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「ああもうっあのヘビメガネ野郎め!すんごいむかつくだわ!!!」

 更衣室の屋根で影ができた野外プールサイドで、カエルは足を投げ出した。
 ばしゃん、と派手な水しぶきがあがり、ビート板を左右の足にくくりつけて泳いでいた即席アメンボが波に攫われおぼれた。
 足をばたばたと動かして、さらに数回波を起こした。
 アメンボは水中に潜って波を避けて、プールサイド近くまでやってきた。 

「……なんつーか。それって、お前が全面的に悪いじゃん」
「ああっそうだろうともさ!私だって思ったわさ。でも謝ろうとしたんだよ?謝らせてくれたっていいじゃないのさ!」

 ばしゃーんと再び大きな水しぶきが上がり、またも直撃したアメンボが顔をしかめる。

「これ見よがしに壊れたメガネかけ直すしさ。ああ弁償しますとも!どうせ私がわるうございますよだ!」

 鼻息を荒くしたカエルが、ぷーと顔を膨らませる。
 ゴーグルをおでこの上に置いて、アメンボがその様子を見上げた。

「そういえば今日はお前、泳がねえの?」
 カエルが制服姿なのに気付いて、アメンボが聞いた。
 憤りをほぼ無視されたので、不機嫌な不細工顔になって答えた。
「カエル、昨日から女の子なもんで」

 さようで。と肩をすくめたアメンボは深く呼吸するやいなやプールの壁を蹴って、すーっと水中を伸びて行った。
 遠のいていく背中に、カエルは一つため息をついた。

 プールの水面でキラキラしている太陽はすっかり、夏だった。
 長い冬を耐えて過ごして、やっと訪れた待望の日だった。
 腹の底から次から次へとイライラが噴き出して来ても、だからしょうがないのだ。
 カエルが泳げないなんて、とても理不尽なことなのだ。

 ぴしっ。

 と、左頬に冷たい感触が来た。
 たった今、隣のレーンから出てきた部員のプールのおつりだった。
「あ、ごめん。飛んだ?」
 いえ、大丈夫です。と答えようとして、ゴーグルと水泳帽を取ったその人を見て、カエルは硬直した。

「あ、カオルちゃんだ。今日はさぼり?」
「はいっ。そのあれでしてっ」

 大声で報告するカエルに、そう、と生真面目な返事をする。

「明美先輩はもう今日は上がりですか?」
「うん。あんま調子でないもんでさ」

 なんて言いながら先輩は、カエルの隣のプールサイドに腰掛けてきた。一瞬、嬉しすぎて死にそうになる。
 まだ先輩の身体にまとわりついているプールのおつりが、ひんやりとして気持ちがよかった。

 明美先輩は、水泳部の1コ上の先輩で、3年生だ。
 この、屋内プールもない平平凡凡な中学校にいるのに、自由形で全国大会にも出てしまっているすごい人だ。
 でも全然体育会系って感じの暑苦しい雰囲気はなくて、なんというか、おそろしくキュートな人だ。
 隣に並んで見るとよーく分かる。どうしてこの人はこの種目でこんなに色が白くいられるんだか……

「もしかしてカオルちゃん、なんか元気ない?」
「はい?」

 突然、真顔で覗き込むように聞かれて、どぎまぎする心臓を押さえ込むのが大変だった。
 それでも、会話を成立させるべく言葉を探さなくてはならない。

「元気なさそうに見えますか?あれのせいかな……」
「うーん、ていうか。なんかこのへんが?」
 と、明美先輩の手が伸びてきて、髪を一房、指でつまみ上げられた。

 視界のすみのほう。がむしゃらなクロールで、25メートルプールを折り返して泳いでくる奴が見えた。
 あれだ。アメンボだ。あいつは明美先輩のファンなのだ。
(たぶん、私の次くらいに)

 カエルは、耳まで真っ赤にして、しばらく先輩の手のされるがままになっていた。
 髪の毛の乱れを直し終えると、よし、と明美先輩は満足したように笑った。

「じゃあね、カオルちゃん、また明日ね」
 と、立ち上がって行こうとした後ろ姿に、先輩さようなら!とアメンボの声が滑り込んだ。
 明美先輩は後ろ手でバイバイをして、更衣室に消えて行った。

 ばしゃーん、と派手な音をたてたと思ったら、アメンボの死骸が水面にぷかぷかと浮いていた。
 ばてたーと舌を空に伸ばして言う。

(ああやっぱりプール、入りたいな)

 無償にそう思う。
 なんで私は女の子なんだろう。
 元気なだけが取り柄だって自覚があるのに、ないねと言われてしまった。大ショックだ。
 これは出直さねば。
 と、カエルは勢いよく立ち上がった。もう帰ろうと思っていた。

「お前知ってるか?明美先輩、彼氏いるんだぞ」

 思わず行きかけた足を引き戻す。
 目だけこちらに向けてるアメンボが、真剣な顔をしているのに気付いた。

「…………どこに」
「この学校に」
「どんな奴、……じゃなかった、どんな人?」

 アメンボは浮いたまま、少し考えるふうにした。

「ちょー、頭がいいって聞いたけど」
「うわむかつく」

 つい出た本音に、アメンボがけらけらと笑う。
 むかついたでの、浮いていた腹を蹴った。ぐうっとかなんか言って、水の底へと沈んでいく。
 その様子を眺めながら、カエルは深く深くため息をついた。

「ああもう……」

 そもそもはあれだ。
 こう嫌なことが重なると、おなかだけじゃなくて頭まで痛くなってきて、最低だ。
 だから理不尽なこと全部、あのヘビメガネ野郎に押し付けてやることにした。
 今日の不幸のもとをたどれば、あれからなのだ。生贄にしてしまえっと。

 テストのときなんかは全然役立たずのくせして、
 こういうときに限って、カエルの勘は冴えたりするのだ。

 

 

 

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