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 昭和歌謡史
 
 
 第W章
 
歌まで「家出」を追いかける 

どういうわけか、昭和31年という年は家出ラッシュの年だった。この年2月に東京警視庁発表の「家出人 白書」によると、昭和27年に8.800人だった家出人の保護数が、28年には9.600人、30年には12.000人そして31年は特に傾向が強く「家出人警察」の別称まである上野警察署を例にとると、30年1月の128人に比べ31年1月は260人という具合。食糧事情が良くなり、そのうえ好景気、「東京へ行けば何とかなる…」が大きな理由と言われたが、歌は世につれ…ということか、この年歌われた歌は「東京だよおっ母さん」に始まり、二橋美智也の「東京見物」フランク永井の「東京午前3時」コロムビア・ローズの「東京のバスガール」東京へ恋人が行っちゃったと嘆く藤島桓夫の「お月さん今晩は」などがヒットした上に、その東京に見切りをつけた三橋美智也の「おさらば東京」なで出るという念のいりようだった。

いやいや歌って大ヒット

歌手も、歌いたい唄と歌いたくない唄がある。ディレクターから「この歌を歌うように」と言われても、歌いたくない唄だといい顔をしないこともある。しかしそういう歌によって大ヒットが生まれたこともあるのだから、世の中中々面白いこともある。昭和33年、「有楽町で逢いましょう」の歌で一躍スターダムにのし上がってしまったフランク・永井も本当はジャズ歌手で、歌謡曲など自分には縁が無いと思っていたクチだった。いやいや、しぶしぶ歌ったらこれが大ヒット、低音ブームの先駆け…などと持ち上げられたのだから皮肉だった。
昭和34年にキングレコードからペギー葉山の歌で発売され、全国を風靡した「南国土佐を後にして」もこれと同じケースだった。前年、NHK高知支局のテレビ開局記念の公開番組で、妻城良夫ディレクターが「高知で歌い継がれている歌だから」と出演したペギー葉山に歌わせたのがこの唄。
ペギーももともとはジャズ歌手。「ケ・セラ・セラ」とか「タミー」とか歌っていたから、民謡をアンコにした歌謡曲にはマユをひそめたもの。「そこを何とか…」とNHKの大看板を背負って口説いたディレクターに根負けして歌ったらこれが大反響。その後は何処へ行っても「南国土佐…」のリクエスト。やがては遂にこの歌の功労で高知名誉県民に選ばれ、それでは…と一大決心して民謡をマスター。いまでは何処へ行っても必ずその土地の民謡が歌える、というから立派なものである。

猛暑で「歌声喫茶」はやる

昭和36年は歌声喫茶から歌われ出した歌のブームの年だった。これをレコード会社が見逃すはずはない。ビクターからは「北上夜曲」や北帰行」コロムビアからは「惜別の歌」と「山のロザリア」キングやテイチクからもそれぞれの歌手で発売され、そのいずれもが結構売り上げをのばした。
この中の「惜別の唄」」は島崎藤村の処女詩集「若菜集」(明治30年、1897年刊)に収められている長詩「高楼」の中から3節だけを取り上げたもの。1番の歌詞、3行目の原詩は(わがあねよ)だった。しかし作曲者は作曲した時期が戦時中だったので、無断で(わが友よ)と替えてしまっていた。やがて、ひろく歌われたため改作したことを捨てておくわけにはゆかず、藤村の遺子、島崎蓊助に会い、改作の追認を受けた、という。

世にも不思議なヒット誕生

ヒット歌謡曲を作り出すキャリアも才能もあるはずのレコード7会社が、さて、どんな歌がヒットするのか,というとさっぱり分からないのが本当のようである。その良い例のひとつに、昭和42年12月に発売されて、大変流行した「帰ってきたヨッパライ」がある。この歌は関西の「フォーク・クルセーダーズ」という学生のフォーク・グループが、自作自演、カセットテープに吹き込んで上京、東京のレコード会社を持ち歩いたが、どの会社でも「こんなものは…」と首を傾げられ断られたもの。
たまたま地元のラジオ関西が深夜放送で取り上げたところ、大きな反響を呼び、これに飛びついた東芝レコードが発売したところ、レコードのプレスが間に合わないほどのミリオンセラーとなった。
もう一つは昭和47年に大ヒットした、「女のみち」この歌、本職は漫才のぴんからトリオが漫才ではさっぱり売れず、三年前に舞台用に作っておいたこの歌を、コンビ結成14年の記念PRとして300枚を自費制作し、関係者に配ったっもの。レコード会社には見向きもされなかったが、これに目を付けたプロダクションによって、全国発売され、実に100万枚を超すミリオンセラーになってしまった。もっともこのコンビ、万歳時代は一日のギャラが300円。
この歌のヒットで1日100万円の声を聞くようになりあげくは巨額の印税がもとで仲間割れしてしまつた。

歌もそのまま「女の意地」

レコードの流行歌にはA面とB面がある。どちらからいうとA面が本命でB面は添え物の場合が多い。しかしレコード会社が宣伝に力を入れたA面より、いつの間にかB面の歌のほうが売れてしまい、流行するということがよくある。 昭和45年頃から広く歌われた「女の意地」は5年前の40年末に「赤坂の世は更けて」のB面に西田佐知子で吹き込まれたもの。当時はさして話題にはならなかったが、西田佐知子が折あるごとに好んでこの歌を歌い続け、ついにヒットにつないだ。西田佐知子は大阪出身。のど自慢で優勝し、はじめ本名の佐智子でマーキュリーレコードに入社したが不発。
33年にコロムビアへ移り、浪花けい子の名で売り出したがこれもパッとせず、34年創設したばかりのポリドールへ移籍、佐知子と名乗り35年に「アカシヤの雨がやむとき」の大ヒットをとばした。浪花娘の意地っ張り。「女の意地」を貫き通した、と言っていい。

ヒット曲の短命時代来る

昭和46年頃から歌謡曲は「短命ヒット曲交代期」などと言われるようになった。歌われる寿命が短くなり、歌手の回転も速くなった。この年から47年にかけて、小柳ルミ子、天地真理、南沙織などの女性歌手が現れるとつづいて17才の麻丘めぐみが「芽生え」で13歳の森昌子が「せんせい」で、16才の野口五郎が「青いリンゴ」で、17歳の郷ひろみが「男の子女の子」でと十代歌手の登場…。
昭和48年に入ると十代歌手の台頭はますます数をまし、「小さな恋の物語」のアグネス・チャン、「赤い風船」の浅田美代子、「個人授業」のフィンガー5、年末には「あなた」の小坂明子が、というぐあい。翌49年には「ひと夏の経験」で山口百恵が、「花占い」で桜田淳子が、それぞれ若いファンを魅了、歌手は歌うばかりでなく、フィンガーアクションなど、激しい動きや手指の動作で演出にも気を配ららなければならない時代に入った。
もっともこうした中には、昭和40年頃コロムビアから松山まさるの名でデビューしたがさっおぱり売れず、続いてポリドールで一条英一を名乗った後、45年にミノルフォンに入社、「三谷謙」の名で歌ったが芽が出ず、テレビの歌謡選手権番組に登場して優勝、ようやく五木ひろしの名で「よこはま・たそがれ」がヒット、スターダムにのし上がる、という大器晩成もいるが、こんな例は珍しい。一年に七百曲もの歌が作り出され、四百人もの新人が送り出されるこの世界、果たしてこの先、だれが寿命長く生き残れるか、こればかりは予測は難しい。

有線放送がヒットを作る

レコード、ラジオ、テレビといった流行歌の伝播方法に、新しく有線放送が加わった。有線放送は昭和23年春、東京銀座にはじめて登場した。しかしこの頃はまだ、街角放送形式で、道行く人に話しかける程度だった。
昭和31年ごろになって、札幌市内に音楽喫茶やバーなどに送り込む形式をとるシステムが生まれ、それが東京、大阪など大都市にも送り込まれ、たちまち普及、昭和40年代に入ると、全国の有線放送会社は、200社を超え、加入店は7万軒を超した。
この「有線放送」が生んだヒット流行歌の代表のひとつ。「シャボン玉のようなあたしの涙…」といった「失恋してもメソメソしていない」という内容に牛尾ディレクターが目をつけ、作曲家の中川博之が手直しし、原題の「涙の東京」を「ラブユー東京」としてまとめ上げたもの。
吹き込んだ「黒沢明とロス・プリモス」は当時まだ無名。だから最初のプレスは500枚。これをマネージャーが有線放送会社をマメに歩き、このレコードを朝から晩まで流してもらった。42年の秋になって人気ようやく爆発、池袋のある有線放送会社では、5ヵ月間連続ベストワンの新記録。かくてロス・プリモスはスターの座へ。
この有線放送で大ヒットした歌に「星影のワルツ」があるが、その後は各レコード会社とも、有線放送へ新曲売り込みに殺到。結局、今では相打ちのかたち…。

 
 
 

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