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 昭和歌謡史
 
 
 【第U章】
山形なまりの「東京行進曲」

昭和4年に作られた歌「東京行進曲」は、わが国の映画主題歌第1号。それまでも「船頭小唄」や「籠の鳥」など巷で流行した歌が映画になったのもあったが、最初から映画の主題歌として作られたのはこの歌が初めてである。
当時、雑誌「キング」に連載された菊池寛原作の小説を日活が映画化。これに先立ってその頃「かなりや」の歌が流行で、すでに名を知られていた詩人、西条八十に主題歌作詩の白羽の矢が立てられた。八十はヨーロッパから帰ったばかり、留守の間に震災で焼けてしまった銀座の柳を惜しみ、まず、「昔恋しい……」と書いた。
この歌を吹き込んだソプラノ歌手、佐藤千夜子は山形県生まれ。東北訛りのとうきょうのうたになってしまったが、レコードは当時としては驚異的な25万枚の売り上げを記録した。「東京行進曲」が発売…というので、この題名から勇壮な軍艦マーチ的なもの、と早合点したセールスマンが、それらしく吹聴し宣伝、やがて届いたてすと盤を客に披露したら、いきなりなまめかしい女性の歌が流れだし、目をシロクロさせたという。

あわや退学処分の藤山一郎

昭和6年、ストライキや疑獄、東北は凶作、失業者350万人という不景気に、満州事変が勃発、この重っ苦しい世界のシンボルのように、流行したのが「酒は涙か溜息か」 だった。この歌もともとは北海道で新聞記者をしていた高橋掬太郎がコロムビアに民謡の2行詩として投稿していたもの。たまたまデビューしたばかりの作曲家古賀政男が会社で投稿作品を見ているうちに目にとめて作曲、「藤山一郎」の歌でレコーディングした。この歌はギターをはじめて流行歌の伴奏に取り入れた点で記録すべき作品だが、また歌った藤山一郎がマイクロホンをうまく使いこなしたクルーナー唱法(囁くように歌う)で吹き込む草分けとなった。
藤山一郎がこの歌を吹き込んだのは、ちょうど東京上野の音楽学校(現・芸大)在学中。いまでは想像もつかないことだが、当時、官立の学校には厳しい校則がありアルバイト厳禁もそのひとつだった。本名、増永丈夫の彼は生活が苦しいこともあって、藤山一郎の変名を使って吹込みをした。 
歌が流行しなければ無事だったものが、これが大ヒットしたため、こんな美声は他にいるはずがないとアルバイトが発覚、主事室で油をしぼられたがそこは向っ気の強い江戸っ子。「先生方は自宅でお弟子をとったり、作曲活動をして、収入を得ているじゃありませんか」生徒が学費稼ぎの内職をするのをとが目立てするのはちょっと片手落ちではありませんか…」とやり返し、あわや退学処分…というところへ外遊先から帰国した乗杉嘉寿校長が、増永生徒の才能を惜しみ、1ヶ月の停学処分で許されたという。もっともこの藤山一郎、この処分中、またまた別のペンネーム井上静雄の名で「鳩笛を吹く女の唄」という歌を吹き込んで発売。しかしこの方はさっぱり売れなかったので、この芸名は知らずの済んだのは皮肉ことだった。

作家の専属制度のはじまり

昭和3年から4年にかけて、レコード会社から作り出された「波浮の港」や「君恋し」そして「東京行進曲」などが会社も予期しなかったほどヒットしたため流行歌がレコードによって流行することを知ったレコード会社は、それまで歌手だけを専属にしていたものを、詩人と作曲家までも抱え込んだ。
この専属制度をまず始めたのは日本ビクターで、当時の大衆歌謡の作家の第一人者たち、作曲の中山晋平や佐佐紅華、詩人の時雨音羽、西条八十などが最初の専属作家となった。これより先、「東京行進曲」を作った西条八十は、まだ専属作家でなかったから、歌った佐藤千夜子が二千円あまりの印税を受けたのに、八十は三十円の作詞料をもらっただけだった、という。

東京音頭で日本中が踊る

「東京音頭」ができた昭和8年、大陸ではすでに血なまぐさい硝煙を上げ始めていたが、国内ではまだまだ平和だった。この歌で東京ばかりか、日本中の老若男女が踊りまくった。実はこの歌、前年、つまり昭和7年に東京日比谷の松本楼、花の茶屋、更科といった老保の旦那衆が話し合い、日比谷公園で踊れるような歌をこしらえてみよう ……となり、プライベート盤で「ハアー踊り踊るなら丸うなって踊れ、踊りぁ心も踊りゃ心も丸の内……」という「丸の内音頭」を作り、その夏の日比谷公園で披露したところ、珍しさも手伝って、盆野どり大会は大当たり。この好評にビクターでは市民全部が踊れるように、と改作を注文して出来上がったのがこの「東京音頭」だった。
交通整理をしていたお巡りさんの手の動きが、櫓から響く太鼓に合わせて踊りの振りになってしまったとか(当時は交通信号機はなく、街の主な四つ辻の中央では、巡査が交通整理をしていた)踊りの輪がひろがり過ぎて市内電車をストップさせてしまったとか、朝礼前の校庭で、小学生が踊りだし、先生が止めても止めなかったとか、とにかく「東京音頭」は全国を風靡し、後には「台湾音頭」から「満州音頭」ついには「アメリカ音頭」まで登場したという。

重役作曲家が生まれる

昭和10年に作られディック・ミネ、星玲子のコンビでヒットした「二人は若い」は日活映画多摩川作品「のぞかれた花嫁」の主題歌。コロムビア専属だった作曲家、古賀政男が前年誕生したばかりの帝国蓄音機株式会社(テイチクレコード)に専務取締役として迎えられ、重役作曲家としての第1号作品だった。とにかく全国の歌謡ファンに受けて「あなァたと呼べば…の歌声は、街々にはんらんした。小学校で朝、先生が児童の名を呼ぶと「なあーんだい…と節をつけて答えるので、先生が頭をかかえたという話が残っている。

女学校の先生が「忘れちゃいやよ」

二・二六事件の テンヤ、ワンヤノの騒ぎのさ中に、緊迫した空気とはまったく裏腹の歌が生まれしかもヒットして問題になった。「忘れちゃいやよ」だった。とりわけ変わった歌詞ではなかったが、「ねぇ、忘れちゃいやよ」の1節を「ネェ」と甘え、鼻歌で「いやァーンよ」と歌ったのがすこぶる実感がこもっていた。
当時、検閲した内務省も、まさかこんな流行すまい、と許可したものの、さて猛烈な流行ぶりに、びっくり仰天、しあかもこの流行を追って「思い出してちょうだいよ」とか「かわいがってネ」「私のあなたよ」など、次々にお売り出され、歌い方も一段と官能的になったため、元祖の「忘れちゃいやよ」を筆頭に「あたかも娼婦の嬌態を眼前に見るがごとき……云々」という理由で一刀両断、発売禁止……。

「暁に祈る」は愛馬の歌

昭和12年に流行した「露営の歌」は毎日新聞社が軍国歌謡を懸賞募集した祭第2位に選ばれた作品。第1位になった「進軍の歌」は戸山軍楽隊が勇壮なメロディーをつけ、レコードもA面に吹き込んで売り出したが、この方はさっぱり売れず、B面に入れた「露営の歌」の悲壮感ただよう哀調を帯びたメロディーが大衆に受けて日華事変中に生まれた軍国歌謡の中で、最も広く歌われたものとなった。
昭和15年に流行した「暁に祈る」は福島県出身の作詞家、野村俊夫の詩に、同県出身の古関裕而が作曲したものだが、この歌は陸軍省から依頼されたもの。征戦愛馬譜、つまり戦地へ出てゆく物言わぬ勇士、といわれた軍馬のための歌。詩がなかなかまとまらず、3度目の会合の時、野村俊夫が「あーあ」と溜息をついたのを見て、「それ、それ、それを頭に書きなさいよ…」と古関裕而が助け舟を出し、ようやく歌にまとめた、という落とし噺のようなエピソードが残っている。

テイチクの黄金時代

コロムビア専属だった古賀政男がテイチクレコードへ重役として迎えられたのは病気療養後の昭和9年のことだった。翌十年からの作曲活動はまことに目覚ましく、最初の仕事の「白い椿の唄」(楠繁夫)につづき、「ふたりは若い」(ディックミネ・星玲子)「緑の地平線」(楠繁夫)「東京ラプソディー」(藤山一郎)「ああそれなのに」(美ち奴)「うちの女房にゃ髭がある」(美ち奴・杉狂児)「男の純情」(藤山一郎)「人生の並木道」(ディックミネ)「人生劇場」(楠繁夫)…と、退社する13年までテイチクの黄金時代を築いた。
昭和12年に作曲した「青い背広で」も藤山一郎の歌で、若いファンを魅了したが、 この歌を作詞した佐藤惣之助は神奈川県川崎生まれ。大正末期、新感覚派運動の最先端を行って注目された詩人。昭和に入ってからフリーの流行歌作詞家として活躍した。酒を愛し、奇行が多く、レコード会社へも着流し、下駄ばきで通ったりした。酒を愛しながら歌詞をまとめるので、おかしな箇所も多い。「青い背広で」などそのサンプル。ひとみが赤い椿でぬれる、のもおかしいが、「駅で別れて一人になって、…ならば淋しくなるはずだが、「あとは僕らの…」といきなり複数になり「自由な天地…」と楽しくなる。まことにマカ不思議な言葉の配列だが、そんなことにはおかまいなしに、レコードは大いに売れたのだから流行歌の世界は面白い。

”社会派歌謡”のはしり

奥多摩湖というと、いまでは東京都民の ルクリエーションの地になっているが、ここはもと小河内村。昭和13年6月、補償調印式を終え、東京の水源、小河内貯水池建設が決まり、六百所帯3千人が離村した。石川達三の小説、「日陰の村」にも詳しく書かれたが、ムシロ旗をたてての陳情も空しく、当時この村周辺は哀愁に包まれていた。「湖底の故郷」は昭和12年に発表され、”社会歌謡”のハシリと云われた。
ダム建設は戦争のため一時中止されたが、戦後再びはじめられて昭和32年11月に完成、小河内村は完全に湖底に沈んだ。作詞した島田磬也は「裏町人生」(上原敏)「白虎隊」(藤山一郎)「波止場気質」(上原敏)などを作っているが、この時は「新聞記事で湖底に沈む小河内村を知り、住み慣れた故郷に別れを告げる人々に思いを馳せて一夜暗黙としながらこの歌をまとめた…」といっている。この歌は東海林太郎の歌で深く静かに流行。昭和41年には湖畔にこの歌の歌碑が建てられた。作曲は福島県出身の鈴木武雄。

歌で知られた天神様

東京、本郷、菅原道真公を祀った湯島天神は、梅の名所として知られているが、何よりのここを有名にしたのは、昭和17年に小畑実の歌でヒットした「湯島の白梅」に負うところがすこぶる大きい。新派のあたり狂言「婦系図」の原作、泉鏡花の小説が発表されたのが明治40年のこと。「月は晴れても心は闇だ」の名セリフで芝居ファンはお馴染みだが、これほど広くは世間に知られていなかった小畑実はこの歌がデビュー作でこの時19歳。
この当時の新人は先輩歌手と組み合わせられるのが多かったが、小畑の相手になったのが藤原亮子。二人はマイクロフォンを挟んで向かい合って歌を吹き込むという仕組みだったが、小畑はひどくあがってしまって、NGの続出。作詞をした佐伯孝夫が「相手の顔が見えるからだろ……」と助け舟を出し、お互いが見えないように並ばせて、ようやく吹き込みを終えたという。

 
 
 

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