**奈良・四国・九州の遺跡を巡る旅A 2009.11**
奈良 四国 豊前 肥後 筑豊

神戸から四国へ
五色塚古墳(兵庫県)、石清尾山古墳群野田院古墳紫雲出山遺跡(香川県)
(兵庫県・香川県)

神戸は私の故郷である。須磨の浜は遠浅で、垂水の海は急に落ち込んで海流が速い海水浴場であった。現在の神戸の町は、西に北に広がり、明石海峡大橋まで架かり、すっかり様相が変わった。私の居た頃の五色塚は、戦後の食料確保のための畑地で、それ以上に、遺跡などには目もくれない子供の身にとってはその存在も知らなかった。

神戸に立寄った後に、四国(香川県)に向った。弥生・古墳時代の一つのキーワードである「積石塚」と「高地性集落」を、実際に見てみたいとの思いからである。

積石塚
は、山石や川原石などで古墳を構築する古墳である。全国的な分布はないが、一部限られ地域に存在する。本州でも、長野県などに古墳時代後期から終末期に築かれた積石塚がある。四国の積石塚は、古墳の出現期に築かれたものが数多く、古墳の発生・起源を学ぶ上でも興味深い。香川県では、弥生時代中期の成重遺跡(白鳥町)や弥生時代後期の稲木遺跡(善通寺市)に集積墓が確認されており、積石塚が讃岐地方で独自に発生したものか、あるいは朝鮮半島からの渡来人が伝えたものかは意見が分かれている。今回は岩清尾山古墳群と野田院古墳を見学した。

高地性集落
は、村から国への過渡期に起こる集団ごとの争いの防御・見張りを目的に、集落の一部または全体を高所に引上げることにより形成された。高地性集落の時期的なピークは3回あり(寺沢薫「王権誕生」、講談社学術文庫、2008.12)、第1次が弥生時代中期後半、第2次が弥生時代後期、第3次が古墳時代に入る3世紀前葉から後葉と区分されている。今回訪れた紫雲出山遺跡は第1次に相当し、眼下に瀬戸内海を見渡す標高352mの山頂に位置する。

五色塚古墳 (ごしきづかこふん) 兵庫県神戸市垂水区
4世紀末から5世紀初頭に築造された前方後円墳。全長194m、後円部径125m・高18m、前方部幅81m・高11.5m。墳丘は三段構成で斜面一面に葺石がある。墳頂と各段の平坦面(テラス)に鰭(ひれ)付円筒埴輪が、4〜6本に一本の割りで鰭付朝顔形埴輪が立てられていた。蓋(きぬがさ)形埴輪、盾形埴輪なども出土している。周囲に10mの濠を回らし、周濠内に方形壇がある。日本書記に「仲哀天皇の偽の墓で、葺石は淡路島から運んだ」とあるが真偽は不明。江戸時代より多くの文人が訪れ記録を残した。大正10年(1921)に国史跡に指定される。戦後畑などに開墾し荒廃したが、昭和40年〜昭和50年(1975)に墳丘の復元整備を行なった。
前方部南西側にある管理事務所前から墳頂に登る 後円部から前方部を見る。
前方部は山陽電鉄の線路で寸断されている
後円部北東から見る全景 後方に明石海峡大橋 五色塚の東側に小壺古墳(径70mの円墳)がある
前方部東側の周濠に祭祀を行なう方形壇がある 管理事務所に展示されていた
1964年(昭和39年)撮影の航空写真


四国の古墳分布を見ると、香川県の讃岐山脈と瀬戸内海に挟まれた讃岐平野、愛媛県の高縄半島西側の今治周辺と東側の松山周辺、徳島県の徳島・小松島から阿南にかけてと高知県の高知・南国市に集中している。香川・徳島・愛媛では、古墳に先行した弥生時代の墳丘墓や、突出部のある墳丘の存在も認められている。四国での出現期の古墳としては、石清尾山古墳群の鶴尾神社4号墳と野田院古墳がある。いずれも積石塚である。高松市の鶴尾神社4号墳は破壊がひどく現在整備中なので、同じ石清尾山古墳群の他の古墳を見学した後に、整備された善通寺大麻山の野田院古墳を見に行った。

石清尾山古墳群 (いわせおやまこふんぐん) 香川県高松市峰山町


標高233mの峰山公園へは、高松市街から一気に上る。夕方、雨が降り、霧がかかってきた。始めての場所と墳形も定かでない積石塚を探すのに,少々戸惑った
猫塚を出てきた辺り 霧が深い
姫塚附近に駐車場がある 石船塚へは公園に沿った道から入る
北大塚までは水溜りの道 高松市街に下る頃は夕闇
石清尾山古墳群では、鶴尾神社4号墳・石清尾山9号墳の後に、猫塚古墳・鏡塚古墳の2基の双方中円墳が築造された。鶴尾神社4号墳は、古墳時代以前(布留式以前)の最古級の、前方を撥形に開いた前方後円墳(全長40m)であるが、破壊・崩壊が激しく危険なために立ち入ることは出来ない。今回見学した峰山公園周辺の古墳では、猫塚古墳・鏡塚古墳・北大塚古墳は4世紀後半の築造と見なされる。姫塚古墳と石船塚古墳は、最も良く前方後円墳の形状を残す古墳で、5世紀初頭の築造とされる。( 渡部明夫;”四国”、石野他編「古墳時代の研究 地域の古墳T西日本」 p.99−p.120、雄山閣、1998.1)

石清尾山古墳群は、昭和60年7月に国史跡指定されている。以下の記述は、主として高松市教育委員会の説明板による
猫塚古墳 (双方中円墳) 
石清尾山古墳群中最大の規模で、全長約96m・高約5mの双方中円墳である。同形式の鏡塚古墳とともに、今回見学した古墳群中では最も古い築造である。中央部が突出部に比べて非常に高くなっており、1910年に大きな破壊を受け、中央が大きく変容している。中央に大きな竪穴式石室一基と、それを取囲む8基の小さな石室があったと伝えられている。中央の石室から鏡、小銅剣、石釧、銅器、鉄斧、鉄剣、鉄刀、鉄ノミ、鉄ヤリガンナ、鉄鏃、土師器などが発見され、東京国立博物館に収蔵されている
東南から 左の高まりが中央部、右に突出部か? 墳頂の様子
姫塚古墳 (前方後円墳) 
全長43m、高さ約3.6m 首長の娘の墓という伝説から姫塚と呼ぶ。最も良く前方後円墳の形状を残す
北東から見る後円部、右が前方部 後円部は岩礫の山
小塚古墳 (前方後円墳) 

前方部を北に向ける前方後円墳。墳丘部を尾根道が縦断しいているので形状がはっきりしない。全長17mの古墳群中もっとっも小さな古墳。右の写真は墳頂辺り
石船塚古墳 (前方後円墳) 全長57m、前方部を北に向ける。墳頂部に刳抜式割竹形石棺があり、棺身には造り付けの枕があると説明板にはあるが、確認できなかった。円筒埴輪が出土しており、5世紀初頃の築造と見なされる。石棺が船に似ていることから石船塚と呼ばれる
南側から後円部に登る 墳頂には石棺がある
石棺は野ざらし 他にも埋葬施設らしい岩の集まりがある
鏡塚古墳 (双方中円墳) 
猫塚とともに双方中円墳で、古墳中で最古の年代といわれる。全長70m、高さ約3.6mで、猫塚に次ぐ大きさである。鏡が出土したという伝承から鏡塚という。
南端 突出部 南端から中央部(中円部)へ
中央部は広い 古墳北端下 突出部との境界はよく分からない
北大塚古墳 (前方後円墳) 全長40m。   北大塚西古墳 (前方後円墳)。 
北大塚東古墳 (方墳) 石清尾山古墳群唯一の方墳。
北大塚西から入って北大塚へ(振り返って写す) 北大塚の墳頂辺りか?
西大塚のある辺り?

野田院古墳 (のだいんこふん) 香川県善通寺市大麻町
大麻山(おおさやま)の中腹・北西山麓の平坦部・標高405mの地にあり、後円部を安山岩の積石で、前方部は土盛で築造したハイブリットな古墳である。全長44.5m、後円部径21.0m・高2.5m、前方部幅13.0m・1.6mを測る。丸亀平野周辺部で最古式の前方後円古墳で、前方部のくびれ部が細く締り、先端が撥形に開いていることなどから3世紀後半の築造とされている。後円部上に東西方向に長辺をもつ2基の竪穴式石室(第一主体部:5.2m×0.8m×1m、第二主体部:5.7m×0.9m×1m)が造られている。 石室からガラス玉、鉄剣、土器などが出土した。古墳の周辺には、朱色に塗装した壺形土器が並べられていた。

野田院古墳保存整備事業は、平成9年度から発掘調査、平成12年度から保存整備工事が始まり、平成14年度に竣工した。整備工事の詳細は、古墳の緒元・構造などとともに、善通寺市による説明板に示されていて、見学者に配慮されている。。展望台の根元の壁には「尾根の傾斜部に造られた後円部の断面を1/2の大きさで表現した」積石の配列模型も展示されている。石清尾山古墳群で岩礫の山を見てきた直後だったので、岩礫の中から墳形を定め、整備し直した技術には感心した。

善通寺市内には400基を越える古墳の存在が確認されており、大麻山で南部を限られた弘田川流域に、同じ系譜上の首長墓と考えられる前方後円墳が集中し、大麻山山麓の谷間に、いたる所に後期古墳が集中している。中でも、野田院古墳(3世紀末)・鶴が峰4号墳(4世紀)・磨臼山古墳・丸山古墳(5世紀)・王墓山古墳(6世紀)・宮が尾古墳(7世紀)は県下を代表する古墳で、有岡古墳群として昭和59年11月に国史跡に指定された。
山麓から大麻山(おおさやま;616m)を見る 墳丘実測図(善通寺市説明板)
後円部の西側にある展望台からの古墳全景
北西側(海側)から見る後円部 大麻山山頂が後円部の上に見えている
        後円部と前方部へのつなぎを東側から見る
後円部の一段目を完成させた上に二段目を造り始め、この時に前方部の一部を坂道状に造り、北東の尾根の露岩地で採取し運んだ石材を運び上げたと考えられている
普通寺市説明板より
後円部の石を積んだ後に、前方部の土盛をしたと見られる。
石室は第一段階で半分、第二段階で完成される
撥状に開いた前方部東北側から見る              積石塚の分布(説明板より)
普通寺市には、野田院古墳のほか、大窪経塚・大麻山経塚・大麻山椀貸塚・丸山1号、2号墳などの積石塚がある。この積石塚の古墳群は、坂出から綾歌の積石塚を経て、高松の石清尾山古墳群に繋がると考えられている
(感想) 整備された古墳を見て、積石の後円部と土盛の前方部というハイブリッドな構成に先ず驚かされた。撥状に開く長い前方部は、過去に私が見学した出現期古墳(石塚、矢塚、勝山、ホケノ山、秋葉山3号、神門5号など)とは様子が異なる
香川県立ミュージアム


香川県立ミュージアム(高松市玉藻町5番5号)の歴史展示室で見た香川県の平形銅剣・銅鐸の出土分布では、讃岐平野の善通寺市周辺に集中しており、この周辺では早くから豪族・首長の誕生があったようだ。大麻山を下り、弘法大師誕生の地・四国88ケ所75番札所・善通寺の門前に出る。71番札所弥谷寺を通過して紫雲出山に向う。

紫雲出山遺跡 (しうでやまいせき) 香川県三豊市詫間町
標高352mの山頂付近一帯が弥生時代中期の高地性集落遺跡で、現在は瀬戸内海を見下ろす公園となってる。遺跡館があり、発掘時の写真や石鏃・剣・石斧・土器など出土遺物の一部が展示されている。出土遺物は詫間町考古資料館(詫間町詫間1328-10)に展示されていると説明板にあった。
紫雲出山遺跡は、昭和22年地元の郷土史家により発見され、昭和30年(1955)から小林行雄(京大)により発掘調査された。昭和63年には香川大学による調査が行なわれ、竪穴住居、高床式倉庫が見つけられた。
山を駆け登り、山頂下の駐車場から急な坂道を歩いて登る。山頂には展望台がある。西は因島から東は倉敷・岡山まで瀬戸内海を見渡せる地 展望台からは瀬戸内海の島々が見える。写真の奥には瀬戸大橋が見え、対岸の倉敷・岡山(吉備)は近い
山頂広場には桜が植えられ、お花見の名所になっている 遺跡館の横に、高床式倉庫(左)と竪穴式住居が、原位置を少し動かして復元されている

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