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 昭和歌謡史
 
 【第T章】

25歳で逝った天才作曲家

 学制が制定されたのは明治5年。12年(1879)になって文部省にはじめて音楽取調掛(現東京芸大の前進)が設けられ、やがて明治14年には最初の唱歌集が生れた。明治34年(1901)になると、東京音楽学校から、中学生を対象とした「中学唱歌」が発行された。この中に若くして世を去った天才作曲家、滝廉太郎の名曲「荒城の月」が含まれていた。滝廉太郎は明治12年、東京芝に生れ、当時4年までだった小学校を終えると、父の故郷の大分県の高等学校を卒業。再び上京して、東京音楽学校に入学した。ときに16歳。在学研究生の頃「荒城の月」などを作曲、「中学唱歌」の募集に応募し、3曲が入賞した。賞金は15円、月刊雑誌が1冊20銭から25銭の時代。下宿代も食事つき1ヶ月4円50銭だったから思いがけぬ大金だった。
 彼は九州にいる母親、そして妹や従兄の娘、友人達にまで贈り物やご馳走をして、喜びをわかちあったという。音楽学校を卒業後、同校助教授となり、明治34年には、ドイツに学んだ。しかし、留学中、オペラ見学に出かけてひいた風邪がもとで、胸を患い、勉学なかばで帰国、九州で療養を続けたが病状は悪化し、同年2月に作曲した「憾」(うらみ)を最後に36年6月25歳の若さで世を去った。

ベテラン作曲家・涙を呑む

 わが国はじめて鉄道の走ったのが明治5年(1872)。この頃の鉄道はすこぶる官僚的で。「何人ニ限ラズ、鉄道ノ列車ニテ旅行セント欲スル者ハ、先ズ賃金ヲ払イ、手形(乗車券のこと)ヲ受取ルべシ」といったうるさい規則が何ヵ条か。従業員も華族や士族から選ぶ見識高さ。だから駅員は大いばりで、乗車券を売るにも「どこまで行くのか」「品川までお願いします」「よろしい」といったあんばい。
 しかし、当時の市民の驚きは想像以上で、「東京開化繁盛誌」によれば「汽車の速さたる、小1時間に18里、それ横浜のごとき、僅か7里余といえども、この車に乗りて往復すれば、僅か53分費やすのみ、痔持ちの厠(かわや)を出ずるより速やかなり…」と形容している。鉄道の歌は、数多く生れたが何と言っても全国に風靡したのは明治33年に発表された「鉄道唱歌」だった。作詞した大和田建樹は、高等師範教授などをした国文学者、作曲はすでに名を成していた上真行(うえのさねつら)と、新進の多梅稚(おおのうめわか)の競作。結局、後者の作曲がひとびとに歌われ、ベテランが涙をのんだ、というエピソードが残っている。東海道篇に引き続き山陽九州篇、東北方面篇、北陸地方篇、関西各線篇など次々に作られ、いずれも延々数十番に及ぶ歌詞である。

小学校の教材になった「宮さん宮さん

 ご一新”と呼ばれた明治維新は近代日本の歌の夜明けでもあった。それまでの俗曲、俚謡、義太夫、琵琶などに代表されていた日本音楽が、西洋音楽(12音階)の移入で大きく変貌していった。その第一号ともいわれる歌が「宮さん宮さん」(トンヤレ節)だった。
明治元年(1868)2月、王政復古の勢いに乗じた朝廷は、京都から江戸へ東征の軍を送り出した。この東征軍のうち、東海道を進軍する兵士の士気を鼓舞する為に参謀の1人、長州藩出身の品川彌二郎(のちに内務大臣、枢密顧問官となる)が橋本八郎の変名で作詞したのがこの歌、作曲はおなじみの長州藩の人で、日本陸軍の創始者として知られる大村益次郎といわれるが、また、京都祇園の勤皇芸者、君尾の作曲という説もある。
 江戸は東京となり、徳川の恩顧をうけた武士の大半は職を失った。家臣家族は生国に引きあげ、八百八町は一時、火の消えたような淋しさ、番所は非人小屋になってしまったという。”お江戸見たけりゃ、いま見ておきゃれ、いまにゃお江戸が原になる”などと歌われた。しかし、この「宮さん宮さん」はその恩顧をうけた江戸町民にも、ひろく歌われたというから、いかに流行したかがわかる。その後全国に流行したことから、わが国流行歌の第一号ともいわれ、明治25年3月発行の「小学校唱歌」壱にも一部改定して採録され、小学校の教材にもなった。

西南戦争で作られた歌

 明治10年(1877)1月に起きた西南戦争(西南の役)はこの年の秋、西郷軍の西郷隆盛(51歳)桐野利秋(40才)らが、城山で自刃し集結した。この戦いで、官軍の出征兵6万8百31人のうち、死傷者1万5千8百1人。消費した弾薬は、大砲7万3千700発余、小銃3千4百89万3千500発余、征討諸経費、4千百56万7千百26万円に達し、一方、西郷軍は4万余人のうち、死傷者2万余人。半年あまりの激戦だった。
このとき官軍の中に、警視隊と称する東京の巡査(といっても、中身は元会津藩主など、東北の士族から急募したもの)で編成した隊があり、さらにこの中から選ばれた精鋭100名がつねに白刃をふるって大功を立てた。これが「抜刀隊」だった。この戦功をたたえて、ミシガン大学卒業生の外山正一が作詩し、陸軍の軍楽教師ルルーが作曲、明治19年に出来たのが「抜刀隊」の歌。この歌詞では、敵将である西郷隆盛を英雄とたたえているところが面白い。
 明治39年、陸軍省はこのうたのメロディーと、同じルルー作曲の「扶桑歌」を会わせて、分列行進曲を制定。正式な観兵式行進曲として、太平洋戦争の終戦まで演奏、いまでも陸上自衛隊中央音楽隊のレパートリーのひとつに入っているという。

吹き込みはレコード1ダース

 明治」の御代が幕を閉じて、「大正」に入ると間もなく、いままでにない新しい旋律の流行歌が生まれ、ひとびとの唇にのぼった。「カチューシャの唄」である。劇作家、島村抱月主宰の芸術座が、帝国劇場で上演したトルストイ原作「復活」の劇中歌として作られ、女優、松井須磨子が舞台で歌った。
 この歌ははじめ、演歌師によってひろめられ、この流行に目をつけたオリエント・レコードは早速レコーディングして発売したところ、たちまち、その頃としては驚異的な2万枚を売上げ、倒産寸前だったこの会社が立ち直った。レコード会社のディレクターが、松井須磨子におそるおそる謝礼を相談したら、「レコード1ダースちょうだい…」としか要求しなかったという。当時の女優は金銭にはまったく淡白だったのである。作曲者中山晋平は、島村抱月の書生をしたいたが、この歌以後、一躍作曲界の寵児となり、その後昭和年代にかけて、数々の流行歌曲を生んだ

明るい歌が哀愁のメロディーに

 明治10年(1877)1月に起きた西南戦争(西南の役)はこの年の秋、西郷軍の西郷隆盛(51歳)、桐野利秋(40才)らが、城山で自刃し集結した。この戦いで、官軍の出征兵6万8百31人のうち、死傷者1万5千8百1人。消費した弾薬は、大砲7万3千700発余、小銃3千4百89万3千500発余、征討諸経費、4千百56万7千百26万円に達し、一方、西郷軍は4万余人のうち、死傷者2万余人。半年あまりの激戦だった。
このとき官軍の中に、警視隊と称する東京の巡査(といっても、中身は元会津藩主など、東北の士族から急募したもの)で編成した隊があり、さらにこの中から選ばれた精鋭100名がつねに白刃をふるって大功を立てた。これが「抜刀隊」だった。この戦功をたたえて、ミシガン大学卒業生の外山正一が作詩し、陸軍の軍楽教師ルルーが作曲、明治19年に出来たのが「抜刀隊」の歌。この歌詞では、敵将である西郷隆盛を英雄とたたえているところが面白い。
 明治39年、陸軍省はこのうたのメロディーと、同じルルー作曲の「扶桑歌」を会わせて、分列行進曲を制定。正式な観兵式行進曲として、太平洋戦争の終戦まで演奏、いまでも陸上自衛隊中央音楽隊のレパートリーのひとつに入っているという。