**奈良・四国・九州の遺跡を巡る旅B 2009.11**
奈良 四国 豊前 肥後 筑豊

九州遺跡探訪ーB-A 肥後・筑紫
藤尾支石墓群、熊本県立装飾古墳館、岩原古墳群、江田船山古墳
岩戸山歴史博物館、岩戸山古墳、石人山古墳公園、祗園山古墳、高良大社 
(熊本県・福岡県)

ヤマト王権古代国家から律令国家への脱却の道筋で、蝦夷・隼人(熊襲)の乱が奈良・平安時代に起こっている。これらは、朝廷の「化外の民」としての扱いを不服とする地方の民との争いである。養老4年(720)に隼人の乱が起こっている。

九州でのヤマト朝廷に対する別の争いは、筑紫君磐井の乱と藤原広嗣の乱がある。筑紫君磐井の乱は、継体21年(527)に対外(新羅)関係のもつれを因とする筑紫政権とヤマト政権の争いである。藤原広嗣の乱は、天平12年(740)に起こった大和朝廷内での争い(僧玄坊と吉備真備に対する大宰少弐・藤原広嗣の私怨が因)である。

継体期には、まだ大王(中央)は地方首長を完全に掌握していなくて、磐井の君は九州全土に強い支配力を持っていた。この乱を契機に急速にヤマト王権による中央集権化が進むようになる。乱後に物部氏の九州進出が進んだことも注目される。

ここでは、磐井氏の本拠(八女市)を中心に、この時期に多く築造された装飾古墳の展開を一つのテーマとして覗いてみる。駆け足の旅なので、何処で何が見れるかのメモに過ぎない。

ヤマト王権古代国家から律令国家への脱却の道筋で、蝦夷・隼人(熊襲)の乱が奈良・平安時代に起こっている。これらは、朝廷の「化外の民」としての扱いを不服とする地方の民との争いである。養老4年(720)に隼人の乱が起こっている。

九州でのヤマト朝廷に対する別の争いは、筑紫君磐井の乱と藤原広嗣の乱がある。筑紫君磐井の乱は、継体21年(527)に対外(新羅)関係のもつれを因とする筑紫政権とヤマト政権の争いである。藤原広嗣の乱は、天平12年(740)に起こった大和朝廷内での争い(僧玄坊と吉備真備に対する大宰少弐・藤原広嗣の私怨が因)である。

継体期には、まだ大王(中央)は地方首長を完全に掌握していなくて、磐井の君は九州全土に強い支配力を持っていた。この乱を契機に急速にヤマト王権による中央集権化が進むようになる。乱後に物部氏の九州進出が進んだことも注目される。

ここでは、磐井氏の本拠(八女市)を中心に、この時期に多く築造された装飾古墳の展開を一つのテーマとして覗いてみる。駆け足の旅なので、何処で何が見れるかのメモに過ぎない。

阿蘇山と藤尾支石墓群
阿蘇(中岳)火口 →

約9万年前に現在のカルデラ一帯から大噴火し(aso4)、火砕流は九州中央部を覆った。雲仙普賢岳の100万倍の規模だったとされている。大量の火山灰は、関東・東北地方にも届き、日本全土の地層を形造り、考古学年代の標識ともなっている。

現在はカルデラ内の群小火山の一つ・中岳が活発な火山活動を行なっている。

日本誕生の火の山を見て、外輪山を西に越え、弥生時代の開始を告げる支石墓群に立ち寄り、九州の旅の後半を開始した。

藤尾支石群を最上流として菊池川流域、有明海に臨んだ天草地方などに支石墓は分布している。

今は長閑な、外輪山に囲まれたカルデラ
藤尾支石墓群は阿蘇外輪山西麓にある。入口の小さな石標識
狭い道で林を抜け、養豚所直前に史蹟がある。 熊本県教育委員会の説明板によると、昭和32年に支石墓10基、積石4基、甕棺2基の発掘調査がされ、弥生中期後半の朝鮮半島と関わりのある墓と考えられている。 大切に保存されている

菊池川流域の古代文化

菊池川は菊池市・山鹿市・玉名市を経て島原湾に至る。熊本県では、菊池川流域の山鹿市、鹿央町、菊水町の史蹟を整備し、平成7年、全国で13番目の”風土記の丘”として「肥後古代の森」を開設した。平成4年には、「肥後古代の森」の中核施設として、「熊本県立装飾古墳館」が開設している。

今回の旅では、菊池川に合流する合志川最上流の藤尾支石墓群、鹿央町の装飾古墳館周辺と菊水町の江田船山古墳を見ただけだが、この地域には興味深い遺跡が多く、山鹿市の方保田(かとうだ)東原遺跡(弥生末〜古墳初め)、鹿本町の津袋大塚古墳群(4世紀後半)、常時公開のチブサン装飾古墳などは特に興味深い。またの機会には是非訪れたい。

 熊本県立装飾古墳館 熊本県山鹿市鹿央町岩原3085番地
本館1階では、菊池川流域を中心とした熊本県下の原始〜中世遺跡と遺物の展示・解説がある。本館地階は装飾古墳室で、県内の12の石室レプリカと出土品を展示している。石室のレプリカは、@鍋田横穴墓群27号室A鴨篭古墳石棺B井寺古墳C小田良古墳D千金甲1号墳Eチブサン古墳F大坊古墳G大鼠蔵東麓1号墳H広瀬古墳石材I弁慶が穴古墳J永安寺東古墳K大村横穴墓11号墓で、飯塚市の王塚古墳のレプリカも展示している。
熊本県立装飾古墳館のホームページでチブサン古墳レプリカなどのパノラマムービーを見ることができる。常設展示図録「黄泉の国の彩り」(平成21年3月)は写真も美しく、装飾古墳の不思議な魅力をよく伝えている。
安藤忠雄設計の装飾古墳館 前方後円墳をイメージしたとか 地下装飾古墳室の展示場で、出土品の向側に小さな入口を介して石室レプリカが群展示されている。(写真禁止)
菊池川流域の石棺(舟形、箱式、家型など)が中庭に展示されてる 廊下にある絵としての装飾壁画
 岩原古墳群 国指定史跡
双子塚古墳の周囲に、左から下原古墳、塚原古墳、馬不向古墳、二つ並んで馬不向2号・3号、塞原古墳(家型石棺)。左上の馬蹄形は狐塚古墳(横穴式石室)、右下の茶色四辺形が装飾古墳館。殆どが復元したもの。 装飾古墳館の展望台より岩原古墳群を見る。いずれも5世紀代の築造で、その時代の風景を再現している。
岩原古墳(双子塚古墳) 
5世紀中頃の築造。3段構成の前方後円墳で、墳丘長107m、後円部径57m・高9m、前方部幅約50m。葺石あり。周濠があり、それを含めると、全長は126mとなり、熊本県下最大級の古墳。主体部は未調査であるが、舟形石棺と推定されている。
横山古墳 
九州自動車道建設にともない、鹿本郡植木町大字有和泉字横山から移築した石屋形石室をもち、装飾がほどこされている。
6世紀後半築造の前方後円墳で、墳長39.5m、後円部径29m・高5m。出土品は装飾古墳館に展示されている。

 江田船山古墳 熊本県玉名郡和泉町

菊水の古代の森は、移築した民家などからなる民族村もあり、「万世の都」と呼ばれている。総合案内図を見ると歴史民族資料館もある。有名な銀象眼太刀は東京国立博物館に保管されているが、この地の縄文時代からの情報や江田船山古墳出土品の一部がある。菊池川流域の古代の三大拠点(山鹿、鹿央、菊水)には資料館が完備されている。

江田船山古墳の銀象嵌太刀は古くから知られていたが、1978年に埼玉県・稲荷山古墳の鉄剣に115文字の金象嵌が見つけられことで、一層の注目を浴びた。埼玉稲荷山古墳の銘の発見により、その銘に見られる「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王=雄略天皇)」と同じく、菊水・江田船山古墳の75文字の銀象嵌銘の冒頭部分が「治天下獲□□□鹵大王」と読み直され、反正天皇とされていた大王が雄略天皇であることが判明した。これにより、菊水のムリテは「典曹人(文官)」として、埼玉のオワケは「杖刀人首(武官)」として、同じく雄略天皇に仕えていたことになる。雄略天皇(419−479)の在位後半は、中国内政が混乱状態になったことにより、それまでの中国大陸との交流を断ち、朝鮮半島との対外関係も逼迫する時期である。ヤマト王権でも内政・外政が混乱し、5代後の継体天皇(450?−531)までその混乱は続く。継体期の527年に「磐井の乱」が起こっている。

江田船山古墳は、5−6世紀初頭の前方後円墳。全長62m、後円部径40m・高10m、前方部幅40mで、造出し部がある。盾形の周溝をもつ。古墳の周囲に武装石人が配置されていた。明治6年(1873)に発掘され、銀象嵌太刀を含む刀剣類23口、銅鏡6面を含め副葬品は多い。殆どは東京国立博物館で保管されている。後円部に組合式家型石棺が設置されている。墳丘は削平され、整備し直されている。  国指定史跡
銀象嵌太刀(東京国立博物館) 峰の部分に75文字の銀象嵌、柄に天馬の銀象嵌がある
東京国立博物館の江田船山古墳出土品コーナー(常設展示) 金銅製冠帽もある
江田船山古墳 前方部正面左隅から 前方部正面右隅から
北西側にある造出し部(祭祀用) 造りし部から後円部と石室部分
石室は鉄扉で遮断されているが、開けて見ることが出来て、照明まで点けられるよう配慮されている。ガラスが汗をかいていて見え難かったが、家型石棺は充分に確認できて嬉しかった。ここに銀象嵌太刀などが副葬されていた。 江田船山古墳後円部後方(北側)より
 虚空蔵塚古墳 国指定史跡
清原古墳群の一つで、江田船山古墳に並んでいる。昭和50年の調査で前方後円墳であることが判明した。墳長44m、後円部径38m、高さ5.8mで、前方部の高さは不明。内部は未調査だが、墳丘に円筒埴輪・人物埴輪が立てられていたことは確認されている。

八女古墳群
広川と天部川に挟まれた八女丘陵は、筑紫君の幾世代にわたる墓域で、東西10数kmにおよび、西側から石人山古墳、神無田古墳、岩戸山古墳、乗場古墳など著名な前方後円墳が併在している。さらに東側には、金製垂飾付耳飾や多数の埴輪を出土した立山山8・13号墳、巨石古墳として有名な童男山(どうなんざん)古墳などがあり、総数150〜300基の大古墳群を形成している。塚ノ谷などの須恵器窯跡群や立山山埴輪窯跡群もあり、筑紫勢力の大きさを感じる。ここでは、岩戸山歴史博物館で、八女丘陵の弥生〜古墳時代を学ぶとともに、歴代の磐井の墓とされる岩戸山古墳と石人山古墳を訪ねる。
 岩戸山歴史博物館 福岡県八女市吉田1396−1 
 開館前で掃除中の朝一番に訪ねたが、快く開館してくれ、八女丘陵の古墳配置図や筑後国風土記の抜粋、新聞・雑誌の記事など質問に応じて資料が頂けた
「筑紫君磐井の乱」とは、日本書記継体天皇21年(527)の記事によると、大和王権が新羅から奪われた任那の地を奪還するため、近江毛野臣に6万の兵を率いて渡海させることになったが、新羅はひそかに筑紫君磐井に賄賂を送って毛野臣の渡海を妨げることを勧めた。そこで、磐井は肥・豊(肥前・肥後と豊前・豊後)の二国をもあわせた勢力をもって、朝鮮半島からの貢船を略奪し、朝廷に立ち向かったので、物部大連麁鹿火(あらかい)を遣わして討伐させたという。同22年11月に御井郡(現、久留米市三井郡)で激戦が行なわれ、磐井は敗れて斬られた。同12月に磐井の子の葛子(くすこ)は、糟屋の地(現、粕屋郡)を屯倉として献上して父の罪に連座することを免れたという。「筑後国風土記」逸文には、磐井は豊前国上膳県(現、豊前市附近)に逃れたとする別伝と、生前に築造した自分の墓(岩戸山古墳)と、そこに飾られた石人・石馬などのことが記されている。(岩戸山古墳の説明板ー八女市教育委員会、1989 より)
相当荒っぽい戦いだったらしく、博物館で見るように石人・石馬は、たたき斬りつぶされたという。この乱以後、物部氏の九州進出が目立つようになる。
この博物館は来なければ見れない特色あるもの (写真撮影もOK)
正面に大きな靫形石製品と埴輪と石馬(飾馬
石造彫刻として彫刻しやすい阿蘇溶結凝灰岩を用いている
古墳時代の八女地方が乗場古墳などの出土品とともに解説されている
岩戸山古墳出土品 岩戸山古墳出土の石像品
「靫(ゆぎ)を負う石人」 「裸形の石人」と「刀を帯び靫(ゆぎ)を負う石人」
 
「石馬」                「石盾」 なんとも面白い「首飾りをした石人」」

 岩戸山古墳 福岡県八女市大字吉田字甚三谷   国指定史跡
墳丘長約135m、後円部径約60m・高約18m、前方部幅約92m・高約17mの前方後円墳。主軸を東西にとる。周濠、周堤があり、全長約170mになる。墳丘は二段で、内部主体は未発掘のため不明である。古墳の東北隅には周堤に続く一辺約43mの方形の区画(別区)がある。日本書紀継体天皇21年(527)の記事にある筑紫君磐井の墳墓とされる。古墳の墳丘・周堤・別区から阿蘇凝灰岩で作られた多量の石製品が埴輪とともに出土している。人物(武装石人・裸体石人など)や動物(馬・鶏・水鳥・猪(または犬)、器材(靫・盾・刀・坩・蓋・翳等)があり、円筒埴輪などとともに古墳に立てられていた。石製品は埴(土)を石製に代え、さらに実物大を基本としたところに特徴がある。(八女市教育委員会、1989 説明板より)

6世紀前半の築造とされる。筑紫君磐井の墳墓とすると、壮麗な装飾のある石室を期待する向きもある        
吉田大神宮の石段下から後円部を周回すると、広い別区に出る

   別区から見る後円部

筑紫国風土記によると、「東北の角に當りて一つの別区あり。なづけて街頭といふ。街頭は政所なり。其の中に一の石人あり、縦容に地に立てり。なづけて解部といふ。前に一人あり、裸形にして地に伏せり。なづけて偸人といふ。・・・側に石猪四頭あり。贓物となづく。・・・・・官軍、追ひまぎて蹤を失ひき。士、怒やまず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕しき。・・・」などとあり、裁判の場であり、戦争の場となった所である。
別区東側に並べられた「風土記」にある石馬・石人像 前方部左端から墳丘上へ
前方部から後円部に道がついている 後円部墳頂には、大神宮舊跡地とある

 石人山古墳公園(こふんピア広川) 福岡県八女郡広川町大字一条1436−2 
岩戸山古墳の西方2.5kmに位置する。
広川町古墳公園資料館からすぐに石人山古墳があり、少し離れて装飾古墳の弘化谷古墳がある。 広川町古墳公園資料館 が公園入口にある。
弘化谷古墳の石室のレプリカの他に、縄文・弥生時代の広川町周辺を見ることができる 甕棺や、伝世鏡の四山鏡(縄文時代晩期の春秋時代の鏡)、連弧文鏡(弥生時代、後漢時代)なども展示されていた

 石人山古墳 福岡県八女郡広川町大字一條字人形原   国指定史跡
墳長約107m、後円部径約53m・高約12m、前方部幅約63m・高11mの前方後円墳で、5世紀前半の築造である。岩戸山古墳に葬られた筑紫君磐井と同じく、何代か前の磐井の一族の墓所と見られる。前方部二段、後円部三段の構成で、北側くびれ部に造出しを持つ。葺石があり、墳丘の周囲に幅約1.2mの周濠を楯型にとりまく。前方部と後円部の境に背後の石室入口を守るように、巨大な武装石人像が立つ。江戸時代には筑紫君磐井の墓とされたが、昭和31年に森貞次郎により、岩戸山古墳に別区のあることをはじめ、詳細な検討の結果、岩戸山古墳を筑紫君磐井の寿陵と結論した
石人山古墳の概略図 墳丘へは右側の前方部正面から登る 広川町古墳公園資料館の南側に石人山古墳の墳丘
(左側が後円部で右側が前方部)が見える
墳丘に沿って前方部正面に向う 墳丘上の前方部から後円部への道 
正面に武装石人像を納めた祠が見える
 
武装石人像 (左)正面 顔などは退化 (右)側面
朱が残っている部分もあり、全体が朱に塗装されていたと見られる
後円部には「竪穴系横口式石室」を保護するドームがある
石室内の「妻入り横口式家形石棺」がある。4枚の板石を組み合わせ、その上に刳抜式の屋根をかぶせたもの。棺蓋の東西単辺に棒状縄賭突起があり、棺身の西側単辺に開口部を設けている。棺大きさは、2.8m×1.5m(1.3m)×高さ2m。棺蓋の長辺を区分けし、重圏文、直弧文が施文されている。縄賭突起などにも施文されていると見られる。石蓋全体が朱に塗装されていたと見られている。装飾古墳の一つ
後円部の裏側に回り、弘化谷古墳へ行く すぐに一段高い位置に弘化谷古墳が見える

弘化谷古墳 福岡県八女郡広川町大字広川字弘化谷
  
6世紀中頃築造の円墳。直径約39m、高さ約7mに復元され二段構成とする。濠と周堤を含めた外径は、約55mと見られ、当地方では最大。石室は西南西に開口する横穴式石室で、割石を積み上げた石室の正面に、県内では珍しい肥後系統の石屋形を設置しているのが大きな特色である。石室の大きさは、約4.5m×最大幅4.1m×高さ3.6m。盗掘を受け、耳飾、管玉、鏃、土器など一部の副葬品だけが残っていた。
石屋形の奥壁、両側壁・天井石の内面と前面小口の計7面に、赤・緑・黄の3色で、三角文・双脚輪状文・円文・矢筒などを描き、上段の7個の矢筒だけは輪郭を線刻する。装飾壁画古墳の一つ。 (広川町教育委員会の説明版、昭和52年 より)

久留米市
一つの邪馬台国九州説の地。祗園山古墳を卑弥呼の墓とした人もいる。高良山から見る景色は、ヤマトに似ていないこともない。
 祗園山古墳 福岡県久留米市御井町299−219
久留米市で最古の古墳(方墳)。3世紀末まで遡る築造とも見られる。東西23.7m、南北約22.9m、高さ約5mの方墳。墳丘は、本来の地形を整形した上部に盛土し、裾部と上段の盛土部に葺石が確認された。埋葬施設は、墳丘中央に納められた箱式石棺(約2m×約0.9m×高さ約0.9m)で棺内には葺石も含め朱が塗られていた。古い時代に盗掘を受け、副葬品の出土はない。祗園山古墳の墳丘外周からは、発掘調査時に甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基、箱式石棺墓7基、竪穴式石室13基、不明7基の埋葬施設が確認されている。第一号甕棺からは、銅鏡片や勾玉・管玉が出土している。(平成19年の久留米市説明板より)
久留米市説明板 右のフェンスの下は九州自動車道
 高良大社(こうらたいしゃ) 福岡県久留米市御井町1番地
祭神は、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)、八幡大神、住吉大神の三座である。弘仁9年(816)名神社、寛平9年(897)正一位を授与した筑後国一の宮。祗園山古墳から車で登る
万治3年(1660)建立の本殿、翌年建立の幣殿・拝殿は、江戸初期の権現造り・柿葺で、九州最大の大きさを誇る。国指定重文。昭和51年解体修理が完了した。本殿背後から山裾まで、1300個の切石が神域の表示の如く列なり、古代の山城の跡ともいわれている(国指定史跡)          境内からの展望。西北方向に背振山系
高良山は海抜312m、その中腹に高良大社、頂上近くに奥宮がある。つつじ原木林に囲まれている。麓の高樹神社から高良大社を経て、高良山に至るハイキングコースもある

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