私の主張  平成十七年三月二十五日更新 (これまでの分は最下段)    「契冲」のホ-ムペ-ジに戻る

申申閣代表  市川 浩

 

朱鷺、信天翁、歴史的假名遣

 

國際自然保護聯合(IUCN)が一九八六年(昭和六十一年)以來發行してゐる謂はゆるレッドリストでは絶滅の虞のある野生生物種を絶滅種、野性絶滅種、近絶滅種、絶滅危惧種、危急種の五段階に分けて掲載してゐる。

 

日本の朱鷺は平成十一年中國から二羽の贈呈を受けて、蕃殖復活に向けての努力が續けられてゐて、平成十六年現在五十八羽の栖息といふ。しかし日本生れの最後の一羽「きん」が平成十五年に死亡し、ニッポニアニッポンといふ學名を持つこの鳥が野性絶滅種となつたことは、同じく國號を冠する日本狼が明治三十七年(一九〇五年)吉野の鷲家口での捕獲を最後に絶滅したことともに、日本人として慙愧に堪へないものがある。

 

一方信天翁は嘗て伊豆諸島鳥島に大量に栖息してゐたが、羽毛目當ての濫獲が續き、昭和二十四年には絶滅したと信ぜられたがその後、鳥島や尖閣諸島南小島に十數羽の信天翁の栖息が確認され、保護活動の結果平成十六年現在一六五〇羽まで個體數が恢復してゐるといふ。

 

これらの例に限らず多樣な生物種を絶滅から救ふ取組は全世界で繰り廣げられてゐるが、それにも拘らず地球上では今や恐ろしい速さで生物種の絶滅が進行してゐる。上記レッドリストには動物種だけで七一八〇種が絶滅の虞が高いとして掲載されてゐる。特に栖息個體數が一定限度を割込むと、絶滅への進行は加速こそすれ、止めることは至難である。しかもその限度を越える前であれば費用效果も高い有效な保護手段も可能であるにも拘らず、限度を越えるまではなかなか對策が實施されないといふ惡循環に陷つてゐる。

 

かうした絶滅問題は單に自然界ばかりではない。世界的にも小規模な文化や言語の消滅が進んでをり、日本でも特に戰後、傳統的な文化の多くの側面が失はれ、また消滅しつつある。その代表的なものの一つに歴史的假名遣がある。

昭和二十一年の「現代かなづかい」制定後干支一運した今日、表面的には「この假名遣は、科學、技術、藝術その他の各種專門分野や個々人の表記にまで及ぼさうとするものではない」(昭和六十一年内閣告示)とされつつも、歴史的假名遣はほんの一握りの人達によつて實踐されてゐるに過ぎない。即ち「個體數」が危機的水準にまで減少してゐるのである。しかもこの人達の内、歴史的假名遣で育つた人は七十歳以上と高齡化し、それ以外は研究的立場、あるいは主義としての思想的立場から特別に歴史的假名遣を修得した人達である。前者に屬する人が死亡により消滅すれば、現代假名遣の完全制霸が確立し、しかし一方行政當局は歴史的假名遣研究の自由は保障するのだと胸を張るが、これは「野性絶滅」を意味してゐるのである。

 

野性絶滅状態が問題なのは、實際の生態系との相互關係が失はれるからである。朱鷺の個體數が殖えたとしても、それが朱鷺保護センター内のことである限り、佐渡島の自然生態系には何の關りも無い。同樣に歴史的假名遣が如何に今後更に學問的な發展を遂げようとも、專門研究者の間のみに止る限り、生きた日本語への影響は全く生じない。これは現代の國語が完全に前代の言語から絶縁するだけでなく、語の成立ちの原則の變革をも意味してゐる。

 

しかし一方で、朱鷺が居なくなつても佐渡の自然の生態系が滅びたわけではなし、朱鷺が保護センターで殖えてゐればそれでよいではないかといふ主張も根強い。同樣に古典を焚書するわけではなし、今更奈良平安の時代に戻れない以上、現代の國語が當時のそれと繋がりがあらうと無からうと、意志の疏通が出來ればそれで良いではないか、といふ論も一種の説得力を持つてゐることも事實である。

 

かうした考へ方の根柢にある近代文明そのものがしかし、その基本理念を今問はれてゐるのではなからうか。人間の權利とその平等なる受益に最高の價値を與へる近代文明の基本理念は慥かに科學技術の巨大な進展や民主的な政治をもたらし人類の幸福に大きく寄與した。その一方で「人命は地球より重い」といふ標語に象徴される「人權思想」はその表裏一體をなすものとして「自然の征服」と更には自然發生的な傳統的社會制度や文化の「革命」に殆ど絶對的な保證を與へてきた。これらの教義は近年「有限の地球」、「種の多樣性」と云つた概念の滲透によりやうやく見直され始めたのである。

 

明治期の我が國が、近代科學技術の吸收を急ぐの餘り、その基本理念をもほとんど無批判に受入れたことは今となつては一面悔まれる所ではあるが、儼然たる歴史的事實である。今日でもしばしば「保守」と「改革」の二分法が行はれ、後者が常に正義とされるのはその殘滓でさへある。現代假名遣や當用漢字などどう見ても不合理な表記が半世紀も續いて來たのは、自然發生的に先人の工夫になる表記即ち正字・正假名を内閣告示といふ「人爲的」手段によつて「變革」したのだから、近代文明の基本理念に照らして正義であるとの潛在意識が普く滲透してゐるからに他ならない。

 

近代科學の最大の特質はその普遍性にある。物理學の基本法則は世界中、いや宇宙空間のどこでも成立する。しかしこれを敷衍して文化にも普遍性を主張したことが混亂と爭ひの根源となつたことを忘れてはならない。戰前普遍性を持たぬ日本文化が我が國の後進性の原因と考へる人が多く、その反動として日本文化の絶對優位性を唱へる動きが、先の大戰に利用されたし、最近は「グローバルスタンダード」といつた概念が一時世界を席捲した。

 

交通や通信手段の發達で、文化の多樣性が人々に認識され、日本文化も獨自性を保持しつつ、世界に發信が可能であると理解されるやうになつて、さて振返つて見ると、社會的には、「家」は解體され、「家業」や「終身雇傭」の經營も姿を消し、意識的には人々の行動規範が「道義」から「法律」に緩み、徳性や獻身が「生命(いのち)」や「金(かね)」より尊いとは餘り考へられなくなつた。本來の「日本的」なものが失はれて行く中での正字・正假名人口の絶滅的減少なのである。事態は危機的と言はざるを得ない。百歩讓つて、「歴史的假名遣が亡ぶのも歴史である」を認めるとしても、それは滅亡を防ぐための渾身の、そして最善の努力の後でなければならない。

 

最善の努力とは何か。少なくともその一つは「個體數」の恢復である。日本の總人口一億人の五パーセント、即ち五百萬人が取敢へずの目標でなければならない。問題はその修得法である。正假名の修得法としては福田恆存著「私の國語教室」に止めを刺すであらう。實際に新字・新かなで育つた後に同書を讀んで正假名を修得し實踐するに至つた人も多い。同書が更に博く讀まれて正假名人口が殖えることを願ふものであるが、ただこれは義務教育を卒へた成人が對象であり、類書と同じく、理論的な理解も或程度必要となる。

 

即ち成人して「頭」で修得するのはなかなか難しい。しかし漢字や假名遣を幼少期に學ぶのは「體」で修得するから簡單である。漢字に就いては石井式漢字教育による長年の經驗が積まれてゐて、むしろ幼稚園から漢字を學ばせるのが效果的であると證明されてゐる。一日も早く公教育での實施が望まれる。假名遣に就いてはこれまで幼兒に正假名を教へるなど、徒らに學習負擔を増やすといつた先入觀から、全く檢討も研究もされてゐないが、假名遣にも石井式に準じた工夫が可能であると思はれる。正字・正假名で育てば、新字・新かなは難なく讀めるから實際に困ることはない。何よりも古典への足がかりを得る恩惠が大きい。

 

これに就いて興味ある事例としてモンゴルの取組みがある。モンゴルはソ聯に併合され長くキリル文字の使用を強制されてきたが、ソ聯崩潰と共に獨立して、文字もモンゴル文字(別名ジンギスカン文字)を國字と定めた。しかし長年キリル文字に馴染んだ國民はモンゴル文字を不便として、次第にキリル文字が復活し、街の標識もキリル文字が半數を占めるに至つてゐる。しかし話はこれで終らない。小學生は全員モンゴル文字で學習してをり、モンゴル文字を修得した年代層が着實に殖えてゐるとのことである。

 

我が國でも幼少年を正字・正假名で育てれば、「個體數」は着實に恢復する。その「體」で覺える教授法が確立すれば、學習指導要領の問題もあらうが、必ずや實踐する學校が出てき、その生徒の優れた能力が世間で認められるであらう。假名遣の石井方式を待望する所以である。

(平成十七年三月二十五日)

 

市 川   

昭和六年生れ

平成五年 有限會社申申閣設立。

正假名遣對應日本語IME「契冲」を開發。

國語問題協議會常任理事、文語の苑幹事、契冲研究會理事。

 

これまでの私の主張(ホームページ掲載分)日附降順

 

「契冲」の獨白――字音假名遣を考へる――(「月曜評論」平成十六年四月號掲載)

パソコン歴史的假名遣で甦れ!言靈 (『致知』平成十六年三月號(通卷三四四號))

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