**奈良・四国・九州の遺跡を巡る旅B 2009.11**
続九州遺跡探訪ーB-@ 豊前 豊前石塚山古墳、宇佐風土記の丘、宇佐神宮 |
(福岡県・大分県) |
2009.7に途中断念した「九州の遺跡探訪」のつづきである。前回は、佐賀(肥前)・福岡県西北部(筑前・筑後)を旅して、朝鮮半島を経由しての水田稲作農耕技術・青銅器文化の到来を見た。そこでは、弥生中期にピークを迎える甕棺墓制があり、後期には平原3号墳のような墳丘墓・王墓も現われた。伊都国・奴国の連合は、倭国というに相応しい様相を示していた。 今回旅した周防灘沿岸の東部福岡県・大分県(豊前・豊後)と熊本県(肥後の一部)では、甕棺墓は少なく、石棺墓、周溝墓などが目立つ。これらの地域は、伊都国・奴国が強い政治組織を持つに至った時期にはその外郭地域であったと思われる。むしろ、古墳時代から飛鳥・奈良時代に活発な様相を呈してくる。 地域の郷土館・歴史資料館を覗きながら、大分県と熊本県北部から遠賀川上流へと、遺跡を訪ねる旅をした。古墳時代前期にいち早く大型前方後円墳を築いた豊前石塚山古墳(苅田町)、奈良時代に急激に台頭した宇佐神宮(宇佐市)、継体期に畿内政権に反旗を翻した磐井の勢力(八女市)、古墳時代後期に見事な装飾壁画古墳を残した九州中部(玉名、飯塚ほか)が興味の中心である。 |
九州北部での弥生文化の摂取は、玄界灘沿岸、響灘沿岸、周防灘沿岸により少し異なる。或いは、遠賀川の西岸地域と東岸地域と区分別けするのかもしれない。 苅田(かんだ)町では、豊前石塚山古墳を見学した。九州でいち早くヤマト王権の定型化した前方後円墳を取り入れた古墳の一つである。苅田町歴史資料館では、秋の特別展が催されていた。弥生・古墳時代の豊前の文化について、館員の方からの丁寧な説明を受けることが出来た。 次に、周防灘を左手に見て宇佐市まで南下し、大分県立歴史博物館で豊国の全体像を学び、風土記の丘の古墳群と弥生遺跡とを見た。宇佐神宮では、奈良時代に地方神から国家神に昇格し、八幡大神または八幡大菩薩として、後の武家社会時代にも厚い信仰を得た神の生い立ちを学んだ。 |
豊前石塚山古墳 福岡県京都郡苅田町富久町1丁目 | ||
3世紀末〜4世紀初めに築造された九州最古の定型化された前方後円墳。全長約130m、後円部径約80m、後円部三段、前方部二段で、前方部はやや撥型に開いている。墳丘全面に葺石があったと推定されている。舌状の低丘陵先端部に築かれているが、墳丘は殆ど土盛によっている。墳頂周囲には中型の丹塗りの複合口縁壺形土器、甕形土器などが樹立していたと推定されている。後円部中央に主軸(北西)と平行に竪穴式石槨(室)があり、三角縁神獣鏡が11〜16面副葬されていた。寛政8年(1796)に既に開口しており、その記録と出土品の一部は保管されている。次に大正13年(1924)の調査があったが、その後苅田港の開発や戦後の荒廃と開拓、盗掘の被害を受けた。昭和60年(1985)に国史跡に指定され、1987年に苅田町教育委員会により本格的な発掘調査が石槨(第一主体部)を中心に行なわれ、2000〜2003年に墳丘の発掘調査が行なわれた。石槨の調査では、新たに三角縁神銃鏡の破片、後漢鏡片、琥珀製勾玉、碧玉製管玉、武具、武器(太刀片、鉄鏃9)、工具(鉄斧、ヤリガンナ)のほかに、小札革綴冑残欠が出土した。 | ||
シリーズ「遺跡を学ぶ」022 長嶺正秀「筑紫政権からヤマト政権へ 豊前石塚山古墳」、新泉社、2005.12 に分り易く詳細に解説されている。苅田町歴史資料館では、長嶺正秀編「豊前石塚山古墳」、苅田町・かんだ郷土史研究会発行、1996.1と苅田町教育委員会編・発行「瑞穂の国の成立T 豊前地方出土青銅器」、2007.10 をご本人と郷土史会の方から頂き、当日催されていた特別展「厚葬の時代T 豊前地方出土品」の丁寧な説明を受けた。殆どが見て回るだけの遺跡の旅であるが(それでも充分に楽しい)、当地の人々の親切を受けると、より一層充実した旅になる。これらの本・資料を見ながら豊国(とよのくに)を反芻している。 | ||
古墳正面(前方部) 浮殿神社の鳥居が前方部二段のテラスに立つ。二つの石段が古墳の二つの斜面に相当する | 前方部(神社境内庭)から東下に広がる苅田の街。古墳築造時には前方部先端から10m近くに海岸があったという | |
後円部墳頂 第一主体部は中央にあった。 その北側(写真の手前側)に第二主体部も見つけられている | 神社の裏側から後円部にかけては、隆起斜道(前方部から後円部にかけての緩やかな道) | |
後円部を西(裏)側から見る。墳頂からの斜面とテラス部分が削り取られている | 後円部を北(裏)から見る。墳頂下のテラスとその下の斜面が見える。この斜面を支えた低い土盛とで三段が構成されていたと思われる | |
苅田町歴史資料館が後円部の北側に接してある | 秋の特別展が催されていた。発掘された住居跡からは、山陰・吉備・山口の土器が出土している | |
今回は訪問しなかったが、石塚山古墳のある京都(みやこ)平野には、海岸線近くに、5世紀代に御所山古墳(全長119m)、5世紀末に番塚古墳(全長51m)が築造された。石塚山古墳に葬られた首長系譜を継ぐようだが、御所山古墳は周濠を今にも残す大型古墳で、番塚古墳はヤマト王権の北部九州や朝鮮進出橋頭堡的役割をもつと考えられている |
大分県立歴史博物館・宇佐風土記の丘 大分県宇佐市大字高森字京塚 | |||
隣接する風土記の丘の解説や宇佐八幡宮の八幡神の成立と文化のほかに、国東半島の六郷山(ろくごうさん)の仏教文化が興味深い。六郷山の諸寺院は、平安時代に比叡山を中心とする天台宗の傘下に入り、鎌倉時代には幕府の祈祷所となり隆盛を極めた。平安後期の阿弥陀堂建築の様式美を残す富貴寺(ふきじ)大堂が復元展示されている。平安前期からの六郷山に伝統的な一木造の仏像、都の仏師が造った洗練された寄木造の仏像なども多数展示・解説されている。山岳仏教寺院を含め大分特有の磨崖仏の造立など見所が多い。 | |||
大分県立歴史博物館 | エントランスでは、熊野磨崖仏大日如来像(複製)が迎える | ||
宇佐風土記の丘は、駅館川下流右岸の台地上に立地する川部・高森古墳群の六つの前方後円墳とその周囲を整備したものである。 免ケ平古墳(宇佐風土記の丘に属す)の東南側一帯は、川部遺跡(宇佐市大字川部)として一部は全面発掘され、弥生時代前期〜後期の集落や墓地、5〜6世紀の古墳が確認されていて、埴輪を並べた低方形墳(1号墳)など幾つかの墳墓を見ることが出来る。宇佐古墳文化の特徴の一つは、「前方後円墳に埴輪がなく、周辺の小規模古墳に埴輪が用いられていること」と、説明板にある。 |
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風土記の丘・案内パンフレットより | |||
風土記の丘につづく川部遺跡 | 埴輪を並べた低方形墳(1号墳) 溝の中から、5世紀後半の円筒埴輪と方墳の四隅から朝顔形円筒埴輪が出土した | ||
赤塚古墳 | |||
豊前石塚山古墳と同時代(3世紀末〜4世紀初め)に築造された前方後円墳。全長58m、後円部径約36m、前方部幅約21mで、主軸を南西方向にとる。周囲に幅8.5m〜11mの空濠が回る。石塚古墳の埋葬施設が石槨(室)であるのにたいして、当古墳では箱型石室を持ち、三角縁神獣鏡4面を含む5面の鏡、碧玉製管玉、鉄刀片などが出土した。 | |||
南側より見る。南西に方形周溝墓群がある | 南東より見る。左が前方部、右が後円部 | ||
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赤塚古墳の西側から南西部に20基ほどの方形周溝墓群がある。4〜5世紀代にかけて順次築造されたという。 箱式石棺や土壙墓、礫積小石室などの埋葬施設をもつ。低い土盛があったとも考えられ、赤塚古墳に眠る首長を支える階層の墓と推定されている。 方形周溝墓は、近畿地方では、弥生時代前期中頃に出現した墓制である。以後、関東・東北に分布を広げている |
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4世紀後半、赤津古墳に続いて築造された前方後円墳。全長約65m、後円部径約24m、前方部長24mで、葺石があり、6〜9mの周溝がある。内部主体は、割り竹形木棺を安置した竪穴式石室(5m×0.8m×深さ1m)で、棺内から半三角縁二神二獣鏡1面、三角縁三神三獣鏡(彷製)1面、碧玉製釧、硬玉製勾玉、刀、剣などが出土した。 後円部墳頂の石室は厳重に保護してある→ |
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後円部北側から登る階段が付けてある | 出土遺物が多い | ||
5世紀前半頃に、免ケ平古墳に続いて築造された前方後円墳。全長80m、後円部径約54m、前方部幅22mで、3段構成をとる。主体部は未調査。低い造出し(10×8m)をもつ。葺石あり。周濠はない。春日山古墳とも呼ばれる。 墳丘に登り、前方部から見た後円部墳頂。 神社の石祠がある → |
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後円部を南側から見る | 前方部を南側から見る | ||
車坂古墳 | 角房古墳 | ||
5世紀中頃、福勝寺古墳に次いで築造されたと見られる前方後円墳。全長58m、後円部径36m、前方部幅21mで、葺石があり、幅11〜22mの周濠(空濠)ある。埋葬主体は未調査 | 車坂古墳に次いで築造されたと見られる前方後円墳(現状では円墳に見える)。全長46m、後円部径30m、前方部幅約18mで、葺石があり、幅7.4m〜12mの周濠(空濠)がある。埋葬主体は未調査 | ||
樹々が茂って、入れない | こちらは、平原にぽつんと | ||
車坂2号方形周溝墓(5世紀中〜後半) 車坂東4号墳(主体部) 車坂古墳2号墳(主体部) | |||
鶴見古墳 | |||
6世紀中頃に築造された前方後円墳で、風土記の丘では最後に築かれた古墳。昭和59・60年度に石室と墳丘の保存修理工事が行なわれ復元された。全長31m、後円部径22m、前方部幅約18mで、幅3〜4.5mの周溝がある。石室は、くびれ部方向に入口をもつ片袖式の横穴式石室(3m×約2m×高さ2.5m)で、石室入口に直接墓道がつき、玄室には2段の框(かまち)石を降りて入る構造。石室石積みは、大形の板石を腰石に用い、その上部に河原石を8〜12段ほど、上に行くほどせり出すように積んでドーム上に仕上げている。出土遺物は、馬具・刀子(小刀)・鉄鏃・銅釧(腕輪)・ガラス小玉・須恵器・土師器など。(説明板より) | |||
綺麗に整備された前方部の幅が広く短いコンパクトな古墳 |
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石室入口 | 石室内部 |
宇佐神宮 大分県宇佐市大字南宇佐2856 | ||||
御祭神は、一之御殿 八幡大神 御名 誉田別尊(応神天皇)、 二之御殿 比売大神 御名 三女神(タギツヒメノミコト、イチキシマヒメノミコト、タキリヒメノミコト)、 三之御殿 神功皇后 御名 息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと) である。託宣・戦勝・豊穣の神として、全国4万社余りの八幡宮の総本宮となっている。 | ||||
宇佐神宮とは、本来は古代の神々がそうであるように、自然崇拝の社であった。三女神が降臨したとする奥宮・大元山山頂には、三体の磐境(いわさか)が古代よりあり、神殿のない全山が神籬(ひもろぎ)の山である(残念ながら今回は登らなかった)。大和の三輪山を思い起こす。 比売大神が二之御殿に祀られたのは天平3年(731)だが、古くから宇佐国造が祭っていたのが比売大神であり、奈良時代には、新しく欽明天皇32年(571)に顕現したとする八幡大神との二神を祭神としていた。三之御殿に神功皇后が祀られるようになったのは、弘仁14年(823)と遅い。 この土地神(地方神)が、奈良時代(聖武期)に国家神となるには、幾つかの段階があった。養老4年(720)の隼人の乱への加勢、天平12年(740)の藤原広嗣の乱による戦勝祈願で名を上げ、天平勝宝元年(749)に大仏造立を援護するとして東大寺に神幸し、金産出の神託を奏した。この功績により八幡大神に一品を比売神に二品を奉った。同時に、神託を奏する禰宜尼の社女に従四位下、祝(はふり)の大神田麻呂に外従五位下を叙している。この神託信仰(卑弥呼の鬼道あるいは道教的巫術)は、宇佐の自然と朝鮮半島からの渡来氏族(秦氏や辛島氏)が育てたものと解釈される。神護慶雲3年(769)に弓削道鏡の事件が起こる。この時に神託を受けに宇佐に出向いたのが和気清麿で、とりついだのが辛島勝乙目だった。 宇佐地方はまた、古代仏教も早くから信仰されていて、神仏習合も早い。天平10年(738)、宇佐神宮には弥勒神宮寺が建立された。延暦17年(798)には八幡大神は八幡大菩薩と連称されるようになる。平安時代には、京都に石清水八幡宮に分社を建て、鎌倉時代には、鎌倉に鶴岡八幡宮が分社された。その後も武家の戦いの神として、時の指導者層に厚く信仰されてきた。往時の神宮寺・弥勒寺跡は、現在では神宮庁の西に礎石だけを残している。奈良時代(聖武期)の皇室の宇佐に対する崇敬は、伊勢神宮よりも宇佐神宮にあったと言われる。聖武天皇が現人神であると同時に仏教の厚い信仰者であった事は、神仏習合を促進させる要因の一つであっただろう。 宇佐神宮本殿の社殿は八幡造りと呼ばれ、現在の社殿は安政年間に築造されたものである。国宝に指定されている。八幡造りとは内院(奥殿:夜の座所)と外院(前殿:昼の座所)が軒を接して造られる様式である。社殿は桧皮葺きで、朱の柱、白壁・切妻造りである。 (宇佐神宮庁発行「宇佐神宮由緒記」を参考にした) |
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13世紀に著された八幡宇佐宮弥勒寺・社僧神吽(じんうん)編の「八幡宇佐宮御託宣集」によると、豊前国宇佐宮の八幡大神は、聖武天皇の天平20年(748)に自ら託宣して「古ヘ吾レハ震旦国(しんたん;中国)ノ霊神、今ハ日域(日本国)鎮守ノ大神ナルゾ」と告げたとあるように、八幡大神は中国道鏡の神あるいは渡来の神であるとの説があり、弥生文化(稲作・青銅器)を持って豊国に来た渡来人(秦氏、辛島氏)とヤマト王権の結びつきの一端が見られる。 | ||||
寄藻川に架かる神橋を渡って表参道を行く。宝物殿・神宮庁を右に見る | 本殿へは左の鳥居を、下宮へは右の鳥居をくぐる | |||
八幡鳥居をくぐり、西大門に出る | 春日神社を左に見て本殿前に | |||
八幡造りの宇佐神宮本殿は、周囲を取囲む拝所の内に、左から第一殿(八幡神)、第二殿(比売神)、第三殿(大帯姫)の三殿よりなる | ||||
比売大神の降臨地である大元神社を遥拝所から拝す | 下宮の祭神は、本殿(上宮)と同じ |
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