統はたどれるが、他の地域では、ネアンデルターレンシスのような先住人類からサピエンスへとつながる解剖学的系統が、アフリカのように明確にたどれない(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P172〜183)。また、多数の頭骨の分析によってもアフリカ単一起源説が支持されているが、この研究には批判もある(Andrea Manica et
al.,2007、関連記事)。
(2)ミトコンドリアやY染色体のDNAについての諸研究が示しているのは、現代人の最終共通母系祖先は20〜10万年前頃アフリカに、現代人の最終共通父系祖先は11〜7万年前頃にアフリカに存在しただろうということである(篠田謙一『日本人になった祖先たち』P191、関連記事)。ユーラシア各地のサピエンス以前の先住人類のDNAについては、ネアンデルターレンシスのものしか調べられていないが、それでも複数分析されている。更新世に欧州にいたサピエンスであるクロマニヨン人のミトコンドリアDNAの塩基配列が、現代人、とくに欧州系と密接な関係が認められたのにたいして、ネアンデルタール人のそれは現代人やクロマニヨン人とも大きく異なっていた(河合『ホモ・サピエンスの誕生』P113〜120)。このように、分子遺伝学の諸研究はおおむねサピエンスのアフリカ単一起源説を支持している。またこうした諸研究においては、アフリカ起源のサピエンス集団がいつどこに進出したのかという拡散経路の復元も試みられており、その成果についてはブライアン=サイクス『イヴの七人の娘たち』やオッペンハイマー『人類の足跡10万年全史』が詳しい。
こうした研究成果が提示されているので、私も基本的にはサピエンスのアフリカ単一起源説を支持している。サピエンスの起源がアフリカのどこにあるかまでは確定していないが、現時点ではアフリカ東部が最有力だろう。現在の焦点は、アフリカで誕生したサピエンスが世界各地に拡散したさい、ネアンデルターレンシスや東南アジアのエレクトスのような各地の先住人類との間に混血があったのか、あったとしてどの程度だったのかということである。
上述したように、現代人の最終共通母系・父系祖先のおおよその存在年代が20万年前以降であることが明らかになり、サピエンスとはかなり近縁だと思われるネアンデルターレンシスとサピエンスのミトコンドリアDNAの塩基配列がかなり異なっていたため、サピエンスとユーラシアの先住人類との間に混血はなかったとの見解が有力である。ただ、母系・父系由来の遺伝子は失われやすいので、現時点で混血がなかったと判断するのは危険である。
たとえば、男性の先住人類甲がサピエンスの女性と結婚して娘乙しか生まれなかったり、息子丙が生まれても、丙とサピエンスの妻との間に娘しか生まれなかったりしたら、たとえ甲の子息乙と丙に由来する遺伝子が現在まで伝わっていたとしても、甲のY染色体のDNAは、現代人には見つからないことになってしまう。逆に、女性の先住人類とサピエンスの男性とが結婚した場合も、ミトコンドリアDNAに同様のことが容易に起き得る(偶発系統損失)。
侵入してきたサピエンスの数が圧倒的に優勢な状況で、先住人類との混血があった場合、先住人類の母系・父系に由来するDNAは、わりと短期間で失われることだろう。混血があったかどうかは核内のDNAを分析しないと分からないということは、ミトコンドリアDNAの分析が始まった頃から言われていたことで(ジェイムズ=シュリーヴ『ネアンデルタールの謎』P154)、じっさいに挑んだ研究者もいる。その中にはアラン=テンプルトン(Alan Templeton.,2002、関連記事)のように、200〜180万年前頃の第一次出アフリカ以降の人類の複雑な移動と混血とを主張する見解もあるが、多数の研究者はこれに否定的である。
ネアンデルターレンシスの混血問題については後述するので、他の先住人類との混血の可能性についてみていくと、アタマジラミの分岐年代の研究は、混血を示唆するものとの解釈も可能である(David L. Reed et al.,2004)。この研究によると世界中のアタマジラミは二つの集団に大別され、両者の分岐年代は118万年前頃だと推測されるが、二つの集団のうちの一方はアメリカ先住民からしか発見されなかった。このことから、東南・東アジアでエレクトスと接触した(混血したとは限らないが)サピエンス集団が、エレクトスからシラミを移された後にアメリカへ移住した、と解釈することも可能だろう。
ジャワの後期エレクトスとされるソロ人は、53000〜27000年前頃まで生存していた可能性が指摘されているし(C.C.Swisher III et
al.,1996)、後述するフロレシエンシスの存在もあるので、東南アジアでのサピエンスとエレクトス(の子孫)との接触という想定に無理があるとは言えないだろう。ただ、アメリカ以外ではほとんど発見されていないというのが気になるところである。東南・東アジアでも同類のアタマジラミが発見されていれば説得力が増したのだが、現時点では、このアタマジラミがエレクトスに由来するのか、またサピエンスとエレクトスとの間に接触があったのかという点について、断定するのは難しい。東アジアについては不明な点が多く、形態学的観点から先住人類とサピエンスとの混血を指摘した見解もあるが、広く支持されているとは言いがたいだろう(Hong Shang et
al.,2007、関連記事)。
「ネアンデルターレンシスをめぐる問題」の章でも述べるが、現時点では混血の確たる根拠はない。それでも私は、頻度は各地域により異なっていたとしても、混血があったと考えている。この考えは、ギュンター=ブラウアーのアフリカ交配代替モデル説(シュリーヴ『ネアンデルタールの謎』P136〜138)にほぼ従ったものである。確たる根拠はないが、現時点で大胆に予測すれば、西アジア>南アジア=東欧>東アジア=西欧>東南アジアの順で混血頻度が高かったと思う。ただ、これはあくまでも地域間の相対的な比較で、母系・父系ともに先住人類由来のDNAが見当たらないことから、西アジアにしても全体的に混血は例外的だったと推測される。
アフリカでエレクトスとサピエンスとをつなぐのは、エチオピアのボド人骨(60万年前頃)や、70〜40万年前頃と推測されるタンザニアのンドゥトゥー湖人骨・南アフリカのエランズフォンテイン人骨・ザンビアのカブウェ人骨や、26万年前頃と推測される南アフリカのフロリスバッド人骨だと思われ、フロリスバッド人骨にはかなりのサピエンス的特徴が認められる(クライン『5万年前に人類に何が起きたか?』P237〜244)。
これらは古代型サピエンス(ルーウィン『人類の起源と進化』P167〜174)またはハイデルベルゲンシスまたはローデシエンシスと呼ばれるが、ハイデルベルゲンシスの後期型がヘルメイと呼ばれることもある(諏訪「化石からみた人類の進化」)。ここではとりあえず、これらの人骨群を一括してハイデルベルゲンシスとしておくが、変異幅が大きいことには注意しておかねばならない。
これらの中の一部の集団がサピエンスへと進化したと思われるが、上述したように、年代・形態ともに確実な最古のサピエンスは、現在のところエチオピアの160000〜154000年前頃の人骨である。この人骨はアフリカの古人骨では珍しく年代がはっきりとしていて、眼窩上隆起がやや強い点などハイデルベルゲンシス的特徴も残してはいるものの、初期のサピエンス(ホモ=サピエンス=イダルツ)とされている(Tim D. White et
al.,2003、関連記事)。
この他の最初期のサピエンス人骨としては、オモ人骨が有名である。これは1967年にエチオピア南部のキビシュ川の土手で発見された13万年前頃の2個体分の頭蓋片(オモ1号・オモ2号とされた)で、オモ1号はほぼ完全なサピエンスとされるが、オモ2号は低い脳頭蓋や後頭骨の後方への突出などが認められ、かなり原始的とされている(クリストファー=ストリンガー他『出アフリカ記 人類の起源』P10〜14、タッタソール『最後のネアンデルタール』P156〜157)。
オモ1号については復元と年代に疑問が呈されていて(タッタソール『最後のネアンデルタール』P157)、それはこの新たに提示された年代によりますます深まったと言えるかもしれない。モロッコのジェベル=イルードでは15万年前頃の人骨が出土しており、ハイデルベルゲンシスとサピエンスとの中間的形態を示しているとされるが(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P182〜183)、オモ人骨の復元と年代が妥当だとすれば、20〜15万年前頃のアフリカにはハイデルベルゲンシス的な人類集団もサピエンス的な人類集団も存在しており、前者の代表がオモ2号で後者の代表がオモ1号、前者と後者の中間的な存在がジェベル=イルード人骨、後者よりも前者にかなり近い集団がイダルツだった、ということなのかもしれない。
こうした混沌とした状況は、アフリカでは10万年前頃まで続いた可能性もあるだろう。進化は連続的なので時間的・地理的にはっきりと種を区分することは難しく、これらの集団も相互に混血していたかもしれない。じっさい、ジェベル=イルード人骨の成長速度は現代人と変わらないとの見解もあり(Tanya M. Smith et
al.,2007A、関連記事)、ジェベル=イルード人的な集団とイダルツやオモ1号的な人類集団とは、混血できるくらいの類似性を有していた可能性もあるとは思う。
ハイデルベルゲンシス的な人類集団は、一部がサピエンスと混血しつつも10万年前頃まで存在し、多数が現代に遺伝子を残すことなく絶滅する一方で一部がサピエンスに吸収されるという、10万年前以降のユーラシア大陸と同じようなことが起きていたのではないかと思われる。オモ1号の復元と推定年代が間違っている場合は、形態的にほぼ完全なサピエンス(解剖学的現代人)の出現は13〜12万年前頃になるだろう。
現代的行動の起源とサピエンスの拡散
サピエンスの解剖学的な派生的特徴としては、弱い眼窩上隆起・小さな歯・垂直な前頭骨・丸っこい後頭骨・はっきりとした頤などが挙げられる(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P150)。こうした解剖学的特徴はこれまでの人類とはかなり異なるものである。よく、ネアンデルターレンシスなど現代人の祖先とは考えられていない絶滅人類は人類進化史の側枝と言われるが、冷静に評価するとサピエンスのほうこそ異端であり、側枝と評価するに相応しい(Erik Trinkaus.,2006、関連記事)。
サピエンスの行動学的指標となる考古遺物としては、洞窟壁画などの芸術活動・石刀技法を用いるなどした高度な石器と装身具の使用・副葬品などがあり、計画性も含む高度な知性・象徴的思考能力を備えていれば、真のサピエンスと認められるというわけである。こうした考古学的指標が認められるのは、48000年前以降の欧州・西アジア・北部アフリカの上部旧石器文化と、50000年前以降のサハラ砂漠以南のアフリカの後期石器文化であり、上部旧石器・後期石器文化を人類史のうえで画期的な飛躍とする見解は根強い(タッタソール『最後のネアンデルタール』P163〜171、クライン『5万年前に人類に何が起きたか?』P21〜28)。もっとも、下部旧石器文化から中部旧石器文化への移行のほうが画期的とする見解もある(オッペンハイマー『人類の足跡10万年全史』P124〜126)。
以前は、最古のサピエンスは欧州に登場するとの考えが根強く(ルーウィン『人類の起源と進化』P169)、サピエンスの登場は上部旧石器文化の出現と関連し、登場したときにはすでに芸術活動を伴っていたと認められていたので問題はなかったのだが、上述したように、その後になってサピエンスとみられる人骨の出現年代が繰り上がっていき、ついには20万年前頃にまでさかのぼる可能性が高くなってきた。そうすると、上部旧石器・後期石器時代以降とされている行動学的指標の成立と、20万年前頃にさかのぼりそうな解剖学的指標の成立との間に、大きな時間のズレが生じることになる。
そこで近年では、解剖学的にはサピエンスでも行動学的にはサピエンスとはいえない人類集団を、解剖学的現代人と呼ぶこともある(ニコラス=ウェイド『5万年前 このとき人類の壮大な旅が始まった』P45〜46など、関連記事)。この場合、行動学的にも真のサピエンスと認められ、潜在的な知的資質が現代人と変わらないような人類集団は、行動学的現代人と分類される(Todd Surovell et
al.,2005など)。行動学的現代人の登場は5万年前頃だから、この頃に解剖学的現代人の神経系にかかわる遺伝子に突然変異が起き、現代人と変わらないような知的能力を有して、発達した文化をもった優位さから世界各地に短期間に進出したとする、「創造の爆発論・神経学仮説」が主張されて根強い影響がある(クライン『5万年前に人類に何が起きたか?』P21〜28、P258〜262)。
だが近年、現代的な行動はアフリカの中期石器時代に始まるのではないか、との見解が優勢になりつつある。その根拠について触れる前に、ここで石器時代の区分について少し整理しておきたい(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P138〜139、クライン『5万年前に人類に何が起きたか?』P153〜155、大津他『世界の考古学5 西アジアの考古学』P17〜46)。
オルドヴァイ文化は段階I(小さな礫から2〜3片の剥片をはがした簡単なもの)、アシュール文化は段階II(段階Iより周到な計画と調整が必要とされる両面加工握斧などを製作するようになる)、中期石器・中部旧石器文化は段階III(調整された石核から剥片を剥離する)、後期石器・上部旧石器文化は段階IV(周到に調整された石核から細長い石刃をはがしとる)と段階V(小さく微細な細石器を作る)とされるが、じっさいにはそのようにすっきりと分類できるわけではない(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P138〜139)。
サハラ砂漠以南のアフリカ |
アフリカ北部・西アジア・欧州 |
||
前期石器文化 |
260万年前頃〜 |
下部旧石器文化 |
180万年前頃〜 |
前期石器文化 |
170万年前頃〜 |
下部旧石器文化 |
140万年前頃〜 |
前期石器文化 |
60万年前頃〜 |
下部旧石器文化 |
50万年前頃〜 |
中期石器文化 |
30万年前頃〜 |
中部旧石器文化 |
20万年前頃〜 |
後期石器文化 |
5万年前頃〜 |
上部旧石器文化 |
48000年前頃〜 |
じっさいにはもっと地域を分けたほうがよいのだが、単純化してこのような表とした。南・東南・東アジアについては独自の時代区分が必要と思われるが、勉強不足のため割愛した。サピエンスの拡散や現代的な行動の起源の問題と密接にかかわってくるのは、中部旧石器(中期石器)文化から上部旧石器(後期石器)文化への移行である。欧州においてこの移行は、石刃・骨器・ビーズのような装飾品・楽器・壁画などの出現が認められる革命的な変化であり、時代の境界がわりと明確に認められる(タッタソール『最後のネアンデルタール』P163〜171、ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P192〜194)。これは、上部旧石器文化をもった他地域の人類集団が欧州に進出したからであろう。
西アジアにおいてはこの移行に連続性が認められるが(大津他『西アジアの考古学』P38〜46)、これは在地の人類集団が文化を発達させていったためだろう。この移行にかぎらず全時代の移行において、サハラ砂漠以南のアフリカは欧州と比較すると境界が曖昧なところがあり(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P138)、「先進的」な要素をもった文化から一時的に「退行」しているかのように見えることもあるなど(シュリーヴ『ネアンデルタールの謎』P267〜268)、複雑な様相を呈している。これはアフリカの多様性を示すものであるが、境界が曖昧なところなどは、在地の人類集団による継続的な文化発達を意味しているのだろう。
境界の明確な欧州を基準にすると、「創造の爆発論・神経学仮説」は妥当な解釈のように思われる。しかし、アフリカの中期石器時代の遺跡の発掘が進むと、現代的な行動の考古的指標とされる石刃・装飾品などが中期石器時代までさかのぼることが判明してきたため、「創造の爆発論・神経学仮説」は苦しくなってきた。こうしたアフリカでの発見を根拠として、「創造の爆発論・神経学仮説」に反論した長大な論文も執筆されている(Sally
Mcbrearty.,2000)。中期石器または中部旧石器時代の現代的行動を示す証拠は以下のようなものであるが、この問題について近年までの研究成果が簡潔にまとめられているものとして、河合『ホモ・サピエンスの誕生』4章と海部
陽介『人類がたどってきた道』3章と馬場編『人間性の進化』P110〜119とがある。
(1)レヴァントやアフリカ北部では10〜8万年前頃にビーズの作製が認められる(Abdeljalil
Bouzouggar et al.,2007、関連記事、関連記事)。また同じ頃のレヴァントのサピエンス人骨は、副葬品を伴って埋葬されている(Paul Mellars.,2006B、関連記事)。
(2)南アフリカのブロンボス洞窟では、幾何学文様の刻まれた75000年前頃のオーカーが発見された(Christopher S. Henshilwood et
al.,2002、関連記事)。
(3)アフリカ南部のザンビアのツイン=リヴァーズという遺跡で、20万年前頃に顔料が使用されていた可能性が指摘された(関連記事)。
(4)ケニアのバリンゴ湖畔では51万年前頃の石刃が出土し、その付近の285000年前頃の地層からオーカーと加工用の砥石が発見された(馬場編『人間性の進化』P112)。ただ「フロレシエンシスをめぐる議論」の章でも述べるように、このような石器に見られる「先進性」の解釈には慎重でなければならず、51万年前頃の石刃の存在も確定したとは言えないだろう。
(5)コンゴのカタンダでは、欧州では14000年前頃にならないと登場しないような精巧な銛が、89000年前頃から使用されていた(A.S. Brooks et
al.,1995)。
(6)南アフリカでは、上下を中期石器文化層に挟まれたハウイソンズ=プールト層において、欧州では上部旧石器時代末にならないと登場しないような細石器が発見された(河合信和『ネアンデルタールと現代人』P94〜96)。ハウイソンズ=プールト層の年代は71000〜61000年前頃と思われる(G. H. Miller et al.,1999)。
(7)アフリカ南部のボツワナ共和国において、7万年前頃の儀式の跡と思われる遺構が発見された(関連記事)。
(8)160000〜154000年前頃のサピエンス頭骨には儀式的な扱いの兆候が認められる。この頭骨と共伴した石器は、アシュール型と中期石器型との混合であった(J. Desmond Clark et al.,2003)。
こうした証拠が続々と提示され、現代的な行動は中期石器時代までさかのぼる可能性が高くなった。そうすると、解剖学的現代人の出現と現代的な行動の発達との時間差はほとんどなくなり、サピエンスは出現時より現代人とほぼ変わらない知的能力を有していたことになる。
しかし、中期石器時代には行動学的な現代性は全面的に開花しておらず、上記の解釈にも疑わしい点があるとして、いぜんとして「創造の爆発論・神経学仮説」を支持する人もいる(クライン『5万年前に人類に何が起きたか?』P262〜267)。上述したように、副葬品を伴った埋葬があっても石器は中部旧石器文化のものだったり、儀式的な扱いの兆候はあっても共伴した石器はアシュール型と中期石器型との混合だったりするし、先進的とされるハウイソンズ=プールト文化にしても、その後に中期石器文化へと「退行」している。上部旧石器文化・後期石器文化を現代的行動の指標とすれば、中部旧石器・中期石器時代のアフリカと西アジアの文化が現代的行動の全面開花ではなく、「新旧」のモザイク状に見えることは否定できない(Paul Mellars.,2006B、関連記事)。
ただ、南部および東部アフリカにおいて遅くとも8〜7万年前頃には、植物資源の管理なども含めて現代的行動色の濃い大きな技術・経済・社会変化がおきたことは否定できないであろうから、たとえ現代的な行動の起因を神経系の突然変異にもとめるとしても、その年代は5万年前頃ではなく8〜7万年前頃となるだろう(Paul Mellars.,2006B、関連記事)。しかし上記(1)〜(8)で示したように、8万年前よりもさかのぼる現代的な行動の証拠もしだいに増えてきている。おそらく今後もそのような証拠が増加し、現代的な行動の起源が中部旧石器・中期石器時代にまでさかのぼるという見解が通説になるだろう。
では、中部旧石器・中期石器時代のアフリカや西アジアにおけるモザイク状の「文化的発展」、つまり現代的行動が全面的に開花するまで長時間要したことを、いかに解釈すべきだろうか。これは多分、文化の蓄積・人口・平均寿命といった諸要素が複雑にからみあった問題なのだろう。おそらく中期石器時代前半〜半ばまでのサピエンスも、潜在的な知的資質では現代人とは変わらず、それゆえに現代的な行動も確認できたのだろう。
しかし、さまざまな要素がからみあってある水準まで蓄積される以前は、現代的な行動は散発的なものであり、全面的に開花することはなかったのだろう。それゆえに自然災害・気候変化への対応力が弱く、文化的蓄積も失われやすいため、「発展」が遅いように見えたのだろう。そうした社会的蓄積がある限界点を突破すると急速に開花し、気候変化や自然災害にもかなり対応できるようになるので、ハウイソンズ=プールト文化のように局地的な衰退はあっても、全体的にみると後戻りすることがほとんどなくなる、ということではなかろうか。アフリカの一部においてサピエンスがそうした限界点を超えたのは、中期石器時代の7万年前頃だと思われる。
そうすると、アシュール文化後期の「小像」などの怪しげな遺物(クリストファー=ストリンガー他『ネアンデルタール人とは誰か』P251)は、自然現象や後世の嵌入などではなく、あるいは本物なのかもしれない。考えてみると、サピエンスの文化はモザイク状の「発展」を示すことが多い。たとえば、中米においてはマヤ文明が高度な数学と暦を発展させたが(寺崎秀一郎『図説古代マヤ文明』P24〜25、106〜108)、冶金術はあまり発達しなかったし(大貫良夫他『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』P128)、ソ連邦は軍事・宇宙科学など一部の科学技術で世界の最先端を行っていたが、民生部門は西側先進諸国に遅れをとっていた。
行動学的現代性が開花した上部旧石器・後期石器時代にしても、残存性の問題はあるにせよ、洞窟壁画などの「高度な」芸術が見られる地域はそう多くはない。サピエンスの文化はモザイク状の「発展」を示すことが普通なのだと考えれば、中部旧石器・中期石器時代の解剖学的現代人も、現代人とほぼ同等の潜在的知的資質があったと考えるのが妥当ではないだろうか。
次に問題となるのは、こうした現代的行動とそれを可能とする潜在的知的資質は、いつまでさかのぼるのかということである。中期石器時代に登場したサピエンスの時点でこの能力を獲得したのか、それともさらにさかのぼるのだろうか。上述したように、後期アシュール型石器がかなり洗練されたものだったこと、脳の大型化、大型動物の狩猟の可能性、51万年前頃の石刃技法などから考えると、60〜50万年前頃に登場したハイデルベルゲンシスの時点で、すでにかなりの潜在的知的資質があったのではないかと思われる。
あるいは、初期ハイデルベルゲンシスの時点においては潜在的知的資質で現代人に及ばなかった可能性があるが、中期石器時代の始まる頃のアフリカの末期ハイデルベルゲンシスとなると、現代人とあまり変わらなくなる可能性もあると思われる。もっとも進化は連続的なので、ハイデルベルゲンシスとサピエンスとの間に明確な境界を認めるのは難しいという事情もあるから、どの人類種の時点で現代人と変わらないような潜在的知的資質を有するようになったのか、特定するのは難しい。
サピエンスの出アフリカの時期については、「創造の爆発論・神経学仮説」の立場からは5万年前頃という年代が提示されているが(ウェイド『5万年前』P94〜106)、65000〜60000年前頃(Paul Mellars.,2006B、関連記事)、85000年前頃(オッペンハイマー『人類の足跡10万年全史』1章)という見解もある。年代に違いはあるが、いずれもサピエンスの成功した出アフリカは1回のみだっただろうとしている。
オーストラリアへのサピエンスの移住は45000〜42000年前頃に始まり、それ以前の移住の確たる証拠はないとする見解があるので(J. F. O'Connell et
al., 2004)、「創造の爆発論・神経学仮説」は否定されるとしても、5万年前以降の出アフリカ説は必ずしも否定できない。ただ、人類による海洋資源の恒常的な利用は遅くとも16万年前頃には始まっていたので(Curtis W. Marean et
al., 2007、関連記事)、サピエンスが海岸沿いに移住した可能性は低くない。そうすると、8〜6万年前頃のサピエンスの少なからぬ痕跡は現在では海面下にあるだろうから、なかなか発見されにくいだけのことである、との考えも可能だろう。
74000年前頃のスマトラ島のトバ大噴火の前後にも、インド南部のジュワラプラム遺跡では中期石器文化的な石器を有する集団が存在しつづけている(Michael Petraglia et
al., 2007、関連記事)。この遺跡から人骨は発見されていないが、この年代で中期石器文化を有しているとなると、サピエンスである可能性が高い。そうすると、サピエンスの出アフリカは8万年前よりもさかのぼる可能性が出てくるだろう。
サピエンスにかぎらず、人類は何度もアフリカからユーラシアへと進出しただろうし、逆にユーラシアからアフリカへと帰還することもあっただろう。サピエンスの遺伝的多様性の乏しさは、おそらく気候変動などによる人口減少の後、小集団による急速な拡大があったためなのだろうが(Paul Mellars.,2006B、関連記事)、人口拡大の核になった集団と、それ以外のサピエンス集団やサピエンス以外の集団との間にも混血はあったものと思われる。ただ、核になった集団のほうが数で優勢だったため、遺伝的多様性が失われたのだろう。おそらく、サピエンスの成功した出アフリカが1回のみであるように見えるのも、そのためだと思われる。
その意味で、サピエンスの出アフリカはその登場とともに始まっていた可能性が高いと思う。インドでは16万年前頃に段階IIIの石器文化が現れているが(オッペンハイマー『人類の足跡10万年全史』P96)、これはサピエンスかハイデルベルゲンシスとサピエンスの中間的な人類集団の所産なのだろう。こうして各地に拡散した人類集団は、135000〜90000年前頃のアフリカ熱帯地域の大旱魃や(Andrew S. Cohen et
al., 2007、関連記事)74000年前頃のスマトラ島のトバ大噴火などにより、人口が減少したり一部地域では絶滅したりしたのだろう。その後、アフリカの小集団が急速に人口を拡大したものと思われる。
そうすると、サピエンスの南アジアや東南アジアやオーストラリアへの進出は10万年前よりもさかのぼる可能性がある。おそらく熱帯起源のサピエンスにとって、似たような気候の土地の多い南アジアや東南アジアへは進出しやすかったのだろう。ただそうだとしても、現代人の主要な遺伝子供給源となったサピエンス集団の出アフリカは、7万年前以降になる可能性もあるだろう。しかし、早期に南アジアや東南アジアに進出したサピエンスも、少数派ながら現代まで遺伝子を伝えているのではなかろうか。
南アジアや東南アジアやオーストラリアへのサピエンスの進出は、エチオピアから航海を渡ってアラビア半島へ上陸し、そこから海岸沿いに南アジアへと向かう経路でなされた可能性が高い(オッペンハイマー『人類の足跡10万年全史』1章)。もう一つの出アフリカの経路として有力なのはエジプトからレヴァントへと抜ける道であり、上述したようにじっさい10万年前頃のレヴァントにはサピエンスがいたのだが、人類の出アフリカは1回だけだったとする見解では、サピエンスによる早期のレヴァントへの進出は失敗し、現代には遺伝子を残さなかったとされる(オッペンハイマー『人類の足跡10万年全史』1章)。
しかし、上記のようにサピエンスも何度も出アフリカを果たし、早期にユーラシアに進出したサピエンスも少数派ながら現代まで遺伝子を残しているとすると、レヴァントへ進出したサピエンスが絶滅したと考えなくてもよいだろう。じっさいレヴァントの上部旧石器文化は、レヴァント南部において中部旧石器時代の前期から後期まで存在したタブンD層型文化と連続的であり、タブンD層型の担い手がどの人類種か確定していないが、サピエンスの可能性が高いだろう(大津他『西アジアの考古学』P35〜39)。タブンD層型の末期にはアフリカからの人類集団の移住が想定されるが(大津他『西アジアの考古学』P38)、この新たな移住者が先住者よりも数で優勢であれば、遺伝的多様性が失われ、サピエンスの出アフリカが1回のみであるように見える効果をもたらしたことだろう。
年代の問題(Paul Mellars., 2006A)を考慮にいれても、欧州へのサピエンスの進出は5万年前をさかのぼることはないだろう。中部旧石器時代の間ずっとレヴァント南部にサピエンスがいたとしたら、サピエンスが欧州へ進出できなかったのは、文化や人口などを含む総合的な社会的蓄積が不足していたからであろう。熱帯起源のサピエンスにとって北方への進出は厳しいし、レヴァントから欧州へ進出するさいにはネアンデルターレンシスが障壁となる。
上部旧石器文化を備え、ネアンデルターレンシスを社会的な蓄積で圧倒できるようになってはじめて、サピエンスは欧州に進出できたのだろう。ただ、クリミア半島のスタロセリイェ遺跡で発見されたサピエンスと思われる人骨には、中部旧石器文化の石器が共伴していたので(ストリンガー『ネアンデルタール人とは誰か』P298)、これが後世の人骨の嵌入ではないとしたら、中部旧石器文化のサピエンスの一部も欧州に進出していたことになる。
欧州最初の「真の」上部旧石器文化(ネアンデルターレンシスの所産とされるシャテルペロン文化などは除く)はオーリニャック文化であり(ストリンガー他『ネアンデルタール人とは誰か』P329)、その担い手について近年になって色々と議論されたが、けっきょくはサピエンスということで落ち着きそうである(河合『ホモ・サピエンスの誕生』P169〜174)。
オーリニャック文化は、欧州だけではなくレヴァントにおいても外来文化として現れ、その起源地の候補としてザグロス地域が挙げられている(大津他『西アジアの考古学』P42〜44)。もしそうだとすると、レヴァントにオーリニャック文化をもたらしたサピエンスと思われる集団も、数で優位に立って先住レヴァント集団を併合し、遺伝的多様性の喪失をもたらしたのかもしれない。
欧州へのサピエンスの最初の進出経路は、レヴァント→アナトリア→中欧南部ではなく、西アジア→コーカサス→東欧の中央平原か、西アジア→中央アジア→東欧の中央平原である可能性が指摘されており(M. V. Anikovich et
al., 2007、関連記事)、オーリニャック文化の起源がザグロス地域にあるとすれば、この経路は理解しやすくなる。しかしおそらく、サピエンスは複数の経路で欧州に進出したのだろう。
上述したように、南アジア・東南アジア・オーストラリアへのサピエンスの進出は10万年前よりもさかのぼる可能性があるから、東アジアへのサピエンスの進出も、10万年前頃までさかのぼる可能性がある。そうすると、今後10万年前頃のサピエンス的な人骨が東アジアで出土し、多地域進化説を証明するものだと中国の考古学者や形質人類学者が主張するかもしれないが、私の考えでは、その主張は間違っているということになる。もっとも、現代人の主要な遺伝子供給源となったサピエンスの進出となると、東アジアでもやはり7万年前以降ということになろう。
シベリアのアメリカ大陸に近い地域には、3万年前以降に人類の居住が始まる(海部『人類がたどってきた道』8章)。このときアメリカ大陸への移住がなされたか不明だが、3万年前以降ならば、人類のアメリカ大陸への移住がなされた可能性を想定してもよいだろう。アメリカ大陸への人類移住の時期については激論が展開されているが(この論争については、オッペンハイマー『人類の足跡10万年全史』7章が詳しい)、まだ確定していない。この問題については、遅くとも12000年前にはアメリカ大陸に人類はいたということと、アメリカ大陸に移住した人類はサピエンスのみである、という二点のみ合意が成立しているといった感じで、当分決着しないだろう。
ネアンデルターレンシスをめぐる問題
19世紀後半以降、ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)は古人類学における主要な論点であり続けてきた。これは、ネアンデルターレンシスが欧州や西アジアといった発掘の進んでいる地域に分布しており、発掘数が多く研究が進展しているためである。また、ネアンデルターレンシスがサピエンスにかなり近く、サピエンスにとって最後の隣人であると考えられてきた(ネアンデルターレンシスよりも後まで生存していたとされる、フロレシエンシスについては後述)ので、自らの来歴を明らかにするための格好の比較対象となったことも、研究の進展を促した。
ネアンデルターレンシスがいかにサピエンスに近いかということは、アウストラロピテクス=アフリカヌスやジャワのエレクトスの場合、発見当初は人類ではないとの異議が強く主張されたのにたいして、ネアンデルターレンシスの場合、絶滅人類か病変の現代人かという議論はあっても、人類であることを疑う見解はほとんどなかったことでも明らかである(トリンカウス『ネアンデルタール人』P98〜99、P193〜214、P300〜304)。そのため、ネアンデルターレンシスの研究は人類進化の研究において重要な地位を占めており、この状況はアフリカや中国での発掘数が増加するまでは変わらないだろう。ゆえにネアンデルターレンシスについては、人類進化の学説史にも触れつつ、やや詳しく述べていくことにする。
ネアンデルターレンシスの定義については、意外と曖昧な状況が長く続いた。ネアンデルターレンシスの本格的な形態学的定義が試みられたのは1970年代後半になってからで(タッタソール『最後のネアンデルタール』P105〜109)、ネアンデルターレンシスをめぐる論争が始まってから100年以上経ってのことである。ネアンデルターレンシスの解剖学的指標は、現代人よりもやや大きな脳(平均容量1500cc)・寒冷適応体型・強い眼窩上隆起・後ろから見ると丸い形の頭蓋冠・前方へ移動した歯列・臼歯後隙などで、後三者はネアンデルターレンシス固有の形質である(諏訪「化石からみた人類の進化」、ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P164〜165)。
文化的側面からは中部旧石器文化とネアンデルタール人との関連が強調され、中部旧石器時代はネアンデルタール人の時代ともされたが、レヴァントのサピエンスの中には中部旧石器文化を持つ集団がおり(大津他『西アジアの考古学』P31)、ネアンデルターレンシスのなかに上部旧石器的な文化を有する集団がいたことが判明したので(この問題についての最近までの論争が、河合『ホモ・サピエンスの誕生』6章に簡潔にまとめられている)、ネアンデルターレンシスと中部旧石器文化とを単純に結びつけるわけにはいかなくなった。
ネアンデルターレンシスの分布域は、西はポルトガル、北はブリテン島、南はイスラエル、東はウズベキスタンまでと考えられてきた(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P170)。これだけでもかなり広く、ネアンデルターレンシスは大雑把に言えばユーラシア西部に拡散した人類ということになるが、2007年になって、ネアンデルターレンシスがウズベキスタンよりもさらに東方のモンゴルの近くにまで進出していたことが判明した(Johannes Krause et
al.,2007A、関連記事)。
発見当初ネアンデルターレンシスは病変の現代人とも考えられたが、20世紀初頭までには太古に存在した人類ということでほぼ見解が一致した(トリンカウス『ネアンデルタール人』P98〜99、P208)。そうすると次に問題となるのは、人類進化史におけるネアンデルターレンシスの位置づけである。
19〜20世紀の変わり目の頃、ドイツのグスタフ=シュヴァルヴェは、エレクトス(いわゆるジャワ原人のことで、当時はピテカントロプス属とされた)→ネアンデルターレンシス(シュヴァルヴェはプリミゲニウスと呼んだ)→サピエンスという系統を考えたが、一方ではエレクトス→サピエンスという系統も想定しており、ネアンデルターレンシスが絶滅した可能性も考えていた。シュヴァルヴェは当初前者を好んでおり、後には後者のほうがやや可能性が高いと考えたが、その場合でも動物学的意味において、ネアンデルターレンシスはサピエンスとエレクトスとの中間的存在である、と述べた(トリンカウス『ネアンデルタール人』P212〜213)。
だが、その後、ネアンデルターレンシスにたいしては野獣的で半人的な印象が強くなり、現代人の祖先からは外されるようになってしまう。その契機となったのは、1908〜1913年にかけてフランスのマルセル=ブールによって発表されたネアンデルターレンシスの復元にかんする論文であった。ブールは前かがみの姿勢などネアンデルターレンシスの類人猿的特徴を強調し、欧州にはネアンデルターレンシスと同時代にサピエンスの直接の祖先が存在していたとするプレサピエンス説の基礎を築き、プレサピエンス説は長く強い影響力を保った。また、捏造されたピルトダウン人(正式な科学名称はエオアントロプス=ダウソニー)が本物と認定されたことも、ネアンデルターレンシスを現代人の系統から追放する根拠となった(トリンカウス『ネアンデルタール人』P244〜273)。
ピルトダウン人とプレ=サピエンス説に異議を唱えたのは、チェコからアメリカへ移住したアレシュ=ヘリチカであった。ヘリチカは、エレクトスからネアンデルターレンシスの段階を経てサピエンスが登場したとする、シュヴァルヴェと似たような人類の単系統進化説を20世紀前半に提示したが、ほとんど支持されなかった(トリンカウス『ネアンデルタール人』P269〜270、287〜289、304〜307)。
ナチス政権の成立によりドイツを去ったユダヤ人のフランツ=ヴァイデンライヒも、プレ=サピエンス説に同意しなかった一人であった。1947年に発表された人類の系統図では、オーストラリア・アジア・アフリカ・欧州という四つの地域ごとの進化の流れが重視されるとともに、各地域間の遺伝的交流も想定され、人類は各地域において、エレクトスのような段階とネアンデルターレンシスのような段階を経て、サピエンスに至るとされた。現代の人種の起源をたいへん古くに想定し、人類の多地域的な進化を説いたヴァイデンライヒの見解は、発表当初は賛同者が少なかったのだが、1960年代以降おもに米国でひじょうに大きな影響力を持つようになった(トリンカウス『ネアンデルタール人』P314〜316、349〜355)。
20世紀半ばの進化総合説の成立によって種内変異が重視されるようになり、ネアンデルターレンシスの復元が見直されてサピエンスとの類似性が強調され、ネアンデルターレンシスはサピエンスの亜種ホモ=サピエンス=ネアンデルターレンシスとされた。また1953年にピルトダウン人の捏造が確定したこともあり、プレ=サピエンス説はしだいに影響力を失っていき、新たな人類進化説の提示が求められるようになった(トリンカウス『ネアンデルタール人』7〜8章)。
進化総合説の急速な成立と影響力の拡大という時代背景を前提として提唱された仮説に、プレ=ネアンデルタール説がある。レヴァントでは、ネアンデルターレンシス的な人骨・サピエンス的な人骨・中間的な人骨が出土している。このことから、西アジアには特殊化していないネアンデルターレンシスがいて、サピエンスと特殊化したいわゆる古典的ネアンデルタール人との直近の祖先になった、と米国のクラーク=ハウエルなどが1950年代に提唱した(トリンカウス『ネアンデルタール人』P366〜371)。
同じく進化総合説を大前提とし、ネアンデルターレンシスがサピエンスの祖先であることを強調したのが、米国のローリング=ブレイスが提唱した人類単一種説だった。ブレイスはプレサピエンス説を批判し、ヘリチカとヴァイデンライヒの見解に注目した。ブレイスは、文化を持つ人類はどの時代においても単一種であり続け、アウストラロピテクス属の猿人→エレクトスの原人→ネアンデルターレンシスの旧人→サピエンスの新人と進化した、という人類単一種説を主張した。
ブレイスは人類進化において文化の果たした役割を強調し、頑丈なネアンデルターレンシスが華奢なサピエンスへと進化したのは、道具の発達により身体への負担が軽減されたからだとしたが(ストリンガー他『ネアンデルタール人とは誰か』P35〜36)、今ではこの説はほとんど支持されておらず、両者の頭骨の違いは遺伝的要因によるとの見解も提示されている(Timothy D. Weaver et al., 2007、関連記事)。進化総合説を大前提とした人類単一種説は統合派的性格の強いものであり、同時代の各地域の人類の解剖学的差異は種内変異の範囲内におさまるものであるとされた(トリンカウス『ネアンデルタール人』P417〜424、ロジャー=ルーウィン『現生人類の起源』P56〜57)。
しかし、1975年にケニアのトゥルカナ湖岸において、アウストラロピテクス=ボイセイの人骨がすでに発見されているのと同時代(150万年前頃)の地層からエレクトスの人骨が発見されたことで、人類単一種説は否定された(ロジャー=ルーウィン『現生人類の起源』P56〜57)。
ブレイスとともに人類単一種説を強く主張していたミルフォード=ウォルポフは、大きな転換を余儀なくされた。同時代における人類の同一性を強調していたウォルポフは、各地域間の差異は人類進化における些細な問題であるとしており、人類史における地域間の変異とその連続性に注目していたオーストラリアのアラン=ソーンの見解を軽視していた。しかしウォルポフはエレクトス化石の修復中に、ジャワのエレクトスとオーストラリア先住民のアボリジニーとの形態的類似性というソーンの見解が正しいと確信し、ソーンに謝罪して共同研究を始めた(シュリーヴ『ネアンデルタールの謎』P124〜126)。
二人の研究成果は1981年に明確な形で公表され、多地域進化説と呼ばれている。これは、アフリカから世界各地に進出したエレクトスが世界各地で派生形質を獲得してその特徴を維持しつつも、各地域間で遺伝子交換を続けることにより、たとえば欧州ではエレクトスからネアンデルターレンシスのような段階を経て、世界全体でサピエンスへと進化したというものである。ソーンの考えを基盤としつつ、人類単一種説の否定されていない点(文化を人類進化の主因とすることなど)を継承して確立された説といえる。後に、中国の呉新智も多地域進化説の陣営に加わり、多地域進化説は地域的な広がりをみせたが、ヴァイデンライヒ説の焼き直しといった側面が多分にあるように思われる(シュリーヴ『ネアンデルタールの謎』P127〜128、ストリンガー他『出アフリカ記』P77〜81)。
地域ごとの継続性を重視し、世界各地に拡散したエレクトスがサピエンスに進化したとする多地域進化説の弱点は、平行進化を認めることになるのではないか?というものである。これにたいする多地域進化説からの回答は、各地域間で一定以上の遺伝子交換があったため別種に分化せず、同一種としてのまとまりを維持し続けた、というものである。しかし、多地域進化説で主張されているような、100万年以上にわたって広大な地域の人類を一つの種に維持しておくだけの遺伝子交換を想定するのは無理だ、と集団遺伝学者からは否定されている(シュリーヴ『ネアンデルタールの謎』P134〜136)。
苦しくなったウォルポフは、1990年代半ば以降、ホモ=サピエンスは150万年前から存在しているとした。エレクトス以降のホモ属の違いは、単一種内の些細な変異にすぎないというわけである。平行進化との批判をかわし、何とか多地域進化説を生き残らせようとするための苦肉の策なのだろうが、研究者たちからはほとんど支持されてない(John Hawks et
al.,2000、ストリンガー他『出アフリカ記』P80〜81)。
アフリカの初期エレクトスと現代人とが同一種であるというのは、とても受け入れられそうにない見解であるが、サピエンスとユーラシア各地の先住人類との混血を認めるとすると、ホモ属単一種説が妥当だともいえる。種区分の難しさを逆手にとった見解だともいえるが、「人類種区分の問題」の章で述べたように、サピエンスとネアンデルターレンシスを別種とする見解をとるならば、エレクトスとサピエンスも別種とするのが妥当だろう。
各地域の連続性を重視する多地域進化説では、欧州におけるネアンデルターレンシスからサピエンスへの進化が主張された(ストリンガー他『出アフリカ記』P79)。第二次大戦後、ネアンデルターレンシスの復元についてブールの研究を否定した見解が提示された(トリンカウス『ネアンデルタール人』P384〜389)。また、ラルフ=ソレツキらによるイラクのシャニダール洞窟の研究の結果、ネアンデルターレンシスの現代性が強調され、ネアンデルターレンシスを我々サピエンスの祖先であるとする見解は、説得力をもって受け入れられるようになった(トリンカウス『ネアンデルタール人』P384〜389、430〜433)。
しかし近年では、多地域進化説の代表的論者のウォルポフでさえ、数的に圧倒的に優勢な外来集団(一般にいうところのサピエンス)が外部から欧州に流入してきたことにより、ネアンデルターレンシスは混血という形で外来集団に吸収されて消滅した、というように見解を変えた(馬場編『人間性の進化』P82〜91)。次に、多地域進化説にこのような変容を強いた経緯について述べていく。
1980年代に、サピエンスの起源を説明する説として多地域進化説とともに有力になったのがアフリカ単一起源説で、クリストファー=ストリンガーが代表的論者である。これは「サピエンスの起源」の章でも述べたが、再度説明すると、サピエンスの唯一の起源地はアフリカであり、アフリカで誕生したサピエンスが10万年前以降に世界各地に拡散した、というものである(ブライアン=M=フェイガン『現代人の起源論争』P28〜31)。
ユーラシア各地の先住人類とサピエンスとの混血については様々な考えがあり、最近では分子遺伝学の成果から否定的な見解が優勢だが(オッペンハイマー『人類の足跡10万年全史』P68〜70)、積極的に肯定する見解は広義のアフリカ単一起源説の中でもアフリカ交配代替モデル説と呼ばれ、「サピエンスの起源」の章で説明した。
このアフリカ単一起源説を支持し、多地域進化説に大打撃を与えたのが分子遺伝学の諸研究であり、その嚆矢となったのが、1987年に公表されたレベッカ=キャンとマーク=ストーキングとアラン=ウィルソンによるミトコンドリアDNAの研究だった(Rebecca L. Cann et
al.,1987)。現代人のミトコンドリアDNAを調べると、現代人最後の共通母系祖先(ミトコンドリア=イヴ)は20万年前頃にアフリカにいたと推測されるとの内容は衝撃的だった。キャンらの研究は『ニューズウィーク』誌に取り上げられ、世間一般でもこのイヴ仮説(サピエンスのアフリカ単一起源説)への注目が高まった(河合信和『ネアンデルタールと現代人』P61)。
「サピエンスの起源」の章で述べた偶発系統損失により、現代人にとっての遺伝学的イヴ自体は、過去のどこかの時点に求めることができる。その意味で、100万年前頃よりアフリカとユーラシア全体で遺伝子交換をしつつも、各地域で独自に人類集団が進化してきたとする多地域進化説にとって、ミトコンドリア=イヴという概念自体は認められるものだった。しかし、その年代は100万年以上前であることが望ましく、現代人にとって最後の共通母系祖先が20万年前頃にアフリカにいたとなると、多地域進化説にはたいへん都合が悪かった。
ストーンキングらはその後もミトコンドリアDNAの研究を進め、サピエンスのアフリカ起源説を強力に主張したが、これら初期の研究には試料選択とソフトの使用法の問題があり、1992年までに基本的には否定された(シュリーヴ『ネアンデルタールの謎』P98、P312〜314)。しかし、ミトコンドリア=イヴが人類史においてわりと新しい年代のアフリカにいたという結論自体は、その後のほとんどすべてのミトコンドリアDNAの研究において大枠では支持された(斎藤成也他「遺伝子からみたヒトの進化」)。さらにY染色体の研究でも、現代人の最後の共通父系祖先の年代が遺伝学的なイヴよりも若くなるとはいえ、サピエンスのアフリカ起源が示され、多地域進化説はいっそう苦しくなった(篠田『日本人になった祖先たち』P191)。
1997年以降ネアンデルターレンシスのDNA研究も進み、「サピエンスの起源」の章で述べたように、これまでに複数のミトコンドリアDNAの分析が公表されている。その結果、現代人や更新世欧州のサピエンスとネアンデルターレンシスとの遺伝的違いが大きいことが判明した。両者の分岐年代は諸研究によって異なるが、853000〜365000年前の間に位置づけられ、これまでの化石記録からの推定とも矛盾しなかった(河合『ホモ・サピエンスの誕生』P113〜120)。こうして、種レベルの違いかどうかはともかくとして、ネアンデルターレンシスとサピエンスとは少なくとも遺伝子レベルで異なる集団であることが確実となった。
またミトコンドリアDNAの研究では、両者の混血の痕跡も発見されていない(河合『ホモ・サピエンスの誕生』P113〜120)。これにより、ネアンデルターレンシスが欧州でサピエンスに進化したとの説は否定され、またしても遺伝学の分野でアフリカ単一起源説が支持される結果となった。そのため上述したように、流入してきたサピエンスにネアンデルターレンシスが吸収され消滅した、と多地域進化説論者も見解を変えた。
2006年になると、ネアンデルターレンシスの核DNAの抽出が成功してゲノム解読が始まり、その途中までの成果が『ネイチャー』と『サイエンス』にて報告されている。ネアンデルターレンシスとサピエンスとの混血問題について、前者はその可能性を指摘したが、後者は否定的だった(Richard E. Green et
al., 2006、James P. Noonan et al., 2006、関連記事)。しかし、ネアンデルターレンシスのゲノム解読にあたっては試料汚染の可能性も考慮に入れねばならず、混血の可能性を指摘した『ネイチャー』論文は汚染された試料を使用したのではないか、と指摘されている(Jeffrey D. Wall et al., 2007、関連記事)。
おそらく今後も、ミトコンドリアDNAの分析からはネアンデルターレンシスとサピエンスとの混血の痕跡は見つからないだろうし、それはY染色体DNAについても同様であろう。核内の常染色体DNAではどうかというと、「サピエンスの起源」でも述べたように、ネアンデルターレンシスにかぎらず、人類の出アフリカ以降の世界規模での混血の可能性をテンプルトンが指摘している(Alan Templeton.,2002、関連記事)。
その他には、アフリカ西部と欧州系の現代人の核DNAの分析から、ネアンデルターレンシスとサピエンスとの混血の可能性を指摘した研究と(Vincent Plagnol et al., 2006、関連記事)、脳の大きさを調節する遺伝子から、サピエンスとおそらくはネアンデルターレンシスであろう古代型ホモ属との混血を指摘した研究がある(Patrick D. Evans et
al., 2006、関連記事)。しかし、現代人における常染色体座の深い系統は、サピエンスと古代型ホモ属との混血を示しているのではないとの指摘もある(Nelson J. R.
Fagundes et al., 2007、関連記事)。
また、ネアンデルターレンシスの髪や肌の色の研究は、混血の否定を示唆するものだと指摘されている(Carles Lalueza-Fox
et al., 2007、関連記事)。ネアンデルターレンシスについては、肌の色が薄く金髪だった可能性が高いことが以前から指摘されているが(馬場悠男『ホモ・サピエンスはどこから来たか』P115〜117)、この研究では、ネアンデルターレンシスにも色素形成機能を減少させるような異形があったことが確認されている。しかし、その異形が現代人には見られないことから、サピエンスとネアンデルターレンシスには混血がなかったのではないか、と示唆されている。
多地域進化説が劣勢となり、ネアンデルターレンシスがサピエンスの祖先ではないと考えられるようになった契機として、以上のような分子遺伝学の諸研究が挙げられることが多いのだが、考古学や形質人類学の成果も重要な役割を果たした。
ネアンデルターレンシスは、アフリカから欧州に進出したハイデルベルゲンシスより進化したと思われるが、進化は連続的なので、どの時点に境界を定めるのか判断が難しい。40〜20万年前頃の欧州には、英国のスウォンズクーム・ドイツのシュタインハイムとエーリングスドルフ・スペインのアタプエルカなど、ハイデルベルゲンシスとネアンデルターレンシスとの中間形態とも考えられる人骨が出土しているが、これらとネアンデルターレンシスとの関係は必ずしも明確ではない(タッタソール『最後のネアンデルタール』7章)。今後も断定するのは難しいだろうが、とりあえずここでは、ネアンデルターレンシスの登場を20万年前頃としておく(諏訪「化石からみた人類の進化」)。
ネアンデルターレンシスは寒冷な欧州においてさらに特殊化を強め、10万年前頃の欧州にいわゆる古典的ネアンデルタール人が登場する(諏訪「化石からみた人類の進化」)。ネアンデルターレンシスは時代が下るにつれて特殊化していったのであり、形態面でもネアンデルターレンシスからサピエンスへの進化は想定しにくい。
ただ、形態学的観点からサピエンスとネアンデルターレンシスとの混血を指摘する見解もある。しかし、あまり支持されていない。とくに熱心に混血を主張しているのはエリック=トリンカウスで、ルーマニアの40000〜35000年前頃(Hélène Rougier et
al., 2007、関連記事)や32500年前頃のサピエンス人骨(Andrei Soficaru et
al., 2007、関連記事)にネアンデルターレンシスとの混血の可能性を認め、欧州の初期サピエンスを包括的に論じた研究でも混血を指摘している(Erik Trinkaus., 2007、関連記事)。
これらについてのトリンカウスの見解は、欧州の初期サピエンスは中期石器時代のアフリカのサピエンスに起源があると考えられるが、中期石器時代のアフリカのサピエンスには見られず、ネアンデルターレンシスに見られる特徴も有しているので、両者の欧州での混血(ネアンデルターレンシスのサピエンスへの同化)を示しているというものである。しかし、中期石器時代のアフリカのサピエンス人骨は少ないので、たんに初期サピエンスの多様性が見落とされているだけとの解釈も可能だろう。また、欧州ではなく西アジアで両者の混血があり、ネアンデルターレンシス的特徴を有したサピエンス集団が欧州へ進出した可能性も考えられる。
上述したように、レヴァントではネアンデルターレンシス的な人骨・サピエンス的な人骨・中間的な人骨が出土したため、さまざまな解釈が提示された。このうち、スフールとカフゼーの人骨群はサピエンス、アムッドとタブンとケバラの人骨群はネアンデルターレンシスとされているが(大津他『西アジアの考古学』P31〜33)、じっさいには区別のつきにくいものも少なくない(片山一道、山極寿一「直立歩行と言語をつなぐもの」)。これらネアンデルターレンシスとサピエンスはともに中部旧石器文化をもち、文化面で基本的な違いはなかったとされるが、サピエンスのほうが頻繁に移動しており、ネアンデルターレンシスのほうが定住性は強かったとの指摘もある(シュリーヴ『ネアンデルタールの謎』P235〜240)。
以前は、サピエンスとされたスフールとカフゼーの人骨群はアムッドとタブンとケバラよりも新しいとされていたのだが、1980年代後半〜1990年代半ばにかけて、アムッドが5万年前頃、ケバラが6万年前頃、タブンが17万年前頃とされたのにたいして、スフールとカフゼーは10万年前頃とされるようになり、レヴァントではネアンデルターレンシス→サピエンス→ネアンデルターレンシス→サピエンスの順に人類が出現した、と解釈されるようになった(大津他『西アジアの考古学』P31〜33)。
これは、ネアンデルターレンシス→サピエンスという進化図式を提示していた当時の多地域進化説にとって大打撃となり、レヴァントの古人類群はどれも中部旧石器文化を有するのだから、変異幅の大きい一つの人類集団と考えるべきだとウォルポフらは反論したが、ほとんど支持は得られなかった(シュリーヴ『ネアンデルタールの謎』P239、ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P176〜178)。
これらレヴァントの人骨群についてはいぜんとして謎が多い。あえて推測すると、20〜5万年前頃のレヴァントにおいて、アフリカから来た熱帯適応体型のサピエンスと、欧州から来た寒冷適応体型ネアンデルターレンシスとは、すでにはっきりと異なる集団に分岐していたが、ともにハイデルベルゲンシスから進化して混血があったため、両者の中間的な形態の人骨もあるのではないかと思われる。
ほぼ中部旧石器文化に属すネアンデルターレンシスの文化だが、フランス西南部とスペイン北東部において、35000年前の前後3000年ほど継続した、上部旧石器的なシャテルペロン文化は異例な存在である。個人用装身具や本格的な骨器や洗練された石刃技法といった現代的行動を示す上部旧石器的な要素が認められるので、かつてはサピエンスの文化と考えられていたくらいである。シャテルペロン文化がネアンデルターレンシスの所産と判明すると、以下のような解釈が提示された(河合『ホモ・サピエンスの誕生』P135〜136、141)。
(1)ネアンデルターレンシスが隣接するサピエンスのオーリニャック文化を模倣した。
(2)ネアンデルターレンシスがサピエンスの破棄した遺物を拾い集めた。
(3)ネアンデルターレンシスがサピエンスから交易などで入手した。
(4)サピエンスとは別にネアンデルターレンシスが自発的に発展させた。
(5)シャテルペロン文化の「先進的」要素は、上層のオーリニャック文化層からの嵌入だった。
サピエンスのアフリカ単一起源説が優勢となってからというもの、ネアンデルターレンシスの絶滅理由を説明しやすいということもあり、ネアンデルターレンシスとサピエンスとの違いを強調し、ネアンデルターレンシスの能力を低くみようとする傾向が強くなっている。その立場からは(4)以外が主張されるが、ネアンデルターレンシスの能力をかなり低く評価する見解での選択肢となると、(2)と(5)ということになろう。
つまりネアンデルターレンシスは、サピエンスの「先進的」文化を真似する能力もサピエンスと意思伝達をする能力もなかった、との解釈にもつながってくるからである。しかし、1990年代以降のシャテルペロン文化の研究の進展からは、(4)もしくは(1)と(4)の中間的な解釈(後述)が妥当だと思われる(河合『ホモ・サピエンスの誕生』6章)。
この問題を解く手がかりとなるのは、オーリニャック文化とシャテルペロン文化の年代である。シャテルペロン文化の基準遺跡である「妖精洞窟」のシャテルペロン文化層に、ごく薄いオーリニャック文化層が検出されたとの見解(Brad Gravina et al.,
2005、河合『ホモ・サピエンスの誕生』P152〜157)にたいして、シャテルペロン文化層のオーリニャック文化の遺物は後世の嵌入によるもので、シャテルペロン文化の地域ではシャテルペロン文化がオーリニャック文化に必ず先行する、との反論がなされた(João Zilhão et al.,
2006、関連記事)。
さらに、この見解にたいする再反論もなされている(Paul Mellars et al., 2007、関連記事)。欧州の上部旧石器時代の年代見直しの問題もあり(Paul Mellars., 2006A)、現時点では判断の難しいところだが、欧州という地域単位でみると、オーリニャック文化はシャテルペロン文化に先行すると言えるだろう(ルーウィン『ここまでわかった人類の起源と進化』P192〜195)。その意味では、シャテルペロン文化にたいしてオーリニャック文化が影響を与えた可能性は否定できない。
シャテルペロン文化と似たネアンデルターレンシス所産と思われる文化としては、イタリアのウルツォ文化とハンガリーのセレタ文化があり、前者はシャテルペロン文化とほぼ同年代で、後者はやや古い(45000〜40000年前頃)とされる(河合『ホモ・サピエンスの誕生』P148〜149)。セレタ文化の年代は、欧州のオーリニャック文化とどちらが早いか、微妙なところである。そうすると、やはりこれらの文化にオーリニャック文化の影響があったか否か、判断の難しいところである。ここでは、とりあえず(1)と(4)の中間的な解釈を採用しておく。つまり、ネアンデルターレンシスの文化はサピエンスのオーリニャック文化と接触して文化変容が起き、セレタ文化・シャテルペロン文化・ウルツォ文化が発達したのではないか、ということである。
ただ、イベリア半島にはサピエンスの進出後も中部旧石器文化を維持したネアンデルターレンシス集団がいたから、オーリニャック文化と接触したネアンデルターレンシス集団すべてが上部旧石器的な文化に移行したわけではなさそうである(河合『ホモ・サピエンスの誕生』P150〜151)。このようなネアンデルターレンシス集団の対応の違いが何を意味するのか、現時点では推測の難しいところである。ネアンデルターレンシス集団間の知的能力に格差があったためかもしれないし、イベリア半島のネアンデルターレンシス集団は人口が少なく孤立した生活をしていて、サピエンス集団との接触がほとんどなかったためかもしれない。
シャテルペロン文化の解釈は、ネアンデルターレンシスの知的能力を評価するうえで重要な指標となる。サピエンスのオーリニャック文化の影響があるにせよ、ネアンデルターレンシスが個人用装身具も含むシャテルペロン文化を築いたとすると、サピエンスにかなり近い潜在的知的能力を認めてもよいと思う。上述したように、サピエンスのアフリカ単一起源説が優勢となってからというもの、ネアンデルターレンシスの絶滅理由を説明しやすいということもあり、ネアンデルターレンシスとサピエンスとの違いを強調し、ネアンデルターレンシスの能力を低くみようとする傾向が強くなっている。
その意味で、ネアンデルターレンシスにサピエンスとあまり変わらない潜在的知的能力を認めるのは、異端的とも言えるかもしれない。しかし近年になって、サピエンスとネアンデルターレンシスとの違いを強調し、ネアンデルターレンシスを低く評価してきたことへの反動と言うべきか、ネアンデルターレンシスとサピエンスとの類似性を指摘し、ネアンデルターレンシスの能力を再評価する傾向が目立ってきているように思われる。
頭蓋底の形状から発声にとって重要な喉頭の位置を推定し、ネアンデルターレンシスの頭蓋底がネアンデルターレンシス以前の人類よりも平坦であることから、ネアンデルターレンシスは複雑な発話ができなかったとの見解があり、NHKスペシャルでも取り上げられたくらいだが、この見解には強い異論もある(河合『ホモ・サピエンスの誕生』P162)。これに関連したものとして、言語能力に関わるとされるFOXP2遺伝子の問題がある。現代人に見られるFOXP2遺伝子の変異は、サピエンスとネアンデルターレンシスが分岐した後のこの20万年間に起きたものと考えられており、「神経学仮説」の根拠ともされていたのだが、ネアンデルターレンシスにも現代人と同じ変異があると指摘された(Johannes Krause et
al., 2007B、関連記事)。
ネアンデルターレンシスは、サピエンスのみならず両者の祖先種であるハイデルベルゲンシスよりも早熟だったと指摘されていたが(Fernando V. Ramirez
Rozzi et al., 2004)、2006年になって、ネアンデルターレンシスとサピエンスの成長速度は変わらなかった、との批判がなされた(Roberto Macchiarelli
et al., 2006、関連記事)。もっとも2007年になって、ネアンデルターレンシスの成長は速かったとの見解が再び提示されている(Tanya M. Smith et
al., 2007B、関連記事)。もちろん、ネアンデルターレンシスの成長速度がサピエンスと変わらなかったとしても、ネアンデルターレンシスとサピエンスとの類似性がどこまで保証されるか定かではない。しかし、シャテルペロン文化の「先進的」要素は、サピエンス文化の模倣または収集か、サピエンス文化の遺物の嵌入にすぎないといった見解は、おそらくネアンデルターレンシスの過小評価だと思われる(河合『ホモ・サピエンスの誕生』P141〜142)。
とはいっても、上部旧石器時代以降のネアンデルターレンシスとサピエンスの文化に、質的に大きな違いがあったのは否定できない(タッタソール『最後のネアンデルタール』P163〜164)。では、両者の違いはどう解釈すべきだろうか。おそらくこれは、文化(技術)・人口・平均寿命といった諸要素からなる社会的蓄積の違いによるものと思われ、ネアンデルターレンシスにはサピエンスのような年齢・性別による社会的分業がなかった、との指摘もある(Steven L. Kuhn et
al., 2006、関連記事)。諸要素は相互に関係しあい、総体的な社会的蓄積が増加したり減少したりするのだが、社会的蓄積が一定水準以上を超えると、「大爆発」的現象が生じるのだろう。上部旧石器時代や文明や産業革命の始まりは、このように説明できるものだと思う。
ただ「大爆発」とはいっても、「現代的行動の起源とサピエンスの拡散」の章で述べたように、「先進的要素」がそろうというわけではなく、各地域・文化圏がそれぞれ異なる分野に「後進的要素」をもった、モザイク状の様相を示すものなのだろう。社会的蓄積が一定水準に達する前においては、気候が寒冷なためにアフリカよりも欧州のほうが社会的蓄積という点では貧しかったと思われる(上部旧石器文化以降は、社会的蓄積にあたって必ずしも熱帯気候より寒冷気候が不利とは限らなかっただろう)。そのため、ネアンデルターレンシスに先んじてアフリカの一部のサピエンスの社会的蓄積が7万年前頃までに一定水準に達し、ネアンデルターレンシスはサピエンスとの競争で不利になったのだろう。文化的に優位な移住者が先住者を圧倒することは、英国とオーストラリア大陸のように有史以降も珍しくない。
ネアンデルターレンシスは、社会的蓄積があまりない段階で欧州の寒冷な気候に適応して進化した人類集団だったのだろう。そのため西アジアでも欧州でも、サピエンスが上部旧石器文化を築いた時点で、ネアンデルターレンシスはサピエンスよりも社会的蓄積で劣っていたと思われる。じっさい、ネアンデルターレンシスの人骨に栄養不良と食人の痕跡を指摘する見解もある(Antonio Rosasb et
al., 2006、関連記事)。もっとも、飢餓の恐れのない豊かな地域・時代というのは、人類史のなかでも少数派だろうから、ただちにネアンデルターレンシスがとくに貧しかったと言えるわけではないが。
上部旧石器時代以降のネアンデルターレンシスのうち、サピエンスと接触のなかった集団は資源獲得競争で不利なためジリ貧になって絶滅したのだろう。サピエンスと接触をもった集団はその一部が混血したが、数的にサピエンスのほうが優勢だったため、ネアンデルターレンシス由来の解剖学的特徴やミトコンドリア・Y染色体といった遺伝的指標は、わりと短期間で消滅したものと思われる。ネアンデルターレンシスがサピエンスに虐殺されたと推測することも可能ではあるが、そもそも両者の接触自体があまりなく、両者の闘争も混血と同様にきわめて限定的だったのではなかろうか。
最後のネアンデルターレンシスの居住地として有力なのはイベリア半島南部である。ジブラルタルのゴルハム洞窟のネアンデルターレンシス遺跡は24000年前頃とされたが(Clive Finlayson et
al.,2006、関連記事)、欧州の旧石器遺跡の大々的な年代の見直しが提言されているので(Paul Mellars., 2006A)、この数字をそのまま受け取ることには慎重でなければならないだろう。ネアンデルターレンシスの絶滅の要因を寒冷化に求める見解もあるが(Francisco J.
Jiménez-Espejoa et al.,2007、関連記事)、それを否定する見解も提示されている(P. C. Tzedakis et
al.,2007、関連記事)。ネアンデルターレンシスは寒冷な欧州で進化した人類であるから、寒冷化が絶滅を促進した一因だったとしても、根本的には寒冷化よりもサピエンスの進出に絶滅理由を求めるほうが妥当だろう。
ゴルハム洞窟の遺跡からは近隣のサピエンスとの接触が認められず(Clive Finlayson et
al.,2006、関連記事)、末期のネアンデルターレンシスは、サピエンスとの接触がほとんどないままひっそりと滅亡したのではなかろうか。ネアンデルターレンシスの現代人への寄与は、文化的にはほとんどなく、遺伝的にはごく僅かだったと思われる。地域別にみると、サピエンスとネアンデルターレンシスとの中間的な人骨の多さからして、西アジアや東欧のほうが、西欧よりも混血の頻度が高かったと思われる。もっとも、西アジアの上部旧石器文化の開始にあたって、サピエンスとネアンデルターレンシスとの接触が重要な契機だったとしたら、ネアンデルターレンシスの現代人への文化的寄与は大きかったということになろう。
フロレシエンシスをめぐる議論
インドネシア領フローレス島西部のリアン=ブア洞窟で発見された更新世の人骨群については、発見以来大激論が展開されてきた。この人骨群についての最近までの諸研究は、河合『ホモ・サピエンスの誕生』7章に簡潔にまとめられている。同書を参照しつつ、まずは研究の進展について整理しておくことにする。
この人骨群も含む出土遺物が最初に報告されたのは、『ネイチャー』2004年10月28日号だった(P. Brown et al.,2004、M. J. Morwood et
al.,2004)。この二つの論文において、18000年前頃の低身長・小さな脳のほぼ完全な女性人骨(LB1)や、サピエンスの所産とされてきた細石刃を含む石器などが報告された。LB1は人類の新種ホモ=フロレシエンシスとされた。2005年には、『サイエンス』4月8日号にてLB1の脳の型がエレクトスと類似していることが指摘され(Dean Falk et
al.,2005)、『ネイチャー』10月13日号にてリアン=ブア洞窟で更新世の人骨がさらに発見されたことが報告された(M. J. Morwood et
al.,2005)。
2006年には、『ネイチャー』6月1日号にて、フローレス島中部のソア盆地において発見された88〜80万年前頃の石器が、技術的にリアン=ブア洞窟の石器群と連続的だと指摘された(Adam Brumm et
al.,2006)。このソア盆地では、以前にも88〜80万年前頃の石器が発見されている(M. J. Morwood et
al.,1998)。以上の研究が、フローレス島の更新世の人類についての基本的な情報となる。これらの情報を整理すると、次のようになる。
リアン=ブア洞窟の更新世の堆積層からは、フロレシエンシスの正基準標本とされる18000年前頃のLB1も含めて、少なくとも9個体分の人骨が出土している。年代は、上限は95000〜74000年前頃で、下限は12000年前頃である。12000年前頃の大噴火により、フロレシエンシスはステゴドンとともに絶滅したと考えられる。LB1は30歳くらいの女性で、身長106cm、脳容量417CCと推測されている。頤はなく、全体的にエレクトスとの類似性が認められる一方で、アウストラロピテクス属との類似性も指摘されているが、側頭葉が大きく、ひだのある大きな脳回を備えた前頭葉を有していることなど、派生的な特徴も示している。
LB1ほど良好な残存状態の人骨は他に発見されていないが、その他の骨のなかにもLB1と同様の特徴が認められるものがある。たとえばLB1と同層位で発見されたLB8は身長109cmと推定されており、LB1より3000年ほど新しいと推測されるLB6/1の下顎骨には頤がない。そのため、LB1は病変や栄養不良などによる発達障害を示した個体ではなく、LB1の特徴は更新世のリアン=ブア洞窟にいた人類集団に共通する特徴と考えられ、更新世の堆積層から発見された人骨群はエレクトスから派生した新種ホモ=フロレシエンシスとされた。ただ、発見チームはアウストラロピテクス属との系統関係も示唆している(Daniel E.
Lieberman.,2005)。フロレシエンシスの低身長は、孤島では大型生物が矮小化する島嶼化という現象で説明できるとされている。フロレシエンシス島嶼化説は、2007年になって提示された研究でも支持されている(Lindell Bromham et
al.,2007、関連記事)。
リアン=ブア洞窟の更新世の堆積層からは、人骨だけではなく動物の骨や石器も発見されている。動物の骨には魚類・蛙・亀・鳥類・コモドオオトカゲ・ステゴドン(ゾウ目の一種)などがあり、その一部には石器が用いられたり火を受けていたりした痕跡が認められたので、調理されたのではないかと考えられている。また、出土したステゴドンの骨の大半は若齢であり、選択的・組織的狩猟の可能性も指摘されている。
出土した石器の大半は単純な剥片だったが、ステゴドンと共伴したものの中にのみ、尖頭器・細石刃・大型石刃・穿孔器などの上部旧石器的な石器が認められた。リアン=ブア洞窟の更新世の堆積層から発見された石器は、フローレス島中部のソア盆地において発見された88〜80万年前頃の石器と、技術的には連続的だとされている。そのため、ソア盆地の石器を製作した集団とフロレシエンシスとは先祖・子孫の関係にあり、フロレシエンシスの祖先は80万年以上前にフローレス島に渡ってきたものと考えられている。フローレス島は更新世の間にジャワ島やオーストラリア大陸と地続きになったことはなく、フロレシエンシスの祖先は渡海してフローレス島にやって来たと考えられている。
以上がフローレス島の更新世の人類についての基本的な情報である。フロレシエンシスの存在は、以下のような点でじゅうらいの常識を覆すものであった。
(1)ネアンデルターレンシスの滅亡後1万年以上も、サピエンスとは異なる人類が生存していた。
(2)時代が下るにつれて人類の脳容量は増大し、それと比例して知力が向上してきたという考えが常識だったが、フロレシエンシスはアウストラロピテクス属と変わらないような脳容量にも関わらず、上部旧石器的な石器が共伴した。
(3)サピエンス以外の人類集団では確認できなかった渡海能力を想定せざるを得ない。
常識を覆すとまではいかないが、人類にも島嶼化が認められたことも意義深いと言える。しかし、これだけ常識外れの存在だけに、疑問が呈されるのは仕方のないところであった。じっさい、『ネイチャー』で最初の報告がなされた直後に、リアン=ブア洞窟の更新世の人骨群は新種ホモ=フロレシエンシスではなくサピエンスであり、LB1は小頭症ではないのかとの疑問が提示された(Michael Balter.,2004)。この人骨群がエレクトスからの派生種ではなくてサピエンスだとすると、上記の三つの疑問はすべて解決するので、その意味では説得力があると言える。
2006年秋には、そのような指摘をした論文2本が相次いで公表された。一つは、インドネシア古人類学界の大御所であるテウク=ヤコブ(関連記事)らによるものである。この論文では、リアン=ブア洞窟の更新世の人骨群と現代のフローレス島の小柄な住民との形態的類似、およびLB1の顔面の左右の非対称性と脳の小ささは小頭症が原因であることが指摘され、LB1は小頭症のサピエンスであるとされている(T. Jacob et al.,2006、関連記事)。もう一つの論文では、フロレシエンシスがエレクトスから矮小化して進化したとすると、不自然なくらい脳が小さいことが指摘され、やはりLB1は小頭症のサピエンスだとされた(Robert D. Martin et al.,2006、関連記事)。
正直なところ、昨年10月27日に第2版を公開した時点では、新種説よりもサピエンス説のほうが優勢だったようにも思われたのだが、それでも第2版では一応新種説を採用した。しかし、2007年になって新種説を支持する研究が相次いで提示され、2007年12月6日の時点では、ほぼ新種説で確定した感がある。
まず2月に、一般的なサピエンス・小頭症のサピエンス・小柄なサピエンス(ピグミー族)・LB1の頭骨から仮想の脳の鋳型をコンピュータ上に作成し、相互に比較した結果、LB1は小頭症ではないがサピエンスでもなく、新種とするのが妥当だとの研究が提示された(Dean Falk et
al.,2007、関連記事)。3月28日から31日まで開催された米国自然人類学会の総会では、リアン=ブア洞窟の更新世の人骨群は発達障害のサピエンスではないことが示唆されるとの見解と、LB1の頭蓋骨は正常なサピエンスの範疇に入らないことが確認されたとの見解が報告されたが、いずれもLB1の病変の可能性は排除されなかった(関連記事)。
8月には、上腕や肩の分析から、「トゥルカナボーイ」と呼ばれているエレクトス(KNM-WT 15000)とLB1との類似性を指摘した研究が公表された(Susan G. Larson et
al.,2007、関連記事)。9月には、LB1の手根骨はサピエンスやネアンデルターレンシスとは異なっていたが、現生類人猿やアウストラロピテクス属やハビリスとは区別がつかなかったので、LB1は病変や成長障害のサピエンスではなく、ネアンデルターレンシスとサピエンスの最終共通祖先の登場前に分岐した人類集団の子孫である、と指摘した研究が公表された(Matthew W. Tocheri
et al.,2007、関連記事)。
こうした諸研究から、フロレシエンシスがかなり古い時代にサピエンスとの共通祖先から分岐した、新種の人類であることがほぼ確定したと言えるだろう。では、フロレシエンシスは人類の系統樹においてどこに位置づけられるべきであろうか。一つ気になるのは、上記のLB1の手根骨の分析についてで、LB1はサピエンスやネアンデルターレンシスよりもハビリスやアファレンシスやアフリカヌスに似ているが、それ以上にチンパンジーと似ているように見える、との指摘である(関連記事)。確かに図を見ると、LB1ともっとも類似しているのはチンパンジーであるように見える。
しかし、手首の構造の比較ができるような古人骨の少なさと、LB1とエレクトスとの他の類似を考慮すれば、LB1を正基準標本とするフロレシエンシスが人類の系統であることを疑うのは難しいだろう。おそらくフロレシエンシスは、ハビリスとエレクトスとの中間形態の人類集団を祖先としているのだろう。その人類集団は200万年前以降にアフリカを出てジャワ島まで進出し、80万年前以前のある時点でフローレス島に渡り、フロレシエンシスへと進化したのだろう。
フロレシエンシスが小柄なのは島嶼化のためだろうが、177万年前頃のグルジアの人類は小柄だったから(河合『ホモ・サピエンスの誕生』P46〜50)、フローレス島に渡った時点ですでにかなり小柄だった可能性もあるだろう。フロレシエンシスの祖先集団がハビリス的な特徴も有していたとしたら、フロレシエンシスにアウストラロピテクス属との類似性が見られても不思議ではないだろう。LB1からミトコンドリアDNAが採取できれば、こうした系統関係の推測の有力な手がかりになったかもしれないが、熱帯環境での出土だったため、ミトコンドリアDNAの採取には失敗したとのことである(Tabitha M. Powledge.,2006)。
フロレシエンシスがハビリスとエレクトスとの中間形態の人類集団から派生したとすると、上部旧石器的な石器群はどのように解釈すべきだろうか。「現代的行動の起源とサピエンスの拡散」の章で述べたように、オーストラリアには遅くとも4万年前にはサピエンスが存在していたから、それ以前に東南アジアにサピエンスが進出していたことになる。したがって、フロレシエンシスが存在していた頃のフローレス島の近辺にサピエンスが存在した可能性は高いし、サピエンスがフローレス島に一時的に上陸して、フロレシエンシスと接触した可能性さえある。そうすると、フロレシエンシスがサピエンスとの「交易」で上部旧石器的な石器を入手した可能性もあるだろう。
しかし、そもそもリアン=ブア洞窟の更新世の堆積層から出土した石器群のなかに、本当に上部旧石器的な石器があるのかどうか、疑問視する見解がある(関連記事)。つまり、フロレシエンシスと共伴した石刃は本当の石刃ではなく、多数の石器のなかに偶然似たものがあるだけのことだ、という解釈である。じっさい、フローレス島も含む東南アジア島嶼部においては、フローレス島ソア盆地の88〜80万年前頃の例から完新世にいたるまで、石材から剥片をとるにあたって同じような手法が長期間用いられてきたのであり、サピエンスが関与したと断定できるような明確な石器技術の指標は更新世にはないとされている(Mark W. Moore et al.,2007、関連記事)。フロレシエンシスと共伴した石器群には、上部旧石器的な要素は認められないと考えるのが妥当なのかもしれない。
ただそれでも、小さな脳で石器製作や選択的・集団的狩猟が可能だったのか、との疑問は残る。この回答として考えられるのは、いったん出来上がった脳内構造は脳が縮小しても維持されるのではないか、というものである(河合『ホモ・サピエンスの誕生』P186〜187)。フロレシエンシスの場合、上述したように脳に派生的特徴を有していたので、エレクトスよりも優れた知的能力を有していた可能性がある。
そうすると、残る疑問はフロレシエンシスの航海能力についてである。現在のところ、サピエンス以外の航海能力は確認されておらず、唯一の例外がフロレシエンシスもしくはその祖先集団である。偶然漂流したとの推測もあるだろうが、フローレス島で80万年以上生存していたとなると、最初の「入植」のさいにあるていどの人数はいただろうから、漂着と断定してよいものか、疑問が残る。材質を考慮すると、更新世の舟が発掘される可能性はきわめて低いので、更新世の人類の航海能力については、状況証拠から判断するしかない。
2007年6月以降、フローレス島近辺の島やリアン=ブア洞窟での発掘が進められているので(関連記事)、今後この問題の手がかりが得られる可能性もある。推測の難しいところだが、現時点では次のように考えるのがもっともよさそうに思う。フロレシエンシスの祖先集団はきわめて例外的な事情でフローレス島に渡り、周囲とは没交渉なままフロレシエンシスへと進化した。フロレシエンシスはサピエンスとの接触も皆無に近いまま、12000年前頃の大噴火により絶滅した。
結びとリンク集
以上、第2版に続いてまたしてもだらだらと述べてしまった。些細なことを詳しく書き、大事なことを書き漏らしているような気がするが、とりあえず現時点での自分の考えはおおむね述べられたと思う。しかし、第2版からの課題であった、家族形態を含む人類の組織形態、南・東南・東アジアでの人類集団の活動、言語の使用といった諸々の事象の変遷については、相変わらずの勉強不足のためまったくと言ってよいほど述べられなかったので、これは第4版執筆のさいの課題となる。
種区分の問題についても、全体的に整合性のとれた区分が必要だと強調しながら曖昧なままにしてしまい、第2版からの課題をまったくと言ってよいほど解決できなかった。もっともこれは大問題なので、私にはとても解決できそうにないことも否定できない。とりあえず今回も、ホモ属にはエレクトス、ハイデルベルゲンシス、ネアンデルターレンシス、フロレシエンシス、サピエンスの5種が存在し、ハビリスやルドルフェンシスはアウストラロピテクス属であるとしたが、第3版の執筆までには、もう少しはっきりとしたことが述べられるように勉強しておきたい。とくに、かなりの変異幅が認められると思われるエレクトスについては、もっと勉強が必要である。
こうした種区分の難しさという問題も、人類進化の複雑さが根本的な要因となっている。猿人→原人→旧人→新人というおなじみの一直線の進化図式は、もはや破綻したと言うべきだろう。とくにホモ属の登場以降、多様な人類集団が広範な地域へと進出した。そうした人類集団は、ときには進出先から撤退しつつも多様な進化を遂げた。世界各地においては、同時代に複数の異なる人類集団が存在した場合が多かっただろう。それらの相互関係については、混血や闘争や交易や接触なしといったさまざまな可能性が想定され、全体像を把握して的確な人類史像を提示するのは至難の業である。
ゆえに、この人類史第3版もとても的確な人類史像を提示できたとは言えず、近いうちに大幅な改訂が必要になりそうだが、それでも現時点での私の考えを精一杯述べたものである。第1版と第2版もそうだったが、この第3版も、誰かに読んでもらうというよりも、むしろ自分の考えの整理のために執筆したところがある。今回は、自分が後で調べなおすという目的もあって、文中に参考文献を明記した結果読みにくくなったということもあり、第1版と第2版よりも備忘録的な性格が強くなっている。その意味で、かなり自己満足的な文章になったのは否定できないが、お読みいただき、ご批判・ご教示いただければ幸いである。
この第3版を執筆していて思ったのは、人類進化史を見ていくうえで重要な概念となるのは、「モザイク状」という言葉ではないかということである。現代は過去ほどではないにせよ、おそらく人類の形態はずっと多様性を維持し続けてきたものと思われる。多くの人類には原始的特徴と派生的特徴とが混在しており、種区分や系統樹の作成が容易ではないが、そのような多様で混沌としたなかから新たな種が生まれていったのだろう。その新たな種にしても多様性を維持しており、派生的特徴を強めつつも、原始的特徴を強くもつ個体も少なからずいたものと思われる。ドマニシ人やフロレシエンシスの存在も、こうした観点から説明できるのではないかとも思う。
人類の文化もモザイク状の「発展」を示しており、ある「低級な段階」から「高度な段階」へと階段をのぼるように「発展」していくのではなく、それぞれの集団が異なった様相で「先進的」要素と「後進的要素」とを混在させ、ときには「後退」しつつ「発展」していったのだろう。人類の形態にせよ文化にせよ、なにかの公式にあてはまるほど単純なものではなく、そうした複雑さが人類史の魅力と面白さにもつながっているのだと思う。
またしてもかなり長くなってしまったが、これでも省略したつもりである。ブログでは個々の問題についてもう少し詳しく述べているので、以下に人類の進化系統図・地域別の進化図とともにリンクしておく。
人類史第1版
人類史第2版
ブログの古人類学関連の記事(随時更新)
人類の進化系統図
地域別の進化図
人類種区分表
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