飛鳥・奈良の旅

1.葛城の古道 2.飛鳥の史跡@ 3.飛鳥の史跡A 4.多武峰と藤原京 5.平城京と奈良

1.葛城の古道

大和朝廷は、三輪王朝・河内王朝・葛城王朝など豪族(大王)の王朝を経て、飛鳥の地で体制を固めた。今回は、葛城王朝の地と推古朝から持統帝の都・飛鳥(明日香)、藤氏総氏神を祀る霊峰・多武峯、さらに仏教文化の華が開いた平城京を旅した。

第1回目は「葛城の古道」に沿って、鴨一族(4世紀)の総本社・「高鴨神社」、葛城氏(5世紀)の祖神を祀る「高天彦神社」、雄略天皇(在位456〜480)との狩など説話に登場機会の多い一言主を祀る「一言主神社」および種々の伝説を持つ修験道の祖・役小角の誕生寺「吉祥草寺」を訪ねて、金剛葛城山麓の古代を偲んだ。

ここで訪れた神社の主祭神は、地主神または国ツ神である。この背景は二つある。一つは、弥生時代にその地域を支配していた豪族が、原始的自然信仰についで生まれた産土信仰や農業信仰の祭祀権を持ち、その氏族をまとめたことである。もう一つは、この地方に出雲系の神々が祭神として祀られていることにも注意を払わなければならない。これは、出雲国が倭国に服従した7世紀前半(620年代)に蘇我本宗家がこの地に入り込んできた事情と関係する。
門脇禎二「古代出雲」(講談社学術文庫2003.1)からの抜粋:

出雲について: 「イツモ王国にヤマト朝廷の圧力が迫ってきたのは、6世紀中葉の欽明朝が決定的な画期であったらしい。まず出雲西部に、ヤマト朝廷の進駐勢力ー南方の山越えから蘇我氏系の日置伴部らが、北方の海上からは物部系の勢力が入ってきた。そして、現地の新興勢力神門(カンド)氏と組んで展開しはじめて「政」のなかに出雲西部の人々はとらえられはじめた。オウを本拠としたイツモ王国の王は、その領域の西部と東縁に現れてきたこのような変化のもとで、ついにヤマト朝廷に対して、これまで束ねてきた王国内すべての神社の祭祀権=王国の政治権をさし出し、ヤマト朝廷の地方官としての国造の地位をうけいれることになった。6世紀〜7世紀はじめのことであった。」

三輪王朝について: 「三輪信仰は縄文文化の段階から確かめられている三輪山への自然信仰、つづく磐坐信仰、ご神体を蛇とする箸墓伝説などから発して、それらを集合ないし重層しつつ、大物主神がヤマト王国の国家的祭祀の中心となっていった。そして三輪山は、天照大神が皇祖神とされる以前の皇祖神「高天原の神王高御魂命(タカミムスビノミコト)」の静まる国家的神山であり神なびとなっていった」。

     高鴨神社 (たかかもじんじゃ) 御所市鴨神字篠

本殿の主祭神は阿治須岐高日子根命(アジスキタカヒコネノミコト:またの名を迦毛之大御神(カモノオオミカミ))、事代主命(コトシロヌシノミコト)、阿治須岐速雄命(アジスキハヤオノミコト)、下照姫命(シタテルヒメノミコト)と天稚彦命(アメワカヒコノミコト)。

高鴨神社は金剛山麓の丘陵地帯にある。弥生中期に鴨氏は大和平野の西南端(現御所市)に移り水稲生活を始めた。高鴨神社(上鴨社)、御歳神社(中鴨社)と鴨都波神社(下鴨社)が鴨一族の神社である。鴨族は4世紀に葛城国の平野部で鴨神信仰の下に集団生活を営んでいたが、次第に葛城族に征服され葛城王国に吸収されたらしい。5世紀になると、それまで併立していた三輪山麓の崇神天皇以降の三輪王朝(倭国)により亡ぼされる。その後大倭国(大和朝廷)成立時に蘇我氏がこの地に入ってくる。

主祭神の阿治須岐高日子根命(アジスキタカヒコネノミコト)は、国譲り神話では、高天原から派遣されながら出雲の大己貴神(オオナモチノカミ;大国主神)に媚び復命しなかった天若彦が死んだ時に弔いに訪れた出雲の神という。出雲が帰順した大倭国(大和朝廷)では、この葛木の鴨の神奈備のほかに、三輪山の神奈備に大物主櫛みか玉命(出雲のオオナモチ神の和魂)が、雲梯に事代主命、飛鳥の神奈備(飛鳥坐神社の鳥形山)に賀夜奈流美命の出雲の四神が、皇孫の命(天皇)の守り神として配置されている。このことについては、出雲帰順の頃の蘇我氏・物部氏の大きな意思が働いていたようだ。
丘陵地帯に池を配する高鴨神社。池辺に葛城古道トレッキングの休憩所がある。 高鴨神社正面鳥居。
「神域は鉱脈の上にあり、多くの”神気”が出ている」と云う。
本殿は重文 境内は静か

     高天彦神社 (たかまひこじんじゃ) 御所市高天

祭神は高皇産霊神(タカムスビノカミ)である。別名を高天彦神(タカマヒコジン)と言い金剛山別当の葛城氏の祖神と伝えられる。神体は社殿後方の白雲峯(694m)である。近くには高天原伝承地がある。葛城族は、弥生中期に葛城・金剛の山麓に住み狩猟と畑作に従事していたが、御所北部の平地に居て水稲農業をしていた鴨族を征服し、葛城王国を作ったという。
田んぼの中を丘に登ると神社への参道入口になる。参道は松並木になっているが、訪れる人も少ないのか道の真中に草が茂っている。参道入口付近には工事の車が止まっている。神社左奥からは金剛山への道がある。
金剛山麓の東側には大和平野が広がる。葛城氏は山を下り、現在の国道24号沿線(五條から北)を支配した。上の写真は、高天彦神社近くの山麓から葛城から東方を見たもので、室の大墓(宮山古墳)と群集墳、さらに遠方には越智丘陵を一跨ぎして檜隈・飛鳥、更に東北の三輪山麓の三輪王朝(倭国)と対侍している。葛城氏滅亡の後に、蘇我氏(出自は百済の木満致という)がこの地に入り込み、大和朝廷成立期の一大勢力となった。

     一言主神社 (ひとことぬしじんじゃ) 御所市森脇432

祭神は葛城之一言主大神、幼武尊(ワカタケ)である。一言だけ願いを聞いてくれると現在でも人気がある。全国の一言主神社の総本社。雄略朝で一言主を祀ることを禁じられたこと、奈良時代に禁令が解けたこと、その頃、鴨氏の流れをくむ「役小角」が活躍したことなど興味深い。一言主神はもともと葛城山神の顕現したもので、蘇我氏や渡来系の高宮村主に祀られていた。一言主神が役小角に呪縛された伝承は、蘇我宗本家の滅亡にともなう一言主信仰の衰退過程に形成され、一言主神の神格にも天武朝ごろから神仙思想による修飾が加えられたとする論考(和田萃「葛城古道に鴨氏の神を追う」)がある。

古事記には雄略天皇と一言主神との出会い場面がある。雄略天皇一行が葛城山に狩に入ったとき、一行と全く同じ規模・姿・衣装の一行が山を越えていくのを見かけた。咎めると、「われは善い事にも一言、悪いことにも一言を言い放つ言霊をもつ葛城の大神」と応えたので、雄略天皇は無礼を詫び衣服を献上した。一言主神は喜び、天皇一行の帰りを見送ったという。
長い参詣道を行くと本殿に導く石段下に到達する。 式内社らしく落着いた本殿
神社内参詣道に「石碑」や「亀石」がある。 一言神社への参道道の向こうに大和葛城山。裏手が吐田平(はんだだいら)で「綏靖天皇高丘宮址」、蘇我蝦夷が祖廟を建てた地とされている。

     本山修験宗 大本山 茅原山 吉祥草寺 (きっしょうそうじ) 御所市茅原279 

役小角誕生(634)の地とされる。舒明天皇の創建、役小角の開基とされる。南北朝に兵火で諸堂焼失したが、本尊:五大力尊像と役ノ行者尊像は火災を免れた。室町時代(1396)に現在の本堂が再建された。毎年正月15日に行われる「左義長(とんど法要:国無形民俗文化財)」は文武天皇4年(700)に始められたもの。

役ノ行者は修験道の始祖であり、日本霊異記などに説話が多い。鴨一族とされることもあるが謎が多い。天智・天武期の実在の人物であることは現在殆どが認められている。葛城・金剛、吉野山、多武峯はじめ足跡が伝えられるが確かな証拠がない。神仙の話など道教との関連も興味深い。
           吉祥草寺の山門
車道からお寺への入口は分り難い。前左に駐車場がある。
境内は、左に観音堂、正面に本坊と本堂、正面広場は工事中。本堂には本尊・五大力尊(明王)像が安置されている。

本堂建設に備え発掘したところ、古い本堂の礎石も現れた。古い形式で本堂再建を計画しているとうかがった。 行者堂 自由に入ってよい。中心に役ノ行者神変大菩薩(役小角)、左に白専女(母君)の尊像。
役ノ行者神変大菩薩像。役小角32歳の時自ら彫んだという。住職の許しを得て、写真を撮らせてもらう。 前鬼、後鬼が従う。

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