人類史 第2版

 

初めに
 人類の誕生から現生人類の世界拡散あたりまでを概観した駄文を書いたのは、もう4年半近く前のことになる。この間も、古人類学の進展はめざましく、私の考えにも変わったところがあるので、その改訂版を書くことにした。とはいっても、この第2版の寿命も短そうなのが、困ったところでもあり、また楽しいところでもある(笑)。主な変更点は、以下の通りである。

(1)人類種区分の問題については、生物種区分の中の一区分としての人類種区分という観点を強調し、ほぼ全面的に書き換えた。
(2)最古の人類候補の化石が複数発見されたことをうけ、これらに触れつつ、人類誕生の年代や場所について、短いながら私見を述べることにした。
(3)前回の執筆から今回の執筆までの期間で、古人類学における最大の発見であり、現在最大の論争となっている、インドネシアのフローレス島で発見された人骨群について詳しく述べるとともに、この人骨群が、ホモ=フロレシエンシスという人類の新種なのか、それとも発達障害のホモ=サピエンス(現生人類)なのか、という論争が人類の進化史においていかなる意味をもつのか、私見を述べることにした。
(4)前回は、古人骨のDNA分析は5万年前が限度で、それもミトコンドリアDNAに限定されると想定していたのだが、今では、ホモ=ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)のミトコンドリアDNAの採取・分析は10万年前までさかのぼり、ネアンデルターレンシスの核DNAの採取・分析にも成功し、ネアンデルターレンシスのゲノム解読が2008年の完了をめどに始まったという状況で、まったくもって、古人類学の進展には驚かされるばかりである。これらは、まだ予備的な分析の段階にとどまっているものもあるが、現時点で報道されている分析結果について、やや詳しく述べることにした。
(5)前回は、アフリカのサピエンスと、ネアンデルターレンシスのようなユーラシアの先住古人類との間の混血について否定的で、全面的な置換説を主張したのだが、今回は、現在の考えにしたがって、肯定的な立場から述べることにした。また、アフリカ単一起源説が優勢となって以降、ネアンデルターレンシスの能力を低くみる風潮があり、前回の記述はその影響を強く受けていたのだが、今回は、それを見直す必要があるのではないか、との疑問を述べることにした。
(6)サピエンスの起源をめぐる問題については、新たな人骨の発見や、既知の現生人類人骨の年代の見直しがあったので、これらを踏まえたうえで、学説史に触れつつ述べることにした。
(7)サピエンスが真に現代人的になった証とされる、象徴的思考の開花について、詳しく述べることにした。近年、サピエンスを、象徴的思考が開花する前は解剖学的現代人、その後は行動学的現代人と分類することが流行しているようだが、それが妥当なのかどうか、サピエンスの象徴的思考はいつまでさかのぼるのか、象徴的思考の開花はどのように説明されるのか、といった問題について私見を述べる。

かなり大幅な加筆修正が必要となったのだが、これからも、数年に一回くらい改訂していき、100歳になっても改訂できるくらい、長寿・健康を保ちたいものである(笑)。なお、文中の敬称は省略した。

 

人類種区分の問題
 そもそも、人類とはどう定義されるべきであろうか。直立二足歩行・巨大な脳・複雑な言語の使用・道具の複雑な使用(道具から道具を作製するなど)といった特徴がよくあげられるが、私は、絶滅・現存問わず、直立二足歩行の霊長目の生物と定義している。
 この定義にしたがって、以下に人類史を述べていくことになるが、人類史についての文章を読んで、私も含めて多くの人が戸惑うだろうことは、その種区分の複雑さである。属と種名とを組み合わせて表示される人類種の数は、研究者によっては20種を超えるが、それぞれの種の系統関係には、曖昧なところも少なからずある。また、研究者によって種区分が異なるのも、複雑だとの印象を強めている。なぜこうなるかというと、種の定義が困難だからである。
 私が想定している生物種の定義とは、自然な状態で(これも定義が難しいのだが、本題に深刻な影響を与えるわけでもないので、今回は触れない)生殖が行われ、その子孫が代々維持されていくような集団(馬とロバのように、生殖行為の結果として子が生まれても、その子に生殖能力がなければ、同種とは言えない)、ということなのだが、この定義を採用したとしても、厳密に種の定義をするのは、現存生物でさえなかなか難しいだろうし、古生物では事実上不可能である。
 古人類も含めて、古生物の研究者は、昔は化石の形態から、近年では、形態に加えてDNAの塩基配列から種の区分をしているのだが、しょせんは便宜的なものにすぎないと言えよう。とくに形態面では、両極端な基準標本を比べれば違いは明確だが、進化は連続的なので、じっさいには、どう分類してよいか判断困難な、中間的な人骨が少なからずあり、区分が難しい。とはいっても、人類がどのように進化してきたかということを見ていくうえで、進化系統を復元するためにも、人類種区分の問題は避けて通れず、より合理的な区分が必要とされていると言える。

ここで注意すべきなのは、人類種の区分とはいっても、生物種区分の一つにすぎないのだから、生物種区分全体の中において、整合性のある区分でなければならない、ということである。それは、種より上位の区分である属や目のレベルにおいても、同様である。たとえば、現存生物で人類にもっとも近いチンパンジーがヒト科なのかヒト上科なのかといった問題も、霊長目のみならず、哺乳綱、脊椎動物門、さらには動物界までさかのぼって見渡し、より合理的な区分をしなければならない。
 ハビリスがホモ属か否かといった問題も、ネアンデルターレンシスとサピエンスとが別種か否かといった問題も、形態やDNAの違いを踏まえたうえで、他の生物の区分と整合性のとれた区分でなければならない。ネアンデルターレンシスのミトコンドリアDNAが分析され、サピエンスとはかなり異なることが明らかになってからというもの、両者は別種であるとの見解が一般にも浸透しつつあるが、判断するのは時期尚早であるように思えてならない。どうも人類は、自分のこととなると、その違いに大きな意味を見出したくなるものらしい。
 ただ、これは理想論であり、研究者でもない私に、そのような合理的な区分ができるわけではなく、これまでの研究成果を参照しつつ、自分なりにより合理的と思われる区分を採用していくしかないが、サピエンスとネアンデルターレンシスが種のレベルで異なるかどうかという問題にしても、現在の私の見識では判断が難しく、とりあえず今回は、暫定的な措置として、現在有力な別種説を採用して、ホモ=サピエンス、ホモ=ネアンデルターレンシスとした。ただ、種区分にあたっての上記注意点は、つねに念頭においておこうと思っている。

具体的に人類種区分の問題をみていくと、進化総合説の成立までは、極端に単純化していうと、発見者が人骨を発見するたびに、新たな種や属を提唱していたようなところがあり、多数の人類種・属が乱立していたのだが、進化総合説の成立以降は、個々の人骨の差異が、種間の地理的差異とみなされ、たとえば、ピテカントロプス=エレクトス(いわゆるジャワ原人)とシナントロプス=ペキネンシス(いわゆる北京原人)とが、同一種ホモ=エレクトスとされたように、人類の属と種の数は激減したのである。
 ところがその後、古人骨の発掘数の増加もあって、再び人類の属と種を細分化しようという動向が強まっている。種の区分を細分化しようとするのがスプリッター(分割派)で、人骨の違いを種間差異とみなして区分をなるべく減らそうとするのがランパー(統合派)である。本によって人類種区分がことなるのは、著者が分割志向か統合志向かという違いによるところが大きい。
 アフリカの初期ホモ属をエルガスターにするのかエレクトスに含めるのか、いわゆる頑丈型猿人をアウストラロピテクス属に含めるのかパラントロプス属とするのか、ホモ=ハビリスやホモ=ルドルフェンシスという種区分を認めるのか、といった問題が、両者の代表的な対立点である。
 証拠が極端に限定される古人類学においては、種区分というのは半永久的に解決されない問題であり、あくまで便宜的なものと割り切って、大胆な変更をつねに覚悟しつつ、現時点で最善と思われる区分を提示していくしかないのだろう。
 ゆえに、現在の人類の系統樹も、今後の新発見などにより、劇的に変わる可能性がある。現在では、現代人の祖先はアウストラロピテクス=アファレンシスとされているが、アファレンシスと同時代に存在した未発見の別種が、じつは現代人の祖先だったという可能性もある。古人類学においては、こうした問題は常についてまわる、と認識しておくべきである。なお、文末のリンク集の項に、現時点での自分なりの人類進化系統図を掲載しておいたので、参照していただければ幸いである。

 

人類の誕生
 人類の起源地については、かつてはアジアかアフリカかということで論争があったが、現在ではアフリカということで決着済みである。それは、

(1)200万年以上前の確実な人類化石は、アフリカのみで出土していること。
という化石証拠だけではなく、
(2)現代の人類の遺伝子はかなり均質であるが、その中でもっとも多様性があるのはアフリカ地域集団で、他地域の集団と比較してひじょうに多様性があること。
(3)他の地域集団には、アフリカ地域集団にない古い時期に分岐したと思われる遺伝子が発見されていないこと。

という遺伝的証拠もあるからで、人類の究極的な起源地がアフリカであることは間違いない。

人類の誕生の時期については、諸説あってまだ決着がついていない。かつて古人類学においては、化石証拠から、その時期は1000万年以上前と言われていたのだが、分子生物学の分野から、その時期は約500万年前ではないか、との反論があったのは、1970年代初頭のことだった。
 これに対して古人類学の研究者からは激しい反論があったが、その後の発掘成果もあり、約500万年前という数値は、1990年代には、古人類学でも許容される範囲内に収まることとなった。ところが近年、700万年前にさかのぼるかもしれない人骨が発見され、人類誕生の年代をめぐる議論は、やや混迷した様子を見せている。

 現在のところ、最古の人骨の最有力候補は、アフリカ中央のチャドで発見された、サヘラントロプス=チャデンシスである(脳容量は約360cc)。年代は700〜600万年前とされているが、理化学的な年代測定ができず、年代にはやや曖昧な面が残る。次の候補は、アフリカ東部のケニアで発見されたオロリン=トゥゲネンシスで、年代は600〜570万年前とされている。その次の候補は、アフリカ東部エチオピアで発見されたアルディピテクス=カダバで、年代は570〜560万年前とされている。
 この三つが現時点での最古の人類候補だが、はたして本当に人類化石と認定してよいのか、という疑問も呈されている。これはもっともな話であって、初期人類はチンパンジーの祖先との共通要素が多々あるだろうから、初期人類と推測される化石が発見されたとして、はたしてそれが、初期人類・チンパンジーの祖先・人類とチンパンジーとの共通祖先のいずれなのか、判断が難しいところである。
 また、この三つはそれぞれ異なる属とされているが、その違いは地域・年代的な差異であり、属だけではなく種のレベルでも同じではないのか、との見解もある。なにしろ証拠となる人骨の数が少ないだけに、ただでさえ困難な人類種区分が、いっそう難しいというところがあるが、600万年前頃に、かなりの変異幅を含みつつ、人類が誕生したのであろう。初期人類は、おそらく誕生まもなくより多様な集団に分かれていたのだろうが、それらの集団相互が、種もしくは属のレベルで異なっていたかどうかは、現時点では不明だし、将来も確たることは言えないだろう。

初期人類の登場過程についてよく言われていた説明が、大地溝帯の成立により、アフリカ東部の気候が乾燥し、森林がサバンナ化したため、直立二足歩行を余儀なくされたというものだが、これは現在では間違いとされている。初期人類は形態面で類人猿との共通点が多く、樹上生活に適応した体型をしていたし、アフリカ東部の乾燥化とサバンナ化が本格的に進行したのは、250万年前頃である。また、チャドでサヘラントロプス=チャデンシスが発見されたことから、人類の誕生地をアフリカ東部と限定することにも慎重にならざるを得なくなった。
 樹上生活に適応した体型は、直立二足歩行を確実に行なっていたとされるアウストラロピテクス=アファレンシス(と分類される人類集団)にも顕著な特徴で、今年(2006年)発表された330万年前のアファレンシスの女児も、肩や腕は類人猿と似ていて、樹上生活者としての性格を多分に残していた。
 おそらく初期人類は、直立二足歩行が可能となる体格となってからも、かなりの時間を樹上で過ごし、ときどき地上に降りて直立二足歩行をしていたのだろう。直立二足歩行が可能となると、産道が狭くなり、出産が危険となるが、これは、現代人にいたるまで人類の宿命であり、腰痛も同様である。
 こうした不利な点があるにもかかわらず、直立二足歩行をする人類が繁栄し、直立二足歩行をさらに発展させていったからには、このような不利を補うだけの有利な点があったはずで、おそらくは、直立二足歩行による地上での行動範囲の拡大が、食料の獲得に有利に働くことが多かったのだろう。
 もちろん、進化に特定の目的がないというのは生物進化の大原則で、人類も例外ではないから、こうした利点のために直立二足歩行を始めたというわけではなく、直立二足歩行を可能とする体格の獲得自体は、まったくの偶然だったのだろうが、それが、たまたま後々の人類に覇権をもたらす根本的な要因になったというわけである。

最初に確実に直立二足歩行をしていたと認められるのは、アウストラロピテクス属と分類されている人類集団である。アウストラロピテクス属の中では、アナメンシスが最初に登場し(420万年前頃)、アファレンシスがこれに次ぐのだが(370万年前頃、脳容量は約400cc、身長は個体差が大きく、100〜150cm)、両者がともに発見されているエチオピアのミドルアワシュ地域では、440万年前頃にアルディピテクス=ラミダスと分類されている人類集団もいた。アナメンシスの歯は、ラミダスとアファレンシスの中間的な特徴をもっており、ラミダス→アナメンシス→アファレンシスという系統関係が成立しそうである。
 アファレンシスの代表的な化石は、1974年にエチオピアで発見された「ルーシー」である(性別は雌)。全身骨格の約4割(この数値は誇張との指摘もある)がそろうというまれな古人類化石で、古人類学上の大発見とされた。年代は320万年前頃とされている。かつては、この「ルーシー」の身長が100cmたらずだったことから、アファレンシスは男女の体格差が大きかったとされていたが、現在では、アファレンシスの男女の体格差は、現代人とほぼ同じとされている。
 アファレンシスは現生人類の祖先とされているが、今後もその地位を保てるかとなると、既述したように、前途は不明といわざるをえない。アファレンシスの存在した年代(370〜300万年前頃)には、同じアウストラロピテクス属にバーエルガザーリという別種がおり、属のレベルで異なるケニアントロプス=プラティオプスもいる。とくにプラティオプスは、後のホモ=ルドルフェンシスとの類似性が指摘され、こちらがホモ属の祖先ではないか、とする見解もある。
 もっとも、これらの人骨も、一つの種にまとめられるのではないか、との指摘もあり、プラティオプスも、復元が間違っていて、じつはアファレンシスなのではないか、との見解も根強くある。おそらく、既知のアファレンシス化石をも含む人類集団が、ホモ属の祖先なのだろう。

 

ホモ属の登場
 ホモ属の定義も難しいが、脳の巨大化・解剖学的な意味での樹上生活との決別(ほぼ完全な直立二足歩行)が指標となるだろうか。しかし、300〜250万年前頃までの化石が乏しいため、どのような系統からホモ属が登場したのか、現時点ではよく分からない。
 初期のホモ属としては、240万年前頃に登場したハビリスとルドルフェンシスの二種があげられるが、この二種の区分をめぐっては、激論が展開されてきた。アウストラロピテクス属というには脳が大きく(ハビリスは500〜700CC、ルドルフェンシスは約750CC)、ホモ=エレクトスというには、脳が小さく直立二足歩行も不完全だというような人骨を、ハビリスと分類してきたため、ハビリス内部の変異幅がひじょうに大きくなり、ハビリスは何でも放り込めるガラクタ容器だとの揶揄さえあった。
 後に、こうした人骨群は、ホモ=ハビリスとホモ=ルドルフェンシスの二種に区分されたが、この二種の区分をめぐる混迷は、古人類学における種区分の難しさを象徴するものであり、現在では、種区分の変更のみならず、属のレベルで配置換えが必要なのではないか、との見解も有力で、ルドルフェンシスとハビリスは、ホモ属ではなく、アウストラロピテクス属なのではないか、と主張されている。

 こうした問題をすっきりと整理するのは、現時点では難しいが、ルドルフェンシスとハビリスが240万年前頃に登場したとみられていることは、重要な意味をもつように思う。人類史においては、250万年前頃が一つの転機になっているようで、この頃、石器の使用(最古の石器は270万年前頃とされており、オルドヴァイ型と呼ばれている)・肉食・脳の巨大化(ルドルフェンシスとハビリスの登場)が始まっている。体も全体としてやや大きくなっているが、脳の巨大化と釣り合うほどではない。また、いわゆる頑丈型猿人が登場したのも、この頃である。
 これは、気候変化による、250万年前頃のアフリカ東部の乾燥化とサバンナ化とも関連することだろうが、気候が変化したからそれに対応して進化したということではなく、気候の変化が、その前より少しずつ起きていた進化を広める役割を果たしたということであろう。
 ルドルフェンシスとハビリスは、ホモ属かアウストラロピテクス属かということが議論されるように、形態的にはアウストラロピテクス属に近いところがあり、後の200〜180万年前頃に登場する、異論の余地のないホモ属の人類種(エルガスターもしくはエレクトスと分類される)とは異なり、樹上生活に適応した体型を多分に残している。
 おそらく、ルドルフェンシスやハビリスと分類されている人骨群をも包括する、ひじょうに多様性に富んだ人類集団の一部から、後の真のホモ属が誕生し、現代人の祖先になったものと思われる。しかし、すべての人類集団が真のホモ属に進化したわけではなく、ルドルフェンシスやハビリスは、真のホモ属が登場した後も、生存していた。とはいっても、ルドルフェンシスやハビリスと真のホモ属との間に明確な境界を設けるのは難しく、両者の間には混血もあったのではないかと思われる。
 ホモ属の祖先候補として有力視されているのは、アウストラロピテクス=ガルヒである。ガルヒの脳容量はアファレンシスよりわずかに大きく約450CCで、石器の使用と肉食の可能性が認められるからなのだが、生存年代は250万年前頃で、ルドルフェンシスやハビリスとの年代差があまりないのが難点である。あるいは、ガルヒ的な人類はその前より存在しており、その一部はルドルフェンシスやハビリスに進化し、そうではなかった人骨が発見されたということなのかもしれない。
 ガルヒは、最初に石器を使用した人類種である可能性があるが、石器は人骨と比較して後世に残る可能性がはるかに高く、人骨の系統よりも石器の系統のほうがはるかに詳しくなるから、最初に石器を使用した人類種を特定するのはなかなか難しく、最初の石器使用人類種という問題は、永久に解決しない可能性が高そうである。

またこの頃には、小柄ながらも頑丈な骨格と歯を持ち、硬い木の根などを食していたと推測される、いわゆる頑丈型猿人が登場している。頑丈型猿人は、現在のところ、エチオピクス(アフリカ東部、270〜230万年前頃)・ボイセイ(アフリカ東部、220〜120万年前頃)・ロブストス(アフリカ南部、180〜100万年前頃)の三種に分類されているが、石器を使用していたかどうかは定かではなく、身長は130〜140cm、脳容量は500CC弱といったところである。
 これらを、アファレンシスやアフリカヌスなどと同じく、アウストラロピテクス属とするのか、別のパラントロプス属とするのか、見解は一致していないが、最近になって、系統的には、エチオピクスはロブストスやボイセイと異なり、ロブストスとボイセイは近い年代でホモ属と祖先を共有している、との見解も提示されている。
 現時点では、これらの頑丈型猿人の帰属や系統関係には不明な点が多く、推測の難しいところがあるが、最初に発見されたアウストラロピテクス属であるアフリカヌスの年代が、じゅうらい言われていた300〜250万年前頃よりやや新しくなる可能性が指摘されており、ロブストスとボイセイはアフリカヌスの系統から進化したのかもしれない。エチオピクスは、アファレンシスか、未発見の人類種から進化したものと思われる。
 250万年前以降、一気に人類の多様化が進展したかのような感があるが、これは、気候の変化に大きな要因があったとも解釈できるし、単にそれ以前の人骨の発見がまだじゅうぶんではない、というだけのことかもしれない。250万年前以降の人類の多様性からすると、後者の可能性が高そうである。

200〜180万年前頃になると、異論の余地のないホモ属である人類集団が登場する。身長は、個体差はあるものの、180cm以上の者もおり、樹上適応体型とは決別し、完全に直立二足歩行体型になっているので、現代人と同じく、長距離歩行も可能だったと考えられている。これにより、活動範囲は一気に拡大し、アフリカを出て東南アジアや東アジアにまで達している。
 この人類集団は、首から下の体の構造は基本的には現代人と変わらないが、脳容量は現代人よりも小さく(約800〜900CC)、脊柱管の狭さから、現代人のような言語を話すことはできなかっただろう、と推測されている。ルドルフェンシスやハビリスと比較すると、脳容量は増加しているが、おおむね体格の向上に比例したものと言えそうで、ここで脳が巨大化したとは評価できないだろう。
 人類進化の学説史においては、当初、脳の巨大化が直立二足歩行に先んじたとの説が優勢で、それが、ピルトダウン人(現代人の頭骨とオランウータンの下顎骨とから成る)の捏造という、科学史における大醜聞の要因にもなったのだが、じっさいには、脳の巨大化に先んじて直立二足歩行が始まっている。ただ、当初の人類は多分に樹上適応体型を残しており、現代人のような完全な直立二足歩行は、脳容量の増加の後に起きたようである。
 このような、アフリカにいた初期の異論の余地のないホモ属を、東南アジアや東アジアの古人類集団とおなじくエレクトスという種に含めるのか、それとも新たに設定したエルガスターという種に含めるのか、見解は一致していない。私が判断するのも難しいところだが、地域的な差異とみて、エレクトスに区分するのがよさそうに思う。

ホモ属誕生の要因として重要なのは、石器の使用と肉食の開始であろう。穀物栽培などのない時代、効率的に高カロリーが摂取できるのは、何といっても肉食だったが、もちろん当時の人類は、高カロリーだからという理由で肉食を始めたわけではない。直立二足歩行するようになった人類は、おもに森林で生活していたが、ときどきサバンナにも進出し、そこで死肉も漁っていたのだろう。しかし、石器の使用までは、重要な食糧源だったとは思われない。
 おそらく、転機となったのは石器の使用であろうが、当時の人類は小柄で、石器も貧弱だったから、狩猟はせず、死肉漁りをしていたと思われる。じっさい、この頃の人類は弱く、肉食獣だけではなく、鷲のような猛禽類に襲われて食われることもあった(もっとも、肉食獣に食われることは現代でも珍しくないが)。死肉漁りというと、貧相な印象を与えるが、石器の使用により、肉食動物の食べ残しでも、骨にわずかに残っている肉を効率的に削ぎ落とすことができただろうし、骨髄を取り出すことも容易になっただろう(石器の使用前から、骨を地面や石に叩きつけて割るということはしていただろうが)から、その効果はたいへん大きかったと思われる。
 石器使用による効率的な肉食により、高カロリーを摂取するようになった人類は、大型化が可能になった。ここで考えねばならないのは、肉食と大型化との関係である。恐らく大型化には、遺伝子そのものの変異か、遺伝子発現の仕組み(時期・量・持続期間など)の変化が必要だったのであり、肉食により大型化が必然となったわけではないだろう。
 このような遺伝子の変化を前提として、肉食を始めた人類の大型化が始まった。まず大型化が始まったのは、エネルギー消費量の大きい脳であり、これは知力の向上をもたらし、石器使用と食資源の獲得がより効率的になったものと思われる。
 こうしてさらに高カロリーの摂取が可能となり、その後にさらなる遺伝子変化が起き、体が大型化するとともに、より直立二足歩行に適した体型へと進化していった。そうすると、行動範囲が広がるし、体格の向上による体力の増加もあるから、いっそう高いカロリーを摂取することが可能になり、さらなる大型化も可能となった。
 私の見識では、ホモ属誕生の経緯を的確に説明するのはむずかしいが、何とか頑張って文章にすると、以上のようになる。肉食・石器の使用・大型化の三者は、相互作用によりその度合いを強めていったのだが、体格が無限に大きくならないのは、遺伝的な限界があるからで、形態面での変化も、あくまでも遺伝子の範囲内のことである。

ここで注意が必要なのは、脳の巨大化と直立二足歩行とは、本来は両立しがたいということである。完全な直立二足歩行のためには骨盤を狭くしなければならず、したがって産道も狭くせざるをえないのだが、そうすると、巨大な脳では出産が困難となる
 この矛盾を解決したのが、脳の二次的晩熟性で、
ホモ属は誕生してから急激に脳容量を拡大するようになったのである。もちろんこれも、脳の巨大化と直立二足歩行を両立させようとして意図的にやったことではなく、偶然にそういう性質を獲得した(いわゆる獲得形質の遺伝ではなく、遺伝子の変化を前提としてのことだが)集団が、生存に有利だったので繁栄したということだろう。したがって、ホモ属の誕生過程においては、多くの妊婦と胎児が出産にさいして命を落としたものと思われる。
 
脳の二次的晩熟性こそは、人類にその後の覇権をもたらした大変化だった。これにより、誕生してからの環境刺激次第では、知能が高度に発達する可能性がでてきたのである。知識が増せば、教育という名の環境刺激がますます盛んになるから、いっそうの知能の発達が期待できるのである。
 ただ、エレクトスの幼児の誕生時の脳は、じゅうらい考えられていたよりも大きく、エレクトスには脳の二次的晩熟性が認められない、との見解もある。そうすると、現生人類やネアンデルタール人の直近の共通祖先の脳が大型化した頃に(60〜50万年前)、はじめて脳の二次的晩熟性が獲得されたのかもしれない。

 

ホモ属の拡大
 人類が最初にアフリカを出た時期は、100万年前頃というのが長い間通説となっていたが、グルジアで180〜170万年前頃の人類化石が発見されたので(共伴した石器はオルドヴァイ型)、遅くとも180万年前頃にはなるだろうし、200万年前頃までさかのぼる可能性もあるだろう。
 グルジアの人類化石は、脳容量が600〜775CCと大きくなく、ハビリスともエレクトスとも判断しがたい形態である。ここでも、人類種区分の難しさが現れているが、アフリカを出た人類は、典型的なエレクトスから、エレクトスとハビリスの中間の集団まで様々であり、同一種とみなしてよいかどうかはさておき、近縁の集団だったと思われる。
 エレクトスは東南・東アジアにも進出したが、その年代については統一見解がない。なお、ここで断っておくと、以下の東南アジアと東アジアという区分は、現在のものとはやや異なる。東アジアは、現在の東南アジアの北部をも含む地理的概念で、東南アジアは、スンダランドを中心として、現在の東南アジアの南部を想定している。
 インドネシアでは180万年前の人骨が、中国では130万年前の石器が出土したとされているが、その年代には疑問が呈されている。ただ、グルジアでの発見により、180万年前頃に東南・東アジアへ人類が進出していた可能性も、真剣に考慮すべきようになった、とは言えるだろう。
 わりと早期に東南・東アジアへ人類が進出していたとすると、石器分布にまつわる謎は解決となる。アフリカでは270万年前頃からアシュール型石器が使用されるようになったが、150万年前頃から、より機能性の高くなったアシュール型石器が使用されるようになった。
 しかし、東南・東アジアでは、長らくアシュール型石器が発見されず、依然としてオルドヴァイ型石器が使用されていたので、人類の出アフリカが100万年前以降とされていた頃には、なぜアシュール型石器が使用されなかったのか、大きな謎とされていたのだが、グルジアでの発見により、人類がオルドヴァイ文化の時点でアフリカを出たことが判明したので、もはや謎ではなくなった。
 ただ、中国南部で発見された石器の中には、アシュール型石器も含まれるので、東アジアには、アシュール文化が一部流入したとみるべきだろう。また、
170万年前頃にはグルジアに進出していたとなると、ホモ属は初期より火を使用していた可能性もあるだろう。

 エレクトスは地域差が大きく、アフリカのエレクトスと東南・東アジアのエレクトスとは異なり、アフリカのエレクトス(とくに初期の集団)はエルガスターという種に区分すべきだ、との見解も根強いが、実態は複雑である。東アジアのエレクトスは、東南アジアのエレクトスと異なる点も多く、その一方でアフリカのエレクトスとの共通点もある。アフリカのエレクトスには多様性があり、初期型以上に東南・東アジアのエレクトスに似た、100万年前頃の人骨が発見されてもいる。
 ひじょうに解釈の難しいところだが、東南アジアのエレクトスは、次第にその派生的形質を強めていった、との指摘がある。100万年以上前、数十万年前、20〜数万年前、という異なる年代のジャワのエレクトス化石の比較の結果、ジャワのエレクトスは、年代が下るにつれて特殊化していったことが判明し、ジャワのエレクトスがオーストラリアの先住民に進化したとする、多地域進化説の重要な根拠が崩れることになった。おそらく、東南アジアのエレクトスは孤立度の強い集団で、一度人類が進出した後は、現生人類の進出まで、東南アジアには他地域からの流入があまりなかったのだろう。
 東アジアは化石証拠が乏しく、こちらも解釈が難しいが、エレクトスから派生したと思われるハイデルベルゲンシスに似た40万年前頃の人骨や、一部のアシュール型石器が中国南部で発見されているので、エレクトスの進出から現生人類の進出までの間も、アフリカからの流入や、逆にアフリカへの再進出も一定水準以上あったものと思われる。

100〜60万年前頃の状況は、発見数が少なく、年代が曖昧なものが多いこともあって、今ひとつはっきりしないが、サピエンスに近い特徴を一部もった人骨には、アフリカ東部のエリトリアで発見された100万年前頃のものと推測される頭骨化石や、エチオピアで発見された60万年前頃のものと推測される頭骨化石などがある。これらの人類は、まだエレクトスと分類しておいてよいだろう。
 また、エレクトスの欧州への進出も始まり、その年代は、80万年前頃までさかのぼるようだが(ブリテンには70万年前頃進出)、厳しい氷河期もあっただけに、寒冷地適応体型をしていたネアンデルターレンシスの登場までは、温暖期にアフリカから西アジアを経由して欧州に進出し、寒冷期に絶滅・撤退するということを繰り返していたのではなかろうか。
 60〜50万年前頃になると、人類に重要と思われる変化が訪れる。この頃、わりと短期間にアフリカ・欧州の古人類の脳容量が上昇し、平均1200CCとなり、かなりサピエンスに近づいている。おそらく、アフリカのエレクトスの中から、脳容量の増大した集団が出現し、西アジアと欧州に進出したのだろう。
 アシュール文化もより洗練されたものとなり、60万年前頃を境に、それ以前を前期アシュール文化、それ以降を後期アシュール文化と分類する見解もある。またドイツでは、40万年前頃の槍が出土し、英国では大型の象を狩っていた、とされており、この頃には本格的な狩猟が始まっていたようである。これらを脳の拡大と結びつけると説得力がありそうなのだが、一つの発見で美しい解釈が容易に崩れることがあるのが、古人類学の恐ろしさなので、油断はできない。
 この頃に登場するアフリカと欧州(おそらく西アジアも)の人類集団は、ホモ=ハイデルベルゲンシスとも古代型サピエンスとも言われていて、どう区分すべきか、統一見解がない状況だが、ここではとりあえず、ハイデルベルゲンシスという種区分で統一しておきたい。ただし、多様性が大きく、複数種に区分するほうが妥当である、という可能性はつねに念頭においておきたい。

 

サピエンスの起源
 サピエンスの起源をめぐっては、かつて激論が展開されたが、現在では、アフリカを起源地とすることで見解が一致しつつある(サピエンスのアフリカ単一起源説)。その根拠は、

(1)サピエンスが最初に出現した(25〜20万年前頃)のはアフリカであり、アフリカにおいては、エレクトスからハイデルベルゲンシスを経由してサピエンスへと続く人骨の系統は何とかたどれるが、他の地域では、ネアンデルターレンシスのような先住人類からサピエンスへとつながる解剖学的系統が、アフリカのように明確にたどれない
(2)現代人は、遺伝的にかなり均質であるが、その中ではアフリカ地域集団にもっとも多様性が認められる。集団遺伝学者の間では、現代人は人類史においてわりと近年(40万年前以降)のある年代に、小集団から膨張したとする見解が有力だから、40万年前以降に、アフリカの小集団からサピエンスが誕生し、拡散したと考えるのがもっとも自然である。

というもので、私も、サピエンスの起源地はアフリカのみであると考えている。現在の焦点は、アフリカで誕生したサピエンスが世界各地に拡散したさい、ネアンデルターレンシスや東南アジアのエレクトスのような、各地の先住人類と混血があったのか、あったとして、どの程度だったのか、ということである。

母系由来のミトコンドリアDNAと、父系由来のY染色体の分析から、現代人の最後の共通祖先(のDNA型)の存在年代は、母系が14万年前頃、父系が6万年前頃とされている。ユーラシア各地の先住人類のDNAについては、ネアンデルターレンシスのものしか調べられていないが(ミトコンドリアDNAは10万年前まで、Y染色体は4〜3万年前まで)、母系・父系ともに、現代人や、更新世に欧州にいたサピエンスであるクロマニヨン人とも大きく異なっていた(クロマニヨン人のミトコンドリアDNAは現代人、とくに欧州系と密接な関係が認められた)。
 このことから、サピエンスとユーラシアの先住人類との間に混血はなかったとの見解が有力だが、母系・父系由来の遺伝子は失われやすいので、現時点で混血がなかったと判断するのは危険である。たとえば、男性の先住人類甲がサピエンスの女性と結婚して娘乙しか生まれなかったり、息子丙が生まれても、丙とサピエンスの妻との間に娘しか生まれなかったりしたら、たとえ甲の子息乙と丙に由来する遺伝子が現在まで伝わっていたとしても、甲のY染色体のDNAは、現代人には見つからないことになってしまう。逆に、女性の先住人類とサピエンスの男性とが結婚した場合も、同様のことが容易に起き得る(偶発系統損失)。
 侵入してきたサピエンスの数が圧倒的に優勢な状況で、先住人類との混血があった場合、先住人類の母系・父系に由来するDNAは、わりと短期間で失われることだろう。混血があったかどうかは、核内のDNAを分析しないと分からないということは、ミトコンドリアDNAの分析が始まった1980年代から言われていたことで、じっさいに挑んだ研究者もいる。その中には、アフリカ由来のサピエンスとユーラシアの先住人類との混血を主張する見解もあるが、多数の研究者はこれに否定的である。

ネアンデルターレンシスの混血問題については後述するので、他の先住人類との混血の可能性についてみていくと、アタマジラミの遺伝子の研究は、混血を示唆するものとの解釈も可能である。世界中のアタマジラミの遺伝子を分析すると、二つの遺伝子集団に大別されるが、両者の分岐年代は120万年前頃だと推測される。二つの集団のうちの一方は、ほとんどアメリカ先住民からしか発見されなかったことから、東南・東アジアのエレクトスに寄生した遺伝子集団と考えられ、サピエンスが東南・東アジアに進出したさいに、エレクトスと何らかの接触をしたことが推測される、というものである。
 ジャワの後期エレクトスとされるソロ人は、5〜2万年前まで生存していた可能性が指摘されているので、サピエンスとエレクトスとの接触という想定に無理があるとは言えないだろう。東アジアについては不明な点が多いが、サピエンスが進出した時点でエレクトスが生存していたという可能性も多少はあるだろう。ただ、アメリカ以外ではほとんど発見されていないというのが気になるところで、東南・東アジアでも高頻度で発見されていれば、説得力が増したのだが、決定的な証拠とは言えないだろう。
 それはともかくとして、私は現時点では、混血があったと考えているが、その頻度は、各地域により異なると思っている。この考えは、ギュンター=ブラウアーの
アフリカ交配代替モデル説にほぼ従ったものである。確たる根拠はないが、現時点で大胆に予測すれば、東欧と西アジアと東アジアでは、西欧と東南アジアよりも混血の頻度が高かったと思う。ただ、これはあくまで地域間の相対的な比較で、母系・父系ともに先住人類由来のDNAが見当たらないことから、東欧と西アジアと東アジアにしても、混血はあまりなかったと推測される。

アフリカでのサピエンス登場の様相は、発見された人骨が少ないことと、その年代が曖昧なことから、復元の難しいところだが、今年(2006年)エチオピアのガウィス河畔で発見された50〜20万年前頃の頭蓋骨、1921年にザンビアで発見された30万年前頃のものと推測される頭骨化石、南アフリカのエランズフォンテインの人骨(30万年前頃)、エチオピアのボドの人骨(30万年前頃)、タンザニアのンドゥトゥー湖の人骨(50〜40万年前頃)などには、サピエンスへの移行が認められると言われていて、とくにザンビアの人骨にはかなりのサピエンス的特徴が認められる。このザンビアの人骨は、一般にはローデシア人という名称で知られている。現時点では一応、これらをまとめて、ハイデルベルゲンシスとしておくが、これらの中の一部の集団がサピエンスへと進化したと思われる。ただ、変異幅が大きいことには注意しておかねばならない。
 現在のところ、年代・形態ともに確実な最古のサピエンスは、エチオピアのミドル=アワシュで発見された人骨で、サピエンスの亜種とされた(ホモ=サピエンス=イダルツ)。この人骨は、アフリカの古人骨では珍しく年代がはっきりとしていて、160000〜154000年前とされている。眼窩上隆起がやや強い点など、ハイデルベルゲンシス的特徴も残してはいるものの、初期のサピエンスと認められている。

しかし、1967年にエチオピア南部のキビシュ川の土手で発見された2個体分の頭蓋片(オモ1号・オモ2号とされた)のうち、ほぼ完全なサピエンスとされるオモ1号の年代が、2005年になって195000年前とされたことは、サピエンスの進化史に混乱をもたらした。じゅうらいは、オモ1号は13万年前頃とされていて、イダルツの発見により、10万年前頃のアフリカ南部やレヴァントの人骨群とも年代的にうまくつながり、サピエンスの進化史もすっきりとしたように思われたのだが、これをどう解釈するか、難しいところである。
 まず考えられるのは、年代推定が間違っているということである。次に考えられるのは、オモ1号の復元が間違っているということである。オモ1号と同年代とされるオモ2号は、サピエンスというよりは
ハイデルベルゲンシスに近く、オモ1号も、じつはハイデルベルゲンシスに近いのではないか、というわけである。じっさい、オモ1号は、いわゆる猿人ではないか、と言われたことさえあったのだが、終始一貫して、サピエンスだと主張し続けてきたのが、発見者のマイケル=デイであった。
 では、年代も復元も妥当なものだった場合は、どう解釈すればよいのだろうか。おそらく、アフリカの多様性に富んだハイデルベルゲンシス集団の一部から誕生したサピエンスは、自身も多様性に富んだ集団であり、ハイデルベルゲンシスの一部と混血しつつ、進化していったのだろう。その結果として、20万年前頃には、解剖学的にほぼ完全なサピエンスも、ハイデルベルゲンシス的特徴も持つサピエンスもいて、そうした状況は、後期石器時代が始まった頃(50000〜45000年前頃)まで続いたのだろう。
 一方、ハイデルベルゲンシス集団も、一部がサピエンスと混血しつつも10万年前頃まで存在し、多数は現代に遺伝子を残すことなく絶滅し、一部がサピエンスに吸収されるという、10万年前以降のユーラシア大陸と同じようなことが起きていたのではないか、と思われる。

 

象徴的行動の起源とサピエンスの拡散
 サピエンスの解剖学的指標としては、大きな脳容量(平均1350cc)・垂直な前頭骨・後ろから見ると五角形の頭骨・弱い眼窩上隆起・小さな歯・発達した頤などがあるが、こうした解剖学的特徴は、これまでの人類とはかなり異なるものである。よく、ネアンデルターレンシスなど、現代人の祖先とは考えられていない絶滅人類は、人類進化史の側枝と言われるが、冷静に評価すると、サピエンスのほうこそ異端であり、側枝と評価するに相応しい。サピエンスの行動学的指標としては、芸術活動・石刀技法を用いた高度な石器・装身具の使用などがあり、高度な知性・象徴的思考能力を備えていれば、真のサピエンスと認められるというわけである。
 以前は、最古のサピエンスは欧州に出現すると考えられ、出現したときにはすでに、芸術活動を伴っていたと認められていたので、問題はなかったのだが、その後、サピエンスとみられる人骨の出現年代が繰り上がっていき、ついには20万年前頃にまでさかのぼる可能性が高くなってきた。
 そうすると、欧州・西アジア・北部アフリカの上部旧石器時代(43000年前頃〜)、アフリカの後期石器時代(以前は8000年前頃〜とされていたが、近年では45000年前頃〜とされている)以降とされている、行動学的指標の成立と、20万年前頃にさかのぼりそうな解剖学的指標の成立との間に、大きな時間のズレが生じることになる。
 そこで近年では、解剖学的にはサピエンスだが、行動学的にはサピエンスとはいえない人類集団を解剖学的現代人、行動学的にも真のサピエンスと認められ、潜在的な知的資質が現代人と変わらないような人類集団を行動学的現代人とし、サピエンスを区別することが流行しつつある。
 行動学的現代人の登場は5〜4万年前頃だから、この頃に、解剖学的現代人の神経系にかかわる遺伝子に突然変異が起き、洗練された言語を持つようになり、その優位さから世界各地に短期間に進出した、とする「創造の爆発論」が主張され、根強い影響がある。
 だが近年、象徴的思考はアフリカの中期石器時代に始まるのではないか、との見解が優勢になりつつある。その根拠について触れる前に、ここで石器時代の区分について少し整理しておきたい。

サハラ砂漠以南のアフリカ

アフリカ北部・西アジア・欧州

前期石器時代
(オルドヴァイ文化)

270万年前頃〜

下部旧石器時代
(オルドヴァイ文化)

180万年前頃〜

前期石器時代
(アシュール文化)

160万年前頃〜

下部旧石器時代
(アシュール文化)

140万年前頃〜

中期石器時代

30万年前頃〜

中部旧石器時代

20万年前頃〜

後期石器時代

45000年前頃〜

上部旧石器時代

43000年前頃〜

じっさいには、もっと地域を分けたほうがよいのだが、単純化してこのような表とした。南・東南・東アジアについては、独自の時代区分が必要と思われるが、勉強不足のため、今回は割愛した。欧州と西アジア、とくに欧州においては、時代の境界がわりと明確に認められるが、サハラ砂漠以南のアフリカでは、境界が曖昧なところがある。これは、アフリカでは在地の人類集団が進化し、文化を発達させていったのにたいして、欧州には、在地の先住人類集団とは異なる、完成された文化をもった人類集団が、他地域から(おそらく、アフリカから西アジアを経由して)進出したためだと思われる。
 境界の明確な欧州では、象徴的思考能力を示す石刃技法・芸術活動・ビーズのような装身具などが、中部旧石器時代までは見られず、上部旧石器時代になって見られるようになるので、「創造の爆発論」は、欧州を基準にすると、妥当な解釈のように思われる。ところが、

(1)レヴァントやアフリカ北部では10万年前頃にビーズの使用が認められる。
(2)南アフリカのブロンボス洞窟では、8〜7万年前頃の、幾何学文様の刻まれたオーカーが発見された。
(3)アフリカ南部のザンビアのツイン=リヴァーズという遺跡で、20万年前頃に顔料が使用されていた可能性が指摘された。
(4)ケニアのバリンゴ湖畔では、51万年前頃の石刃が出土した。
(5)コンゴのカタンダでは、欧州では14000年前頃にならないと登場しないような精巧な銛が、8万年前頃から使用されていた。
(6)9〜7万年前頃のアフリカ南部では、欧州では12000年前頃にならないと登場しないような細石器を多用したハウイソンズ=プールト文化が栄えた。

といった証拠が続々と提示され、人類の象徴的思考は中期石器時代の20万年前頃までさかのぼるのではないか、という見解も有力になってきた。そうすると、解剖学的現代人の出現と象徴的思考の発達との時間差はほとんどなくなり、サピエンスは出現時より、現代人とほぼ変わらない知的能力を有していたことになる。

しかし、中期石器時代には、行動学的な現代性は全面的に開花しておらず、上記の解釈にも疑わしい点があるとして、いぜんとして「創造の爆発論」を支持する人も少なからずいる。先進的とされるハウイソンズ=プールト文化にしても、その後、中期石器文化にもどっているではないか、との反論もなされている。
 しかし、サピエンスの出アフリカの年代についての仮説は、「創造の爆発論」を否定する状況証拠になりそうである。分子遺伝学の研究から、
サピエンスは66000年前頃にアフリカを出て、アラビア半島やインドなどユーラシア南部を経由し、東南アジアとオーストラリアに素早く進出した(オーストラリアには63000年前頃)、との仮説が提示されている。ひじょうに固くみると、サピエンスは、遅くとも4万年前頃にはオーストラリアに、3万年前頃には中国に到達していたが、おそらく、オーストラリアや中国へはもっと早く到達しており、考古学の側からの、サピエンスはオーストラリアに6万年前頃には到達していた、との主張も根強い。
 オーストラリアのサピエンスは、その初期より上部旧石器的な文化を有していたが、
アフリカを出た時点では、中期石器文化を有していたとの可能性が指摘されている。そうすると、6万年前頃と5〜4万年前頃という年代のズレもあるが、それ以上に、「創造の爆発論」が成立するには、アフリカとオーストラリアで独立して同じような遺伝子変異が起きる必要があるということが、「創造の爆発論」にとって不利な点である。「創造の爆発論」には欧州・西アジア中心主義的な側面が多分にあり、おそらく、今後も不利な証拠が続々と提示され、やがて忘れ去られる運命にあるのではなかろうか。

では、アフリカにおける上記のような先進性や、象徴的思考能力が全面的に開花するまで、長時間を要したことをいかに解釈すべきだろうか。これはおそらく、文化の蓄積・人口・平均寿命といった諸要素が複雑にからみあった問題なのだろう。
 中期石器時代のサピエンスも、潜在的な知的資質では現代人とは変わらず、その文化(技術や思考法など)に象徴的思考が認められるが、さまざまな要素がからみあってある水準まで蓄積される以前は、象徴的思考を伴う文化は散発的なもので、全面的に開花することはなかったのだろう。それゆえに、自然災害などによる蓄積の大損失・気候変化への対応力が弱く、その先進性も容易に失われることになったのだろう。
 それが、ある限界点を突破すると急速に開花し、気候変化や自然災害にも文化的にかなり対応できるようになるので、局地的な衰退はあっても、全体的にみると、後戻りすることがほとんどなくなる、ということではなかろうか。そうすると、20万年前をさかのぼるとされる石像などは、そもそも石像ではないか、はるか後世のものだとして、一蹴されてきたのだが、あるいはこうした怪しげな遺物は、本物なのかもしれない。
 次に問題となるのは、こうした象徴的思考能力はいつまでさかのぼるのか、ということである。中期石器時代に登場したサピエンスの時点で、この能力を獲得したのか、それとも、さらにさかのぼるのだろうか。後期アシュール型石器がかなり洗練されたものだったこと、脳の大型化、大型動物の狩猟、51万年前頃の石刃技法などから考えると、60〜50万年前頃登場したハイデルベルゲンシスの時点で、すでにかなりの象徴的思考能力を獲得していたのではないかと思われる。
 あるいは、初期ハイデルベルゲンシスの時点では、象徴的思考能力は現代人に及ばなかった可能性があるが、中期石器時代の始まる頃の、アフリカの末期ハイデルベルゲンシスとなると、現代人とあまり変わらなくなるのではないかと思われる。もっとも、進化は連続的なので、ハイデルベルゲンシスとサピエンスとの間に明確な境界を認めるのは難しいのだが。

基本的には現代人と変わらない更新世のサピエンスは、世界各地に進出した。いくつかの地域については、すでに少し述べてきたが、もう一度整理しつつ他の地域についても述べていくと、インド・東南アジア・オーストラリアには、7〜6万年前頃進出した可能性が高い。東アジアへの進出時期は、証拠が少ないので不明なところが多いが、6万年前頃までさかのぼる可能性が高いと思う。
 欧州には42000年前頃、シベリアには35000年前頃に進出し、人類未踏の地だったアメリカ大陸にも進出しているが、アメリカ大陸へのサピエンスの進出時期については、まだ統一見解がない。13000年前頃とするのが長い間通説だったが、近年では、さかのぼる傾向がある。中には、4万年前頃の足跡がメキシコで発見されたとの報告もあったが、支持する研究者は少ないようである。
 現時点では判断の難しいところだが、アメリカ大陸へのサピエンスの進出は、5万年前頃までさかのぼる可能性もあり、その経路も、じゅうらい言われていたベーリンジア(アラスカとシベリアをつなぐ地狭。氷河期には海面が低下し、ベーリング海峡は陸地となり、アラスカとシベリアは陸続きとなった)経由だけではなかった可能性もあることを念頭においておきたい。

 

ネアンデルターレンシスをめぐる問題
 ネアンデルターレンシスは、19世紀後半以降、古人類学における主要な論点であり続けてきた。これは、ネアンデルターレンシスが、欧州や西アジアといった、発掘の進んでいる地域に分布しており、発掘数が多く、研究が進展しているためである。
 また、サピエンスにかなり近く、サピエンスにとって最後の隣人であると考えられてきた(ネアンデルターレンシスよりも後まで生存していたとされる、フロレシエンシスについては後述)ので、自らの来歴を明らかにするための格好の比較対象となったことも、研究の進展を促した。ネアンデルターレンシスがいかにサピエンスに近いかということは、アウストラロピテクス=アフリカヌスや、ジャワのエレクトスの場合、発見当初は人類ではないとの見解が多数派になったのにたいして、ネアンデルターレンシスの場合、絶滅人類か病変の現代人かという議論はあっても、人類であることを疑う見解はなかったことでも明らかである。
 そのため、ネアンデルターレンシスの研究が、人類進化の研究において重要な地位を占めており、この状況は、アフリカや中国での発掘数が増加するまでは変わらないだろう。ゆえに、ネアンデルターレンシスについては、人類進化の学説史にも触れつつ、やや詳しく述べていくことにする。

ネアンデルターレンシスの定義は意外と曖昧な状況が長く続き、中部旧石器文化の人類との定義もあったが、サピエンスの中に中部旧石器文化を持つ集団もあるので、現在ではこの定義は用いられていない。本格的な解剖学的定義が試みられたのは、何と1970年代後半になってからで、ネアンデルターレンシスをめぐる論争が始まってから100年以上経ってのことである。
 ネアンデルターレンシスの解剖学的指標は、巨大な脳(容量1450cc)・寒冷適応体型・強い眼窩上隆起・後ろから見ると丸い形の頭蓋冠・前方へ移動した歯列・臼歯後隙などで、後三者は、ネアンデルターレンシス固有の形質である。その文化はほぼ中部旧石器に属すが、フランス西部とスペイン北東部においては、一時期、上部旧石器的なシャテルペロン文化が認められる。

ネアンデルターレンシスは当初、病変の現代人とも考えられたが、20世紀初頭までには、太古に存在した人類ということでほぼ見解が一致した。そうすると次に問題となるのは、人類進化史におけるネアンデルターレンシスの位置づけである。
 ドイツのグスタフ=シュヴァルヴェは、19〜20世紀の変わり目の頃、ネアンデルターレンシスを、当時発見されたばかりのジャワ原人のような原始的な人類とサピエンスとの中間段階に位置づけ、ネアンデルターレンシスとサピエンスとは、亜種の関係にあるとした(ホモ=サピエンス=ネアンデルターレンシスと、ホモ=サピエンス=サピエンス)。
 だが、20世紀初頭に、フランスのマルセル=ブールによるネアンデルターレンシスの復元が公表され、前かがみになって膝を曲げ、腰が曲がっているという姿だったことと、捏造されたピルトダウン人が本物と認定されたことにより、ネアンデルターレンシスは絶滅した人類との見解が優勢となった。その結果、ネアンデルターレンシスとサピエンスとは古い時代に分岐し、欧州には、ネアンデルターレンシスと同時代にサピエンスの直接の祖先が存在していた、とするプレ=サピエンス説が主流的見解となり、1960年代まで大きな影響力を有した。
 プレ=サピエンス説に異議を唱えたのは、チェコからアメリカへ移住したアレシュ=ヘリチカで、北京原人的な人類からネアンデルターレンシスを経てサピエンスが登場したとする、シュヴァルヴェと似たような人類の単系統進化説を1920年代に提示したが、少数派にとどまった。
 ナチス政権の成立によりドイツを去り、アメリカへと渡ったユダヤ人のフランツ=ヴァイデンライヒも、プレ=サピエンス説に同意しなかった一人であった。1947年に発表された人類の系統図では、オーストラリア・アジア・アフリカ・欧州という四つの地域ごとの進化の流れが重視されるとともに、各地域ごとの遺伝的交流も想定され、人類は各地域で、アウストラロピテクス=アフリカヌスのような段階、北京原人やジャワ原人のような段階、ネアンデルターレンシスのような段階を経て、サピエンスに至るとされた。発表当時は賛同者の少なかったこの見解は、1960年代以降、主に米国でひじょうに大きな影響力を持つようになった。

20世紀半ばの進化総合説の成立により、種内変異が重視されるようになり、ネアンデルターレンシスの復元が見直されて、サピエンスとの類似性が強調され、1953年にピルトダウン人の捏造が確定すると、プレ=サピエンス説はしだいに影響力を失っていき、新たな人類進化説の提示が求められるようになった。
 ここで重大な役割を演じたのが、アメリカのローリング=ブレイスで、文化を持つ人類はどの時代においても単一種であり続け、猿人→原人→旧人→新人と進化した、という人類単一種説を主張した。アウストラロピテクス属は猿人、エレクトスは原人、ネアンデルターレンシスは旧人、サピエンスは新人に位置づけられ、ネアンデルターレンシスは現代人の祖先であるとされたのである。
 最初の人類である猿人はアフリカに登場し、原人へと進化した後、アメリカやオーストラリアをのぞく世界各地に進出していき、各地で原人から旧人、さらには旧人から新人へと進化し、東北アジアの新人はアメリカ大陸へ、東南アジアの新人はオーストラリアへと進出した、とされた。同時代の各地域の人類の解剖学的差異は、種内変異の範囲内におさまるものである、とも主張された。
 また、人類進化における文化の役割が重視され、文化の発展とともに人類が進化してきた、とされた。猿人のオルドヴァイ文化→原人のアシュール文化→旧人の中期旧石器文化→新人の後期旧石器文化との図式が提示され、じゅうらいより洗練された道具を使うようになった人類は、頑丈な体つきを必要としなくなって、より華奢な体つきになっていった、と主張された。文化を重要な鍵とし、明快な図式で説明をする人類単一種説は、じつに美しいものであり、大きな影響力を有したのである。
 一方、レヴァントでは、ネアンデルターレンシス的な人骨・サピエンス的な人骨・中間的な人骨が出土することから、西アジアには特殊化していないネアンデルターレンシスがいて、サピエンスと、特殊化したいわゆる古典的ネアンデルタール人との直近の祖先になった、というプレ=ネアンデルタール説が、アメリカのクラーク=ハウエルなどから1950年代に提唱されたが、米国では、人類単一種説が大きな影響力を有していた。

しかし、1975年に、ケニアのトゥルカナ湖岸から、いわゆる頑丈型猿人のボイセイの人骨がすでに発見されているのと同時代(150万年前頃)の地層から、エレクトスの人骨が発見されたことで、人類単一種説は否定された。ブレイスとともに人類単一種説を強く主張していたミルフォード=ウォルポフは、大きな転換を余儀なくされた。
 同時代における人類の同一性を強調していたウォルポフは、各地域間の差異は、人類進化における些細な問題であるとしており、人類史における地域間の変異とその連続性に注目していたオーストラリアのアラン=ソーンの見解を軽視していたが、エレクトス化石の修復中に、ジャワのエレクトスとオーストラリア先住民のアボリジニーとの形態的類似性という、ソーンの見解が正しいと確信し、ソーンに謝罪して共同研究を始めた。
 二人の研究成果は、1981年に明確な形で公表され、多地域進化説と呼ばれている。これは、原人段階でアフリカから世界各地に進出した人類が、世界各地で派生形質を獲得し、その特徴を維持しつつ、旧人段階を経て新人へと進化したというものである。ソーンの考えを基盤としつつ、人類単一種説の否定されていない点(文化を人類進化の主因とすることなど)を継承して確立された説といえる。後に、中国の呉新智も多地域進化説の陣営に加わり、多地域進化説は地域的な広がりをみせたが、ヴァイデンライヒ説の焼き直しといった側面が多分にあるように思われる。

多地域進化説は、地域ごとの継続性を重視し、原人段階で世界各地に拡散した人類が同一種に進化したとするので、平行進化を認めることになるのではないか、との疑問が呈されている。これにたいする多地域進化説からの回答は、各地域間で一定以上の混血(遺伝子交換)があったため、別種に分化せず、同一種としてのまとまりを維持し続けた、というものである。しかし、ほとんどの集団遺伝学者は多地域進化説に否定的で、100万年以上にわたって広大な地域の人類を一つの種に維持しておくだけの遺伝子交換を想定するのは無理だ、と主張した。
 苦しくなったウォルポフは、1990年代半ば以降、ホモ=サピエンスは180万年前から存在しており、エレクトスと現代人との相違は時間的な差でしかなく、エレクトスが登場して以降、同時代のホモ属の間の相違は種内変異にすぎない、と主張するようになった。平行進化との批判をかわし、何とか多地域進化説を生き残らせようとするための苦肉の策なのだろうが、ほとんど支持されてない。
 アフリカの初期エレクトスと現代人とが同一種であるというのは、とても受け入れられそうにない見解であるが、サピエンスとユーラシア各地の先住人類との混血を認めるとすると、ホモ属単一種説が妥当だともいえる。種区分の難しさを逆手にとった見解だともいえるが、現時点では、私も判断がつかず、とりあえず今回は、暫定的に別種としておく。

各地域ごとの連続性を重視する多地域進化説では、欧州におけるネアンデルターレンシスからサピエンスへの進化が主張された。しかし近年では、数的に圧倒的に優勢なサピエンス集団が外部から欧州に流入してきたことにより、ネアンデルターレンシスは混血という形でサピエンスに吸収されて消滅した、というように見解が変わった。次に、多地域進化説にこのような変容を強いた経緯について述べていく。
 1980年代に、多地域進化説とともに、サピエンスの起源を説明する説として有力になったのが、サピエンスのアフリカ単一起源説で、クリストファー=ストリンガーが代表的論者である。これは、サピエンスの起源について述べたさいに説明したが、再度説明すると、サピエンスの唯一の起源地はアフリカであり、アフリカで誕生したサピエンスが、10万年前以降に世界各地に拡散した、というものである。ユーラシア各地の先住人類とサピエンスとの混血については様々な考えがあり、近年では、分子遺伝学の成果から否定的な見解が優勢だが、肯定的な見解は、広義のアフリカ単一起源説の中でも、
アフリカ交配代替モデル説と呼ばれ、サピエンスの起源について述べたさいに説明した。
 このアフリカ単一起源説を支持し、多地域進化説にとって大打撃を与えたのが、分子遺伝学の諸研究であり、その嚆矢となったのが、1987年に公表された、レベッカ=キャンとマーク=ストーキングとアラン=ウィルソンによるミトコンドリアDNAの研究だった。現代人のミトコンドリアDNAを調べると、現代人最後の共通母系祖先(ミトコンドリア=イヴ)は、28〜14万年前頃にアフリカにいたと推測される、との内容は衝撃的で、世間一般のアフリカ単一起源説への注目が一気に高まることになった。
 現代人にとって最後の共通母系祖先が、28〜14万年前頃にアフリカにいたというのは、100万年前頃より、アフリカとユーラシア全体で、混血をしつつも、各地域ごとに独自に人類集団が進化してきた、とする多地域進化説にとっては、たいへん都合が悪いものだった。多地域進化説にとって、ミトコンドリア=イヴという概念自体は認められるものだったが、その年代は、100万年以上前であることが望ましかったのである。
 キャンらの論文は、試料選択とソフトの使用法の問題で基本的には否定されたが、その結論自体は、その後のほとんどすべてのミトコンドリアDNAの研究で、大枠では支持された。さらに、Y染色体の研究では、現代人の最後の共通父系祖先が6万年前頃と推定され、多地域進化説はいっそう苦しくなった。

この間、1997年にはネアンデルターレンシスのミトコンドリアDNAの分析が公表され、現代人とネアンデルターレンシスとの違いが大きく、種レベルの違いかどうかはともかく、少なくとも両者が遺伝子レベルで異なる集団であることが確実となった。その後、更新世の欧州のサピエンスのミトコンドリアDNAも分析され、現代欧州系の人類と同一集団であることが確認された。これにより、ネアンデルターレンシスが欧州でサピエンスに進化したとの説は否定され、またしても遺伝学の分野でアフリカ単一起源説が支持される結果となり、上述したように、多地域進化説論者も、流入してきたサピエンスにネアンデルターレンシスが吸収され消滅した、と見解を変えた。
 今年(2006年)になると、10万年前頃のネアンデルターレンシスのミトコンドリアDNAの抽出に成功した、との報告があり、4万年前頃のネアンデルターレンシスの核DNAの抽出に成功した、との報告もあった。これらはまだ予備的な分析の段階だが、ミトコンドリアDNAの分析からは、じゅうらい考えられていたよりも、ネアンデルターレンシスの遺伝的多様性が大きい可能性が指摘されている。もっとも、4万年前頃を限度としていたじゅうらいの分析よりも、対象期間がずっと長くなっているのだから、これは当然とも言えよう。
 核DNAの分析からは、Y染色体でも、現代人とネアンデルターレンシスとの間の遺伝的違いが大きい可能性が指摘されているが、これも予想されたことではある。ここで注目したいのは、分子遺伝学の分野からもわずかながら、現代人の核内DNAの研究により、ネアンデルターレンシスなどのユーラシアの先住人類と、アフリカ起源のサピエンスとの混血の可能性を指摘する見解があることで、ネアンデルターレンシスの核内DNAとの比較により、ネアンデルターレンシスとサピエンスとの混血の有無については、ある程度見通しが立つかもしれない。2008年の完了をめどに、ネアンデルターレンシスのゲノム解読が始まっているので、その成果に期待したいところである。

多地域進化説が劣勢となり、ネアンデルターレンシスがサピエンスの祖先ではないと考えられるようになった契機として、以上のような分子遺伝学の諸研究が挙げられることが多いのだが、考古学や形質人類学の成果も重要な役割を果たした。
 ネアンデルターレンシスは、アフリカから欧州に進出したハイデルベルゲンシスより進化したと思われるが、進化は連続的なので、どの時点に境界を定めるのか、判断が難しい。40〜20万年前頃の欧州には、ハイデルベルゲンシスからネアンデルターレンシスへの移行途中と考えられる人骨が、英国のスウォンズクーム、ドイツのシュタインハイム、スペインのアタプエルカなどから出土しており、下部旧石器〜中部旧石器文化への移行期である25〜20万年前頃に、ネアンデルターレンシスが登場したとするのが、現時点では妥当だろうと思われる。
 この後、寒冷な欧州において、さらに特殊化を強めたネアンデルターレンシスは、8〜7万年前頃には、いわゆる古典的ネアンデルタール人が登場する。ネアンデルターレンシスは、時代が下るにつれて特殊化していったのであり、形態面でも、ネアンデルターレンシスからサピエンスへの進化は想定しにくい。

レヴァントでは、前述したように、ネアンデルターレンシス的な人骨・サピエンス的な人骨・中間的な人骨が出土し、さまざまな解釈が提示された。このうち、スフールとカフゼーの人骨群はサピエンス、アムッドとタブーンとケバラの人骨群はネアンデルターレンシスとされているが、じっさいには、区別のつきにくいものも少なくない。
 じゅうらい、スフールとカフゼーの人骨群は、サピエンスとされたことから、アムッドとタブーンとケバラよりも新しいとされていたのだが、1980年代後半〜1990年代半ばにかけて、アムッドが5万年前頃、ケバラが6万年前頃、タブーンが15万年以上前とされたのにたいして、スフールとカフゼーは10万年前頃とされるようになり、レヴァントでは、ネアンデルターレンシス→サピエンス→ネアンデルターレンシス→サピエンスの順で人類が出現した、と解釈されるようになった。またアフリカでも、年代の見直しにより、サピエンスが、10万年前頃か、それよりもさかのぼる段階で登場していた可能性がでてきた。
 これは、ネアンデルターレンシス→サピエンスという進化図式を提示していた当時の多地域進化説にとっては大打撃となり、レヴァントの古人類群は、どれも中部旧石器文化を有するのだから、変異幅の大きい一つの人類集団と考えるべきだ、とウォルポフらは反論したが、ほとんど支持は得られなかった。
 これらネアンデルターレンシスとサピエンスとの間に、文化面で基本的な違いはなかったとされるが、サピエンスのほうが頻繁に移動しており、ネアンデルターレンシスのほうが定住性は強かった、との研究もある。あるいは、サピエンスのほうが長距離移動に適していたのかもしれず、こうしたことが後に両者の運命を分けたのかもしれない。
 これらレヴァントの人骨群については、いぜんとして謎が多いが、あえて私見を述べると、20〜5万年前頃のレヴァントにおいて、アフリカから来た熱帯適応体型のサピエンスと、欧州から来た寒冷適応体型ネアンデルターレンシスとは、すでにはっきりと異なる集団に分岐していたと思われる。ただ、ともにハイデルベルゲンシスから進化したため、共通する特徴が少なからずあったことと、混血があったため、両者の中間的な形態の人骨もあるのではないか、と思われる。

ほぼ中部旧石器文化に属すネアンデルターレンシスの文化において、フランス西部とスペイン北東部において一時期栄えた、上部旧石器的なシャテルペロン文化は異例な存在である。石刃技法や装身具といった上部旧石器的な要素が認められるので、かつてはサピエンスの文化と考えられていたくらいで、現在でも、ネアンデルターレンシスがサピエンスの真似をしただけか、意味も分からずサピエンスの居住地から盗ってきただけだ、とさえ言われている。どうも、サピエンスのアフリカ単一起源説が優勢となってからというもの、ネアンデルターレンシスの能力を低くみようとする傾向が強いが、それは過小評価ではないかと思われる。
 欧州の上部旧石器文化は、オーリニャック文化から始まり、アフリカとは異なり、中部旧石器文化との間の境界を確認しやすいが、この文化の担い手と起源地は、まだ確定していない。しかし、この文化を欧州に持ち込んだのは、まず間違いなくサピエンスの文化だろうとされていて、起源地としては、西アジアのザグロス地域が候補にあげられている。ザグロス地域となると、オーリニャック文化の起源にネアンデルターレンシスの関与を想定したくなるが、このあたりの事情は現時点ではよく分からない。ネアンデルターレンシスの関与はともかくとして、おそらく、西アジアでオーリニャック文化を築いたサピエンス集団が、42000年前頃、東欧に進出したのだろう。そのほうが、異質な完成された文化をもって流入してきた外来集団という、可能性の高い想定とも合致する。
 そうすると、シャテルペロン文化とオーリニャック文化の年代が、ネアンデルターレンシスの象徴的思考能力の程度をうかがう重要な手がかりとなるのだが、現在、欧州の旧石器時代の遺跡の年代は、新C14法の開発により大規模な見直しが必要となっており、じゅうらい推定されていた年代よりも、繰り上がる傾向にある。
 したがって、現時点では判断の難しいところだが、オーリニャック文化とシャテルペロン文化の重なり合っている地層では、シャテルペロン文化のほうが必ず下にあり(つまり、古いということ)、シャテルペロン文化層で出土したオーリニャック文化のものと思われるいくつかの遺物は、それぞれ個別に後世のものが嵌入したということが判明した、との研究成果が、今年(2006年)ブリストル大学のジョアン=ジルハオンから公表された。
 また、シャテルペロン文化のペンダントの作製法は、オーリニャック文化のそれと異なるとの見解もあるので、シャテルペロン文化は、ネアンデルターレンシスが独自に開発した可能性が高いと思われる。そうすると、ネアンデルターレンシスにも、一定水準以上の象徴的思考能力が認められることになる。

それがサピエンスと比べてどうなのかとなると、ネアンデルターレンシスに象徴的思考能力を認める人でも、サピエンスよりは劣っただろう、と推測する人が多い。たしかに、サピエンスは現在大繁栄し、ネアンデルターレンシスは絶滅したから、ネアンデルターレンシスがサピエンスよりも本質的(遺伝的)に劣っていたと考えるほうが、絶滅理由を理解しやすい。
 サピエンスの居住した洞窟跡は、炉の配置など、現代人からみて合理的と思われるのにたいして、ネアンデルターレンシスの場合、そのような合理性が見出せない、との指摘がある。喉頭の位置から、ネアンデルターレンシスにはサピエンスのような複雑な言語がなかった、ともされている。上部旧石器的とされるシャテルペロン文化にしても、その実年代はともかくとして、後には中部旧石器文化に戻ってしまったではないか、とも指摘される。確かにこれらの指摘からは、潜在的な知的資質の面で、ネアンデルターレンシスがサピエンスよりも決定的に劣っていた可能性が高いことがうかがえる。
 しかし、喉頭の位置については、地中の化石にかかった圧力による変形を考慮すれば、サピエンスとあまり変わらないとの見解もある。シャテルペロン文化から中部旧石器文化に戻ったとのは確かだが、アフリカのサピエンスにおいても、「先進的」なハウイソンズ=プールト文化が消えて中期石器文化に戻った例がある。
 おそらく、上部旧石器的な文化に到達する前においては、アフリカよりも寒冷な欧州のほうが、文化・人口・平均寿命といった諸要素の蓄積が難しく、アフリカの中期石器時代のサピエンスの後期石器・上部旧石器的な文化が、一定水準までの蓄積がなかったために、全面的に開花せず散発的に終わったように、ネアンデルターレンシスの上部旧石器的な文化も、散発的に終わったのではないか、と思われる。炉の位置の評価についても、こうした文脈で解釈すべきではなかろうか。
 ネアンデルターレンシスもサピエンスも、すでにかなりの潜在的な知的資質を有していたハイデルベルゲンシスから進化したので、両者の間に、潜在的な知的資質の面で多少の違いはあったかもしれないが、本質的な違いはなかった可能性が高いと思われる。

ネアンデルターレンシスは、文化・人口・平均寿命などの、人類集団の発展にとって重要な諸要素の蓄積があまりない段階で、寒冷な欧州に適応して進化した人類集団であり、サピエンスが西アジア経由でアフリカから流入してきた時点で、重要な諸要素の蓄積度で劣っていたため、サピエンスと接触のなかった集団は、資源獲得競争で不利なためジリ貧になって絶滅し、サピエンスと接触をもった集団は、その一部が混血したが、数的にサピエンスのほうが優勢だったため、ネアンデルターレンシス由来の解剖学的特徴や、ミトコンドリアDNAやY染色体といった遺伝的指標は、わりと短期間で消滅したものと思われる。ネアンデルターレンシスがサピエンスに虐殺されたとの見解もあるが、そもそも両者の接触自体があまりなく、両者の闘争も、混血と同様に、きわめて限定的だったのではなかろうか。
 最後のネアンデルターレンシスの居住地として有力なのはスペイン南部で、今年になって公表された、ジブラルタルのゴルハム洞窟のネアンデルターレンシス遺跡は、24000年前頃とされたが、欧州の旧石器遺跡の大々的な年代の見直しがされている中なので、この数字をそのまま受け取ることは難しい。
 この遺跡からは近隣のサピエンスとの接触が認められず、末期のネアンデルターレンシスは、サピエンスとの接触もほとんどなく、ひっそりと滅亡したのではなかろうか。ネアンデルターレンシスの現代人への寄与は、文化的にはほとんどなく、遺伝的にはごく僅かだった(地域別にみると、サピエンスとネアンデルターレンシスとの中間的な人骨の多さからして、混血の頻度は、西アジアや東欧のほうが、西欧よりも高かったと思われる)、という可能性が高いように思う。

 

フロレシエンシスをめぐる議論
 1998年、インドネシアのフローレス島中部のソア盆地で、88〜80万年前頃の石器が発見されたとの報告が、『ネイチャー』誌に掲載された。フローレス島は、更新世の間にスンダランドと陸続きになったことはないので、渡海する必要がある。しかし、エレクトスに航海能力を認めねばならない可能性もあるだけに、多数の研究者はこの報告に否定的だった。
 しかし発掘チームは、さらなる発見を目指し、2003年、リアン=ブア洞窟で、骨盤・下顎骨・大腿骨・ほぼ完全な頭蓋の残る女性人骨(LB1号)の他にも複数の人骨が発見され、共伴したステゴドン・亀・魚といった動物の骨の中には、焼かれたものもあった。石器も発見されたが、その中には、石錐や石刃や尖頭器といった、高度なものも含まれていた。ちなみに、1998年に報告された、88〜80万年前頃の石器は、リアン=ブア洞窟の東方50kmで発見されたものである。
 この発見は2004年に『ネイチャー』誌に掲載され、古人類学界はもちろんのこと、12000年前までサピエンス以外の人類が存在していたということで、一般人にも衝撃をもたらした。その後、追加発見があり、『ネイチャー』誌にも追加報告があったが、この人骨群を、ホモ属の新種フロレシエンシスとする発見チームと、小頭症のサピエンスとする研究者たちとの間で激論が展開されており、現在(2006年10月)のところ、収束の見通しは立っていない。以下、この人骨群と遺物に関して判明していることと、論争の内容について触れつつ、この人骨群の解釈が、人類史においてどのような意味を持つのか、ということを述べていく。

LB1は、30歳くらいの女性で、身長106cm、脳容量420ccで、頤はなく、眼窩上隆起が認められる。リアン=ブア洞窟では少なくとも9個体分の人骨が発見されているが、他の人骨のうち、身長が推定できるものは、LB1と同じく身長100cmあまりで、LB1と同様に、頤のない人骨も存在する。したがって、LB1の特徴は、集団全体の特徴と考えられた。LB1の年代は18000年前頃だが、人骨群全体でみると、95000〜12000年前にかけて分布している。
 LB1は、脳頭蓋が低く、眼窩上隆起もあり、後ろから頭骨を見ると、エレクトスに似ている。また、頭蓋内鋳型をサピエンスやアフリカヌスやエレクトスと比較したところ、もっともよく似ていたのは、エレクトスであった。一方で、顔面が突出していないことや、側頭葉が大きいことなど、派生的特徴も認められたので、発見チームは、LB1を含むこの人骨群を、エレクトスから派生したホモ属の新種フロレシエンシスである、と主張し続けている。また、発見チームによると、既知の人類種で、フロレシエンシスにもっともよく似ているのは、グルジアの180〜
170万年前頃の、ハビリスともエレクトスとも言われる人類である。

ホモ属の新種フロレシエンシスとの認定にたいする批判としては、脳が小さいのでホモ属とはいえず、別の属に分類すべきだ、というものや、形態上はエレクトスと似ており、小頭症や栄養不良により小型化したエレクトスとすべきだ、というものがあるが、もっとも多い批判は、小頭症のサピエンスではないか、というものであり、現在(2006年10月)では、新種説よりも、むしろ小頭症のサピエンス説のほうに勢いがあるようにすら思われる。
 小頭症サピエンス説派は、新種認定派によるLB1と小頭症のサピエンスとの比較が一例しかないのを批判し、複数の小頭症の成人個体と比較している。その結果、LB1がエレクトスから進化したとすると、不自然なくらい脳が小さいこと、顔面の左右の非対称性、エレクトスには認められない高度な石器が使用されていたこと、小頭症の現代人の成人個体との類似性などから、LB1を含む集団は、ピグミーのような低身長のサピエンスであり、LB1は小頭症だった、と結論づけた。
 多数の専門家が参加し、複数の小頭症の成人個体との比較もなされているので、小頭症サピエンス説のほうが優勢になってきているように思われる。確かに、時代が下るにつれて脳容量が増大し、それと比例して知力が向上してきた、という相関性を大前提としてきた古人類学の常識からして、脳容量の数値も脳重比も、アウストラロピテクス=アファレンシスとほとんど変わらないような人類集団が、航海能力を有し、高度な石器を使用していた、とはとても想定できない。サピエンスの小型集団が進出し、頭蓋骨の残っているLB1は、小頭症の成人女性であると考えると、これまでの常識と合致する。

しかし、フローレス島の集団をサピエンスと考えると、新たな問題が生じる。まず、LB1は小頭症のサピエンスと似ているとはいっても、フローレス島の更新世の地層から、異論の余地のないサピエンス人骨は見つかっていない。次に、更新世のフローレス島には95000〜12000年前にかけて人類集団が存在したから、これをサピエンスとみると、東南アジアへのサピエンスの進出が10万年前頃までさかのぼることになり、これは大きな問題点にはならないが、サピエンスの世界拡散についての通説を見直す必要が出てくる。
 もっとも大きな問題は、100cmあまりという低身長・頤がないこと・サピエンスと比較して頑丈な骨格というLB1の特徴が、他の個体にも認められることで、LB1の特徴がほぼそのまま集団の特徴なのではないか、という疑問である。そうすると、LB1は小頭症のサピエンスとは言えなくなる。ミトコンドリアDNAの抽出も試みられ、もし成功していれば決定打となったかもしれないが、熱帯地域での出土だっただけに、どうも抽出は無理なようだ。そうすると、第二の頭蓋骨が発見されるまで、激論が続くことになりそうである。

このように、フロレシエンシスをどう位置づけるべきか、現時点では判断難しいところだが、LB1の特徴がほぼそのまま集団の特徴である可能性のほうが高そうなので、サピエンスとは異なり、エレクトスから派生した人類の新種とする、発見チームの判断のほうが妥当なのではないかと思う。おそらく、100万年前頃にフローレス島に上陸したエレクトスが、島嶼化により小型化し(上陸した時点である程度小型化していた可能性もあるが)、独自の進化を遂げたのだろう。そうすると、上述したように、人類史のさまざまな常識を書き換える必要が出てくる。
 まず、エレクトスが渡海しなければならないが、これまで、人類で航海能力を有していたのはサピエンスだけとされていて、これをどう解釈すべきか、たいへん難しい。フローレス島で長期にわたって生存したとなると、上陸した時点である程度の人数は必要だったろうから、偶然に津波にさらわれて漂着したという想定も難しいように思う。大胆に想像すれば、東南アジアのエレクトスの中には、素朴な船を作るなどして、すでに航海経験のある集団がいて、その中から、数十人程度の集団が海に出て、フローレス島に到達したのではなかろうか。数十人程度の小集団だったため、創始者効果により、特異な人類集団に進化していったのではないか、と思われる。
 2004〜2005年にかけては、ソア盆地で84万年前頃の石器が新たに発見され、以前に発見されていたものとあわせて、後のフロレシエンシスと共伴した高度な石器と、技術的に連続性が認められる、との報告が今年(2006年)あった。そうすると、フロレシエンシスは、サピエンスから石器技術を学んだり、石器そのものを入手したりしたのではなく、独自に石器技術を発展させていった可能性が高そうである。そうすると、ますます、脳の大型化=知力の発展という人類進化の図式への疑問が強くなる。おそらく、脳の大型化が知力の発展を促すことは珍しくないのだろうが、知力の発展には、脳の大型化はぜったいに必要というわけではなく、脳の構造の変化によっても可能なのだろう。
 フロレシエンシスとサピエンスが接触したかどうかは定かではないが、フロレシエンシスは少なくとも12000年前までは生存していたので、接触があったとしても不思議ではない。しかし、フロレシエンシスも、末期のネアンデルターレンシスと同じく、サピエンスとの接触はほとんどなかった可能性が高いのではなかろうか。フロレシエンシスは、フローレス島で孤立したまま細々と暮らし、12000年前のフローレス島での噴火により、絶滅したのだろう。
 とここまで述べてきたが、フロレシエンシスについては、やはりこれまでの常識からあまりにも外れていることが気になる。あるいは、84万年前頃の石器の解釈も含めて、発見チームの見解は大間違いなのではないか、との不安は拭えない。フロレシエンシスは、それだけ異端の人類集団である可能性を秘めており、ゆえに、現在激論が展開されているのである。人類史第3版を執筆するときには、フロレシエンシスの項は全面的に書き換えねばならないかもしれず、不安ではあるが、ともかく、今後の研究の進展を見守っていきたい。

 

結びとリンク集と系統図
 以上、だらだらと述べてきたが、些細なことを詳しく書き、大事なことを書き漏らしているような気がするものの、とりあえず、現時点での自分の考えはおおむね述べられたと思う。とはいえ、家族形態を含む人類の組織形態、石器文化、南・東南・東アジアでの人類集団の活動、言語の使用といった諸々の事象の変遷については、私の勉強不足もあり、まったく、あるいはほとんど述べられなかったので、これは第3版執筆のさいの課題となる。
 人類史の転機としては、誕生時を除くと、上部旧石器・後期石器時代の開始、つまり真のサピエンス(最近流行の表現を用いると、行動学的現代人)の登場が、最大の転機とされているが、私は、完全な直立二足歩行をするエレクトスの登場(200万年前頃)、脳が大型化したハイデルベルゲンシスの登場(60〜50万年前頃)が、人類史の二大転機だったと考えている。今回は、その考えに沿って執筆したが、両者の重要性を人類史の中にうまく位置づけられなかったのは否めない。はたして、両者を二大転機とみなしてよいのかという問題も含めて、次回の課題である。
 また、種区分の問題については、全体的に整合性のとれた区分が必要だと強調しながら、曖昧なままにしてしまった。もっとも、これは大問題なので、私にはとても解決できそうにないことも否定できない。とりあえず今回は、ホモ属については、エレクトス、ハイデルベルゲンシス、ネアンデルターレンシス、フロレシエンシス、サピエンスの5種が存在し、ハビリスやルドルフェンシスはアウストラロピテクス属だ、ということにしておくが、これはあくまで暫定的な措置で、第3版の執筆までには、もう少しはっきりとしたことが述べられるよう、勉強しておきたい。とくにエレクトスは、かなりの変異幅が認められるので、単一の集団とするのではなく、いくつかに分割したほうがよさそうに思われる。

こうした問題も、人類進化の複雑さが根本的な要因となっており、猿人→原人→旧人→新人という、おなじみの一直線の進化図式は、もはや破綻したと言うべきだろう。多様な人類集団が、とくにホモ属の登場以降、広範な地域に進出し、ときには撤退しつつも、多様な進化を遂げ、各地には、同時代に複数の異なる人類集団が存在した場合が多く、それらの相互関係は、混血や闘争や交易や接触なしといった、さまざまな可能性が想定され、全体像を把握して的確な人類史像を提示するのは、至難の業である。
 ゆえに、この人類史第2版も、とても的確な人類史像を提示できたとは言えず、近いうちに大幅な改訂が必要になりそうだが、それでも、現時点での私の考えを精一杯述べたものである。誰かに読んでもらうというよりも、むしろ自分の考えの整理のために執筆したところがあるが、お読みいただき、ご批判・ご教示いただければ幸いである。

かなり長くなってしまったが、これでも省略したつもりで、ブログや歴史雑文では、個々の問題について、もう少し詳しく述べているので、関連しそうなページを以下にリンクしておく。また、人類の進化系統図と、地域別の進化図もリンクしておく。
今回の元になった人類史第1版
歴史雑文(1)〜(20)
歴史雑文(88)海底に沈んだ歴史?
歴史雑文(90)ネアンデルタール人とクロマニヨン人
歴史雑文(96)出アフリカ説の再検討
歴史雑文(97)最古の人類化石発見?
歴史雑文(101)人類史系統樹の見直し
歴史雑文(107)オモ人骨の新たな年代測定
ブログの古人類学関連の記事(随時更新)
人類の進化系統図
地域別の進化図

 

 

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